1976~89年の執筆物

概要

(作業中)

アレックス・ラ・グーマ (1925ー1985)が闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿っています。大きな影響を受けた父親ジェームズや少年時代、ANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に加わり、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わる一方、作家としても活動しました。今回は、辺りまでを書きました。

本文(作業中)

◎反逆裁判

1956年12月13日、ラ・グーマは逮捕された。8日前に既に捕えられていたANCルツーリ議長を含む155名と共に「国家」への反逆罪に問われたのだが、それは国内外の情勢によって強められた白人政府の不安の表われに他ならなかった。

国内では、ANCを中心に解放闘争が高まりを見せていた。1950年6月26日〈南アフリカの自由の日〉のストライキで多数の大衆動員を果たしたANCは、若きネルソン・マンデラらが先頭に立って人種差別法に対して非暴力非協力の〈不服従運動〉を展開していたが、共産主義弾圧法や53年の〈修正刑法〉などによって徹底的に弾圧を受け、53年はじめには闘争打切りの声明発表を余儀なくされていた。しかし、すぐANCは、白人の民主主義者会議、インド人会議、カラード人民会議(もと南アフリカ・カデード人民機構-SACPO)と連帯して、4人種からなる統合民主国家をめざす連合戦線、いわゆる〈会議運動〉を推し進め始めた。55年の「人民会議」による自由憲章の採択は、そんな「解放戦線」による挑戦であり、政府にばかり知れない脅威を与えたのである。自由憲章採択後も、婦人で唯一のANC中央委員リリアン・ンゴイを中心に婦人たちによるパス反対闘争が展開されたりするなど解放への闘争は盛り上がりを見せていた。

国外では、56年にアフリカ大陸で二つの衝撃的な出来事が起きていた。一つは、6月のエジプトの共和国憲法の公布と共和国の正式な樹立である。イギリスとの長年の抗争を経て、スエズ地帯からイギリス軍を駆逐した末のその出来事は、独立の波がアジアからアフリカに広がりつつある証拠でもあった。もう一つは、3ヶ月のちの9月に、イギリス政府が植民地ゴールド・コーストに対して翌1957年3月に独立を与えるという声明を発表したことである。黒人主権国ガーナの誕生は、ヨーロッパ帝国主義と白人支配からの解放への第一歩を意味しており、アフリカとアフリカ人にとっては想像以上の重みを持っていた。こうした内外の情勢のもとで、大量156人の一斉逮捕が強行されたのである。

逮捕されたのは、アフリカ人、白人、インド人、カラードと人種や職業もさまざまであったが、カラード人民会議の議長を務めていたラ・グーマをはじめ、すべてが〈会議運動〉の指導者か活動家であり、その事件が〈会議運動〉阻止を狙う政府の弾圧強化の産物であるのは明らかであった。

反逆罪は、南アフリカでも最大の犯罪であったにもかかわらず、ルツーリ議長らが捕えられてから僅か16日後には全員が保釈されるなど政府側の計画性のなさとは対照的に、被告たちの取った行動は、秩序正しく堂々としたものであった。ルツーリは、むしろ収容されたヨハネスブルグの要塞刑務所を会議運動指導者たちの絶好の会合の場と考えたほどである。というのも、現実に指導者たちの大半は広大な南アフリカをたやすく旅行できる階層には属していなかったし、警察の干渉をうけるなかで会合を持つことの難しさをいやという程味わっていたからである。なかなか実現することのなかった「指導者たちが一堂に会する」という夢を、皮肉にも、政府が強要して適えてくれた、と考えたのである。刑務所内では全員が二つの大きな監房にわかれて収容されたが、昼間は会うことができ、事実、講義や討論会、礼拝などのほかに、コーラスの練習まで行なわれている。(Albert Luthuli, Let My People Go, An Autobiography, Collins, 1962に詳しい)

こうして歴史に残る〈反逆裁判〉が始まった。裁判は5年の長きに及んだが、争点は〈会議運動〉が反逆罪にあたるかどうかであった。検察側は、自由憲章が共産主義を指向し、暴力による社会変革と国家の転覆をめざすものであると非難したが、弁護側は、自由憲章に示された理想と信念は大多数の国民が公然と抱いているものであり、その思想を裁こうとしていると反論した。結局、検察側は156名の反逆罪を立証できず、61年3月までに全員に対して無罪の判決を言い渡さざるを得なかった。裁判は検察側の完全な敗北に終ったのである。

反逆裁判の間じゅう、ラ・グーマは政治活動を禁じられた。公然と係わりを持てたのは「ニュー・エイジ」のコラムニストとしてだけである。裁判が始まると、いきおい投稿回数も減り、家計は妻ブランシの肩に重くのしかかった。しかし、ラ・グーマは定期的にヨハネスブルグから被告たちの息吹をケープタウンに持ち帰った。57年1月24日付の「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」と題された記事は、裁判での人々の様子を鮮明に伝えている。

 

私は被告たちの不平や後悔や泣きごとをみつけ出そうとしましたが、無駄でした。見つかったのはただ、自信と温かさと気概だけで、それらが不退転の決意で固められているのを知るだけだったのです。ここには人間の魂と、前進しようとする意志と、前向きにものを見つめ、全体の目的のためには個人の辛苦をも耐え忍ぼうとする勇気があります。また、レンガにモルタル、筋肉に腱など、新しい生命を創造するのに欠かせない生きた血が、ここにはあるのです。

 

57年5月2日に「ニュー・エイジ」の専属コラムニストに採用され「わが街の奥で」と題するコラム欄を担当することになったラ・グーマは、一方では短篇を書きながら、ジャーナリストとしても、精力的に創作活動に携わることになる。(反逆裁判についてはLionel Forman & E .S . Sache, The South African Treason Trial (John Calder,1957)があり、雪由慶正訳『アフリカは自由を求めている』(角川書店、1959年)の邦訳も出ている)

 

◎シャープヴィルの虐殺

反逆裁判の最終判決が未だ出ていない1960年3月21日に、解放闘争の、ひいては南アフリカの歴史の転換点となる出来事が勃発した。20世紀最大の蛮行といわれるシャープヴィルの虐殺である。多人種統合国家をめざすANCの平和主義を批判して59年3月に訣を分っていたパン・アフリカニスト会議(PAC)の呼びかけに応じて集まったシャープヴィルの大衆に向かって、白人警官が一斉射撃を行ない、69名の死者、数百名の負傷者を出したのである。政府筋は「暴動鎮圧」の声明を発したが、パス法廃止などを求めて集った無防備の民衆に向かっての一方的な突然の発砲は、まさに虐殺行為であり、国内外の情勢の不安にかられた白人政権の力による制圧強化に他ならなかった。

政府のこの非道に抗議して、各地で民衆が立ち上がった。武力鎮圧を強行する警官に対して、激怒した大衆は放火、投石などで対抗するなど、国内は騒然となった。3月26日に、政府はパス法の一時停止声明で騒ぎを鎮めようとしたが、抗議の波はおさまらず、28日に行なわれた一日在宅スドでは大半の民衆が職場を放棄し、国の機能は完全にマヒ状態となった。これに対し、政府は翌29日に非常事態宣言を発令して武力弾圧を強化、解放運動指導者の一斉検挙に乗り出した、また、4月6日にはパス法の復活とANC、PACの非合法化の声明を発表、更に翌9日のフルウールト首相狙撃事件を機にますます弾圧を強化して多数の運動家を逮捕した。ラ・グーマが逮捕されたのもこの時期である、ラ・グーマは最初、ケープタウンにあるローランド.ストリート刑務所に収容されたが、すぐにケープ州ウォルセスター特別刑務所に移され、その年の終わりまでの七ヶ月間、収監された。非常事態宣言によって「いかなる人物も自由に逮捕できる」などの権利を我が物にした政府の暴挙により、裁判もなしに長期問拘留されたのである。こののちラ・グーマは、繰り返し投獄、拘禁を余儀なくされる運命となる。

(シャープヴィル虐殺に対する国際世論は厳しく、各国の経済制裁が始まった。61年5月に白人政府は英連邦からの離脱、共和国宣言を実施せざるを得なくなっている。孤立化を深める白入政府は、苦しまぎれに各国に友交関係の継続を訴えたが、それに応じたのがドイツと日本である。日本政府は第二次世界大戦とともに断絶していた外交関係の再開と大使館の新設を約束している。このことによって日本は「名誉白人」の称号をいただき、「白人」なみの扱いを受けているが、それは恥辱以外の何ものでもない。ここで思い起こされるのは、今回来日したアラン・ブーサック氏の来日前の日本へのメッセージである。(本誌7号でも紹介した)

 

われわれを追い回し、連行する車はトヨタ、ニッサン車だ。それを日本は知ってほしい。85年、私が拘留された際に乗せられた車も日本製だった。英国、西ドイツは自己の立場を弁明するためにこう言っている。「われわれが撤退すれば日本がやってくる。日本の反アパルトヘイト運動は微々たるもので、日本企業は世論の圧力を気にしなくてすむからだ・・・・・・」

 

日本企業、ニッボンに対する「恐れ」は、町に氾濫するトヨタ、ソニーばかりか、この時の日本政府の道義に反する抜け駆け行為に裏打ちされている。

日本の”繁栄”が、現に被害者の犠牲の上になり立っており、直接的にであれ、間接的にであれ、私たちが加害者側に立っている事実は否定出来ない。そんな自己矛盾とむき合う思いはなんとも複雑である。

アメリカの黒人作家リチャード・ライトも独立前のガーナを訪れたのちに出版した紀行文の中で同じようなことを書き残している。

 

人はその人となりや、その暮しぶりに応じてアフリカに反応する。人のアフリカに対する反応は、その人の生活であり、その人の物事についての基本的な感覚である。アフリカは大きな煤けた鏡であり、現代人はその鏡の中で見るものを憎み、壊したいと考える。その鏡をのぞき込んでいるとき、自分では劣っている黒人の姿を見ているつもりでも、本当は自分自身の姿を見ているのだ。・・・・・・アフリカは危険をはらんでおり、人の心に人生に対する総体的な態度を呼び覚まし、存在についての基本的な異議をさしはさむ。

 

「その鏡の中で見るものを憎み、壊したい」心境に傾いていく自分と、「存在についての基本的な異議」を意識しないわけにはゆかない。

 

◎文化荒廃のなかで

もとより、自分たちの利害に従って自分たちの法を作り、自分たちの都合のいいように築き上げた差別社会にあっては、虐げられる側に及ぶ悪影響は、目に見える政治や経済面といった分野だけでは決してない、その悪影響は目には見え難い、人の精神文化に係わる側面にまで及んでいく。

たとえば、先述のリチャード・ライトは、閉鎖的で、人種差別の厳しいアメリカ南部で少年期を過ごしているが、読みたい本を図書館から借りるだけで屈辱と危険を体験せねばならなかった。H.L.メンケンの本を図書館から借り出すのに、知り合いのアイルランド系の白人に恐る恐る頼み込んで図書館カードを借り、「この『黒んぼ』にメンケンの本を何冊か持たせて下さい」というメモ書きを自分で作り、白人図書館員の前で「低能な黒人」の役を演じている。もと奴隷であった「低能な黒人」に図書館など要らぬ、というのが当時の南部社会の実態であったからである。

南アフリカの場合、状況はさらに厳しい。のちに発表した「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」(「新日本文学」1977年4月号に邦訳があるが、残念ながら、例によって「ヨハネスブルグがその大部分の労働者を引き出すソゥェト族(下線は筆者)・・・・」(96ペイジ)などといった類のもの。原文はアジア・アフリカ作家会議の国際季刊誌「ロータス」23号(1975)に揚載されている)の中で、ラ・グーマは白人支配下で文化状況が如何に荒廃しているかについて述べたあと次の具体例を引き合いに出して論を展開している。

 

・・・・・・今まで述べてきたことが南アフリカの作家にとって一体何を意味しているのか。最もはっきりしているのは、多数派の黒人の利用出来る文化施設が少数派の白人のに較べてはるかに劣っており、ある場合にはその施設が無きに等しい、ということである。ヨハネスブルグにその労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは、ほぼ100万の人口に対してたった一つの映画館しかない。それも、その映画館で鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されており、アフリカ人は白人の16歳以下と同じレベルに置かれている。国内にあるすぐれた図書館は黒人には閉ざされている。ほとんどの黒人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もない。

 

ラ・グーマが少年時代に黒人少年と同地区に住むことが出来たり、ある時期まで一部のものが投票権を持ち得たりするなど、カラード人口の多いケープタウンの状況が黒人社会に比べて幾分か厳しくなかったのは事実である。しかし、アパルトヘイト体制によってもたらされる文化荒廃の実情は、基本的に変わるものではない。その意味では、貧しいながらも、闘争家ラ.グーマ、作家ラ・グーマが白然に育つ環境を与えてくれた父ジェイムズ・ラ・クーマの存在は、大きい。

もっとも、少年の頃からラ・グーマ自身にその素養が備わっていたようで、次のインタビュー記事などを見ると、子供ながらにもう一端の作家である。

 

・・・・・・生徒として、いつも私はペンを走らせました。何度かは、授業中に文章を編み出し教室で読んでみせたりしたものです。作家としての資質があると特に自分でも意識したことはありませんが、教師たちは口を揃え、君には作家としての才能があると言いました。私はいつも話をでっちあげてみせたのですが、それは学校の生徒が書く種のもので、たいていは生徒の冒険ものでした。自由帳はその話で一杯になり、いつしか原稿が部屋にたくさんたまってしまいました。たぶん、ある春先のことだったと思いますが、母が家の大掃除をやったとき、私の大切な原稿はすっかリごみ箱行きになってしまったのです。

 

「各々の切なる思いをかき回し、みんなの注意を意のままに集めることの出来る」能力が自分にあったからこそ級友たちの間で人気があったのだと思う、と自負することのできたラ・グーマは、既に少年の頃から書くことの威力を、そしてペンの力をひそかに信じていたのかも知れない。

「アレックス・ラ・グ~マヘのインタビュー」(本誌7号)でも少し触れていたが、ラ・グーマはロシアや英米作家のものを好んで手にしている。学校での勉強には精を出さなかったラ・グーマであるが、父の影響もあって本をむさぼるように読んでいる。父やそのとりまきの刺激を受けながら、書物の世界を通して自分の世界を広げていったのである。次のインタビューはそんな経緯を教えてくれる。

 

私は本を読むのがとりわけ好きでした。小さい頃からずっと、いつも本を探し求めていました。初めは、誰でも子どもなら読むようなスティーヴンスンにデュマやユーゴーなどの本を読みました。それから冒険もの、ウェスタンものや探偵もの、そして次第にシェイクスピアのような古典やトルストイにゴーリキーなどのロシアの作家、それにジェイムズ・ファレルやスタインベック、ヘミングウェイなどのアメリカ作家といったより堅いものを読み始めました。一冊の本が手に入るのなら、決してその機会を逃したりすることはありませんでした。実際、わずかな小遣銭はいつも古本屋で本を買うのに使いましたし、高い本屋で一冊の本を買い求めるというぜいたくな喜びを味わうためにわざわざお金を貯めたりしたこともありました。

 

作家針生一郎氏はアジア・アフリカ作家会議ベイルート大会報告座談会でラ・グーマの印象を次のように述べている。

 

たとえば南アフリカ代表はわれわれとホテルが同じなのでしばしば会う機会があったんです。ジャワ人と黒人の混血というアレックス・ル・グマという作家、これはあとでイギリスや東ドイツででている彼の小説をよんでみると、フォークナーばりの粘液的な文体で、抑圧された心理や行動を描いている。彼と食卓で雑談していたら、一番若いクネーネという詩人・・・・・・(「新日本文学」1967年7月号)

 

そんな印象も、ラ・グーマが欧米の文学に慣れ親しんでいたことと決して無縁ではないだろう。

 

◎闘争・文学・人生

闘いのさなかに、自然に書くことを始めたラ・グーマが、解放闘争を含む人生と文学は切り離せるものではない、と言ったのはむしろ当然である。人間の自由を奪い、文化を荒廃させるアパルトヘイト体制が現に存在している限り、アパルトヘイト打倒をめざして闘う政治活動もペンでの創作活動も、ラ・グーマにとっては人生そのものであり、拘禁され生活する権利を奪われても、亡命して祖国を離れてもその姿勢は貫かれ、終生変わることはなかった。

アフリカ・スカンジナビア作家会議やアジア・アフリカ作家会議などの国際会議でも必ずそのことを主張したし、「ロータス」誌やANC機関誌「セチャバ」でも同趣旨の論文を発表している。(「アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー」の会見者コート・ジボアール、アビジャン大学のリチャード・サミン氏の手紙によれば、タンザニアのダル・エス・サラーム大学に客員作家として招かれていたラ・グーマが、文学部主催のアフリカ文学国際会議で行なった講演「アフリカ文学と唯物論者の芸術の概念」と「文学と反帝国主義者の闘争」も「ロータス」や「セチャバ」での論文に似たものであったとのこと、と本誌七号で紹介したばかりである)

たとえば「ロータス」誌1巻4号(1970)の「文学と人生」と題する小論の中では、その年が百年祭にあたるゴーリキーの文章を引用してその文学への業績をたたえたあと、ラ・グーマは次のように続けている。

 

人は文学と人生を切り離すことはできないし、文学と人間の経験や人間の願望とを切り離すことはできない・・・・・・

・・・・・・文学の最大の価値の一つは、自己意識を深め、人生に対する感覚を広げることによって、すべての考えや行動が社会現実の範囲内の現実性や経験からきているということを文学を通じて再認識することである。すべての人間もあらゆる言語も自分たち自身の、そして自分たち自身の運命の、同じ根本的な欲求に一番関心があるのである。

 

現実を見据え、現実に根ざしたその姿勢が決して生半可でなかったことは、のちのラ・グーマの解放闘争との係わりや創作活動を通じて次第に証明されていく。アフリカ・スカンジナビア作家会議では、作家であっても必要ならば銃を持って立ちむかうべきだと言明したし、先の「文学と人生」の中では、現に作家が銃を取って闘っているベトナムの例をあげて、闘争・文学・人生が不可分な関係にあることを強調している。

 

