1990~99年の執筆物

概要

ラ・グーマの第2作目の物語『三根の縄』(1964年ナイジェリアムバリ出版社刊、のちに日本語のタイトルを『まして束ねし縄なれば』と改題)の作品論です。

第1作『夜の彷徨』では、夜と黒のイメージを使ってアパルトヘイト下での第6区の抑圧的雰囲気を醸し出しましたが、今回は雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気をうまく伝えています。ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからで、世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から、この作品を生み出しました。

聖書の伝道之書の「もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり」に準えて、自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、力を合わせて懸命に働き続ける人々の姿を描いています。

*発音記号はThe sounds of English and the International Phonetic Alphabet …を参照下さい。()

本文

「三根の縄」

聖書・・・・・・『三根の縄』では、『夜の彷徨』のシェイクスピアに次いで、ラ・グーマは聖書を借用し、伝道之書第4章の9節から12節をエピグラフに掲げた。ダビデの子、イスラエルの王である伝道者が世の中の抑圧について語る第4章は次のように始まる。

ここに我身をめぐらして、目の下に行われる諸々の虐げを視たり。ああ虐げらるる者の涙流る、これを慰むる者あらざるなり。また、虐ぐる者の手には権力あり。彼等はこれを慰むる者あらざるなり。

ラ・グーマの目には、この1節が南アフリカの現実と重なったのであろう。独りでいることの辛さについて伝道者が触れたあと、エピグラフに用いられた次の4節が続く。

 

二人は一人にまさる。其はその骨おりのために善き報いを得ればなり。

即ち、その倒る時には、ひとりの人そのともを助け起こすべし。然れど、ひとりにして倒る者はあわれなるかな、これを助け起こす者なきなり。

又、二人とも寝ぬれば温かなり、一人ならばいかで温かならんや。

人もしその一人を攻め撃たば、二人してこれにあたるべし、三根の縄はた易く切れざるなり

タイトルの『三根の縄』はその12節から取られており、この「三根の縄」に準えた人物を中心に物語は展開される。

「三根の縄」の人間関係を支えるのは相手を思いやる心遣いである。「大切なブランシに本書を捧ぐ」という献辞にもその思いが込められている。それは、自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、貧しい人々の間で懸命に働き続ける妻に寄せるラ・グーマの共感でもあろう。本書とブランシヘの思いをラ・グーマは振り返る。

この物語をラブ・ストーリーにしていたという可能性もありますが、それとは別に『三根の縄』の中で表現されている思いがすべて、妻ブランシと貧しく虐げられた人々への気持ちに何か係わりがあると思います。さらに、ブランシは地域の貧しい人々の間で助産婦や看護婦として多くの時間を費やして来ました。ですから、ブランシには私が何かどこかで触れるだけのねうちがあると信じています。

ラ・グーマが本書をラブ・ストーリーにしなかったのは、歴史を記録したい、真実を伝えたいという気持ちが強かったからである。その意味では、本書は『夜の彷徨』の続編でもある。ただし、ラ・グーマはケープタウンの市街地の第6区からケープタウン郊外のスラム街に舞台を移した。本書のねらいについてラ・グーマは語る。

再び歴史を記録する、状況を書き留めるという問題です。この本は、それがソウェトであれ、アレキサンドラタウンシップであれ、クックブッシュであれ、南アフリカの特徴的な情景とも言える郊外のスラム街についての物語です。それはその地域の生活の一場面でもあり、その写真のひとコマでもあるのです。

更に補足してラ・グーマは言う。

付け加えると、私はある段階でこの本がラブ・ストーリーになると考えていました。作家は誰でもいつかはラブ・ストーリーを書きたいと望むようですし、私にも絶えずその気持ちはあります。しかし、全般的に見て、この本は本当の意味でのラブ・ストーリーではなく、ある特定の家族とその仲間のつき合いから照らし出される、人々の極く普通の生活の記録であると私は考えています。

父・母・・・・・・ラ・グーマは「三根の縄」の人間関係をすべて、母親を軸に展開させる。厳しい抑圧の中での、生活を支える女性の役割を強調したかったからである。自分の母親を回想して「あの人は親切で心の寛い母親であり、献身的な妻でもありました。そして、第6区の他の女性たちのように辛い日常の生活の雑事をやりこなしていました」とラ・グーマは語る。アパルトヘイトと闘う男たちを支え、子供を育て、黙々と日々の雑事をこなす母親やブランシの存在の大きさをラ・グーマは充分に承知していたのである。

「三根の縄」の人間関係の基調は他人への思いやりである。本書では特に、身近な人を大切にする気持ちをラ・グーマは中心に据えた。

朝方、母親が弟ロナルド (通称ロニー) をからかうチャーリーをたしなめるのも、チャーリーと母親が父親への不満をこぼすロニーを諭すのも、或いはチャーリーが釘を打たずに石を置いて屋根に応急処置を施すのも、すべて病床で苦しむ父親への配慮からである。

ラ・グーマは物語の中で、父親に直接喋らせることはしなかった。従って、読者に聞こえてくるのは、病床からの咳ばらいや呻き声ばかりである。それだけに、父親の様子を描くくだりは哀れをさそう。

骨だけになった両膝が掛け蒲団の下で山がたに盛り上がり、小さな地震のように震えていた。壁の隙間や古い釘穴から吹き込んで来る隙間風と病のせいで、ベッドの中で全身がぶるぶると震えていた。歯の抜け落ちた口が開き、痩せさらばえた胸からは、やかんのように、ぜいぜい、すーすーと音がして、からだ全体が機械仕掛けのオモチャのように揺れ動いていた。

「父さん、どう?」と問いかけるチャーリーに父親からの返事はなく、次に続く。

空ろな目をチャーリーの方に向け、浜辺に打ち上げられた魚のように、口だけをぱくぱくさせた。一人の患った老人が、いのちの崖っ縁に脆い爪で懸命にしがみつき、何とか持ちこたえようとしている。

チャーリーは父親に目くばせをしながら、「父さん、そのまま。休んでてよ」と言い残してその場を離れるしか術がなかった。

ラ・グーマは父親の咳ばらいや坤き声に喋る以上の働きをさせたわけだが、それが可能になったのも、家族の父親に対する思いやりがあったからである。家族の父親に対する思いやりは、父親の死と葬式を通して更に印象づけられて行く。

ラ・グーマは小屋の出来上がった経緯を語る中で父親の人となりに少し触れていたが、その死と葬式を通じて父親フレデリック・ポールズが如何にかいがいしく働いて来たかを明らかにする。

一家の主の死に際してうろたえなかったのは母親レイチェル・ポールズである。検死の医者や葬式の手配などを済ませてから、死者にとっておきの真新しい下着を着せた。生前から死者が望んでいたのだが、手厚く葬ってやることが死者への最善の供養になると信じていたからである。苦しい家計の中から、葬式に備えて幾何かの積立金を工面していたのもその気持ちのあらわれだった。

うろたえこそしなかったが、チャーリーに語りかけた言葉の端々に伴侶への思いや悲しみが滲む。

おまえの父さんは逝ってしまった。もう二度と戻っては来ないんだよ。おまえの父さんは良い人だった。みんなが食べていけるようにずっと働きづめだった、あの人は私に子供たちを授けてくれ、みんなが大きくなるのを見守ってた。あの人は私にも子供にも良い人だった、そして神様を信じていたよ。あの人はただ生きて、働いて、神様の目にとまるような悪いことはこれっぽっちもしなかった。家族のために働き、もうこれ以上は働けなくなったとき、横になって、神さまが来て天国に連れて行って下さる時を待ったんだよ。今、あの人は神さまのもとへ行っちまった。病気に苦しむこともなく、お腹をすかせることもなく、仕事から解放されて休みに行ったんだよ。イエス様のように、あの人はいつも十字架を背負っていたけど、今やっと、肩から背負っていた荷物を降ろしてもらえたんだよ・・・・・・。

母親は夫の臨終の委細を死亡証明書を書いてくれた隣人のンズバにしんみり語って聞かせる。

静かな死に際でした。私はすぐそばについてました。あの人、昨夜のスープを少し飲んで、それから私を見て「レイチィ」って言いました。あの人いつも私のことほんとそう呼んでいましたよねえ。「子供らは大丈夫か?」って聞くんです。それで「そりゃ、父さん、子供たちは大丈夫ですよ、心配しないでいいよ」と言ったら、又「ワシはみんなにもっとましな家に住まわせてやりたかったよ、あんな瓦屋根の家になあ・・・・・・」って言うんです。だから私、「まあなんてことを、家のことは気にしないで」と言ったんです。するとあの人、私を見て目を閉じました。それからタメ息みたいなのをついて、次に喉をぐるぐる鳴らしました。そうして死んで行きました。

ラ・グーマはそのように語る母親の様子を次の1節で締めくくる。

涙をこらえたしわかれ声が続き、両肩が震えた。母親ポールズの目に涙こそなかったが、言葉が母親の涙だった。

母親の言葉から、父親が家族のために黙々と働き続けた末に体をこわしたことを知る。そして、苦しみの病床でさえ愚痴一つこぼさず、ひたすら子供たちを気遣いながら死んで行った父親の姿がありありと目に浮かぶ。父親が来る日も来る日も天井のしみを見つめながら最後に、子供たちを瓦屋根の家に住まわせてやりたかった、と言い残して死んで行く話を聞かされるとき、その無念を思わずにはいられない。同時に、日々衰えゆく夫をそばに見ながら医者を呼ぶ金もなく、むなしく薬草を煎じて飲ませてやるしかなかった母親への同情も禁じ得ない。そして、その思いはそんな惨状を生み出したアパルトヘイト体制へと及ぶ。

子供たちと夫に尽くし続ける母親、家族のために働き、家族を思いながら死んで行った父親、生来の楽天的性格で陰ながら両親を支え、思いやるチャーリー、そんな親子の関係を通して、ラ・グーマは「三根の縄」の貴さを見事に描き出している。

伴侶・・・・・・父親と母親のいたわりの世界を引き継ぐのはチャーリーと恋人フリーダである。ラ・グーマはその2人と母親に、もう一つの重要な「三根の縄」の役割を演じさせた。チャーリーは未だ定職に就けずぶらぶらしてはいるが母親の信頼は厚い。

フリーダは2年前に夫を亡くし、今は白人の所でメイドをしながら懸命に2人の子供を育てている。現実の厳しさを感じながら暮らしている母親にはフリーダのひたむきさが理解出来る。そんなフリーダを暖かく見守ってやれるチャーリーの姿勢も痛い程わかるのである。2人がいずれ結婚すると母親は信じており、2人を見つめる目は温かい。

その点では、弟ロニーと相手スージィに対する見方とは対照的である。チンピラ連中といざこざの絶えないロニーと尻軽なスージィヘの母親の目は厳しい。

ラ・グーマはフリーダを軸に2つの事件を通してアパルトヘイトの惨状を物語る。

1つは警察の手入れである。事件はチャーリーがフリーダの家に泊っている夜に起きた。夜中の突然の侵入者に子供たちは怯え、フリーダは身構える。尋問から2人が夫婦でないのを知った警官の1人は「この黒んぼ淫売め」と捨てぜりふをして帰って行った。

ラ・グーマは前章で、パス法の手入れで交歓現場に踏み込まれた男を描いていた。男は裸同然の姿で手錠をされて引き立てられながら「どうしてこんなことするんだね。同じアフリカ人にどうしてこんなことするんだね」とアフリカ人警官に訴えていた。そして今、手入れがチャーリーとフリーダに及ぶのを見て、アパルトヘイトという怪物の前ではチャーリーの優しさも打ち砕かれ、愛しい子供たちや恋人さえ守ってやれない現実を思い知らされる。

更に、ナイトガウンを引っ掛けて手入れ騒ぎを見に出た男が家の前で捕えられ「パスは家の中にある!」と叫びながら連れて行かれる光景からは、シャープヴィルの虐殺事件が思いおこされる。あの人たちはこのパス法に抗議して集まったのである。その群衆に向かって、白人警官は無差別に発砲した。

南アフリカの子供たちは、フリーダの子供のように、幾度となく恐怖を味わい、感性を切り刻まれながら大きくなっていく。人々は日々の暮らしの中で、人間としての誇りを傷つけられ、絶えず脅かされながら生きることを余儀なくされる。あの虐殺事件ですらそんな日常の単なる延長でしかないのである。ラ・グーマはチャーリーとフリーダの思いやりの世界を背景に警察国家の暴虐をうまく伝えたことになる。

もう1つの事件は、フリーダの小屋の火事である。フリーダが買い物に出かけた隙に子供の1人がストーブを倒して火事は起きた。主に段ボールからなるその小屋は火のまわりが驚くほど早かったうえ、フリーダが外から鍵をかけていたから子供ごと瞬く間に燃え尽きてしまった。途中、男が2人を助けに入ろうとしたが、火力が強くて近寄ることさえ出来なかった。駆け戻ったフリーダは半狂乱になる。

叫び声や残り火のパチパチいう音に混って別の声が聞こえて来た。それは最初咽び声だったが、次第に金切り声になり、やがてぞっとするほど低い呪文のような泣き声に変わった。それはどこかの未開人が行なう忌まわしい死の儀式かとまちがえるほどの恐しい阿鼻叫喚図絵だった。それは高く神経を掻きむしるような泣き叫びになった。その声は単なる叫び声や金切り声以上のもので、あり得ないほどの悲しみの声、苦悶を通り越した声、範ちゅうを越えた佗しく耐えられない程の悲痛な叫び、貫き抜けた悲しさであった。それはフリーダだった。

火事は確かにストーブが倒れて起きたのだが、いつ火災が起きてもおかしくない状況である。床は牛糞などで固めてならされ、安物の油紙が敷かれている。しかし、その地面は油紙がはがれて今は平担でない。足のとれたストーブがマッチ箱を支えにしてその床の上に置かれているが、最近はつまってどうも調子が芳しくない。段ボールに紙を貼りつけた壁には所々広告の印刷の文字が見える。低い天井には古ぼけたランプが吊されており、出入りの度に小屋が揺れる。手入れの時には警官がドアを叩いたので小屋全体が激しく揺れた。こんな状態だから今まで火事にならなかった方がむしろ不思議なくらいである。

