1976~89年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマの作品論です。タイトルやエピグラフに使った「三根の縄」(Threefold Cord)に準えた三種類の人間関係と雨をうまく使った点を評価しました。

大阪工大の嘱託講師(文部省向けには専任、実際は非常勤)の時に大学の紀要に載せてもらった分で、次の英文概要を書いて添えました。

This paper aims to evaluate Alex La Guma’s And A Threefold Cord (1964) which provides a vivid description of South African scenes of ordinary people.

La Guma tells his story to show us the oppressed people who manage to live on together even under the severe condition of Apartheid.

The story is centered on the three kinds of “a threefold cord" relationship which means living in harmony with love. So as to make clear the importance of co-operation, he describes some isolated people and some incidents which impress on us the miserable condition of their society. The depressing conditions emerge from the story before our eyes through his skillful use of rain which falls relentlessly on their shabby shanties.

By the story-telling and the use of rain he succeeds in indicating that the severer the condition is, the more important the “threefold cord" relationship becomes.

In this paper the evaluation is to be made by focusing on his story-telling and his use of rain.

本文(作業中)

Ⅰ 文学と人生 (Life and Literature)

And a Threefold Cord (1964) は主人公 Charles Pauls (通称 Charlie) が降り頻る雨を見上げながら台所の戸口に佇むという象徴的な場面で終わっている。作者 Alex La Guma (1925-1985) は主人公のこれからの成長を灰めかす余韻を残して物語の幕を一応降ろしてはいるが、本当の意味で物語が終わっているとは言えない。なぜなら、その物語は La Guma が終生願い続けたように、南アフリカが「一つの統合民主国家」1) となるまで続くからである。

物語は確かに主人公 Charlie を中心に展開してはいるが、読者が片時も目を離せない程スリリングな事件が起きるわけでもなく、Charlie の内面が深く掘り下げられて読者に迫るという風でもない。むしろ、ありきたりの人々の,ありきたりの日常生活が浮き彫りにされていると言った方がよい。その意味では、作者自身の次のインタビューでの発言はその辺りをうまく説明してくれる。

I might add that I thought that at some stage it would turn into a love story. It seems as if every writer wants to write a love story at some time or another, and there is an element of this desire throughout the novel. But in general I don’t think it is really a love story, it is really another record of the general life of the people as reflected through the experiences of one particular family and its associates.2)

少数の白人が理不尽な支配を続けている「南アフリカ共和国」(Republic of South Africa) では、白人以外の人々はおよそ「人間」とは見倣されない。現に南アフリカに生まれながら、アジア人,ヨーロッパ人の血を引いているという理由だけで政府から「カラード」の烙印を押された La Guma は、必然的に「人間」としての扱いを受けることはなかった。

そんな La Guma には「文学のための文学」どころか、まともな意味での文学も人生も存在し得なかった。文学や人生以前に、その文学や人生を獲得するためのたたかいが存在していたのである。人間的な生き方をしようとするなら、南アフリカではどんな生き方を選択しようとも、当然人はそのたたかいの渦中に身を置くことになる。従って、この物語は La Guma の人問としてのたたかいと生き方の中から生まれたものと言ってよい。ただし、この物語が文学としての価値を有しているのは、この作品が決してたたかいのためのプロパガンダやスローガンではないからである。次のインタビューの一節は、文学と闘争についての La Guma の基本的な姿勢を私たちに教えてくれる。

  1. What are then the values which you seek to express in your novels?

La Guma : I want to express the dignity of people, the basic human spirit in the least pompous way as possible. One must avoid propaganda or slogan. I am also politically involved. In my writing and in my political activities I vindicate the dignity of man but these are two different activities.3)

現実に南アフリカで何が起こっているかを世界に伝えたいという願いや歴史を記録しようとする意図が La Guma の心の中にあったにせよ、それがプロパガンダやスローガンと堕さなかったのは、作品に示された文学技法の故である。

本論では、この作品の中の文学技法のうち,特に,日常生活を見事に描き出し得た「語り」(His Story-Telling)と、惨めなスラム街の雰囲気をうまく醸し出している表現技法としての「雨の効用」(His Use of Rain) を取り上げて、And a Threefold Cord の評価をはかりたいと思う。

Ⅱ 語り (His Story-Telling)

(i)「三根の縄」(“a threefold cord")

La Guma は人々の日常の生活をただ漫然と並べたてて語ったわけではない。アパルトヘイト体制の苛酷な条件の下で呻吟しながら、それでもなお,人間としての誇りを失なわず,肩を寄せ合い,助け合って生き永らえている人々の姿を語るために,La Guma は文章を組み立て,言葉を選んでいる。

「語り」を支えている物語の組み立ての骨組みを説く一つの手掛りをタイトルとエピグラフが与えてくれる。エピグラブは旧約聖書の伝道之書第四章から取ったもので、ダビデの子、イスラエルの王である伝道者が世の中の抑圧について考えたことを語る第四章は次の一節で始まる。

So I returned, and considered all the oppressions that are done under the sun : and behold the tears of such as were oppressed, and they had no comforter ; and on the side of their opperssors there was power ; but they had no comforter. ECCLESIASTES IV : 1

La Guma の目にはこの一節が南アフリカの現実と重なったのであろう。独りでいることの辛さについて伝道者が触れたあと、本書のエピグラフに掲げられた次の4節が続く。

Two are better than one ; because they have a good reward for their labour.

For if they fall, the one will lift up his fellow but woe to him that is alone when he falleth; for he hath not another to help him up. Again, if two lie together, then they have heat, but how can one be warm alone ? And if one prevail against him, two shall withstand him; and a threefold cord is not quickly broken. ECCLESIASTES IV : 9-12

タイトルの And a Threefold Cord はその12節「人もしその一人を攻めうたば二人してこれにあたるべし。三根の縄はたやすくきれざるなり。」)から取られたものだが、実は物語の骨組みはその三根の縄になぞらえた人物構成から成り立っている。お互いを思いやりながらつつましく生きている3人を軸とする次の3組である。

(1) Charlieと両親 (Ma-Charlie-Pa)

(2) Charlieと恋人と母親 (Ma-Charlie-Freda)

(3) Charlieと母娘 (Ma-Charlie-Caroline)

(1) Ma-Charlie-Pa

Gerald Mooreが指摘するように、物語は「専ら Charlie Pauls の意識に中心が置かれている」4) が,La Guma は「三根の縄」の人間関係をすべて母親中心に展開させている。滅び去っていてもおかしくないほど厳しい抑圧の中でも辛うじて生き永らえて来られたのは、毎日の生活を支えてきた女性の存在があったからだ、と La Guma は常々考えていたからである。自らの母親について、「あの人は親切で心の寛い母親であり、献身的な妻でもありました。そして、第六区の他の女性たちのように辛い生活の日常の雑事をやりこなしておりました」5) と述懐する La Guma の言葉からもその一端が窺えよう。アパルトヘイトと闘う男たちを支え、子供たちを育て、黙々と日々の雑事をこなす母親の存在の大きさを La Guma が充分に承知していたからこそ、その「母親」を展開の中心に据えたのである。

「三根の縄」の人間関係の基調は他人への思いやり (love) である。本書が “This is for Blanche with love" という言葉で妻に献げられているのも示唆的だ。前作A Walk in theNight (1962) の基調が怒り (anger) や不満 (frustration) に置かれていたのとは極めて対照的である。朝方、弟 Ronald (通称Ronny) をからかう Charlie を母親が叱るのも,長い間寝たきりの父親への不満をこぼす Ronny を母親と Charlie がそれぞれ諭すのも、或いは屋根を修理する Charlie が釘を打たずに石を置いて応急処置をしようとするのも、すべて病床で苦しむ父親への気遣い、思いやりからである。

La Guma は父親に直接喋らせてはいない。読者に聞こえてくるのは、苦しみの病床から発する咳ばらいや陣き声ばかりである。父親の様子を描く次のくだりは、ことのほか読者の哀れを誘う。

…His bony knees, drawn up under the bedding, made tall peaks that quivered like a miniature earthquake; the whole body shivered and shook in the bed, gripped by sickness and the draught that came through crevices and old nailholes in the walls of the room. His lipless mouth was open, and emaciated, old chest wheezed and whispered like a tea kettle, the body-frame shaking like a mechanical toy.6)

“How you, Dad?" と問いかける Charlie に父親からの返事はなく、次の一節が続く。

The hollow eyes turned towards him and the mouth moved soundlessly, like that of a stranded fish. A sick old man clinging with brittle nails to the tortuous cliff of life, holding on with a last, desperate efforts. (34)

Charlie は父親に目くばせをしながら “Just res’, Dad. You just res’." と言い残してその場を離れるしか術がなかった。La Guma は父親の咳ばらいや呻き声に喋る以上の働きをさせたわけだが、その働きが可能になったのも、家族の父親に対する思いやりがあったからに他ならない。家族の父親に対する思いやりは,父親の死と葬式を通して読者の心に更に印象づけられていく。

作者は現在家族が住んでいる小屋 (their shanty) が出来上がった経維を語る中で既に父親が如何にかいがいしく働いてきたかについて少し触れてはいたが、一家の柱である Frederick Pauls 像をはっきりさせたのは、その死と葬式を通じてである。既に述べたように、作者は直接父親に喋らせないで、母親の言葉を通して父親像を読者に知らせて行く。

一家の主の死に際して、うろたえなかったのは母親である。体を洗う水を汲みにやらせ、検死の医者と葬式の手配を済ませてから、死者の目に硬貨をはめ込み、真新しい下着を着せた。生前死者が望んでいたことではあったが、手厚く葬ってやることが死者への最大の供養であり、思いやりであると母親が考えたからである。苦しい家計の中から、幾何かの積立金を工面していたのも、その思いからであろう。すべてが、言わば夫を思いやる気持ちのあらわれだったと言ってよい。

うろたえこそしなかったが、伴侶への思いや悲しみがいかに大きかったかは、Charlie に語りかけた次の言葉の行間からも感じ取れる。

Your pa’s gone away and he not coming back no more. Your pa was a good man to me, and he worked all the time so we could eat, and he gave me his children and he saw them grow up. He was a good man to me and to his children, and he trusted Our Lord. He just lived and worked and didn’t do nothing that was wrong in the eyes of the Lord. He worked for his family and when he couldn’t work no more, he lay down and waited for the Lord Jesus to take him away. Now he’s gone away to the Lord and he’s away sickness and hunger and gone to rest from his work. He carried his cross, too, like Our Lord Jesus, now and the burden is taken from off his shoulders. . . ." (107)

更に、母親は死亡証明書を書き終えた “Missus Nzuba" に対して、臨終の様子を次のように語る。

“He went quiet. I was just sitting there by him, after he had some soup from last night. Then he look at me and he say, 'Rachy’ – he always called me Rachy, mos, you know – 'Rachy,’ he say, `is the children awright ?’ And I say, `ja, Dad, the children is awright. Why do you worry ?’ And he say, again, `I would have like them to be living in another place. Like thos houses with the roofs.’ And, `Ach, what,’ I say. `You never min’ about the house,’ I say. And he just look at me and close his eyes. Then he give a sort of sigh and then the next thing, there’s the rattle in his throat, and he pass away just like that." (111)

そして、そう語る母親の様子を作者は次のように表現する。

The harsh, tearless voice chanted on and the shoulders rocked. There were no tears in Ma Pauls, but her words were her tears. (107)

母親の言葉は、家族のために黙々と身を粉にして働き続けた末に体をこわし、苦しみの病床に伏しながらも、愚痴一つこぼさず、ひたすら子供たちのことを気遣いながら死んで行った父親の姿をありありと私たちの眼前に展開してくれる。雨もりのために滲む天井のしみを、来る日も来る日も見つめながら、今はの際に、子供たちを瓦屋根の家に住まわせてやりたかった、と洩らした父親の一言を母親の口から聞かされる読者は、その無念さを思わずにはいられないだろう。又、日々衰え行く夫をそばに見ながら、医者を呼ぶ金もなく、むなしく薬草を煎じて飲ませてやるしか術のなかった母親への同情を禁じ得ないだろう。そして、そう感じる読者の思いは、そのような惨状をもたらしたアパルトヘイト体制へと及ぶ。よくぞこの惨状の中で生き永らえて来たものだ、という驚嘆の念を交えながら・・・・。

子供たちに、そして夫に尽し続ける Ma、家族のために働き、家族のことを気遣いながら死んで行った Pa、生来の楽観的性格で陰ながら Pa と Ma を支え、思いやる Charlie、そんな Ma-Charlie-Pa の親子関係を通して、La Gumaは「三根の縄」の人間関係の貴さを見事に描き出していると言える。

(2) Ma-Charlie-Freda

父親と母親のいたわりの世界を受け継ぐであろう、と読者に予想させるのはCharlie とその恋人 Freda である。La Guma はその二人と母親に、もうひとつの重要な「三根の縄」の役割を演じさせている。

Charlie は、未だ定職にも就けず毎日ぶらぶら暮らしてはいるが、母親の信頼は厚い。

Fredaは、2年前に夫を亡くし今は二人の子供を養う未亡人ではあるが、いずれ Charlie と結婚することになるだろう、と母親は考えている。二人を見つめる母親の目は温かい。

その点では、Ronny とその恋人 Susie に対する母親の見方は対照的だ。男を次々と替え,今回は妻子ある男とのあいだに子供ができたと噂されるSusieが、現実を見据えた母親の目に適うはずもない。病気の父親の不平をこぼし、チンピラ連中といざこざの絶えない Ronny の思いやりのなさや浅はかさを母親はしっかりと見抜いている。

Freda は、夫亡きあと、不平ひとつこぼさず、白人の所でメイドとして働きながら、女手ひとつで懸命に子供を育てている。日々の雑事をこなし、現実の厳しさを体で感じながら暮らしている母親には、Freda のひたむきな生き方が伝わって来るのだ。そんな Freda を陰ながら支え、暖かい目で見てやれる Charlie の生き方の姿勢も、又、母親には好ましく思えるのである。

母親の Freda への思いは、はじめ、父親の葬式での何げない仕草の中で示される。家族と一緒の車に乗せてやるように、と母親が Charlie に告げる場面を La Guma は次のように描く。

'There’s place,’ Ma said. 'Let Freda sit in front, then. Tell her.’

And Charlie warmed at this, feeling that it meant that Freda was being accepted. He smiled at her, helping her in and when she was on the front seat, he winked at her but she was looking straight ahead, preserving the decorum of the occasion. (119)

父親の葬式という家族の一大事で、Freda を家族同様に扱う気配りを何気なく見せる母親、主人に午後からのお暇の許しを得て葬式に駆けつけ、そっと参列する Freda、二人をさりげなくいたわる Charlie。Charlie と両親との間でもそうであったように、Ma-Charlie-Freda のあいだにあるのも、お互いへの信頼と三者三様に相手を大切に思うあたたかい感情である。

先にも少し触れたのだが、La Guma はこの物語を最終的に Charlie とFreda のラブ・ストーリーにはしなかった。歴史を書き留めておきたい、南アフリカの現状を世界に知らせたい、という思いや願いの方が、はるかに強かったからである。その思いや願いは、ケープタウンのスラム街第六区の生活の中から生まれた。献辞がその地区で助産婦や看護婦として貧しい人々、虐げられた人々のために働き続けた妻 Blanche に献げられているのも La Guma のその人たちへの思いからである。この物語についてのそんな思いを次のインタビューが教えてくれる。

I might have turned it into a love story, but apart from that I think that all the sentiments which are expressed in And A Threefold Cold also have something to do with my wife, Blanche, and our own feeling for the poor and oppressed people. Furthermore, Blanche devoted a lot of her times as a midwife and nurse to working among the poor of the community. So I believe she deserves some mention somewhere"

La Guma は Freda を軸に、二つの事件を通してアパルトヘイト体制の生み出す惨状を物語る。

一つは、Charlie が Freda の家に居た夜に、マリファナ所持の嫌疑で警察の手入れを受けた事件である。夜中の簡入者に子供たちは怯え、Freda は夜着の胸元をしっかりと抑える。調べが終わった警官は、尋問から二人が夫婦でないのを知り “Blerry Black whore." と Freda に罵りの言葉を残して立ち去った。

La Guma は前章で、パス法の手入れで交歓現場に踏み込まれ、裸のまま手錠をかけられた男がアフリカ人警官にむかって “Why do you do this, brother? Why do you do this to your own people?"(133) と訴える場面をすでに描いていたが、手入れが Charlie と Freda に及んだ場面を見て、アパルトヘイトという怪物の前では、Charlie の優しい心遣いも Charlie の思いやりもひとたまりもないことを読者は思い知らされる。愛しい子供や恋人さえも守ってやれないのである。更に、すぐあとに、手入れを受ける隣人たちの様子をナイトガウンをひっかけて見に出た男が「パスは家の中にある!」と叫びながら引ったてられる光景を Charlie が眺める場面に出くわすと、読者は1960年のシャープヴィルの虐殺という歴史的な事件を思い出す。あの人たちは、このパス法に抗議して集まったのだと。白人警官は、無防備なその人たちを無差別に撃ち殺した。

Freda の子供のように、南アフリカの子供たちは幾度となく恐怖を味わい、感性をずたずたにされながら大きくなって行く。人々は日々の暮らしの中で、人間としての誇りを傷つけられ、絶えず脅かされながら生きることを余儀なくされる。あの虐殺事件ですら日常の単なる延長でしかなかったのだ。そんな思いすら抱かせるほど、La Guma は Charlie と Freda の思いやりの世界を背景にうまく惨状を読者に伝えたことになる。

