2000~09年の執筆物

概要(作業中)

2003年11月23日(日)に宮崎大学医学部すずかけ祭で開催されたシンポジウム「アフリカと医療」で行なった講演の記録で、国際保健医療研究会の葛岡桜さんがして下さったテープ起こしの原稿に手を加えたものです。テープ起こしの原稿を見ながら、我ながらあまりの日本語のひどさに悲しくなりました。美しい日本語の会会員などと称していることに後ろめたさも感じました。そして、普段の話し言葉も、話し方も考えなくてはと思いました。これからは、美しい日本語の会準会員を名乗ります。

当日は、時間の関係で、当初予定していた内容を変更して話をしました。当日の内容に手を加えたものがこの「アフリカのエイズ問題―制度と文学」で、その前に、事前に配られたパンフレットの表紙とその内容を載せました。

予定していた原稿につきましては、ずいぶんと遅くなりましたが、手直しのうえ「アフリカとエイズと文学」と題して、近々ホームペイジに掲載の予定です。

ご一緒した山本さんとムアンギさんの話は、ホームペイジには掲載できませんでした。

(パンフレットの表紙)

 

 

第28回すずかけ祭医学展

宮崎大学医学部

シンポジウム「アフリカと医療」

~世界で一番いのちの短い国~

 

●国際医療ボランティア・派遣医師

山本敏晴

「世界で一番いのちの短い国」

…本当に意味のある国際協力とは?…

 

●四国学院大学社会学部教員

Cyrus Mwangi

「アフリカにおけるエイズとセクシュアリティ」

 

●宮崎大学医学部英語科教員

玉田吉行

「アフリカのエイズ問題―制度と文学」

 

日時 2003年11月23日(日)1時~4時

主催 宮崎大学医学部国際保健医療研究会・英語科

場所 宮崎大学医学部臨床講義棟205教室

 

主な対象者; 発展途上国での医療活動やボランティア活動などに従事することも含め、その分野に深い関心のある医療関係者、医療系学生、将来そういう分野で活動したいと考える中学生や高校生、および、国際保健活動に関心のある方々。◆

 

本文(写真作業中)

アフリカのエイズ問題―制度と文学     玉 田 吉 行

玉田と申します。よろしくお願いします。旧宮崎大学と旧宮崎医科大学が(10月に)統合して、こちらは清武キャンパス、向こうは木花キャンパスと呼ばれています。実際には(統合後の最初の授業が始まるのは)4月からなんですが、(今は)こちらの方で英語を担当しています。4月からはさっきお話にありましたように、アフリカ文化論とか、南アフリカ概論とかの名前で、(木花キャンパスの方でも、主題教養科目の)授業を担当する予定です。

今回のシンポジウムは、わりと準備していたんです。一応、こういうタイトル(『アフリカのエイズ問題―制度と文学』)で、初めに少し挨拶をして、それからアフリカのエイズの現状を少しお話してと、本当はそういうつもりでした。

病気でもそうですが、(たとえば)喉が痛いとか、それは(それで)原因があるわけです。西洋医学の場合だと、対症療法で熱を下げましょうとか、薬を与えましょうとか、まあ、そういうことになるわけですが。本当は、免疫力があれば、病気にならない確率が高いわけで、「ちゃんと良く寝ましょう」、「規則正しい生活をしましょう」、「むちゃくちゃ飲まないようにしましょう」、そういうことが一番大事だと思うんですが、そのためにはやっぱり何が原因かというのを知らなければなりませんし、出てきた症状から、病気の場合だと、診断しなければいけません。

実際に、エイズの惨状は、今日ムアンギさんがお話されましたように、大陸が滅びるかもしれないという可能性を含んでいるほどだと、ぼくは思っているんですが。それは、HIVだけが原因というわけではなくて、それを生み出した原因というのはもっと大きな所にあると思うからです。

ぼくは、たまたま読んだアフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライトの祖先が奴隷貿易で連れてこられたという縁で、アフリカに辿り着きました。その人はアメリカから追われるような形パリに渡った人で、常に「自分は何か?」を問い続けていました。生まれながらにして、肌の色が黒いというだけで疎外されていましたから。同じような意味で、ぼく自身もいつも「自分は何か?」を問い続けていました。生まれてくるとわけのわからない親でしたし、子供もたくさんいて貧乏だったですし、大学入試はすべって行く所はないし、学校へ行っても腹が立つし、地域社会にも腹が立つし。そんな状況でしたから、自分の居場所というか、つまり疎外された状況のなかで、自分はいったい何ができるんだろうか?とか、どうしたらいいんだろう?とか、そんな事ばかり考えていました。リチャード・ライトがアフリカの問題を取り上げていたのがきっかけで、僕自身も自然にアフリカについて考えるようになりました。

ですが、そこで考えて、(ぼくはここの英語の授業でもアフリカの話をずっとしてきたんですが。ここに来て16年になります。その前の5年間も含めますと、20年以上にもなりますが。)最後にたどり着いた地点は、山本さんとか、ムアンギさんとはだいぶ違うとは思うんですが、なんかため息しか出ないというか、希望的な観測が全くもてないというか。それもありますし、それから実際に長いあいだ授業をしていますと、この部屋でもそうですが半分以上寝ている中で授業が行われていますし、(学生は)あまり来ません。ほかの大学でもそうですが。以前いました大阪工業大学とかだと、授業の一番初めに出席をとって、ぱっと見上げたら前半分全部いないんですよね。それで、おかしいなぁと思って、出席を後からとるようにしたら、最初あまり来なくて、終わりの方に(たくさん)来ましたね。(非常勤としてご一緒した)ムアンギさんは、アルファベットで名前書けない奴にどないして単位だすねん、とぼやいてましたね。大阪工大は、(偏差値でいうと)関関同立(関西学院大学、関西大学、同志社大学、立命館大学)の次くらいだと言われている大学です。(ムアンギさんも僕も)ひどいところで授業をやっていたわけです。ここでも実際に授業をやってみますと、(学生は)授業には来ませんし、(来ても)半分くらいは寝ていますし。今、(その時の学生が)二人くらい(会場に)来ているんですが、その学年のときの話です。ぼくは一年間一生懸命話をしてきて、(それでも大体半分くらいは寝てましたけど)すごく頑張って(まとめの話を)やりだしたのに、ふと見ましたら前の方で漫画を読んで、パンを食べている学生がいるんです。腹が立って、こんなやつは絶対に医者にしたらあかんと思って、授業やめて出てきたんです。医学部でさえそうですから、別に医学部でなくてもいろんなところでそんな状況があるのが実際のようです。授業中に夢中になって携帯電話をしている人もいますし、すこし進歩的な話をしたら寝てしまいますし。ま、そういうのが現状のようです。

