2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の8回目で、前回の書いた「地下に潜む男」が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)を手に入れた経緯、に引き続いて、作品の中の擬声語表現を取り上げるようになった経緯について書いています。

『リチャード・ライトの未完の探求』

本文

ほんやく雑記の8回目です。

今回は先ず、なぜ擬声語表現なのか、です。(写真:ミシシッピの会議でのファーブルさん)ライトの伝記『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright, 1973)を読んだときに、本を読みながら感じた思いと、自分のレベルも知りたくてファーブルさんに手紙を書きましたが、そのときに日本語訳して手紙に入れました。

僕はずっと書こうと思って生きて来た人間ですから、文学の研究そのものも作品論や作家論にも極めて懐疑的です。人の好みや受け取り方も人それぞれですし、そもそも字や語に対する感覚などは努力して何とかなるものでもありません。努力は誰でもやりますが、絵が描ける、ダンスが踊れるなどと同じで、語感や文章に対する感性などは努力でなんとかなるものでもありません。

必要性もあって、好きだった人に聞いたリストを元にアメリカの小説を読み始めました。最初に読んだのはセオドア・ドライサー(Theodore Herman Albert Dreiser)の『アメリカの悲劇』(An American Tragedy, 1925)、タイトルだけ聞いて図書館から借りてきたハードカバーはなんと1026ページもの大作で、辞書を引きながら読むのに2か月ほどかかりました。(このとき、辞書などひいとったら本なんか読まれへんと身に染みました。)それから、ナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne)の『緋文字』(The Scarlet Letter, 1850)、ウィリアム・フォークナー(William Cuthbert Faulkner)の『八月の光』(Light in August, 1932)を読みました。どれもアメリカ文学では有名で、フォークナーなどは1949年度にノーベル文学賞を受賞しています。1985年にライトの死後25周年を記念して国際会議がミシシッピ州のオクスフォードにあるミシシッピ州立大学でありましたが、集まったのは1500人ほど、前年にあったフォークナーの会議に集まったのが一万人だったそうですから、オクスフォードで過ごしたフォークナーは、アメリカ人好みの作家なのでしょう。

読まなくては、という思いで読んだせいもあったかも知れませんが、どの本もまったくおもしろくありませんでした。その反動もあったのでしょうか。『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1938)、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)など、ライトの本は鮮烈でした。ことに『アメリカの息子』はからだがばりばりでいうことをきかなかったのに、興奮して震えながら二日ほどで一気に読んだ記憶が鮮明に残っています。

『アメリカの息子』

僕の好きなファーブルさん(ライトの伝記『リチャード・ライトの未完の探求』の著者で、本を読んで感激し、自分の書いたものを英訳して送った翌年にミシシッピの会議でお会いし、7年後にジンバブエの帰りに家族といっしょにパリの自宅にお邪魔しました。ソルボンヌ大学や街並みを案内して下さり、訪ねて来られた同僚の世界的に有名な経済学者といっしょに子供たちとトランプをして下さいました。)が「地下に潜む男」を高く評価しておられた影響もありますが、「地下に潜む男」もなかなかの作品でした。(ハックスリー、トルストイ、モーパッサン、サロヤンの小説と並んでQuintet-5 of the World’s Greatest Short Novelsの中に取りあげられています。)

もちろん、ファーブルさんがおっしゃったように、この中編小説が従来の人種問題を中心にしたテーマを一歩踏み越えようとしている作品として、或いはエリスン(Ralph Ellison, 1914-)を筆頭にする後続の作家に少なからず影響を及ぼした作品として評価されるようになったのは確かですし、そういった評価が、作品の中に示された人種問題の枠を越えたより深いテーマの重みや、差別される黒人こそが日常性の中で見失いがちな物事の本質にいち早く気付き得る有利な地点に立っているというライトの視点の鋭さに負うところが大きいのですが、それらがライトの紬ぎ出した言葉による表現によって裏打ちされていることも忘れてはいけないと思います。作品をぞくぞくしながら読んだのは、その時は意識してなかったと思いますが、言葉や表現にも魅せられていたのでしょう。

