2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の3章「アメリカ黒人小史」("A Short History of Black Americans")の「公民権運動、その後」について書ました。

(『アフリカとその末裔たち1』1刷)

前回までジンバブエに行ったあとに書いた英文書「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)に沿って、アフリカ史、南アフリカ史、アフリカ系アメリカ史を12回に渡って紹介してきましたが、今回からは、2冊目の英文書「アフリカとその末裔たち―新植民地時代」(Africa and its Descendants 2―Neo-colonial Stage―)の紹介をしようと思います。

1冊目は簡単なアフリカとアフロアメリカの歴史の紹介でしたので、2冊目は、アフリカについては

①第二次世界大戦後に先進国が再構築した搾取制度、開発や援助の名目で繰り広げられている多国籍企業による経済支配とその基本構造、

②アフリカの作家が書き残した書いた物語や小説、

③今日的な問題に絞り、

④アフロアメリカについてはゴスペルからラップにいたるアフリカ系アメリカ人の音楽

に絞って、内容を深めました。①が半分ほどを占め、引用なども含めて少し英文が難しくなっています。医学科の英語の授業で使うために書きました。

『アフリカとその末裔たち―新植民地時代』

本文

アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度①概略

書くための時間がほしくて30を過ぎてから大学を探し始め、38の時に教養の英語担当の講師として旧宮崎医科大学に辛うじて辿り着いたのですが、大学は学生のためにありますから、当然、教育と研究も求められます。元々人間も授業も嫌いではないようで、研究室にもよく学生が来てくれますし、授業も「仕事」だと思わないでやれるのは幸いだったように思います。

宮崎医科大学

戦後アメリカに無条件降伏を強いられて日常がアメリカ化される生活を目の当たりにして来た世代でもありますので、元々アメリカも英語も「苦手」です。学校でやらされる英語には全く馴染めませんでした。中学や高校でやらされる「英語」は大学入試のためだけのもので、よけいに馴染めなかったようです。高校で英語をやらないということは、今の制度では「いい大学」には行けないということですので、今から思えば、嫌でも英語をやった方が楽だったのかも知れません。

したがって、大学で医学科の学生に英語の授業をするようになっても、最初から「英語をする」という発想はありませんでした。するなら、英語で何かをする、でした。

何をするか。

最初は一年生の担当で、100分を30回の授業でした。一回きりならともかく、30回ともなると、相当な内容が必要です。学生とは多くの時間をともにしますし、一番身近な存在の一つでもあります。学生の一人一人と向き合ってきちんと授業をやることは、自分にとっても大きなことでした。

おのずと答えは出てきました。自分がきちんと向き合って考えてきたことを題材にする、でした。それは、リチャード・ライトでアフロアメリカの歴史を、ラ・グーマでアフリカの歴史をみてゆくなかで辿り着いた結論でもあります。過去500年あまりの西洋諸国による奴隷貿易や植民地支配によって、現在の先進国と発展途上国の格差が出来、今も形を変えてその搾取構造が温存されている、しかも先進国に住む日本人は、発展途上国から搾り取ることで繁栄を続けていい思いをしているのに、加害者意識のかけらも持ち合わせていない、ということです。

リチャード・ライト(小島けい画)

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

将来社会的にも影響力のある立場になる医者の卵が、その意識のままで医者になってはいけない、という思いも少しありました。

それと英語も言葉の一つですから、実際に使えないと意味がありません。そこで、できるだけ英語を使い、実際の英語を記録した雑誌や新聞、ドキュメンタリーや映画など、いろんなものを題材にして、学生の意識下に働きかける、そんな方向で進んできたように思えます。

二冊の英文書も、その延長上で書きました。実際には、アメリカに反発して英語をしてこなかった僕が、授業で英語を使えるようになるのも、英文で本を書くのも、授業で使ういろんな材料を集めるのも、作ったりするのも、なかなか大変でした。ま、今も大変ですが。

今の大学に来て27年目で、今年度末の3月で定年退職です。まもなく最後の半期が始まります。

次回は「アフリカとその末裔たち 2 (2) 戦後再構築された制度②」です。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

      2014年

収録・公開

編集の手違いで収録されていませんので、元原稿からここに収載しています。

ダウンロード・閲覧(作業中)

「アフリカとその末裔たち 2 (1) 戦後再構築された制度①」

2010年~の執筆物

門土社(横浜)のメールマガジン「モンド通信」にNo. 63 (2013年11月)からNo. 71 (2014年7月)まで連載したAfrica and Its Descendants (Mondo Books, 1995)の解説(英文・日本語訳も)です。↓