二つ目の事件は Freda の小屋の火事である。火事は Freda が買い物に出かけた隙に子供の一人がストーブを倒して起きたのだが、主に段ボールからなるその小屋は火のまわりが驚くほど早かった上、Freda が鍵を外からかけていたために、子供ごと瞬く間に燃え尽きてしまったのである。途中男が二人、助けに入ろうとしたが、火力が強く近寄ることさえ出来なかった。駆け戻った Freda の様子を La Guma は次のように描く。

And through the cries and the crackle of embers came another sound. At first it was a wail, and then it became a sort of shrill, horrid gobbling chant, an awful sound-picture which might conjure up the abominable death-rites of some primitive tribe. It rose to a high, nerve-plucking ululation which was something more than a scream or a shriek, the sound of an impossible sadness, a sound beyond agony, an outcry of unendurable woe, forlorn beyond comprehension, a sort of grief beyond grief. It was Freda. (158)

火事は確かにストーブが倒れて起きたのだが、読者はいつ火災が起きてもおかしくはない小屋の状況を既に知らされている。床は牛糞などで固めてならされた地面に安物の油紙が敷かれて作られているが、その地面も今は油紙もはがれて平担でない。足のとれたストーブがマッチ箱を支えにしてその床の上に置かれているが、最近はつまってどうも調子が芳明日は我が身、なのである。その意味では、Freda の悲痛な叫びは、個人を超えた、言わが見える。低い天井からは古ぼけたランプが吊されており、出入りの度に小屋が揺れる。手入れの時などは、警官がドアを叩いたので小屋全体が激しく揺れていた。こんな状態だから、今まで火事にならなかった方がむしろ不思議なくらいだ、と誰しも思う。

しかし、La Guma は Freda の小屋を特別なものとして描こうとしたわけではない。むしろ,ありきたりの小屋として取り上げたに過ぎない。Freda の小屋も、大部分拾いものの段ボールや屑鉄などで建てられたまわりの小屋と大差はない。拾ってきた壊れかけのストーブでも真冬には必需品となるこの辺りの小屋の住人には、Freda の小屋の火事ですら、明日は我が身、なのである。その意味では、Fredaの悲痛な叫びは、個人を超えた、言わばその地域の人々の叫びとも取れる。そして Freda の小屋の火事は、その人たちの悲惨な住宅事情や劣悪な生活環境の象徴的存在である、とも言えるだろう。

La Guma は先の手入れの事件では、官憲の横暴により人格を挫かれる人々の精神的な面を強調したが、Freda の火事では、惨めな生活環境を強いられて苦しむ人々の物質的な面に焦点を合わせて、アパルトヘイト体制の生み出す惨状を描き出している。

傷心の Freda をあたたかく迎えたのは、やはり母親であり、Charlie である。死んだばかりの父親のベッドで泣き伏す Freda に、ある友人のことを思い出しながらCharlieは語りかける。

…He said something one time, about people most of the time takes trouble hardest when they alone. I don’t know how it fit here, hey. I don’t understand it real right, you see. But this burg had a lot of good things in his head, I reckon.’

'Like he say, people can’t stand up to the world alone, they got to be together. I reckon maybe he was right. . . .Is not natural for people to be alone. Hell, I reckonpeople was just made to be together. I -' (168)

二人の子供をなくし動転している Freda の耳に、今はその言葉が届きそうにもないが、それでも Charlie にいたわられながら、父親と母親がそうであったように、「三根の縄」の世界を築き上げて何とか生き永らえてくれるだろう、La Guma は二つの事件を通して読者にそんな期待を抱かせてくれる。

(3) Ma-Charlie-Caroline

もうひとつの「三根の縄」の役は、Charlie と妹 Caroline と母親で、La Guma は Caroline の出産をその軸に据えている。人々の日常生活を描こうとする La Guma には、死や葬式と同様、出産が重要な意味を持っていたからである。

Carolineは17歳で出産を間近かに控えているが、まだ頼りなく18歳の夫Alfredと共に支えが必要である。父親が死んだ今、Charlieが父親代わりだが、展開の中心はここでも母親である。産婆が間に合わず、駆けつけてくれた隣人 Nzuba の手を借りて,母親は Caroline の出産を無事済ませたが、La Guma が出産を通して強調したかったのは、出産時の状況のひどさである。

Alfred から産気づいたとの知らせを受けて母親が駆けつけた時、娘は床のマットレスの上で毛布をかけて横たわっていた。オイルランプの火は薄暗く、戸口の所に溜っていた天井からの雨もり水が床を流れ始めていた。しかし、母親の出来たことと言えば,、持参のランプを吊り、娘の気を落ち着かせ、雨もりの個所に水差しを置いてから、用意させておいた新聞紙を何枚も腰の下に敷いてやるくらいだった。あとは産婆が来るのを待つしかなかった。

部屋の状況が如何にひどかったかを読者に印象づけるのに、La Guma はCaroline の叫び声を聞いて駆けつける白人警官を登場させた。叫び声が酔っ払いによるものだと思い込んで手入れにやって来た、という設定である。娘のお産だと言い張る母親の言葉を信じない白人警官が小屋を覗き込む場面をLa Guma は次のように描く。

At that moment Caroline screamed. The police raider said, 'Ghod !’ He peered past Ma into the shack, saw Missus Nzuba’s vastness crouched over the girl on the mattress. His eyes moved about, over the smoky ceiling, the muddy floor, the leak in the roof and the ragged clothes displayed as if for sale. The smell of smoke and oil and birth made the air fetid.

He said, again: `Baby ? What, in here ?’ Then he shrugged and growled, `Awright, awright.’ He turned and snapped orders at his men, while Ma shut the door on him. (150-151)

かつて父親と Charlie が小屋を建てるのが問に合わず Caroline が鶏小屋のような場所で生まれたのを知っている読者は、Caroline がやはりこんな惨めな所で子供を産まざるを得なかったのを見て、アパルトヘイト体制が続く限り、Caroline の子供もまた、いずれ同じ運命に晒されるだろう、と予測する。ここに描かれた「三根の縄」の重要性を思いながら・・・・・・。

(ii)「ここに人あり只独りにして・・・」(“There is one alone,・・・・")

「三根の縄」の重要性をより印象づけるために La Guma は、人を信頼できず孤独な生き方をする人物群を対照的に配している。エピグラフに引用された伝道之書第4章9-12節の「三根の縄」の世界とは極めて対照的な、同章8節に記されたような孤独な世界で苦しむ人々である。

There is one alone, and there is not a second ; yea he bath neither child nor brother yet is there no end of all his labour ; neither is his eye satisfied with riches ; neither with he, For whom do I labour, and bereave my soul of good ? This is also vanity, yea, it is a sore travail.

ECCLESIASTES IV : 8

(1) Ronny とRoman La Guma は孤独な生き方をする三つのタイプの人物を登場させている。一つは A Walk in the Night で克明に描き上げたタイプで、いつも不満を持ち、街にたむろしては無為な時を過ごしている類の不良連中 (gangsters) である。尻の軽い Susie をめぐって争った Ronny とRoman がこれにあたる。Ronny は Charlie の忠告にも耳を貸さず、白人Mostert に身を売ったと邪推して Susie を惨殺して刑務所行きになってしまう。Roman は妻子がありながら女を追いまわしたり、盗みで刑務所入りしたりする日々が続く。11人の子供を常に飢えさせており、妻子には烈しく暴力を振るう。両者は何事に対しても刹那的で、自己の欲望を満たすことに窮々としており、他人を思いやれない点で共通している。Ronny がSusie を殺したのも、自分の思い通りにならない女への苛立ちからであったし、Roman が妻子に暴力を加えるのも自らの不満を弱者を虐めることで解消しようとしたからである。虐げられながらも他人への思いやりを基調に結ばれた「三根の縄」の世界とは対照的である。

(2) Uncle Ben

二つ目は、厳しい世の中にすっかり諦観を抱き,、酒などの逃避手段に溺れてその日を暮らすタイプで、叔父の Ben がそれにあたる。病気の義兄や家族の問題で悩む姉を気使う優しさを持ちあわせながらも、僅かばかりの稼ぎもほとんど酒代に替えてしまう今の生活を Ben は改められないでいる。持参した安ワインを酌み交しながら、そのやる瀬ない心境を Ben は Charlie に語る。

'I don’t know what it is, Charlie, man. A man go to have his dying; don’t I say ? But with me is like as if something force me to drink, drink, drink. Is like an evil, Charlie, forcing a man to go on swallowing till he’s fall-fall with liquor. An evil, man.’ (81)

“…the poor don’t have to be poor…," “…, if the poor people all got together and took everything in the whole Merry world, there wouldn’t be poor no more…," “.. .if all the stuK in the world was shared out among everybody, all would have enough to live nice…." などと,友人の言葉を借りて Charlie がしきりに社会のあり方について説いてみても、Ben は “That’s communis’ things.Talking against the govemment." と言うばかり、その生き方の姿勢は死ぬまで変わりそうにない。前にも一部引用したのだが、友人のことを思い出しながら傷心の Freda にしんみりと語る Charlie の次の言葉は、他からは何ともしてやれない Ronny や Ben へのやる瀬ない思いと「三根の縄」の貴さを私たちに教えてくれる。

'Like he say, people can’t stand up to the world alone, they got to be together…. Maybe it was like that with Ronny-boy. Ronald didn’t ever want nobody to he’p him. Wanted to do things alone. Never was a part of us. I don’t know. Maybe, 1ike Uncle Ben, too. Is not natural for people to be alone….'(168)

(3) George Mostert

三番目は、妻に逃げられ佗しいやもめ暮らしをする白人George Mostert である。

スラム街に隣接する荒れたガソリンスタンドを営む Mostert は、スラムの住人と接する機会が多い。自分の寂しい生活と比べて、スラム街には貧しいながらも生気がある風に感じられて仕様がない。屑鉄などを与えた縁で知り合った Charlie のパーティーへの誘いに乗る決心をしたのも、孤独な生活の佗しさからだったが、一度は出かけたものの,結果的には途中から引き返してきてしまった。「集団地域法」に触れるのを恐れたからである。又、心は揺れながらも Susie の甘い誘いに乗れなかったのも「背徳法」がこわかったからである。結局は孤独な自分一人の世界から一歩も踏み出せないで苦しんでいる Mostert も又、アパルトヘイト体制の犠牲者のひとりであると言える。

各人各様に苦しみながらも孤独な生き方をするしかないそれらの人物像は、「三根の縄」の重要性をより印象づける働きを充分に果たしている。

Ⅲ 雨の効用 (His Use of Rain)

「三根の縄」の関係をさらに印象づけるために、La Guma は冬のスラム街に容赦なく降り注ぐ雨を最大限に利用している。A Walk in the Night で夜と “blackness" のイメージを巧く利用して第六区の抑圧的な雰囲気を醸し出すことに La Guma は成功しているが、本作品では雨と “greyness" のイメージを使って惨めなスラム街の雰囲気をつくり出している。La Guma が敢えて雨を取り上げたのは、ひとつには政府の外国向けの宣伝とは裏腹に、天候に人々が苦しめられている実態を描きたかったからである。次のインタビューは La Guma のそんな真意を明かしてくれる。

Yes, somebody asked a little while ago why I always wrote about weather in South Africa. Well, part of the fact is that the weather plays a part in creating the atmosphere and it helps to describe the scenes and so on. There is also the fact that overseas people believe the South African regime’s tourist propaganda that it is a country with perfect weather. I had an idea that rather we could use the weather as a feature of South Africa, but also in terms of its symbolic potential, and thus at the same time make it or try to make it genuinely South African. In other words, I am contesting the official propaganda of South Africa’s natural beauty and trying to show the world beautiful golf links is not the total picture.8)

La Guma は物語を雨で始め、雨で終えている。しかも,主題に係わる事件はすべて雨に関係させており、物語全体が雨のイメージで抱み込まれていると言ってもよい。その点では、本書の前書きで指摘する Brian Bunting の評 “And a Threefold Cord is drenched in the wet and misery of the Cape winter whose grey and dreary tones Alex La Guma has captured in a series of graphic prose-etchings."9) は言い得た表現である。

第1章 遠景 La Guma は、先ず山を背景にひかえ、海に面した町の遠景を書き、次に映画のクローズアップ手法さながら、徐々に国道や線路脇のスラム街 (shanty-towns) を描き出している。南半球の7月はもう冬、木々は既に落葉し、重くたれこめた暗雲は、雨の気配を漂わせる。最初は細やかな霧雨が地面にしめり気を与えるだけだが、やがては本降りの雨となり、一面灰色の世界がやって来る。そんな冬模様を La Guma は次の様に締めくくる。

The sky was heavy and grey, shutting out the sun, and there was no daylight, but an unnatural, damp twilight. The rain began again with gusty bursts, showing the world, pausing and pouring down in big heavy drops. Then it settled gradually into a steady fall, an unhesitant tempo of drops, always grey. (19)

あくまでも静かな書き出しである。第1章には音に関する表現が殆んど見られない。殊に、全体を通じてあれほど多く使われている擬声語が皆無である。La Guma は,視覚に焦点を置き、特に雨の “greyness" のイメージをまず読者の心に植えつけたかったのであろう。それはこれから始まる騒々しい物語の「嵐の前の静けさ」を象徴して余りある書き出しと言えるだろう。

小屋 (shanties) - 第2章 第2章から実質的に物語は始まる。Pauls 家の小屋で Charlie は雨の音に起こされる。第1章とは対照的に音に関する表現が多い。擬声語も、書き出しだけでも hissing、rattling、drip-drip、plop-plop-plopping、tapping など多彩である。雨が小屋にあたって色々な音を発するからである。のちに読者は知らされるのだが、小屋は拾ったり、盗んだり、或いはもらったりした材料で建てられたもので、錆びたトタン板や石油缶や段ボール紙などから出来ている。瓦屋根の家なら、よほどの雨が降らない限りそんなに音がすることはない。従って、雨の音は言わば小屋の貧しさの象徴と言ってよい。

錆びた屋根からは、雨が降るたび毎に雨がもって来る。雨足が弱ければその音は tap や drip-drip であるが、ひどくなればそれが plop-plop-ploppingとなる。雨もり水を缶に受ける Charlie の一光景はこうだ。

Charlie placed the can on the floor under the drip from ceiling. The plop-plopping sound was turned suddenly into a tiny rumbling as the drops struck the metal, and then gradually became a dull tinkling. (22, intalics mine)

三つの擬声語 (plop-plopping→rumbling→tinkling) が、缶に直接当たった雨水の音が次第に鈍くなって行く様子をうまく表現している。三語に含まれた流音は水が流れるさまを、破裂音 p は缶に当たった澄んだ軽快な音を、両鼻音 m、n は水が溜ったために鈍くなった音の感じをうまく伝えている。

風が吹くと、雨の音も高くなる。たとえば、"The rain hissed on against the house." の hiss などは、短かい言葉だが、短母音 [i] で短かく鋭い感じを、摩擦音 s で風に烈しくふきつけられた音の感じを表現し得ている。数えあげればきりが無いのだが、La Guma は直接的、感覚的な感じを与える自然音を模した様々な擬声語を駆使することによって、音にさいなまれる小屋の住人たちの模様を鮮明に聴覚から読者に訴えかけていると言える。

雨は小屋に騒音をもたらすばかりではない。雨の湿気が、小屋内の悪臭を助長する。じめじめした小屋は一種の臭いの溜り場と化す。そんな臭いに関する表現も見られる。

There were smells in the room, too. The smell of sweat and slept-in blankets and airless bedding, close by ; and somewhere indefinite, the smell of stale cooking and old dampness and wet metal. (21)

第1章で La Guma が視覚に訴えかけているとすれば、第2章では聴覚と嗅覚に訴えかけていることになろう。

同じ小屋で父親が死んだときも、雨だった。雨の音を聞き、雨のしみで黒ずんだ天井を見つめながら父親は死んでいった。La Guma は父親に直接語らせはしなかったが、母親の口から、読者は、子供たちに瓦の家に住まわせてやりたかった、と父親が語ったことを知らされる。身を粉にして働いたすえに体をこわし、不本意な家族との永遠の別れを強いられる父親の無念とそんな夫をどうしてやることも出来なかった母親の悲しみを思うとき、天井のしみが父親の無念のあとに、降る雨が涙を見せなかった母親の悲しみの涙にも見えてくる。

Freda の小屋で手入れがあったときも、雨が激しく降っていた。音をたてて降る雨は子供や Freda の不安を象徴し、手入れに踏み込む警官の姿に、より残虐なイメージを与える役目を果たしている。他の小屋でパス法の手入れがあった時には、白人警官が泥靴でドアを蹴とばして踏み込み、裸の男を引ったてて行った。その場合の雨も警官をより残酷なものに見せる働きを演じている。

Caroline が小屋で出産したときも、雨が降っており、入口の所に溜った雨もり水が床を流れ出した光景は、出産の場をより惨めなものにしている。

Ronny が Susie を惨殺したときも、雨が降っており、その雨が孤独な生き方しか出来なかった双方をより哀れな存在にみせている。

 

終章 第1章と同じ書き出し “ln the north-west the rain heads piled up,…" (165)で始まる終章第28章も、やはり雨で終わる。"greyness" の世界である。火事で二人の子供を亡くした Freda を父親のベッドに寝かせて、母親と Charlie がなぐさめる。

外は烈しい嵐が吹き荒んでおり、La Guma はその模様を次のように語る。

The rain excavated foundations and dredged through topsoil and a house sagged and tottered, battered into a jagged rhomboid of gaping seams and banging sides. The rain gurgled and bubbled and chuckled in the eaves and ran like quicksilver along the ceilings, and below, the shivering poor blew on their braziers and stoked their fires, crouched trembling with ague in the relentless dampness, huddled together for warmth and clenching their teeth against the pneumonic chattering. (166)

小屋の存在は、白人でない人々の社会的地位の象徴であるが、雨もりしながらも外の雨風に耐える小屋の存在は、まさにアパルトヘイトの嵐の中でさえ何とか耐え忍んで生き永らえている南アフリカの人々の姿そのものの象徴でもあろう。

La Guma は「三根の縄」の貴さを語るために、孤独な生き方に苦しむ人物像を対照的に描き雨のイメージをうまく利用して、視覚から、聴覚から、そして嗅覚から直接的に読者に迫っているのである。

 

Ⅳ La Gumaと And a Threefold Cord

And a Threefold Cord は、歴史を記録し、世界に南アフリカの実状を知って欲しいと願う La Guma の作家としての自負と、苦楽を共にして来た同胞への思いから生まれた。

その自負と思いが「語り」を生み、「雨の効用」を可能にさせたのである。

読者は、雨のイメージにくるまれた悲惨なスラム街を、小屋を、目で、耳で、そして鼻で感じ、La Guma の語りによって運ばれて来た「三根の縄」のメッセージ、"…people can’t stand up to the world alone, they got to be together…." (168) をしっかりと肌で感じ取るのである。

Notes

1) Richard Samin, “Interviews de Alex La Guma," in Afram Newsletter No. 29 (January 1987), p. 8.