どちらかと言いますと、(授業で)アフリカのことをしながら日本にいて、その狭間に立って、その希望を託すべき、有能な若者と実際に授業をやりながら、その合間に立ってみますと、いろんなことが見えてきて、やっぱり最終的に、授業の最後で「いや申し訳ない、もうため息しか出ない」という感じになってしまうんです。でも(そのような状況でも)20年間ずっと話し続けてきたのは、そこにしか希望はないんじゃないかなと思っているからなんです。ですから、今日もそうですが、やる事に対しては、やはり準備もしますし、それなりにやります。ですが、人のためにやっていますと、例えば、「なんで授業に出てこれんのや?」とか、「なんで寝てしまうねん?」と思うかもしれないんですが、でもその人がいつかこの話を思い出して、医者になったときに、ああ、あんなことをいってたなと思ってくれること…まぁこれは実際にあるんですが…そのほうが一番大事で、ひょっとしたらそういう希望があるのかもしれません。でも、実際にはそんなに希望があるわけでもないし、だけどやっぱり喋り続けないといけない、みたいな(感じです)。そういう狭間で、ぼくは毎日少しずつ…。あ、もちろんこのシンポジウムはなかなか大変で。最初、授業でアフリカの話をしていたときに、山本さんの本(『世界で一番いのちの短い国』)を課題図書で紹介しました。一年生の石崎さんが、私知ってるよ、みたいな感じで。すぐメールを打って山本さんに「講演をお願いします」と頼んでみたら、山本さんからすぐ返事が来て、「それじゃ玉田先生に相談してみてください」、と(いうことになりました)。それで(講演が実現しましたので)、今日はぼくとムアンギさんは二人とも、付け足しみたいなものです。国際保健医療ですから、山本さんの話に関連して話をするので、ムアンギさんも来ませんかみたいな感じで電話したわけです。で、はじめの話では、前半、半分以上(山本さんに)やってもらって、ムアンギさんとぼくとで残りの時間を分けるつもりだったんですが、もうほとんど終わりであと(残り時間が)5分くらいしかない。(一同笑)で、一応ぼくがここで今言いましたように、普段考えてきて授業の中で言っているような話をした後、実際に1992年にジンバブエに行ってみて、「ほー、やっぱり同じやった」みたいな話をして(と考えていました)。

実際には、ぼくらは大学にいる(知的な欲求を満たしやすい環境にいる)わけですから、ほかの人の事(実際には行けない外国のことなど)を知るために、例えば、山本さんの話を聞いたり、ムアンギさんの話を聞いたり、そういう部分も大事ですが、制度(についてだけ)じゃなくて、実際に生活している人のことを書いているとか、文化(について書いてる)とか、そういうものを読めればそれにこしたことはないと思います。例えばエイズの話でも、1991年に、エイズが問題になり始めた時期のケニアの混乱した状況を描いた小説をゲテリアという作家が書いています

ぼくは今、(本学の)2年生で授業をやっているんですが、実際に授業やっていましても、2年生は忙しいからと、あんまり来ませんし。授業では、そんな深刻な問題を話していても、半分くらい寝ていますけど。

そういう風な本の内容をみてみますと、例えばケニアの場合など、実際に今日お話しましたように、植民地(支配)で、それから新植民地(支配)で、その侵略は今も続いてるんですが。ですから、極端に言いますと、日本のように、中産階級がいるわけではなくて、一握りの貴族と西洋の人たちが手を結んで長い事(新植民地体制を)引きずってるわけで。で、ごく一部ですよね、その(支配階級に属している)人たちは。その人たち以外はほとんど全て貧乏人で。そういう構図の中でHIVにこの人達もたくさん感染しているんです。いっぱい。その小説は、『ナイス・ピープル』というタイトルですが、こっちの方の人たち…治すものの側(の人口)がものすごく減ってきてるわけで。こっち側(支配される側)の方は、そこにムアンギさんが持っていらっしゃいますが、メジャー・ムアンギという人が書いている本 [『最後の疫病』(2000年)] では、そのHIVに関して、一般的な人たちが西洋文明を、受け入れるか – つまり、HIVは精液や血液で感染しますから、原因がわかっているはずですよね、だけど実際には抑えられないみたいな、それのせめぎ合いみたいなところが書いてあるわけです。その中で、どういう風な感じで人間の尊厳を保つかみたいな、そういう部分も書いてあるわけです。

僕自身はもともと、文学を志して、30ぐらいで高校(の教員)を辞めて、それから書いたり読んだりするには大学しかないって思って、5年間ほど(通算にしたら9年位)浪人してるんですが。ですから、ここが初めて(の大学)で、それ以来で、16年目になります。そういう感じで生きてきました。

文学は、生き死にの問題が優先される場合…戦争をやっているときには文学は(直接には)役に立たないかもしれませんが、やっぱりものすごく大きな役割を持っています。根本的なことになるんですが、人間が人間に何か教えられるかと言うのは、非常に疑問で。その事を一年間ほど考えて、棒に振ったことがあります。結論は、やっぱり分からないというか。例えば今授業で先生をやっていますけど…何年か前に生まれてきて、先に少しだけ多く覚えて、それを言ってるだけですから。そういうことを考えていましたから、中学や高校では、こいつ何言ってんねん、そんなもん教科書に書いてあるやないか、といつも腹立てていたんです。だけど、そういう側面はどうしてもあるように思えますので、人のために教えてやるというのは、少し違うかな、と思っています。そんなことを考えながら、もんもんと授業をやっているんです。

ですから、ここで一番いいたかったのは、やっぱり、そのアフリカの問題を授業の中で取り上げているのも、大学の時代がやっぱり大事(な時期)だと考えているからだ、ということです。なぜかと言いますと、知的な欲求は、(今は物が豊かで、なんか無理やり勉強やらされて、その中でそがれてる部分もものすごい多いと思うんですが)本来は、何か知りたいとか、何かやってみたいというところから始まります。知的な欲求が、人間にはすごくあると思うんです。だから、そういう欲求を満たすには、(大学に)入ってきて、その中でいろいろ話を聞いて……。そのときに、人生が方向付けられる事があるかもしれないですし。ですから、そういう意味では、ぼくは大学入ってきた人たちに、できるだけ、「今まで持ってきた価値観は大丈夫か?」みたいな揺さぶりのための材料として、アフリカの事をずっと話したりしてきたんですが。ぼくがその中でよくするのは、14、15世紀ぐらいから、中国から持ち帰った火薬を武器に、西洋社会が銃(武器)を作って、それから侵略を始めたという話です。当初は、東アフリカを略奪したりしていましたが、もっと恒久的に略奪しつづける方法はないかと考え出して、結局は片方(の手)に聖書、もう一方に銃を持って侵略を始めたんです。南アフリカなんか、オランダ人に侵略されたんですが。1972年にマジシ・クネーネいう南アフリカの詩人が来て、多分あのときだと、日本の文学者の野間宏とか針生一郎とか、その辺の人に案内してもらったと思うんですが。その人がオランダの出島を見て、「日本人てえらいなぁ」と言ったそうです。実際に、南アフリカはオランダ人に侵略されましたからね、「(オランダ人を出島に閉じこめた)日本人はえらいなあ」という意味でしょうが、そういうことを、ぼくは雑誌で読んだことがあります。実際に、南アフリカはそういう形で侵略されていったんですよね。そのうちに、今度は人間を売買し始めて、ものすごく片一方(西洋)は富んだわけで、その資本で、今度はもっと儲ける方法を考え(始め)たのです。つまり、奴隷貿易は、大きな損失(リスク)もありますよね。(逃亡とか反乱とかの)リスクを伴いますから。だからもっと効率よく儲ける方法、つまり今まで手でやっていたことを機械でやるようになって。ものすごくたくさん作って、それを売り始めたわけです。売るための材料をもっと手に入れるために、植民地化を始めます。その勢いはとても大きかったわけです。そのときにあつかましく、たくさんの植民地を取ったのは、英語をしゃべっていたアングロ・サクソン系の人達です。特に文明のあったケニア、ガーナや、ナイジェリア、南アフリカ、ジンバブエなど。とにかく、文化の発達していた所ばかり狙ってたわけです。その人達は自分の言葉を押し付けました。押しつけられた国は数多く、(今も経済的に結びつきが強い)Common Wealth countriesは、確か51か52あると思いますが。その人達は、(国として)英語をしゃべるようになってるわけです。ですからジンバブエに行った時もそうでしたが – ジンバブエはショナ人がほとんどなんですが – それが、キャンパス内で(ショナ人同士が)英語でしゃべっているのです。みんながそうなんです。自分の子供に母国語のショナ語を教えないで、英語を教えている人が増えているようです。名前もAlexや、そんな名前ばっかりです。そういう傾向は顕著で、インドもそうらしいです。小田実さんがインドで行われている英語支配は、だいたい形を変えた侵略じゃないかのかねとあるインドの友人に尋ねたら、何を言ってる、侵略そのものだ、と言い返されたと言ってましたが。そんな状況になっているようです。

