2000~09年の執筆物

概要

(作業中)

本文(写真作業中)

エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師 玉田吉行

ケープタウンで

南アフリカを拠点にエイズから人類を救う医療活動を行なう人が現われました。アーネスト・ダルコー医師です。蔓延するエイズ患者と高いHIVの感染率を考えれば、国そのものの存続を危ぶむ声さえ出ていましたが、医療と経営を結びつけてボツワナでエイズ患者の治療に成功しました。今はケープタウンにエイズ対策を専門に行なうブロードリーチ・ヘルスケア社を設立して南アフリカのエイズと闘っています。

アパルトヘイト体制がなくなりアフリカ人政権が誕生しても、大多数のアフリカ人の生活は変わらず、従来の貧困問題に加えて犯罪率の高さが国の荒廃に拍車をかけ、エイズが更に追い打ちをかけています。NHKスペシャル「アフリカ二十一世紀」(二〇〇二年二月二十日放映)は、南アフリカの現状を次のように報告しています。

「この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は五百万人、六人に一人、ここソウェトでは三人に一人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。」

番組では、月に一度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されていますが、その女性が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけでした。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は一人当たり約百万円の費用がかかります。その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉してコピー薬を十分の一の価格で輸入出来るようにはなりましたが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者が余りにも多過ぎて薬代を政府が賄えなかったからです。「感染者すべてに薬を配るとすれば、年間六千億円が必要で、国家予算の三分の一を当てなければならなりません」、と報告しています。

南アフリカ政府は、激増するエイズ患者に対処するために、九十七年に「コンパルソリー・ライセンス」法を成立させました。欧米で劇的な成果をあげていた多剤療法のための抗HIV薬を安価で手に入れるためでした。しかし、欧米の製薬会社の反対にあって計画は頓挫します。その辺りの事情を帚木蓬生は小説『アフリカの瞳』(「講談社、二〇〇四年」)の中で次のように書いています。

「こうした動きとは別に、フランスの〈ル・モンド〉が日曜版の特集で、製薬会社がエイズ治療薬の知的所有権をいかに主張してきたかを詳細に報道した。ひと月前のことだ。製薬会社はこの十数年、ひとつのエイズ治療薬の開発費が最低でも三億ドルから十億ドルにのぼるのを理由に、知的所有権を譲れないと強調し続けてきた。貧しい開発途上国が、価格の大幅値引きとコピー薬の製造あるいは輸入の許可を世界貿易機関に訴えても、毎回否決され続けた。今ではエイズ治療には多剤併用が中心なので、ひとりの患者が一年間に使う薬剤費は平均して五千ドルから一万ドルだ。それは開発途上国の一人あたりの年収の十倍から二十倍に相当する。つまり現在の薬価を十分の一に下げたところで、貧しい国の患者には手の届く額ではない。それなのに、世界貿易機関は去年の八月、いかにも大英断のような顔をして、コピー薬の製造認可と、正規薬の薬価の十分の一での輸入を認めた。しかしこれは全くの御為ごかしであり、貧しい国の患者の救済にはほど遠い。〈ル・モンド〉の記事内容を翻訳紹介した英字新聞を読んだとき、作田はこれまでの自分の主張がそのままそっくり認められたような気がした。ところが記事は、さらに二歩も三歩も踏み込んだ論調を繰り広げていたのだ。記者たちは、エイズ治療薬によって得た各社のこれまでの利益を細かく計算して、具体的な数字を出していた。それによれば、十数年前に発売されたエイズ治療薬による収益は既に開発費の七、八倍に達し、開発途上国での価格を現在の千分の一に下げても、充分採算がとれていた・・・・」

永年の苦しい獄中生活や解放闘争を経験した新政府のアフリカ人が国民の生活水準の向上を願わないとは考えられませんが、経済基盤を持たない政権に、実質的な改革を求める方が無理なのでしょう。番組の中で、グレンダ・グレイ医師は政府の無策を次のように嘆いています。

「アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。アフリカ人の病気だからと切り捨てたからです。新しい政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です」。