◎「ニュー・エイジ」

ラ・グーマの創作活動が現実を見据え、現実に根ざしたものであったことは「ニュー・エイジ」で取り扱った題材を見てもわかる。前号でも少し触れたように「ニュー・エイジ」は反アパルトヘイトを掲げた左翼系の週刊新聞である、前掲の『アフリカは自由を求めている』の中にも何ケ所か顔を出すので、少し紹介しておこう。

 

・・・・・・彼は、ケープタウンの建築家で反政府的な新聞「ニュー・エージ」を出版している会社の支配人をつとめていたために逮捕されたのだった。(34ペイジ)

 

チャップマン会社のボイコットは徹回された。そして一週間後に、「ニュー・エージ」紙上にチャップマン会社の煙草の大きな広告がのった。

「ニュー・エージ」は大きな発行部数をもっていてこれに広告をだすことは会社にとってきわめて有利であることが一般にひろくみとめられていたにもかかわらず、永いあいだ広告主から完全にボイコットされていたのだ。チャツプマン会社は「ニュー・エージ」と長期の広告契約を結んだ。従来広告主たちに「ニュー・エージ」の紙面を利用することを恐れさせていたナショナリストの側からの脅迫という堤防は破壊されたのだ。(91ペイジ)

 

又、「ニュー・エイジ」1961年3月31日付の一面記事の写真がNELSON MANDELA: THE STRUGGLE IS MY LIFE (New York: Pathfinder, 1986)に収載されており、演説中の若きネルソン・マンデラの雄姿や「反逆裁判今週中にも結審の可能性あり」の大見出しなどが見える。(ちなみに、同書には、56年12月に取った反逆裁判被告156名全員の写真も含まれており、7列目に腕組みして微笑みかける若きラ・グーマが、3列目中央にはやや斜交いに構えたマンデラがはっきりと写っており、156名全員の生き生きとした表情がこちら側に伝わって来る)

「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当したのは、専属として採用された57年5月2日から、共産主義弾圧法によってジャーナリストとしての活動を禁じられた62年6月28日までだが(「ニュー・エイジ」そのものも同年秋には廃刊に追いやられている)、「ニュー・エイジ」で取り上げたのは、浮浪者、チンビラ、もぐり酒場などを含む街の様子やローランド・ストリート刑務所のこと、それに傍聴に出かけた法廷のレポート、ケープタウン市政に対する攻撃など、すべてアパルトヘイト体制下で坤吟するケープカラード社会の実態についてである。56年9月30日の「つるはしにシャベル」と題するコラムには次のような街の様子が描かれている。

 

いたるところ、すえた食べものの臭いや汗や淀んだ水のくさい臭いで一杯である。街角では街燈の下に人が群がってはサイコロが振られ、1ペニーや3ペンス硬貨がアスファルトにチャリンと音を立てている。どこかで静かに鳴り始めたギターの音は巧みな手前仕込みの指がフレットの上を軽快に走るにつれて、しだいに大きくなって来る。パブが閉まれば、もぐり酒屋(シービーン)の開店である・・・・・・一番安物のワインがひと壜3シリングに6ペンス、ブランデーなら15から25シリングのあいだだ。大きな酒場は警察の手入れを受けないように袖の下を使っている、と囁かれている。国勢調査によれば、この辺りの人口は約125万と言う。しかし、身元の確認を姓名とか膚の色とかでやらずに、厳しさに喜び、楽しさと苦しさ、それにあこがれと挫折、報われることのない厳しく辛い単調さ、絶望、飢え、文盲、肺炎、栄養失調、笑いに悪意、無知、天才、迷信、他愛もない知恵、ゆるぎない自信、愛に憎しみなど、で行なってみれば、きっと数えること自体を諦めざるを得なくなるだろう。

 

少々長くなるが、もう一つ別の記事を紹介しよう。スラム街第六区とそこであてもなくたむろする若者たちのことを書いた56年9月20日付けの「ハノーバー・ストリートの貧民街浮浪児たち」と題する次の一節である。

 

キャッスル・ブリッジからシェパードストリートまでのハノーバー・ストリートが第6区の中心部を通って走っており、その通り沿いに社会の息吹が感じられる。それは金持ちと貧乏人、働きものと怠け者、弱者と強者たちのローカル社会の主動脈である・・・・・・レコード店から流れて来る大きなジャズの音にも負けないで、街頭売りたちが大声を張り上げてものを売る。「さあさあ、じゃがいもだよ。たまねぎだよ」・・・・・・貧民街の浮浪児たち、家の軒下や店やカフェーの辺りでうろつく人の群れ・・・・・・うろつき廻る少年たちのたいていは教育を殆んど受けていないか、全く受けていないものばかり、子どもの頃から新聞を配達するか、街頭売りの手伝いをするかして家計を助けなければならなかったからだ。たとえ如何なる手段を使っても、人生そのものが生き延びるためのたたかいなのだ。しかしながら、誰一人として自分たちの窮状の原因がどこにあるのかに気付いているものはいない・・・・・・ただぶらぶら、何かを待っているばかり。スラム、病気、失業、教育の欠如、人生のすばらしいものを決して許さない人種の壁の空恐しいほどの重み、すべてが貧民街の浮浪児たちを虐げる手助けをしており、その結局、大半のものが餌ものを求めて敵意の満ちたジャングルをさまよう猛獣と化してしまっているのだ。

 

これら「ニュー・エイジ」の記事が発展してやがて『夜の彷徨』が生まれ、そして『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に改題)が生まれる。又、別のコラム欄で取り上げたローランド・ストリート刑務所には、すぐのちに自らが収容されることになり、その体験をもとに『石の国』が生まれている。それらはすべて、現実を見据え、現実に根ざした闘争家ラ・グーマの生き方から生まれたが、同時に作家ラ・グーマのそののちの文学の主題ともなっていく。そんな経緯を考えると、「ニュー・エイジ」が、ある意昧で作家ラ・グーマを育て上げた大きな源動力の一つであった、と言えるだろう。

 

◎アパルトヘイトの嵐の中で

ラ・グーマが専らカラードの社会の実態を問題として取り上げたのは、繰り返し述べるように、ラ・グーマの目が現実を見据え、その闘いの姿勢が現実に根ざしていたからであり、ラ・グーマが虐げられる同胞たちの代弁者としての自負をしっかりと抱いていたからである。たとえば、66年にロバート・セルマガによって行なわれた次のインタビューでの発言の中にもその気概がうかがわれよう。

 

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない仕事があると思うのです。少なくとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくても。

 

吹き荒れるアパルトヘイトの嵐が人びとに文化荒廃をもたらすことについては先に少し触れたが、特に作家には致命的とも言える状況を生み出す。人種の壁にさえぎられて作家は南アフリカの社会を総合して見ることが出来ず、作晶の中で人種の壁を越えた人物像を描き切れないのである。その実情をラ・グーマは充分承知しておリ、前に紹介した「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」の中でも次のよつに書いている。

 

南アフリカではどの作家も人生を平静に全体としてながめることは出来ない。作家は自分自身の経験から、見たり知ったりしたことを書けるだけである。しかも、それは全体像の一部でしかない。白人作家の中で、いままでに、リアルでしっかりとした黒人像を何とかでも創造しえたものはいないし、その逆も又、しかりである。白人、黒人のどちらの側にも通用する黒人・白人関係を描出し得た白人作家も黒入作家も今のところ出てはいない。

ナディン・ゴーディマは徴妙な、明快な語り口で白人の自由主義者が黒人の世界を如何に見ているかを読者に語りかけるのに成功しているし、黒人が白人観察者の目にどう映るのかを正確に描き得てはいるが、黒人の体内に入り込んでそこから外側を見ることは出来ないのだ。

同様に、ピーター・エイブラハムズの小説の中の白人は戯画的で、堅くぎこちない。その白人たちは血肉の欠けた人形のように唐突にぞんざいに喋ったり、振るまったりする。アラン・ペイトンの『叫べ、愛する国よ』に登場する黒人牧師は、黒人の習慣を持ってはいるが、一種の宗教的ミンストレルにでも登場しそうな、おセンチな白人の善人である。そのような創作上の失敗はどうしても隔離社会では避けることが出来ないのである。

 

幸いラ・グーマの住むケープカラード社会は、もともと、政権を握るオランダ系白人アフリカーナーとアフリカ人との混成社会で、言葉も英語と、アフリカーナーの話すアフリカーンス語が使用されており、アフリカーナーの文化背景とも近い。ラ・グーマが作品の中で白人(アフリカーナー)像を難なく描いているのも、そんな背景があったからである。又、アパルトヘイト体制がまだ比較的穏やかな少年時代に黒人と同地区に住んだり、会議運動や反逆裁判などを通して違った人種グループも共闘するなかで得た経験も、虐げられるものの代弁者として、南アフリカの社会を総合的にながめる上で大いに役立ったことは言うまでもない。それらはすべて、アバルトヘイトと真向うから闘うラ・グーマの生き方の中から、生まれた。

 

◎拘禁されて

57年に初めてラ・グーマは短篇「練習曲」を「ニュー・エイジ」に発表した。(同短篇は63年にR・リーブ編『四重奏』の中に「夜想曲」と題して再録されている)すぐ後引き続いて「暗闇の中から」「グラスのワイン」など四編を書き、60年から65年の間には「運送屋で」「毛布」など七編の短篇を書いている。「雑誌に発表したものも多いが、大半は『四重奏』はじめ本の中に収録、再録されており、今でも比較的手に入りやすいものが多い)「アレックス・ラ・グーマへのインタビュー」の中にもあったように、ラ・グーマが短篇を書いたのは、出版事情なども含めて短篇が南アフリカの実情に即していたからである。(短篇については、稿を改めて詳しく取り上げる予定である)

61年には最初の小説『夜の彷徨』を書き始め、翌年の4月までには脱稿を終えている。(同作品は62年にドイツ人作家ウーリ・バイアーの尽力によリナイジェリアのイバダンにあるムバリ出版社から出版された)反逆裁判でヨハネスブルグに通うかたわら、精力的に「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当していた時期である。

前に述べたように60年の春から7ヶ月間拘禁され、その年の終わりに釈放されたラ・グーマは、ただちに「ニュー・エイジ」の仕事に復帰し、前にもまして活発に解放闘争に携わっている。61年5月末には、ANC指導者ネルソン・マンデラの呼びかけで、白人政府の一方的な南アフリカ共和国宣言に抗議して全国一斉にストが敢行された。この時、ラ・グーマはケープタウンのカラード人民を率いてストライキに参加したため10日間の拘禁処分を受けている。釈放されたあとすぐに父親を亡くしたり、63年には母親を亡くすなど個人的にもラ・グーマにとって不幸な出来事が相次いだ。

先に触れた共産主義弾圧法によってすべての活動を禁じられたラ・グーマは62年から翌63年にかけては小説の第2作『三根の縄』(『まして束ねし縄なれば』)を仕上げるのに集中した。皮肉にも政府によってすべての活動を禁じられた時問がすべて創作活動に費やされることになったのである。『三根の縄』は六四年に東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。同書の一部は、63年にANCの地下活動に加担した嫌疑で5ケ月拘置されたローランド・ストリート刑務所内で書き上げられている。

同年には妻のブランシも同罪で逮捕された。ブランシはすぐに釈放されたが、ラ・グーマは12月に釈放されたのち、5年間の24時間自宅拘禁を命じられている。その時の模様をラ・グーマは次のように説明する。

 

つまり、当局の許可なしに私は家、の門さえ越えられないし、収入を伴う如何なる仕事にもつけないということだったのです。訪問者さえ許されませんでした。家で妻と一緒に居ることさえ許可を求めなければならなかったのです。当局の手抜かりを一つだけあげるとすれば、私がペンを持つことを止められなかったことでしょう。当局はいままでに書くことを禁じればどれだけ危険を伴うかを経験ずみでしたから、どんな形にしろ書くことを止めさせることだけはしないでしょう。

 

64年から65年にかけて第3作『石の国』の草稿をラ・グーマは書きあげている。同書はロンドン亡命後の67年にやはりセブン・シィーズ社から出版されている。

66年にラ・グーマは再び逮捕された。今回は非合法化された南アフリカ共産党の地下活動を推進したという疑いであった。7月に釈放されるまでの4ケ月間、やはり裁判なしに投獄されている。

政府の弾圧により、政治活動を禁止されても、ラ・グーマは断じてひるまなかった。投獄されても、拘禁されても、ベンを持って闘うことを止めなかった。そんなラ・グーマも釈放された同年6月から3ヶ月後の九月に、永久出国ビザを取得して、家族とともにロンドンに亡命する道を選ぶことになる。

《つづく》

(大阪工業大学嘱託講師・アフリカ文学)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」9号28-34ペイジ

 

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて

1976~89年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマ (1925ー1985)が闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿っています。大きな影響を受けた父親ジェームズや少年時代、ANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に加わり、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わる一方、作家としても活動しました。今回は、ブランシさんと結婚し、1反体制の週間紙「ニュー・エイジ」の記者になった辺りまでを書きました。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

本文

1.闘争家として

◎解放の前夜

南アフリカの事態は非常に緊迫している。ボタ白人政権は、いよいよ追いつめられてきた。外では、国連をはじめとする国際世論が厳しく、経済制裁も強まっており、内では、アバルトヘイト体制では立ち行かなくなった南ア経済への不満から人種差別撤廃を打ち出した財界のつきあげを受けている。ザンビアに本部を置く非合法黒人解放組織アフリカ民族会議 (ANC) は、果敢な武力闘争の手を緩めていない。83年11月に結成された反アパルトヘイト国内組織「統一民主戦線」(UDF) には、650以上の組織、二百以上のあらゆる人種の人々が参加しており、その力は圧倒的だ。ロンドンの反アパルトヘイト団体IDAF製作の記録映画「燃えあがる南アフリカ!-南ア組織UDFの記録」を見ると、もはや何びとも押し寄せる怒濤はとめようがない、という思いがひしひしと伝わってくる。指導者のひとりアラン・ブーサック牧師の演説に呼応する聴衆の姿は、50年代、60年代のアメリカ黒人公民権運動を率いたマーチン・ルーサー・キング師の演説に歓呼する人々の姿に重なって仕様がない。それは、もはやとどまるところを知らぬ歴史のうねリ、と言ってよい。

そんな危機感の強まるなか、白人政権は5月6日の総選挙で、国際世論に反して圧勝し、166議席のうち123議席 (改選前110、定数178のうち12は任命議員) 議席を確保した。そればかりか、アパルトヘイト政策体制の維持を訴えた右翼保守党の進出で、結果的にはますます保守化の傾向を強める勢いである。

5月31日付の朝日新聞 (朝刊) は、29日未明、南ア特殊部隊がモザンビークの首都マプトのANC本部を襲撃した、と報じた。また、6月2日には、ボタ大統領が「日本を含めた西側先進七か国首脳に対して書簡を送り、人種問題解決に向けて、同大統領自身が黒人諸組織の代表と話し合いに入る用意がある旨を説明するとともに、この話し合いを可能にするために、先進諸国が非合法黒人解放運動組織アフリカ民族会議 (ANC) に『暴力主義を放棄するよう』圧力をかけてほしいと訴えた」との記事を掲載した。そもそもANCに武力闘争路線を強いたのは「シャープビル虐殺事件」での白人側の蛮行がきっかけだ。ANCはルツーリ初代議長のはじめから、平和的な話し合いを提唱してきた。獄中に居る前議長ネルソン・マンデラ氏も、現議長オリバー・タンボ氏も同じことを言い続けている。日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)連帯委員会の招きで、ANC東京事務所開設の具体化を図るために来日したANCの指導者のひとりダン・シンディ氏(ポール・ラベロソンと共に来日) も、その路線が変わっていないことを言明した。(6月3日夜、京都立命館大学で行なわれたAALAアフリカ研究会にて、翌日、ムアンギさんも同行して、清水寺などを訪問されたとのこと。)

  • マンデラ氏を含むすべての政治犯を即時釈放すること。
  • ANCを含む非合法とされる組織をすべて認めること。
  • 非常事態宣言を解き、黒人地区に駐留する軍隊を引き上げること。
  • それらの意志をはっきり示すこと。

以上の4つの条件が満たされれば、いつでも白人政府と話し合う準備があると・・・・・・。

歴史に照らしてみても、無恥厚顔な「悪あがき」を演じ続ける白人政府側の非は、誰の目にも明らかだ。白人政権のますますの孤立化は必然の結果である。

そんな潮流を察知してか、日本政府は4月にANC現議長オリバー・タンボ氏を招待した。8月には、UDFの若き指導者アラン・ブーサック師を正式に招く、という。今日のハイテク産業を支えるクロム、マンガン、モリブデン、コバルトなどの希少金属 (レアメタル)の大半を「南アフリカ共和国」に依存しているニッポンとしては、白人政権崩壊後の次期政権に、何とか早めに媚を売っておかねばならぬ、というわけである。新聞では40万ドルの資金援助、ANC東京事務所設置の約束、などと報じられたが、中曽根首相との会談の翌日、アラン・ブーサック師の来日依頼に出かけた政府高官が、昨日の中曽根首相の約束は、あれはあくまで、民間団体の援助でANC事務所を東京に開設することに関して政府は一切関知しないということでして、と語ったはなしを耳にすると、人間として、むしょうに哀しい、恥ずかしい。拘禁されても、弾圧されても、毅然とした人間としての態度と誇りを持ち続けてきたアフリカ人、自らの利害にのみ窮々とし、火事場ドロボウのように他人の富を狙い、掠め取るニッポンジン、ニッポン政府。最後の最後まで醜態を演じ続けるボタ白人政権―最近の一連の動きは、解放前夜近し、の感を抱かせる。歴史の流れは、誰にも止めようがない。

オリバー・タンボ氏

◎南アフリカ人として

黒人も、白人も、「カラード」も、そしてアジア人も、手を携えて共存しあえる統合民主国家「南アフリカ」を願いながら、アレックス・ラ・グーマは、1985年10月11日、夢なかば、異郷の地キューバの首都ハバナで死んだ。日本の各紙はその死を報じなかったが、民族の真の解放を信じて勇敢に斗い続けた闘争家として、作家として、歴史にそして文学史に、はっきりとその名を刻んで死んでいった。