いまさっき、山本さんがシェラレオネ(の平均寿命が)34歳とおっしゃったんですが、何日か前、インターネットで調べてみましたら、ジンバブエの場合、36.5歳でした。1995年の記事ですが、イギリスのインディペンダントという新聞を授業で読んだことがあります。その記事は、2010年くらいまでには平均寿命が55歳くらいから40歳くらいに落ち込むだろうと予測していました。 55歳(という元の数字)が、そんなに高くないとぼくは思いますけれども。ここ(提示したグラフ)でみてもらったら分かりますが、ムアンギさんのケニアも、南アフリカも、45歳ぐらいです。日本は80歳こえていますから、このあたりのところは、(原因が)絶対あると思います。そういうふうなことを考えると、形態は変わっても(侵略は)ずっと続いているのです。

実際に知的なものを考えて世の中をなんとかしていかないといけないという大学生でさえも、知的な好奇心が薄い(人も多い)ですし。それから、政治とか、社会的なことをあんまり考えません。今ぼくがお話したようなことが、その侵略の延長だとしますと、アメリカなんかずーっとそれを続けているわけです。その国が国連を無視して、イラクを侵略した事を、ぼくらは止めることもできなかったわけです。そういうふうなことに対して、そういうことを考えもしないと言いますか。その辺りのところに対してぼくはどういう風に話しかけたらいいのか。すごく、とまどいながら。それでもやっぱり言わないといけないな – そういうところで過ごしていますね。

南アフリカに関して言いますと、ジンバブエで…ジンバブエに行って、家を借りました。今言いましたように(ジンバブエには)貴族と貧乏人しかいませんから、ほとんど借家はないんですが。でも、たまたまみつけてもらって。10万円の家賃ですと言われて、行きましたら、500坪ですよ、これくらい。ちゃんとガーデン・ボーイ付きでした。知り合って、いろいろ話を聞きましたら、その人の給料は4千円くらい(ひと月ね)。子供たちも(その人の子供たちと)一緒に遊んだのですが、遊びに使ったボールがひとつ5千円くらいでした。実際はそんな中で生活をしていて、その人の田舎のほうに行ったんですが、(写真をうつしながら)こういうところに住んでいて、ジンバブエに関しての新聞にあったように。大体、田舎のでは女性が農作業と、それから老人や子供の世話をしてるんですが。HIVで、みんな倒れていくんです。

ヨーロッパ人がやって来たときにどんな侵略の形態を取ったかと言いますと、つまりアフリカ人の土地を奪って課税したんです。課税されて、その現金を払わなければなりませんから、みんな出稼ぎに出ざるを得ませんでした。たいていは鉱山か、農場か、白人の家か、工場か。たいがいそれは短期契約…つまり(労働単価の)一番安いパートタイムです。男ばっかり集めてコンパウンドという、まぁ、日本で言うたこ部屋ですね。そこに売春婦が入りますから、そこで感染します。こんどは、1年に2回ほど田舎に帰って、奥さんにうつすんです。アフリカの場合、特にそれが極めて多いのです。英語では「マイグラント・レイバー」、いわゆる季節労働とか、出稼ぎ労働とかいわれます。そういうシステムがあるわけです。それは今さっきも言いましたが、実際に、ぱっと略奪するのではなくて、永遠に略奪し続けるというか。だって、奴隷みたいに、大の大人が24時間中拘束されて、ひと月4千円ですよ。今(写真に映っている)ここで子供達が遊んでいましたが、ここはスイスのおばあさんが持ってるところで、そこの人達(ショナの人たち)は子供が遊びにきても、ぼくらがたまたまいたので子供たちもいましたけど、普通はそこに入れてもらえなくて。家族とほとんど一年離れて(暮らしているんです)。(田舎に)帰ったら、家も大きく土地もあるんですが。だから、そういう状態ですよね。それは、いってみれば奴隷と一緒じゃないですか。経済の配分は、システムは……。それが基礎なんです。あまりそういうことは言われないんですが、安価な労働力によって、人が生産したものを掠め取ってるわけです。実際に例えば、ここ(臨床講義室)の電力でも、そうですよね。南アフリカとか、ナミビアとかその辺りの安い労働力で、(ウランが)掘られて運ばれ、(日本では)安い電力が供給されているわけです。そういうことを考えてきますと、ぼくらは、完璧に加害者なわけです。そのことを山本さんも、ムアンギさんも言われてましたが。それが問題なのです。何が問題かというと、(たいていの人が)その事にも気が付いていないことなんです。

そんなことを考えてみますと、自分の自己存在も肯定できるのかなと思います。やっぱり生きる自信が持てないと思いながら。(授業で)そんな話をすると半分くらい寝てしまいます。もう、ひどいのになると、授業終わった後、あー、なんてあくびして。あーもう(受験勉強で詰め込んだ)英語も忘れてしまった、なんて言って。授業終わった直後に言われますと、さすがに、がっくりときますが。でも、現実なんですよね。

アパルトヘイトがあったときに、(ヨハネスブルグの)日本人学校に(取材に)行って、(朝日テレビの)「ニュースステーション」がインタビューをして、日本人学校の校長は(管理職だから)、「いやー、もう危険だから、(安全確保のために、もっと)フェンスを高くしないと」、と言ったんですが。せめて、「将来を託す子供達だから、知らない所に来てぼくらにできないことをやってもらいたい」くらいは言ってもらいたいですよね。企業の特派員の子供達が大きな顔をして、「あの人達とは生活が違うから雇ってあげなくちゃいけないですよね」と言うんです。「せっかく一緒に友達になったんだから、もう帰りたくない」くらいは、せめて(その子供たちに)言って欲しいですよね。

良く分かりませんが、現状がどうであれ、受験勉強で疲れて、何もものを考えないようになって大学入ってきたとしても、例えばぼくらみたいに授業する立場の人間が、「もうしゃーないから」といって諦めてしまう、そうなったら終わりじゃないですか。そう思っているんです。しかし、今の状況でぼくらが何かが言えるかといったら、いやー、あまり自信がなくて、何かぶつぶつ言いながら、「ぼくは英語嫌いです」とか、「外国人が苦手です」とか言いながら、最後にぼそっとと「いやー、ため息しか出ない」としかいえないんです。ですが、人のためだけにやっているわけではありませんので、ぼくは、最初にも言いましたが、自分が読んだり書いたりする空間を求めて大学にも来ましたし、授業をもつことで実際に生活もしているわけですから、その責任として、やっぱり、それでもきちっと準備をして、ぶつぶつ言いながらでも、しゃべりかけないといけないと思っています。とくに、医者になる人が多いですので、ぼくは、「医者になる人が風邪をひいていてどうする?」と、いつもそれだけは言うんです。(高校の教員をやっていたときにもあったのですが)ここ(宮崎)の人なんかもそうですが、自分はたばこを吸いながら、「お前たち、たばこ吸うな」、なんて生徒指導でやっている人がいますけど、そんなの(元々)信用できるわけがありませんから。医者(の場合で)もそうだと思うんです。だから、今はどうか分かりませんけど、いつか気が付いて、(患者の)いのちを預かるときになって、山本さんもお話されましたように、勉強するのは大事だということを思い出して、自分のために考えてもらえればいいなぁ、と思います。

今回、たまたまこういう形でやったわけなんですが、アンケートの中にもお書き下されば、今日お話できなかったこととか、興味がおありの方に、ホームペイジとか或いは印刷物とかを通して、連絡が取れると思います。

もう13年にもなりますが、アパルトヘイトが廃止される前の年に、この下の105(臨床講義室)で、南アフリカの作家をお呼びして講演会をしたとき、またやったらどうだって言われたんですが。もし、機会があれれば、誰かをお呼びしてまたやろうかな、と思っています。予定していた事が充分にはできなかったんですが、わざわざ足を運んで下さって、有り難うございました。