南アフリカに

ダルコーさんはその南アフリカに行ってエイズと闘っているのです。ダルコーさんは、永年のアパルトヘイト体制の影が色濃く残っている南アフリカで医師や病院に頼らずにエイズ治療が出来るシステムを開発しました。白人の利用する民間病院に医師が集中し、アフリカ人が利用する公立病院に医師が極端に少ない現状の中でシステムを機能させる必要性に迫られたからです。そのシステムでは、感染者の多い地域で雇い入れられた現地スタッフが、定められたマニュアルに従ってエイズ患者の簡単な診察を行ない、その診断結果がファックスで出先事務所に送られます。出先事務所では、その情報をパソコンに入力してデータベース化され、必要に応じてケープタウンのセンターの医師に相談します。センターでは、医師が情報を総合的に判断し、現地スタッフが患者に薬を届けるのです。医師が現場にいなくても治療が出来、一人の医師がたくさんの患者を治療するという、南アフリカの現状に即した体制です。

そのダルコーさんに、かつて「国境なき医師団」で活動した医師貫戸朋子さんがインタビューを試みました。「私たちはエイズとの闘いに勝てますか?」という貫戸さんの質問にダルコーさんは次のように答えました(BS特集「アーネスト・ダルコー~地球をエイズから救う~」NHK衛星第一、二〇〇六年八月十三日放送)。

「もちろんです。私は不可能なことはないと自分に言いきかせています。四千万人の感染者を救うのは無理だと言う人もいます。でも、然るべき時に然るべき場所で指導力を発揮すれば、実現できます。そもそも私たちは、何故失敗するのでしょうか。それは、私たち自身の中に偏見が潜んでいるからです。その偏見に打ち克つことが出来れば、エイズは克服できるのです。恐れることなく、国民に正しいメッセージを伝えれば、必ず前進できます。一人一人が精一杯呼びかけるのです。明日は、明日こそはエイズを食い止めることが出来るのだ、と。」

貫戸さんは、困難に立ち向かっている人たちのために再び現場に立つ意欲をかき立てられたと言います。ダルコーさんは、欧米の製薬会社が目を向けなかったエイズ患者を救い、帚木蓬生が『アフリカの瞳』の中で託したメッセージ「私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。」を実践しているわけです。

ボツワナで

三十六歳のダルコーさんは、アメリカに生まれ、タンザニアとケニアで過ごしました。ハーバード大学で医学の資格を、オクスフォード大学で経営学の修士号を得た後、ニューヨーク市の経営コンサルタント会社マッキンゼー社に就職して、二〇〇一年にエイズ対策事業のためにボツワナに派遣されました。

派遣された当時、三人に一人がHIVに感染していたと言います。最初の一年間は、「夜明け」という意味の国家プロジェクトMASAの責任者として「一日最低二十二時間」は働いたそうです。感染者数を知るためにモハエ大統領にテレビでエイズ検査を受けるように呼びかけてもらう一方で、医療体制を把握するために国じゅうを隈無く調査しています。その結果、絶対的な医師不足を痛感しました。周辺国に呼びかけ破格の給料を出して数年契約で医師を雇い入れると同時に、国内でも医師を育成し、現場に二千二百人の医師を配置しました。

最大の問題は薬でしたが、米国の製薬会社と交渉し、患者の資料を提供する代わりにほぼ無料で薬を確保し、半数以上の患者の治療を可能にしました。

政府の資金を補うために「エイズ撲滅のためのプロジェクト」を展開するマイクロソフト社のビル・ゲイツと掛け合い、一兆円を引き出しています。その薬と豊富な資金を基に、ネットワークシステムを構築します。プロジェクト本部の下に四つの支部を置き、それぞれの支部にコーディネーターを配置、コーディネーターはその下にある多くの拠点病院と連携し、現場の状況に応じて薬を届けるというシステムです。ダルコーさんは学んだ経営学の知識を生かし、ウォルマートの最先端の納品システムを参考にしたと言います。二〇〇〇年に三六歳までに落ち込んでいた平均寿命は上昇に転じ、二〇二五年には五十四歳に回復する可能性も出てきたと言われています。現在、アフリカ十二カ国がダルコーさんのエイズ対策モデルを取り入れています。