1925年2月20日、ラ・グーマは、ケープタウンの「カラード」居住地区「第六区」に生まれた。母方の祖母は、インドネシアからの移民で、オランダ系とインドネシア系の血を引いており、祖父はスコットランド系の移民であった。一方、父方の祖父母はマダガスカルからの移民で、インドネシア系とドイツ系の血を引いていた。19世紀初頭に、ボーア人 (先住オランダ系移民) からケープ地方の支配権を奪ったイギリス人は、世界経済の流れに便乗して奴隷制そのものを廃止し、それまでボーア人が保持していた奴隷を解放した。そんなイギリス人の支配を嫌ったボーア入の大半は、内陸部への大移動 (グレート・トレック) を開始したが、残ったボーア人は、奴隷にかわる安価な労働力として、旧オランダ植民地から大量に移民を輸入した。母方の祖父、父方の祖父母はその時の移民である。(ラ・グーマのラは、東インド諸島の特定の地域に見られる名前である、とラ・グーマ自身、ある専門家から教えられたことがあるという。) 従って、母ウィルヘルミナ・アレクサンダーも、父ジェイムズ・ラ・グーマも、アジア人とヨーロッパ人の血を引いた、言わば「歴史」の落とし子であったと言える。そのような両親のもとに生をうけたアレックス・ラ・グーマもまた、必然的に、政治や社会的関係が生んだ「いわゆる」カラードではあったが、粉れもなく南アフリカの地に生まれ、南アフリカの大地に育った、れっきとした南アフリカ人には違いなかった。

ケープタウンの「第六区」

◎父ジェイムズ・ラ・グーマ

ジェイムズ・ラ・グーマは、1984年にケープタウンで生まれた。革職人の徒弟修行を終えてしばらくしてから、故郷を離れている。ひとりで南西アフリカに行き、ドイツ系移民の経営する農場や、港、ダイヤモンド鉱山などで働くかたわら、労働運動に従事し、ストライキなどを指導した。1924年に共産党に加わり、1933年には活動中に当局に逮捕された。その間、1924年には、当時たばこ工場で働いていたウィルヘルミナ・アレクサンダーと結婚し、翌年、長男アレックスが誕生、8年後には長女ジョーンが生まれている、ラ・グーマ家は、闘争拠点として若き活動家の出入りも激しく、闘争家ジェイムズも忙しかったが、子供の教育への配慮も決して怠らなかった。息子アレックスに政治や文学への関心を植えつけたのも父ジェイムズであったし、アレックスの文才をほめ、育んだのもジェイムズだった。そんな父を、ラ・グーマは次のように語る。

父から受けた影響は非常に強く、そのお蔭で私は自分の哲学観や政治観を持つようになりましたし、政治や文学についての堅い作品も読むようになりました。父自身も、本はむさぼるように読んでいました。成長する過程で、そんな姿に、おそらく、私は何らかの形で感化をうけたのではないかと思います。父は1961年に死にました。私の処女小説『夜の彷徨』が出る直前のことでした。父は自分の蒔いた種が芽を出して立派に実を結んだ姿を自らの目で確めずに死んでいった、と言えるでしょう。

父親だけではない、ラ・グーマによれば、ウィルヘルミナ・ラ・グーマは「第6区の他の女性たちと同様、辛く厳しい毎日の、ありきたりの雑事をやりこなし」、夫には献身的な妻であり、子供には優しくて心の寛い母親であった。両親の慈愛は、スラム街の生活環境が惨めであればあるほど、ラ・グーマにとってはかけがいのないものであったに違いない。

ラ・グーマに接した人は、一様に、その物腰の柔らかさ、同胞への愛の深さを指摘する。「ゴンドワナ」編集子の言葉を借りれば、「恐れというものを痛いほど知り、悲しいほど同胞を愛するラ・グーマ」であった。

アパルトヘイト下の、目をそむけたくなるほど陰惨な実態が克明に描かれている作品のなかに、それでも何かしらホッとする暖かさを読者が感じとるのは、目をそむけたくなる現実に、自ら真っ向から挑んだラ・グーマの慈愛の深さのゆえからだろう。「私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです。写実的表現には原動力が含まれています。活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。その目的は読者の心を動かすことなのです。」とラ・グーマが語り得たのは、統合民主国家の実現を願うラ・グーマが、虐げられた同胞への暖かい目を絶えず具え持っていたからだろう。その願いを慈愛にくるんで作品に刻み込んだラ・グーマ。父ジェイムズ・ラ・グーマと母ウィルヘルミナ・ラ・グーマの存在がなかったら、闘争家アレックス・ラ・グーマも、あるいは作家アレックス・ラ・グーマも生まれなかったかもしれない。

◎少年から青年へ

親子二代にわたった解放闘争も、息子アレックスの時代と較べて父ジェイムズの時代は、締めつけもまださほどきつくはなかった。白人長期政権確立にむけて、多数派黒人と白人との間に位置するカラード、インド人、それに少数の黒人エリート層との協調路線を推し進めていた1890年のセシルローズ政策のなごりが未だ残っていたからである。その政策の下で少年期を過したアレックスは、従って、アジア人や黒人と同地域に住み、毎日一緒に遊ぶことが出来た。当時のことを思い起こしながら、特に仲のよかった一人の黒人少年について、あるインタビューの中でラ・グーマは回想するー

私の家の真向いに住むダニエルという友だちのことを特に憶えています。ダニエルは黒人でしたが、当時は正式な形での人種隔離、つまりアパルトヘイトはありませんでしたから、労働者階層は黒人もカラードもインド人も同地域で一緒に住んでおりました。ダニエルは私とおない年の黒人少年で、二人は大の仲よしでした。ダニエルはすごく生きのいい陽気な奴でしたから、特に私のお気に入りで、ずいぶん一緒に遊んだものでした。しかしながら、そのうち居住区の人種隔離政策もだんだんと厳しくなって、ダニエルの家族もその地域から出て行かざるを得なくなりました。ダニエルの家族はケープタウンの郊外のランガというところへ移りました。それっきり、ダニエルとは長いこと会いませんでした。それからずっとあと、私が自活するようになって働きに出ていたある日、突然、再会することになりました。しかし、そのときのダニエルはもはや昔のダニエルではありませんでした。もういっぱしのチンピラで、刑務所にも行ったことがあり、これから先にバラ色の未来が開けているとは私にはどうしても思えませんでした。うまくやっていけない環境の犠牲になったかつての友人と再会したのは心動かされる痛ましい経験でした。

徐々に強化されるアパルトヘイト政策によって、仲よしの二人、カラード少年アレックスと黒人少年ダニエルは引き離された。(ダニエルは『夜の彷徨』の主人公青年マイケル・アドニスのモデルの一人である)。人種隔離政策は、様々な形で多感な少年の心に深い傷跡を残したが、前号のインタビュー記事にあった「サーカス」の一件もその一つである。諸々の差別を規定したアパルトヘイト法は「サーカス」にまで及び、黒人席に座っていたラ・グーマ少年は、白人と同じ料金を払いながら、演技者たちの背中ばかりを見るはめになった。しかし、その体験が、結果的にラ・グーマの心に「ある程度の政治的意識」を芽生えさせるきっかけになるのだが・・・・・・。それっきり、南アフリカでラ・グーマがサーカスに行くことはなかったが、亡命後のヨーロッパでサーカス見物に出かけた時のことに触れて「当時はじめて味わった人種差別の体験、その時の状況を、とても悲しい思いで振り返りました」とあるインタビューの中で答えている。(「サーカス」の経験は、のちに作品の中で少し顔を出す。『季節終わりの霧の中で』において、主人公ビュークが、あるお祭りに出かけた時に「少年の頃、叔母にサーカスに連れて行ってもらったことがあるよ」とほろ苦い思い出を友人に語りかける場面である)

 『夜の彷徨』(ナイジェリア版)

1932年、ラ・グーマはアパー・アッシュリ小学校に入学、ダニエル少年と遊んだのもその頃である。1938年には、トラファルガル・ハイスクールに入学。学業成績は特によくはなかったが、それは関心がもっぱら学校の外にあったからである。当時闘争拠点になっていたラ・グーマ家では、ヨーロッパで台頭し、その勢力を拡大して自由主義陣営を脅かしつつあったファシズムが話題の中心であった。当時まだ13歳であったにもかかわらず、アレックス少年はスペイン市民戦争の国際旅団への従軍を志願している。もっとも、13歳の少年の夢が実現することはなかったが。(最近NHK番組「1963年・スペイン」というのがあった。昨年10月に首都マドリッドで行なわれたスペイン内戦50周年記念集会の模様や、日本人国際義勇兵の話やら、なかなか興味深かった。クーデターを起こした軍部ファシズムに対抗し、自由を守れ、と子供心にラ・グーマも熱く燃えていたわけだ。「スペインでの出来事が家族の間や家でたびたび行なわれていた会合でよく話題にのぼりました。自分の性格の理想主義的な側面がその出来事から幾分か刺激を受けたのではないかと思います」とのちにラ・グーマは語っている。貨物船で函館からニューヨークに密入国し、某レストランで働いていたジャック・白井という日本人がひとり、アメリカリンカーン旅団の義勇兵として市民戦争に参加した史実と、南アフリカの片隅で、年端も行かぬラ・グーマ少年が志願をした、という史実に、なぜかしら感動を覚えた)

15歳、まだハイスクール在籍中に、第2次大戦が始まった。父親は、エチオピア、エジプトでケープ陸軍兵団員として従軍している。ラ・グーマは再び志願したが、今度はやせ細っていたために入隊を断られ、又も「戦争参加」は果たせなかった。しかし、戦争への関心は消えず、1942年に入学許可認定試験に合格すると、卒業を待たずに学校を離れ、職に就いた。結局、ケープ・テクニカル・カレッジは、のちに、働きながら修了することになる。

最初、ラ・グーマが働いたのはある倉庫で、梱包をしたり家具を運んだりの仕事であった。そのうち、一般労働者のより近くで働きたいとの願いもあって工場で働くことを決意、運よくケープタウンの「メタル・ボックス・カンパニー」で職を得る。約2時間、缶詰用の缶の製造などに携ったが、賃上げや労働条件改善を求めたストライキを先導した委員会の一員であったとの理由で解雇された。しばらく、ケープタウンの商店や石油会杜の帳薄係をやったのち、レポーターになる。「メタル・ボックス・カンパニー」で、はじめて解放闘争に関心を持つようになったラ・グーマは次第にストライキやデモなどの労働闘争に積極的に参加するようになった。1948年、アフリカーナの国民党が政権を握ってからはアパルトヘイト政策が強化され、反体制運動に対する弾圧はますます厳しくなって行った。この頃から、ラ・グーマは実質的に闘争家として、民族解放のための闘いの渦中に身を置くことになる。

2.作家として

◎闘いのさなかに

国民党が政権を取る前年、ラ・グーマは青年コミュニスト・リーグに参加、翌年南アフ刃力共産党に修り「第20区」のメンバーになった。1950年の「共産主義弾圧法」によって共産党がその活動を禁止され、弾圧された時、著名コミュニストのリストにラ・グーマの名も記載されていた。

1954年には、看護婦であり助産婦であったブランシ・ハーマンと結婚した。ブランシは、ケープタウンで名高いセイント・モニカ産院を卒業したあと、ケープタウンの貧民層のあいだで働いていた。厳しい現状に立ち向かいながら必死に働く日々のなかで、いつしか虐げられた人々の生活地位向上を願って、自ら積極的に政治活動に参加するようになっていた。ハイスクール以来会うことのなかったラ・グーマと再会したのは、そんな政治活動を通してである。ブランシによれば、ラ・グーマは「いつもロマンティストで、最初のデートでプロポーズをしてくれましだ」とのこと。ブランシはその場で結婚を承諾はしたが、同時に父親を説得しなければ、と覚悟を決めていた。札付きのコミュニストで定職もままならぬラ・グーマだが、きっと私を幸せにしてくれるんだと・・・・・・。幸い、父親の反対はなかった。ただ、教会で式を挙げるように、との条件が出された。無宗教を任じていたラ・グーマだが、この時ばかりは譲歩し、教会で2人は、無事結婚式を挙げるごとが出来た。そして1956年に長男ユージーンが、1959年には次男バーソロミューが生まれている。(長男は結婚してソ連に在住、次男は東ドイツで写真の勉強中、とのことである)

ブランシさんと(1992年に、ロンドン亡命中のブランシさんから)

1954年、ラ・グーマは新しく創設された南アフリカ・カラード人民機構 (SACPO)の執行委員会の一人となった。翌年には議長となり、「人民会議」へのSACPO代議長にも選出されている。「人民会議」は、1955年6月25日、ヨハネルブルグ郊外のクリップタウンで開かれ、アフリカ民族会議(ANC)、南アフリカ・インド人会議 (SAIC)、南アフリカ労働組合会議 (SACTU)、民主主義者会議 (COD)、それにラ・グーマの属するSACPOの5組織から3000人の代議員が出席した。会議では「われわれ南アフリカ人民は、つぎの事頂を確認するよう南アフリカ全土と世界に宣言する。

南アフリカは、黒人、白人を問わず、そこに住むすべての人びとにぞくし、どんな政府も、全人民の意志にもとづかないかぎり、その権威を正当に主張することはできない。」[野間寛二郎著『差別と反逆の原点』(理論社、1969) に全文訳がある] という言葉で始まる自由憲章が採択された。あらゆる人種が手を携えて集い合った事実は白人政府に脅威を与えた。人民会議は弾圧され、消える運命となったが、28年後の1983年には、統一民主戦線 (UDF)として甦り、あらゆる人種、階層の人々が参加、650組織200人以上の大規模な合法的反体制勢力に発展することになる。

ラ・グーマは、しかし、人民会議に出席できなかった。ラ・グーマに率いられた代表団の一行は、ケープ州ビューフォート・ウェストで警察に足止めされたからである。結局は会議に出るはずの週末をトラックの中で眠って過ごすことになった。もっとも、そんなことで代表団の闘争への情然が萎える筈もなかった。ラ・グーマは、足止めを食った人々の心境を代弁して「SACPOや他の組織のこれからの課題は、自由憲章をわが国のすみずみにまで浸透させ、現在解放闘争にかかわっていない人びとにも自由憲章に具体的に示された考えを知らせていくことである」という新たなる意を表明している。その後ただちに、人民会議を指導した人たちへの政府側の弾圧が開始された。SACPOの議長ラ・グーマの演説や.抗議運動も厳しい当局のチェックを受けるようになった。それでもラ・グーマは一斉検挙や禁止令や拘禁を強行しても解放闘争を止められはしない」と強調し続け、次々と出される差別法に対する攻撃の先頭に立った。中でも、1956年ケープタウン市当局がバスに於ける人種隔離法の決定を下した際には、当局を烈しく非難し、4月、5月にかけて、バスボイコット運動を指導した。その際には「ケープタウンの人民は、白人政府の人種的狂気に対して、いつでも全面的に反対闘争に入る準備があることを示したのである」という声明を発表している。そして同年のメーデーには次のような激しく挑戦的なメッセージをラ・グーマは贈っている。

この重大な日に、私は南アフリカのすべての労働者と虐げられた人びとに対して、民主的で明るく平和的な未来を願いながら、心よりのご挨拶を申し上げます。本年度のメーデーは、現支配階層と国民党圧制者達によるますますの弾圧により冒濱されています。警察のテロ行為や暴力行為もおびただしいものがあります。

「白人当局」と「クリスチャン市民」は、鞭やホースや機関銃をちらつかせながら誇らしげに行進しています、しかしながら一方では、自由憲章に新しいいのちを吹き込むために、アパルトヘイトやパス法、それに強制退去、国外追放や経済搾取に反対する虐げられた入びとの勇ましい闘いによって祝福を受け、このメーデーはまばゆいばかりに盛り上がっています。日に日に世界じゅうの虐げられた人びとの連帯は強くなっています。反帝国主義や平和や友交の輪がアフリカからアジアヘの広がりをみせています、そして植民地主義的奴隷制や戦争の光は急速に翳りを見せています。アパルトヘイトを打倒せよ。帝国主義と戦争を打ち崩せ! 新民主主義と平和と国際連帯に幸いあれ!