執筆年

2004年

収録・公開

出版(私製)

ダウンロード

「アフリカのエイズ問題-制度と文学」(シンポジウム報告)

2000~09年の執筆物

概要

(作業中)

本文(写真作業中)

コンゴの悲劇2 上  ベルギー領コンゴの「独立」

■ ベルギー領コンゴ

前回の「コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』」(「ごんどわな」24号2-5頁。)では、遂にコンゴにまで植民地支配が及び、アフリカ人の暮らしが一変したことを書いた。

「悲劇2」では、ベルギー領コンゴが新植民地体制に組み込まれて行く悲劇について書こうと思う。

奴隷貿易による初期の資本蓄積で生産手段を機械に変えた西洋社会は、産業革命で作り過ぎた製品の世界市場と、安価な原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げた。

レオポルド2世が植民地獲得の夢を紡ぎ始めた1870年代には、既にアジア、アフリカ、ラテン・アメリカは、ほぼ西洋列強の植民地支配下にあり、コンゴ盆地は列強国が手をつけていない世界地図の唯一の大きな空白だった。結果的には国王一人が暴利を貪ったが、そうでなくとも、後の歴史が示すように、いずれは侵略者の餌食になっていただろう。

 

レオポルド2世

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド二世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれた。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)である。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となった。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていた。」(註1)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だった。

レオポルド二世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡したが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現ナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまった。

アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされた。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註2)という惨状だった。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現された。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された。」(註3)

名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのである。

■ 豊かな大地

ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にある。

 

 

植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていった。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註4)になっていた。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となった。

行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現キンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域である。

インドの独立やエジプトのスエズ運河封鎖などに触発されて独立への機運が高まりアフリカ大陸に「変革の嵐」が吹き荒れていたが、コンゴで独立への風が吹き始めたのは、ようやく58年頃からである。

ベルギー政府は、コンゴをやがてはアフリカ人主導の連邦国家へと移行させて本国に統合する構想を描き、種々の特権を与えて少数のアフリカ人中産階級を育てていた。56年当時の総人口1200万人のうちの僅かに10万人から15万人程度であったが、西洋の教育を受け、フランス語の出来る人たちで、主に大企業や官庁の下級職員や中小企業家、職人などで構成されていた。(註5)独立闘争の先頭に立ったのは、この人たちである。

■ 独立

58年当時、アバコ党(註6)、コンゴ国民運動 (註7)、コナカ党(註8)などの政党が活動していた。

アバコ党が最も力を持ち、カサヴブ(Joseph Kasavubu)とボリカンゴ (Jean Bolikango) が党の人気を二分し、党中央委員会の政策がコンゴ全体の政治の流れを決めていた。カサヴブは即時独立を求めたが、民族色の濃い連邦国家を心に描いていた。

 

カサヴブ

58年10月創設のコンゴ国民運動(MNC)は、従来の民族中心主義を排し、国と大陸の統合を目指して活動を開始した。誠実で雄弁な指導者パトリス・ルムンバ (Patrice Lumumba) が、若者を中心に国民的な支持を得て、第3の勢力に浮上した。ルムンバに影響されたカサイ州バルバ人の指導者カロンジ (Albert Kalonji) が第4勢力の地位を得たが、五十九年六月にルムンバに反発して分裂し、ベルギー人(教会、大企業、政庁)の支持を受けてMNCの勢力を二分した。イレオ(Joseph Ileo)など多数がカロンジと行動を共にした。

 

ルムンバ

カタンガ州では、チョンベ(Moїse Tshombe)がベルギー人財界や入植者の支援を受けてコナカ党を率いていた。

ベルギー政府に独立承認の意図は未だなかったが、58年11月辺りから事態は急変する。西アフリカ及び中央アフリカの仏領諸国が次々と共和国宣言をしたこと、12月にガーナの首都アクラで開かれた第一回パンアフリカニスト会議に出席したルムンバが帰国したことに刺激を受けて、独立への機運が急激に高まったからである。

翌年1月4日、レオポルドヴィルで騒乱が起き、50人以上の死者を出した。事態を無視できなくなったベルギー政府は独立承認の方法を模索し始め、60年1月20日から27日にかけてコンゴ代表44名をブルッセルに集めて円卓会議を開催して、急遽、同年6月30日の独立承認を決めた。

■ 宣戦布告

5月に行なわれた選挙でMNCは137議席中の74議席を得てルムンバが首相にはなったものの、絶対多数には届かず、カザヴブの大統領職と、大幅な分権を認める中央集権制を容認せざるを得かった。民族的、経済的基盤を持たず、分裂要素を抱えたまま、大衆の支持だけが支えの船出となった。

6月30日の独立の式典で、ルムンバはコンゴの大衆と来賓に、次のように宣言した。

「……涙と炎と血の混じったこの闘いを、私たちは本当に誇りに思っています。その闘いが、力づくで押し付けられた屈辱的な奴隷制を終わらせるための気高い、公正な闘いだったからです。

80年来の植民地支配下での私たちの運命はまさにそうでした。私たちの傷はまだ生々しく、痛ましくて忘れようにも忘れることなど出来ません。十分に食べることも出来ず、着るものも住まいも不充分、子供も思うように育てられないような賃金しか貰えないのに、要求されるままに苦しい仕事をやってきたからです。

私たちは、朝昼夜となく、侮蔑と屈辱と鉄拳を味わってきました。私たちが「黒人」だったからです……

私たちは、白人のための法律が決して黒人用の法律と同じではないのを味わってきました。白人用の法律は寛大でしたが、黒人用の法律は残酷で、非人間的だったからです。

政治的な意見や宗教上の信念を捨てることを強いられた人たちの酷い苦しみを私たちは見てきました。追放者としてのその人たちの運命は、死よりも惨いものでした。

私たちは、街の白人用の豪邸と、黒人用の崩れかけのあばら家を見てきました。黒人は「白人用」の映画館やレストランや店には行けませんでした。黒人は船に乗ればいつも、豪華な客室にいる白人の足元のまだ下の船底に押し込められて旅行をしてきました。

そして最後に、本当にたくさんの仲間が撃ち殺されたり、搾取や抑圧の「正義」の支配にこれ以上屈服しないぞと言った人たちが独房に入れられたりしたのですが、そういった射殺や独房を忘れることなど出来ません。

みなさん、そうしたすべてのことが、最も深い悲しみだったと思います。

しかし、選ばれた代表が我が愛する祖国を治めるようにとあなた方に投票してもらった私たちは、身も心も白人の抑圧に苦しめられてきた私たちは、こうしたすべてが今すっかり終わったのですと言うことが出来ます。

コンゴ共和国が宣言され、今や私たちの土地は子供たちの手の中にあります……

共に、社会正義を確立し、誰もが働く仕事に応じた報酬が得られるようにしましょう。

自由に働ければ、黒人に何が出来るかを世界に示し、コンゴが全アフリカの活動の中心になるように努力しましょう……

過去のすべての法律を見直し、公正で気高い新法に作り変えましょう。

自由な考えを抑え込むのは一切辞めて、すべての市民が人権宣言に謳われた基本的な自由を満喫出来るように尽力しましょう。

あらゆる種類の差別をすべてうまく抑えて、その人の人間的尊厳と働きと祖国への献身に応じて決められる本当の居場所を、すべての人に提供しましょう……

最後になりますが、国民の皆さんや、皆さんの中で暮らしておられる外国人の方々の命と財産を無条件で大切にしましょう。

もし外国人の行いがひどければ、法律に従って私たちの領土から出て行ってもらいます。もし、行いがよければ、当然、安心して留まってもらえます。その人たちも、コンゴのために働いているからです……

豊かな国民経済を創り出し、結果的に経済的な独立が果たせるように、毅然として働き始めましょうと、国民の皆さんに、強く申し上げたいと思います……」(註9)

このルムンバの国民への呼びかけは、同時にベルギーへの宣戦布告でもあった。

(たまだよしゆき・アフリカ文学)

 

〈註〉

1 Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost (Boston, New York: Houghton Mifflin Company, 1998), p. 124.