しかしながら、ラ・グーマはフリーダの小屋を特別なものとして描こうとしたわけではない。むしろ、ありきたりの小屋として取り上げたに過ぎない。フリーダの小屋も、大部分拾いものの段ボールや屑鉄などで建てられたまわりの小屋と大差はない。拾ってきた壊れかけのストーブでも真冬には必需品となるこの辺りの小屋の住人には、フリーダの叫びは個人を越えた、言わばその地域の人々の叫びである。そしてフリーダの小屋の火事は、その人たちの悲惨な住宅事情や劣悪な生活環境の象徴と言えるだろう。

ラ・グーマは先の手入れ事件では、官憲の横暴により人格を挫かれる人々の精神面を強調したが、フリーダの火事では、惨めな生活環境を強いられて苦しむ人々の物質面に焦点を合わせて、アパルトヘイト体制の生み出す惨状を描き出している。

・・・・・・もうひとつの「三根の縄」の役は、チャーリーと妹の、キャロラインと母親で演じられ、ラ・グーマはキャロラインの出産をその軸に据える。人々の日常生活を描こうとするラ・グーマには死や葬式と並んで出産が重要な意味合いを持っていたからである。

キャロラインは17歳で出産を間近に控えているがまだ頼りなく、18歳の夫アルフレッドと共に支えが必要である。父親が死んだ今、チャーリーが父親代わりだが、展開の中心はここでも母親である。産婆が間に合わず、駆けつけてくれた隣人ンズバの手を借りて母親は娘の出産を無事済ませる。

ラ・グーマが出産を通して強調したかったのは出産の状況のひどさである。アルフレッドから産気づいたとの知らせを受けて母親が駆けつけた時、娘は床のマットレスの上で毛布を掛けて横たわっていた。オイルランプの火は薄暗く、戸口の所に溜っていた天井からの雨もり水が床を流れ始めていた。しかし、母親に出来たことと言えば、持参のランプを吊り、娘の気持ちを落ち着かせ、雨もりの個所に水差しを置いてから、用意させていた新聞紙を腰の下に敷いてやるくらいだった。あとは産婆を待つしかなかった。

部屋の状況のひどさを印象づけるのにラ・グーマはキャロラインの叫びを聞いて駆けつける白人警官を登場させた。叫び声が酔っ払いによるものだと思い込んで手入れに来たという設定である。娘のお産だと言い張る母親の言葉を信じない白人警官は無理やり小屋を覗き込む。

その瞬間キャロラインは叫び声を上げた。警官は「何てことだ」と言い、母親ごしに小屋の中を覗き込み、マットレスに横たわっている娘にンズバの大きな体がかがみこんでいるのを見た。煙った天井、泥まみれの床、天井の雨もり、大売り出しの時に並べられたようなぼろ布を見ながら警官は目をきょろきょろさせた。けむりとランプ油と出産の臭いが入り混って室内はたまらなく臭かった。

再び警官は「赤ん坊?何、ここでか?」と言い、それから肩をすくめて低い声で「わかった、分った」と言った。警官が向きを変えて部下に鋭く命令を出している最中に、母親は目の前でぴしゃりとドアを閉めた。

かつてキャロラインは、父親とチャーリーが小屋を建てるのが間に合わなくて鶏小屋のような場所で生まれた。そして今、キャロラインはこんな惨めな場所で子供を産んだ。おそらく、アパルトヘイト体制が続く限り、キャロラインの子孫もまた、いずれ同じ運命に晒されるだろう。

母親を軸に、親と子、やがて結ばれる2人、兄と妹という3組のいたわり合いを通じて、ラ・グーマは「三根の縄」の重要性をもの語った。

孤独な人々

「三根の縄」の重要性をより印象づけるために、ラ・グーマは人を信頼できず孤独な生き方をする人物像を対照的に持ち出した。伝道之書第4章9-12節の「三根の縄」とは極めて対照的な同章8節にあるような孤独な世界で苦しむ人々である。

ここに人あり、只独りにして伴侶なく子もなく兄弟もなし。然るにその労苦はすべてきわまりなく、その目は富に飽くことなし。かれまた言わず、ああ我は誰がために労するや、何として我は心を楽しませざるやと。是もまた空にしてほねおりの苦しきものなり。

ロニーとロマン・・・・・・ラ・グーマは孤独な生き方をする3つのタイプの人物像を登場させる。一つは『夜の彷徨』で克明に描き上げたタイプで、いつも不満を持ち、街にたむろして無為な時を過ごしている類の不良連中である。尻の軽いスージィをめぐって争ったロニーとロマンがこれにあたる。

ロニーはチャーリーの忠告に耳をかさず、白人モスタートに身を売ったと邪推してスージィを惨殺して刑務所行きになる。

ロマンは妻子がありながら女を追いまわしたり、盗みで刑務所入りしたりする日々が続く。11人の子供を常に飢えさせており、妻子には烈しく暴力を振う。

両者は何事に対しても刹那的で、自己の欲望を満たすことに窮々としており他人を思いやれない点で共通している。ロニーがスージィを殺したのも自分の思い通りにならない女への苛立ちからである。又、ロマンが妻子に暴力を加えるのも弱者を虐めることで自分の不満を解消しようとしたからである。虐げられながらも他人への思いやりを基調に結ばれた「三根の縄」の世界とは対照的である。

アンクル・ベン・・・・・・2つ目は厳しい世の中にすっかり諦観を抱き、酒などの逃避手段に溺れてその日を暮すタイプで、叔父のベンがそれにあたる。ベンは、病気の義兄や家族のことで悩む姉を気使う優しさを持ちながらも、僅かの稼ぎを殆んど酒代に替えてしまう生活を改められないでいる。持参した安ワインを酌み交しながら、深酒への忠告をしてくれるチャーリーに、そのやる瀬ない心境をベンは語る。

それがどうしてだがワシにもわからんのじゃよ、チャーリー。人はつい酒に手を出してしまうんじゃ。じゃが、ワシの場合、何かにせかされて飲む、飲む、飲むのようじゃ。チャーリーよ、どこかの悪魔が無理やりベロベロになるまで人に酒を飲ませ続けるんじゃよ。悪魔なんじゃ、なあ。

チャーリーが友人の言葉を借りて「もし貧乏人たちが協力して世の中の富を分かち合えば、誰も、貧しい者はいなくなるよ」と社会のあり方を説いてみても「そりゃアカの言うことじゃよ。政府に反対する話じゃ」と全く取り合わない。その生き方の姿勢はおそらく死ぬまで変わらないだろう。

友人のことを思い出しながら、チャーリーが傷心のフリーダにしんみり語りかける次の言葉は、他からはどうもしてやれないロニーやベンヘのやる瀬ない思いと「三根の縄」の貴さを教えてくれる。

あいつの言うように、人は世の中でひとりではやっていけず、みんなで力を合わせることが必要だ・・・・・・たぶんロニーの奴の場合もそうだったよ。ロニーは人に助けてもらいたがらなかった。何でもひとりでやりたがった。決してオレたちと一緒じゃなかった。わからないが、たぶんベンおじさんも同じだろう。人がひとりでいるのは自然じゃないよ。

ジョージ・モスタート・・・・・3番目は妻に逃げられ佗しいやもめ暮らしをする白人ジョージ・モスタートである。スラム街に隣接するさびれたガソリンスタンドを営むモスタートはスラムの住人と接する機会が多い。自分の佗しい生活と比べて、貧しいながらもスラム街には何か生気が感じられて仕様がない。屑鉄などを与えた縁で知り合ったチャーリーのパーティヘの誘いに乗る決心をしたのも孤独な生活の佗しさからだった。しかし1度は出かけたものの、結果的には途中から引き返してきてしまった。「集団地域法」に触れるのを恐れたからである。又、心は揺れながらスージィの甘い誘いに乗れなかったのも「背徳法」が恐かったからである。結局は1人の世界から1歩も踏み出せないで苦しむモスタートもやはり、アパルトヘイト体制の犠牲者のひとりなのである。

各人各様に苦しみながらも孤独な生き方をするしかないその人たちの存在は「三根の縄」の重要性をより印象づけている。

闘いの中から生み出された『三根の縄』がスローガンではなく、すぐれた文学作品であるのはラ・グーマの文学的手腕による。

ラ・グーマは「三根の縄」の関係をさらに印象づけるのに、冬のスラム街に容赦なく降り注ぐ雨を持ち出した。

『夜の彷徨』でラ・グーマは、夜と黒のイメージを使って第6区の抑圧的雰囲気を醸し出したが、今回は惨めなスラム街の雰囲気を作り出すために、雨と灰色のイメージを利用した。

ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからである。

次のインタビューからそんな真意が汲み取れる。

暫く前に、なぜいつも私が南アフリカの天候について書くのかと尋ねられました。たぶん、1つには天候がその雰囲気を作り出す役割を果たし、実情などを描き出す助けとなっているからです。又、この国がとてもすばらしい気候の国だという政府の観光宣伝を海外の人が信じているという事実もあるからです。私にはその気候を南アフリカの1特徴として使えたらという考えもありましたが、同時に象徴としての可能性から見て、最も南アフリカ的なものにしたい、或いはしようとする考えもありました。言い換えれば、私は自然美を謳う政府の観光宣伝とたたかい、美しいゴルフ場だけが南アフリカのすべてではないことを世界の人々に示そうとしているのです。

ラ・グーマは物語を雨で始め、雨で終える。しかも、主題に係わる事件はすべて雨に絡ませ、雨のイメージで物語全体を包み込む。まえがきでバンティングが言うように『三根の縄』は「ケープの冬の湿り気と惨めさに濡れそぼり、その灰色と佗しい色調をラ・グーマは一連の絵画的、散文的銅版画」で捕えている。

第1章遠景・・・・・・山々を背景にひかえ、海に面した町の遠景から先ずラ・グーマは書き始める。次に映画のクローズアップ手法さながらに、国道や鉄道線路脇のスラム街をゆっくりと写し出して行く。

南半球の7月はもう冬、木々は既に落葉し、重くたれこめた暗雲は、雨の気配を漂わせる。最初は細やかな霧雨が地面に湿り気を与えるだけだが、雨はやがて本降りとなり、見渡す限り灰色の世界が広がる。ラ・グーマは次の言葉でその冬景色を語る。

太陽は遮られてどんよりした灰色の世界が広がり、昼には不似合いなじめじめした薄明かりがさしていた。雨は突然の烈しい風で再び始まり、断続的な大粒の雨でその世界を垣間見せた。それから、雨脚は次第に一定となり、容赦ない本降りの雨となる。それは灰色一色の世界だった。

あくまでも静かな書き出しである。第1章には音に関する表現が殆んど見当たらない。殊に、全体を通してあれほど多く使われている擬声語が皆無である。視覚に焦点を置き、特に雨の灰色のイメージをラ・グーマはまず読者の心に植えつけたかったのであろう。それはまさしくこれから始まる騒々しい物語の「嵐の前の静けさ」を象徴している。

第2章小屋・・・・・・チャーリーは雨の音に起こされる。第1章とは対照的に音に関する表現が多い。自然音を模した擬声語が書き出しだけでも、ヒュッ (hissing)、パラッ (rattling)、ドオッ (roar)、ポトポト (drip-drip)、ポツポツポツ (plop-plop-plop) などと多彩だ。雨が小屋に当たって様々な音を発するからである。小屋は拾ったり、盗んだり、或いはもらったりした材料で建てられており、錆びたトタン板や石油缶、段ボール紙などから出来ている。瓦屋根の家なら余程の雨が降らない限りそれほど音はしない。つまり、雨の音は小屋の貧しさの象徴なのである。

雨脚が弱ければその音はポタッやポトッであるが、ひどくなればポタ、ポト、ボタ、ボトにかわる。チャーリーが雨漏り水を缶に受ける一光景はこうだ。

チャーリーは天井から落ちて来る雫の下に缶を置いた。ポツポツ (plop-plopping) が金属に当たることで、突然小さなバシャン (rumbling) に変わり、次第に鈍いポトン (tinkling) になった。

3つの擬声語に含まれる流音こは雨漏り水の流れ落ちるさまを、plop (ポツ) の2つの無声破裂音pは雨水が床に当たる澄んだ階音を、rumbling (バシャン) の有声破裂音bは缶の中にこもる軽い金属音の感じを、tinkling (ポトン) の無声破裂音kは缶の中に溜った水の表面に雨水が落ちる際に発するリズミカルな快音をそれぞれ言い写している。又、語尾の鼻音 [N] はその音が余韻を残して響く様子を、更に別の鼻音 [m]、[n] との繰り返し音 (rumbling [rV’mbliN]・tinkling [tiNkliN) は、その音の短い楽音的な響きをうまく言い当てている。家族がまだ眠っている静かな部屋の中では、それらの響きがより広がりと余韻をもつ。3つの擬声語は短いながら、室内のそんなイメージを伝える働きをしている。

風が烈しくなれば、雨の音も大きくなる。同じ章に次のような別の光景がある。

外では風が再び烈しくなり、小屋に雨を叩きつげ、暫くの間トタン板にバシャ(rumbling) という音がした。それから風向きが変わって風は止み、それまでのパラッ (rattling)、ポタッ (tapping) という低い音が消えた。

Tap (ポタッ) には元来「そっと打つ」という含意があるから「低い」がなくても風の弱かったことはわかるが、この場合、rumbleとrattleの強弱、清濁の対比的使い方がおもしろい。雨の流れるさまを象徴的に示す両鼻音r, lにはさまれたmbと辞の対比である([rV’mbl]・[rA’tl])。

烈しい風が雨を小屋に叩きつける濁った鈍い音と弱い風による小さな雨の澄んだ軽い音の差を、余韻を残す鼻音mと濁った音を表わす有声破裂音bとの組み合わせmbと澄んだ音を示す無声破裂音pとの対比で言い分けたのである。先の場合と同じように、室内が静かなだけに雨の音はよけいに、響きの広がりをもつ。