ラ・グーマが本格的に創作活動を始めたのは「ニュー・エイジ」からの誘いを受けたのがきっかけである。「ニュー.エイジ」は、既に廃刊に追いやられていた「ガーディアン」及び「アドヴァンス」の精神を継承した進歩的左翼系の週間新聞である。その目標には「良心、出版、言論、集会、運動の自由。民主主義と法律規定の復活。人種間、国家間の平和、すべての人間にとっての政治的、社会的、文化的な平等諸権利と膚の色、人種、信条による差別の撤廃」が掲げられていた。社主は、リベラルなイギリス系白人で、自分たちと同じ文化背景や知性を備えた購読者層にその目標に沿った訴えかけをしたいと願っていた。同時に、非白人社会での購読者を増やすねらいで、黒人社会で活躍できるスタッフを探してもいた。そして、白羽の矢が立ったのが、ラ・グーマである。ラ・グーマは、当時すでに、ケープカラードの杜会でかなりの影響力を持っていたし、同系の「ガーディアン」で既にその文才を示していたから、うってつけの人物であったわけである。「『ニュー・エイジ』からの仕事の誘いを受けた時、あれが本格的に私が書き始めた最初です。必然的に、私は机に向かって、短篇を書いたんだ、と今思います」と当時のことをラ・グーマは振り返っている。闘いのさなかに、こうして作家ラ・グーマが誕生した。こののち、闘争家として、作家として、精力的に解放闘争に、創作活動に活躍することになる。(6月17日)

「ニュー・エイジ」で担当したコラム欄 “Up My Alley"

(1988年にUCLAの図書館でお目にかかった新聞の現物)

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」8号22-26ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマへのインタビューの日本語訳で、インタビューは、コートジボワール人学者リチャード・サミン氏が1976年にタンザニアのダルエスサラーム大学に滞在中のラ・グーマに行なったものです。

本文(写真作業中)

《アレックス・ラ・グーマヘのインタビュー》

 

時 1976年1月16日、27日

所 ダルエスサラーム大学(タンザニア)
玉田吉行 訳
—-南アフリカで政治的なかかわりを持つようになったきっかけについて、少しお話ししていただけませんか。
ラ・グーマ 両親が政治とかかわっていました。父は労働組合員でしたし、1924年に入党した共産党員でした。(注1) 7歳の時、母があるサーカスに連れて行ってくれました。母に、ピエロはどうしてこちらに背中ばかり向けて演技をするのか 、と尋ねました。それは、ピエロが白人観衆のためにだけ演技しているからよ、とのことでした。このことによって、ある程度の政治的意識が私の心の中に芽生えました。

—-南アフリカについてのあなたの展望はどんなものですか。

ラ・グーマ 私は南アフリカをひとつの統合民主国家、ひとつの民主主義国家だと考えています。従って、すべての人びとが、実際に融合してひとつの南アフリカになることです。

—-自伝『2番通り』(注2) の中で、E.ムファレレ (注3) は「文学的素材として南アフリカの状況が如何に月並みなテーマにしかならないかが今わかりました」(注4) と書いています。その意見にどの程度賛同されますか。

ラ・グーマ ムファレレと全く意見が同じというわけではありません。南アフリカは人種的偏見、民族主義、階級闘争などすべての矛盾が存在する国です。作家にとって南アフリカは一つの宝庫なのです。

—-南アフリカで書かれた小説について話していただけませんか。それらの小説はどんな状況の下で書かれたのですか。

ラ・グーマ 1960年に『夜の彷徨』(注5) を書きました。私は、官憲の手に葬られたある少年の短かい新聞記事をすでに読んでいました。そののち刑務所で数ケ月過ごしました。妻の協力を得て、どうにかその小説を書き上げました。一九六一年に釈放されたあと、ウーリ・バイア (注6) に会いました、その時、私の短篇を読んだことがあると知りました。当時、作家活動を禁じられていましたし、私の書いたものを引用すれば罰せられることになっていました。そこで、その原稿をウーリ・バイアーに渡したのです。(注7) それは1962年にナイジェリアで出版されました。1962年には『三根 (みこ)の縄』(注8) に取りかかりました。その原稿はベルリンのセブン・シィーズ出版社に郵便で送りました。その本は一九六四年に出版されました。『石の国』(注9) は拘留中の自らの個人的な経験を語っています。その作品は1964年と65年にかけて書きました。そうしている間に私は南アフリカを離れました。『季節終わりの霧の中で』(注10) は1967年にロンドンで執筆し、出版されました。

—-『夜の彷徨』の舞台設定には何か特別重要な意味合いがあるのですか。

ラ・グーマ まず何より、「第六区」はよく知っている場所だということです。私はそこで生まれ、そこで暮らしました。しかし、同時に閉所恐怖を暗示し、抑圧的な雰囲気を醸し出したいとも考えました。

—-『夜の彷徨』は多少悲劇仕立てだと言えば賛成して下さいますか。

ラ・グーマ ええ、執筆する際に、そういう考えは心の中にありました。その物語は徐々に最高頂に達して劇的な緊張感を生み出します。

—-あなたの小説、ことに『夜の彷徨』と『季節終わりの霧の中で』では、登場人物がよく場所を変えて動きます。そこにはどんな意図があるのですか。

ラ・グーマ 私はただ南アフリカの人々の経験を語りたいのです。選択の余地はありません。人は自らの労働力を切り売りすることを余儀なくされます。アフリカ人は決してひとところに落ち着くことは出来ません。その場面で他の人物を紹介し、隠された、最下層の南アフリカの姿を示すのもひとつの文学上の手法なのです。細かな部分では自伝的なところもあります。

—-現に南アフリカに存在する社会的状況が、あなたの選ぶ文学上の形態と何か関連がありますか。

ラ・グーマ たとえば、小説『夜の彷徨』では、「第6区」のイメージ、「第六区」の雰囲気を創り出すことに努めました。そこで、その目的のために言葉を選び、文章を組み立てました。

—-あなたの使う隠喩的表現には、人間的なものを非人間的なものに同化してしまう傾向があります。ただの叙述的描写のためですか、それとも何か特別な意味を表すためにそうしているのですか。

ラ・グーマ 私の場合、小説の中では、人間らしさを失なった白人を扱っています。ただし、個人的に非人間的な感情はありません。私はまた、肉体的にも、精神的にも疎外の問題を取り扱っています。

—-文学上の技法として象徴的表現をどうお考えですか。

ラ・グーマ 読者が正しく解釈する力を備えている場合には、象徴的表現に私は反対です。私の小説では、写実的表現と平明な象徴的表現が組み合わさっています。

—-小説を書く何か特別な方法を編み出されましたか。

ラ・グーマ いえ、特別には。私には決まった予定表といったものはありません。ある考えを広げていき、頭の中でそのプランを立てる、それから書き始めます。ただそのうちのいくらかを書くだけです。また、その考えをおし広げて、もう一度書きます。草稿は一本しか書きません。草稿を終えると手を加えます。組み立てについては、書く作業をしている間じゅう、変わることはありません。

—-あなたの場合、亡命したことが、書くことにどれほど影響を及ぼしていますか。

ラ・グーマ 亡命したから変わったということは全くありません。見るものごとは変わるかもしれません、でも、主だったところは当然付随的についてくるものです。南アフリカのほかでも、書こうと思えば何についてでも、私は書くことが出来ます。

—-どんな形であれ、いままでに、ある特別な作家、もしくはある特別な文学的伝統の影響を受けたことがありますか。南アフリカのアフリカ文学に感化を受けたことはありますか。

ラ・グーマ ええ、私の受けた文学教育はかなり伝統的なものです。ドストエフスキー、ゴーリキー、スタインベック、それにディケンズを読みました。私が思うのは、人は社会的状況によっていやおうなしに新しい特徴を見い出すということです。比喩的表現の技法とか比喩的表現の内容とか、小説の場面の設定とか。アフリカ文学の中にはいくらか読んだものもありますが、影響を受けたとは言えません。その上、南アフリカには、アフリカ文学のほかにイギリス文学もあるのです。

—-最初の小説を書かれた時、南アフリカで出版出来ると考えられましたか。特にどんな読者層のために書かれたのですか。

ラ・グーマ 私はその本が書きたかったから書いたのです。そして南アフリカで出版されたらと願いました。ケイプ・タイムズ紙 (注11) はその書評を書きました。それから発禁処分となったのです。私は主に南アフリカの人たちのために書いていますが、同時に英語を使っている人々のためにも書いています。

—-南アフリカには短篇小説が多いのですが、それをどう説明されますか。

ラ・グーマ 他より短篇小説の方が、烈しさの度合いは強く、それが今の南アフリカの状況により適っています。南アフリカではまず何より執ように事態を批判する必要性があります。次に出版の問題があります。つまり、短篇なら出せる雑誌がたくさんあるのです。

—-ロシアの批評家ルナチャールスキー (注12) は「芸術の神髄は、特殊的、一時的なものを、普遍的、恒常的なものにかえることであり、出来得る限り広範な読者の心に感化を与えることである」と言っています。あなたに関して言えば、南アフリカの現状ではその目的は妨げられてはいませんか。

ラ・グーマ 芸術性のゆえにそんなことはありません。芸術性によってものごとは普遍的になります。
—-再びムファレレを引用しますが、南アフリカの創作について「人間を人間として考え政治環境の犠牲者としては考えない時など、ほとんど一瞬たりともない」(注13) といっています。その意見にどの程度賛成されますか。

ラ・グーマ 問題なのは人びとの威厳であり、作家は人びとを人びととして描かなければなりません。私は、小説の中では、特殊な社会背景の中での平均的な経験や人間の反応を書き表そうと努めました。洋の東西を問わず、作家は常に人間を取り扱います。要は何を優先させるかの問題だと思います。

—-それでは、小説の中で表現しようとされている価値とは一体どんなものなのですか。

ラ・グーマ できる限りもったいぶらずに人びとの威厳、基本的な人間精神を表現したいと思っています。宣伝やうたい文句は避けねばなりません。私も政治的なかかわりはあります。作家活動でも政治活動でも、人の威厳を擁護してはいますが、二つは違った活動なのです。

—-批評家ドドスン (注14) は「アフリカン・スタディーズ・レビュー」(注15) (1974年9月) の中で「ある南アフリカの文学作品の写実的表現には人びとや社会環境と政治機構との因果関係を辿ろうとする試みが見られない」と言っています。その意見に賛成されますか。あなたにとって写実的表現とはどんな意味を持っていますか。

ラ・グーマ 自らの観点を投影する流儀を自分で選ぶ創作においては、作家は好きならどんな手段でも選びます。私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです、写実的表現には原動力が含まれています、活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。そめ目的は読者の心を動かすことなのです。

—-小説は人びとに影響を与えたり、自分たちの現状について考えさせたりすべきだというのは、はっきりしていると思います。あなたの小説は南アフリカ内では読めず、南アフリカ外の人びとだけが読めるわけですが、その事実に満足しておられますか。

ラ・グーマ いえ、決して満足してはいません。中には本来の役目を果たしている作品もありますが、そのことはほとんど慰めにはなりません。

—-多くの批評家はあなたが楽天家だと言っています。それは当たっていますか。

ラ・グーマ そうです。私は楽天家ですよ。「なぜ」ですか。それは私に歴史がわかっているからだと思います。心の中には冒険心があります。その上、ユーモアの感覚があります。そして、今の南アフリカの状況を恒常的な特質だと、私は考えていないのです。

 

 

この記事は、フランスのソルボンヌ大学が発行している AFRICAN NEWS LETTER (仏文) 24号 (1987年1月) 8~14ペイジの “Interviews de Alex La Guma" (英文)を、同大教授主幹ミシェール・ファーブル(Michel Fabre) さんとインタビュー者、コートジボアールのアビジャン大学教授リチャード・サミン (Richard Samin) 氏の諒解を得て翻訳したものです。本年3月27日付けのサミン氏からの手紙によると、この記事は1976年1月16日と27日にタンザニアのダルエスサラーム大学で行なった2回のインタビュー記事をサミン氏が合成したものである。同年1月から2月まで当大学の客員作家にむかえられていたラ・グーマは、文学部主催のアフリカ文学国際会議で “African Literature and the Materialist Conception of the Arts" と “Literature and the Anti-Imperialist Struggle" の両論文を発表している。内容はアジア・アフリカ作家会議の「ロータス」誌 (Lotus) とアフリカ民族会議 (ANC) の「セチャバ」誌 (Sechaba) に発表された論文と同趣旨のものであったとのことである。更に、ラ・グーマの個人的印象については、筋金入りの活動家という評とは違い、非常に物腰が軟かく、ユーモアの感覚に富み、絶えず冗談をとばしたり、微笑みを絶やさなかったとのこと。サミン氏の研究にも好意的で、ロンドンでの研究・調査に際しては、いつでも快よく会見の要請に応じてくれたから、それだけよけいに、1985年10月12日、訃報に接したときの悲しみは大きかった、と綴られている。アパルトヘイトと闘い続け、夢半ば、異郷の地で果てたアレックス・ラ・グーマヘの追悼の意をこめ、このインタビューの記事を翻訳したが、作者紹介の、或いは作者研究の一助になれば、と願っています。

 

 

《紹介》

アレックス・ラ・グーマ (Alex La Guma) 南アフリカ、ケープタウン生まれのカラード作家。ケープ・テクニカル・カレッジ修了後、アパルトヘイト反対闘争を指導、何度か投獄、自宅拘禁を体験ののち、1966年ロンドンに亡命。アジア・アフリカ作家会議事務総長などを務める。1969年には同作家会議のロータス賞に選ばれ、翌70年のインド、ニュー・デリーでの第4回大会で受賞。1976年ダルエスサラーム大学の客員作家としてむかえられる。(滞在は1月からだが、2月には 、心臓病のためロンドンに戻っている。1978 年、アフリカ民族会議(ANC)カリブ代表としてキューバのハバナに赴任。1981年には来日、川崎市での「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」などに出席。1985年10月11日夕刻、心臓発作のため、ハバナにて死去。なお、邦訳については、本文中の『夜の彷徨』(注4参照)のほか、短篇小説「コーヒーと旅」(“Coffee for the Road")〔土屋哲訳『現代アフリカ文学短編集「』(鷹書房、1977年)〕、荒木のり訳「タシュケントヘもう一度」(“Come back to Tachkent" 1970) (「新日本文学」1971年3月号)、石井碩行訳評論「アパルトヘイト下の南アフリカ文学」(“South African Writing under Apartheid",1975) (「新日本文学」一九七七年四月号)がある。

 

《参考》

アパルトヘイト
1948年オランダ系白人を中心とする国民党が政権をとって以来、南アフリカ共和国が採用している人種隔離政策。異人種間のあらゆる結婚を禁じた「雑婚禁止法」、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人とのあらゆる肉体交渉を禁じた「背徳法」、全住民が白人、黒人(アフリカ人)、有色人種(カラード、アジア系)に区分されて登録される「住民登録法」、特に都市とその周辺地域で、白人、黒人、有色人種の個々の居住区を設定し、混在して住むことを禁じた「集団地域法」などを法制化し、南アフリカ政府は白人優位を維持してきたが、国際世論をかわし、5倍の人口の黒人に完全な市民権を与えないための方法として、ホームランド政策をとっている。その政策は、南ア黒人を民族別に十ケ所の地域(ホームランド)に押し込め、その地域を独立国とみなし、南ア国内に住む黒人はすべて、いずれかのホームランドから出稼ぎに来ている外国人として扱うことによって、黒人住民から南ア国籍を奪っている。そして、低賃金で雇える外国人出稼ぎ労働者を確保することによって最大限の経済利潤をあげようとするアパルトヘイト体制の主柱をなしている。なお、ホームランドは国際社会では、独立国として承認されていない。これらの人種差別制度の手続き法的なパス法では、16歳以上の黒人は身分証(パス)の携帯を義務づけれ、パスを持たずに白人地域に立ち入ることは許されないし、パスがあっても、特別な雇用契約がない限り72時間以上、白人地域にはとどまれないことになっていた。現ボタ政権は、84年9月には、カラードとインド系には参政権を認め、白人、カラード、インド系からなる3人種別の2院制議会を誕生させたり、85年4月には雑婚禁止法と背徳法を撤廃したり、86年4月にはパス法廃止宣言を出したりするなど、一連の対黒人融和策を打ち出してきたが、一方では85年10月18日の詩人モロイセ氏の処刑強行や非常事態宣言などの「力」による制圧姿勢を強めており、多数派の黒人には、未だ参政権も与えていない。それは、昨年来日したデズモンド・ツツ主教(現大主教)が「アパルトヘイトと闘う」と題した講演の中で「私はノーベル平和賞を受賞しました。私は55歳です。私は母国において投票権を持っておりません」と語ったとおりである。(ツツ師は8月6日に広島で「86平和サミット基調講演」を、7日には東京日比谷公園大音楽堂でその講演を行なっている。講演要旨は「朝日ジャーナル」誌9月5日号に収録され、そのもようが10月12日深夜に「"名誉白人〃に問う・南アツツ主教は訴える」と題して日本テレビ系で放映された。
現在、反対制の非合法組織アフリカ民族会議 (ANC)、統一民主戦線 (UDF) などを中心に、アパルトヘイト打破をめざす解放闘争が続けられている。本年4月20日にはANC現議長オリバー・タンボ氏が来日、中曽根首相、倉成外相と会談した。同24日には、大阪の四天王寺学園で約1000名の聴衆を前にして「アパルトヘイト撤廃のために、日本が経済制裁を強化するよう、それぞれ応援していただきたい」と訴えた。UDFの提唱者アラン・ブーサック牧師が教会団体などの招待で来日、8月には外務省の招待で再来日の予定である。南ア問題について、新聞では、断固とした経済制裁の必要性を説く坂本義和氏(ツツ主教歓迎委員会代表)の「南ア問題と『国際日本』」(朝日新聞1986年8月1日夕刊)、本では、ツツ師の『南アフリカに自由を』(桃井・近藤訳、サイマル出版会、1983年)、ブーサック師の『アパルトヘイトに抗して』(君島訳日本基督教団出版局、1986年)、楠原彰『アフリカの飢えとアパルトヘイト-私たちにとってのアフリカ』(亜紀書房、1985年)、篠田豊『アパルトヘイト、なぜ? -南アの実情、歴史、そして私たち-』(岩波ブックレット no.51、1985年)、伊高浩昭『南アフリカの内側-崩れゆくアパルトヘイト-』(サイマル出版会、1985年)、英連邦賢人調査団『アパルトヘイト白書-英連邦調査団報告-』(笹生ほか訳現代企画室、1987年)などがある。又、アフリカ行動委員会編パンフレット『アパルトヘイトとニッポン』(1986年) や国連からもパンフレット『南アフリカの政治学』(国際連合広報センター、1986年)など多数のアパルトヘイト関係の資料が提出されている。テレビ番組では、昨年7月14日のNHK特集「南アフリカで今何が起きているか-非常事態宣言一カ月泥沼の人種対立」と、本年3月25日のNHK海外秀作ドキュメンタリー「メイドとマダム・アパルトヘイトの断面」(1986年イタリア賞特別賞受賞) が、最近の南アの緊迫した情況を伝えている。

 

《訳注》

(1) 父ジェイムズ・ラ・グーマ (James La Guma, 1894-1961) は、精力的な活動家で 、1950年に共産党が禁止された時には中央委員会の一員であった。家には活動家の出入りが激しく、多忙であったが、子供の教育への配慮も怠らず、息子アレッ クスに、政治的、文学的に少なからず影響を及ぼした。アレックス自身、1947年に青年コミュニスト・リーグに参加、翌年南アフリカ共産党に移っている。1950年の党禁止の際には、その名が著名コミュニストの名簿に記載されていた。

(2) 原題は Down Second Avenue (London:Fabre,1959; Berlin:Seven Seas,1962; New York:Doubleday,1971)で、貫名美隆氏の邦訳『わが苦悩の町2番通り-アパルトヘイト下の魂の記録』(理論社、1965年)がある。邦訳副題が示す通り、きびしい人種隔離政策をしく南アフリカ共和国の首都プレトリアの一画に設けられたアフリカ人指定居住地区「二番通り」で過ごした幼少期から、一九五七年にナイジェリアに亡命したのち、あとがきを書くまでの著者自身の「魂の記録」が綴られている。