アフリカに限らず世の中の仕組みや人の営みについて考えれば考えるほど絶望しか見えて来ないように思えてなりませんが、絶望の淵にあっても、ダルコーさんのように、まだ出来ることはあると信じたいと思います。先ずは自分を大切にし、身近な回りを大切にして行けば、相手のことも敬えるでしょう。後の世に一縷の希望を託したいと思います。

後世は畏るべし、なのですから。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」6号に収載予定で送った原稿です)

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2000~09年の執筆物

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(作業中)

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コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり  玉田吉行

ヨーロッパ人がアフリカを侵略し始めて以来、中央アフリカの大国コンゴは絶えず搾取され続けてきました。今回は、独立をめぐる話を書きたいと思います。先ずは、独立までの経緯を簡単に辿っておきましょう。

あまり知られていませんが、一八八五~六年のベルリン会議で、コンゴはベルギーのレオポルド二世個人の植民地として承認されています。その支配は二十三年間に及び、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されています。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約百二十億円とも言われます。

「コンゴ自由国」は一九〇八年にベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれます。支配体制を支えたのは、一八八八年に国王が傭兵で結成した植民地軍です。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、一九〇〇年には、一万九千人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。まさに力による植民地支配だったのです。

第一次大戦では、アフリカ人は兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」という惨状でした。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現されます。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの八十%以上がコンゴの鉱山から持ち出された」と言われています。

コンゴが貪り食われたのは、豊かな大地と鉱物資源に恵まれていたからです。ベルギーの八十倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあります。植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていきました。「一九五三年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの七十派セントを産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」になっていました。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となりました。

独立

二度に渡る世界大戦でヨーロッパ社会の総体的な力が低下したとき、それまで抑圧され続けていた人たちが自由を求めて闘い始めます。その先頭に立ったのは、ヨーロッパやアメリカで教育を受けた若い知識階層で、国民の圧倒的な支持を受けました。

ベルギー政府は、コンゴをやがてはアフリカ人主導の連邦国家に移行させて本国に統合する構想を描き、種々の特権を与えて少数のアフリカ人中産階級を育てていました。五十六年当時の総人口千二百万人のうちの僅かに十万人から十五万人程度でしたが、西洋の教育を受け、フランス語の出来る人たちで、主に大企業や官庁の下級職員や中小企業家、職人などで構成されていました。独立闘争の先頭に立ったのは、この人たちです。

インドの独立やエジプトのスエズ運河封鎖などに触発されて独立への機運が高まりアフリカ大陸に「変革の嵐」が吹き荒れていましたが、コンゴで独立への風が吹き始めたのは、ようやく五十八年頃からです。

五十八年当時、アバコ党、コンゴ国民運動 、コナカ党などの政党が活動していました。中でも、アバコ党が最も力を持ち、カサヴブとボリカンゴが党の人気を二分し、党中央委員会の政策がコンゴ全体の政治の流れを決めていました。カサヴブは即時独立を求めましたが、民族色の濃い連邦国家を心に描いていました。

五十八年十月創設のコンゴ国民運動は、従来の民族中心主義を排し、国と大陸の統合を目指して活動を始めました。誠実で雄弁な指導者パトリス・ルムンバ が、若者を中心に国民的な支持を得て、第三の勢力に浮上しました。ルムンバに影響されたカサイ州バルバ人の指導者カロンジが第四勢力の地位を得ましたが、五十九年六月にルムンバに反発して分裂し、ベルギー人(教会、大企業、政庁)の支持を受けてコンゴ国民運動の勢力を二分しました。イレオなど多数がカロンジと行動を共にします。

カタンガ州では、チョンベがベルギー人財界や入植者の支援を受けてコナカ党を率いていました。

ベルギー政府に独立承認の意図は未だありませんでしたが、五十八年十一月辺りから事態は急変します。西アフリカ及び中央アフリカの仏領諸国が次々と共和国宣言をしたこと、十二月にガーナの首都アクラで開かれた第一回パンアフリカニスト会議に出席したルムンバが帰国したことに刺激を受けて、独立への機運が急激に高まったからです。

翌年一月四日、レオポルドヴィルで騒乱が起き、五十人以上の死者を出しました。事態を無視出来なくなったベルギー政府は独立承認の方法を模索し始め、六〇年一月二十日から二十七日にかけてコンゴ代表四十四名をブルッセルに集めて円卓会議を開催して、急遽、同年六月三十日の独立承認を決めました。