又、同章には、ヒュッ (hiss) を巧く使った光景がすぐあとにある。弟ロニーを起こしてしまったチャーリーがベッドに戻って座る場面である。

チャーリーは汚れた下着でベッドに腰を掛けた。もう1人の弟のジョー二ーは、顔を壁の方に向け、中身の出かけた古い掛けぶとんから刈り込んだ黒い頭だけを見せて眠っていた。雨が家に当たってヒュッと音を立てた。(hissed)。

Hiss (ヒュッ) は短い言葉だが、両摩擦音h, sで雨の叩きつけられる激しいイメージを、短母音iでその速さ、鋭さを象徴している。ラ・グーマは静かな小屋の雰囲気と対照的なそのイメージを短い動詞1語で簡潔に言い当てている。

数えあげればきりがないのだが、ラ・グーマは直接的、感覚的な感じを与える擬声語を駆使することによって、雨に苛まれる人々の実状を鮮明に、聴覚から訴えかけていると言える。

雨は小屋に騒音をもたらすだけではない。雨の湿気が小屋内の悪臭を助長する。じめじめした小屋は一種の臭いの溜り場と化す。そんな臭いに関する1節もある。

室内にも又、臭いがこもっていた。汗、毛布、むっとする寝具の臭いがしみこんで、どこからともなくすえた食べものとこもった湿気、それに濡れた金属の悪臭が漂っていた。

それは貧乏の臭いであり、スラム街の別の象徴的存在でもある。哀しいことに、小屋の住人たちはその臭いが気にならないほど慣れてしまっている。

第1章でラ・グーマが視覚に訴えているとすれば、第2章では聴覚と嗅覚に直接訴えかけていることになる。

雨・雨・雨・・・・・・父親の臨終、2つの手入れ、キャロラインの出産、ロニーのスージィ惨殺など、既に触れたように主だった事件ではすべて雨が降っていた。

例えば、フリーダの小屋の手入れやキャロラインの出産では、雨がフリーダや子供たち、またキャロラインの、それぞれの不安を助長する一因となる。

そして、裸同然の姿で引き立てられて行く場面、スージィ惨殺の場面においては、状況の苛酷さが雨によって増幅されている。

終章 小屋・・・・・・第2章と同じ書き出しで始まる第28章もやはり雨で終わる。灰色の世界である。火事で2人の子供を亡くしたフリーダを今は亡き父親のベッドに休ませて、母親とチャーリーがやさしく慰める。

ある友人のことを思い出しながらチャーリーはフリーダに語りかける。

 

ある時あいつは、人間は大抵ひとりの時に問題を起こすもんだ、というような意味のことを言った。それが今にピッタリかどうか分からない。そのことを俺がはっきり解っているかどうかもわからない。でも、あいつの頭にゃ、いいことが一杯詰まってたと思うよ。

あいつの言うように、人は独りではやってけないのさ。力を合わせなきゃ。あいつは正しかったと思うよ。かしこい奴だった。

 

外では烈しい嵐が吹き荒んでおり、その様子をラ・グーマは次のように描く。

雨は土台を掘り起こし、表面の土をさらった。そして継目が口を開け、外の壁が騒々しい音を立てた。家はたわんで倒れそうになり、歪んだひし形に形を変えた。雨は庇のところで、ゴボゴボ、ブクブタ、タツタツと音を立て、天井に沿って水銀のように流れた。下では、貧しい人々が吹いて缶に火を起こし、容赦ない雨のなか、悪寒に震えてうずくまり、歯をガタガタ鳴らせながら、肩を寄せ合って暖を取った。

吹き荒ぶ外の嵐はアパルトヘイト体制を死守する白人政権の暴挙を連想させる。又、土台を掘り起こされ、倒れそうになりながらも嵐に耐える小屋の姿は、白人でない人々の社会的立場を暗喩する。その小屋の中で寒さに震えながら肩を寄せ合って暖を取る光景は、アパルトヘイトの嵐の中で何とか生きのびている南アフリカの人々の姿の象徴でもある。

ラ・グーマは雨のイメージをうまく利用して、視覚から、聴覚から、そして嗅覚から直接的に読者の感性に迫っている。

ラ・グーマの思い

世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感からラ・グーマは『三根の縄』を書いた。62年から63年にかけてのことである。以来、4半世紀の歳月が流れたにも拘わらず、現状は基本的に何ら変わってはいない。

昨年の春に来日した、マンデラの同僚オリバー・タンボ現ANC議長は、63年モシで開かれた第3回アジア・アフリカ人民連帯会議で日本代表団に申し入れたと同趣旨の内容を日本各地の講演で訴えた。

今春開設された宮崎県立図書館に設けられた<国際コーナー>には、東京にある南アフリカ観光局 (South African Tourism Board) 寄贈の本や地図が並べられている。すばらしい「南アフリカ共和国」を強調する写真入りの美しい装丁で、20数年前にラ・グーマが雨のイメージを用いる動機となった政府の観光宣伝用と同じ類のものである。

84年から3年余り、記者としてヨハネルブルグに在駐した伊高浩昭氏は『南アフリカの内側』の中で次のように記している。

白人政府は1955年、ケープタウンを中心とするケープ西部の商工業地帯を、カラード雇用優先地域に指定した。雇用主は、カラード労働者を補充できない場合に限って黒人を雇うことが認められた。この地域での黒人用住宅の建設は同年、中止された。

それから20年後の70年代半ばには、20万人を越える家のない黒人たちがケープタウン郊外に住みついていた。この事実を背景にして、81年に「不法居住者」問題が改めて浮き彫りになった。

ケープタウンの東方20キロの荒地に、ダンボール、ナイロン、トタン、木の切れ端などで掘立小屋が立ちはじめた。小屋はキノコのように次々に現われ、いつしか荒地を埋め尽くしてしまった。81年7月のこと、荒れ地の名はンヤンガ。

『三根の縄』の中に描かれたスラム街の再現である。かつてラ・グーマによって描かれた世界が、現にそのまま南アフリカで繰り広げられているのだ。

ラ・グーマは次の1節で『三根の縄』を終える。

それから暫く、チャーリーは家の屋根や壁に激しくはね返る雨にじっと耳を傾けていた。そして、台所の方へ行き、止め金を引いて、戸を少し開けた。サッと風が吹き込み、雨がまともに顔に当たった。

チャーリー・ポールズはそこに佇んで降り頻る雨をながめていた。雨は地面をたたきつけていた。外の光は灰色をして、雨が心臓の鼓動のように絶え間なく降っていた。チャーリーが雨を見上げた時、驚いたことに、鳥が一羽、継ぎはぎだらけの小屋の屋根の間から、頭をまっすぐ、まっすぐにして、空の彼方めざして、突然飛び立って行った。

激しい雨のなか、大空に向かって鳥が飛び立つ印象的な締め括りは、チャーリーのその後の成長を暗に灰めかす。それは、極めて厳しい状況のなかでさえ、力を合わせて「三根の縄」の世界を築き上げれば必ず何とかなるさ、というラ・グーマ流の楽観から生み出されたものである。そこに絶望はない。

かつて「あなたにとって写実的表現とはどんな意味を持っていますか」と聞かれた時、ラ・グーマは次のように答えた。

自らの観点を投影する流儀を自分で選ぶ創作において、作家は好きならどんな手段でも選びます。私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです。その進展状況の中で写実的表現を見るべきです、写実的表現には原動力が含まれています、活力や様々な直接的反応とつながりがあります。写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こることをほのめかす必要性があります。その目的は人の心を打つことなのです。

すべての政治活動を禁じられても怯むことなく、マンデラやビコとは違った局面で、その理想のために、ラ・グーマは自らの命を燃やし続けた。

「三根の縄」の世界は、単なる南アフリカだけの問題ではない。国を越え、時代を越えて、ラ・グーマのその思いは「人の心」を打つ。

「三根の縄」の貴さを言葉にくるんで残していったラ・グーマ。私たちはその魂の叫びを引き継いで、後の世に伝えていきたい。

1988年10月19日

*昨年10月のウォルター・シスルらについで、本年(1990)2月に、ネルソン・マンデラは釈放されました。

「ネルソン・マンデラが釈放された日」と題して稿を改めたいと考えています。

リボニアの裁判については野間寛二郎氏の『差別と叛逆の原点』(理論社、1969年) に負うところが多く、記して感謝したいと思います。

<終>

(宮崎医科大学講師・アフリカ文学)

執筆年

1990年

収録・公開

(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」17号6-19ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②

1990~99年の執筆物

概要

1964年に出版されたラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord) の作品論の前編です。

1962年から1963年にかけて書かれた本書は、執筆の一部や出版の折衝などもケープタウン刑務所内で行なわれ、アパルトヘイト政権が崩壊するまで南アフリカ国内では発禁処分を受けていた作品です。

本稿では、作品論に入る前に、1964年のリボニアの裁判とラ・グーマがコラム欄を担当した週刊新聞「ニュー・エイジ」を軸にして当時の社会的状況とラ・グーマの身辺についてを論じています。

本文

鉄格子の中から

ラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord) は、1964年、東ベルリンのセブン・シィーズ社から出版された。

「何か」を提供して欲しいという同社の要請に応えたもので、出版できるかどうかさえわからなかった第1作とは異なり、ラ・グーマは今回、はっきりと出版を念頭に置いて本書を書いたことになる。

ラ・グーマが本書を書いたのは1962年から1963年にかけてである。執筆の一部や出版の折衝、契約などもローランドストリートのケープタウン刑務所内で行なわれているので、『三根の縄』は文字通り鉄格子の中から世に送り出された作品と言えるだろう。

1963年7月にラ・グーマは逮捕された。5年間の自宅拘禁を言い渡されて12月に釈放されるまでの5か月間、ケープタウン刑務所内の独房と雑居房に監禁され続けている。

伝記的な部分 (本誌9号) で既に触れたところもあるが、ここではリボニアの裁判と「ニュー・エイジ」を軸にして当時の社会的状況とラ・グーマの身辺をもう少し詳しく見ておきたいと思う。

 

リボニアの裁判・・・・・・1963年のラ・グーマの逮捕は、他155名と共に反逆罪に問われた1956年、フルウールト首相暗殺未遂事件後の1960年、共和国宣言反対のゼネストを指揮した1961年に次いで4度目であるが、今回は抗議のビラ作りをしてANC (アフリカ民族会議) の地下活動を助けた、というのが逮捕の理由だった。

1960年のシャープヴィルやランガの虐殺事件を境に、ANCは非暴力から武力による闘争へ政策の転換を余儀なくされていた。

1961年11月、ネルソン・マンデラなどのANC指導者によって地下武力抵抗組織ウムコント・ウェ・シズウェ (ズールー、コサ、スワジィから成る南西部バンツー人の言葉ングニ語で “民族の槍" の意) が創設され、12月には既に破壊活動が開始されていた。

1961年5月の共和国宣君に反対する在宅ストの指揮以来地下に潜入していたマンデラは、1962年1月に密出国を果たし、エチオピアでの会議に出席するほか、これからのゲリラ活動の準備や資金調達などのためにアフリカ各地を回ったのち、7月に密かに帰国した。

“民族の槍" が破壊活動を開始するや政府は直ちに一般法修正令を立案し、翌1962年6月に同法案を成立させて弾圧に乗り出した。

一般法修正令は俗に、破壊活動法 (サボタージュ・アクト) と呼ばれ、実質的にはそれまでの原住民法、共産主義弾圧法、非合法団体法などの諸法律をまとめて改悪したものである。その「破壊活動」の規定は、一般市民さえ容易に巻き込むほど広汎なうえ、起訴されて無罪が確定した後も同罪で繰り返し起訴できたり、18歳未満でも処刑し得るなど、通常では考えられないほど厳しいもので、それはまさに地下抵抗組織に対する白人側からの高圧的な挑戦状であった。

裏を返せば、破壊活動がそれほど白人政権に脅威を与えていた、ということになろう。

ラ・グーマが一切の言論、出版活動を禁じられて「ニュー・エイジ」の記者活動を断念せざるを得なかったのもこの法律による。

1962年6月の半ば、同法案が成立した直後のことである。

1962年8月5日、マンデラは逮捕された。マンデラ釈放委員会が組織され、抗議運動が展開されるなか、10月から11月にかけてプレトリアで裁判が実施された。

1952年以来、同僚のオリバー・タンボと弁議士事務所を開設していたマンデラは、弁護士の資格を利用して自らの弁護席に立った。

マンデラは、アフリカ人の基本的人権を否定する白人による裁判そのものが法の基本的精神に反して不当であり、白人だけの議会で決定された法律に従うべき義務は自分にないことを述べ、どのような判決が下されても、刑期が終了すれば再び、不正がなくなるまで闘い抜く決意を表明した。そして、自分はあくまで無罪であり、フルウールト政府のメンバーこそがこの被告席に立つべきだった、と述べて自らの弁護を終えた、

白人政府は、マンデラと “民族の槍" の関係を裁判で立証し得ず、結局、非合法の在宅ストを扇動した罪で禁固3年、密出国の罪で禁固2年、計禁固5年の判決を言い渡して、ケープタウン沖のロベン島にマンデラを送りこんだ。

破壊活動法を強行しても、マンデラを逮捕・拘禁しても、政府は解放運動の火を鎮めることができなかった。それどころか、マンデラヘの判決に抗議するかのように、11月以降破壊活動は激化の一途を辿った。

不穏な状況の続くなか、政府は一般法修正令を更に改悪した一般法再修正令を議会に提出し、1963年5月初めにはその新案を成立させた。新法では、受刑中の政治犯を刑期終了後も無期限に拘禁できるばかりか、共産主義弾圧法、破壊活動法などに触れる容疑者だけでなくその情報に少しでも係わりがあると思える個人なら誰でも逮捕状も裁判もなしに逮捕・拘禁できるという途方もない絶対権力を警察幹部に与えている。