次回はそういった表現の中でも、作品の中の主要な場面で使われた擬声語表現について書きたいと思います。

日本語訳→“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”

次回は「ほんやく雑記(9)イリノイ州シカゴ4」です。(宮崎大学教員)

「モンド通信」は途切れましたが、「続モンド通信」に連載を再開するつもりです。

「『続モンド通信』について」(2018年12月29日)

執筆年

2016年

ダウンロード

2017年5月用ほんやく雑記8(pdf 343KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の7回目で、前回の「地下に潜む男」を読むようになった経緯、に引き続き、「地下に潜む男」が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)について、今回は特に手に入れた経緯について書いています。

  大学のテキスト(青山書店)

本文

ほんやく雑記の7回目です。

前回はイリノイ州シカゴが舞台の「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)を修士論文で取り上げるようになった経緯について書きましたが、今回はその作品が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)について書きたいと思います。(写真1:CROSS SECTIONの表紙)

「クロスセクション」誌

いま目の前に雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)があります。1981年にニューヨークの古本屋で手に入れたものです。裏表紙をめくると流れるような筆記体でOut of Print #3.50 The Harwoods Oct. 1994と記されています。

1981年に初めてアメリカに行きました。前回、入学した年の学生運動の話を書きましたが、第二次大戦の直後に生まれた世代は否応なしにそれぞれのアメリカ化を経験していると思います。小学校の頃にテレビが普及し始め、ハリウッド映画からエンパイアステートビルディングやナイアガラの滝、ゴールデンゲイトブリッジなどの映像が流れてどっと「アメリカ」が生活に入り込む一方、洗濯機や炊飯器、掃除機などの電化製品でどんどん生活が「便利に」なって行きました。その頃自覚していたとは思えませんが、便利さや快適さから来るアメリカへの憧れと、敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発が妙に入り混じっていたように思えます。

高校から派遣された形で行った大学院の最初の夏に、修士論文の軸となる作品のコピーを手に入れるためにアメリカに行くことにしました。ニューヨーク公立図書館ハーレム分館に「クロスセクション」(Cross-Section)のフォトコピーがあるとわかったからです。ずっと1ドル360円で、外国語大学でもあったせいか留学に気持ちが傾いた時期もありますが、学費も生活費も自前の状況下では経済的に実際は無理だったと思います。休学してスウェーデンに遊学したクラスメイトもいましたから、それほど行きたい気持ちが強くなかったということでしょう。(そのクラスメイトはお金やパスポートなど一切合切盗られて2年も余計にスウェーデンにいることになった、と帰ってから言っていました。)

ライトの生きたコース(ミシシッピ州に生まれ→シカゴに→ニューヨークにて→パリに亡命)のうち、今回はシカゴ→ニューヨーク→(セントルイス経由で)ミシシッピ州ナチェツ(生まれた所)、まで辿ってみようと計画を立て、ファーブルさんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright, 1973)の巻末の参考文献目録をコピーして出かけました。東海岸までは遠いので、サンフランシスコに何泊かして。1ドル280円台だったと記憶しています。

『リチャード・ライトの未完の探求』

高校の英語の教員を5年していましたが、「敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発」もあって、英語は聞かない、しゃべらない、と決めていましたので、英語はまったく聞き取れませんでした。(日本ではなぜか、英語がしゃべれなくても英語の教員は「勤まり」ます。)

目的は文献探しでしたが、結局はニューヨークの古本や巡りになってしまいました。今から考えるとおかしな話ですが、ライトの『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の初版本はありませんかと出版元まで訪ねて行ったのです。もちろんあるはずもありませんが、行ってみるもんですね。大量の本を古本屋に流していますので、タイムズスクエアーのこの古本屋に行くとひょっとしたら、と言われました。1985年のI Love New Yorkキャンペーンでその辺り一帯がきれいにされる前でしたから、古本屋やポルノショップなどが溢れていました。