(3) エゼキエル・ムファレレ (Ezekiel Mphahlele,1919) 南アフリカ、マラバスタド出身の黒人作家。高校教員の時、バンツー教育法反対闘争を指導、52年に解雇、教職追放処分を受ける。一時「ドラム」誌の編集を担当、56年に南アフリカ大学で修士号を取得、57年にナイジェリアに亡命、「黒いオルフェ」誌を編集。ナイロビ、パリを経て、70年渡米、大学で教鞭をとる。78年祖国に戻り、現在ヨハネスブルグのヴィットヴァータースラント大学教授。著書には、既出の自伝のほか 、『流浪者たち』(The Wanderers, New York: Macmillan,1971; London: Macmillan,1972) などがある。

(4) 終章「おしまいに」(“EPILOGUE")からの引用。1957年9月にナイジェリアの首都ラゴスに着き、学校の仕事のめどがついたあと、この自伝の後半を仕上げながら、著者がナイジェリアと南アフリカを比較して述懐したところ。

(5) 原題は A Walk in the Night (Ibadan,Nigeria: Mbari Publications,1962; rept.London: Heinemann and Evanston, Illinois: Northwestern University Press, 1967 as A Walk in the Night and Other Stories)で、酒井格氏の邦訳が『全集現代世界文学の発見9 第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)の中に収められている。ケープタウン、のスラム街「第六区」で職を解雇されたばかりのカラード青年主人公マイケル・アドニスが過ごす夜の数時間を通して、アパルトヘイト下のカラード社会の実情が克明に描かれている。

(6)ウーリー・バイアー (Ulli Beier,1922-) ドイツの作家。編著『黒いオルフェ』〔Black Orpheus; an anthology of new African and Afro-American stories (London: Longman, 1964)〕、編著『アフリカ文学の紹介』〔Introduction to African literature; an anthology of critical writing from Black Orpheus (Evanston: Northwestern University press,1967)〕、著書『ナイジェリアの芸術』〔Art in Nigeria (Cambridge: University Press,1960)〕など、多数の編著書がある。

(7) 自宅拘禁中のラ・グーマが、どのようにして首尾よく当局の手を逃れたのかについて、亡命詩人デニス・ブルータスが「アパルトヘイトに対する抗議」と題する文章の中で次のように記しているのは興味深い。「私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中も小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜局員か国際警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである」(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年、191~192ペイジ)

(8) 原題は And a Threefold Cord  (Berlin: Seven Seas,1964) で、『夜の彷徨』と同じく、カラード青年主人公チャーリー・ポールズと両親、弟妹、叔父、好意を寄せる未亡人フリーダなどの日常生活を通じて、アパルトヘイト体制下に呻吟する惨めなカラード社会の実態が綴られている。

(9)原題は The Stone Country  (Berlin: Seven Seas,1967) で、「政治犯」として投獄されたカラード青年ジョージ・アダムズが体験する獄中記。食事から一般的取扱いに至るまでアパルトヘイト体制のしみこんだ牢獄は、社会の生んだ「政治犯」も「殺人犯」もかかえこむ、まさに色のない「石の国」、ラ・グーマ自身の獄中体験をもとに、ラ・グーマの観点から、リアルに描かれている。

(10) 原題は In the Fog of the Seasons’ End  (London: Heinemann,1972; New York: Third Press,1973) で、カラード青年主人公ビュークスの地下活動を通じて、南アフリカのアパルトヘイト反対闘争が急速に進展していることを示唆している。小説は、1976年に殺された親友活動家バジィル・フェブルュアリと他の戦士たちに献じられている。

(11) 南アフリカ、ケープタウン発行の英字経済新聞。日刊、1986年創刊。

(12) ルナチャールスキー (Anatolii Vasilievich Lunachar’skii,1875-1933) ソ連邦の文芸批評家、劇作家、政治家。1917年の10月革命後、初代教育人民委員に選ばれ、モスクワ大学文学芸術部教授、初代スペイン公使などを歴任、南フランスで死去。ソ連邦の教育、社会主義文化発展のために大きな役割を演じた。文学史、芸術史の研究者としても活躍、ロシアの文学、音楽、演劇についての多くの論文、美学についての著作などがある。

(13) 自伝第23草「ナイジェリアヘの切符」 (“TICKET TO NIGERIA") からの引用 。パスポート、切符を手にしてナイジェリアに発つ直前に、多くの友人が出国を思いとどまらせようとした。教えたくても教えられず、書きたくても書けないと嘆くムファレレに「きみのほしい材料はすっかりここにある。だから刺激にはこと欠かない」と反論した友人にむかって「それが困るのだ、麻ひさせる刺激なんだ、ここのは、いつも動いていないとしびれてしまうのだ。何でもかんでも毒舌のかぎりに 、激烈に書きつづけなければいけないんだ」と答えた文章に続くくだり。

(14) ドドスン (Don Dodson) 同誌7巻2号 (1974年9月) の著者紹介によると、ドドスン氏は、米スタンフォード大学の Acting Assistant Professor of Communication でアフリカのマスメディアと大衆文化の専門家。論文 “The Role of the Publisher in Onitsha Market Literature." in Research in African Literature (Fall 1973) が紹介されている。

(15)「アフリカン・スタディーズ・レビュー」(The African Studies Review) はアフリカ研究会 (The African Studies Association) の機関誌で、現在は、季刊で本部がカリフォルニア大学ロサンゼルス校に置かれている。経済、歴史関係の論文も多く、書評には定評がある。

4月29日           (大阪工業大学嘱託講師)

執筆年

1987年

収録・公開

(翻訳)、「ゴンドワナ」7号19-24ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-

1976~89年の執筆物

概要

松山市内で弁護士をされている薦田伸夫さんが誘って下さった「アサンテ・サーナ!(スワヒリ語でありがとう)自由」という催しの一環として、1989年7月1日に、愛媛県の松山東雲学園百周年記念館で講演した「アパルトヘイトの歴史と現状」をもとにしてまとめたものです。その催しでは、他に、アパルトヘイト否! 国際美術展・写真展、エチオピア子供絵画展、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等の資料展示、「源の助バンド」によるレゲエのコンサート、「アモク!」の映画会が、主に一日、二日の両日にわたって行なわれました。

本文

アパルトヘイトの歴史と現状 

ズールー人か「ズールー族」か?

南アフリカは南半球にある、日本から遙かに離れた遠い国なのですが、いろいろな意味で、日本と深く係わっています。

日本にいる外国人の方から、近ごろよく苦情を聞きます。先日も、新聞の投書欄で次のような記事を見つけました.熊本県の九歳になる女の子のものです。

わたしは、今まで、いろいろなさべつをされてきました。でも、いちばんいやだと思ったことは「外人」といわれることです。かみの毛の色がちがったり、名前が長かったり、そういった少しのちがいで「外人」という言葉をみなが口にするのです。

わたしは「外人」という言葉があったってかまいません、怖、も、それを、いじめたり、からかったり、さべつとして使われるのは、大へんかなしいものです。

宮崎で知り合ったスウェーデンの女性は、日本入は興味本位で、なぜ?なぜ?と聞きたがり、ひどい人になると、なぜ金髪なのか、なぜ目が青いのか、と本気で質問する、と憤慨していました。どうして、日本では小さいころから、家庭で、世の中にはいろんな人がいることを教えないの、この頃よく言われている「国際化」っていったい何なの、と悲しそうに言っていました。これは、単に「ガイジン」という言葉だけの問題では決してないのです。その言葉の背後にひそむ、ものの考え方や、そんな言葉を生み出す、ものの見方こそ、本当は大切なのです。

新聞やテレビなどでよく見かける「族」という言葉についても同じことが言えます。「最強の部族と讃えられるマサイ族」とか、「最近南アフリカでは部族問の対立が激しくなって・・・」とかの「族」ですが、新聞やテレビだけでなく辞書などでも「族」が使われています.特に、文化人類学や言語学ではその傾向が強く、学者の中には、そんなことは言葉の問題にすぎないと言う人もいます、でも、果たしてそうでしょうか。

南アフリカのズールー人の中で自分たちのことをズールー「族」と呼ぶ人は、まずいないと思います。「部族」が、「未開で、野蛮な」という軽蔑的な意味を含んだ、西洋人の作った言葉だと知っているからです。

アフリカは発見されたのか?

アフリカの歴史と西洋人のアフリカ観

伝統的な西洋の歴史では、アフリカやアメリカはヨーロッパ人によって「発見された」とされていますが、今日ではそんなこととを本気で信じる人はいないでしょう。第二次世界大戦後の考古学や歴史学の研究で、アフリカにもヨーロッパに勝るとも劣らない文明が幾つもあったこと、アフリカ文明がヨーロッハ文明に多大な影響を及ぼしたこと、18世紀後半までは、社会的、経済的に見て、ヨーロッバよりも優れていた地域がアフリカには多くあったことなどが明らかにされています。

何年か前、NHK海外ドキュメンタリーシリーズで、イギリス人歴史家バズゥル・デヴィドゥスンがレポーター役の、イギリスMBTV製作「アフリカ8回シリーズ」という番組が放映されたことがあります.その一部を引用しながら、アフリカの歴史と西洋人のアフリカ観について、少し触れたいと思います。

14世紀、15世紀頃の東アフリカの海岸地域は、遠くインドや中国とイスラム世界、それにアフリカ内部を結ぶ黄金の交易路として非常に栄えていました。文化水準も高く、交易を結んだポルトガル人は品物が粗悪だという理由で、貿易を断わられたりしています。そんな中にキルワという街がありましたが、その島は、ある日廃墟となります。その出来事について、デヴィドゥスンは次のように語ります。

バズゥル・デヴィドゥスン

・・・その年バスコ・ダ・ガマが率いる小さなポルトガル船三隻が、歴史上初めて、喜望峰を回りインド洋へと入ってきました.ここにヨーロッパ人の侵略が始まります。ポルトガルヘ戻ったガマは旅先で目にしたものを報告しました。そして、七年後の1505年、今度は前より大きな武装した船団が水.平線に姿を現わしたのです。それに同行したドイツ人ハンス・マイルは、彼が目撃したことをこう書いています。

ダル・メーダ提督は軍人14人と6隻のカラブル船を率いてここへ来た提督は大砲の用意をするように全船に命令した。7月24日木曜未明、全員ボートに乗り上陸、そのまま宮殿へ直行し、抵抗するものはすべて殺した。同行した神父たちが宮殿に十字架を降ろすと、ダル・メーダ提督は祈りを捧げた。それから全員で街の一切の商品と食料を掠奪し始めた。2日後、提督は街に火を付けた。

(「第4回、黄金の交易路」)

キルワのこの虐殺事件あたりを境に、東アフリカ一帯の交易網はずたずたにされるばかりか、アフリカはヨーロッパ人の飽くなき侵略の餌食となります。と同時に、それまであったアフリカ人とヨーロッパ人、黒人と白人の対等な関係は崩れ去り、奴隷貿易や植民地政策を正当化しようとする西洋中心の考え方が捏造されていきます、同シリーズに、19世紀の思想家や探険家について紹介した次のような箇所があります。

……ドイツの高名な哲学者フリードリッヒ・ヘーゲルもこの点では同じでした。ヘーゲルはアフリカを訪れたこともなく、アフリカ人についてもそれほど知らなかったはずですが、1813年こう言っています。

「アフリカは幼児の土地である。自我の意識に照らしだされた、歴史のない、夜の闇に閉ざされた土地である。歴史とは無縁の土地なのである。」

へーゲルだけではありません。こうした見方は広く行き渡っていたのです。アフリカ探険家で、風習や吾語もかなり研究していたイギリス人リチャード・バートンでさえ、こう言っています。

「黒人の研究は、未発達の精神の研究にほかならない。黒人は文明人に近づこうとしている野蛮人、というより文明人が退化したもののように見える。無知蒙曚、大人になり切れず堕落する、幼稚な人種に属しているらしい。」

やはり、有名な探険家サミュエル・ベイカーは、ナイルの水源を求めてアフリカの奥地を歩き、こう書いています。

「アフリカの未開人の人間性は、非常に未熟で、まさに野獣同然、ただ貧欲で恩知らずで自分本位なだけだ。」(「第1回、最初の光り、ナイルの谷」)

何ともひどいことを言ったものですが、その後の歴史を見れば、それも充分に納得がいきます。奴隷貿易による莫大な富の集積によって産業革命は促進され、さばききれないほど多くの製品が生み出されます。そして、余った製品を売りさばく市場としての、アフリカ争奪戦が始まり、徐々に資本は集中していきます。帝国主義国家による植民地支配が確立し、やがて第一次世界大戦、第二次世界大戦へと向かいます。二つの大戦、いわゆる「先進国」の殺し合いによって国力が低下したお陰で、アフリカ諸国の大半は、名目上一応、独立は果たすものの、戦後の国力の回復に従って、再び搾取される構造が復活します。ヨーロッパ列強にアメリカや日本も本格的に加わった形での、新植民地支配です。そのような状況を考えるとき、「アフリカシリーズ」の締め括りにデヴィドゥスンが提言した次の言葉は、傾聴に値するでしょう。

奴隷貿易時代から植民地時代を通じて、アフリカの富を搾り取ってきた「先進国」は、形こそ違え今もそれを続けています。アフリカに飢えている人々がいる今、私は難しいことを承知で、これはもうこの辺で改めるべきだと考えます。今までアフリカから搾り取ってきた富、今はそれを返すときに来ているのです。(「第8回、植民地支配の残したもの」)

南アフリカは、今だに植民地支配の続く、アフリカ大陸最後の「白い牙城」です。日本とも非常に深く係わっている限り、知る知らないとに係わらず「南アフリカ」の問題は、私たちの問題でもあります。そして、何よりも大切なのは、南アフリカの提起する問題は、実は、私たちの心の問題なのです。そういう視点から南アフリカの歴史を見ていきたいと思います。

南アフリカか「南アフリカ共和国」か?

南アフリカの歴史

オランダ人の到来

最初に南アフリカに立ち寄ったヨーロッパ人はポルトガルの航海者達ですが、移り住んだのはオランダ人でした。1652年に、オランダの東インド会社のヤン・ファンリーベック一行は、南アフリカ南端のケープに上陸します。本国と植民地インドネシアとの問に、船に食料や水を補給できる中継基地を築くためでした。そして、現在南アフリカ第二の大都市となっているケープタウンがつくられます。植民地でなく、あくまで安定した補給基地を求めた東インド会社が「入植者」を認めたために、「宗教改革」で国を追われていた「新教徒」たちがヨーロッパから続々と流れてきます。「入植者」はオランダ人農民が中心で、オランダ語で「農民」という意味の「ボーア」と呼ばれます。そして後に、「アフリカに根ざした白八-という意味の「アフリカーナー」を名乗るようになります。現在、「アフリカーナーは南オランダのオランダ語を根幹とした一種の混成語「アフリカーンス語」を使っていますが、その言葉は英語と並んで公用語とされています。

ヨーロッバ人が移住を開始したとき、ケープ地帯には既に、狩りをして暮らしているサン人と牧畜を営んでいたコイコイ人が住んでいました、移住者たちはサン人を「ブッシュマン」、コイコイ入を「ホッテントット」と蔑み、戦争をしかけました。コイコイ人は屈伏し、広大な土地と家畜を奪われ、より抵抗を示したサン人は、大多数が虐殺されます。

女性不足から、移住者はコイコイ人や、労働力として輸入されたマレー人たちと結婚して、今日の「ケープカラード」と呼ばれる混血の人たちが生まれます。大体、18世紀末までに、先住のアフリカ人コサ人などと武力衝突を繰り返しながら、移住者たちは現在のケープ州東端にあるイーストロンドンあたりにまで達します。しかし、ケープ地方の支配を完成させるのは、後から乗り込んでくるイギリス人達でした。

イギリス人支配・アフリカ人制圧

市場争奪戦での激しい競争相毛フランスのケープ進出がアジアとの貿易を脅かすことを懸念したイギリスは、1795年大軍を送り込んでオランダ人を降伏させ、ケープを占領します、一度ケープをオランダ人の手にかえすものの、ケープの重要性を再認識したイギリスは1805年に植民地政府を樹立し、様々な政策を推し進めます。もはや奴隷を必要としなくなっていたイギリスは、1833年奴隷解放令を出しますが、これは奴隷に労働力を依存していたボーアに大きな打撃となりました。イギリスの支配を不満とするボーアは翌年、家財道具一式を牛車に乗せ、大挙して内陸部に向けて大移動、いわゆるグレート・トレックを開始します。その人たちは内陸部を経て、翌年には、一部はインド洋岸のナタール地与に、他は現在のジンバブウェとの圏境辺りに達しました。しかし、ナタールには強大なズールー王国があり、当然、ボーアはその人たちと衝突することになります。1838年12月16日、ズールー軍とボーアは、コモ川流域で決定的な戦いをします。この時、コモ川は牛車で円陣を組んだボーアに殺された三千人のズールー兵の血で真っ赤に染まったと言われます。それが、ブラッド・リバーの戦いですが、アフリカーナーにとってその日は勝利の記念日として、いまも国祭日となっていますが、アフリカ人にとっては、屈辱を記念し、解放を誓う日となっています,

戦いには勝ちましたが、ナタール州はボーアのものとはならず、1834年イギリスに併合されてしまいます。

ケープ州でコサ人と衝突したボーアは、こうしてナタール州でズールー人と戦います。ナタールをイギリスに併合されたボーアは再び内陸に移動し、トランスバール州でンデベレ人と、オレンジ白由州ではソト人とぶつかります。イギリスに追われた形のボーアが行く先々で、先住のアフリカ人を次々と痛めつけてゆくわけです。