名目上一応、1期を90日と規定しているところから「90日間無裁判拘禁法」と呼ばれ、被拘禁者は非道な独房拘禁で精神的に苦しめられたうえ、しばしば拷問にかけられて肉体的苦痛をも強いられた。

史上最悪の法律と激しく非難されても、少数派白人の体制を死守するために政府が敢えてその法律を発効させたのは、それほどまでに事態がさし迫っていたということである。

一般法再修正令が施行された2か月後の7月12日に、ヨハネスブルグ近郊のリボニアで “民族の槍" の最高司令部が急襲され、ウォルター・シィスルをはじめとする指導者たちが一斉に逮捕された。

逮捕の日から88日後の10月9日、追訴されたマンデラを含む11名の裁判、リボニアの裁判が開始された。

裁判は11か月余りに及んだが、被告全員が独房拘禁と訊問により憔悴しきっているという理由で、裁判が初日から延期されるという波瀾含みの幕開けとなった。被告側の陳述が開始されたのは翌年の4月20日からで、先ずマンデラが被告席に立った。証人席に立つのを拒み、不利を承知で被告席に立ったマンデラは、少年時代に故郷のトランスカイで長老たちから聞かされた古きよき時代の話を懐古したり、ANCの前身南アフリカ原住民民族会議以来の歴史を振り返りながら、ANCがこれまで如何に闘ってきたかを語った。更に、南アフリカの人々が強いられている惨状を冷静に分析しながら、なぜ武力による闘争を選ばなければならなかったのかを、とうとうと述べた。そして、5時間に渡る感動的な陳述を次の一節で締め括った。

 

今まで述べてきたように、私はこれまでの人生すべてをアフリカの人々の闘いに捧げてきました。私は白人支配とずっと闘ってきました。そして黒人支配とも闘ってきました。すべての人々が協調して、平等に機会を与えられて共存する民主的で自由な社会を私は理想としてきました。それは私がそのために生き、成し遂げたいと願う理想です。しかしながら、もし必要とあらば、私はその理想のために死ぬ覚悟ができています。

 

続いて証人席に立ったシィスル、アーメド・カトラダ、ゴバン・ムベキなども堂々とした陳述を行ない、「死ぬ覚悟ができています」というマンデラの決意が被告たちの心情をも代弁していることを裏づけた。

6月11日、被告のうちマンデラを含む8人に有罪宣告が出された。その夜被告たちと弁護団の協議が行なわれた時、マンデラは、死刑が宣告されても控訴せず、自分の死が闘っている人々を励ますことを願う、という声明を発表したい、と言った。そして、シィスルもムベキもマンデラのその主張に同意した。

6月12日、8名に終身刑が言い渡され、7人が直ちにロベン島に送られた。

それから4半世紀、昨年の11月にムベキは釈放されたが、マンデラは依然獄中にいる。この7月18日、マンデラは獄中で70歳の誕生日を迎えた。 8月に入って肺の具合が悪化、ケープタウンの病院に収容された、と日本でも報じられている。また、11月に英国の某新聞が、マンデラ紛争の包括和平のジュネーブ合意には、マンデラの5か月以内の釈放という条件もついていると伝えた、と報じられた。

ブライアン・バンティングは『三根の縄』のまえがきで、南アフリカの独房拘禁が1日23時間半に及ぶ空恐ろしいものであることを紹介している。その精神的苦痛は常人の想像を越える。南アフリカ共産党とANCの要員だったルス・ファースト女史 (日本でも公開されたイギリス映画「ワールド・アパート」のモデルで、1982年8月に手紙爆弾で殺されている) でさえ、1962年に拘禁され2回目の90日拘禁に入った時、ハンスト抗議のあと睡眠薬自殺を図った。その上、拘禁者には厳しい訊問と拷問の肉体的苦痛がある。

既に触れたように、リボニアの法廷に現われたマンデラは、88日間の独房拘禁と訊問で憔悴しきっていた。法廷で、同じ被告としてマンデラと再会したジェイムズ・カントーが、その変わり様にショックを受けた、と記しているほどである。

にもかかわらず、11か月余りの裁判の間じゅう、マンデラは終始朗らかに振舞い、他の被告たちを励まし続けただけでなく、最終判決の出る直前に、ロンドン大学に提出する学位論文を仕上げている。

1985年1月末、ボタ大統領が、武力闘争を放棄するなら釈放に応じる、と国会で声明を出したとき、マンデラはその条件つきの提案を拒んだ。そのメッセージは、10日後のソウェト大集会で次女ジンジーの口から5000人の聴衆に直接伝えられた。

マンデラのそのような孤高な足跡を辿りながら、私は「遠い夜明け」のドナルド・ウッズ役ケビン・クラインの短い眩きを思い出していた.

“・・・But・・・・Steve・・・Steve died for nothing・・・・・・"

亡命を決意したウッズが、砂浜に座りながら、しんみりと妻に語りかける言葉である。亡命に猛反対する妻は、あなたは自分を神様だと思ってるのッと詰ったが、結局は夫の思いに抗しきれなかった。

一生を棒に振っても、理想のために孤高に生きた若き友の死を犬死に終らせてはならない、そんなウッズの魂の叫びが、その短い言葉に集約されている。

もし必要とあらば、私はその理想のために死ぬ覚悟ができています、というマンデラの言葉も又、まさしくマンデラの人間としての魂の叫びに他ならなかった。

それにしても、と思うのである。

こんな気高い人たちを劣等視し、人間として扱わない白人政権とは一体何か。そして、その白人政権を陰で支え、豊かな富をよってたかって食いものにしながら繁栄する “先進国" の近代文明とは一体何か。

私たちは、ネルソン・マンデラのように、或いはスティーヴ・ビコのように、理想のために、何の報いも求めず、一生を棒に振ることができるか。

「ニュー・エイジ」・・・・・・8月上旬のラ・グーマ/ヘッド記念大会の前に、私はニューヨーク公立図書館ハーレム分館のションバーグセンターを訪れた。「ニュー・エイジ」のマイクロフィルムを見るためである。イギリスに現物があるのは知っていたが、マイクロフィルムがションバーグにあるのがわかって、今回もアメリカ回りでカナダ入りすることにした。

回り道はしてみるものである。途中立ち寄ったUCLA (カリフォルニア大学ロサンゼルス校) で、1959年から1962年の現物を見ることができた。アフリカ関係のこの種の資料を日本で手に入れるのは難しいので、私にはうれしかった。しかも、その現物の包みを、パスポートの提示だけで部屋の外に持ち出し、3年分余りのゼロックスコピーと写真を撮ることが出来たのだから尚更だった。日本ならとてもこうはいかない。

一部ずつ丁寧に見ながらコピーをしていると、新聞と新聞の間からポロリと落ちるものがあった。宛名書きの黄ばんだ紙の帯である。南アフリカの切手が貼られ、ケープタウンの消印が見える。当時、南アフリカから直接郵送されたものだ。

1959年から1962年と言えば、シャープヴィルの虐殺や共和国宣言などで、国内外とも大幅に揺れていた頃だ。白人政権への世界の非難の声が高まり、各国の経済制裁が始まりかけていた。日本政府は、火事場泥棒のように、南アフリカとの貿易を再開し、再び名誉白人の称号を受ける恥を晒していた。

そのころ、南半球南端のケープタウンの小さな新聞社から、北半球カリフォルニアの大学図書館に、毎週「ニュー・エイジ」が送り届けられていた・・・・・・しかも、その紙面には、ラ・グーマの写真入りのコラム欄が掲載されていた。そんな歴史のひと齣を、人知れず垣間見た気がして、妙にうれしかった。

「ニュー・エイジ」は、反政府の路線を貰いた「ガーディアン」「アドヴァンス」の流れをくむケープタウン発行の週刊新聞である。「ガーディアン」は37年2月19日に創刊されている。「ニュー・エイジ」は1954年10月に創刊されたが、1962年11月には廃刊と、その命は短かった。

「ニュー・エイジ」にラ・グーマが書いた記事やコラム欄は、質量ともにラ・グーマを理解する上で欠かせないものなので、詳しくは稿を改めることにして、ここでは本書『三根の縄』と他の創作活動や政治活動との係わりの中で少し紹介できたらと思う。

1955年、ラ・グーマは白人以外の購読者層の開拓を望んでいた「ニュー・エイジ」に記者として採用された。SACPO (南アフリカカラード人民会議) 議長としての人望と「ガーディアン」での文才が評価されたからである。

「『ニュー・エイジ』が仕事をしないかと言って来たとき、あれが本当に私が真剣になって書き始めた時です。たぶん必然的に、私は座り込んで、短篇を書いたんだと思います」 とラ・グーマが回想したように、結果的には「ニュー・エイジ」がラ・グーマの作家としての事実上の出発点となった。

1956年12月、反逆罪の名目で逮捕されて以来1960年の初めまでラ・グーマは一切の政治参加を禁じられた。実際には1957年4月にCPC(カラード人民会議、もとSACPO) の全国委員に選出されるなど、陰で活動を続けてはいたが、一応「ニュー・エイジ」が唯一の公の活動の場であった。

ラ・グーマが「わが街の奥で」を担当したのは、1957年から19622年にかけての5年間余りである。一部抜けているところもあるが、UCLA(カリフォルニア州立大学ロサンジェルス校)とションバーグセンターで調べた範囲では、コラム欄が200以上に及ぶ。(一覧参照)

 

コラム担当者がコラムを書くのは当り前だが、当時のラ・グーマの状況を考えれば、5年間殆んど休まずに書き続ける努力が如何に大変であったかがわかる。

1956年末に逮捕された時はすぐに釈放されたものの、実質的に1960年初めまで続いた裁判の期間中、ラ・グーマはヨハネスブルグに何度も足を運び、法廷の情報をケープタウンに持ち帰っている。

裁判なしに7か月間拘禁された1960年から、10日間の拘禁を受けた1961年の間でさえ、休んだのは僅か10数回で、70に近いコラムを寄せている。

逮捕、拘禁、政治参加の禁止ばかりではない、その間、ラ・グーマは経済面でも相当苦しい状態にあった。

裁判の期間中、投稿回数も自ずと減少し、その分給料も減っている。1956年には長男、1959年には次男も生まれており、経済的にはいつもぎりぎりで「家に食べ物が何もない日が何日もありました」と述懐するブランシ夫人が幼い子供を母親に預けて病院に働きに出ざるを得なかった。

精神的重圧もあった。1958年5月には、書斎で仕事中に銃で命を狙われている。幸い九死に一生を得たが、不安は終始つきまとった。

1961年には父を亡くしている。よき理解者であっただけにその精神的痛手も大きかった。

そのような中でのコラムの執筆である。又、1960年までに「練習曲」など5つの短篇と『夜の彷徨』を書き上げた。

1962年6月21日の「わが街の奥で」がラ・グーマの最終コラムとなった。翌週28日の第6面のコラム欄にはPROHIBITED (禁止さる) の斜めの太字が印刷された。「アレックス・ラ・グーマは集会参加を禁じられているので、残念だが一般法修正令により、本紙がラ・グーマのいかなる著作をも掲載するのはもはや許されなくなった」との説明書きが添えられている。

『我が街の奥で』の記事の数

[1957年5月7日(木)から1962年6月21日(木)まで]

年度    掲載   未確認   未掲載      合計

1957     31          2      -     33

1958     52          -     -     52

1959     39          7      6      52

1960     29          -            2     31

1961     39          2     11     52

1962     25          -     -     25

合計    215     11      19          245

政府が “民族の槍" の破壊活動鎮圧のために一般法修正令を急遽成立させた直後のことで、ラ・グーマにも直ちに魔の手が伸びてきたわけである。

8月9日の「ニュー・エイジ」には「ラ・グーマの処女作『夜の彷徨』破壊活動法により発禁」の大見出しと大きなラ・グーマの若き日の写真が見える。

1963年、今度は一般法再修正令、いわゆる90日間無裁判拘禁法の餌食となった。破壊活動法、マンデラの逮捕でも破壊活動の火を消せなかった政府は、ラ・グーマにも、ANC地下活動幣助の罪を着せて5か月間の拘禁を強行したのである。今回は妻ブランシも捕えられた。

破壊活動の激化へ募る政府の苛立ちが、拘禁者に容赦なく向けられた。ラ・グーマの刑務所での様子をバンティングは本書のまえがきの中で次のように描く。

刑務所でラ・グーマは独房拘禁の状態におかれた。1日23時間半独房に入れられ、残りの半時間だけを運動と自分自身のために使うことが許された。

他の拘禁者の場合と同じように、ラ・グーマは訪問者も読み書きも禁止され、弁護士に相談することも拒まれるという最も忌まわしい形の精神的拷問を受けなければならなかった。また、警察が満足するまで訊問され続ける可能性があった。

ラ・グーマは5か月間拘禁されたのち、マンデラが終身刑を言い渡される前年の1963年中に、24時間の自宅拘禁を命じられて、人々から全く隔離された状態におかれた。

『三根の縄』が書かれたのはこの頃である。

死を覚悟してマンデラが法廷で一国を相手に人間としての孤高な闘いを展開しているとき、一切の政治活動を禁じられたラ・グーマも又、拘禁、拷問を受けながら、全く違った局面で、マンデラに勝るとも劣らない孤高な、人間としての闘いを繰り広げていたのである。

そして、『三根の縄』が生まれた。                                   <続>

(宮崎医科大学講師・アフリカ文学)

執筆年

1990年

収録・公開

(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題)、「ゴンドワナ」16号14-20ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①

1990~99年の執筆物

概要

(概要・写真作成中)

本文

ミリアム・トラーディさんの宮崎講演

1989年8月6日 宮崎医科大学臨床講義室(105)

(講演の前の佐竹さんと私の挨拶・紹介は省きました。あとは講演会の順序どおりに並んでいます)