宣戦布告

五月に行なわれた選挙でコンゴ国民運動は百三十七議席中の七十四議席を得てルムンバが首相にはなったものの、絶対多数には届かず、カザヴブの大統領職と、大幅な分権を認める中央集権制を容認せざるを得ませんでした。ルムンバには民族的、経済的基盤もなく、分裂要素を抱えたまま、大衆の支持だけが支えの船出となりました。

六月三十日の独立の式典で、ルムンバはコンゴの大衆と来賓に、次のように宣言します。

「・・・涙と炎と血の混じったこの闘いを、私たちは本当に誇りに思っています。その闘いが、力づくで押し付けられた屈辱的な奴隷制を終わらせるための気高い、公正な闘いだったからです。

八十年来の植民地支配下での私たちの運命はまさにそうでした。私たちの傷はまだ生々しく、痛ましくて忘れようにも忘れることなど出来ません。十分に食べることも出来ず、着るものも住まいも不充分、子供も思うように育てられないような賃金しか貰えないのに、要求されるままに苦しい仕事をやってきたからです・・・・

しかし、選ばれた代表が我が愛する祖国を治めるようにとあなた方に投票してもらった私たちは、身も心も白人の抑圧に苦しめられてきた私たちは、こうしたすべてが今すっかり終わったのですと言うことが出来ます。

コンゴ共和国が宣言され、今や私たちの土地は子供たちの手の中にあります・・・・

共に、社会正義を確立し、誰もが働く仕事に応じた報酬が得られるようにしましょう。

自由に働ければ、アフリカ人に何が出来るかを世界に示し、コンゴが全アフリカの活動の中心になるように努力しましょう・・・・

過去のすべての法律を見直し、公正で気高い新法に作り変えましょう。

自由な考えを抑え込むのは一切辞めて、すべての市民が人権宣言に謳われた基本的な自由を満喫出来るように尽力しましょう。

あらゆる種類の差別をすべてうまく抑えて、その人の人間的尊厳と働きと祖国への献身に応じて決められる本当の居場所を、すべての人に提供しましょう・・・・

最後になりますが、国民の皆さんや、皆さんの中で暮らしておられる外国人の方々の命と財産を無条件で大切にしましょう。

もし外国人の行ないがひどければ、法律に従って私たちの領土から出て行ってもらいます。もし、行ないがよければ、当然、安心して留まってもらえます。その人たちも、コンゴのために働いているからです・・・・

豊かな国民経済を創り出し、結果的に経済的な独立が果たせるように、毅然として働き始めましょうと、国民の皆さんに、強く申し上げたいと思います・・・・」

このルムンバの国民への呼びかけは、同時にベルギーへの宣戦布告でもありました。

しかし、ベルギーはルムンバに容赦せず、ベルギー人管理八千人を総引き上げしました。ルムンバが組閣しても行政の経験者はほとんどなく、三十六閣僚のうち大学卒業者は三人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいます。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったと言えるでしょう。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえる筈もありません。名前が変わっても、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされたのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」です。

こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」5号に収載予定で送った原稿です)

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「コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり」 (313KB)

2000~09年の執筆物

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は、借りた家の家主に雇われていたゲイリーの家族の話です。(写真作業中)

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 四  ゲイリーの家族  玉田吉行

家族

ハラレに暮らし始めてから一ヶ月ほど経ったある日、ゲイリーの家族がやって来ました。普段は侘びしい一人暮らしのゲイリーと一緒に冬休みを過ごすためです。奥さんはフローレンス、長男はウォルター、長女がメリティ、次女がメイビィです。すべて英語の名前、どうしてショナ語ではないんだろう、メイビィは「多分」という意味なのか。考えれば、おかしな名前です。名前としては初耳です。

フローレンスは鼻筋が通っていて、涼しげな顔つきです。フローレンスも子供たちもどことなく緊張した面持ちです。私の長女と長男は、同じ敷地内に住むのだから毎日一緒に遊べるぞと、早くもわくわくしています。ゲイリーの子供たちはショナ語しか話せませんし、二人の方も日本語しか話せません。遊ぶのはいいとして、どんな言葉を使って遊ぶのでしょうか。