 

2 Leopold’s Ghost, p. 279.

3 Leopold’s Ghost, p. 278.

4 小田英郎『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』(山川出版社、1986年)、118ペイジ。

5 ルムンバ著・中山毅訳「訳者あとがき」、『祖国はほほ笑む』(理論社、1965年)、270~271ペイジ。

6 The Abako: Association pour la Sauvearde de la Culture et des Intérêts des Bakongo.

7 MNC: the Mouvement National Congolais.

8 The Konakat: Confederation of Tribal Associations of Katanga.

9 Thomas Kanza, The Rise and Fall of Ptrice Lumumba (London: Red Collings, 1978), pp. 161-164. ルムンバ著・榊利夫編訳『息子よ未来は美しい』(理論社、1961年)、67頁~72ペイジにも収載されている。

 

執筆年

2004年

収録・公開

未出版(ごんどわな25号に収載予定でしたが、24号以降は出版されないままです。)

  後にまとめて出版→「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―」「ESPの研究と実践」第5号(2006年)61-69頁。

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コンゴの悲劇2 上 ベルギー領コンゴの『独立』

2000~09年の執筆物

概要

エイズの世界的な蔓延や、エボラ出血熱の大流行の遠因となったザイールの過去の歴史を検証した論文である。ザイールの惨状は豊かな鉱物資源に群がる西洋資本と、その資本と手を結ぶ一握りのアフリカ人が多くのアフリカ人労働者を搾取する体制から生まれたものであるが、その基本構図はベルリン会議後の1886年に承認されたベルギーのレオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」によって築かれた史実を論証した。その基本構図が、その後ベルギー領コンゴ、ベルギーから独立を果たしたコンゴ、アメリカに後押しされたモブツ大統領の独裁国ザイール、そして現在のコンゴ民主共和国へと引き継がれている点も指摘した。

本文(写真作業中)

ごんどわな復刊3号(24号、2001年1月)2-5ペイジ

 

コンゴの悲劇(一) レオポルド二世と「コンゴ自由国」

 

悲劇の始まり

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていた。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一頁が始まろうとしていた。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしている……。

しかし、ここ三年の、何という変わり様か!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題である。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりである。」

赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの実情を、米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)にそう誌した。(註1)

レオポルド二世

シェパードはコンゴに赴いた最初のアフリカ系アメリカ人で、「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたのである。

1890年から20年間アフリカで過ごしたシェパードは、レオポルド二世の「コンゴ自由国」の下での「変わり様」を目撃した。

シェパードが続けて誌す。

「どうしてこんなに変わったのか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからである。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしてゆけない。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もない。」(註1)

「認可」を出したのは、1865年に30歳で王位に着いたベルギーのレオポルド二世である。かつてスペイン、オーストリア、フランス、オランダの支配を受け、1830年に独立したばかりのベルギーは、大国フランスとドイツ両国に挟まれた弱小国家だった。両親も本人も、政略結婚を余儀なくされ、家族関係も冷たく、父母の情愛を受けずに成人している。

十歳から軍事教育を受けた王は学業に熱心ではなかったが、地理には関心を寄せた。貿易の利潤に興味を持ち、世界地図を眺めながら、いつかは植民地を手に入れたいと思うようになっていた。王位に着く前年に、イギリス所有のセイロン、インド、ビルマと、オランダ所有の東インド諸島を訪れてから、植民地獲得の夢はますます膨らんでゆく。

ほぼ20年後の1885年に、レオポルド二世は50歳で宿願の植民地「コンゴ自由国」を入手するのだが、小さな国の国王個人が、どうしてアフリカ奥地の広大な植民地を首尾よく手に入れることが出来たのか。

 

「コンゴ自由国」の成立

個人の植民地とは不思議な話だが、王の執念と、植民地列強の思惑と、時代の流れとが交錯して、現実に個人の植民地が成立した。

産業革命を果たした西洋社会は、作り過ぎた工業生産品を捌く市場と、労働者の安価な食料と工業の原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げていた。ヨーロッパでは、侵略を正当化するための世論が大勢を占めていた。

1876年に王は、アラブ人の奴隷貿易廃止と「野蛮人に文明を」という大義の下に国際アフリカ協会を設立し、本部をブルリュッセルに置いた。すべて、植民地獲得への布石だった。

王は、初めからアフリカに拘ったわけではなく、薄れつつあった王室の権力を取り戻しさえ出来れば、植民地はどこでもよかった。しかし、当時すでに植民地はすべて西欧列強の手中にあり、世界地図の空白は、赤道直下のコンゴ川流域だけだった。世界地図の空白は、ヨーロッパ人「未到」と、他の植民地で手一杯のイギリスも、その地域を挟んで牽制し合うフランスもドイツも、まだ手を出していないという意味合いを含んでいた。王は、その空白に目をつけ、すでに東側から大陸横断を終えて、支援者を探していた英国人探検家ヘンリ・スタンリーに、密かに急接近を開始した。

情報から、王は、コンゴ川流域が植民地には最適と判断し、直ちに、450人の首長からただ同然の価格で広大な土地を買収させた。

スタンリーは、情報と世論の支持とを得るには欠かせない人物だった。世論の操作と外交術に長けた王は、イギリス、ドイツ、フランスの首脳を宮廷に招いては、手厚く遇した。成否の鍵を握るアメリカには、自らも乗り込み、大統領官邸との繋ぎ役には、南部の黒人人口の増加に脅威を感じ、アフリカに黒人を移住させたがっていた下院外交委員会議長のジョン・モーガンを選んだ。アメリカと、「小国なら却って実害がない」と考える西欧主要国の支持を得て、1886年のベルリン会議で、王個人が所有する植民地として「コンゴ自由国」が承認された。

 

「コンゴ自由国」

王は生涯に一度もアフリカに行かなかった。本国から指示を出し、当初は象牙で、後にはゴムで利潤をあげた。力による支配を強行し、劣悪な条件下でアフリカ人を働かせ続けた。

1888年には、ベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げた。

支配の根底には、アフリカ人蔑視の考え方があり、鞭打ちなどの残忍な手法を用いた。象牙の輸送には、急流地域では陸路を使うしかなく、大量の人夫が必要だった。当然、多くの犠牲者も出た。特に、ゴムを運ぶための鉄道建設では「レール一本を繋ぐのにアフリカ人一人の犠牲者が出た」とまで言われた。

1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起きた。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇った。アジアやラテンアメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの二十年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせた。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させた。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れた。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業を強いられた。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だった。

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされたが、その支配は23年間に及んだ。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能だが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されている。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われる。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んだ。

 

(註)

 

1) Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost A Story of Greed, Terror, and Heroism in  Colonial Africa    (Mariner Books, 1998)

 

2) 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びた。

執筆年

2001年

収録・公開

「ごんどわな」24号2-5ペイジ

 

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コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』

2000~09年の執筆物

概要

アフリカのエイズの深刻な状況を、ジンバブエの例を軸に、分析したものです。

ヨーロッパ人はアフリカ人から土地を奪って課税することによって大量の低賃金労働者を作りましたが、売春婦が通う労働者の住まいがエイズ感染の温床になっています。売春婦を介して感染した男性が、村に帰って配偶者に感染させて事態を深刻化しています。最新のエイズ治療薬も大半のアフリカ人には無縁です。そういった負債とエイズに苦しめられているアフリカの危機的な状況を分析しました。アフリカと医学をつなぐテーマとして医学生の英語の授業で取り上げる中から生まれました。