トラーディ この論文を読む前に、少しお話させていただきたいと思います。

私たち二人を日本にお招き下さる際にご助力いただいたすべての方々に対して深く感謝致します。ご想像できますように、南アフリカの黒人女性が日本に来ることができるというのは、画期的な出来事です。昨晩、私はとても思い出深い仏教的な行事(納涼花火大会のこと。コニーさんが、商店街の七夕の飾り付けを「仏教的な行事」とトラーディさんに説明したため)に参加することが出来ました。きっと忘れ難い出来事として、その思い出を南アフリカに持ち帰ることになるでしょう。皆さん方には、南アフリカでは、今現在も、違った形での行事(デモ行進のこと)が進行中であるということを覚えておいていただきたいと思います。

1956年に、私たち南アフリカの黒人女性は、何千人ものアフリカの女性は、パス法を女性にまで援用することに反対し、抗議するために、プレトリアの政府の官庁にデモ行進致しました。南アフリカじゅうから集まった女性がパス法に反対して抗議しましたが、パス法は南アフリカの女性にも適用されてしまいました。その結果、本当にたくさんの人たちがパス法の下で死んだり、苦しんだりしてきたのです。

ロベン島についてご存じの方もおありかと思います、多分ご存じだと思いますが。そこは、何世紀にもわたって、男性、女性を問わず、著名な私たちの指導者たちが、南アフリカの厳しい法律のために、監禁されたり、牢獄死してきた所です。

1948年以来、南アフリカのアフリカ人の人権は絶えずおびただしく侵害されてきました。そして、抗議に次ぐ抗議が繰り返され、私が南アフリカを離れるその日まで、プレトリアにデモ行進するに至りました。南アフリカでの人権のおびただしい侵害に反対して黒人女性は何度も立ち上がって、実際の行動としてあるいは心理面においても、抗議に出掛けました。皆さん方に、南アフリカの女性と連帯していただきたいと思いますのは、こういった感情からなのです。

「南アフリカの文学と政治」。それが今日の私のお話のタイトルですが、皆さん方には、南アフリカでは政治的でないことを語ろうとしても何も語れないということにお気付き願いたいのです。そして、私たちの国における政治は多くの人の意志に反して、少数の人間によって決定されています。南アフリカでは、黒人であるかぎり投票することは出来ません。自分たちの運命を決める人間を国会に送ることが出来ません。南アフリカでは人口のわずか10パーセントが90パーセントの運命を決定しているのです。

◎ 南アフリカの文学と政治

(中途まで。残りは質疑応答のあとに続きます)

書物や文学は知識の源泉であり、知識は力です。書物は歴史を変えてきました。偉大な作家や学者が皆、大の読書家であるのは周知の事実です。ジャーナリスト志望の学生たちが読むことにあまり関心を示さないのに不満を持つホレイス・クーンは、次のように尋ねました。

「もし現在何が起こっているのかを知りたいと思わなかったり、今何が起ころうとしているのか、自分たちの運命がこれからどうなるのか、或いは自分たちの生活が各国の事情や国家や国際的な政治とどのように密接に係わっているのかという真相を究明してみたいと思わないとしたら、一体どうして君達はこの世の中に生きているといえるのか。考えることを恐れているのだ。君らがあまりにも考えることをしないものだから、私は時々、ひょっとしたら君らには考えるべきことが何もないんじゃないかと思うことがあるよ」

クーンはどうしてそんなにたくさんの若者が自分の信ずべきものを懸命に探ろうとしないでいられるのか、その人たちがたくさんの本を読まずにいかにして自力で問題を解決するつもりなのかを疑問に思ったのです。

アーノルド・ベネットは次のように言います。「文学は付属品でなく、完全な生活を達成するための基本的な〈必須条件〉である・・・・文学の自由をまだ経験したことがないなら、人はいまだ胎児時代の眠りから醍めていないのと同じだ。その人はただ生まれていないというだけではない。見ることも、聞くことも出来ず、十分感じることも出来ない。単に食事をして食べることが出来るだけだ。文学の本当の働きを知り、文学の恩恵に与ってきた人たちには、実際には冬眠している熊とよく変わらないのに、自分たちは生きているという幻想を抱きながら生活している人があまりにもたくさんいることが、何より腹立たしく思えるのである」

私が自分の作品を通して何かを表現しようとする以前の段階で、信頼し得る情報源、つまり本当の人間の感情や願望、或いは愛情や欲求などを徹底的に究明していて、私がなじめる書物が全然ないのに不満を覚えていました。タウンシッフ(都市部の黒人居住地区)のいわゆる図書館の本棚には、黒人の子供を洗脳するためにアフリカーナーの学者が書いた本が並んでいました。私はエスキア・ムファーレレ、ルイス・ンコシ、アレックス・ラ・グーマ、ピーター・エイブラハムズ、ダニエル・クネーネ、デニス・ブルータス、アイ・ビー・タバタ、アルバート・ルツーリ、ネルソン・マンデラ、ロバート・ソブクウェのような作家の書いた本を探しましたが、どこにも見付けることは出来ませんでした。

南アフリカでは、いわゆる学校教育を受けた「原住民」や学者は危険な敵、競争相手と絶えずみなされてきました。そのような「原住民」がいると、何らかの理由で、特にいつも不安を感じる人々の集団が国民党員で、いわゆるアフリカーナーと呼ばれる多数派の人達でした。政権に就くずっと前からその人達は自らの胸に手をやり、挑戦状の中でも、とりわけアフリカ人の教育を先ず最初の達成目標にしようという誓いをたてたのです。1948年の普通選挙で勝利を収め、政権を握ると直ちにその人達は、アフリカ人を文学や普通教育に近付けないようにするためのありとあらゆる手段を考案しました。

国会の討論の場で、次のように語ったのは、当時農務大臣であったJ.N.ラ.ルー氏でした。

「非常に積極的な人もいるが、原住民には学校教育を授けるべきではない。もしそんなことをすれば、後になって、十分に学問的教育を受けたヨーロッパ人や非ヨーロッパ人という重荷を背負うことになる。そうしたらこの国の単純労働を一体誰がやるというのかね。学校に通う原住民に自分がこの国の労働者になる必要があると悟らせるように、我々が学校を管理すべきだとする見方に、私は大賛成である」

私たちの国が植民地化されて以来学校で教えられたり、ヨーロッパ人の歴史家によって書かれた「南アフリカ史」と呼ばれる文献は大抵、真実を反映していません。委託されたアフリカ人の手によって私たちの歴史が書き直されているのはそのためです。本当に長い問、私たちアフリカ人や他の第三世界の国々についての真実はおびただしく歪められてきました。ヨーロッパ人の学者や歴史家は、歴史だけでなく宗教や科学、それに文学や芸術分野でのアフリカ人の発達について多くを隠すために労苦を惜しみませんでした。私たちはこのような嘘を暴き出して、自分たちの肯定的なイメージや自尊心を取り戻すための本当の礎を築かなければなりません。アフリカ人の心の中からだけではなくて、もっとそれ以上に「大いに洗脳された」ボーア入たちの心の中からこれらすべての神話を払拭しなければなりません。

公法を研究するステレンボシュ大学教授ド・プレシ博上は、著書『ティン・パールスペクティヴァ』(『十の把握能力』)の中で、こう認めています。

「アフリカーナーは、未開の原住民とみなす者たちの唯一の統治者として、手に政治権力のこてを持って、自分たちだけで新しい南アフリカを作り始めました」

南アフリカのいわゆるアフリカーナーを自己崩壊から救済する必要があるのは明らかなので、ド・プレシ教授は「誤ったアフリカーナーの幻想中でも先ず取り除くべきだと思えるのは、その人達が南アフリカを支配し、なお支配し続ける権利を持っていると考えていることです」とうまく言いあてています。

教授は「そして今、80年代の終わりに、アフリカーナーとその政府は、自らの幻想状態から醒めて、裸のまま立っているのです」とも述べています。

(論文の残りは質疑応答のあとにつづく)

◎ 質疑応答

トラーディ このまま論文を読み進むべきかどうかずっと迷っていたんです。というのも時間があと一時間しか残っていないようですから。多分ゆっくりなら、この論文は読めるでしょうし。もし私が読めば、あともう一時間半はかかります。時間をもっと質問などに割いたほうがいいのではと考えていたんです。

参加者 提案してもいいですか。たぶんですね、この論文は皆さん家に帰ってから読めると思うんです。現在南アフリカがどんな状況に置かれているかについてあまり知りませんから、質問させていただけたらいいですね。皆さん方もトラーディさんの国についてとても関心があり、いろいろ知りたいでしょうから、もし質問させていただけるなら、その方がいいと思いますが。

トラーディ そうですね。あと一時間しか残っていませんから、そうする方がいいでしょうね。

佐竹 もっと具体的に質問を出して彼女に答えてもらいたい、なぜなら、今このぺーパーはみんなの手元にあるのだから、という意見が出たんですけれども。彼女もその方がいいとおっしゃっています。

玉田 いかがでしょうか。

参加者 賛成!(賛同の拍手)

トラーディ 南アフリカの生活について色々な観点からどんなご質問でも結構です。どうぞ。

参加者 二つ質問があります。一つ目ですが、日本へは、今回初めてですか。

トラーディ そうです。

参加者 どんな種類のビザを取られたのですか。ぶしつけな質問かもしれないと思うんですが。

トラーディ そうですね。ビザの種類を明かすべきかどうか私には分かりません。それは個人的な問題ですから。南アフリカの一黒人が日本の方々の助けなしに日本に来るのは容易ではありませんでしたし、不可能でした。関係者の方々は私たちがこちらに来るのを強く望まれて、日本の政府に働きかけて下さいました。それで観光者として来ることが出来たのです。

参加者 ビザを取るのに時間はかかりましたか。また、政府の役人からたくさん質問を受けましたか。

トラーディ ええ。二人ともたくさん質問されました。そして、ビザを取るのにとても時間がかかりました。例えば、どちらもプレトリアに行って、そこで日本の役人と会わなければなりませんでした。そうです、ヨハネスブルグからプレトリアまで行ったんですよ。

他にご質問は。はいどうぞ。

参加者 英語と母国語のソト語でお書きになっているというお話ですけれども、二つの言葉を使い分けるということには、何か政治的な意味があるんでしょうか。

トラーディ ええ、そうです。もし自分の好みでいきますと、出来ましたら自分自身の母国語で書きたいと思いますね。南ソト語かアフリカ語のどれかです。ご存じのように、言語は文化の一部で、もし別の言葉でものを書くとしたら、自分の文化を書くことにはなりません。お話しましたように、南アフリカではあらゆるものが政治的なのです。政治的な理由があるのかといえば、確かにあるのです。たくさんのアフリカ人の学者は英語で書くことにしなければなりませんでした。自分たちが昔から使っていた言葉でものを書こうとしたときには、既にずっと以前に、南アフリカ政府が出版やすべての権利を手中に収めていたので、アフリカ人がたとえどんなものを書いても必ず政府の手を経なければなりませんでした。従って、政府が認めない考えを述べるのは不可能でした。南アフリカの中で、アフリカの言葉でものを書いたり、作品を出版したり、白由に意見を述べるのは尚のこと不可能で、決してた易いことではありません。

ご存じのように、殆んどすべての出版社は白人の手の中にあります。出版は大変お金のかかる仕事で、アフリカ人でその費用が出せる人は殆んど、いえ誰もいません。南アフリカで黒人の出版社を設立したのはやっと一九八三年になってからでした。ですから、それ以来はじめて、政府が必ずしも認めていないものでもいくらかは出版出来るようになりました。

最初書き始めた時、私は英語で書きました。そして出版してもらおうとその作品をイギリス人の出版社に持ち込みました。私が南アフリカの白人の生活に合わない考えを言っているというので、作品は削られました。たくさん削られていました。この『メトロポリタン商会のミュリエル』のタイトルでさえ、初めに私がつけたタイトルではないのです。理由は、私が本を白人の出版社に持っていったからです。私自身では出版はかないません。あまりにもお金かかかり過ぎるからです。それが白人の出版社が私の本にしたことです。その本がやっと世に出たときには、わずかに半分だけでした。後に完全なかたちで海外で出版されて、南アフリカに届いた時、発禁処分となりました。それでお分かりのように、南アフリカで書くというのは極めて政治的な問題なのです。

参加者 もう一つよろしいですか。

トラーディ もちろんです。

参加者 検閲の具体的な例みたいなものを二、三でもお示し願えないでしょうか。

トラーディ 南アフリカの検閲制度について語れば、実際にはアパルトヘイトの制度全体を語ることになります。いわばアパルトヘイトは、南アフリカの黒人に対する検閲制度の形態なのです。

南アフリカでは、白人であるという理由で10パーセントの人々が自分たちの考えや信条を、黒人であるという理由で90パーセントの人々に無理やり押し付けていると私は言いました。つまり、アパルトヘイト制度全体が検閲制度だということです。

ここでは、南アフリカで書いたり、自由に意見を表現したり詳しく述べたりすることに関して、著作検閲に影響を及ぼす法律をいくつか読み上げるだけにしておきましょう。例えば「公共安全法」と呼ばれる法律がありますが、その法律ではいかなる方法であれ政府を批判したり、人々の敵意を煽りたてるような出版物はどんなものでも発禁処分に出来るという権限が法務大臣に与えられています。「バンツー政庁法」では、原住民と白人との間に敵意を煽ると思える目的で演説したり、行動したりする者はすべて有罪とする、となっています。アフリカ人居住区の飢餓や貧困状況や政治的騒乱についての記事を書いたジャーナリストがこの法律で提訴されてきました。また、「出版法」というのもあります。公共の道徳もしくは宗教的感情を害したり、住民間の関係を損なったり、国家の治安秩序を脅かすと法務大臣が判断するものが含まれる出版物はすべて、この法に従って、望ましからず、との判決が下され、結果的には発禁処分となります。「刑事訴訟法修正令」というのもあります。その法律には色々条項がありますが、なかでも、抗議の目的につながりがあると思われる郵便物を没収するという条文は効力を発揮しています。「刑事集会法」「刑事訴訟証拠法」のような、同種の色々な検閲法があります。「テロリズム法」もあります。