2) Cecil A. Abrahams, “Interview with Cecil Abrahams," in Alex La Guma (Boston Twyne Publishers, 1985), p. 70

3) Samin, “Interviews de Alex La Guma," p. 13

4) Gerald Moore, Twelve African Writers (Bloomington: Indiana University Press, 1980), pp. 110-111.

5) Abrahams, Alex La Guma, p. 3

6) Alex La Guma, And A Threefold Cord (Berlin: Seven Seas Publishers, 1964), p. 34 ; all quotations from this work will be cited in the paper.

7) Abrahams, “Interview with Cecil Abrahams," in Alex La Guma, p. 71.

8) Abrahams, “Interview with Cecil Abrahams," in Alex La Guma, pp. 71-72.

9) Brian Bunting, Foreword to And A Threefold Cord, p. 16.

執筆年

1988年

収録・公開

「中研所報」20巻3号、359-375ペイジ

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Alex La Gumaの技法 And a Threefold Cordの語りと雨の効用

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1985)の伝記、作家論第3作で、家族でロンドンに亡命した1966年から、キューバのハバナで急死した1985年までを書いています。年譜と著・訳書一覧をつけました。

本文(写真作業中)

1966年9月に、永久追放ビザを取得したラ・グーマは、家族とともにロンドンに亡命した。祖国を離れるのは決して本意ではなかったが、厳しい自宅拘禁の続くなか、ANCの強い奨めもあってついに亡命を決意した。1978年3月にロンドンでセスゥル・エイブラハムズ氏に応じたインタビューの中で、当時の心境をラ・グーマは次のように語る。

 

そう、あれはその種の政治闘争の決意とか要求とかを混ぜ合わせた以上の複雑なものでした。自宅拘禁も4年を過ぎ、既に5年目に入っていましたが、その事態がおそらくあと5年は続くだろうと予測される中では、無期限に自宅に閉じこめられたままで居るのが何とも無益なものに思えてならなかったのです。国外でなら、もっと建設的に、もっとのびのびと活躍できるだろうと考えました。ですから、私は自分たちが今行なっていることを別の戦線でやり遂げようと思って家族といっしょにヨーロッパに来たのです。

 

作家が、想像力をかき立ててくれる自らの創作の場を離れることは決して小さな問題ではない。例えば、先述のリチャード・ライトもラ・グーマと同様に家族を連れて、パリに亡命したが、1958年にアメリカ南部を舞台にした長編小説『長い夢』をアメリカ国内で出版したとき、時代のずれを指摘する数々の痛烈な批判を浴びている。好意的な黒人批評家のソーンダーズ・レディングでさえ、「戻って来い、デイック・ライト、再び蘇るために!」という熱いメッセージでその評を締めくくっている。

ラ・グーマは、その辺りを充分承知しており、亡命のもたらす、自分にとってのよさ、悪さを次のように分析する。

 

私の創作にとって、亡命はよい面も悪い面も持ち合わせています。出来得るものなら、南アフリカにいて、そこで本が書ければ、とは思います。しかし、もちろん、南アフリカで本を書くことを政府が許してはくれません。ですから、作家としては、今までヨーロッパで作品を書き上げられたのは嬉しい限りです。その面から見れば、亡命していることがよい面に作用しています。しかし、自分の意思でというより、むしろ異常とも言える状況下で国を離れたあと、作家として一体何が書けるのかを考え続けているという面から見れば、そこにいる方が好ましいということになるでしょう。

 

当然のことながら、その点をきかれることも多かったようで、本誌7号で紹介した1976年のリチャード・サミン氏とのインタビューでは「あなたの場合、亡命したことが、書くことにどれほど影響を及ぼしていますか」との問いに対して「亡命したから変わったということは全くありません。見るものごとは変わるかもしれません、でも主だったところは当然付随的についてくるものです。南アフリカのほかでも、書こうと思えば何についてでも、私は書くことが出来ます」と答えている。

また1978年にロンドンでセスゥル・エイブラハムズ氏に応じたインタビューでは、更に詳しく述べている。

 

今までのところ生きたテーマを保ち続けるのに苦労したということはありません。将来についてはわかりませんが。作家というのは、現にその場にいなければその状況を描き出せないものだ、という人たちに、私は賛成しかねます。もし、ある作家がある状況について書けないとすれば、別の違う状況について書き続ければよいと信じています。その人は、まず作家であるからです。その人は、まわりの状況のせいで、南アフリカの作家なのです。しかし、もしその人が想像力を持ち合わせている作家なら、他の情景についても描けるし、違う局面で展開しようとする同じ考えを書くことが出来るはずです。ですから、もし南アフリカのことで書けるものがなくなってしまっているのに、それでも尚、書き続けたいと思うなら、その時は、イギリスについて、または、ほかのどこかのことについて私は書くつもりでいます。私はベトナムでの戦争について、短篇をひとつ書きました。その短篇はベトナムで出版され、他の作品集の中にも収録されました。つまり、作家は、もし才能があれば、他の状況の中でもやっていける、ということなのです。

 

「今行なっていることを別の戦線でやり遂げようと思って」ロンドンに亡命したラ・グーマは、当然のことながら、以前にもまして、精力的に活動を展開した。亡命した年と翌67年は、主にイギリス国内での反アパルトへイト集会で基調講演などを行ない、国際的反アパルトへイト運動の推進役を果たすのに多くの時間を費やした。もっとも、経済的には、相変わらず大層苦しく、妻ブランシがロンドンの病院などで長く辛い仕事をやりながら家計を支えるのを余儀なくされた。

その間、ラ・グーマは、デニス・デュアダン所有の私設ラジオ局に職を得て、68年まで、ラジオ番組の制作を助けたり、書評や放送用の短かいラジオドラマを書いたりしたが、68年には局が閉鎖されて職を失っている。

67年に口ンドンで第3作『石の国』が出版された。作家としての名声も次第に高まり、講演などの依頼も増え、いきおい活躍の場も広がっていった。『石の国』の出版直後、ラ・グーマは、ストックホルムで開かれたスカンジナビア-アフリカ作家会議に招待された。その会議で、はじめてラ・グーマは、すでに一線で活躍していたナイジェリアのショインカ、ケニアのグギ、南アフリカのムファーレレ、デニス・ブルータス、ルイス・ンコシなどのアフリカ人作家たちと接することになり、南アフリカのような抑圧下におかれた国での作家の果たすべき役割についての意見をたたかわせることが出来た。会議では、南アフリカでアパルトへイト体制が如何に文化荒廃をもたらしているかを語ったあと、作家としての決意を次のように述べている。

 

・・・・・・これが南アフリカの現実です。そして、工場で働く労働者であれ、田舎で働く人々であれ、これが一般の人々だけではなく作家や詩人たちも南アフリカで直面している現実なのです。だから、南アフリカの作家の立場について言えば、一般の人たちの立場と全く同じです。南アフリカの芸術家は、必然的に自分や一般の人々が巻きこまれている闘いに自らの身を捧げる以外に選択の余地がないのを悟るのです。ですから、私たちの社会では、もし必要であればいつでも、銃を持って立ち上がり、放送局を占拠する覚悟ができているのです。

 

ストックホルムの会議から戻ってすぐに、今度はモスクワで開かれた第4回ソビエト作家同盟会議にゲストとしてラ・グーマは招待された。父親と同様に、南アフリカ共産党の有力な党員であったことからソ連と深い繋がりがあったわけだが、こののちラ・グーマは何回もソ連を訪問し、更に深く係わっていく。(長男ユージーンはソ連の女性と結婚し、現在二児の父親としてモスクワに住んでいる)ソ連政府の出版努力のお蔭でラ・グーマの作品がソ連国内の多くの言葉に翻訳されるなど、人気作家としとの地位が築かれていった。

その年、ラ・グーマは更にベイルートでの第3回アジア・アフリカ作家会議にゲスト及び基調講演者として招かれた。この会議には、アジア、アフリカ43ヶ国の代表とヨーロッパ、ラテン・アメリカ各地から招待国13ヶ国、あわせて56ヶ国、150人が参加した。主なテーマは「アジア、アフリカ文学に反映した民族解放闘争の諸問題」であった。日本からも堀田善衛氏ら7名が参加、そのひとり針生一郎氏は対談の中でラ・グーマのことに触れて次のように語っている。

 

針生 たとえば南アフリカの代表はわれわれとホテルが同じなのでしばしば会う機会があったんです。ジャワ人と黒人の混血というアレックス・ル・グマという作家、これはあとでイギリスや東ドイツででている彼の小説を読んでみると、フォークナーばりの粘液的な文体で、抑圧された心理や行動を描いている・・・・・・(「新日本文学」1967年7月号に大会の模様、報告などが特集されている。原文のまま引用したが、「黒人」ではなく「白人」、ル・グマはラ・グーマが正しいと思う)

 

こののち、ラ・グーマは、アジア・アフリカ作家たちとも深い係わりを持つようになる。

こうしてラ・グーマは徐々に国際的名声を博するようになってはいったが、なお経済的には苦しい日々が続いた。68年には、不本意ながらアビィ保険会社で働くことになる。(ロンドンに亡命した南アフリカ人の多くがここで働いたという)ラジオ局の仕事は性分にも合っていたのでまだ楽しかったが、70年まで続いた保険の仕事はラ・グーマにとって相当辛く、退屈なものであったらしい。

それだけに、アジア・アフリカ作家会議の69年度ロータス賞受賞決定の知らせは、ラ・グーマにとってことのほかうれしいものであった。

ベイルート大会で創設が決められたロータス賞は、アジア・アフリカ作家会議運動の基本目標の一つである「われわれの時代の客観的真実を反映し、あらゆる種類の民族的、人種差別や社会的不平等に対して闘う態度を表明し、同時にさまざまな形の抑圧に抗してよりよい生活を求める人民の熱望を表現する」作品に与えられるもので、70年6月22日、23日の両日モスクワで開かれた第6回常設事務局会議(日本からも堀田善衛、中薗英助両氏が参加している)の審査委員会でラ・グーマは69年度の受賞者の一人に選ばれた。その年度が初回で、受賞者は他にベトナムのトウ・ホァイ、パレスチナのマームード・ダルウイッシュがいる。(「新日本文学」1973年3月号に紹介記事が載せられている)

70年、ニューデリーでのアジア・アフリカ作家会議に招かれたラ・グーマは、インディラ・ガンジー首相からその賞を授与された。受賞式でラ・グーマは次のようなあいさつをしている。

 

・・・・・・もしこの賞を誰かに与えるべきだとすれば、本当は南アフリカの人々に授与されるべきものです。なぜなら、本当に南アフリカの人々がいなければ、私は作家ではあり得ないからです。表紙に私の名が付されて出版されている本の何千語もの文字を書くように私にふきこんでくれたのは一体誰でしょうか。人々の生活、人々の愛情、人々の憎しみ、人々の悲しみと喜び、希望と努力など、それらすべてのものごとが、芸術や文化の価値のある作品の背後には必ず存在するのです。その人々の背景と努力がなければ、文学は単なる意味のない落書きと堕してしまうでしょう。[「ロータス賞受賞者のあいさつ-アレックス・ラ・グーマ 南アフリカ」「ロータス」10号(1971)]

 

会議のあとインドでしばらく妻と二人の休暇を楽しんでからロンドンに戻ったラ・グーマは第4作『季節終わりの霧の中で』の創作に精力を注いだ。同時に、70年から78年までANCロンドン地区議長としても、解放闘争の積極的な活動を展開している。政治的イベントの企画・実行、講演旅行などがその主な活動内容であった。

71年には『アパルトへイト』を編集し、東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。「南アフリカ人による南アフリカ人種主義に関する作品集」の副題が付され、すべて亡命を強いられ当時国外で闘っていた南アフリカ人によって書かれた詩とか随想文、評論文などの選集である。最近も来日したオリバー・タンボ、『まして束ねし縄なれば』に序文を寄せたブライアン・バンティング、現在アメリカピッツバーグ大学にいる詩人デニス・ブルータス、小林信次郎氏の邦訳『アフリカ文学の世界』(南雲堂、1975)の編者のひとりコズモ・ピーターサなどの名前も見える。ラ・グーマは「この本がアパルトへイト下で生活するということが何を意味するかについて人々がより理解を深めるのに貢献し、解放のために再び武力闘争を始めた勇敢な南アフリカの人々に対する支援者を更に増やしてくれれば、と願っています」とその序の中で編者としての希望を綴っている。

72年に『季節終わりの霧の中で』が出版された。これまでの作品は南アフリカにいる時に書かれたものが多かったのだが、この作品はすべてロンドンに来てから書かれている。

75年には、タシュケントの第5回アジア・アフリカ作家会議に出席し、同作家会議議長代理に選出されている。すぐあとには、ソビエト作家同盟の招待により6週間にわたる国内旅行を果たしている。その旅行とそれまでの何度かのソ連訪問体験をもとに『ソビエト旅行』を執筆、78年に出版された。また、75年には、世界平和会議の代表としてチリとべトナムを訪れている。べトナムでは、ベトナムの戦争に関する短篇を書き、当地で出版されている。

76年1月には、タンザニアのダル・エス・サラーム大学に客員作家として招かれ、カナダに亡命中で、客員教授として同大学を訪れていた南アフリカ人セスゥル・A・エイブラハムズ氏と初めて出会った。2年後に、二人はロンドンで再会し、エイブラハムズ氏は、原稿の整理・管理と、伝記家としての仕事を引き受けることになり、85年にその成果『アレックス・ラ・グーマ』が世に送り出されることになる。心臓発作によりロンドンに帰ったため、ラ・グーマの滞在期間はわずか2ヶ月であったが、その間、文学部主催のアフリカ文学国際会議で「アフリカ文学と唯物論者の芸術の概念」と「文学と反帝国主義者の闘争」の講演を行なったり、コート・ジボワールのリチャード・サミン氏のインタビューに応じたりしている。(サミン氏は、のちにロンドンでも何度かインタビューを行なったとのことである)

77年には議長を務めていたエジプトのY・エル・セバイが暗殺されたことにより、アジア・アフリカ作家会議議長代行に指名された。(79年にルアンダで行なわれた第6回大会で議長に指名されている)

78年に、ラ・グーマはANCのカリブ主代表としてキューバのハバナに赴いた。キューバ政府から、住宅、食料などを支給され、トリニダード、ジャマイカなどをまわったり、解放にむけての活動に従事した。

79年には第5作目『百舌鳥のきたる時』がロンドンで出版された。

81年には、日本アジア・アフリカ作家会議主催の「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議」-川崎市)に出席するためにラ・グーマは日本を訪れた。(本誌8号にその時の写真とラ・グーマのことが少し紹介されている)ラ・グーマはアジア・アフリカ作家会議議長として、キューバから来日したが、朝日新聞11月16日タ刊には次のようなラ・グーマに関する記事が載せられている。

 

また南アの作家アレックス・ラ・グーマ氏(アジア・アフリカ作家会議議長)も「第三世界と先進国間の、文化交流と連帯の一歩を作った」と評していう。「“人はパンのために生きるにあらず”というが、果たしてそうか。バンなしには生きられない-これがわれわれの主張だ。だから人々は、飢えることのないように助け合わねばならない。そのうえで、表現行為が存在する。今回、この問題をめぐり広範囲に討議し、新しい考えをつかむことができた」

 

しかし、一方では、針生一郎氏はその報告の中で、日本批判がことのほか厳しかった実状を次のように記している。

 

川崎でのスケジュールのあと、わたしはラ・グーマ、リウス、グギらに同行して京都におもむき、そこで熱心な日本の人びとの主催による三つの集会に出た。彼らはいずれも日本の人びとの熱意に、ある手ごたえを感じたと思われるが、同時にその日本批判はますます辛辣になった。ラ・グーマは、「日本をどう変えるかはあなたがたの問題だが、原則的なことは、日本の物資的ゆたかさは第三世界の搾取の上に成り立っていることだ」と語った。リウスは「日本人のすべてが、消費社会の構造に完全にはめこまれた自動的な口ボットのようにみえる。もうほとんど手おくれかも知れないが、あなたがたはどうやってこの社会を変えるのか」と問いかけつづけた。(「世界」1982年1月号、「新日本文学」1981年11月号にアジア・アフリカ、ラテンアメリカ文化会議の特集が組まれている)