アフリカ人は、ボーアに痛めつけられただけではありません。その後、ナタール併合を果たしたイギリスに、コサ人が居住地区のシスカイとトランスカイを、ソト人がバソトランドを、ズールー入がズールーランドを、次々に併合されてしまいます。ズールー人が「イサンドルワナ」の戦いでイギリス軍を壊滅させたことは有名ですが、アフリカ人たちは、結局、近代兵器の前に屈してしまいます。1854年頃には、南アフリカは4つの州に分割され、イギリスが海岸線の恵まれた地域ケーブ州とナタール州を領有し、ボーアに内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州での自治権を認める形で、一応は落ち着きます。

しかし、1867年にダイアモンドが、1886年には金が、それぞれボーアの自治領内で発見されたことによって、様相は一変します。

イギリス人とボーアは金とダイアモンドの利権をめぐって争いました。それがアングロ・ボーア戦争です。結局、またイギリス人の勝利に終わりますが、この戦いでイギリスは今後の植民地支配に、ボーアとの共存が不可避であることを悟ります。そして1910年、イギリスの自治領として南アフリカ連邦が誕生しました。

イギリス本国は南アフリカに移住した白人に全権を委譲したわけですが、その時以来、その人たちには帰るべき本国がなくなります。後に、大半のアフリカ諸国は独立を果たしますが、南アフリカは、独立時に白人に帰るべき本国がないという点で、ほかのアフリカ諸国とは少し違う道を歩むことになります。

イギリス連邦の成立・リザーブの設定

当初からイギリス人とボーアは絶えず抗争を繰り返しますが、アフリカ人を搾取するという点では利害が一致しました、両者の協力体制は、常に多数派の黒人の脅威にさらされていた少数派にとっては、必然の結果であったと言えます、

手を組んだ白人側は、アフリカ人搾取を基盤に体制固めをはかってゆきます。1913年、原住民土地法を制定します。それまで実際に行なわれていた慣習を法制化したものです。その内容は、「リザーブ」なるものを設定して、入口の七パーセントに及ぶアフリカ人を全国土の僅か7.3パーセントからなるリザーブに住まわせるというものでした。カラード人口の多いケープ州は例外とされましたが、白人はリザーブ内で、黒人はリザーブ外での土地売買を禁止されました。リザーブは大体が散在する不毛の土地でしたから、つまり、早い話が、手を組んだ白人が黒人から奪った土地を自分達のものだと法律で決めてしまったわけです。

その後、ケープ州の例外がはずされ、リザーブが13.7パーセントに広げられた形で、その法律は1936年に原住民信託土地法と名前を変えて今日まで生きています。

リサーブは、後にバンツースタン(1972年まで)、そしてホームランドと呼ばれるようになりますが、これがアパルトヘイト体制の基本となります。

農場では引き続きボーアがアフリカ人をこき使いますが、鉱山でも大規模な形でアフリカ人労働者が搾取されます。フォアマンと呼ばれる管理者には、労働争議の恐れの少ないヨーロッパ人が雇われたうえ、白人の突き上げで、アフリカ入は熟練技術を教えられない状態に置かれました。つまり、それはアフリカ人の賃金が極力抑えられたことに他なりません。コンパウンドと呼ばれるタコ部屋に押し込められ、季節労働昔としての厳しい労働を強いられたアフリカ人は、信じられないほどの低賃金で働かされました。

アフリカ人の抵抗・ANCの誕生

勿論、アフリカ人はただ黙っていたわけではありません。1882年12月には、百人のアフリカ人労働者がキンバリーで賃上げを要求してストライキを行なっています。1920年代の初めにはかなり大規模なストライキが敢行されますが、ことごとく力で制圧されます。

1912年、アフリカ人の土地権利の擁護と政治的権利を求めて、抵抗組織南アフリカ原住民民族会議が結成されます。1925年に名前がアフリカ民族会議と改められ、ANCと呼ばれますが、様々な人種グループから成る民主的で平等な統合国家実現をめざす、最も伝統的な抵抗組織となります。

当初は、イギリス本国に代表を派遣して誓願したり、大衆に直接呼びかけたりしますが、やがて大規模なデモやストライキなどを組織して大衆を動かすようになっていきます。

国民党政権の誕生

抵抗運動が高まるなか、アフリカ入労働者の犠牲のもとに、南アフリカの工業化は進んでいきます。ことに、製造部門は第二次世界大戦中に飛躍的な伸びを示します。国内産業を軍需産業に切り替えなければならなかったイギリスやアメリカが、連合国側についた南アフリカにも消費物資を求めたからでした。より多くのアフリカ人労働者を必要とした国内産業は、賃金の引き上げによってアフリカ人労働者を獲得しようとしましたが、安価なアフリカ人労働者に依存していた白人の農場経営者や鉱山所有者の反対にあい、逆に安定したアフリカ人の安価な労働力を保証する、国に規制された労働力市場を要求されました。アフリカ人労働者にその地位を脅かされつつあった白人の賃金労働者も、鉱山資本の拡大によって貧弱化していたボーアも、いわゆるプア・ホワイト層は人種差別を前面に掲げ、白人の特権を保証することをうたう国民党に傾いていきます。第二次大戦でナチスドイツに傾倒した国民党の掲げる人種差別主義こそが、社会の低辺層に沈みつつある自分達を救ってくれる唯一の道だと信じたからです。1948年の白人だけの選挙では、国民党が第一党となり、ここにアパルトヘイト政権が誕生します。

アパルトヘイト政策

アパルトヘイトは「分けること」という意味のアフリカーンス語で、「白人とアフリカ人が完全に分かれて生活し、それぞれの特性を発展させる」という未来図を描く国民党の政治スローガンです。しかし、白人杜会の繁栄がアフリカ人労働力の基礎の上に成り立っているかぎり、完全な分離は不可能であるのは明らかです。

アパルトヘイトは、小さなアパルトヘイトいわゆるプティ・アパルトヘイトと大きなアパルトヘイトいわゆるグランド・アパルトヘイトに分かれます。

プティ・アパルトヘイトは、ホテルやバスなどにおける白人と白人以外の人々との差別政策であり、グランド・アパルトヘイトは少数派の白人が大部分の上地を占有し、多数派のアフリカ人を散在する不毛の地に隔離することによって市民権を奪い、アフリカ人の安価な労働力を確保しようとする政策です。「白人地域」で働くアフリカ人は、「パス」の所有を義務づけられ、携帯しない場合や記載事項に不備な点が認められる場合は、罰金、懲役、強制労働を強いられるほか、エスニック・グループ別に割り当てられた「ホームランド」に強制的に送還されます。1965年から75年までの10年問に、年平均50万人の人が逮捕されたといいます。(パス法は86年7月に廃止されましたが、かわって全国一律の新たな身分証明書が交付されています。)また、労働許可証も必要とされ、仮に許可証があっても、余剰労働力として、政府の一方的な方針で強制送還される場合もあります.「遠い夜明け」でケーブタウン郊外のクロスローヅという「不法居住区」が強制的に撤去される凄まじいシーンがありましたが、あれは余剰労働力を取り払うためになされたものです。政府側のラジオ放送では、衛生上の見地から、という名口でしたが。

アパルトヘイト体制とは、つまり、少数の白人が大部分の土地を占有し、残りの散在する不毛の土地にアフリカ人を締め出したうえ、その労働力だけは利用して、南アフリカの豊かな富を独り占めにする国家形態です。しかも、その体制を守るための、自分たちに都合のよい法律を制定し、体制を維持するためには武力行使をも辞さないというファシズム体制なのです。

国民党が政権をとるまでは、現に法律はあったものの、締めつけはさほど強くなかったようで、たとえば、ケープタウン生まれの「カラード」作家アレックス・ラ・グーマは、小さい頃、黒人と同じ街に住んでいたといいます。集団地域法はあっても、実際にはそれほど厳密に実施されていなかった地域もあったということです。(本誌8号24ペイジ)

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

しかし、国民党が政権の座についてからは事態がにわかに厳しくなります。

会議運動・反逆裁判

次々と法律がつくられ、アパルトヘイト体制が強化されるにつれて、アフリカ人の抵抗運動も次第に高まっていきました。五十年代初めには、ANCを中心に、ガンジーに率いられたインドにならって「不服従運動」が展開されますが、厳しく弾圧されて運動は中止せざるを得なくなります。

しかしすぐ後に、アフリカ人は今度は白人、インド人、カラードと連帯して会議運動を展開します。そして、1955年、ヨハネスブルグ近郊のクリップタウンに様々な人種グループの代表が集まって国民会議が開かれ、自由憲章(フリーダム・チャーター)が採択されます。

解放後の、国の展望を示したもので、次のような書き出しで始まります。

自由憲章

われわれ、南アフリカの人民は、すべてのわが国土と世界に宣言する、

南アフリカは、黒人と白人を問わず、そこに住むすべての人々に属し、如何なる政府も、全人民の意志に基づかない限り、その権威を正当に主張することは出来ない、と。

自由憲章白体は短いものですが、人種の平等、少数派の尊重、基本的人権の確立、アパルトヘイトの廃止、土地の再配分などをうたっており、その後の解放闘争の指針となります。

会議運動の高まりに対して、政府は弾圧を強化、1956年12月に、闘争の指導者156名を一斉に逮捕し、全員を反逆罪で起訴します。いわゆる反逆裁判事件ですが、政府は、結局、反逆罪を立証しえず、16日後に全員を保釈し、61年3月までに全員に無罪を言い渡さざるをえませんでした。

大変な事態であったはずですが、ネルソン・マンデラを初めとする指導者層は、一堂に会せたことをむしろ感謝して、刑務所内で討議や勉強会を開いたといわれます。経済的に苦しく、広い国内を自由に動き回れる余裕のないひとが大部分だったからです。当時、ケープタウンの左翼系週刊紙「ニュー・エイジ」の記者をしていた先述のアレックス・ラ・グーマは、ヨハネスブルグに赴いたあと「皆それぞれに大変だが不平をこぼすものは誰一人としていない」という記事で、裁判での指導者たちの息吹を伝えたほどでした。(本誌9号29ペイジ)

この運動で示された多人種統合国家の実現がANCの基本的な路線ですが、58五年に、白人の手を借りないアフリカ人だけによるたたかいを掲げたパン・アフリカニスト会議(PAC)が、ロバート・ソブクウェに率いられて、ANCと袂を分かちます。

ロバート・ソブクウェ(小島けい画)

アフリカ人自身による政府をめざすソブクウェたちの考え方は、「遠い夜明け」で紹介されたスティーヴ・ビコをはじめとする若い人たちに引き継がれていきますが、理由が何であれ、この解放運動の分裂は、南アフリカの歴史にとっては大変悲しいことでした。

ソヴクウェは、60年3月に、ヨハネスブルク近郊のオルランドで、自らのパスを焼き捨て裸足で警察本部の中に入っていったと言われます。

シャープヴィル事件・共和国宣言・武力闘争開始

ソブクウェが消えた一時間後、PACの呼びかけで、パス法の廃止、最低賃金の引き上げの要求を掲げたデモが、やはりヨハネスブルク近郊のシャープヴィルで行われました。

それに対し、警察側の連絡ミスなどもあったようですが、最終的には無防備なデモ隊に警察が無差別に発砲する、という事態になりました。当局は即死者69名、負傷者百86名と発表しましたが、目撃者の証言によれば犠牲者の数は実際にはもっと多かったと言われます。当時、報道規制は敷かれていませんでしたから、この事件はショッキングな「虐殺事件」としてただちに世界中に伝えられ、非難の声が高まりました。そして、今回の中国「天安門事件」のように、非難の声は制裁へと動きます。

シャープヴィル虐殺事件

ますます激化する黒人の抵抗に対して、政府は非常事態宣言を発令して弾圧に乗り出す一方、経済制裁に動きだした各国に使節を送り友好関係の継続を訴えました。

この時、日本政府は、国際世論に反して「国交の再開と大使館の新設」を約束し、翌年の一月には通商条約を結びました。白人政府はこれに対して四月の議会で、日本人を「居住地に関する限り白人なみに扱う」ことを表明します。よく言われる「名誉白人」ですが、1920年、30年代に既に使われていたその称号は、貿易関係が親密になっていくにつれて実を伴う「不名誉な」称号となっていきます。

六十年四月に、ANCとPACが禁止されますが、アフリカ人の抵抗は根強く、フルウールト首相暗殺未遂事件などもあって、弾圧はさらに強化されていきます。

そんななか、61年5月31日、政府は白人の一方的意志により、英連邦を離脱、共和国を宣言します。地下解放戦線はマンデラを総書記にしてゼネストで対抗しますが、力で押し切られてしまいます。したがって、この暴挙に反対する人は「南アフリカ共和国」とは言わないのです。

白人のこうした異常なまでの弾圧に、ANCは五十年来の非暴力の道を捨てて、武力闘争部門「民族の槍」を創設し、61年12二月、遂に武力闘争を開始します。

ネルソン・マンデラと破壊活動法・リボニアの裁判

ネルソン・マンデラは、1918年にテンブ人の首長の長男としてトランスカイに生まれました。52年には、現ANC議長のオリバー・タンボと一緒にヨハネスブルグで弁護士事務所を開設していました。既に、解放運動のただなかにいたわけです。ANCが禁止されたあとも、果敢に地下活動を続けますが、62年8月に逮捕され、5年間の禁固刑を言い渡されてロベン島に送り込まれてしまいます。裁判では、白人が一方的に決めた法律に従う義務は自分になく、刑期終了後も不正がなくなるまで戦うことを言明します。

激しくなる一方の破壊活動の脅威から、政府は62年6月に一般法修正令、俗にいう破壊活動法を成立させていました。その法律は常識を越えて市民さえ容易に巻き込む厳しいものでした。

しかし、破壊活動法を強行し、マンデラを逮捕・監禁しても、破壊活動の火は鎮まりませんでした。追い詰められた政府は、63年5月にさらに法を改悪、再修正して、名目上一期を90日として、破壊活動に少しでも係わりがあると思える個人を、逮捕状・裁判なしに拘禁できる「90日無裁判拘禁法」を成立させ、指導者層を追い込んでいきます。拘禁された者には、1日、23時間半に及ぶ孤独拘禁を初め、様々な精神的・肉体的拷問が加えられました。

63年7月、ヨハネスブルグ近郊にあるリボニアにあった「民族の槍」の司令部が急襲され、ウォルター・シスルをはじめとするANCの指導者が大量に逮捕されます。そして、追訴されたマンデラとともに裁判にかけられ、ここに「リボニアの裁判」が始まります。マンデラは被告席から自らの弁護を行ないますが、5時間にわたるその弁護を次の格調高い一節で締め括りました。

……今まで述べてきたように私はこれまでの人生すべてをアフリカの人々の闘いに捧げてきました。私は白人支配とずっと闘ってきました。そして黒人支配とも闘ってきました。すべての人々が協調して、平等に機会を与えられて共存する民主的で自由な社会を私は理想としてきました。それは私がそのために生き、成し遂げたいと願う理想です。しかしながら、もし必要とあらば、私はその理想のために死ぬ覚悟ができています。

世論を懸念した政府は、極刑は下さずに八名全員に終身刑を言い渡し、マンデラを含む七名をそのままロベン島に送り込みました。(82年、マンデラはケープタウン郊外のボールズムーア刑務所に移されますが、88年7月に獄中で70歳の誕生日を迎えました。8月には「肺結核」のマンデラが民間施設に移送され「経過良好」と新聞が伝えました)

こうして、解放運動の指導者は、国外逃亡を強いられるか、拘禁されるか、抹殺されるかの壊滅状態に追い込まれ、大衆は指導者を失なって、南アフリカは暗黒の時代に突入していきます。

*50年代、60年代については、南アフリカ問題の草分け的な役割を果たした野間寛二郎氏の『差別と叛逆の原点」(理論社、1969年)に詳しく書かれています。

クリス・メンゲス『監督、ショーン・スロボ脚本のイギリス映画「ワールド・アバート」は、この頃の「実話に基づいた」ものですが、モデルとなったルース・ファーストは「90日」の白人女性第一号の犠牲者でした。

南アフリカが暗黒時代に入る同じ頃、日本では東京オリンビックが開かれ、高度経済成長の時代が始まります。

黒人意識運動・スティーヴ・ビコ

暗黒の時代に、それでもなお、次の新しい世代が生まれます。「遠い夜明け」で一部紹介されたあのスティーヴン・ビコに率いられる学生たちを中心にした世代です。

スティーヴン・ビコ(小島けい画)

ビコは1946年にケープ州東部のキングウィリアムズタウンで生まれました。ナタール大学医学部の学生時代に運動の指導者となり、のちに、白人の手を借りない黒入だけによる「ブラック・コミュニティ・ブログラム」を推進していきます。

ビコはまず何よりも、自己意識の変革を訴えます。白人のもとに働きに出るために両親が不在のまま、惨めなλラム街で幼少時代を過ごす子どもたちが、やがて白人居住区に出るようになると、いやでも白人社会との格差を思い知らされる。白人の教育を受け、白人の価値観に飼い慣らされ続けるなかで、知らず知らずのうちに肌の色に起因すると思われる劣等感を抱くようになる。したがって、黒人は、人間性を取り戻すために、白人とは係わりなく、まず自分自身の価値体系を確立し、自分の生き方を自分で決める必要かある……つまり、何よりも自己意識の変革の尊さを説いたわけです。そして、「プログラム」に従って、一九七四年にザネンピロ・コミュニティ・ヘルス・クリニックを創設して、自ら実践をしてみせます。すべてのものが白人の価値体系下にあった当時の状況の中で、黒人自身の手によって、白人に影響されることのない自立の方向性を具体化し、実践に移し得たのは画期的なことでした。法廷においても、理路整然と黒人自身の自己変革の必要性を説きました。76年の裁判では、黒人・白人の武装した警官の立ち並ぶなかで「警察当局のために働いているアフリカ人をどう思うか」と尋ねられた時「その人たちは裏切り者です」と厳然と言い切りました。

その頃にはすでに、その指導力をかわれてビコは国外でも高い評価を受けるようになっていました。しかし、その存在があまりにも大きくなり過ぎたために官憲の手によって獄中で葬り去られてしまいます。1977年9月12日のことでした。