本文

アフリカとエイズ                

深刻な状況

アフリカのエイズ事情は深刻である。

その深刻さを伝える二つの記事は、私には衝撃的だった。

一つは、英日刊紙「インディペンダント」(1995年7月)のジンバブエについての報告記事で、「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」という一節である。(註1)

もう一つは、英科学誌『ネイチャー』(1999年7月)の記事で、アメリカの製薬会社の突き上げを喰って、大統領選出馬の野心を抱く副大統領ゴアが、南アフリカに対して頻りに、コンパルソリー・ライセンス法撤廃への圧力をかけているという内容だった。(註2)

 

画像『ネイチャー』(1999年7月)

アフリカで実際にエイズ治療に当たった医師は、その深刻さを肌で感じ取っている。

英国人医師リグビィ氏は「アフリカで働こうと心に決めたとき、アフリカのエイズ問題の深刻さを私は充分承知している、と信じていました。しかし、(アフリカでの医療活動を経験した)今、本当に事態の深刻さが分かっている人がいるとは、私には信じられません。」と『イギリス医学誌』(1995年6月)のなかで告白している。(註3)

1998年8月のケニア米大使館爆破事件で、血塗れの犠牲者の救急治療に当たる医療関係者のニュース映像を見ながら、米国人医師スティーム氏は、背筋の凍る思いをしたと誌している。(註4)

スティーム氏はケニアでの医療活動経験者で、爆破事件の時も、エイズ事業の視察を終えたところだった。ナイロビでの若者成人人口のHIV(ヒト免疫不全ウィルス)感染率は約25パーセントで、手術を伴なう救急治療室でのHIV感染の危険度は極めて高いと言われている。今回の視察で出会った若い米国人外科医は、ボランティアとして田舎の病院で複雑な手術を行なう予定だったが、感染に備えて、二重の手袋をはじめ、ケニアでは入手出来ない緊急時用の抗HIV剤などと、輸血の必要性が出た場合にヨーロッパの病院に空輸してもらえる保険の準備をしていたという。それだけに、手袋もつけずに血塗れの患者の治療に当たるケニア人医師や看護婦たちの映像を見た時の衝撃は大きく、現状では「悲しいことだが、エイズ流行病で爆破以上の死者が出て、その死者の中にはこの事件で危険に晒された医療関係者が間違いなく含まれるだろう」と予測せざるを得なかった。アフリカの厳しい現状を垣間見た者の偽らざる実感だろう。

HIV

私もジンバブエに滞在したあと、よく似た思いに捉われたことがある。

1992年に、私は首都ハラレで、家族と過ごす機会を得た。住宅事情が悪いらしく、ホテル住まいも覚悟していたが、運よく一軒の家を借りることが出来た。家賃は月約十万円で閑静な白人住宅街にあり、約五百坪ほどの広さだった。

ハラレ借家

ゲイリーというアフリカ人青年と大きな番犬が私たち四人を出迎えてくれた。ゲイリーは「ガーデン・ボーイ」(庭番)として家主のスイス人老女に雇われており、庭の片隅の小さな部屋に独りで住んでいた。

ゲイリーとデイン

アフリカで家族と暮らすのが滞在の主な目的だったので、ゲイリーとはすぐに仲良くなった。長い休みに入るころ、家族を呼び寄せて、狭い部屋に五人で暮らし始めた。ゲイリーの子供と私の子供も、奥さん同士もすぐ仲良しになった。同じ敷地内で、二ヵ月半の大半をゲイリーの家族といっしょに過ごすこととなった。

庭で遊ぶ庭で子供たち

ゲイリーの月給は四千円ほどだった。経済格差があるので単純には比較できないが、子供たちに買ったバスケットボール一個が五千円ほどで、ゲイリーの給料よりも高かった。女性の給料は更に低く、一日二百円ほどで「メイド」が雇え、普通は朝八時から夕方の四時までが勤務時間のようだった。日本にいる時に、南アフリカでは洗濯機を買う人がいないと聞いたことがあったが、「メイド」がはるかに経済的な「洗濯機」の機能を果たしていたわけである。

ある日、運転手付きの車を借りて、ハラレから少し離れたゲイリーの田舎の家を訪ねた。何家族かの親戚が集まって暮らしていたが、むこうの丘の麓辺りまでが家の土地だとゲイリーが教えてくれた。ずいぶん広い土地がありながら、かつてはゲイリーの父親が、そして今はゲイリーが、家族と離れて一年の大半を街で過ごす生活を余儀なくされていた。

ゲイリーの家

1505年のヴァスコ・ダ・ガマらによるタンザニア沖合の島キルワでの虐殺を皮切りに、西洋人はアフリカ大陸の侵略を開始した。西アフリカでは奴隷を売買して富を築き、蓄えた資本によって産業革命を起こす。人類は生産手段を手動から機械に変えて、大量の製品を作りだすようになる。製品を売り捌く世界市場が必要となり、市場の争奪戦が繰り広げられた。植民地時代の幕開けである。アフリカはその餌食となった。

侵略の要は、効率よく人のものを掠めとる点にある。まずアフリカ人から土地を奪い、課税をする。貨幣経済に巻き込まれたアフリカ人は僅かな現金を求めて村を離れ、都会に出て行くしかない。あり余る低賃金労働者の出来上がりである。季節労働者と呼ばれる人たちで、通常は14ヵ月くらいの短期契約である。パートタイム契約は馘切りも簡単で、賃上げの心配も少なく、経営者側には効率のいい雇用形態である。鉱山や農場脇のコンパウンドと呼ばれるたこ部屋で、一年の大半を家族と離れて過ごす。あるいは、白人家庭で「ボーイ」や「メイド」と呼ばれながら、家内労働者として扱き使われる。

ゲイリーもその一人だった。庭木の水遣り、番犬の世話、老女のための買物や使い走りがゲイリーの仕事の内容だった。一月四千円余りの賃金で大の男が一日の大半を拘束されて過ごす。名こそ奴隷ではなかったが、扱き使われている事実に変わりはなかった。帰国当日の朝にスイスから戻った老婆の電話を受けたゲイリーの狼狽振りは、見ていても気の毒なくらいだった。家に入る時は靴を脱ぐように命じられていた「ボーイ」が、私たちの友人として、こともあろうに「靴を履いたまま」居間で寛いでいたからである。(註5)

庭でゲイリーと

アフリカに行く前、私はアフリカの状況を一応は知っているつもりでいたが、アフリカの現実は圧倒的すぎた。帰国して目にする「日本」との格差がありすぎて、しばらくは心の整理がつかなかった。

それだけに、アフリカのエイズ事情の深刻さが、身に沁みる。

歴史の皮肉

『HIV感染症』の著者秋山武久氏は、梅毒とエイズの二大性病をハイチ人が媒介したという説を支持している。(註6)

コロンブスがハイチ島から持ち帰った風土病がのちに梅毒として世界に広がった、ザイールに滞在していたハイチ人が持ち帰ったHIVがハイチ島内での流行を経てアメリカへ伝播されたという説である。いずれの場合も、それほど激しくなかった風土病が、感染経験のない地域に伝播して、突如猛威をふるいだしたというものである。

かつて「奴隷調教」の場に利用された(註7)カリブの島「ハイチ」から運ばれた風土病にヨーロッパ人侵略者たちは苦しめられた。今また、アフリカからカリブの島を経て侵入した病原体に侵略者の子孫たちは悩まされている。歴史の皮肉である。