歓迎の意味も込めて、一緒に写真を撮ろうと子供たちが言い出しました。早速カメラの用意です。ゲイリーたちはと見ると、部屋に帰りかけています。どうするのと聞いたら、写真を撮るのですから一帳羅に着替えて来ますということでした。

庭で二家族の写真を撮りました。お決まりのチーズなどと言ってみても顔はどことなく硬張ったままです。撮り終わったよと言ってからカメラを固定し、よそ見をしながら連続でシャッターを切ってみましたが、それでも笑顔はあまり見られませんでした。初対面だから仕方がないのかなとも思いましたが、フィルムがなくなってカメラ屋に行き、二十四枚撮りのフィルム一本が三十八ドルで、その焼増し料が百ドル近くもすると知った時、気軽に笑えなかった理由がわかったような気がしました。写真を撮るのも、一大事なのです。今のこの国の状況では、自分でフィルムを買ってカメラを自由に使える人はそう多くはいないでしょう。

子供たちが一緒に遊べるボールを探しに行きました。大学のコートで使う予定のバスケットボールは既に持っていましたので、新たにバレーボールを買ってきました。ゲイリーには何となく気がひけて言えませんでしたが、バレーボールは百六十九ドル九十九セント、ゲイリーの給料とほぼ同額です。ゴムのバスケットボールの方は百八十九ドル九十九セントでゲイリーの月給を優に超えていました。総じて、生活必需品ではないこういった品物の値段は高いようです。何日かのちにスーパーで質の悪いサッカーボールを買いましたが、それでも五十ドルくらいでした。硬式用のテニスボールを一個下さいといって、店員の白人青年ににゃっと笑われてしまいましたが、一個三十五ドルでした。どのボールも充分に元が取れるほど、子供たちには役に立っていました。なかでもサッカーボールは、ウォルターと長男をむきにさせてしまうだけの魔力を秘めていたようです。ボールをはさんだとき、子供たちに言葉は要らないようでした。大人の心配をよそに、連日楽しそうにボールを追いかけていました。

冬休み・夏休み

子供たちにとって、広い庭先をかけ回る毎日は本当に楽しかったようです。北半球から来た二人にとっては最高の夏休み、南半球にいるウォルター、メリティ、メイビィにとっては忘れられない冬休みとなりました。日曜日以外は英語やアート教室がありましたので、午前中こそ遊べませんでしたが、午後からは庭に出て五人入り乱れて遊んでいました。投げたり、蹴ったりのボール遊びが多かったようでが、鬼ごっこや木登りなどもやっていました。相撲好きの長男は、日本の国技のアフリカでの伝授に成功したようで、長男とメリティが取り組み合っている横で、末っ子のメイビィが大きな声でノコッタ、ノコッタと囃子たてていました。

ウォルターはゲイリーに似て穏やかな性格で、笑顔の素敵な少年です。精悍な体つきで身のこなしが素早く、サッカーボールを追いかける姿が堂に入っていました。

メリティは、はにかみ屋さんです。表面には感情をそう表わしませんが感受性が強く、いつも人の陰にそっとかくれているような少女です。お互いに感ずるところがあるのか、長女と一番近かったように思います。メイビィは茶目っ気たっぷりでした。陽気でいつも周りを明るい気持ちにさせてくれます。愛敬もたっぷりで「メイービィッ」という掛け声とともに始まるオリジナルの踊りは、腰が入った本格派です。みんなが手拍子を取ると、歌いながら得意そうに何度も何度もその踊りを披露してくれました。写真を撮るときは、必ずカメラを意識してポーズを取ります。いくらみんなが笑わせようとしても、最後までそのポーズを崩しませんでした。表情はいつも真剣そのものだったのです。

ゲイリーもそうでしたが、初めから家族も控えめで、最後まで変わりませんでした。何かをせがまれた記憶はありません。ゲイリーの子供たちの方も、自分たちの方から言い出せない場合が多く、いつも二人が庭に出てくるのをじっと待っていたようでした。