教えてもらった古本屋に『アメリカの息子』(写真2)の初版本はさすがにありませんでしたが、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)など主立った本はもちろんのこと、スタインペッグの『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やハーパー・リーの『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)なども難なく見つかりました。そして何より、「地下に潜む男」の掲載された「クロスセクション」(CROSS SECION)の現物が手に入ったのです。雑誌と言っても559ページもあるハードカバーの立派な本でした。見開きにはCROSS-SECTION A NEW Collection of New American Writingとあります。

日本でも神戸や大阪の古本屋には何度もでかけていましたが、ニューヨークで古本屋巡りをするとは思ってもみませんでした。本をぎっしり詰めた旅行バックが肩に食い込んだ重さの記憶が残っています。今ならVISAカードで簡単に処理したんでしょうが、何箱か船便で送ったら持って行っていたお金がほぼなくなってしまって、経由地のセントルイスまでは辿り着いたものの、そこから予定を変更して戻って来るはめになりました。

初めてのアメリカ行きでもあったので、サンフランシスコではゴールデンゲイトブリッジに行き、シカゴではミシガン通りでパレードを眺め、ニューヨーク州ではナイアガラの滝を見て、エンパイアステートビルディングにも昇りました。元々人が多いのは苦手でエンパイアステートビルディングも列が出来てなかったら昇ってなかったと思いますが、入り口には人がまばらで。しかし、途中で乗り換えがあって、そこでは人が溢れかえっていて何か騙された気分になりました。

ミシガンストリートで2時間ほどパレードを眺めていたと書きましたが、その時に、アメリカにもアメリカのよさがある、と何となく感じました。ニューヨークのラ・ガーディア空港では日本語が通じずにカウンターでついに大きな声を出してしまいましたが、ちょっとお待ち下さい、言葉のわかる者を連れて来ますので、と言われて待っていたら、人が現われて、ゆっくり英語をしゃべってくれました。

通じないもどかしさを何度も味わいましたが、それでも帰って来て、英語をしゃべりたいとは思いませんでした。

その時行けなかったので、1985年にミシシッピに行き、ゲストスピーカーだった念願のファーブルさんにもお会いしました。戻ってからファーブルさんと話をしたいと、英語をしゃべる準備を始めました。1992年にジンバブエの首都ハラレで家族で暮らした帰りにパリに寄り、ファーブルさんとお会いした時(写真3)には、英語に不自由は感じませんでした。

「地下に潜む男」の擬声語については、次回からです。

次回は「ほんやく雑記(8)イリノイ州シカゴ3」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記(7)イリノイ州シカゴ2」(「モンド通信」No. 97、2016年9月11日)

ダウンロード

2016年9月用ほんやく雑記7(pdf 343KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の6回目で、リチャード・ライトの「地下に潜む男」の擬声語表現について書きたいと思います。(6)で「地下に潜む男」を読むようになった経緯、(7)で「地下に潜む男」が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECION)、(8)で作品の中の擬声語表現に取り上げるようになった経緯、(9)で作品の中の擬声語表現、について書いています。今回は「地下に潜む男」を読むようになった経緯、です。

本文

ほんやく雑記の6回目です。

前回は詩人ポール・ダンバーの詩「愛しいわが子よ」の表現の仕方と、時代背景の理解の大切さについて書きましたが、今回はイリノイ州シカゴが舞台の「地下に潜む男」の擬声語表現について書きたいと思います。(写真1:リチャード・ライト)

「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)はアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライト(Richard Wright、1908-1960) が書いた中編小説で、1944年に「クロスセクション誌(Cross-Section)に収載されています。死後出版された『八人の男』(Eight Men, 1966; 晶文社、1969年)にも再録されていますが、1956年には既に、ハックスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894-1963)、トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy, 1828-1910)、モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant, 1850-1893)、サロヤン(William Saroyan, 1908-198)の小説と並んで Quintet – 5 of the World’s Greatest Short Novelsの中に取りあげられる程の評価を得ています。