これらの法律はすべて解放運動家や、特に人々の著作を取り調べるためにありますが、なかでも最悪なのは、「バンツー教育法」で、精神的な検閲のために制定されたものとしては、もっともひどい法律として際立っています。お分かりのように、数えきれない程の検閲法があるんですね、もし読み上げていれば、丸一日はかかってしまうでしょう。ほんのさわりの所だけ、ご紹介させていただきました。

参加者 厳しい法律がたくさんあるというのは分かったんですけれども、例えば、ここにある小説の中で、実際に検閲されて、どういうものが削除されたのか、説明していただけませんか。具体的にですね。例えば、女性のどういう所を書いたらいけなくて、削られたのか、そしてまた、半分くらい削られたということですが、それで、小説として成り立つのかどうか、構成がですね。その辺を教えていただきたいと思います。

トラーディ そうですね、そのような本は発禁処分を受けるに違いないと考えたのは出版する側の問題だったのです、その人は出版をする人で、売って利益を上げたいと思うわけですから、本が売れるように工夫しようと考えます。当然その人は、南アフリカでの読者層と販売目標が主として白人の読者層だと知っていますから、その白人の読者層の感情を害さないようなやり方でその本を出したいと考えたわけです。

削られた後も、それで小説として成り立つかどうかがお知りになりたいということですが、そうですね、それでもなお、なんとか小説として成り立っていたと思いますね。実際、最初はそれをはねつけましたし、そのような形で出版されるのは嫌だと言いました。でも、最終的には自分の考えを表現する手立てが私には全くありませんでしたし、母も「先も長くないし、死んだらお前の本が出版されるのが見られまい。先方の言うように出版してもらったら」と言うものですから、私もそれに従いました、それから本が世に出たんです。削られた半分の箇所は、南アフリカの法律に関しては、法律を解釈した部分とか、黒人の感情について語った部分でした。

参加者 (『メトロポリタン商会のミュリエル』を見せながら)もう少し、この本の中で。

トラーディ 例えば、第一章。第一章の後半部分が削られました。私は南アフリカの背景、政治的な背景について語りました。例えば、私が次のように書いた時、すべてが削られました。

「南アフリカ共和国は二つの世界に分断された国である。一方は、すべて日頃の生活のために整えられた、豊かで、快適な白人の世界、完全なまでに武装された、恐怖の世界。他方は、惨めなほど疎外され、秩序を破壊され、声も出せず、抑圧され、落ち着きを失ない、混乱して、武器すら持たない黒人の世界、取り返しのつかぬほど、すべての『部族的な』絆を断ち切られて、変転する世界。」

参加者 他にどの部分が削られたのですか。

トラーディ (本をかざしながら)この部分全部が削られました。

参加者 その本は国内で発行されたものですか。

トラーディ そうです。あとでお見せしましょう。ほかの削られた部分をたくさんお見せ出来ると思いますよ。他の方にご質問の機会を譲ったほうがいいと思います。

他にご質問は。

参加者 私は一年ちょっと前に「クライ・フリーダム」(「遠い夜明け」)という映画を見ました。あれは確かスティーヴ・ビコさんの運動を主にしたお話で、南アフリカ人でいらっしゃる新聞記者のドナルド・ウッズさんとの友情の物語だったと思うんですけれども。さきほどのお話の中で、10パーセントの白人たちが90パーセントの人々の運命を支配しているんだとおっしゃいましたが、白人の中で事態を憂えて何か行動を起こす人たちは全くいないのかという疑問があるんですが。

トラーディ そうですね、いることはいますが、何せ比率が10対1でしょう。南アフリカの白人は色々恩恵に浴しています。自分達が特権を与えられる立場にいますから、白人は誰のためにも闘う必要がありません。これまでずっと、白人が快適で、豊かで、満足するように、現状がすべて整えられてきたのです。だから、白人は立ち上がらなくてもいいのです。ですから、本当に極く極くわずかで、5本の指で数えられます。黒人の権利のために立ち上がる人は殆んどいません。

最近になって、白人有権者の間で、黒人の抗議を取り上げようとしたり、黒人に近付こうとする動き、前よりも大きな動きが見られますが、それも国際的圧力やランド価値の低下、それに自国の経済不況によるものにしか過ぎません。多くは今の状態が自分達の非常に居心地のいい立場にどう係わってくるのかが心配だからというのが実状なんです。その人達は不安を感じているのです。極くわずかですが、黒人のために純粋に関心を示す白人もいるにはいましたが、お話しましたように、その数は本当に極めて少ないのです。

参加者 二つご質問したいと思います。

「バンツー教育法」について述べられましたが、黒人と特権を与えられた白人との間にはどのような教育制度の違いがあるのでしょうか。また、有能な黒人の学生が高等教育を受けるのは可能でしょうか。

トラーディ 要は違った教育制度があるということなのです。白人のための教育は、皆さんが多分この国で受けているような教育です。しかし南アフリカでは、申し上げましたように、国内の労働者として黒人を作り上げる必要があるだけだと白人達は言いました。ですから、白人のそのような教育は、そういう種類の人々、つまりただ国内の労働者になるしかない階層の人々を供給するために効率的に行なわれてきました。

(白人を頂点に、アジア人、カラード、黒人の順で存在する教育制度を示すピラミッド型を黒板に書いて説明しながら)

このような普通教育制度があります。これが普通教育です。アジア人の教育があります。カラードの教育があります。これですね。バンツー教育庁。アフリカ人はバンツーと言われています。四つの別々の教育庁。(ピラミッドをなぞりながら)教育はこのようになっています。(ピラミッドの一番上を指して)白人のための良い教育。(二番目の部分を指しながら)アジア人のためのすこし良い教育、皆さん方のような日本人やインド人などのようなアジア人ですね、時には名誉白人とみなされますが。そして教育はピラミッドの下の方へ行くに従って絶望的となっていきます。(一番下の部分を指して)下のこの部分がアフリカ人の教育です。南アフリカにはピラミッド、社会的なピラミッドがあります。白人がこの上で、それからアジア人、カラード、そしてアフリカ人。(白人の層を指し、ピラミッドをなぞりながら)そして、この人達だけが投票することが出来、基準賃金はこのように低下していきます。格付けやあらゆるものがこのように低くなっていき、ついにはアフリカ人と呼ばれる最下層の人々へと至ります。この人達だけに侵されない権利があり、残りの人口の90パーセントの人々は、アパルトヘイト政策によって不利な状態に置かれています。

例えば、仮にあなたが教師である場合について考えてみましょう。教師にも、白人の教師、アジア人の教師、カラードの教師、それにアフリカ人の教師がいます。給料の額は自分の属する人種グループに従って違います。また、どこに住むかも属する人種グループによって決まります。私が南アフリカで佐竹さんと一緒に住みたいと思っても、一緒に住むことは許可されません。もし仮に、佐竹さんが私と一緒に住みたいと思ってもそれは叶わないのです。皆さん方との場合なら、もっと事態は悪くなるでしょうし、白人との場合なら尚更のことです。

ほんの表面的なことだけに触れましたが、バンツー教育によって私たちアフリカ人にどういうことがなされてきたのかを正確に解説するとしたら丸一日はかかると思います。いずれにしても、バンツー教育というものが結果的に、ひとつの大抗議行動を引き起こす要因となりました。1976年のその抗議行動では、千人以上もの生徒たちの命が犠牲となりました。

他にもっとご質問は。

コニー (飛び入りで)皆さん、すみません。私の娘はおととしから日本の学校に行っています。私の娘は、国語、算数、そういうものを勉強しているけど、私の娘は社会も勉強している。社会の教科書の中に色々書いてありますね。郵便局とか、映画(館)とか、郵便屋さんは何をしているとか、時々娘を郵便局まで連れていって。公園も書いてありますね。色々のものが入っていて、シーソーとかジャングルジムとか、けど、黒人の教科書の中にはそういうものは絶対入っていない。なぜなら、ソウェトは大変大きいけれど、二百万人が住んでいるけど、There is no park. 子供たちの公園がない。There is no swimming pool there. というのは、黒人たちにそういう公園とか何かを見せたら、黒人たちもあそこへ行きたいと思うから。だから、出来れば、そういうことを見せないで、教えないで(と政府は考えている。)すみませんね。

トラーディ 他にご質問は。

参加者 日本だったら、小学校から大学まで日本語ですけど、ソト語ですか、マザーズ・ランギッジで本を書かれると言われたんですけど、読む人たちはソト語を学校で習うんでしょうか。学校での授業はソト語で行なわれているのですか。

トラーディ ええ、アフリカの言葉は教えられています。私がアフリカの言葉で書けるのもそのためです。今、英語とアフリカの言葉で書いていると申し上げましたが、私たちアフリカ人は選んでそうしているのです。今まで十分にご説明しましたように、アフリカ人が自分たちの言葉で書こうとすれば、政府は色々な権利を使って介入してきますので、私たちは仕方なく英語で書くことを選んでいるのです。

でも、もし私が英語で書かなければ、ここにはいませんし、皆さん方も私の考えがどんなものかお分かりにならないでしょうね。

アフリカ人にも、私が生まれたころからずっと自分たちの言葉で書いてきた人たちもいますが、誰も知りません。アフリカの言葉で書いてきた、という意味ですが。そして、そのような種類の文学を取り扱ってきたのが黒人だという理由でその人たちについては誰も知らないのです。

参加者 さっきから、母国語と英語のことが、非常に話題になっていますが、トラーディさんが多分英語でお書きになった一つに、今の母国の状況をたくさんの人に知ってほしいということがおありだったと思うんです。けれども、同時に、そうやって目覚めてきたたくさんの国内の人たちに、ソト語で書きたいという気持ちがすごくあるだろうと思うんですね。そのお気持ちで本をお書きになる中で、さっきから出ている字も書けない人たちのためにどういうことをお考えになっていらっしゃるのかをお聞きしたいと思います。

トラーディ ええ、そうですね。私たちにはいわゆる口承文学と呼ばれるものがあって、それは代々引き継がれてきています。例えばですね、南アフリカに関する映画をご覧になれば、何千という大衆が動員されているのがお分かりになると思います。私たちには大変豊かな口承の歴史がありましたから、何が起こったのかを伝達出来ましたし、今も伝達出来ているのです。私たちは代々、口承文学を引き継いできました。この種の情報伝達機構は政府の手によっても破壊されはしませんでした。

例えば、たくさんの詩人がいます。その人たちはタウンシップで非常に活躍し、いつも詩を通して言葉を伝えています。詩人たちは、誰かを埋葬したり、誰かが結婚したりする時などのような殆んどあらゆる儀式で詩を詠じます。詩人たちが口承文学を通して、言葉を、政治的な情報を伝えているというのがお分かりでしょう。

ご存じのように、例えば、南アフリカが白人の土地と呼ばれているのを知っている人達は、世界中でもごくわずかです。それは白人が私たちの祖先から土地を奪い取ったからです。私たちは土地にあくまでしがみついてはおれませんでした。そのためにみんなずーっとメイドやボーイのようなことをして来たのです。アフリカ人の多くは白人の家庭で働いています。ですから、たとえ学校に行っていなくても、特に英語は知っているのです。

他にご質問は。

参加者 極めて簡単な質問をしたいと思います。黒人と白人の間にはいつも対決があると思うんですが、問題を解決するために折り合うつもりのある人はいないのですか。

トラーディ そうですね、黒人はいつも切に願ってきましたし、またずっと白人に理解してもらおうと努めてきました、「いいですか、こんな状況の下では私たちは生きてはいけません。あなた方が土地を自分達のものだと如何に言い張っても、土地が私たちのものだったのははっきりしているのですよ」と。

しかし今、その人達はあまりにも権力を持ちすぎて独善的になっています。現在、南アフリカで何が起こっているかをご覧になればお分かりいただける、という意味ですが。本当にたくさんの人種差別法、犬以下の如くに黒人を取り扱う法律があります。そのような人達は、ナチのような人達はですね、自分達は他の民族を打ち滅ぼすために生まれてきていると信じています。そんな人達に考えさせるのはなま易しくはありませんし、そんな人達に、こんな法律でアフリカ人が苦しめられているのを十分解らせるのは容易なことではありません。白人の心の中にその効き目が表われるのは、国外からの経済制裁や国内の抗議行動、それにゲリラ戦などのような非常に大きな圧力があるからに他なりません。さもなければ、その人達を交渉の場に引きずり出すのは殆んど不可能でした。現在も尚、全世界はアパルトヘイトに抗議して立ち上がり、その人達を交渉の場に引きずり出そうと努力しています。

しかし、思い当たる節がおありだと思いますが、人間はいったん権力を手にして自分が強いと思い込んでしまうと、弱い立場にいる人の問題などは目に入らなくなってしまうんですね。

参加者 今、経済制裁の話があって、経済制裁のことをお聞きしたいんですけれども。日本の新聞で日本の企業がずいぶん南アフリカと貿易していると、ずっと前読んだことがありますけど、やっぱり日本の企業なんかに怒っていらっしゃるんでしょうか。それと、経済制裁は南アフリカの中に住んでいる黒人もやっぱり労働者だから、制裁を受けると、経済的にはあまり得なことはないと思うんですね。どっちかというと、解雇になる、それでも制裁はあった方がいいんでしょうか。

トラーディ もちろん必要です。黒人の窮状を白人に聞かせるにはどうしたらいいかみたいなことを述べてきたに過ぎません。しかし、それは私が日本にやってきて、南アフリカの問題で現状について皆さん方にああせよと指図したり、日本政府にこうせよと命令したりすることとは違います。私にそれは出来ません。南アフリカの人々のために何が出来るかを判断し自分で結論を導き出すのはあくまで日本人自身なのです。

私がここに来て皆さん方に何をすべきかを指図することなど、勿論出来ません。皆さん方はとても知的な人々です。日本は東洋でも、何世紀ものあいだ植民地化を免れてきた数少ない国です。何世紀にも渡って、自分たちの文化を傷つけられずに保ち続けてくることが出来ました。ですから、皆さん方が強く、逞しくて、他の人が困っているときにどうしたらいいかを考える際に必要とされるあらゆる資質を備えておられるのが、私にはよく解るのです。