<1>→「アフリカ小史前半」

<2>→「アフリカ小史後半」

<3>→「南アフリカ小史前半」

<4>→「南アフリカ後半」

<5>→「アフリカ系アメリカ小史①奴隷貿易と奴隷制」

<6>→「アフリカ系アメリカ小史②奴隷解放」

<7>→「アフリカ系アメリカ小史③再建期、反動」

<8>→「アフリカ系アメリカ小史④公民権運動」

<9>→「アフリカ系アメリカ小史⑤公民権運動、その後」

アフリカ人とアフリカ系米国人の歴史を虐げられた側から捉え直した英文書で、英語の授業でも使いました。アフリカとアフロ・アメリカの歴史を繋いで日本人が英語で書いたのは初めてだと思います。

一章では、西洋人が豊かなアフリカ人社会を破壊してきた過程を、奴隷貿易による資本の蓄積→欧州の産業革命→植民地争奪戦→世界大戦→新植民地化と辿りました。

二章では南アフリカの植民地化の過程と現状を詳説しました。全体の半分を占めています。

三章では奴隷貿易→南北戦争→公民権運動を軸に、アフリカ系アメリカ人の歴史を概観しました。

『アフリカとその末裔たち』

 

2010年~の執筆物

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の一覧です。

フローレンス(小島けい画)

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 59(2013/7/10)までです。

2011年

<1>→「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988」「モンド通信」No. 35」、2011年7月10日)

<2>→「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目」「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)

<3>→「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車」「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)

<4>→「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)

<5>→「ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯」「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)

<6>→「ジンバブエ滞在記⑥ 買物」「モンド通信」No. 40」、2011年12月10日)

2012年

<7>→「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」「モンド通信」No. 41」、2012年1月10日)

<8>→「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」「モンド通信」No. 42」、2012年2月10日)

<9>→「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」「モンド通信」No. 43」、2012年3月10日)

<10>→「ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐」「モンド通信」No. 44」、2012年4月10日)

<11>→「ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会」「モンド通信」No. 45」、2012年5月10日)

<12>→「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)

<13>→「ジンバブエ滞在記⑬ 制服の好きな国」「モンド通信」No. 47」、2012年7月10日)

<14>→「ジンバブエ滞在記⑭ ルカリロ小学校」「モンド通信」No. 48」、2012年8月10日)

<15>→「ジンバブエ滞在記⑮ ゲイリーの家」「モンド通信」No. 49」、2012年9月10日)

<16>→「ジンバブエ滞在記⑯ 75セントの出会い」「モンド通信」No. 50」、2012年10月10日)

<17>→「ジンバブエ滞在記⑰ モロシャマリヤング」「モンド通信」No. 51」、2012年11月11日)

<18>→「ジンバブエ滞在記⑱ アレックスの生い立ち」「モンド通信」No. 52」、2012年12月10日)

2013年

<19>→「ジンバブエ滞在記⑲ ロケイション」「モンド通信」No. 53」、2013年1月10日)

<20>→「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」「モンド通信」No. 54」、2013年2月10日)

<21>→「ジンバブエ滞在21 ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」No. 55」、2013年日3月10日)

<22>→「ジンバブエ滞在記22 ジャカランダの季節に」「モンド通信」No. 56」、2013年4月10日)

<23>→「ジンバブエ滞在記23 チサライ」「モンド通信」No. 57」、2013年5月10日)

<24>→「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」「モンド通信」No. 58」、2013年6月10日)

<25>→「ジンバブエ滞在記25 『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」「モンド通信」No. 59」、2013年7月10日)

ゲイリー(小島けい画)

「モンド通信」に連載分一覧→「玉田吉行の『ジンバブエ滞在記』」(小島けい絵のblog)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した2回目の「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目 」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo.62(2013/7/10)までです。

本文

ハラレの空はからりと晴れていました。

ロンドン→ハラレ地図

ロンドンのヒースロー空港を真夜中に出た英国航空機は、およそ10時間後、ジンバブエの首都ハラレに着きました。1992年7月21日のことです。日本では猛暑の季節ですが、南半球では真冬でした。海抜1500メートルの高原地帯にあり、雨期と乾期のあるサバンナ気候で、1年中過ごし易いところです。すんなり税関を通過し、待合室で借家を探して下さった吉國さんの奥さんの出迎えを受けました。2日前に車の盗難に遭ったという奥さんの話を聞きながら、私たちを乗せた車は独立記念のアーチをくぐり、ハラレの中心街を抜けて、これからの2ヵ月半を暮らす、アレクサンドラパーク地区フリートウッドロード22番地に到着しました。

フリートウッドロード22番地

ロンドンに一週間滞在して、一人で亡命中のブランシさんに家族で会いに行きました。1985年にキューバでご主人を亡くして以来の亡命生活は大変だったと思いますが、温かく迎えて下さり、アレックス・ラ・グーマや2人の子供さんの写真を見せて下さいました。優しいお人柄に触れて、とても豊かな気持ちになりました。