今回の場合、アフリカ内陸部に住む人たちの間で蔓延していた風土病が、売春婦を介して都市部へ伝播してHIV感染症に変貌し、その病気が圧政を逃れて帰国したハイチ人によってハイチ島に運ばれ、島内流行の後、アメリカに渡ったと考えられている。風土病の山村から都市部への伝播とハイチ人の移動は、レオポルド二世→ベルギー→モブツと続く容赦のない圧政によってもたらされた人々の貧困と深く係わっている。ことに、モブツ独裁政権を長年に渡って公然と支援し続けたのがアメリカであってみれば、エイズは侵略者への見事なしっぺ返しである。

レオポルド二世

しかし、最大の犠牲者はアフリカ人である。奴隷貿易、植民地支配を経て、今も続く新植民地支配に喘ぎながら、HIV感染症の追い打ちを受け、今やまさに大陸存亡の危機に瀕しているのだから。

HIVの特徴、アフリカの特異性

HIVの特徴は、病原ウィルスが主に、免疫を司るリンパ球ヘルパーT細胞を標的にして増殖し、感染者の免疫力を低下させることである。しかも、現在のところ、一度感染すると、ほぼ全員が感染死する不治の病である。

1981年に最初のエイズ患者が発見されてから数年後には、ウィルスの構造や伝播形式も明らかにされている。したがって、感染の予防方法も確立されているわけだが、感染者は増加し続けている。この流行病が、主に異性間性交によって伝播される性感染症であるためである。

数年前に人々を震撼させたザイールのエボラ出血熱やインドの肺ペストなどの感染症は、致死率は高いが潜伏期間も短かく、そのうえ地域封鎖などの厳戒体制が敷かれるため、患者が回復するか、死亡するかすれば一応の終息をみる。

南アフリカの週間紙のエボラ出血熱の特集記事

それに比べて、このHIV感染症は、極めて質(たち)が悪い。感染しても無症状の期間が長く、その間、無意識に、ある場合は意識的に、二次感染が起こるからである。ウィルスの恐ろしさを知らなければ、当事者に意識されることもなく、性交渉を通じて病気は蔓延していく。

アフリカ大陸、特に南部はHIVの温床である。ヨーロッパ人が大量の低賃金労働者を作り出して、鉱山や農場近くのコンパウンドに住まわせていると書いたが、実は、そのコンパウンドに売春婦が通う。鉱山労働者が汗水流して稼いだ僅かな賃金のおこぼれにあずかるためである。「(ジンバブエの)ムランビンダ村の四千人強の人口の約10パーセントが売春婦で、鉱山労働者とほぼ同数である。その約半数の売春婦がHIVに感染していると警察は信じている」と報告記事が伝えている。(註8)

ムレワのゲイリー家族

売春婦を介して感染したアフリカ人男性は、契約が切れて村に帰り、その配偶者に感染させる。多重婚のところも多く、男性は通常、複数の性交渉の相手を持つ。しかも、統計によれば、男性から女性に感染させる率の方がはるかに高い。

そういった様々な事情が折り重なって、冒頭に引用した「たいていの女性にとって、HIV感染の主な危険要因は、結婚していることである」という悲劇が起こる。そして、男性の働き手を都会に吸い上げられている農村部では、不可欠な労働力として、あるいは残された子供や老人の世話をする担い手として農村経済を支えている女性たちが、次々とエイズにやられ、たくさんの子供たちを残して死んで行く。経済面でもその基盤そのものが、まさに崩壊しようとしているのである。

どの民族であれ、結婚していることが不治の病に感染する危険要素ならば、どうやって子孫を増やしていけばよいのか。娘たちに死なれ、残された年寄りたちはただただ途方に暮れる。

どうして子供らはみんな、死んでゆくんだろう?どうして若い者たちは、わたしら年寄りに孤児(みなしご)を残して、逝ってしまうんだろう?

そんな老婆の哀しみを伝える冒頭の記事(註9)は、1995年7月のものである。もう四年以上が経過した。

エイズ会議

1994年8月に横浜で開かれた第10回国際エイズ会議は、記憶に新しい。日本での開催とあって、アジア諸国のエイズ事情が詳しく紹介されたり、母子感染の際の逆転写酵素阻害剤AZTの効果や感染者の長期生存の症例報告があったりなど、会議の成果が日本でも連日報道された。(註10)

1996年のヴァンクーバー会議では、従来の逆転写酵素阻害剤と、新たに開発された蛋白分解酵素阻害剤を併用する多剤療法の効果が報告されて、エイズが、ウィルスとの共生も可能な病気になるかもしれないと、誰もが希望をもった。その年をエイズ治療元年と呼ぶ記事も少なからずあった。(註11)そして、ワクチン開発への希望も膨らんだ。

しかし、1998年のウィーン会議は「視界に治療法も見えぬまま、悲観的に閉幕」した。(註12)多剤療法で副作用が出たという症例報告や、ワクチンの開発がむしろ後退している現状報告に、会場は重い空気に包まれた。そして、病気への最大の戦略は、やはり予防しかない、と再確認せざるを得なかった。

次回2000年のエイズ国際会議開催国南アフリカ、ダーバンの医師は「ダーバンの大きな黒人用の病院で治療にあたる子供たちの40パーセントがエイズ患者です」と言う。国際会議で議長を努める予定のその医師は「私は今まで抗エイズ治療薬を使ったことはありません。病院には治療薬を使う経済的な余裕はありませんから」と付け加えた。参加者はアフリカの厳しい現状を突き付けられて、ますます気を重くした。

しかし、そんな深刻な状況を、アフリカ諸国も、自称「先進国」も、深刻に受け止めているとは思えない。

本年9月のザンビアでのエイズ会議にアフリカの首脳は参加しなかった。世界で最も事態が深刻だとされる南部アフリカ六ヶ国は、大統領はおろか、一線級の官吏さえも送らなかった。主催国ザンビアの大統領も、会議に出なかった。エイズ患者、医療関係者、研究者など数千人が集まって、何とか対抗策を見いだせないものかと真剣に討議をしたにもかかわらずである。(註13)

「死にゆく大陸」

今のアフリカに、エイズよりも緊急の課題があるはずがない。

今夏、「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」という記事が出た。アメリカのゴア副大統領と通商代表部が、南アフリカ政府が1997年に成立させた「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めているが、その圧力が不当な干渉であるという主張である。(註14)

感染者がエイズ治療薬の恩恵を受けやすいように、同薬の安価な供給をはかるために提案された同法のもとでは、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価なエイズ治療薬を生産する免許が厚生大臣から与えられる。また、その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれる。

抗HIV製剤

ゴア副大統領や国際的製薬会社は、開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定に違反していると主張する。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めている。今回の場合、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたるかどうかである。

南アフリカの法律を認めれば、南アフリカにならおうとする国が増えるのは間違いない。そうなれば、製薬会社は治療薬の開発に注ぎ込んだ莫大な費用が回収できないし、利潤も減るわけであり、利潤を追求する企業としては、その法律に反対するのも道理だろう。国会議員や副大統領に法律撤廃にむけての圧力をかけるよう要請するのも、通常なら、無理からぬことだろう。

しかし、今春南アフリカで行われた調査の結果、生殖年齢にある成人の22パーセントがHIVに感染していると推定され、2010年までに、エイズのために国民の平均寿命が四十歳以下になる見込みであることが明らかにされたのであるから、今の南アフリカの事態が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたらないとは言えないだろう。アメリカは、そういった事態を承知のうえで、圧力をかけているのである。

すでに述べた老婆の嘆きを伝える1995年のジンバブエの記事の最後に、今日の南アフリカを予想してこう記してある。

医療関係者はエイズは20年前に、ザイールやウガンダのような中央アフリカから輸送経路を通って、ケニア、ルワンダ、タンザニア、マラウィ、ジンバブエに南下し始めたとみている。優れた道路が整備され、季節労働者の歴史と男性が性交渉の相手を複数持つ文化があるために、ジンバブエは特にエイズに侵されやすい。次の標的は、南アフリカで、そこでは毎日550人の人々が感染していると推計する人もいる。(註15)