 

82年にラ・グーマは『闘いの王冠』の執筆にとりかかっているが、結局第3章までの未完の作品となった。

85年6月には、ソビエト作家同盟から60歳の誕生祝賀会に招待された。千人以上の人が会場に集まり、ラ・グーマの人気の程をうかがわせた。

10月には、当時エイブラハムズ氏のいたカナダのビショップ大学での会議に招待され出席する予定であったが、10月11日金曜日タ刻、心臓発作のため二度と還らぬ人となったために出席は果たせなかった。妻ブランシは「何もかも突然で、信号を無視して車を走らせ病院に運びましたが、病院に着いたとたんに死を宜告されました」と臨終の模様を語ったという。

当時、アメリカにあるアフリカ文学研究会の副会長を務めていたエイブラハムズ氏はその会報で、ラ・グーマの業績を簡単に紹介したあと次のように結んでいる。

 

解放闘争の代表者としての、そして誰もが信頼を寄せる印象深い創造的芸術家としての積極的なすべての経歴を通じて、絶えずラ・グーマは、すべての南アフリカの人々が協調して生きる人種差別のない新しい南アフリカのために働いてきました。それはまさにラ・グーマが生涯、心から願い続けたことでしたが、勝利の日が見えてきたと思える今、皮肉なことにあの人がこの世で自分の働いた成果を享受することは決してないのです。

 

南アフリカ人として、南アフリカの大地に生を受けながら、白人でないという理由だけで、人間としての扱いを受けなかったラ・グーマ。ラ・グーマの一生は、人間を取り戻すための闘いであった。

貧しく虐げられながらも、更に拘禁され、祖国を離れることを強いられても、すばらしい両親の深い愛に包まれ、よき伴侶に支えられつつ、ラ・グーマは断じてひるまなかった。

祖国を離れて、疲れ果て、解放の日を見ることなくこの世を去ってしまったが、その生き様は時の流れの中に葬り去られることはない。慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中に、ラ・グーマの魂は生きつづけるだろう。

 

これで伝記的な紹介は終わり、次回からは作品論に入ります。政治・経済・歴史的な部分については故野間寛二郎著『差別と叛逆の原点』(理論社、1969)に、伝記的な部分については、本誌で紹介したセスゥル・A・エイブラハムズ氏の『アレックス・ラ・グーマ』[Alex La Guma (Boston: Twayne Publishers, 1985)]に負うところが多く、記して謝意を述べたいと思います。尚、アレックス・ラ・グーマ年譜と著・訳書一覧を付けました。ラ・グーマのものを読む際の一助になれば幸いです。ひとりでも多くの方がこの偉大な作家アレックス・ラ・グーマの作品を読まれることを祈りながら・・・・・・。

 

 

アレックス・ラ・グーマ年譜

 

 

19世紀  母方祖母イリーナ・フルゼラ、インドネシアよりケープタウンに到着し、スコットランド移民祖父アレクサンダーと結婚、母ウィルへルミナ・アレクサンダー誕生。父方祖父ラ・グーマ、マダガスカルよりケープタウンに到着。

1894  父ジェイムズ・ラ・グーマ誕生。

1924  ジェイムズ・ラ・グーマとウィルヘルミナ・アレクサンダー結婚。

1925  アレックス・ラ・グーマ、ケープタウン第6区で誕生。(2月20日)

1932  アパー・アシュリ小学校に入学。

1933  妹ジョーン誕生。

1938  ケープタウン、トラファルガル・ハイスクールに入学。

1942  ハイスクール中退。ケープタウン、倉庫会社に就職。(~43)

1944  メタル・ボックス・カンパニーに就職。

1945  ケープ・テクニカル・カレッジ夜間コース入学試験に合格。

1946  メタル・ボックス・カンパニーの執行委員としてストライキを先導、同社を解雇される。

1947  ケープタウンの会社で会計係や店員。(~54)青年コミュニスト同盟に参加。

1948  国民党政権樹立。南アフリカ共産党第20区に加盟。

1950  共産党禁止される。

1954  ブランシ・ハーマンと結婚。南アフリカカラード人民機構[SACPO、のちのカラード人民機構(CPC)]の執行委員となる。

1955  SACPOの議長に選出される。クリップタウンでの人民会議のケープ代表団を組織するが、ケープ州ボウフォートウェストで足止めを食う。「ニュー・エイジ」にリポーターとして採用される。

1956  ケープタウン、バスボイコットを指揮。長男ユージーン誕生。他155名とともに反逆罪の嫌疑で逮捕される。反逆裁判開始(~61)

1957  「ニュー・エイジ」のコラム欄「わが街の奥で」を担当。(~62)CPCの執行委員代表に選出される。最初の短編「練習曲」(のちに「夜想曲」と改題)を「ニュー・エイジ」に発表。

1958  暗殺されかかる。

1959  次男バーソロミュー誕生。

1960  シャープヴィルの虐殺。フルウールト首相暗殺、非常事態宣言発令により逮 捕され、7ヶ月間拘置される。

1961  ゼネラルストライキを組織した嫌疑により10日間拘留される。父ジェイムズ・ラ・グーマ、心臓病にて死去。

1962  『夜の彷徨』出版。共産主義弾圧法により、著述・著作物の引用を禁止される。「ニュー・エイジ」の仕事放棄を余儀なくされる。

1963  ANCの地下運動幇助の嫌疑により、5ヶ月間拘留される。妻ブランシも逮捕されるが、すぐに釈放される。5年間の自宅拘禁を命じられる。母ウィルヘルミナ死去。

1964  『まして束ねし縄なれば』出版。

1966  南アフリカ共産党に協力した嫌疑により4ヶ月間拘留される。家族とともにロンドンに亡命。イギリス国内での反アパルトへイト運動の推進に尽力。(~67)デニス・ジュアダンのラジオ局に就職。(~68)

1967  『石の国』出版。スカンジナビア-アフリカ作家会議(ストックホルム)、ソビエト作家同盟第4回会議(モスクワ)、及びアジア・アフリカ作家会議第3回大会(ベイルート)に招待される。

1968  ロンドンのアビィ保険会社に就職。(~70)

1970  アジア・アフリカ作家会議69年度ロータス賞の受賞決定。(モスクワの第6回常設事務局会議にて)アジア・アフリカ作家会議第4回大会(ニュー・デリー)に招待され、ロータス賞を授与される。ANCロンドン地区議長となる。(~78)

1971  『アパルトへイト』を編集、出版。

1972  『季節終わりの霧の中で』出版。

1975  アジア・アフリカ作家会議第5回大会(タシュケント)に参加。同作家会議議長代理に選出される。ソ連を6週間旅行。「世界平和会議」代表としてチリ、ベトナムを訪問。

1976  ダル・エス・サラーム大学(タンザニア)の客員作家。(1月から2月まで)

1977  アジア・アフリカ作家会議議長代行となる。

1978  『ソビエト旅行』出版。ANCカリブ代表に指名され、赴任。(キユーバのハバナに在住)

1979  『百舌鳥のきたる時』出版。アジア・アフリカ作家会議議長に選出される。

1981  アジア・アフリカ、ラテンアメリカ文化会議などに出席のため日本を訪問。

1982  遺稿『闘いの王冠』(未完)の執筆開始。

1985  ソビエト作家同盟より還暦祝賀会(モスクワ)に招待される。心臓発作によりハバナにて死去。(10月11日タ刻)

1987  キューバで3回忌法要、長男ユージーン参加予定。(10月)

 

 

 

≪編・著書≫

 

◎ 『夜の彷徨』(物語)(A Walk in the Night, 1962)

◎ 『まして束ねし縄なれば』(物語)(And a Threefold Cord, 1964)

◎ 『石の国』(物語)(The Stone Country, 1967)

◎ 『アパルトへイト』(編・著)(Apartheid, 1971)

◎ 『季節終わりの霧の中で』(物語)(In the Fog of the Season’s End, 1972)

◎ 『ソビエト旅行』(紀行文)(A Soviet Journey, 1978)

◎ 『百舌鳥のきたる時』(物語)(Time of the Butcherbird, 1979)

 

≪日本語訳≫

 

◎ 物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)、酒井格訳『全集現代世界 文学の発見9第三世界からの証言』(学藝書林、1970年)に所収。

◎ 短編物語『コーヒーと旅』(“Coffee for the Road,” 1964)、土屋哲訳『現代アフリカ文学短編集Ⅱ』(鷹書房、1977年)に所収。

◎ 短編物語「タシュケントへもう一度」(“Come Back to Tachkent,” 1970)、荒木のり訳「新日本文学」1971年3月号に所収。

◎ 評論「アパルトへイト下の南アフリカ文学」、石井碩行訳(“South African Writing under Apartheid,” 1975)「新日本文学」1977年4月号に所収。

◎ インタビュー「アレックス・ラ・グーマへのインタビュー」(“Interviews de Alex La Guma,” 1975)、玉田吉行訳「ゴンドワナ」1987年4月号に所収。

◎ 物語『まして束ねし縄なれば』、玉田吉行訳(門土社、1992年)

 

≪教科書≫

 

A Walk in the Night、玉田吉行註(門土社、1989年)

And a Threefold Cord、玉田吉行註(門土社、1991年)

 

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」10号24-29ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1985)を知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際に行ったインタビューです。見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を録音し、帰国後聞き取り作業をしてまとめたものです。

                                           ラ・グーマ

本文(写真作業中)

YOSHIYUKI TAMADA INTERVIEWS CECIL ABRAHAMS

 

 (August 22-25, 1987 in St. Catharines, Canada)

 

 

 

 

 

 

1-A

Cecil – I’d say that in June, 1985, the Soviet Writers’ Union had a special evening for Alex La Guma in Moscow to celebrate his sixtieth birthday and they had…in the auditorium there over a thousand people came to celebrate with him. And I was one of the speakers. And I was so amazed at how many people had read La Guma. So all came to the auditorium with books under their arms for autographs and there was one man in his, probably late seventies and he was blind but his arm was full of La Guma’s books. And he came up to him to ask him to autograph it. It was a very touching experience. In fact what they did! The publishers in the Soviet Union for his sixtieth birthday brought out half a million copies of his collected works and they sold it all within one month. He is, he was a very popular writer in the Soviet Union and of course he visited there many times. Also because he was a member of the South African Communist Party. His father had been in the South African Communist Party. So there’s this connection to the Soviet Union and his books have been translated into many Soviet languages. So he is widely read and more respected in the Soviet Union. So maybe some day in Japan there will be just as many people read Alex La Guma….

 

Yoshi – I hope so….

 

Cecil – Yeah, because for South Africa, and for South Africans, we think, among the black writers Alex La Guma’s always the best writer that has been produced by South Africa. And also because he’s written more books, more novels than any other black South Africans expect Peter Abrahams. But Peter Abrahams wrote many years ago. And he stopped writing about South Africa. He started writing about Africa in general and about Caribbean. But Alex La Guma’s five novels have made him perhaps our best writer among black South Africans. And what is important now is even though Alex La Guma was banned in South Africa, so his books could not be read by South Africans. It was not allowed to be sold. Now some South African publishers ask permission from the government to…to….

 

Yoshi – To publish books?

 

Cecil – To publish books and they think it may be possible because I had a letter just recently from Phillips Company in Cape Town and they asked me whether I could make it possible for them to publish his material again. They wanted to do A Walk in the Night. They wanted to publish it again. Maybe soon South Africans will have the opportunity to read Alex La Guma.

 

Cecil — He was then living in Cuba. So we did many, many discussions on the books, his life in South Africa. So while you are here, I’ll let you listen to some of them to give you an idea of what he said and so on, also to hear his voice talking about his own books and his experiences. Yes. He was very helpful, he was not…: you could ask him for anything, he’d do it for you. He was a very kind, very friendly person.

 

Yoshi – It is unhappy that the situation in Japan is not so good because scholars on Africa are not good. They were and are studying African materials for the sake of study. Do you know Mr. A?

 

Cecil – Yes.

 

Yoshi – He is not good. And do you know Mr. B? He is not good, either. I feel very sorry. Mr. Kobayashi was quarreling with them. They are not so good. The worst thing is that they introduce Africa in bad ways to Japanese readers….

 

Cecil – Well, we are now fortunate with people like Kobayashi, You. You are now taking a serious interest in South African literature and obviously, if you do your home-work and you’ve come all this way from Japan to come and ask me questions about La Guma, it means that you are serious. You want to know as much as possible. So when you begin to write about it, and introduce him to Japanese people, you’ll be speaking something from authenticity, not something that is not true. And that’ll be very helpful, because I think it for us South Africans is very important that Japan or people in Japan know about what’s exactly happening now, because Japan is a very powerful nation economically and she has quite a lot of investment in South Africa. And our aim is to try to get all the countries that invest there to stop investing, because the South African regime will continue to be as they are at the moment-if they know countries like Japan, West Germany, France, Britain, U.S.A., Canada, that they’re all supporting economically. So they’ll simply say, “there’s nothing wrong with our system, why should we change?" So we feel that, you know, these rich countries or these economically strong countries should stop investing there. Furthermore, our view is that Japanese are an Asian nation and therefore should be closer to other Third World nations especially to Africa and that we should be able to get help from Japan…. They should have no difficulty in listening to our position. It may be more difficult to convince U.S.A. or Britain because they can argue that people over there are our kith and kin, you see, but Japanese, they are not kith and kin, so why should they help? The economy is there, you see.

 

Yoshi – The ruling party is very conservative and now most of Japanese are Americanized and they know nothing about the situation and the ruling party is going forward to the Third World War. For example they gained the power of the advancement of security treaty between the United States and Japan. They succeeded by the majority of the Congressmen. So but most of Japanese do not recognize the dangerous situation. Only the Communist Party is stressing the dangerous situation. We may make the same error when we made the error at the Second World War. Do you support ANC?

 

Cecil – I am a member of ANC.

Yoshi – I’m carrying some money for ANC, but I’m having Traveler’s check, so I’d like to change the traveler’s check into cash.

 

Cecil – Alex La Guma located himself in a central position. He didn’t just write for writing’s sake. He wrote to tell stories about the real problems of the people in South Africa. So I think in that way his books will always be important. They’re important as stories but also important as histories. Because La Guma always talked about recording the history of South Africa.

 

Yoshi – You stress it in your book.

 

 

 

Cecil — I stress the point that he saw himself as a recorder of history. That he had to give the picture of the lives of the people in South Africa, which is very important. So I think in that way his writings will always be important. Even one day when South Africa has no more apartheid our young people will have a history of what had happened before so that we don’t repeat those mistakes in the future. Because it’s very important that we don’t replace white racism with black racism. It’s important that all our people are given democratic rights and that people are seen as human beings not human beings who are black or brown or white, but human beings who are just living and trying to make a life. And so it’s very important that we have these books so that if we have the majority of the blacks, for example, say, well, why don’t we oppress the minority? Then we can always point out, look, we’ve gone through this before and there’s no point repeating this. Alex La Guma believed very deeply in the integrity of the human beings not integrity of the black person or the white person  human beings  and the violation is not the violation of white or black person but of the human beings. And so in this way all his work, it was his purpose in life to try to bring about South Africa and a world, where all people are respected for their humanity not for their colour.

 

They are the policies of ANC.

 

Cecil — It’s ANC policy. ANC policy is exactly the same. That you don’t look at the person’s colour, person’s wealth, whether a person’s beautiful or ugly but you look at a person as a human being, what you offer as a human being to make it a better society, and a better world. La Guma believed in very firmly and he loved it. And I think that was one of the nice things about him -If you went to visit him, he would be very easy with you. He didn’t look at you because you came from Japan and even if Japan is not one of the countries that is a big support of ANC. La Guma doesn’t look upon you as being the country Japan. He looks upon you as another human being who is interested in the problems of South Africa, who would like to see changes that will bring about our equal society. That’s what he’s looking at. lie would disagree with you if you came to his house and said, “I don’t believe in those principles," he’ll kick you out of his house. The people who come in my house are people who believe in the principles I believe in. fn that way he was a very nice person to know and his wife is also the same. She also worked with him in the political movements. She also went to jail. So they worked together very closely and I think you see the same humanity, the same concerns coming into the books. When you tell stories in the books, they’re always stories of people, while oppressed, he is always trying to get them to fight back, to challenge the system….

 

When did you make friends with Alex La Guma?

 

Cecil — Well, I actually only met Alex La Guma outside South Africa.

 

Outside South Africa?

 

Cecil — I didn’t know him there, but I knew about him. I had read his columns in the newspaper and I’d read about him. But I didn’t know him, and I was still too young.

 

When were you born?

 

Cecil — I was born in 1940.

 

1940?

 

Cecil — Yeah, Alex La Guma was born in 1925.

 

I was born in 1949.

 

Cecil — 1949. Oh. So I did’t know him, but I was born in Johannesburg in the inner city, in a suburb called Brededorp. This suburb had been made famous by one of the first black writers called Peter Abrahams. You’ve read some of his works?

 

Ah, he is also a coloured man?

 

Cecil — Yes, he is also a coloured man.

 

Can I, Can we call a coloured man?

 

Cecil — Yes….

 

Is it polite?

 

Cecil — No, it’s not any more. Today all the people who are not white, we call black, not coloured any more.