私が怒っているか、ですか。いえ、怒ってはおりません。そうですね。私は自分の個人的な感情についてお話するためにここに来たのではありません。作家としてここにいて、南アフリカの黒人のお話をさせていただいているのです。私たちは本当に色々な点で制限されているんですね。従って、作家として見方は客観的でなければいけませんし、自分自身の個人的な感情を述べるのではなく、人々の一般的な感情についてお話しなければなりません。

他にもっとご質問は。

参加者 女性に関する情勢について質問したいんですけれども。というのは、黒人の人たちというのは、白人社会から一応労働力を搾取され、抑圧されています。そういう社会の中で、その人種差別以外に、女性であるということで同じ黒人の男の人達から抑圧されている、つまり黒人の女性は二重の意味で抑圧される立場にあるのかということをお尋ねしたいと思います。

トラーディ (黒板のピラミッド型の図を使って)南アフリカのピラミッド、社会的なピラミッドについて先程お話致しました。申し上げましたように、てっぺんのところに白人の主導権があり、白人の選挙民がいます。そして、男性が・・・・もし南アフリカのピラミッドをよくご覧になれば、この部分が更に別れているのにお気付きになります。

人々の、そうですね、教師の給料についてお話しましたね。白人の男性教師は白人の女性教師よりたくさん貰っています。同じことがアジア人の女性教師についても言えます。アジア人の女性教師は男性教師よりも貰うお金は少ないですね。いわゆるカラードも男性の方がたくさん貰っています。そしてピラミッドのこの一番底のところに、アフリカ人女性、私のような人間がいるのです。南アフリカ全体の構造のなかでも、最も卑しめられ、虐げられた人々です。黒人女性の権利や南アフリカの黒人女性の政治的な諸権利の侵害について私が取り扱わなければ、と考えますのはまさにこの部分なのです。それは全体に深く係わっており、その部分についてだけお話しても午後が丸々かかってしまいます。しかしここでは、黒人女性がピラミッドの最底辺におり、アフリカ人男性は南アフリカの黒人女性以上にある程度の権利を与えられてきたということ、更に、南アフリカのアフリカ人女性の状況には要求していかなければならないことが未だたくさん残されている、ということだけを皆さん方に知っていただくだけでよしと致しましよう。

例えば、書き始めた時のこと、原稿を仕上げて出版社にそれを持っていったんですが、その本の契約書にサインすることが私には出来ませんでした。理由は私がアフリカ人女性だったからです。現在の法律の下では、私には何の権利も、何の政治的な権利もありません。夫だけが契約書にサイン出来る人間だったのです。アフリカ人女性としては、いかなる権利も、いかなる契約の権利も私にはありません。

それだけではなく、家や土地、それに電話、家具、車などのようなものを購入することも私には出来ません。黒人女性であるという理由でそれができないのです。黒人のアフリカ人女性がこういう状況から這い上がり、はしごを昇っていくのは、殆んど不可能に近い仕事です。私が座って書けること自体奇跡だと考えている人が今でもたくさんいます。書き始めた時、私は小説を書いた初めての女性、南アフリカで小説を書いた初めてのアフリカ人女性でしたし、今日でもやはり唯一のアフリカ人女性です。もうすでに30年ほどにもなります。

佐竹 他にございませんか。

参加者 二年くらい前に、私は、南アフリカ出身のホワイトの人と話す機会があったんです。その時、その人は、私は彼の言うことが正しいのかどうかというのがよくわかんないのですけれども、南アフリカの土地というものはですね、三百年、四百年くらい前から、一応、白人によって支配されてきたというふうに言うんですね。確かにあそこの土地は、彼らが支配していた土地であるという考えですね。私がそれを聞いて思ったのは、要するに、白人というのは、彼等が自分達の土地だという意識を持っているような感じを受けたんです。そのような白人の意識というものが、果たして、南アフリカに対する共通の見方というふうに考えられますか。またそれに対して、黒人の方として、その土地自体の所有権について、歴史的にどのように見られるのかということをお聞きしたいのです。

トラーディ 大抵の白人が、土地を自分達のものだと信じているかどうかについてあなたはお知りになりたいんですね。そうです。白人達は確かにそう信じています。白人は自分達をヘレンボック、つまり選民と呼んでいます。そして自分達がヨーロッパから南アフリカに来て定住し、土地を自分達のものとして所有するために送り出されたのだと言います。アフリカーナーの、少数派のアフリカーナーの党綱領の前文をじっくり読めば、あの人達は神が南アフリカで自分達に土地を与えてくれたことに感謝しているのがわかります。

あなたはアフリカ人も同じように感じているかどうかをお知りになりたいのですね。もし南アフリカの歴史、本当の南アフリカの歴史をじっくり見れば、白人が南アフリカを植民地化し始めたずっとずっと昔から、侵入者に抵抗する戦争が本当にたくさんあったことがわかるでしょう。アフリカ人は侵入者と非常によく闘いましたが、その人達がすぐれた武器を使ったので、白人達がすぐれた武器を使ったので、打ち負かされてしまいます。ご存じのように、その人達は東洋の国々から火薬を手に入れ、それをとても巧みに南アフリカで使いました。そして、アフリカ人は武器がその人達のものより、白人達の武器よりすぐれていなかったために、自分たちの土地を失なってしまいます。アフリカ人は土地が自分たちから奪い取られたという事実をとても強く感じていますし、誰もがそれを残念に思っています。そして単にそこにとどまっているだけではなく、白人に抗議して立ち上がっているのです。それが、アフリカ人が永遠に土地を奪われている事実をどうしても受け入れようとしないで絶えずストライキを続けている理由なのです。それでお答えになりましたでしょうか。

参加者 その南アフリカの白人は、もちろんそれは彼の個人的な意見になりますから、全体の意見とは思いませんけれども、殆んどのいわゆるアフリカのブラックスも、彼らと同様に、イミグラントである、要するに、労働者としてイミグラントとしてもってこられたという意見を言われたんですが、それは正しいでしょうか。

トラーディ その人たちはどこから来たんですか。

参加者 ちょっとそのことについては・・・・。

トラーディ その人たちはヨーロッパから来たんですか。いつ?

コニー ちょっといいですか。多分あの方は、鉱山労働者のことを言っているんじゃないですか。

トラーディ 鉱山労働者は移民ではありません。その人たちはアフリカの出身です。その人たちがアフリカでどうして移民なんですかという意味ですが。その人たちはずっとそこにいたんです。ただ何が起こったのかといえば、南アフリカの産業が盛んになって近隣諸国から労働力が必要になったというだけなのです。私たちは何世紀もずっとそこにいたのです。

アフリカ人はもとからアフリカに、南アフリカにいたから侵入者と闘ったとお話しました。アフリカ人はいつもその人達と闘いました。ケーフタウンの近く辺りで始まったいわゆる「カフィル戦争」などがありますね。絶えず侵入者達と闘ったのです。白人達がやって来た最初から、黒人はそこにいたのです。来た時から黒人がいることを白人が知っていたというのに、いったいどうして黒人が移民だと言えるのですか。

参加者 玉田先生にお聞きしたいのですけれども・・・・あの・・・・。

トラーディ (コニーさんが黒板に書いた南アフリカの地図を使いながら)

この人たちがここにきたんですね。ヨーロッバから南アフリカに来たのです。その人達はスパイス等を手に入れるためにインドに向かう途中にここを通っていたのです。(喜望峰を指しながら)ここをよく通ったんですが、そのうちにここに新鮮な野菜などを補給する中継地が出来るとわかったんです。

(各州の境界をなぞりながら)この境界線でさえその人達自身がつけたものなんですね。それは私たちの境界線じゃありません。私たちの境界線はそんなところにありません。オレンジ自由州と呼ばれる州があります。また、いわゆるトランスヴァール州があります。それらはすべてあの人達の境界線なんですね。決して黒人の境界線じゃありません。それはあの人達のものです。その人達が境界線を作ったんです。黒人じゃありません。黒人に関する限り、アフリカじゅうに、ここ南アフリカじゅうに住んでいました。ずっとそこにいたのです。その境界線は白人の境界線です。ですから、その人達は、その人達、つまり白人はボツワナ、レソト、スワジランド出身の人たちを移民だとみなしているのです。私どもは移民だとはみません。その人たちが南アフリカ黒人の人口の一部だと私たちにはわかっているんです。「移民」自体もその人達の用語で、すべてたわごとです。

1913年、その人達だけで、白人だけの議会で、国を黒人と白人に分けることに決定しました。87バーセントが白人のもの、13パーセントが黒人のもの、と決めたんです。黒人に属する土地について自分達で勝手に決定したのです。この比率を見て下さい。そうです、土地の13パーセントを90パーセントに与え、87パーセントを10パーセントに与えると白人達は考えたのです。白人は非常に強力で、銃を使いますから何でも白人のものです、白人はずっとそうやってきました。でもそれは南アフリカの黒人とは何の関係もないのです。

参加者 要するに、私は、一人の人しか聞いてないので・・・・そういうような概念というのは、比較的白人の中では共通の捉え方なのかということなんですけどね。

玉田 そうです。共通の捉え方だと思います。結局、アパルトヘイト政策の根幹には、土地の問題が深く関わっています。その土地の問題について、1913年に、それまで実際に行なわれていた慣習を白人が一方的に法律で決めてしまったわけです。その辺のところについては、今日お配りした資料「アパルトヘイトの歴史と現状」(本誌14号に全文掲載)の中で、日本語でも書きましたし、それについては何冊かその中にあげている本を読んでいただいてもわかります。三冊くらいあげているんですが。「アパルトヘイト」がいわゆる土地政策だったというのがよく理解していただけると思うんです。

つまり、今、ミリアムさんが少し怒っていらっしゃるのは、そういう歴史的な背景は、みんなの共通の認識というか、少なくともここにきて、アフリカの文学、黒人文学について聞いてくれるという人に関しては、それくらいの歴史的な認識はあると思っていらっしゃったんじゃないでしょうか。だから、そんなふうに言われること自体に、又そういう質問が出ること自体に、やっぱり少し心外な感じをお持ちになったんじゃないでしようか。

そういう意味で、予め、日本語で書いた歴史をお届け出来たらよかったんですが、何しろ、決まったのが一週間程前でしたから、そこまでいかなかったんです。でも、今出版されているものを読んでも充分に分かります。ただし、白人の書いた、従来の、「伝統的」なヨーロッパの歴史を読むと、そうは書いていないんです。大分違うんですね。

もう一つだけいいでしょうか。今、白人が侵入してきて黒人が武器でやられたという話がありましたが、それに関して、イギリスが映画を作っているんです。「ズールー戦争」(ZULU)という映画ですが。それを見ると、野蛮人を銃で撃って征伐し手柄を立てる、それに対して女王様が褒美をやるという構図で、その戦争を賛美しているのが分かります。レンタルビデオでも借りられます。それがいわゆる白人側の伝統的なものの見方だと思うんです。その辺は、少なくとも、こういう所に聞きにこられる人にとっての共通認識だと考えられて、ミリアムさんはお話されたと思うんですね。昨日の晩も、色々お話していて、どういう層に対して話をするのかということになりました。最初は、南アフリカの作家のことですね、今日話に出ていたアレックス・ラ・グーマとか、50年代までに国内にいらっしゃった人とか、そういうことについてかなり詳しく、とおっしゃったんですが。たぶん一般の認識がまだそこまでいっていないのではということで、「アパルトヘイト」のことも含めてお話しようということになったんです。一般の方もたくさん来られるということで。

実を言いますと、今のような質問などが出てくるとは思ってなかったんです。

参加者 お疲れのところすみませんが、現在のアフリカの、お宅の国での宗教・・・・特にIndependent churchですか、独立教会というのがどのような役割を果たしているのかについてお尋ねしたい。

トラーディ 皆さん方のお手元にある今日の論文の原稿をご覧になりますと、例えば私が次のように述べているのがお分かりいただけると思います。「現在、南アフリカでは熱心に解放の神学を説いている新しい世代の聖職者たちがいます。」それが独立教会の取る立場です。2頁の一番最後のところで、カイロス・ドキュメントと南アフリカの抑圧に関してその人たちがどんな立場に立っているかについて述べてありますが、体制が聖職者に望んだやり方でなく、キリスト教の真の精神に立って聖書を解釈し直すことに、今教会は非常に積極的になっています。

玉田 最初、2時間くらいのつもりで会場を取りました。前後1時問の余裕をもって4時間とっていますが。実質的に1時間お話していただいて、あと1時間質疑応答の予定でした。既にかなり時間もまわっていますので、最後に少しだけ今回のことも含めて、宮崎における状況についてお話させていただいて、終わりたいと思います。もし個人的にどうしてもお話したいとおっしゃる方は残っていただいて結構です。5時ぐらいまで学校にいるつもりですから。

今回は最初にお話しましたように、僕の個人的な判断でお呼びしました。

僕は去年の4月にこちらに来て、まだあまり知り合いもいないものですから、どうしたものかと最初は迷ったんです。しかし、宮崎大学の方とか、ここの医科大生の人からも、僕が思っていた以上にいろいろご協力をいただきました。それから、今日そこにいらっしゃる川原さんにも新聞社とかいろいろまわっていただきました。報道関係も意外と反応がよく、殆んど取り扱って下さいました。当初、この会場は学生にということで借りていたんですが、急きょ一般の方にも公開するということになって、少しバタバタしました。

来ていただくだけで精一杯で、僕自身、まさか通訳までまわってくるとは思ってなかったので、少し慌てました。新聞社を回っているとき、一般の方に公開するんだったら通訳を、ということになったわけですが。まあ、宮崎に南アフリカの、特に文学者を迎えるというのは初めてでしたし、僕自身としては、どこでもいいんですけど、医科大学で、宮崎でこういうことをやっているというのを知ってもらえたらなあ、と考えました。ですから、たくさんの人が来られるということ自体はあまり期待していませんでした。大概、アパルトヘイト否(ノン)の美術展などがあっても、この前講演に行ったところでも、会場が広くてもあまり多くなかったですからね。どこでも、そんな状況でしたから、今日これほど来ていただけるとはまったく予想していませんでした。そういう意味では、お呼びしてよかったなあと思っています。最近特に日本にいろんな人が来る機会が多くなりましたから、その人たちをこちらに呼べる機会が持てたらいいなあ、そしてこれをひとつの機会に出来たら、と考えています。