私たちがいなくても、好きなように庭の広い所で遊んで下さいとゲイリーには言ってありましたが、三人は部屋の中に居るか、部屋のすぐ前の小さな空き地で遊ぶか、南西に広がっている数メートルのマルベリーの木に腰を掛けているかでした。最初は気づきませんでしたが、部屋の近くを離れない大きな原因はデインでした。ゲイリーの子供たちを見ると、デインはいつも大きな声で吠えるのです。陽気なメイビイも、自分よりもはるかに大きな犬に吠えられて青ざめていました。ウォルターなどは、脱兎の如く部屋に逃げ込みました。

よく観察していますと、デインは白人には吠えませんが、アフリカ人を見ると必ず吠えるのです。滞在した期間中に、ゲイリーの親戚や知人などたくさんのアフリカ人が家に来ましたが、ボーイとして働くゲイリーと元メイドのグレイス以外は、誰に対しても必ず吠えていました。ですから、ゲイリーか私たちが出ていかない限り、恐がって門から入って来る人はいませんでした。訪ねて来てくれたジンバブエ大学の学生の一人は、追いかけられて気の毒なくらいでした。家主のスイス人のおばあさんの親戚だという中年女性や男性や、家主の妹さんやそのお孫さんらしき人にはデインは吠えませんでした。最初から吠えられなかった私たちは、デインの目の中では白人に分類されているのかも知れないとふと考えました。

南アフリカには、英語と並ぶ公用語アフリカーンス語を話すアフリカーナーと呼ばれるオランダ系の人たちが圧倒的に多い地域があって、アパルトヘイト政権を支えたその人たちのアフリカ人に対する態度は非常に強硬で、その地域では飼い犬もアフリカーンス語で吠えると言われたそうです。犬を借りて、極右翼のアフリカーナーの偏狭性を表現したものでしょうが、デインを見ていると、そんな南アフリカの話を思い出しました。恐らく仔犬の頃から、アフリカ人を見たら吠えるように訓練されてきたのではないでしょうか。子供たちが五人で遊んでいる時でも、時折り急に吠え始めたりする場合があって、その都度みんなで叱りつけました。その甲斐があったのでしょうか、休みが終わる頃には、五人が遊んでいても顔を前脚に乗せて、うっとおしそうに目を閉じて昼寝を続けるようになっていました。

トランプなどのゲームや絵を描いたりして、室内で遊ぶ日もありました。日本から持って来た色鉛筆や画用紙を使って、お互いの似顔絵や自分たちの学校の絵を一心に描いていました。色鉛筆や画用紙を買う経済的な余裕などはゲイリーにはないでしょうから、街で買ってウオルターたちにプレゼントしたら、自分たちの部屋でも絵を描く時間が増えたようです。描いた絵をよく見せに来てくれるようになりました。

長女は日本で使っている中学二年生用の英語の教科書を持ってきて、六年生のウォルターと一緒に声を出して読んでいました。長男はメリティとメイビィにショナ語を教えてもらっています。象の絵を描いてンゾウと言えば、象のショナ語が相手に分かる訳です。長男は教えてもらったショナ語を忘れないように、よくメモをとっていました。言いたいことが相手に通じないもどかしさを感じた時には、大人が通訳として引っ張り出されることもありましたが、大体はお互いの気持ちが通じ合っているようでした。

ジンバブエ大学の学生から、日本には街にニンジャが走っていますかと真顔で聞かれましたが、ウォルターとメリティとメイビィが大きくなった時、そんな質問はしないような気がしました。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」4号に収載予定で送った原稿です)

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「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族」 (255KB)

2000~09年の執筆物

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は大遺跡グレート・ジンバブエに行った時の話です。(写真作業中)

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 三 グレート・ジンバブエ  玉田吉行

グレート・ジンバブエ

ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで行くのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観にいこうという気持ちがなくもなかったが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまって、親の方は遠出は止めようと言い出した。しかし、子供の好奇心は押しとどめようがない。結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけた。

遺跡グレート・ジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは遠い。遺跡は南に三百キロほど、滝は西に九百キロ近くも離れている。今は乾期だから、遺跡の方は大丈夫のようだが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にあるので、マラリアの危険がないわけではない。入院する事態を想像すると、ますます億劫になる。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレート・ジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着いた。

飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、三千七百三十三ドル、一人約九百三十三ドル、二万三千円あまりである。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいだろうか。しかし、千ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えない。