 

Cecil — So I was born in a home where my father came from India and my mother had a Jewish father and an African mother, a Zulu mother. So we were classed as coloured in our area by the government. And we were a poor family. There were six children. And…but my mother had a strong interest in us getting schooling, that we should get some education. She argued that if you have an education, you can take care of yourself. I lived in an area that was very poor, really poor, and so early in my life I became conscious of the inequality between white and black. So I, at the age of twelve, I went to jail for the first time.

 

To Jail?

 

Cecil — Jail. To prison. For opposing we had some sports fields, soccer fields. One side was for black children. The other side was for white children. Black children had just gravel. White children had grass. So I took all the black children into the white side.

 

Is it, was it difficult to play on gravel?

 

Cecil — Very, very, because we got scratched, and injured and so I took the children over to the white side of the grass, and we got arrested. Then I was very active in my community, helping people oppose all sorts of wrong legislation. So I went to jail three times. And I became….

 

How long?

 

Cecil — Well, each time was only a short period, for a few weeks, and I became a member of the African National Congress. When I was only sixteen, I joined ANC. And then, when I finished my high school, I went to university. The university is in your, in this magazine. The University of Witwatersrand. I went there one year but I left because….

 

What’s the name of….

 

Cecil — University of Witwatersrand. I’ll show you a picture you call it Witwatersrand.

 

How do you pronounce?

 

Cecil — It’s an Afrikaans word. It means Wit-waters-rand which means…..

 

Wit, Wit…

 

Cecil — Wit-waters-rand

 

Waters-rand

 

Cecil — It was a spelling mistake (in your magazine) Wit-waters-rand, there should be an 'r’ there, not an '1’, should be an…, it means this is the area of southern Johannesburg. It’s about thirty-six miles long and all along it they discovered gold. So it was called Witwatersrand. This is the university.

 

Cecil — I went there for one….

 

He is now….?

 

Cecil — Yes, that’s right. Mphahlele, yes. That’s right. I left after one year because they used to discriminate. They discriminated against us. There were students, there were five thousand students. There were about four thousand nine hundreds and fifty were white and fifty black students. We were not allowed to take part in dancing, gymnastics, sports. We were only allowed to go to class and the library. Otherwise, we weren’t allowed because we were not white. So I didn’t like it. So I left it. I went to Basotho land. Today it is Lesotho.

 

Lesotho, one of the homelands?

 

Cecil — No, not a homeland. It’s an independent country. It’s inside South Africa. L-E-S-O-T-H-O.

 

LESOTHO, LESOTHO….

 

Cecil — At that time it was not independent. It was still under British rule. It was called Basotho land. So I went to college, there. I finished my B. A. and I came back to South Africa and I taught high-school without a teacher’s certificate. So I was unqualified, but I had a degree, which was something rare, because very few black people got degrees. We were a small number. I taught high-school for seven months.

 

Seven months. High-school?

 

Cecil — Yes. I taught English and history and all sorts of things. Then I was arrested again for taking part in a “stay home." We asked the people to stay off from work, when South Africa became a republic, and I was in….

 

Oh, 1961?

 

Cecil — Yes. Then I was a…. I helped to organize the stay home, giving out leaflets, advising people not to go to work. And we were arrested. We were kept in jail for four months.

 

Four months.

 

But we were not put on trial. We were just kept. And finally they put us on trial.

 

For the Communist Party?

 

Cecil — No, by the government, they put us on trial. They said we were trying to get the people to oppose the government, to destroy the country. So when we were put on trial, the ANC, then we were let out on bail. And then the ANC decided that some of us had to leave the country because we were wasting a lot of our lives there by going to jail, so they told us we should leave the country. I first went to Swaziland, then to Tanzania and from Tanzania I was sent to Canada and in Canada I completed my studies and did my master’s degree and my Ph.D. And I….

 

In Canada?

 

Cecil — And the ANC decided it would be better for me to stay on rather than go back. By now they are calling me a communist

 

Like La Guma?

 

Cecil — Like La Guma. That’s a very common thing. When they don’t like you, they suddenly decide you are a communist. So for South Africans communism means opposing injustice. Communism means the neglect. They don’t understand communism. They only know if you oppose apartheid, then you’re a communist and that’s good. So I left and came to Canada to work with the ANC, but also to finish my studies. Then I started teaching at the university. And I’ve been teaching and working quite actively for the ANC.

 

Cecil — I’ve been in Canada since 1963, teaching and working with the ANC. At the beginning we had no ANC people, now we have a few working for us in Canada.

 

In Canada is it common foreigners can get a full time job?

 

Cecil — You have to be a Canadian citizen or an official immigrant. They don’t want foreigners any more. But it was quite easy up to about five years ago. In fact, many of the professors of Canada at Canadian universities are from England or from America or some Europeans. But I came to Canada as a refugee, so I had no papers, because I had no South African passport, because I’d escaped the country and so they gave me Canadian papers-so it was not a problem.

 

Is it easy to get a permanent visa for a South African?

 

Cecil — No.

 

No. Is it difficult….

 

Cecil — Is it easy for South Africans to come to Canada? It depends South Africans can come here now, and they can claim refugee status because South Africa’s having so much trouble. If you are persecuted by the government of South Africa, then Canada will give you a refugee status. If you want to come here as an immigrant, the procedure takes a long time. And generally Canada has not been favorable for immigrants that are not white. It’s much harder to get any kind of papers in Canada. So South Africans don’t come to Canada very much. So South Africans usually go to England, or to the US or in Africa to places like Zimbabwe, Tanzania, and other countries.

 

Zambia has the headquarter of ANC?

 

Cecil — ANC headquarters are in Lusaka. So many of the South Africans who live in Canada came here as people wanting better lives. Not many are interested in politics. They don’t care too much about what’s happening in South Africa. So it’s a bit of a problem for us. The ANC in Canada has about 30 members.

 

Thirty?

 

Cecil — All over the country.

 

When did you meet La Guma?

 

Cecil — The first time I met La Guma was in Tanzania.

 

At Dar-es-Salaam University?

 

Cecil — That’s it.

 

In 1976?

 

Cecil — 1976. That’s right.

 

Do you know Richard Samin in Cote de Ivoire?

 

Cecil — Who’s that?

 

Richard Samin.

 

Cecil — Oh, Yes.

 

I sent the copy of the interview.

 

Cecil — That’s where I met La Guma. La Guma had just had a heart attack.

 

He had to return to London in two months?

 

Cecil — Yes, then I saw him many times in London and then in Cuba.

 

You took part in a conference at Dar-es-Salaam University?

 

Cecil — I was a Friendship Commonwealth visiting professor. I was sent to give lectures all over and I gave some of them in Dar-es-Salaam. And so….

 

He was a….

 

Cecil — He was a visiting writer.

 

A visiting writer in residence?

 

Cecil — In residence. So I met him then. And two years later in London I decided to write a book on La Guma, so we started talking about it. And then I started working on it, writing it. In 1982 he made me his official biographer. I’m now responsible for all his papers, for all the literary stuff. It’s my responsibility. There are some unfinshed works, which I mean to put together into a book.

 

Is it possible to publish `Zone of Fire’?

 

Cecil — It was `Zone of Fire,’ but he changed it in the end to `Crowns of Battle’.

 

Is it possible to publish it?

 

Cecil — It’s not finished, we have about three chapters. So I’m putting it together with some commentary. But it’s not ready.

 

I’m looking forward to the publication.

 

Cecil — It’s quite good, the work he didn’t on it. He was also finished a biography of his father, which I’d like to get published. And then he has a few short stories which have not been published, which we’d like to publish. He wrote some radio plays when he was living in London, as part-time work, for the BBC. Mostly detective stories. I’m going to put them all together, some can have a complete production of them. So over a period, we’ll have quite a lot of La Guma’s matherial coming out. But I’m also doing it for the South African people, so that they have a record of what La Guma was like. And Mrs. La Guma wants a good record, so she’s very anxious that I get it all done.

 

Why did La Guma choose to go to Cuba?

 

Cecil — Oh, he was quite active still with the African National Congress and they need a representative there and so they asked him. He was stationed in Cuba but he was chief executive for Cuba and the Caribbean. They often travelled to Jamaica, Trinidad, and so on. The ANC asked him to go. He liked Cuba very much. They liked him a lot. When he died, there was a service, Fidel Castro’s brother was the main speaker.

 

Castro?

 

Cecil — Castro’s brother. He spoke at the funeral. And the secretary-general of the ANC was there. He got a very big send-off, The Cubans are going to have a special second memorial service in October for La Guma. They’ve invited his wife to come, but she doesn’t think she’ll go. She has too many memories and feels too much. So maybe one of the children go, One of the children.

 

He had two sons, Bartholomew….

 

Cecil — Eugene.

 

Where is….

 

Cecil — Eugene lives in Moscow. He is married to a Russian girl. He has two children.

 

Two children?

 

Cecil — And Bartho is living in Africa, in Zambia.

 

Zambia, now?

 

Cecil — He is working for the ANC’s film unit now. He studied film and now he’s working for The ANC’s film unit. One of the other speakers who’s coming to the next conference next August, Dennis Brutus will come, too. Dennis knew Alex La Guma in South Africa. They worked together.

 

Dennis Brutus?

 

Cecil — Dennis is now in Pittsburgh. He used to be in Chicago, but he moved. And he’s now chairman of the black community vocation department at the University of Pittsburgh.

 

Pittsburgh. He once lived in Austin, Texas?

 

Cecil — He was there for one year. He was a visiting professor for one year.

 

Texas University published many African books?

 

Cecil — Well, they have a journal there, Research in African Literature and there’s a good library where they buy the original papers of many African writers. So the library is very good. there’s a good African studies (department).

 

And North Western University?

 

Cecil — North Western is very good. North Western has a good library, also. Dennis used to be at North Western. And Mphahlele was there also. So was Ngugi wa Thiong’o at North Western. There have been many Africans at North Western.

 

How old is Dennis?

 

Cecil — Dennis is one year older than La Guma. He was born in 1924.

 

3-A

 

The problem of passing?

 

Cecil — Yes, much like the Deep South. Yon see, passing. So we’ve had this problem, too. It means you get better jobs, better living conditions and so on and so on. Some people do that. Alex, of course, would argue against it, saying that you should think of your dignity and you should be proud that you are who you are. You don’t go trying to be someone else. What he tried to do, he was probably the first to write among the mixed race community, to try to give a picture of his community, because until then there was no picture. There was a book written on the mixed race community by a white woman. It was called God’s Step Children.

 

Cecil — No mixed race person has come out to talk about his community, and Alex’s columns in the newspaper New Age, and also his stories and novels then tried to give a picture of the history of these people.

 

Was New Age banned?.

 

Cecil — Yes, in 1962.

 

Cecil — So Alex tried, in fact, to set himself up to tell the story of the coloured people, because he felt they’d been ignored. They had been neglected. He also hoped that he could inspire in them a confidence, a pride that they were worth something, they were not nothing, they had something to offer and so his stories, if you look at them, are quite affectionate, I mean, they’re problems but he is very kind, because it is his own people. He feels for them like a father who looks at his children even though he is cross with them, he still says, “Well, that’s my children." But he still tries to be kind. So you notice that in his books he sees himself doing the job of a historian, collecting the history, a teacher showing his people what to do. And then, of course, Alex was very much a kind of an optimist, a very optimistic attitude, even though life was rough for him sometimes, all the arrests, detentions, house arrests. He always saw the bright side. lie always saw on the side of the mountain, it will be better. And so with this optimistic spirit then, when people did something wrong, he could still forgive them. For example in In the Fog of the Season’s End, you have Buekes who loved dancing. So he was unlike Richard Wright in that way. Richard Wright was very angry, and there’s a lot of bitter denunciation.

 

Cecil — But Richard Wright in a way went to Paris then and wrote books about his life in America. And he got out all his anger, and his bitterness. He never wanted to go back to the States. You know because he was so cross with the state of the black man in the States, you see. In a way he becomes like James Baldwin who also was very angry at what had happened. But Alex La Guma was not like that. Alex La Guma, what saved him was that he was also involved with the political movement, a liberation movement. When you work for liberation movement, and you’re also an artist you know that in your liberation philosophy there’s the strong belief that we gonna win this fight, we just got to keep going at it. We are writing what we are doing, our cause is just. And if we do it together collectively, we are going to win someday. But if you don’t do it collectively, if you don’t have a political movement, if you do it as an individual, then you’re more likely to get angry all the time, because you’ve nowhere to turn, there’s no communities to fall back on. So Alex could keep on believing, because there wasn’t just the writing going on but there was the practical political work, you see.

 

Yes, yes.

 

Cecil — He could go from one to the other. Many writers can’t because they are entirely writers and they remove themselves from the world, and so the problem is inside heads and finally in their emotions and then they destroy themselves.

If you’re also involved in your community and your world, then you don’t have the time to get only angry with yourself and destroy yourself, because you must give the energy to others. Now I think this helped. Alex was first politically involved before he became a writer, which helped a lot, because if he was at first a writer and then a politician, he would have had problems. He was first involved in politics. He then very easily went over to writing artistical. And that was because he had a gift, a talent to write, he could tell a story in a way where even though he was politically involved, he never tried to indoctrinate you. He just told a story. You ought to read, to look at the stories…. And also if you notice in Alex La Guma’s writings, he does not tell you how to think. He leaves the story there, he lets you decide what to do with it. He doesn’t say to you, “This is love. This is life." He says “Here’s a story, you deal with it." Even the story, “Coffee for the Road" you watch — when the lady explodes in the cafe. Alex La Guma didn’t tell you she is exploding because they are treating her in such an unjust way. He just says that she exploded because the situation was not human, not dignified. But you, as a reader, you have not been given any propaganda. You’ve been given a story and you can easily see, look, if I were in the same situation, I would have acted in exactly the same way. You’re looking for a cup of coffee and they tell you you can’t come inside the cafeteria, you have to go behind and, order your coffee from there, then obviously, you know, you’re going to react to it. So I think in that sense Alex tells the story but leaves it to us who are reading the story. If you read a lot of South Africa writing whether it’s novels or poetry or so on, you’ll see that there’s a lot of straight sloganeering, a lot of straight propaganda. You know you can read it and you can say, “Well, I suppose if this had been a political leaflet, it would be better but as a story. It’s not coming out, you know." He didn’t do that. That’s his story. You can see the loss of people’s rights. It is his artistic ability to take a very dry political situation, and make it live for you who are not living in South Africa, after you’ve read a story like, let’s say, `Lemon Orchard’ or “Coffee for the Road" or, let’s say, A Walk in the Night, or A Threefold Cord, you finish reading it, though you’ve never been to South Africa, it’s so graphic and it clearly describes.

 

4-A

 

Cecil — Richard Wright was also, in a way, American racism is much worse than South African racism because American racism, even though the American Constitution is against it, in practice it carries on. And in the South, the law courts always favour racists, so you could kill a black person and you have a jury that’s all on your side, and they acquit you. In South Africa, you know that there is no chance that you could ever win a law case, I mean, you don’t worry about it. Because you know there’s no chance. I believe in America, the blacks believe in the Constitution which doesn’t do anything for them. I always find it difficult. Wherever I go to the US, to the conferences and I see a lot of black Americans, scholars, lecturers, or students. I always ask them, you know, you are getting such a hard time in this country. You feel sorry for us in South Africa, but in a way we should feel sorry for you, because you are even worse off here than we are. In our country, at least we know what they are doing to us. You are having these things done, and you don’t know how to react to them….

 

Cecil — Alex didn’t do too well financially, you know. His family was always close, just making enough to survive. }[is wife always sold hi s. stories. She said that there were sometimes days when they had no food in the house and the children were still small and she just didn’t know where to get a piece of bread in London…. Unfortunately at this time the ANC had no way of compensating Alex with money…. That was one of the reasons why he went to Cuba because they thought it’d give him something, you know, he’d get enough to live on. The Cuban Government paid for the housing, the food,….

 

The Cuban Government?

 

Cecil — Yes, Cuban Government sees the ANC as the legitimate representative of the South African people, so they treat the South African representative as a diplomat.

 

In Cuba?

 

Cecil — Yes, in Cuba. They gave him a house in the deplomatic area. So they provided them wtih the house free and gave them a voucher to get food from special stores, gave them a car and so on. So that was the first time, from ’79 to ’85.

 

You visited Cuba?

 

Cecil —Yes, I’ve been there twice.

 

4-B

 

Cecil — I’m very concerned that there is a history of South African writers written, and prepared so that when the day of change comes, we have all this material available for our people, for our younger people to read. And all these writers who lived outside the country and who have done a lot will maybe provide them whenever they come because these children have never seen them, never heard of them. So in a way I’m trying to do a job, also for the country, to leave behind for the country and for the world, so there is a history they can go to. I think it’s very important, because just writing books for books’ sake, I think it’s a waste of time.

 

Cecil — Now the young people today they don’t drink, because they say it is drink that only people don’t know how to fight. So they don’t like drinking. When they start demonstrating, they call them shebeens, they beat up the people, they throw out the liquor, they chase them off. So you know they don’t only attack the government, they also go for their own people because they say all those things are not healthy and also, you know, when they get their salary, they go straight to the shebeen, they don’t go home. By the time they got home, there’s no money for the wife and children, for food, for milk, for bread, for clothes, for books…. But now many South Africans in exile, especially in England because many of those, who were political in South Africa, go to England -they get together and they drink. And when I visit them in England, I’m surprised how much they can drink….Ohh!

 

The younger people are hopeful!

 

Cecil — Yes, and they don’t drink.

 

The generation of 1976.