そのビコの存在が、しかし、社会や親たちに希望を見い出せなくなっていた若者たちを立ち上がらせる大きな力となります。

ソウェト蜂起

1970年代のアフリカ人の抵抗運動は73年の労働者の広範囲にわたるストライキで始まりました。ストライキの波はナミビアの鉱山ストライキやダーバンでのゼネストヘと波及して翌年まで続きます。厳しい弾圧にもかかわらず、ストライキの参加者は2年問で20万人にも及び、ストライキの数も246に達しました。

75年の隣国モザンビークとアンゴラの独立やアンゴラ内戦に介入した南アフリカ正規軍の敗戦・撤退の知らせは国内のアフリカ人たちを勇気づけます。そんな意気揚がる情勢のなか、ビコの裁判から六週間のちの76年6月、自らの意志で、自らが決定して、ソウェトの高校生たちが立ち上がります。アフリカーンス語の強制的な導入などによる当局の「文化の押しつけ」を拒否して、高校生がデモ行進を始めたのです。ベン・バルカ監督の、モロッコ・ギニア・セネガル合作映画「アモク!」でも強烈に描き出されていましたが、希望を挫かれてもぐり酒屋に逃避する親たちを叱咤して、警官隊と対峙し、銃弾に立ち向かっていったのです。警官隊の発砲により多数の死傷者をみますが、抗議と連帯のデモは各地の黒人居住地区に広がります。この一連の事件はソウェト蜂起と呼ばれ、「ソウェト以後」という言葉で表現される新しい世代が解放運動の流れを大きく変えていくことになります。88年5月に開設されたANC東京事務所の代表ジェリー・マツィーラ氏も、当時ソウェトで教員をしていたその世代のひとりです。

575人の死者、数千人の負傷者と公式発表されましたが、実際の犠牲者はそれ以上であったと言われます。

ソウェト蜂起以後「民族の槍」によるゲリラ活動が活発化し、破壊活動は激しくなります。国際世論の非難が高まりANCへの支援が強まったこと、ソウェト事件での亡命者によってゲリラ要員が大幅に増えたこと、モザンビークとアンゴラの独立でゲリラ活動の拠点ができたことなどが要因でした。

外からは世界の経済制裁の波と「民族の槍」の破壊活動など国内外の様々な運動が強まるなか、78年9月、首相のピーター・ボタが登場します。

ボタ政権

フォルスター政権失脚の後を受けて登場したボタは、「適応か死か」を賭けて「アパルトヘイト体制の手直し」のポーズを見せる一方、軍事体制を強めながら強攻策を打ち出して、少数派白人の体制死守をはかってきました。

強まる世界の非難に対して、政府は84年に、前政権の導入できなかった白人・カラード・インド系からなる3人種体制を発足させます。ねらいは、カラード・インド系と黒人を分裂させることによって白人単独支配の安定をはかる、いわゆる分断支配でした。しかし、事態が政府の思惑通りに進んでいないのは、カラードとインド系の投票率の低さからも窺えます。85年に「背徳法」「異人種問結婚禁止法」、86年には「パス法」、などの法律を廃止しますが、すべてアパルトヘイト体制の根幹は変えずに「手直し」による「改革」によって世論の非難をかわしながら、あくまで多数派の黒人を国政から締め出すことを優先させようとするものです。

ボタは次々と見せかけの懐柔策を繰り出す一方、白人権益擁護のため、体制死守のために軍事予算を拡張しながら、警察国家から軍事国家への国家体制の脱皮をはかります。

81年末に南アフリカ軍は、激しくなる「民族の槍」の破壊活動への報復手段としてモザンビーク首都マプートのANC拠点を襲撃しますが、ソ連・キューバなどの東側諸国への接近を懸念するアメリカ大統領ロナルド・レーガンは政府軍の襲撃に暗黙の了解を与えていたといわれ、この時からレーガン政権の「建設的関与」政策が始まります。さらに白人政権は、ゲリラ活動を支援する周辺諸国に圧力をかけ、82年にはスワジランドと、84年にはモザンビークと不可侵条約を締結することに成功しました。

ボタ政権が人種「改革」を進めていた83年5月に、あらゆる人種、様々な団体が参加した南アフリカ史上最大の政治運動組織統一民主戦線(UDF)が結成されます。カラード・オランダ改革派の牧師アラン・ブーサックを発起人にして約600の団体が参加したUDFの運動は、五十年代にマンデラたちによって展開された会議運動の再来であり、組織と数の力だけではなく、現実に労働組合を中心にして大衆が動員されたために、白人政権の脅威となりました。

過去においても常にそうであったように、白人政権はUDFの弾圧を開始し、85年には指導者16名を逮捕して反逆罪で起訴しました。そして、88年2月には、他16団体とともにUDF自体を活動禁止処分にしてしまいます。

*UDFやボタ政権については、八十年代前半に共同通信社の記者としてヨハネスブルクに駐在して広範な取材活動をした伊高浩昭氏の『南アフリカの内側』(サイマル出版会、1985年)を参照されるとよいと思います。

アパルトヘイト体制を支えるもの

理不尽なアパルトヘイト体制が半世紀以上にもわたって生き続けているのは、その体制によって多大な恩恵を受ける人々がいるからです。また、アフリカ人による抵抗という中からの突き上げにあっても、経済制裁という外からの締めつけを受けても、なりふり構わず体制を死守しようとするのは、現在の搾取構造を維持することによって、南アフリカが生み出す豊かな富を、その人たちが独り占めにできるからなのです。

体制内の白人の生活水準がいかに高いかは、「遠い夜明け」や「ワールド・アパート」などでも少し紹介されましたが、商用でヨハネスブルクを訪れた日本人のある記事を見てみましょう。

映画「遠い夜明け」のパンフレット

500坪(1650平方メートル)の敷地に10メートルのプール、3つの浴室のついた120坪(396平方メートル)の建物、それにバーベキュー用の中庭がついている。読者は家賃はいくらだと思われるか。日本では手が出ないし見当がつかないと言われるだろう。

南アフリカ、ジョバーグ(商業都市ヨハネスバーグの現地名)でのお話である。場所は都心から車で30分の住宅地。月の家賃は日本円にして5万円である。このくらいで中級という。では高級の基準となると……最低でも1000坪(3300平方メートル)はあるだろう……。

某日本商社の支店長宅に招かれた。白人高級住宅地の真ん中、敷地面積2600百坪(8580平方メートル)、4面のテニスコート、15メートルのプールと6台駐車できる車庫、建物は250坪(825平方メートル)大木の植わったすばらしいこの庭園つきのこの豪邸が日本円で2600万円。では億の家はどのくらいの大きさか。たまたま、1億2000万という家を尋ねた。敷地1万2000坪(39万6000平方メートル)で、プールやテニスコート、それに建物、庭園は想像がつくだろう。また馬屋がついている。金持ちの条件には馬は欠かせないのかもしれないが欧米型だろうが、その馬を世話する人が4人は必要なので、その人たちの家、そして馬の運動場。なにしろ、日本の金持ちと規模を異にする。(88年12月24日付け「宮崎日日新聞」、江田祐典氏の「南ア豊かな白人社会」り抜粋、原文のまま)

その「豊かな白人社会」を内側からしっかりと支えているのは、強力な警察力と軍事力です。84年から85年の統計によれば、警察を含める軍事費は国家予算の20パーセント近くに及ぶといわれています。また、63年、77年に国連で決議された対南アフリカヘの兵器輸出禁止措置に対抗して、白人政権は国内の軍需産業を発展させ、兵器類を自国で賄うことによって軍事力の強化をはかってきました。そして今では、軍需産業は重要な国内産業の一つとなり、82年のアメリカ政府の統計によれば、その生産高は世界の第10位に達している、ということです。兵器輸入国から輸出国へと完全に脱皮したことになります。

さらに、75年には核実験が行なわれた、ともいわれます。現政権は潜在的な核兵器保有国と見なされており、黒人との最終的な対決の場面で追い詰められれば、核兵器が使用される可能性もある、とさえ考えられています。

しかし、いくら強力な力によって内側から支えられていると言っても、アフリカ人による屈強な内圧や経済制裁の外圧を白人政権が単独で受け止められるわけがありません。実は、外側からのもっと大きな力によって支えられているのです。その力とは、イギリス、フランス、西ドイツやアメリカ、日本などのいわゆる「工業先進国」で、強固な搾取構造を持つ内側の「豊かな白人社会」と協力して、貿易や産業投資によって莫大な利益を得ています。その構図は、さながら多国籍企業による「植民地」の様相を呈しています。南アフリカがアフリカ大陸に残る最後の「白い牙城」と言われる所以もここにあります。

国連の経済制裁決議に反して、「工業先進国」が白人政権と貿易を止めないのは、主として南アフリカが産出する豊かな鉱物資源、特にクロム、マンガン、モリブデン、バナジウムなどの希少金属から多くの利益を得ているからで、それらの希少金属は「先進国」の先端技術(ハイテク)産業や軍需産業には不可欠なものです。日本などのように鉱物資源の乏しい国では、より依存度が高くなり、その結果、貿易の関係もより親密になるというわけです。

各国が競って南アフリカに産業投資するのは、無尽蔵で、安価なアフリカ人の労働力を利用して莫大な利益が得られるからです。日本のように、国から直接投資を禁じられても、現地法人を作って巧妙に法の網の目を潜ってまで経済を優先させるのは、その利益がそれほど大きいからに他なりません。

*日本企業と南アフリカについては、北沢洋子さんの『日本企業の海外進出』(日本評論社、1982年)が参考になると思います。

アパルトヘイト体制を外側から支えているのは、貿易や産業投資などの経済的な要因ばかりではありません。ほかに、政治的、軍事的な側面も見逃せない要素となっています。

西側諸国は南アフリカの社会主義化を恐れています。経済制裁の強化によって白人政権がソ連やキューバなどと急接近することもそうですが、武力闘争を経て政権交代が行なわれた場合に黒人政権が社会主義路線を取ることを何よりも恐れるのです。アパルトヘイト体制の崩壊以上の間題とも考えられています。埋蔵量、生産高ともにアメリカに次いで2位を誇るウランをはじめ、豊かな鉱物資源を持つ南アフリカが社会主義国家になれば、現在の東西の力のバランスは崩れます。アフリカには社会主義体制を目指す国も少なくはなく、現にモザンビーク、アンゴラ、ジンバブウェなどの周辺国が社会主義路線を打ち出しているため、その懸念は大きく、レーガンが「建設的関与」政策を掲げて南アフリカに介入したのもそのためでした。

南アフリカは軍事戦略上でも重要な役割を担っています。インド洋と大西洋を結ぶ喜望峰まわりの航路を西側諸国の商船が通過し、中東原油や戦略鉱物資源が多量に運ばれているからです。白人政権はその戦略上の重要性を盾に、ナミビアの独立問題など様々な局面で西側諸国に難題を吹きかけています。

また、白人政権は最近、イスラエル、韓国、台湾、チリ、アルゼンチン、ブラジルなどとの関係を密にしていますが、それらの諸国との政治的、軍事的な協力関係も、アパルトヘイト体制を支える一つの力となっています。

このように、アパルトヘイト体制は、内側からは強力な警察力・軍事力で、外側からは経済的、政治的、軍事的な利益に与る国々によって支えられてきたのです。

革命の前夜

しかし、現政権は行き詰まっています。国内では、UDFなどを力で封じようとしていますが、アフリカ人の解放運動の火は鎮まりません。ANCの都市部でのゲリラ活動、労働組合による大規模な乳トライキの多発、飢えによるバンツースタンからの黒人の大量都市流入などの「黒人問題」に加えて、白人社会の分裂にも頭を悩まされています。白人極右翼勢力は政府の「懐柔策」さえ「裏切り」と捉え、反発の色を増しています。また、アパルトヘイト体制ではもはや立ちいかないと判断する財界のリベラル派は、85年にザンビアで、87年にはセネガルで、政府の反対をおしてANCと直接交渉を行ないました。

国外でも、様々な動きが白人政権を追い詰めています。85年10月、アメリカは、経済制裁を渋るレーガンの拒否権を覆して、「反アパルトヘイト包括法」を成立させています。

金の国際価値の暴落や相次ぐ外国資本の撤退などによって、国内は経済不況と社会不安に見舞われています。

88年11月に、アンゴラ、キューバ、南アフリカ、アメリカによるアンゴラ包括和平交渉の最終会談がコンゴで行なわれ、ナミビアの独立に向けて事態が動きだしました。ナミビアが独立を果たせば、南部アフリカに残される問題は南アフリカ黒人の解放だけに絞られることになります。

折しも、89年1月、ボタ大統領(84年9月から執権大統領)は脳卒中で倒れ、憲法・開発企画相ヘウニスが代行に就任します。

89年5月には、ボタ外相がローマでアメリカのべーカー国務長官にアパルトヘイト廃止を約束した、と報じられました。

7月には、大統領ボタが初めて獄中のネルソン・マンデラと面談し、政府との対話を要請したマンデラの声明を当局が公表した、と報じられています。9月の選挙での勇退を表明しているボタ大統領が、黒人指導者層との交渉に向けての下地作りをすることで、勇退の切り札を探っているのではないか、と言われました。

8月には、主導権争いに敗れたピーター・ボタが15日付けで大統領を辞任し、与党国民党の党首デ・クラーク国民教育相が大統領代行に就任します。九月に総選挙を待たず失脚同様に追い込まれたボタに代わって登場したデ・クラークは、改革推進に積極的に取り組む姿勢を見せていると言われています。

九月六日に行なわれた人種別3院政議会総選挙の白人議会選挙では「改革路線」を掲げる与党国民党が過半数93議席(改選前120)を維持したものの、アパルトヘイト廃止派の左派民主党が33議席(改選前19)、固守派の右派保守党が39議席(改選前22)とどちらも票を伸ばし、左右分極化の進む白人社会の状況が浮き彫りになりました。

その選挙に抗議して、六日間にわたって在宅ストが行なわれ、黒人労働者たち300万人が参加したと言われます。8日には、ケープタウン郊外の抗議デモでの白人警官のデモ隊への横暴さに耐え兼ねた同僚警官が内部告発を行なったというニュースが、民放で流れました。

また、カラード、インド両議会の投票率は前回の84年と同様に低調で、政府の目論む分断支配への黒人たちの抵抗の強さが改めて示されました。

白人政府が流血の惨事を避けて、黒人の指導者とどう折り合って連合政権を作っていくかが、おそらく今後の最大の課題となるでしょう。現時点での見通しが必ずしも明るいとは言えませんか、黒人解放の前夜に向けて歴史が流れているのはもはや何びとも否定できないでしょう。

日本人は名誉白人か

アパルトヘイトと日本

1928年、南アフリカがアジア人に対して「酒類販売取締法」を実施した際に日本人だけを優遇したのが「名誉白人」の原型と言われています。当時、既に両国間の貿易関係はそれほど密になっていたということです。先述のラ・グーマが書いた、1950年代のケープタウン第6区(カラード居住区)を舞台にした小説『夜の彷徨』(1962)の中にも「はるばる日本からやってきたセルロイドの人形」とあり、日本の商品が出回っていたことが窺えます。つまり、日本は南アフリカにとって、優遇措置を取らざるを得ないほど重要な、繊維や雑貨などの輸入元だった、というわけです。

その後、両国間の貿易関係は第二次大戦によって途絶えますが、60年代に入って復活します。60年に国交の再開と大使館の新設を約束した日本が、翌61年に正式に通商条約を結んだからです。その見返りとして、1961年にケープタウンの白人だけの議会において、居住地に関する限り南アフリカ在住の日本人は白人並みに扱う、という声明が出されます。アフリカ諸国の独立、シャープヴィル事件後の各国の経済制裁への動きなどに脅かされていた白人政府が、イギリス連邦離脱による経済的空白をドイツと日本で埋めたいと願った経済優先の窮余の策でした。

日本は、南アフリカのその要請に「見事に」応え、貿易相手国として実質的な両国間の絆を深めていきます。人権の問題には目をつぶり、経済制裁という世界の流れに逆行してでも、自国の経済政策を優先させたわけです。

*1988年4月7日付け「朝日新聞」、藤田みどりさんの「南アのアパルトヘイト奇妙な日本人の白人幻想」に明治、大正時代の日本と南アフリカの関係が少し紹介されています。

大量逮捕によって指導者を失ない「暗黒時代」に入っていった南アフリカと東京オリンピックをはずみに「経済高度成長時代」に入っていった日本。

1987年、東京のメーデーの集会で、「私が逮捕されて警察に連行されたときに乗せられたのはニッサン車でした」と語った統一民主戦線(UDF)の指導者アラン・ブーサック師と同じ壇上に並んで座っていたニッサン代表。

それらのことは、決して歴史の偶然から生まれたわけではないのです。

国際世論を気遣って、日本政府は国連の南アフリカヘの制裁決議に従って、表面上は国交を制限したり、直接投資や教育・文化・スポーツの交流、航空機の日本乗り入れを禁止しています。

しかし、現実には、第3国を通じての投資が行なわれていると言われていますし、外務省の要請を振り切って84年に南アフリカでの試合に参加したプロゴルファーの青木功は、何もなかったかのように大手を振ってテレビのブラウン管に登場しています。

87年11月に、モーリシャス沖で起きた台北発南アフリカ航空機の墜落事故では、ケープタウンでの試合に出場予定の日本のプロレスラーが遭難し、政府の「スポーツの交流禁止」措置が、残念ながら、有名無実である実態があらためて明らかにされました。また、同乗していた漁船員やビジネスマンの存在によって、貿易や観光が日本と南アフリカの間で如何に日常的に行なわれているかがクローズアップされる結果となりました。

経済最優先の日本政府の外交政策は、88年には、日本が南アフリカの最大貿易相手国となるという必然の結果を生みました。同年12月5日には、国連総会で、アフリカ諸国が中心になって提案された「南アの人種差別体制に対する包括的かつ強制的制裁」決議案が採択され、その中で日本は「対南ア貿易を増やしている国々、とりわけ最近南アの最大の貿易相手国となった日本に対し、対南ア貿易関係を断絶するよう呼びかける」と名指しで非難されることになります。

南アフリカとの関係だけに限ったわけではありませんが、名指しで非難されても経済最優先の路線を走る日本の政界や財界の南アフリカ白人政府との繋がりは想像以上に強いものがあります。