画像

ブランシと、ロンドンの自宅で

吉國さんからは「ここには一握りの金持ちと大多数の貧乏人しかしませんので、恐ろしく不動産事情が悪く、最悪の場合はホテル住まいになるかも知れません。」という手紙をもらっていましたが、ある日、家が見つかりましたので、という国際電話がありました。82歳の1人暮らしの老婆がスイスに出かける間、家具付き1ヵ月約10万円の家賃で貸して下さるそうで、宮崎を離れる10日ほど前のことでした。

「海外研修記「『アフリカは遠かった』」(宮崎医科大学「学園だより」第号10-11頁、1993年。)と「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」(宮崎医科大学「学報」第50号18-19頁、1993年。)を書きました。

500坪近くもある広い所で、オランダ風の建物がたっていました。南西の隅に車庫と「庭師」用の小さな建物があり、その建物の北側には菜園がありました。庭には、パパイヤとマンゴウがたくさんの実をつけ、ジャカランダの大木が2本あり、北側にはハイビスカスの生垣がありました。

画像

およそ500坪の借家

道を隔ててアレクサンドラパーク小学校があり、ジンバブエ大学の建物も見えます。「この家の持ち主のおばあさんが雇っておられるゲイリーです。給料はおばあさんからもらうそうです。普段のゲイリーの仕事は、庭の手入れと、犬の世話かな。おばあさんがいる時は、買物や銀行にも行かされているようね。少しくらいなら手伝ってくれるでしょう。何かあったら、頼んでみて下さい。」と奥さんから紹介されたのが、ガリカーイ・モヨさんで、190センチ近くはある、すらりとしたショナ人でした。体長が1メートル50センチほどの犬もいました。前脚が悪そうでしたが、デインと呼ばれる番犬のようです。ゲイリーがいたからでしょう、初めての私たちにも吠えませんでした。南の棟には、寝室が3つと風呂と台所、西側の棟には食堂と居間がありました。居間は20畳ほどで、応接セットに机とテレビが置いてあります。スイッチを入れたらぶんという音がして、映像が出て来るまでに少し時間がかかりました。

ゲイリーとデイン

ダブルベッドのある12畳ほどの東の部屋を長男と私が、真ん中の6畳くらいの部屋を長女が、西側の7畳ほどを妻が使うことにしました。見かけとは違って、全体に陽当たりも風通しも良くないようでした。長女の入った部屋は犬が使っていたようで、臭いもひどく、ぎしぎしと大きな音をたて、寝心地が悪そうでした。どの部屋も照明器具がお粗末で、全体に暗い感じです。
三方が広い窓の12畳くらいの台所には、冷蔵庫と4つ続きの電熱器があり、湯も出るようでした。故障したトースターと芝刈り機に似た掃除機もあります。掃除機の電源を入れて試してみましたが、1円玉も吸いこまず役に立ちそうにありません。願ってもない邸宅を世話してもらっておきながら、文句ばかり、我ながら浅ましく思いました。便利で快適な日本の生活に慣れきってしまっているようです。

借家の室内

夕方、吉國さんが食事に招待して下さいました。お宅は、同じ地区内の2キロほど北東にあり、手入れの行き届いた庭のある閑静なお住まいでした。久しぶりの家庭料理を味わいながら、子供たちはゲームを楽しみ、私たちは吉國さん夫妻のお話をうかがいました。

ハラレでは、1年を通じて北東から南西の方角に概ね風が吹くようで、白人入植者は東側に水源地を確保したあと、南西の方角にアフリカ人の居住区(ロケイション)を造ったそうです。工業地帯をその間に置いて、緩衝地帯にしたと言います。なるほど、アフリカ人は風上には置かないということか。待てよ、どこかで似たような話を聞いたことがあるぞ。ジョハネスバーグ近郊のアフリカ人居住区ソウェトだ。SOUTH WEST TOWNSHIPのそれぞれの頭2文字を取った地名です。ジョハネスバーグの南西にあり、1955年のソフィアタウン強制撤去の後に自然発生的に生まれたといわれる地域です。金鉱のボタ山が、緩衝地帯になっています。そう遠くないハラレが、ソウェトのモデルだったのか。

ジョハネスバーグ金鉱山(「ディンバザ」より)

遠く離れたアフリカの歴史などは、ややもすれば歴史の方から人の生活を捉えがちですが、実態は、いいものを食べたい、いい家に住みたいというようなごく一般的な欲望が、結果的に歴史を作ったのではないか。吉國さんと話している時、ふとそんな思いに捕らわれました。

こうして、ハラレの第1日目が終わりました。(宮崎大学医学部教員)

借家前の道路

執筆年

2011年8月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目」(モンド通信No. 36)

ダウンロード・閲覧

「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目」