 

Cecil — “Soweto."

 

Cecil — Since 1976 they are all very militant. And they don’t drink, don’t smoke. They are very serious. The older generation, Alex La Guma’s generation, they were very good but they liked to have a nice time, you know, they liked to laugh, smoke, drink. Alex used to drink and smoke too much. We told him many times. One evening he and Elsie Nitess who was the editor of Sechaba, another South African, he lives in England, La Guma, who had been drinking most of the night…. Next morning he had to go on a plane with his student to some meeting. Well, on the plane he had a heart attack and died. He was dead when they landed. He was in his twenties. It was because of all the liquor. So we told Alex at that time, you know. At that time ANC sent him to Cuba because they knew it would be dangerous. He drank too much in London. But once he got to go to Cuba, he changed. His health was better, when I saw him in June 1985, it was very good.

 

He visited Moscow.

 

Cecil — He looked very healthy. In fact, I said to him, “Oh, you’re getting younger!" He was supposed to come to Canada in October. We were at a conference and then he wanted to make a tour of Canada. And I just was in touch with them a week before he died, to finish the arrangement. I was so shocked because I’d already sent tickets and everything. I was quite surprised because we didn’t expect it. So drink, for South Africans, it’s nothing good.

 

6-A

 

How about the younger people?

 

Cecil — I think the younger people will change. They’re very different because they respect each other more as human beings not as woman and man but as humans. And I think they will bring a complete change. I think what is happening in South Africa is very positive because the young people are not doing the things their fathers used to do. They have very different attitudes. And I think that’s very good for South Africa.because I’m always arguing with the ANC that we don’t just need a change of government, we need a change of humanity. In other words I feel still today that in the top leadership of the ANC there’re not enough women, and there are many, many women who work for the ANC. And but they are not getting to a high position. So I always argue that women should be treated fairly, because, you see, the majority of the members of the ANC, of course, are black, and they come from various communities, Zulu, Xhoxa, and so on. In our traditions, in African traditions, the men are brought up to be selfish. There is no sharing. The man is the boss. And the women must do all the dirty works, you know. So, in that way, many of the men who are in the ANC, especially the older men, like the generation of Oliver Tambo, the generation of Nelson Mandela -the oldest generation. They grew up being chauvinists. It takes a while for them to understand that revolution is more than just politics. It’s also your way of life. It’s what you do at home, it’s the way you treat your children, it’s the way you treat your wife. It’s a way of life. You can’t just say I’m gonna non-sexist. Because to be truly democratic. All the societes of the West talk about democracy, but it is not a democracy, it is the monopoly of the rich. They own the country, they are the power. The other people are mostly workers, who accept what is given to them. Actually the rich are taking the largest share and leaving a little bit for the bottom. And some of us are foolish enough to think we’re getting our share. It’s not true. So La Guma said the same thing in his work.

 

Cecil — And so the younger generation said, “No! We’re tired of talking! If we’re gonna get a change in this country, we’ll have to fight for it. But unfortunately they were not many. They were not enough people who shared that view, because most people were worried about their lives, didn’t want to die, or go to jail, and so on. The younger generation from 1976 is very different. They don’t spend as much time talking. In their minds they know what they want. They want FREEDOM NOW! EQUALITY NOW! They don’t want to wait for the next generation. They want it NOW! This is why they’re doing things we never dreamed to do. We believed in peaceful demonstration like Buekes. We went on the street all the time, with leaflets. So we got beaten up and put in jail. We didn’t do anything. We’d just given out leaflets. And then on top of that you got beaten up so badly by the police, you got tortured…. But today’s generation don’t. They don’t believe merely a change of government, they believe in the change of life. That South Africa must not concentrate so much on material things. We must concentrate on the spiritual life, improving our way of thinking about life. So, for example, the ANC says we believe in the nationalization of major industries, particularly government’s place like railways, banks, agriculture and so forth. These young people are not talking about nationalizing. They say that they believe in a socialist state where everything produced in a country is to be shared fairly among everyone. The ANC, for example, has had meetings, our leadership has had meetings with South African businessmen. I think it was in Senegal. They had several meetings at Lusaka, so the white businessmen who had come from South Africa wanted big corporations, and so they talked, and the ANC said: well you know, they asked the ANC if you formed the government, would you make the country a socialist state? Will there be no capitalism any more ? Another thing must be tried as well. We will always allow some individual enterprise, but you see, our young people in South Africa are saying No! There will be no capitalism. We are after a country that will be centrally governed and see all the wealth distributed fairly among all people. So that’s very different from what the ANC is saying. So I am always arguing that because we’ve been away from South Africa so long, we sometimes don’t understand the changes that are going on. We don’t understand the thinking of our young people. That they don’t exactly share our beliefs, basically. Our view is that, well, we could all live together, white, black, brown can all live together peacefully. It is true, we can all live together peacefully. But the point is, when the changeover takes place the whites will be in the strongest position-they will run the mining, they will run the businesses, they will have the beautiful houses, they will .live on the best areas, they will have the best schools. How are we going to change that? The ANC says that, ーWell, it will take time. But you know in Zimbabwe they are trying this and there’s a lot of people getting upset because they want to see some movement. So the ANC again are discovering that the younger people at home are saying, ー We want a decent living now. We’re not waiting for time." So again there’s going to be some trouble, because there’s going to be a need to understand the position of the younger people is not exactly the position of the ANC today. The ANC must also change, because we need to think more actively about how we can also meet the aspirations of the younger people. My own feeling is with the younger people, because they have a better vision of where we’re going and what South Africa must be….

 

8-A

 

Cecil — I went to a conference once, in Malta, and I went to hear a paper by a German scholar, a young German. He came from the University of Kiel. He talked about Ngugi on Petals of Blood. The book had just come out. So he started off his lecture by saying, “I was going on a trip. I was at the airport in Germany. I was looking for something to be read on the plane. So I went into a bookstore and saw a book with this Blood, this flower of blood and I felt, “I think I’ll read this. It must be a horrible story, full of shooting and whatnot," and I think he said he was a Marxist. So I wanted to show he doesn’t know anything about Marxist. So he gave a very superficial paper and when he finished, I was very cross, and I went up to him and asked him where he got the stupidity from to come and read this paper. And the audience all agreed with me….he then admitted he didn’t know anything about this writer,…but then you see you get that kind of thing, people don’t do their homework…but they’re so interested in getting their names in magazines and books. Most people don’t know what they’re talking about, so they read the books and say, 'Oh, no problem!’ So I felt this kind of work must be done by people who know, who care, who have a feeling for this writing. So I felt with Alex La Guma there was mostly a feeling of services, someone’s got to do it, otherwise we’re going tho have his writing messed up by a lot of people. There are many writers who need this kind of attention

執筆年

1987年

収録・公開

August 29-31, 1987, St. Catharines, Ontario, Canada

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TAMADA Yoshiyuki Makes interviews with Cecil Abrahams

1976~89年の執筆物

概要

南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(1925-1985)を知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際の紀行・記録文です。見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を、録音テープの翻訳をもとにまとめたものです。

                                           ラ・グーマ

本文(写真作業中)

カナダにひとり、祖国を離れてアパルトへイトと闘う南アフリカ人がいた。

セスル

8月下旬、私はカナダに亡命中のセスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた。一昨年、まだアレックス・ラ・グーマが存命中に出版された単行本『アレックス・ラ・グーマ』で初めて名前を見かけたのだが、今回お会いするまでは、その本の著者だということ以外ほとんど何も知らなかった。著書に含まれた伝記、作品論を読んで魅かれ、もっと知りたい、やる限りはラ・グーマを正当に評価したい、そんな思いでガナダに行った。しかし、暖かく迎えていただき、丸々3日間本当にお世話になった。忙しい身にも拘わらず、長時間にわたるインタビューにも快く応じて下さった。お蔭で、頂戴したラ・グーマの草稿のコピーなどの資料とともに、かなりの録音テープと写真を持ち帰ることが出来た。すべてを紹介することは到底できないが、写真やインタビューの翻訳を交えながら、南アフリカの解放の日に備えて異国の地でアパルトへイトと闘うアレックス・ラ・グーマの伝記作家セスゥル・A・エイブラハムズ氏の姿をお伝えしたい。

セスルの本

目的地はオンタリオ州セイント・キャサリンズ。案内書には、ナイアガラ半島上にあるオンタリオ湖畔の町、人口は12万4千、とある。有名なナイアガラの滝が近い。ニューヨーク市からカナダ航空で約一時間、トロント空港に着く。空港からはリムジンが直接、玄関先まで運んでくれた。閑静な住宅街である。玄関に最初に現われたのは夫人のローズマリー(Rosemary)さん。後ろからエイブラハムズ氏が、遠くからようこそ、と微笑みながら現われた。挨拶もそこそこに、私は鞄から「ゴンドワナ」8号や出発の2日前に小林先生が届けて下さった川崎でのラ・グーマの写真など、日本からのみやげを取り出した。写真を見つめながら、エイブラハムズ氏は早速、85年にラ・グーマと一緒にソ連に招かれた時の模様を語り始めた。

目の見えぬ老人、本を小脇に抱えて

 エイブラハムズ氏 まず、1985年6月に、ソビエト作家同盟がモスクワでアレックス・ラ・グーマの60歳の誕生日を祝って記念の一夜を設けてくれたときのことをお話したい。会場には千人以上の人が来てラ・グーマを祝福してくれました。私も講演者のひとりでしたが、本当にたくさんの人がラ・グーマを読んでいるのに驚きました。誰もが、著書にサインをしてもらおうと本を小脇に抱えながら会場に来ていました。その中に老人がひとり、たぶん70代の後半だと思いましたが、その人、目が見えないのに、手にはラ・グーマの本が一杯!ラ・グーマのところに近づいて行ってサインを頼んでいました。とても感動的な体験でしたよ。実際、ソ連の出版社はよくやりました。ラ・グーマの作品集を50万部刷って、一ヶ月ですべて売り尽くしました。お蔭で、ラ・グーマはソ連では人気作家です。もちろん、本人は何度もソ連に足を運んでいますが。また、ラ・グーマは南アフリカ共産党の一員でしたし。父親もそうでしたから、その関係でもソ連とは深い繋がりがあったのです。ラ・グーマの本はソ連の多くの言葉に翻訳されています。ですから、ソ連では広く読まれ、尊敬されてもいるのです。そして、多分いつの日か、日本でも同じくらいたくさんの人がラ・グーマを読む(!?)・・・・・・(笑いながら)

写真4ラ・グーマ2ソ連で

-そうなったら本当にいいですね・・・・・・

(うなずきながら)

南アフリカで、ラ・グーマが読める

 エイブラハムズ氏 そうですね、南アフリカにとって、南アフリカ人にとって、ラ・グーマは、黒人作家の中では南アフリカが生んだ最高の作家だと誰もが考えていますからね。また、ピーター・エイブラハムズを除いて、南アフリカのどの黒人作家よりもたくさんの本、たくさんの小説を書いていますから。ピーター・エイブラハムズが南アフリカについて書いたのは何年も前のことで、今は書いていません。そして、最近、アフリカ全般についてやカリブについて書き始めました。アレックス・ラ・グーマには五つも小説があって、たぶん南アフリカ黒人の間では最高の作家ですよ。でも、今重要なのは、 アレックス・ラ・グーマのものが南アフリカでは禁止されていて、南アフリカの人に読めないということです。発売も禁じられています。しかし、現在、政府に許可を申請している南アフリカの出版社がいくつかあります・・・・・・。

写真5 A Walk

-本を出すための、ですか。

エイブラハムズ氏 そう、本を出すための、ですよ。そして、出版社側は多分可能だと考えています。というのも、ケープタウンのフィリップス・ カンパニーから、ごく最近ですが手紙が来て、ラ・グーマのものを出版できるようにしてもらえるかどうか、と私に打診してきたからです。『夜の彷徨』の出版を考えていて、出版社はその再版を出したいとの意向です。 たぶん、近いうちに、南アフリカの人はアレックス・ラ・グーマが読めるようになりますよ。

(エイブラハムズ氏は、ラ・グーマとピーター・エイブラハムズを黒人作家と呼び、カラード作家とは言わなかった。カラードとは言わないのですか、との問いには、南アフリカ政府が、白人以外の人々を、黒人、カラード、インド人の各人種グループに意図的に分断しようとしたために、人々はカラードと呼ばれるのを嫌い、今では「カラード」を使わず、白人、黒人だけを用いています、との答えが返ってきた。人々は政府のたくらみによって人種別に分断され、結束できなくなる危険性を充分に感じていたのである。黒人、カラード、インド人からなる三人種体制の政府の悪だくみを見事に描いたポスター劇『かつての兄弟』が門土社総合出版刊行のterra創刊号(1986年9月号、5~7ペイジ)で紹介されたが、興味深いことに、エイブラハムズ氏は、その作者ドン・マッテラとは高校時代の同級生であった。ただし、当時、ドン・マッテラは政治には関心がなく、街にたむろするチンピラで(『夜の彷徨』のマイケル・アドゥニスたちのように)、大変おっかなかった、そうである。「あいつは大へん変わったんですよ。政治的になって・・・・・・」と言いながら、エイブラハムズ氏は含み笑いを見せた・・・・・・)

現在何が起こっているかを知ってほしい

エイブラハムズ氏は次に、キューバで行なったラ・グーマとのインタビューの模様を語り始めた。ラ・グーマの作品や南アフリカでの体験について二人で議論に議論を重ねたことを振り返りながら「あなたがここに居る間にその時のテープを聞かせてあげますよ。テープを聞いたら、そしてラ・グーマ本人の声を聞いたら、きっと何かいいアイデアが浮かびますよ・・・・・・そう。あの人はとっても親切でしたよ。しかし、もうこの世には・・・・・・もし生きていれば、あなたがどんな質問をしても何でも答えてくれるんですがね。あの人は本当に優しくて、暖かい人でしたよ・・・・・・」と非常に感慨深げな様子であった。おそらく、ラ・グーマとのありし日々が思い出されたのであろう。

もしラ・グーマが生きていれば、ここに来る前に、私はきっとラ・グーマに会いに行っただろう、そんなことを思いながら、しかし、ある後ろめたさが、どうしても念頭から離れなかった。

最近、ラ・グーマのものを集中して読むようになり、必然的に南アフリカの歴史や政治などに関するものを併せて読むようになった。特にアフリカの場合、文学と政治を切り離しては考えられないからである。本誌前号でも触れたように、私はアメリカの黒人作家リチャード・ライトを通してアメリカ黒人の歴史を知り、ライトの『ブラック・パワー』を通じてアフリカを考えるようになった。アメリカ黒人の歴史から奴隷貿易の理不尽を、『ブラック・パワー』から植民地支配の爪あとを教えられた。また、ラ・グーマや南アフリカの歴史を通して、西洋中心の<横暴>や、その<横暴>によってもたらされた惨状を垣間見た。そして、様々な係わりの中で、自分自身が現に所属する日本政府の過去と現在の理不尽な数々の所業について考えるようになった。

1960年、シャープヴィルでの白人政府の蛮行に対して各国が経済制裁を開始したとき、白人政権の要請に応えて日本政府は国交を回復した。そしてその見返りに、「居住地区に関する限り」、名誉白人として白人なみの扱いを受けている。

写真シャープヴィル

アフリカ行動委員会を創設した故野間寛二郎氏が「たんなる貿易のために、日本人が白人に分類されているのは、日本の民衆の恥辱ではないでしようか」というANC代表の手紙を紹介したのは1969年のことだ。(『差別と叛逆の原点』理論社、1ペイジ)また、来日した詩人マジシ・クネーネがある対談の中で、“Japan is killing us!”と言ったのもその頃である。(『日本読書新聞』1970年4月13日~5月4日、及び『新日本文学』1971年3月号110ペイジに紹介されている)

以来、そんな悲痛な叫びを無視して、日本企業は両政府の完全な庇護のもと、着々と「実績」を伸ばし、「南アフリカ共和国」との貿易高は、アメリカ合衆国に次いで世界第2位となった。ごく最近、円高の影響で、とうとう第1位になった、と報じられた。

個人が好むと好まざるとに拘わらず、私達が搾取する側、つまり加害者側に立っているのは明らかであり、私はそんなニッポンから来たニッポンジンの一人には違いないのだ、ある負い目というのは実はその辺りに原因が潜んでいたのである。聞くところによると、来日したラ・グーマはそんな日本や日本政府に対して容赦なかったらしい。ラ・グーマ同様、筋金入りの南アフリカ人エイブラハムズ氏とむかいあって、そんな負い目が私にはなおのこと重く感じられた。

「残念ですが、日本の現状は決していいとは言えません・・・・・・」と、私の方から済まなさそうに切り出した。私は、ヨーロッパやアメリカ経由で紹介された日本人のアフリカ観や、現実のアフリカ認識が貧しすぎることをまず伝えたかった。そこで、特に紹介の役割を担うべき知識人や学者でさえ、正しい視点や考えを持てない人がいる現状から話し始めた。

写真セスル

しかし、私の懸念を察してか、エイブラハムズ氏は私の話を遮って「何より、こうしてはるばる遠い日本からラ・グーマのことを聞くためにわざわざ私に会いに来てくれたじゃないですか・・・・・・」と前置きして次のように喋り始めた。