アパルトヘイトは廃止されたものの、アフリカ人の安価な賃金労働者、特に短期契約の季節労働者を基盤にする基本構造を変えられないまま政権を担当せざるを得なかったANC(アフリカ民族会議)内閣は、そのような重大な事態を察知して、1997年にコンパルソリー・ライセンス法を成立させた。つまり、このコンパルソリー・ライセンス法は、エイズ危機に対する緊急措置であって、特許料をめぐって国内業者に便宜をはかることを目的としたわけではない。

南アフリカに限らず、アフリカ諸国は奴隷貿易以来、イギリスを筆頭とする西洋諸国に富を絞り取られてきた。そして、富の搾取は今も続いている。搾取する側と搾取される側の富の格差は広がるばかりである。第二次世界大戦後は、戦略を変え、開発援助なる名目で、アメリカ主導の搾取構造を維持している。国際通貨基金(IMF)、世界銀行(IBRD、通常はWORLD BANK)などの機関を通じて金を貸して利子を絞り取っているわけである。(註16)もちろん、日本も搾取側にいて、1998年度のODA予算は百億円にのぼっている。(註17)

借金が嵩んで、個人ならとっくに破産している重債務貧困国が、36ヶ国もある。(註18)このままだと元も子もなくなってしまうと、主要国首脳がドイツ・ケルンに集まって知恵を出しあい、貧困国が保有する負債全体の三分の一を削減することにした。総額七百億ドル(約八兆四千億円)である。

主要七ヶ国(G7)のODAの中で、借款の占める割合が最も大きい日本は、借金の帳消しを渋っている。円借款の予算の約半分が郵便貯金や公的年金などを財源とする財政投融資からの借入金だからという財政上の事情をその理由にあげている。しかし、「アフリカ諸国の債務帳消しに必要とされるのは、日本の場合、単純に計算して約七千億円にすぎない。日本長期信用銀行に投入された公的資金とそう違わない金額で」ある。(註19)

債務の帳消しを渋っているのは日本だけではない。ケニアなどは新たに借金が出来なくなるのを恐れて債務帳消しを渋っている。大統領モイはアメリカやイギリスや日本と組んで、新植民地政策の片棒を担いできた。巨額な援助金を我が物にして約20年にわたる長期政権を維持してきた。何度か本紙にも登場した作家のグギさんも、我が友人のムアンギさんも祖国に帰れないでいる。次の「ケニア人のエコノミスト」の厳しい批判は民衆の本音だろう。

(債務帳消しの)救済を求めないことで救われるのはだれか。ずるずる援助を受けて延命する政府と、借金棒引きがなくてすむ先進国じゃないか。結局、何の特権もない庶民が貧乏くじを引き続けるのだけは変わらない。(註20)

借金に喘ぎ、エイズに攻められる。先進国が搾取の手を緩める気配もなく、先進国の番犬を任じるアフリカ諸国の首脳は、自らの野望を諦めようとはしない。このまま放っておけば、アフリカはまさに「死にゆく大陸」である。(註21)副題の「次の20年でエイズウィルスによって三千万人のアフリカ人が死ぬ。製薬会社はその事態を更に悪くしようとするのか?」は、アフリカの危機を言い得ている。

搾取する側もされる側も、今や我欲を張っている時期ではない。搾取するにも、エイズでたくさんの人が死に、大陸そのものの存亡が取り沙汰されているのである。

今まで富を絞り取ってきた国々は、アフリカがエイズの猛威に立ち向かえるように支援することで、今こそ富を返すべき時である。エイズ患者には抗エイズ剤の安価な供給をはかること、そして、予防対策に対しての援助を惜しまないこと、それしかないだろう。幸いウガンダの例がある。八十九年に最初のエイズ撲滅運動を始めたウガンダは、感染率が人口の約10パーセントの猛威にさらされている国だが、運動の成果があって最近では感染率が目に見えて低下しているという。(註22)その成果は、本年10月14日に死亡した元タンザニアの大統領ジュリアス・ニエレレもイギリスの歴史家バズゥル・デヴィドソンも高く評価した現政権があっての故だろう。大陸存亡の危機に際して、ウガンダの例を励みに、「先進国」も「発展途上国」も、出来るところからやっていくしかない。

ニエレレ

<註>

註1 カール・マイア「エイズ流行病、南部アフリカの人々をじわじわと絞め殺す」提携紙「デイリー・ヨミウリ」(1995年7月30日)に収載の「インディペンダント」の記事。

註2 『ネイチャー』、1999年7月1日9号、1頁。

註3 註1と同じ記事。

註4 リチャード・スティーム「アメリカのワクチンがアフリカのエイズ恐怖を和らげるだろう」、「デイリー・ヨミウリ」(1998年8月29日)。「ボルチモア・サン」へ特別寄稿した記事。

註5 英文書アフリカ・ツゥデイ・シリース第二巻『アフリカ、その末裔たち 植民地時代』(門土社、1998年)の中に、この時の滞在記を紹介した。

『アフリカ、その末裔たち 2』

註6 秋山武久著『HIV感染症』(南山堂、1997年)、1~31頁。

註7 マルコム・リトルは、暗殺される直前の講演でも、奴隷貿易で果たしたカリブの島々の働きを強調している。講演は『マルコム、アフリカ系アメリカ人の歴史を語る』(パスファインダー社、1970年)に収録されている。

『マルコム、アフリカ系アメリカ人の歴史を語る』

註8 註1に同じ。

註9 註1に同じ。

註10 わだえりこ「エイズ会議終わる、しかし課題は山積されたまま」、「デイリー・ヨミウリ」(1994年8月12日)。

註11 鍛冶信太郎「新薬承認で迎える『エイズ治療元年』」、「朝日新聞」(1997年3月20日)など。

註12 ローレンス・アルトマン「世界エイズ会議、治療法も視界に見えぬまま、悲観的に閉幕する」、「インターナショナル・ヘラルド・トゥリビューン」(1998年7月6日)。

註13 「アフリカ、会議に首脳が不参加のまま、エイズの解決策を探る」、「デイリー・ヨミウリ」(1999年9月15日)。

註14 池内了「エイズが問う『政治の良心』 南ア特許法に米が反発」、「朝日新聞」(1999年8月6日)。

註15 註1に同じ。

註16 前掲書『アフリカ、その末裔たち 植民地時代』の一章(6~32頁)で新植民地戦略を詳しく紹介した。クワメ・エンクルマ著『新植民地主義 帝国主義の最終段階』(パナフ社、1965年)とバズゥル・デヴィドスン著『アフリカは生き残れるか?』(リトル・ブラウン社、1974年)は示唆的である。

註17 「日本のODA、九十八年度、十億円に達する」、「デイリー・ヨミウリ」(1998年8月28日)。

註18 「苦しい中で対応様々 重債務貧困国の実情と救済」、「朝日新聞」(1999年7月28日)。

註19 小野行雄「アフリカの債務帳消しに理解を」、「朝日新聞」(1998年12月28日)。

註20 註18に同じ。

註21 アレックス・スミス「アフリカ:放っておけば死にゆく大陸」、提携紙「デイリー・ヨミウリ」(1999年9月12日)に収載の「インディペンダント」の記事。

註22 アン・ダガン「アフリカがエイズの猛威と立ち向かえるえるように支援することは」、「デイリー・ヨミウリ」(1999年10月15日)。

<推薦図書>

山本直樹・山本美智子著『エイズの基礎知識』(岩波新書、1998年)。

国立大学保健管理施設協議会特別委員会編『エイズ 教職員のためのガイドブック’98』(国立大学保健管理施設協議会特別委員会、1998年)。

秋山武久著『HIV感染症』(南山堂、1997年)

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」22号(復刊1号)2-14ペイジ

「ごんどわな」22号

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アフリカとエイズ