1973年に ミッシェル・ファーブル氏(Michel Fabre)の伝記『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright、写真2)が出版されてからは、この小説が従来の人種問題から脱皮しようとした試みとして注目され、後続のアフリカ系アメリカ人作家ラルフ・エリスン (Ralph Ellison, 1914-1994) などにも少なからず影響を及ぼした作品として再評価されました。

物語は、無実の罪を押し着せられた主人公が偶然に逃げ込んだ下水溝での様々な体験を経て警察に自首した時には既に真犯人は捕えられており、逆に警官に気狂い扱いされた挙旬、最後は元の下水溝に葬り去られてしまうという割り切れないものですが、作品が評価されたのは、主人公の<地下生活>を通して人種によって差別されたアフリカ系アメリカ人こそが日常性の中で見失いがちな物事の本質に気付き得る有利な立場にいるという点を描き出そうとした視点や、主人公が相手に気づかれない有利な立場から垣間見る様々の「現実の裏面」のスリリングな展開や、音や色に関する鮮やかな表現に負うところが大きいと思います。今回は中でも音に関する擬声語表現をほんやくと絡めて書こうと思います。

「地下に潜む男」を読んだのは大学の英語の時間で、たぶん青山書店から出たテキスト(写真3)で、だったと思います。大学に入ったのは学生運動が国家権力にぺちゃんこにされた翌年の1971年で、浪人しても受験の準備が出来ないまま結局はうやむやに心の折り合いをつけて、家から通える神戸市外国語大学のえせ夜間学生になりました。

えせは、神戸市役所や検察庁などの仕事を終えてから授業に出る前向きな「同級生」に比べて、という意味です。検察庁の「同級生」は「神戸の経済を二度失敗した」末に入学したそうですが、「ワシ、今日はやばいねん、昨日取り調べたやーさんに狙われるかも知れへんから」と帰り道に言っていました。高校も定時制(4年間)だった「同級生」は住友金属で働く好青年で、何百万か貯めて着実に生活している風に見えました。若くに人生を諦めてしまって大学の空間を余生としか考えていない身には、ずいぶんと希望に満ちた大人に見えました。もちろん、僕と同じようなえせ夜間学生で、定職は持たず、昼間の運動部に混ざって活動しているものもいましたが。

学費は年間12000円(昼間は18000円)、月に1000円、定期代も国鉄(現在のJR)と阪急(電鉄)を合わせても1500円ほど、朝早くに1時間ほど配っていた牛乳配達が月に5000円ほど、学費はそれで充分にまかなえていたように思います。もっとも自分から進んでやった牛乳配達ではなく、母親がやっていたのを見兼ねてやるようになっただけでしたが。

入学した年、中央以外では学生運動の残り火が燻っていたようで、神戸大でも神戸外大でもヘルメットを被った学生が拡声器を持って「われわれは・・・・」と、がなり立てていました。僕には入学式も無意味なので通常なら出ることはないのですが、一浪したあとよほど気持ちが縮こまっていたようで、つい入学式に出てしまいました。奇妙な入学式で、図書館の階段教室で始まって学長という人が挨拶を始めたとたん、合唱部とおぼしき人たちが初めて聞く校歌らしき歌を歌い始め、違うサイドでは拡声器を持った学生が「われわれは・・・・」とまくし立て始めていました。座っている学生は僕のようにへえーと感心しているものもいれば、四方に野次を飛ばしているものもいました。