エイブラハムズ氏 あなたは出来る限リ多くのことを知りたいと思っている。だからそのことについてあなたが書き始め、ラ・グーマを日本の人たちに紹介するときには、真実でないものにではなく信憑性に拠りどころを求めて何かを語ろうとするでしょう。それがたいへん役に立つのです。というのも、私たち南アフリカ人にとって日本や日本の人たちが、一体現在何が起こっているのかを正確に知ることこそが大切であるからです。また、日本は大変な経済大国で南アフリカに莫大な投資をしているからです。そして私たちの目標は南アフリカに投資するすべての国に投資を止めさせることです。もし、日本や西ドイツ、フランス、イギリス、アメリカ、カナダなどの国が経済援助を続けるのを白人政権が知れば、現状は今のまま変わることはありません。そうなれば、政府は自分たちの体制に何ら間違いはないと言うだけです。そんな状態で一体どうして変革することが出来るというのでしょうか。だから、これらの金持ちの国々が、つまりこれら経済大国が南アフリカへの投資を中止すべきだと実感しているのです。更に私たちは、日本がアジアの国で第三世界の国々、殊にアフリカとはもっと親密であるべきであり、従って日本から援助が得られると見ているのです。もし日本が私たちの立場に耳を傾けるのが難しいというのなら、アメリカやイギリスを説得するのはもっと難しいでしょう。なぜならあの人たちは、南アフリカの白人は自分たちの同胞であり、日本人は南ア白人とは同胞ではない、だからどうして日本人が南ア白人政府を援助すべきなのか、と主張するからです。そこには明らかに経済が存在しているのです。

エイブラハムズ氏が語る日本への願いは、先般来日したANC(アフリカ民族会議)議長オリバー・タンボ氏やUDF(統一民主戦線)のアラン・ブーサック師などが口を揃えて訴えた内容と同じである。(その人たちの来日講演記録が二冊出版されている。アフリカ行動委員会発行の『日本を訪れた自由の戦士たち』と部落解放研究所発行の『魂の叫び-アパルトへイトの撤廃を!人間の尊巌を-』である)ANCの一員であるエイブラハムズ氏は、カナダに亡命以来ずっと、南アフリカの実状を訴えるのに東奔西走して来たという。当初はほとんど反応を示さなかったカナダ政府や市民も、最近は比較的協力的になり、カナダのANC会員も、現在では30名になった、と感慨深げな様子であった。5月末にはアラン・ブーサック師が講演したらしい。「南アフリカの現状はなお厳しく、人々の日常生活は非常に大変ですが、事態は日々変化しており、よい方向にむかって前進しているのは確かで、解放の日が来るのもあとわずかですよ」と言ったあと、「しかし、南アフリカの解放の日のために生涯すべてを捧げたラ・グーマが、その日を迎えることなく、1985年に死んで行ってしまったのが何ともやりきれないですよ」とエイブラハムズ氏はしんみりと付け加えた。

オリバー・タンボ

(折りしも、11月5日、ゴバン・ムベキ氏(77)が他4名とともに釈放された。63年7月に逮捕され、翌年、元ANC議長ネルソン・マンデラ氏らとともに、国家反逆罪で終身刑を言い渡されて以来24年間獄中にいたムベキ氏は、元ANC全国委員長である。釈放に当たっては当局から何の条件もつけられなかったらしく、ポートエリザベスでの記者会見では、マンデラ氏が釈放されることも確信している、と語ったという。「ムベキ氏の釈放は内外の反アパルトへイト政策反対運動の勝利だ。マンデラ氏らの釈放も勝ち取っていく」とのANCスポークスマンの声明は、うれしい知らせである)

写真マンデラ

本誌8号のヨハネスブルグの街の写真を見ながらエイブラハムズ氏は「私の故郷ですよ」と懐しそう。ケープタウンの写真の載っているペイジでは「ラ・グーマの故郷はこのケープタウンですよ・・・・・・・」とやはり感慨深そうであった。表紙を飾っているムファーレレ氏がいるヴイットヴァータースラント大学はエイブラハムズ氏が一年間通った所であった。それらの写真が様々な思い出を蘇らせたのであろう。

黒人搾取の上に成り立つ白人社会の特権を享受している白人作家と、惨めな生活を強いられる黒人作家との間の、おのずからのテーマの違いに触れ、ラ・グーマの本が南アフリカの問題や状況を取り扱っている点を強調したあと、エイブラハムズ氏は次のように語った。

歴史を記録する

エイブラハムズ氏 ラ・グーマは、だだ書くためにだけ書いたのではないのです。南アフリカの人々の現実の問題についての物語を語るために書いたのです。だから、ラ・グーマの本は、将来もその意味でいつも重要であると思います。物語としてだけではなく、歴史としても大切なのです。というのも、ラ・グーマは南アフリカの歴史を記録するのだと常々言っていましたから。

-あなたの本の中で、特に強調されていたところですね。

エイブラハムズ氏 ええ、私はラ・グーマが歴史の記録家であることを自認していた点を強調しました。そのためにラ・グーマは南アフリカの人々の生活を赤裸々に描き出す必要があったのですよ。そのことは大変重要です。だから、これからもラ・グーマの本がいつも大切になってくると思うのですよ。いつか南アフリカにアパルトへイトがなくなる日が訪れても、若い人たちがかつてこの国に起こった歴史を知れば、将来同じ過ちを二度と繰り返さなくて済むでしょう。私たちには、白人至上主義を黒人至上主義に置き換えないということが大事なのです。すべての人間が民主的な諸権利を与えられて、膚の色が黒いとか、褐色だとか、あるいは白いとかという人間としてではなく、ただ生きて、人間らしい生き方をしようとしている人間としてみなされることこそ大切なのです・・・・・・・アレックス・ラ・グーマは黒人と白人の統合ではなく、人類としての統合をとても深く信じていました・・・・・・・すべての人間がその膚の色の故ではなく、その人間性によって尊敬されるような南アフリカを、そしてそのような世界を実現するために努力することこそがラ・グーマの一生の目標だったのです。

-ANCの政策ですね。

エイブラハムズ氏 そう、ANCの政策です。ANCの政策と全く同じですよ。よりよい世界を、そしてよりよい社会を築くために、人間の肌の色や富や醜美とかではなく、人間としてあなたを判断するということです。ラ・グーマはそれが好きでしたし、固く信じてもいました。それはラ・グーマの最もすばらしかった点のひとつだと私は考えています。もしあなたがラ・グーマを訪ねて行ったとしても、あの人はとても気軽に応じてくれていますよ。あの人はあなたを日本からやってきたという目で見たりはしなかったと思います、たとえ日本がANCの最大の支援国のひとつだとしても。あなたを日本という国で判断したりはしません。あなたを南アフリカの問題に関心のある人間として、また平等な社会をもたらしてくれる変革を望んでいる人間としてきっと見てくれていますよ。それがあの人の見方なんです・・・・・・・。

到着してから未だわずかな時間しか経ってはいなかったが、エイブラハムズ氏のそんな話を聞いているうちに私の心は幾分か軽くなっていた。

お互いの紹介もほとんどしないまま、ラ・グーマを軸にいっきにここまで話がすすんだが、話を一時中断して、奥さん、一歳になったばかりの長男と4人で散歩に出ることになった。二人はいつもタ方のこの時間にベビーカーに子供を乗せて散歩しながら寝かせつけるのが日課とのことだった。エイブラハムズ氏がベビーカーを押しながら、4人は家の近くをゆっくりと散歩してまわった。エイブラハムズ氏は、この子の名前アレクセイ(Alexei)はアレックス・ラ・グーマとプーシキンから取ったのですよ、と相好を崩しながら嬉しそうに言った。ラ・グーマへの思い入れはもちろんだが「真の国民文学の創始に努力し、リアリズム文学を確立し、ロシア文学を世界的意義と価値のあるものにした」とされるアレクサンドル・プーシキン(Alexsandr Pushkin, 1799-1837)への思い入れが強かったのだろう。すでに秋の気配の漂うカナダのタ暮れの中で、アレクセイ君、ベビーカーに揺られながらいつのまにか寝息をたてていた。

夕餉の食卓には、中国風の長い箸が並べられてあった。遙かアジアの地からの訪問者に、という配慮が感じられた。

写真食事

楽しいカナダ式中華風夕食が済んでから、いよいよ本格的インタビューが始まった。

写真食事

エイブラハムズ氏は、1940年にヨハネスブルク近郊のブルドドープ(Brededorp)生まれで、日本でも早くから紹介されているピーター・エイブラハムズと同郷であった。新聞のコラム欄を通してその存在を知ってはいたものの、ケープタウン生まれのラ・グーマとは南アフリカ国内での面識はなく、二人が最初に出会ったのは国外に於いて、それもお互いに亡命者としてである。

先述のドン・マッテラの話などをしたあと、エイブラハムズ氏は自らの生いたちを語り始めた。

12歳で拘置所に

エイブラハムズ氏 私は父親がインド出身で、母親がユダヤ人の父とズールー人の母を持つ家庭に生まれました。ですから住んでいた地域内では政府に「カラード」と分類分けされました。わたしの家は貧しく、子供は6人でした。しかし、母親は子供が学校に行き、教育を受けることに殊のほか熱心で、教育を受けていさえすれば、自分ひとりでやっていける、と常々言っていました。私のいた地域は貧しく、とても貧しく、本当に貧しくて、私はかなり小さい時から白人、黒人間の不平等を意識するようになりました。ですから、私が拘置所に初めて行ったのは12歳のときですよ。

-拘置所にですか。

エイブラハムズ氏 拘置所、刑務所にですよ。スポーツの競技場、サッカーの競技場のことで反対したんですよ。黒人の子供たちと白人の子供たちの競技場があって、黒人の方は砂利だらけで、白人の方は芝生でした。 だから、私は白人の競技場にみんなを連れて行ったんです。

-砂利のところでプレイするのは大変だったでしょう。

エイブラハムズ氏 そりゃもうとても大変でしたよ。すり傷はできるし、ケガはするし、だからみんなを白人用の芝生の所まで連れて行ったんです。そうしたらみんなで逮捕されました。それから、人々があらゆる種類の悪法に反対するのを助けながら自分の地域で大いに活動しました。だから、3度刑務所に入れられたんです、それから・・・・・・・。

-どれくらいの期間ですか。

エイブラハムズ氏 そうですね、それぞれ短かくて、1、2週間ほどでした。そのあとわずか16歳でANCの会員になりました。

カナダに亡命して

コロネイションビル高校を出たあと、エイブラハムズ氏はヴィットヴァータースラント大学に進んだが、99パーセントが白人のその大学では黒人は授業に出ることと図書館を利用することしか許されなかった。従って、一年で退学、その後エイブラハムズ氏は現在のレソトの大学で学士号を取得して再び南アフリカに戻り、7ヶ月間無免許で高校の教壇に立った。

1961年5月には、共和国宣言に抗議して行なわれた在宅ストを指導したため、今度は裁判なしに4ヶ月間拘禁されている。

その後、1963年には、ANCの指示に従って、エイブラハムズ氏は単身、ANCの車で国境を越え、スワジランド、タンザニアを経てカナダに亡命した。(のちに、エイブラハムズ氏が亡命したことにより、母親が逮捕され、兄が教職を奪われたことを口づてに聞かされたという)

ラ・グーマより15歳年下のエイブラハムズ氏は、わずか12歳で拘禁され、ラ・グーマより3年も前にすでに亡命していたことになる。

カナダでは市民権を得て、修士号、博士号を取ったあと、大学の教壇に立ち、今日に至っている。カナダにはアフリカ文学のわかるものがいなかったため、詩人ウイリアム・ブレイクで博士論文を書いたそうである。

ラ・グーマと出会って

そんなエイブラハムズ氏がラ・グーマと出会ったのは、客員教授としてタンザニアのダル・エス・サラーム大学に招かれた時で、1976年のことである。当時、ラ・グーマは客員作家として同大学に滞在していた。

2年後、二人はロンドンで再会したが、その時エイブラハムズ氏はラ・グーマに関する本を書くことを決意し、1980年あたりから本格的にその作業に取りかかっている。

1982年には、家族からの要請もあって、ラ・グーマの出版や原稿の管理を頼まれ、更に伝記家としての仕事も引き受けた。現在、ラ・グーマの未出版の短篇、父親についての伝記、口ンドン時代に書かれたラジオ劇、第3章で絶筆となった遺稿『闘いの王冠』(Crowns of Battle)などを一冊にまとめて出版することを考えているという。

ロンドン、キユーバでのラ・グーマ

ラ・グーマが家族とともにエイブラハムズ氏に原稿管理などの依頼をしたのも、78年からキューバに行ったのも、経済的な事情と深く係わりがあった。ラ・グーマは既に何冊も本を出し、国際的な名声も高かったが、出版社からの支払いなども悪かったようで、保険会社に勤めるなど一時は不本意な仕事に就かざるを得なかった。口ンドンでの生活についてエイブラハムズ氏は言う。

ラ・グーマ写真

エイブラハムズ氏 アレックスは経済的にはあまりうまく行ってはいませんでしたね。あの人の家庭は経済的にはいつもぎりぎりで、やっと何とかやっていけるというところでした。家に食べ物が何もない日が何日もありました。子供たちも小さかったし、 ロンドンではどこで食べものを手に入れたらいいのか本当に途方に暮れてしまいました、と奥さんから聞いたことがあります・・・・・・・。

ブランシ写真

ANCの指示に従って、単身、国を離れたエイブラハムズ氏も「カナダに来て2、3年は南アフリカが恋しくて恋しくて、とても寂しい思いをしましたよ」と言っていたが、家族を伴っての亡命であったにしろ、自分の国を、その人々を誰よりも愛したラ・グーマには、国を離れざるを得なかったこと自体がやはりやりきれなかったのであろう。一方では、精力的に創作活動や解放闘争を展開しながらも、もう一方では、側目が気遣うほど酒と煙草が過ぎたらしく、当然体調もよくなかったという。あるとき、いつものように深酒をした翌日、飛行機である会合に出かけた際、昨晩一緒に酔いつぶれたエルシィ・ナイティスという、当時「セチャバ」の編集長をしていた南アフリカ人が、機上で心臓麻痺を起こし死んでしまったことがあった。未だ20代の若さの青年の死はラ・グーマには相当こたえたようで、そんなこともキューバ行きを決意した原因のひとつらしい。そのあたりの事情に触れながらエイブラハムズ氏は語る。

セスル写真家族

エイブラハムズ氏 不運にもこのときANCはラ・グーマに経済援助をしてやれませんでした・・・・・・・それもラ・グーマがキューバに行った理由のひとつですよ、というのはANCはその方がラ・グーマにはいいだろうし、キューバでなら十分な暮らしも出来るだろうと考えたからです。キューバ政府は実際、住宅や食べものの資金援助をしてくれました。

-キューバ政府が、ですか。

エイブラハムズ氏 そうです、キューバ政府はANCを南アフリカ人の合法的な代表だとみています。ですから、南アフリカ代表を外交官として処遇してくれるのです。

-キューバ在住のですか。

エイブラハムズ氏 そうです、キューバ在住の、です。政府はラ・グーマを外交官居留地内の住宅に住まわせてくれました。住まいは無料で、特定の商店などから食料が買えるクーポン券や車などを与えてくれました。それがはじめてのケースだったのですが、78年から85年までのことです。

キューバではANCカリブ主代表として、ジャマイカやトリニダードなどを訪れたり相変わらず多忙な日々を送った。この間、エイブラハムズ氏は『アレックス・ラ・グーマ』の執筆にむけて、当地を2度訪問している。

当時アジア・アフリカ作家会議の議長を務めていたラ・グーマが日本アジア・アフリカ作家会議主催のアジア・アフリカ・ラテンアメリカ(AALA)文化会議に出席するため川崎市を訪れたのもこの頃である。

ラ・グーマ川崎

85年10月には、エイブラハムズ氏の大学で開催される会議にラ・グーマが出席し、併せてカナダ旅行もする予定で、エイブラハムズ氏は切符の手配や発表論文などすべての準備をすでに終えていた。それだけに、ラ・グーマの突然の訃報にはことのほか強いショックを受けたようで「まさかそんなことになるとは誰も夢にも思っていませんでしたから、本当に驚きました。南アフリカの人々にとって、酒は何もためにならんですよ」とエイブラハムズ氏はわびしそうにつぶやいた。

キューバでは盛大な葬式が取り行なわれ、カスト口の弟が代表弔詞を述べたり、ANC事務総長なども当日出席したという。

この10月には、ラ・グーマの3回忌法要が行なわれ、長男ユージーンが出席しているはずである。ユージーンはソ連の女性と結婚して二児があり、現在モスクワに住んでいる。

次男バーソロミューは、東ドイツですでに写真の勉強を終え、現在ザンビアの首都ルサカにあるANC本部の映画班(“The ANC film unit”)で働いている。

尚、ラ・グーマの死後、ブランシ夫人は再びロンドンに戻って生活している。

ブランシ写真

わが子を見つめる父親のように

エイブラハムズ氏は、このようにおおざっぱにラ・グーマの生活を概観したあと、著書『アレックス・ラ・グーマ』でも強調したように、ラ・グーマがどれほど南アフリカの人々を思い、その人たちのために書き続けたかを、やはり語り始めた。

エイブラハムズ氏 そう。アレックス は、事実「カラード」社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました、というのは、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けて来たと感じていたからです。

6区写真

ラ・グーマはまた、自分たちが何らかの価値を備え、断じてつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることが出来たらとも望んでいました。だから、あの人の物語をみれば、その物語はとても愛情に溢れているのに気づくでしょう。つまり、人はそれぞれに自分の問題を抱えてはいても、あの人はいつも誰に対しても暖かいということなんですが、腹を立て「仕方がないな、この子供たちは・・・・・・」と言いながらもなお暖かい目で子供たちをみつめる父親のように、その人たちを理解しているのです。それらの本を読めば、あの人が、記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしているなと感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕、拘留され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面をみていました。いつも山の向う側をみつめていました。だから、たとえ人々がよくないことをしても、楽観的な見方で人が許せたのです・・・・・・・。