84年に40数人の自民党議員によって日本・南アフリカ友好議員連盟が結成されたことはよく知られています。二階堂進が会長、今回の総裁選挙に出馬した石原慎太郎が幹事長で、竹下登も名を連ねていました。女性問題で辞任した山下徳夫に代わって官房長官になった森山真弓は、当時、外務省の政務次官でした。反アパルトヘイトの立場を取る政府の方針に反する活動をしていると非難されて渋々脱会したと言われます。石原慎太郎の言う「南アは西側の政治戦略に欠かせない国。人種問題への批判とは別に友好関係を結ぶことは大切だ」という論理は、自民党の本音として生きている、と言われています。その本根は、87年4月の中曽根・タンボ会談でも垣間見られました。

20日に当時の中曽根首相がANCタンボ議長と会談した、また、同日、倉成外相が外務省でタンボ議長と会談し白人政権を介さずに40万ドル(約5700万円)をANCに援助することやANCの東京連絡事務所の設置を認める考えを示した、というのです.結果的にはそのことによって、翌年の5月にANCの東京事務所が開設され、代表としてジェリー・マツィーラ氏が赴任してくるのですが、何とも奇妙な話です。貿易によって甘い汁を分かちあってきた日本政府が、こともあろうに、白人政府を介さずに援助する、しかも、日本が海外のNGO(非政府組織)に援助するのは初めてというおまけまでついていました。今すぐにではないにしても、やがては誕生する黒人政府への布石のつもり、なのでしょう。近い将来に黒人政権ができたとき、「私たちもあなたがたに援助した」と言うつもりなのでしようか。

オリバー・タンボ

「もし日本が、全黒人の憤激をひきおこしている南アフリカの人種差別にひきつづき協力するならば、日本はアフリヵの全人民から離反する危険に直面していることを指摘しておきたい」というタンボ氏の手紙が『差別と叛逆の原点』のまえがきに紹介されたのは1969年のことです。あとがきには、62年にタンザニアのモシで開かれた第3回アジア・アフリカ人民連帯会議で、南アフリカ代表から目本代表に特別会見の申し入れがあったことが記されています。アジアの一員でありながら国連の経済制裁決議を無視して白人政権との関係を密にしている日本政府をどう思うか、政府を黙認するのは抑圧への加担ではないか、という内容だったようですが、その団長がタンボ氏でした。四半世紀も前のことです。87年の来日の際に、「27年の逃亡生活、故郷のケープ州に帰りたいと思わないか」と問われて、「帰り……たくない。今は闘いの最中だ。闘いを続けることが私の仕事だから」と答えています。62年に同僚のネルソン・マンデラが逮捕されて以来、ANC議長代行の立場を取り続けるタンボ氏。姑息な日本の政治家連中と会見しながら、いったいどのような思いを抱いたのでしょうか。

財界も破廉恥という点では政界に負けてはいません。88年2月、南アフリカとの係わりの深い大手企業が結成する「南部アフリカ貿易懇話会」が、「南アフリカ黒入の生活向上のため」に設立した「日本基金」の50万ドルを贈るために、南アフリカの黒人を呼んだと言われます。

招かれたのは、南アフリカ国内の反アパルトヘイト黒人支援民問組織「カギソ(平和)基金」の事務局長アハマト・ダンゴル氏ですが、ダンゴル氏は自分を招いた「南部アフリカ貿易懇話会」の事務局長が、南アフリカ航空の相談役牧浦利夫だと知って、金も受け取らずに帰国したといいます。「日本・南アフリカ友好議員連盟」を発足させた張本人と目される人物、日本と南アフリカとの貿易推進の黒幕ともいわれる牧浦利夫は、南アフリカの黒人が「有り難く金を受け取る」とでも考えたのでしょうか。

半年後の8月に、カナダのブロック大学で行なわれた南アフリカの二人の作家アレックス・ラ・グーマとベシー・ヘッドの記念大会で、私はダンゴル氏とお会いしました。トロントで開かれたコモンウェルス外務大臣会議での「南アフリカの検閲制度に関するフォーラム」で発言されたダンゴル氏が、飛び入りで記念大会に参加し、大会に花を添えられたからです。発表後、すぐに帰られたので、挨拶しか交わせなかったのですが、日本からの参加者を見ながら、半年前の出来事を振り返ってどう思われた……か。その時、私はダンゴル氏の来日のことは知りませんでした。

*最近の南アフリカの動向、白人政権と日本の政財界との関係については、アフリカ行動委員会を中心に反アパルトヘイト運動を推進している楠原彰氏の『アパルトヘイトと日本』(亜紀書房、一九八八年)をお薦めします。また、88年7月4目付け「朝日新聞」所収、堀江浩一郎氏の「返還したい『名誉白人』称号 現地での南ア制裁めぐる論議と対日観」での南アフリカの邦人社会への提案も、現状では不可能に近いようですが、示唆的だと思います。

私たちは今……

「アパルトヘイトの歴史と現状」はいろいろなことを私たちに教えてくれます。

「アパルトヘイトの歴史」は、西洋人たちによる侵略の歴史でした。如何に聖書で理論武装し、その行為を正当化しようとも、殺戮の歴史に変わりはないのです。強者が弱者を意のままにするという、まさに弱肉強食の世界でした。悲しいことに、その歴史は今も続いています。

現代の文明は、大部分、その搾取構造の上に発展し、その犠牲の上に繁栄してきました。知ると知らないとにかかわらず、ある意味では、私たち日本人もその延長上に居ます。そして、抑圧の側に立っているのです。

そのような厳しい抑圧のなかでも、アフリカ大陸は数多くの偉大な人物を生み出してきました。

ネルソン・マンデラは、死の恐怖のなかで、一国を相手に答弁し、「……すべての人々が協調して、平等に機会を与えられて共存する民主的で自由な社会を理想としてきました……もし必要とあらば、私はその理想のために死ぬ覚悟ができています」と言いました。そして、62年以来、今だ獄中にいます。

ロバート・ソブクウェは、自らパスを焼き捨て、警察本部に入っていきました。

アレックス・ラ・グーマは、世界に現状を知ってほしい、後の世の若い人たちに歴史を記録したいと、数々の物語を残しました。

スティーヴ・ビコは、指導者を奪われて希望を見失なっていた人々に、「生活の厳しさにただ諦めて身を任せていないで、希望を育み、自らの人間性を培うべきだ」と自己の変革の必要性を説きました。自らは獄中の露と消えましたが、ビコの魂は、今もなお多くの人々に引き継がれています。8月に来日し宮崎でも講演された南アフリカ在住の黒人女性作家ミリアム・トラーディさんも、ビコに心動かされた一人です。発禁などの処分を受けながらも南アフリカ国内で小説を書き続けるトラーディさんの心の中に、ビコの考えや精神は大きな拠り所として生き続けています。

その人たちは例外なく歴史をよく理解していました。そして、追い詰められても、誰ひとりとして最後まで侵略者とは化しませんでした。

厳しい抑圧の中でさえ、南アフリカの人たちはなんとか自分たちの文化を継承し続けてきました。アパルトヘイト体制をもってしても、黒人たちの文化までは根こそぎにはできなかったのです。

ダンゴル氏は、先述の記念大会で、国内の現状を次のように述べました。

アパルトヘイトの闘いが21世紀まで続くならば、その闘いを支えるのは一般大衆の文化的な慣習でしょう。

文化は私たちに残された最後の領域です、というのも国が他のすべてのものを閉ざしているからです。

演劇のグループは非常に盛んで、タウンシップ内にたくさんのグループがあります。もし、政府に活動を禁止されても、少し形を変えたり、また違った名前で、どこか別の所に再び姿を現わします。

発禁処分を受けた文学はパンフレットや地下出版、ビデオや録音テープの形で国内に出回ります。

トラーディさんは、宮崎の講演で、「母国語のソト語で書き始められたそうですが、字も書けない人たちのためにどういうことをお考えでしょうか」と聞かれて、次のように答えました。

私たちには、いわゆる口承文学と呼ばれるものがあって、それは引き継がれてきています。たとえば、もし南アフリカに関する映画などをご覧になれば、何千もの大衆が動員されているのがおわかりになるでしょう。非常に豊かな口承の歴史がありますから、起ったことを人々に伝えることが出来たのです。私たちは、口承の文学を代々継承させてきました。そして、こういった種類の情報伝達の構造は体制に破壊されてはいません。たとえば、詩人がいますが、その人たちはタウンシップではとても活躍していて、詩を通して、いつも言葉を伝えます。詩人たちは、誰かを埋葬したり、誰かが結婚したりするような儀式で、殆んどすべての儀式で詩をうたいます。詩人たちによって言葉が伝達され、口承の文学を通して政治的情報が伝えられているということがお分りになると思います。

現に南アフリカ国内に踏み留まって作家活動を続けておられる二人の発言には千金の重みがあり、その迫力がひしひしと伝わってきました。

厳しい抑圧のなかでも自分たちの文化を守り続けてきた南アフリカの人たちと較べて、私たち日本人はどんな文化を守ってきたのでしょうか。

「高度経済成長」を遂げたと言われている日本人ですが、果たして自分たちの誇れる文化を守り続けて来たと言えるのでしょうか。

2年前に、南アフリカを現地取材したテレビ報道番組「ニュースステーション」の中で、ヨハネスブルグにある日本人学校で開かれたパーティーの模様が紹介されていました。日本人学校の校長が、招待した白人達(白人の子供を抱いた黒人の「メイド」もいましたが)に、日本の文化をお楽しみ下さいと挨拶し、子供達がKendoを披露し、「美しい」着物を着た奥様方がお茶を接待していましたが、その「文化」を日本人の文化だと思った人はいないでしょう。

「アパルトヘイトについては・・・・」という質問には皆一様に「お答えできません」という「美しい」奥様方の背後には、人権の問題に目をつぶっても経済の最優先を、という「企業の論理」が見え隠れしていました。

「企業の論理」は、「アパルトヘイトの歴史と現状」が教えてくれた「弱肉強食」の世界とまさに同じです。

宮崎の土呂久、熊本の水俣、若狭の原発など、「企業の論理」や「弱肉強食」の世界が如何に身のまわりに横行していることでしょうか。「辺境の地」に公害をまき散らして企業利益を優先する「企業の論理」にたくさんの人々が苦しめられています。その「弱肉強食」の世界と、ヨーロッパ人が南アフリカを侵略し、人々を苦しめ続けている構図にどのような違いがあるのでしょうか。

私は戦後しばらくして兵庫県の高砂市に生まれ、加古川市で育ったのですが、走ってよく出かけるようになった学生時代には、すっかり高砂の海は汚れていました。三菱製紙や鐘淵化学などたくさんの企業が海岸線に立ち並んでいたからです。風のある日には、海から何キロも離れた家のあたりまで煤煙のにおいが漂ってくるのです。

高校生のときだったと思いますが、真夏のある日、思いたって友人と「あの辺に砂浜があったなあ」と言いながら泳ぎに出かけたことがあります。砂浜は確かこの辺だったかなあ、とコンクリートの堤坊をよじ登ってみたら、目の前に広がるのは無残に埋め立てられつつある神戸製鋼所の工事現場でした。あるはずのところに、海のなかった驚きは、今も暗く、詫びしい心象風景として心のなかに残っています。

ある頃から、夜中でも南の方の空が明かるくなる時が度々ありました。公害の規制の激しい昼間を避けて、夜中の間に煙突から煙を出すんだよ、と住友金属に勤めながら夜学に通うクラスメイトが教えてくれました。

日本では、70年安保闘争、大学紛争が繰り広げられようとし、南アフリカでは、ビコを中心とする学生たちが立ち上がろうとしていた時期でした。

都会中心の社会は電力の消費を増大させ、「辺境の地」に原発と核の脅威をもたらしています。

車や先端技術によって得た「便利さ」や、消費文明によってもたらされた「豊かさ」と引き替えに、私たちが失なったもの失ないつつあるものは、とてつもなく大きく、この辺りで、自分たちの傲りに気づいてなんとかしなければ、手遅れになるかもしれません。

「アパルトヘイト」の問題も、私たちに、自分と社会とを問い直させてくれる大きな問題の一つなのです。

現実の問題として、日本と南アフリカが貿易という太いパイプで繋がっている限り、楠原彰さんの言うように「アップルタイザーを飲まない……婚約者にデ・ビアーズ(De Beers)社のダイヤモンドなんか贈らない。ケープ・ワインを飲まない。南アに進出している企業の製品をボイコットする……」(『アパルトヘイトと日本』)など、身近な、やれるところからやってみるのは大切なことです。

そのためには、まず南アフリカの本当の歴史と現状を知ると同時に、自分自身で何が正しいかを判断できる視点を持つことが何よりも必要でしょう。

その上で、改めて「アパルトヘイトの歴史と現状」が提起している問題をそれぞれ自分の問題として受けとめ、問い直してみたいと考えます。自分のまわりの身近なところを大切にして生きていくことが、自分を大切に、ひいてはひとを大切にすることにつながると思うからです。

そうすることが、自分たちの文化を、自分たちの大切なものを、やがては次の世代へと引き継いでいくことにもなると思うのです。

「アサンテ.サーナ!自由」に参加して

本稿は「アサンテ・サーナ!(スワヒリ語でありがとう)自由」と題する催しの一環として、1989年7月1日に、愛媛県の松山東雲学園百周年記念館でお話させていただいた講演「アパルトヘイトの歴史と現状」をもとにしてまとめたものです。

その催しでは、他に、アパルトヘイト否! 国際美術展・写真展、エチオピア子供絵画展、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等の資料展示、「源の助バンド」

によるレゲエのコンサート、「アモク!」の映画会が、主に一日、二日の両日にわたって行なわれました。

今回の講演は、松山市内で弁護上をしておられる薦田伸夫さんからお誘いをいただいたのですが、実は、本誌「ゴンドワナ」の取り持つ縁で実現したものです。

以前お世話になった薦田さんから草薙・薦田法律事務所の事務所だより「水平線」

が届き、僕の方からは時折「ゴンドワナ」をお送りしていました。

4月の半ばに「アパルトヘイトの話を」というお電話があったとき、門外漢の僕がと思いましたが、去年から授業でも南アフリカのことをやっているし、この機会にひとつまとめさせていただけたら、と考えてお引き受けすることにしました。催しは予想していたよりも好評のうちに終わったとのことですが、周到な準備をされ、いろいろな人が協力された成果だと思います、薦田さん、北村親雄さん、会場のお世話をしてくださった山内弥生さんをはじめたくさんの方々にお祝いとお礼を申し上げます。

講演に出かける直前、宮崎大学農学部の学生都築扶美さんは、パンフレットを見ながら「会場の松山東雲学園は私の母校です。城山の中腹にあるきれいな所ですよ,と教えてくれました。

講演を聞いて下さった温泉郡川内町安國寺の住職浅野泰巌さんは、私も同じ落第生、落第したので、世を裏から見ることができ、アパルトヘイトにも関心を持つようになったという意の丁寧なお手紙を下さいました。

様々な機会に「ひと」と巡り会えるのは有り難いことだと思います。

「ボランティアで手伝ってくれた愛大(愛媛大学)の学生が、あの時運んだ絵、重たかったなあ、何か髭はやした人がアパルトヘイトの話しとったなあ、といつか思い出してくれるのが大事やねん」という北村さんの言葉と「松山と宮崎は海を隔てて、隣の県みたいなもんやから、これに懲りずにこれからもよろしく。少しでも僕らが世の中変えていかなあかんから……という薦田さんのさりげない言葉が印象的でした。

89年9月下旬、宮崎にて。

(宮崎医科大学講師・アフリカ文学)

南アフリカ小史 (1989年9月現在)

1652 東インド会社、ケープに中継基地を建設。

1795 イギリスの第一次ケープ占領。

1806 イギリス、ケープ植民地政府樹立。

1833 イギリス、ケープで奴隷を解放。

1835 グレート・トレック(ボーア人の内陸大移動)開始。

1838 ブラッド・リバーの戦い(ズールー人対ボーア人)。

1867 キンバリーでダイアモンドを発見。

1880 第一次アングロ=ボーア戦争(~81)。

1886 ヴィトヴァータースランドで金を発見。

1899 第二次アングロ・ボーア戦争(~1902)。

1910 南アフリカ連邦成立。

1912 南アフリカ原住民民族会議〔後に、アフリカ民族会識(ANC)と改名〕結成。

1913 「原住民土地法」制定(リザーブの設定)。

1921 南アフリカ共産党結成。

1936 「原住民代表法」・「原住民信託土地法」制定。

1948 国民党マラン内閣成立(アパルトヘイト体制強化)。

1949 「雑婚禁止法」制定。

1950「共産主義弾圧法」制定。南アフリカ共産党禁止。「住民登録法」,「集団地域法」

制定。

1955 クリップタウンの人民会議で自由憲章を採沢。

1956 「反逆罪裁判」事件開始(~61)。

1958 パン・アフリカニスト会議(PAC)結成。

1960 シャープヴィルの虐殺。ANC,PAC禁止。

1961 共和国宣言。ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)創設,ANC武力闘争を開始。

1962 ネルソン・マンデラ逮捕。

1963 リボニア裁判開始(~64)。

1967 「反テロリズム法」制定。

1976 ソウェト蜂起。

1977 スティーヴ・ビコ獄中死。ANC、ゲリラ闘争を開始。ピーター・ボタ首相政権発足。

1982 統一民主戦線(UDF)結成。スワジランドと不可侵条約締結。

1984 ボタ、執権大統領に就任。三人種体制発足。モザンビークと不可侵条約締結。

1985 「背徳法」廃止。「異人種間結婚禁止法」廃止。

1986 「パス法」廃止。

1987 オリバー・タンボANC議長来日し,首相と会見。

1988 ANC東京事務所開設(5月)。国連総会で,対南アフリカ貿易に関する日本非難の決議を採沢(12月)。

1989 南アフリカ外相、米国務長官にアパノレトヘイト廃止を約束(5月)。マンデラと初会談のボタ大統領、マンデラの声明を発表(7月)。ボタ辞任(8月)。デ・クラーク、大統領に就任(9月)。

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」 14号 10-33ペイジ

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