その後、授業はなく毎日のようにクラス討議なるものが強要され、ある日学生がバリケードをして学舎を封鎖しました。しばらくして機動隊が突入して「正常化」されたようでした。70年安保の学生運動では国家体制の再構築というような理想論が取りざたされたようですが、覚えている限り、マイクから聞こえて来て耳に残っているのは、たしか、学生食堂のメシが不味いから大学当局と交渉して勝利を勝ちとろう、そんな内容だったと思います。中央では負けたので、地方では部分闘争をということだったんでしょうか。

昼間のバスケット部といっしょに練習をしていましたが、運動部はバリケードが張られているときも、中に入れて練習もやっていました。マネージャーの女子学生も、ヘルメットを被って封鎖に参加している学生の一人で、後に退学したようなことを聞きました。

学生側についた七人の教員は、最後まで学生側についていたようです。後にゼミの担当者になった教授もその中の一人です。十年ほどかかって仕上げた翻訳原稿を投げ入れられた火炎瓶で焼かれたそうですが、また同じ年月をかけて翻訳出版したという話も聞きました。その担当者の追悼文が僕の記事の第一号です。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-」(「ゴンドワナ」3号8-9ペイジ)→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」

第二次大戦前の神戸外事専門学校が戦後の制度改革で神戸市外国語大学になったそうで、教員の中には今までやらなかった分野を専門にする人たちもいたようです。小西友七という人の黒人英語などもそんな分野の一つで、他にも西洋のバイアスがかかっていないアフリカ系アメリカやアフリカの名前を学内ではよく見かけたように思います。

おそらくそんな流れの中で、英語の時間にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトの「地下に潜む男」の教科書を読むことになったのだと思います。

続きは、次回に。

次回は「ほんやく雑記(7)イリノイ州シカゴ2」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記⑥『 イリノイ州シカゴ 』」(「モンド通信」No. 96、2016年8月3日)

ダウンロード

2016年8月用ほんやく雑記6(pdf 469KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の5回目で、オハイオ州デイトン出身の詩人ポール・ダンバー(Paul Laurence Dunbar, 1872–1906)の“Little Brown Baby”という詩を取り上げます。表現の仕方と、時代背景の理解の大切さについて書きました。

本文

ほんやく雑記の5回目です。

前回はアレックス・ラ・グーマの『夜の彷徨』(A Walk in the Night)の舞台になったケープタウンの第6区を取り上げ、ほんやくをする人の気持ちの大切さについて書きましたが、今回はオハイオ州デイトン出身の詩人ポール・ダンバー(Paul Laurence Dunbar, 1872–1906)の“Little Brown Baby”という詩を取り上げます。表現の仕方と、時代背景の理解の大切さについて書きたいと思います。(写真:ポール・ダンバー)

わが子と戯れる父親について詠んだ短かい詩は、次のように始まります。

 

輝く瞳の愛しいわが子よ、

こっちに来て、パパのお膝にお座り。

閣下、何をしておられたのでありますか?お砂のパイでもお作りでしたか?

涎掛けを見てごらん、パパと同じくらい汚れているね。

お口を見てごらん、きっと、糖蜜だろうね。

マリア、こっちに来て、この子の手を拭いてやってくれないか。

蜜蜂が来て、この子を食べちゃいそうだから、

ねばねばして、甘いからね!

Little brown baby wif spa’klin’ eyes,

Come to you’ pappy an’ set on his knee.

What you been doin’, suh – makin’ san’ pies?

Look at dat bib – you’s ez du’ty ez me.

Look at dat mouth – dat’s merlasses, I bet;

Come hyeah, Maria, an’ wipe off his han’s.

Bees gwine to ketch you an’ eat you up yit,

Bein’ so sticky an’ sweet goodness lan’s!