6区写真2

「カラード」人口の特に多いケープ社会では、見た目には白人と区別のつかない人間もいて、アメリカ社会でもそうであったように、「白人」になろうとする「パーシィング(パッシング)」(“passing”)の問題も当然見られたが、「自らの人間的尊厳を忘れるな、あるがままの自分に誇りを持て」と言い続けた。

人々とともに

人々のために書き、人々とともに生涯闘い続けたという点では、アメリカの黒人作家ライトやボールドウィンとは趣きが少し違う。エイブラハムズ氏はその二人を引き合いに出して言う。

エイブラハムズ氏 リチャード・ライトはパリに行き、それからアメリカでの自分の人生について本を書きました。すべてが怒りや苦渋から生まれています。ライトは決してアメリカに戻りたがりませんでした。合衆国の黒人の置かれた状態に非常に腹を立てていたからです、そうでしょう。ある意味では、ジェイムズ・ボールドウィンもライトと同じで、過去に起こったことに大層な憤りを感じていました。しかし、アレックス・ラ・グーマの場合は違います。アレックス・ラ・グーマが救われたのは、あの人が人々とともに政治運動や解放闘争の真只中にいたからです。解放運動のために働きながらも、同時に作家である場合には、闘争理念の中にこの闘いを勝ちとるのだという強い信念が存在し、その信念を絶えず保ち続ける必要のあることを充分承知しています。その場合には、自分たちが今やっていることを書き、その運動が正しいということを書けばいいわけです。そして、一緒に協力してやって行けば、必ずいつか勝利を得るのです。しかし、もし協力してやらなかったり、政治運動をしなかったり、やったとしても孤立して個人的にやるなら、終始腹を立てる可能性がより強くなってしまう。というのは、どこにも逃げ場所がなくなるし、よりかかれる社会がなくなってしまうからですよ。アレックス・ラ・グーマには、ただ創作活動だけではなく、現実的で、政治的な仕事があったから、信念を保ち続けることができたのですよ。

ライト写真

ラ・グーマはすばらしい芸術家でもあつた

エイブラハムズ氏は更に続ける。

エイブラハムズ氏 ラ・グーマはいつでもすぐに心を切リ換えることが出来ました。多くの作家は、自分が作家でしかなく、自分を世間から切リ離して考えるようになるから、なかなかそれが出来ません。そして、結果的には問題が頭の内側に残り、やがては感情の中に沈澱して自らを破滅へと追い込んでいく。もし、地域社会や世間の中に深く係わっていれば、他の人間にも精力を注ぐ必要があるから、時間的にも、自分に腹を立ててばかりいるわけにはいかなくなる。今思えば、これがラ・グーマにとってはよかったのだと思います。ラ・グーマは作家になる前に、まず政治に巻きこまれました、それがよかったのです。もし、まず作家になり、次いで政治に関係していたとすれば、きっと問題があったでしょう。それから、あの人はいともたやすく、文学技法を駆使してものを書くことが出来たのです。それは、ラ・グーマに才能が、ものを書く才能があったからですし、たとえ政治的に係わっていても、人に教義や信条を説いたりしないやり方で、物語を語ることが出来たからです。ラ・グーマはただ物語を語っただけなのです・・・・・・・そして、物語を読めばわかりますが、決してどう考えるべきかを語ってはいません。あの人は物語を読者に委ね、どうすべきかを読者に決めさせるのです。断じて、これが愛だとか、これが人生だなどとは言いません。ラ・グーマは「ここにひとつの物語があるから、あとはあなたの方でうまくやって下さい」というのです,例えば、短篇「コーヒーと旅」をみても、カフェで婦人の怒りが爆発したとき、そんなにもひどい扱いを受けたからその婦人の怒りが爆発しているのだとラ・グーマはいいませんでした。その状況が、非人間的で、扱いが人間の尊巌を傷つけるやり方だったからその婦人の怒りは爆発したのだというだけです。しかし、うたい文句など一切与えられず、ただひとつの物語が与えられているだけなのに、もし私があなたと同じ立場にいたなら、きっと全く同じやり方で行動したでしょう、と読者は考えるようになるのです・・・・・・・詩であれ、小説であれ、たくさんの南アフリカのものを読めば、まともな形のスローガンや直接的なうたい文句がたくさんあるのがわかります。それらを読んだら、きっと、物語としてというより、政治のビラとしてならいいんだが、と言うに決まっています。ラ・グーマは、決してそうはしませんでした。あれはあの人の物語なのです・・・・・・非常に乾いた政治的な立場に立ち、その立場を生きたものにしているのはラ・グーマの芸術的な才能です。現に南アフリ力に住んでいなくても、例えば「レモン果樹園」とか「コーヒーと旅」とか『夜の彷徨』とか『まして束ねし縄なれば』のような作品を読めば、読み終えたときには、読者ははっきりと南アフリカの姿を目に浮かべることができるのです・・・・・・。

写真『まして束ねし縄なれば』

解放の日にそなえて

夜遅くなった。エイブラハムズ氏は、明日は休暇明けの月曜日をむかえるのに、遥か日本からの訪問者に、自身の長旅の疲れもほとんど見せずラ・グーマを熱っぽく語った。やがて、私は少し興奮気味の床に就いた。隣の部屋でアレックス君が泣いている・・・・・・夢の中でその泣き声を聞きながら、朝の光の中で目を醒ました。起きてみるとカナダの朝はもう秋だった。日本に居ればまだ泳いでいる頃なのに、と考えながらセーターを着けた。

エイブラハムズ氏は、6月までケベックのビショップ大学に居たが、この7月からセイント・キャサリンズにあるブロック大学に移っている。学部長として、学校管理の仕事をやり始めたという。「私の国が解放されたとき、私の今までやってきたことを役立てたいんですよ」と大学へ行く車の中で話してくれた。一万人の学生、三百人の教授陣を抱える人間学科の学部長としての毎日は、相当きついらしい。休暇明けの机の上には手紙の束がどっさり置かれてあった。「前のところは週2日でよかったから、研究の時間も充分にあったんですがね、でも、これは新しい挑戦なんです。国の外で闘っているANCの会員は、南アフリカが自由になったときのために、それぞれ頑張っているんですよ」とも言った。

かつて国民の熱狂的な支持を受けて独立を果たしたガーナの首相クワメ・エンクルマは、独立後10年もたたないうちに結局挫折してしまった。国を支えていく<ひと>が育っていなかったからである。独立を果たした他のアフリカ諸国も同じ課題を抱えて苦しんでいる。そんな同じ轍を踏まないように、この人たちは自分たちの手で国を動かす日にそなえてそれぞれの立場で<いま>を闘っているのだ。

エンクルマ写真

「私は南アフリカ作家の歴史を書いておかないと、と思っているんです。また、解放の日が来たときに、その人たちすべての資料を人々が利用し、若い人たちにその作家たちの作品が読めるように準備しておかなければ、とも考えているんです。国の外で闘い、たくさんのことを成し遂げてきた作家たちのものが、行きさえすれば必ず手に入るように。というのも、若い人たちはその作家たちを見たことも聞いたこともないからです。ある意味では、私たちは南アフリカのための、ひいては世界のための仕事をしようとしているのです」と言ったあと「現在、資料センターを作るためにカナダ政府に交渉中で、解放の日には南アフリカにそっくり移すつもりです」と付け加えた。

若い世代

昨夜はラ・グーマを偲んでのしんみりとした話になってしまったが、今日は「南アフリカのカレーをつくってあげますよ」と料理をつくりながらの、台所での話となった。私自身、料理をすることもあるから何ら違和感は感じなかったのだが、それでも「南アフリカでは男の人も料埋をやるんですか」ときいてみたくなった。答えは「いや、男は料理しませんよ。だいたい穢ない仕事はみんな女性がやってきました」だった。「では、若い世代はどうですか」ときいてみたら、次のような答えが返ってきた。

エイブラハムズ氏 若い世代は変わると思います。あの子たちはたいへん違っていますよ。男とか女とかではなく、人間としてお互いを尊敬し合っています。だから、あの子たちが完全な変革をもたらすんだと私は考えているんです。南アフリカで現在起こっている事態はきわめて実践的で、若い人たちは自分たちの両親のやってきたことをしようとはしません。あの子たちは姿勢が全く違いますよ。南アフリカにはとてもいいことだと思うんです。ですから、ANCには、政府を変える前に人間性をまず変えろ、といつも言ってるんですよ。言い換えれば、ANCのトップに女性の数が充分でないと感じているということなんです。ANCのために働いている女性がこんなにたくさんいるのに、女性は高い地位に就いていない。だから、女性をもっと正当に扱え、といつも言っているのです。ANCの大半は、もちろん黒人で、ズールーやコサなどいろんな共同体から来ています。私たちの伝統の中では、男は自己中心的に育てられてきました。今まで男が女性と権力を分かち合うことなど決してなかった。男が常に主人で、すべての穢ない仕事は女性がしなければならなかった。そんな風に、ANCの多くの男たち、特にオリバー・タンボやネルソン・マンデラのような古い世代の人たちは、専ら愛国主義中心の考え方の中で育てられた。あの人たちが、革命は単に政治ばかりではないということを理解するにはしばらく時間がかかると思います。それは人の生き方でもあり、あなたが日々行なうことでもあり、子供や妻を扱うやり方でもあるのです。つまり、人の生き方なのですよ・・・・・・私はANCの会員ですが、来るべき政府にだけ関心があるのではありません。それが一番重要だというのではないのです。大切なのは、私たちが新しい社会を、新しい生活のやり方をつくり上げることなのです。お互いが尊敬し合い、お互いがいたわり合い、感性を大切にする、そしておまえは男だ、あいつは女だ、などと言わずに,相手を理解する、そんな社会なのです。私にはそれが重要だと思えてならないのです。

ラ・グーマは若い人たちのために歴史を記録するのだと言って作品を書き、エイブラハムズ氏は若い人たちにそんな作家の資料を残す準備をしているという。

エイブラハムズ氏は、若い世代について更に続けて語る。

エイブラハムズ氏 今の若い人たちは酒を飲みません、人々が闘い方を知らないのは酒のせいだと言うんです。だから、あの子たちは酒を飲むのを嫌います。デモをやるときは、まずシビーン(もぐり居酒屋)に行って、酒を投げ棄て、そこに居る人たちを叩き出してしまいます。襲うのは政府ばかりではなく、自分たちの同胞もやるんです。あんなものは健康によくないんだ、とあの子たちは言います。人々は給料をもらったらまっすぐシビーンに行き、家には帰らない。帰る頃には妻や子供のための、ミルクやパンや着物や本の金がすっかりなくなってしまっている。亡命しているたくさんの南アフリカ人は、多くは政治的な理由でイギリスに行ってますが、あの人たちは集まっては酒を飲む。かつてイギリスに行ったとき、この人たちは何て飲むんだ、と驚いたのを覚えています・・・・・・。

1976年ソウェト

ソエト写真

-若い人たちには希望がありますね。

エイブラハムズ氏 そうですよ、そしてあの子たちは酒を飲みたがりません。

-1976年の世代ですか。

エイブラハムズ氏 ソウェト、ですよ。1976年以来、若い人たちは非常に戦闘的になっています。そして酒も煙草もやろうとしない。あの子たちは本当に真剣ですよ・・・・・・。

ソウェト、の世代である。映画「アモク!」にも登場したあの競技場の高校生たちである。かつて古い世代は話し合いを提唱し続けたが、若い人たちはそれを拒む。エイブラハムズ氏はそんな若い人たちを分析する。

アモク写真

エイブラハムズ氏 若い世代は「嫌だ、話し合いなんてもううんざりだ。もし国を変革できないなら、それと闘うまでだ」という。しかし不幸なことに、数が多くない。同じ考えを共有できる人々が充分にいないのです。古い世代はほとんど自分自身の生活に窮々していたから、すすんで死んだり、刑務所に行ったりはしなかった。1976年以降の若い世代は全く違う。あの子たちは銃弾を恐れない。話し合いに多くの時間を費やさない。心の中で何を望んでいるのかを知っている。即自由を! 即平等を!が望みなんです。もう次の世代を待てないのです。今、それを望んでいます。若い人たちは、私たちが望めもしなかったことをやろうとしている、と私が信じるのはこういうわけからなのです。ビュークス(『季節終わりの霧の中で』の主人公)のように、私たちは平和的なデモを信じ、いつもビラを手にして街頭に立った。撲られ、刑務所に入れられても何もしなかった。私たちはただビラを配ったんです。それだけじゃあない、警官に殴られ、拷問され続けた・・・・・・・・今日の世代は政府の変革など信じてはいない。あの子たちは生活の改革を信じているのです。南アフリカは、物質的なものごとばかりにこだわらないで、生き方についての思考形態を改めながら精神的な生活に重点を置くべきだと、若い人たちは信じているのです。

「ィアッフリカッ!」 「ァマンドゥラッ!」

セスル写真

南アフリカのカレーは、おいしかった。もうすぐ12歳になる長女レイチェル(Rachel)が焼いてくれたローティ(“roti”)に包んで手づかみで、食べた。おいしかった。

セスルカレー

タ食後、最近来日した南アフリカ人歌手アブドゥラ・イブラヒィムの「古井戸の水」(WATER FROM AN ANCIENT WELL)というポップス調のレコードをかけてくれた。

そのうち、エイブラハムズ氏はレイチェルを誘って踊り出した。堂に入っている。私は見る人、撮る人を決め込んでシャッターをきり続けた。解放のうた「コシ・シケレリ・アフリカ」が流れ出すと、拳を突き上げながら「ィアッフリカッ!ィアッフリカッ!」を連発した。踊りながらレイチェルが声をあげて喜んでいる。座っているローズマリーも笑っている。「ァマンドゥラッ!」「ィアッフリカッ!」「ァマンドゥラッ!」「ィアッフリカッ!」・・・・・・。

レイチェル写真

冷静で、普段あまり笑顔を見せないエイブラハムズ氏が高揚している・・・・・・。

3日間一緒に生活をして、いろいろなことを聞き、いろいろなものを見たが、何にもましてうれしかったのは、全く違った国の、全く違った文化背景の中で育った人間同士が、基本的なところで共有し合える、理解し合える、と感じられたことだ。しかも、南アフリカの人々を現に苦しめている国の一つ日本から来た人間にむかって、人間として尊重しあいましょう、とあの人は言った。

別れ際に「今度は、いつの日か、あなたの家族と私の家族が南アフリカで会いましょう」と語ったが、私の方は、喉をつまらせながら言葉にならぬ言葉を発するばかりであった。

ANCの国際連帯会議が12月3日タンザニアのアルーシャで開幕、と報じられた。ANCを支援する海外の政治団体や労組、宗教組織などとの連帯会議で、この種の会議では最大規模の国際会議であるという。

エイブラハムズ氏の語る若い世代の話や、ゴバン・ムベキ氏の釈放やこの国際会議の知らせなどは、南アフリカの事態が解放にむけて着実に動いていることを私たちに教えてくれる。

現実はなお厳しいものの、ANCやUDF、それに「ソウェト」を体験した若ものたちによって、ラ・グーマが終生願い続けた統合民主国家南アフリカが誕生する日もそう遠くない。そのときは、エイブラハムズ氏の家族と私たちの家族が南アフリカで、このカナダでのありし日を笑いながら語り合えるだろう。

いただいた数々の資料の中にエイブラハムズ氏自身の詩が2篇ある。2篇とも「ソウェト」の詩である。「本当は、自分でも詩や小説を書きたいのですが、当分はラ・グーマの資料の整理を、一段落したら今度はデニス・ブルータスの・・・・・・」と語っていたエイブラハムズ氏が、「ソウェト」の悲しい知らせを聞いて、祖国のいたいけな子供たちを悼んでよんだものである。その一篇を紹介して、私からのメッセージの終わりとしたい。

Poems for the Soweto Martyr

I saw that picture

in a newspaper 12,000 miles away

my people’s blood

flowing again at

the hands of hate

A courageous boy

he was

barely eight years old

defying the inevitable terrifying

bullets of death

He was first to go

though last to begin

His only crime was

to protest the crime of hate

Where does one

so far removed from

the heinous scene of crime

hide or defy or identify

How does one tell

one’s worldy neighbour

who has never felt

the heavy brutal hand

of the terror

the pain

the frustration

that lurks deep

down in the revolutionary heart?

Cecil Abrahams

ソウェト殉教者たちに寄せる詩

わたくしは一枚の写真を見た

一万二千マイル離れた国の、 ひとつの

新聞に

わたくしの同胞の血が

その憎しみの手に

ふたたび流れ落ちるのを

ひとりの勇敢な少年が

その少年は

わずか八歳でしかなかったが

避けようのない、見るからに恐ろしい

死の銃弾にむかった

少年はまっ先に死んでいった

一番あとから行動を始めたのに

少年の罪は

憎しみにただ抗議しただけであった

どこで確かめればよいのか

おぞましい地獄絵から

そんなにも遠く離れて

どのように語ればよいのか

恐怖の

重い残忍な手を

決して感じたことのない

隣人たちに

革命の心に深く沈む

この苦しみ

この憤りを

セスゥル・エイブラハムズ

執筆年

1987年

収録・公開

「ゴンドワナ」10号 10-23ペイジ

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アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ
(英語版:未出版)