九月からは子供たちの学校も始まるので、八月の半ばの土曜日に行くことにした。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変である。家から空港まで二十キロはあるし初めてでもあるので、八時過ぎの便に乗るには六時くらいには家を出た方がよさそうだ。タクシーの予約もしなければならないが、アフリカ時間が気にかかる。電話には慣れてきたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒なので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしよう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味がある。今後の参考にさせてもらおう。

出発の朝である。アフリカ時間の心配は杞憂に終わった。予定の六時きっかりにタクシーがきて、滑りだしは順調である。土曜日でもあるし朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着いた。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想していなかった。隙間といってもこぶし大はある。石でも当たったのだろう。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っている。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないが、運転手の方は別に気にしている様子もない。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンド・ブレイカーの衿を立てて震えている。

この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転できればいいという状態の車が多い。ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけない。その場合は運転手が気を使って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれる。タイプは違うが、一応は運転手による自動開閉式である。

国際空港もぱっとしなかったが、国内線のほうは、もうひとつぱっとしなかった。行けるのかなあと不安になるほどだった。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませた。

空港内で、日本からと思われる団体客を見た。ヴィクトリアの滝へ行くらしい。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいた。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけている。四人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をついた。

さあ、いよいよ出発である。

飛行機は十二人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッド・エアと書いてある。パイロットもアメリカ人のようだ。乗客は十二人、すべて外国人で、私たち以外は白人である。飛行機に弱い長男は前の席を希望したが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席になった。すでに、長男は酔わないかと身構えている。

飛行機は飛び立った。小さいので音が大きく、会話も難しい。目的地は南へ三百キロのマシィンゴ空港である。

厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていた。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入ってくるが、湖や川などは一切見当らない。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていた。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じだった。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れなかった。 一時間でマシィンゴ空港に着いた。出迎えの車が二台待っていたが、自家用車である。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車三台で運ぶ、追って一台来るので待って欲しいという。

小さな空港である。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意された。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めた。よく事情はわからないが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめた。十分ほどして、白人のおばあさんが迎えにきた。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛ピードをあげて車は進む。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いている。頭に大きな荷物を乗せている人が多かった。グレート・ジンバブウェまで二十八キロと案内書には書いてあるが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着いた。

外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されている。さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれた。子猿がいる!と子供たちがカメラを出した。

一息ついたあと、グレート・ジンバブウェに出発した。運転手が若い女性に変わっている。休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で三時間ほどの所に住んでいるらしい。ターニャという。南アフリカは地続きだから、車で行けるのか。それにしても、三時間とは近いものだ。ここでは外国から来ても、必ずしも海外からとは言えないわけである。

しばらくして、遺跡に着いた。小高い丘に、石造りの建造物がある。想像していたほどの威圧感はない。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれる。説明を聞いてもあまりわからない三人は、ガイドから付かず離れずの別行動である。

建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石が積み重ねられて作られている。この辺りには、このような遺跡が百五十ほどもあって、ここが最大級のものである。日本でも時たま特集番組で報じられたりしている。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたと聞く。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまった。それでも、遺跡の中で発見された陶器から、ヨーロッパ人が到来する以前より、遠くインドや中国との国交があったと推測されている。おそらく、イスラム商人が仲買人だったようだ。その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るベルベル人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われる。

はっきりとは断定出来ないが、十三世紀から十五世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明している。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうという。

ひと通り見終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内された。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せている。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりだ。山羊だと、長男が大声をあげた。しかしよく見ると牛である。この旱魃で、痩せ衰えているのだ。新聞で同じような写真を見てはいたが、山羊と間違えるとは思わなかった。予想以上である。

湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見た。ダンプカーよりもはるかに大きい。上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっている。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているから、多分サファリ用の車だろう。野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのだろう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がした。

夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻ったが、帰りの足がない。この時間帯には利用客がないからだろう、タクシーが見当らない。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれた。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれたので、有り難く便乗させてもらった。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしい。大助かりである。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していた。

降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りた。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、もう辺りは真っ暗だった。

 

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」3号に収載予定で送った原稿です)

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ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 三 グレート・ジンバブエ (289KB)