 

そのあと父親は、一日じゅうも笑みも絶やさない可愛いわが子を見つめながら、突然からかい始めます。「パパはお前なんか知らない、きっといたずらっ子だと思うよ」「戸口からこの子を砂場に投げちゃおう」「この辺りに、いたずらっこなんて要らないから」「この子をお化けにやっちゃおう」「お化けよ、お化け、戸口から入っておいで」「ここに悪い子がいるから、食べてもいいよ」「父さんも母さんも、もうこんな子は要らないから」「頭から爪先まで飲み込んじゃって下さい」と脅された子供は、ぎゅっと父親にしがみついてきます。そして、最終連です。

 

ほらほら、やっぱり、ぎゅっとしがみついて来ると思ったよ。

お化よ、もう帰っておくれ、もうこの子はあげないないから。

もちろん、迷子でもないし、いたずらっ子でもないよ。

父さんを許してくれるいい子で、遊び相手で、喜び。

さあ、ベッドに行って、お休み。

お前が、いつも平穏無事で、こうして素敵なままでいられたらどんなにいいだろうね。

お前がこのまま私の胸の中で、子供のままでいられたらどんなにいいだろうね。

輝く瞳の愛しいわが子よ!

Dah, now, I t’ought dat you’d hub me up close.

Go back, ol’ buggah, you sha’n’t have dis boy.

He ain’t no tramp, ner no straggler, of co’se;

He’s pappy’s pa’dner an’ playmate an’ joy.

Come to you’ pallet now – go to yo’ res’;

Wisht you could allus know ease an’ cleah skies;

Wisht you could stay jes’ a chile on my breas’

Little brown baby wif spa’klin’ eyes!

 

アフリカ系アメリカ人の言葉(いわゆる「黒人英語」)で書かれたこの詩はなかなか難しいですし、仕事帰りの父親が小さなわが子と戯れる様子は微笑ましいのですが、最後の仮定法の二行に来ると、ちょっとほろっとしてしまいます。

小作人(『1200万の黒人の声』より)

ダンバーは早くから詩を書いて白人の編集者に認められて国際的に有名になったそうですが、33歳の若さで亡くなっています。ダンバーの生きた頃は、アフリカ系アメリカ人には厳しい時代でした。奴隷貿易で大儲けをした南部の荘園主と、奴隷貿易で蓄積した資本で産業革命を起こしてのし上がった産業資本家が、奴隷制をめぐって南北戦争で殺し合い、法的に奴隷制は廃止されたものの、経済力の拮抗する対立の最終決着はつかず、結局アフリカ系アメリカ人は奴隷から小作人に名前が変わっただけ、苦しい生活は変わりませんでした。1890年代に入ると「奴隷解放」によって自由を夢見て南部から北部へどっと人が押し寄せますが、安価な単純労働しか求められないアフリカ系アメリカ人には厳しい現実は元のまま。特に本来なら知的労働者になるべき人たちには特に厳しい時代です。

小作人(a sharecropper)、Twelve  Million  Black  Voicesから↓

炎天下の綿摘み作業、Twelve  Million  Black  Voicesから↓

Richard Wright’s Twelve  Million  Black  Voices (1941)

merlassesは砂糖黍の絞り滓、口のまわりをべとべとにして汚くしているのは、長くて汚い仕事から戻って来た俺といっしょ、今は俺の胸の中で何とか平穏にいてもらえるが、大きくなって仕事があっても安い辛い仕事ばかり、カラーラインを越えようものなら、白人のリンチ。このまま、俺の胸の中にいてくれたらなあ、という切なる父親の願いに、ほろっとしてしまいます。人種差別反対を声高に唱えるより、「現在事実の反対の仮定」を意味する「仮定過去」を最後に二つ並べた表現の妙は、心にじんと迫ります。

リンチの一場面(『1200万の黒人の声』より)

アメリカ文学会の会誌か何かでLittle brown baby wif spa’klin’ eyes が「きんきら目玉の小さな褐色の赤ちゃん」とほんやくされているのを見かけて違和感を覚えたことがあります。「きんきら」「目玉」「赤ちゃん」は論外ですが、それより「褐色の」が気になりました。

次回は「ほんやく雑記(6)イリノイ州シカゴ」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

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2016年7月用ほんやく雑記5(pdf 286KB)