今回は結果的に個人的な招待ということになりましたが、そういうやり方では長続きしませんから、次回はみんなで分担してやれたらいいなあ、と思っています。

今日お配りしたなかに、感想とか、お知りになった方法とかを聞く用紙があります。今後もし誰かをお呼びする場合、どういうふうにすれば来てくださるとか、どういうふうなことを望んでここに来られたとかがわかれば、僕の方でも少しは動けるんではないかなあという気がしていますので、是非お書きください。

おそらく、トラーディさんのほうは東京に戻られて、関西、広島と行かれる予定です。そこでは、今最後にあったような話ばかりになると思うんです。日本では、ですね。そういう意味で、最初はもっと気軽に、気軽にと言ったら叱られるかもしれないんですが、文学の話をしたいと、他の所では多分出来ないでしょうから。それで、最初文学の話を始められたんでしたが、こういう状況でしたので、僕の方としましても、最後のほうでバタバタとしまして申し訳ありませんでした。十分に準備も出来なかったうえ、不首尾なことが多かった点、深くお詫び致します。今度、こういう機会が持てましたら、もう少し準備してやりますから、その時は、是非ご協力をお願いしたいと思います。

では、最後に少しミリアムさんのほうから・・・・。

トラーディ 日本語なので、玉田さんのおっしゃることが殆んど分からなくて申し訳ないのですが、ここに招待していただき皆さんとお会い出来たうえ、皆さんから質問をお受けすることが出来たのを本当にうれしく思います。拙いやり方ではありましたが、南アフリカで私たちみんなが思っている考え方の幾分かでもお伝え出来たとしたら有り難いと存じます。

(参加者は立ち上がり、長い間の拍手)

玉田 (二人とも通訳出来ず、顔を見合わせながら)どうもすみません。僕も、最後ホッとしまして、聞いてるだけで申し訳ありませんでした。それでは、一応これで終わらせていただきます。

お話されたことについては、録音していますから、原稿を起こし、活字にして、もういっぺん考えていただけたらと考えています。かなりの作業になりそうなのですが、出来るかぎりやってみたいと思っています。出来上がりましたら、お送りしたいと思います。

どうも、今日は長いことありがとうございました。

(拍手)

トラーディ 南アフリカでは、解放に向けて闘いは続きます。アマンドラ!(権力は!)

コニー ガウェツゥ!(我らに!)

(拍手)

◎ 南アフリカの文学と政治

(論文のつづき。講演会で読まれなかった部分です)

南アフリカでは文学によって真実を見えなくする作業が、驚くほど広範囲にわたって行なわれてきました。1988年4月25日付けの「スター」紙の社説で、レヴェル・メイスン教授という人が1600年前のブルアダールスツゥルワァムの古代遺跡を再度埋めると脅迫していると、その驚きを述べています。この遺跡はかなりひどい状態で放置されたままになっていると言われています。

ローマ時代後期に、黒人の鉄や銅の鍛治職人がたくさんいたという事実が明らかになってしまうので今まで無視されてきたのではないかと邪推されてもおかしくありません。「過去を埋もれさせるな」という表題で、アフリカ人の指導者たちは次のように言っています。

「トランスヴァール州には、人類学上大切な王権を象徴する儀式用の遺物がたくさんあります。しかも、世界で最初に発見され、ダーウィンの正しさを裏付けた「欠けた環」(系統的に類人猿と人間の中間を繁ぐと考えられる仮想の動物)であるトーン頭骨のような宝物は南アフリカでは今まで一般に公開されることはありませんでした。そのトーン頭骨はニューヨークで大評判になりました」

このこと一つを取ってみても、自分達の誤った考えや他の人たちに抱いている恐怖を永遠のものにするために、白人達がどの程度のことまでやれるのかがはっきりと分かります。意図的に一民族を精神的に衰退させようとするいわゆるバンツー教育のような仕組みを制度化しようなどという考えを思い付くのは、野蛮人か歪んだ心の持ち主だけです。

いわゆるバンツー教育に抗議して若い詩人たちが国じゅうから集まって来ました。その詩人たちはドラムをたたき、亡命中の指導者や作家の詩をうたい、白分たち自身の詩をつくりました。普通の環境の中では書くのは殆んど不可能ですから、自分たちの衰え知らぬ抵抗を口承文学の詩に託してうたったのです。詩人たちは斃れた英雄たちの棺を墓所に運んで行きながら詩をつくりました。

南アフリカの解放運動のなかで、侵略時の宣教師の役割を忘れてはなりません。ヨーロッパ諸国から宣教師達がアフリカの大陸に渡来してきました。着いたとき、その人達は顔には聖職者の笑みを浮かべ、手には聖書(神の御言葉)を携えていました。行く先々で、本当の動機が侵略であることが明らかになりました。宣教師達は軍隊と土地掠奪者達のために道を拓きました。ヨーロッパの自分達の国の旗を立てました。そして元からそこに住んでいた人たちは土地を失ないました。

現在、南フリカでは熱心に解放の神学を説いている新しい世代の聖職者たちがいます。その聖職者たちは現存する秩序体系に異議を唱え、聖書を使って政治的な偽りを行なうという不信の行為を暴き出すところまでいっています。例えば、カイロス・ドキュメントには、以下のように述べられています。「民衆を抑圧する際に、国は再三再四、神の名前を利用している。軍専従の牧師達は南アフリカ国防軍を鼓舞するのに神の名を使い、警察付きの牧師達は宣伝活動の講演のなかで、警察官や閣僚を励ますために神の名を使う。しかし、なかでもその本性が最も如実に表われているのは、神の神聖な名前が冒涜的に使われている新アパルトヘイト憲法の前文である。

前文

『国々の命運や臣民の歴史を司り給う神、多くの地から我らの祖先を集め、この我らの土地を与え、世代から世代へと導き給うた神、我らの祖先を取り巻く危険から奇跡的に救い給うた全能なる神の御心に従って。』

ここには明らかに、侵入者の側に立ち、正当な持ち主から現実に土地を取り上げ、自分達を『選ばれた民』と考えるものにその土地を与える神が存在します。

今日のアフリカの神学者たちは「今直面している危機感によってこの神学に、その傲慢さに、そしてその含意や実用性に疑いを持たざるを得ないのです」と言っています。

南アフリカでは、あらゆる独裁政権下でもそうであるように、文学や知識に近付けさせまいとする政策と政治的な抑圧はいつも表裏一体で行なわれてきました。非常事態宣言、ジャーナリストや教師、生徒の拘禁、書物の発禁処分、マスコミの厳重な取り締まり、これらすべては、ものを自由に考えたり、いろいろな考えが広まるのを押さえる仕組みのかなめなのです。

私たちは自らの心を解き放つために本を読むのです。

私は小説を書くことで助けられ、アフリカの女性として存在しなければならない、残忍で惨憺たる状況から、感情的に、そして心理的に逃れることが出来ました。私は一所懸命に自らの運命を切り開き、問題を解決したいと願う登場人物を創作しました。そして実際、私はその人たちと一緒に生きてきました。そうすることによって、すべてを諦め従順で、そのうちのたいていはとっくにタオルを投げ込んでしまった、やたら腹立たしくてしゃくに障る親威の者たちと、私が辛うじて我慢してやっていけるということに気が付いたのです。時にはその者たちに他の人たちの闘いについての本を読んでやりました。そのことで、何世紀にもわたる抑圧から生まれた、次第に従うことに慣れさせられてしまうという麻痺感覚から、私自身解放されたのです。

執筆年

1990年

収録・公開

「ゴンドワナ」15号9-29ペイジ

ダウンロード

「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」(講演記録)(作成中)

1976~89年の執筆物

概要

 

アレックス・ラ・グーマ

本文(写真作業中)

アレックス・ラ・グーマ 人と作品5『夜の彷徨』下 -手法-

「ゴンドワナ」13号(1987)14~25ペイジ

たたかいの中で

繰り返し述べて来たように、ラ・グーマの作品はすべて、闘いのなかから生まれた。あらゆる人間があたりまえの人間として暮らして行ける統合民主国家を願うラ・グーマにとっては、政治闘争も、記者活動も、文学活動も、人間を取り戻す、同じレベルの闘いだった。

ただし、ラ・グーマが時の試練に耐え得るすぐれた文学作品を生み出し得たのは、セスゥル・エイブラハムズ氏も指摘するように (本誌10号18ペイジ)、ラ・グーマが文学的感性を備え、読者にメッセージを伝え得る文学手法を心得たすばらしい芸術家でもあったからである。ラ・グーマ自身が、政治闘争と創作活動の違いをはっきりと意識していたのは、次のインタビューからも窺える。

 

セスゥル・エイブラハムズ氏

- それでは、小説の中で表現しようとされている価値とは一体どんなものなのですか。

ラ・グーマ できる限りもったいぶらずに人びとの威厳、基本的な人間精神を表現したいと思っています。政治宣伝やうたい文句は避けなければいけません。私も政治的なかかわりはあります。作家活動でも政治活動でも、人の威厳を擁護してはいますが、2つは違った活動なのです。(本誌7号21ペイジ)

現実を見据え、現実に根ざした生き方をするラ・グーマの目には、社会の中の、歴史の中の、そして文学者としての自分の立場や役割が見えていた。「アパルトヘイト下の南アフリカの著作」の次の一節を読めば、様々な人々の努力にもかかわらず、アパルトヘイトの壁によって、本来文学が果たすべき役割を充分に果たしていない現状をしっかりと把握していたことがわかる。

南アフリカではどの作家も人生を平静に全体としてながめることは出来ない。作家は自分自身の経験から、見たり知ったりしたことを書けるだけである。しかも、それは全体像の一部でしかない。白人作家の中で、いままでに、リアルでしっかりとした黒人像を何とかでも創造しえたものはいないし、その逆もまたしかり、である。白人、黒人のどちらの側にも通用する黒人・白人関係を描出し得た白人作家も黒人作家も今のところ出てはいない。

ナディン・ゴーディマは微妙な、明快な語り口で、白人の自由主義者が黒人の世界を如何に見ているかを読者に語りかけるのに成功しているし、黒人が白人観察者の目にどう映るのかを正確に描き得てはいるが、黒人の体内に入り込んでそこから外側を見ることは出来ないのだ。同様に、ピーター・エイブラハムズの小説の中の白人は戯画的で、堅くてぎこちない。その白人たちは血肉の欠けた繰り人形のように唐突に、ぞんざいに喋ったり、振るまったりする。

アラン・ペイトンの『叫べ、愛する祖国よ』に登場する黒人牧師は、黒人の習慣を身につけてはいるが、一種の宗教的ミンストレルにでも登場しそうな、おセンチな善良白人である。アパルトヘイト社会では、そんな創作上の失敗はどうしても避けられないのである。(本誌9号33~34ペイジ)

アパルトヘイトと闘いながら、作家として自分が一体何をすべきなのかを、ラ・、グーマは肌で感じ取っていた。19661966年、ロンドンに亡命した直後、ロバート・セルマガから、「今のところ南アフリカではアパルトヘイトの壁によって大多数の作家が普遍的なものを描き得ていないのだから、多くの批評家たちが指摘するように、事態が解決されるまで、文学は一時中断させたままにしておくのが一番よいのではないか」と問われたとき、ラ・グーマは次のように答えている。

・・・・・・作家たちはいままで南アフリカ一般の状況を描こうと努めて来てはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られて来ませんでした。たとえば、カラード社会やインド人社会について多くは語られて来なかったと思います。そして人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても作家には果たさなければならない務めがあると思うのです。少なくとも、現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません、たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくとも。(本誌9号33ペイジ)

前号の「語り」の中で取り上げたマイケル・アドゥニスもウィリボーイも、作家としてラ・グーマが、先ず何よりも描きたい人物像、どうしても書かなければならない人物像だったのである。セルマガによる同じインタビューの中で、マイケル・アドゥニスについてラ・グーマは語る。

マイケル・アドゥニスを私は典型的なカラードの人物像にするように努めました。第6区で暮らしている間に、私はアドゥニスのような人物と遊びましたし、出会いもしました。人生に於けるその境遇のせいで、機会が与えられないせいで、そして自分の膚の色のせいで、全く発展的なものも望めず、何ら希望がかなえられることもなく、否応なしにマイケルのような状況に追いやられてしまう若い人たち-アドゥニスが本の中でやるような経験を個人的に私はしたことはありませんが、そんなことが私のまわりで行なわれるのを見て来ました。そのお蔭で、私はそういった人物像をた易く創り上げて書くことが出来ました。

 

ケープタウン第6区

黒人と白人の狭間で

そして、たたかいのさなかに、特にケープタウンという地に生まれ育った自分が最大限何をなし得るのかについてもラ・グーマは自分なりの答えを見出していた。

オランダ東インド会社の役人や船員たちが喜望峰に到着して以来何世代にもわたって黒人と白人との混交が行なわれて来たケープタウンでは、南アフリカの他の地域に比べて、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人との混血の人口が非常に多い。ラ・グーマ自身にもヨーロッパ人とアジア人の両方の血が流れており、著作では自らをカラード (Coloured) と呼ぶ。84年に政府が3人種体制が敷かれてからは自分たちへのカラードの呼称を嫌い、敢えて黒人 (Black) を使う傾向があることを本誌十号で紹介したが、その事実は「カラード」の置かれた微妙な立場を象徴していて興味深い。その人たちはインド系の人々と共に、人口比から見ても、圧倒的多数の黒人と少数派の白人の中間層に位置し、少数だが富をほしいままにして豊かな生活を楽しむ白人と貧しく抑圧され続ける多数派黒人との2つの大きな勢力の言わば狭間にいる。

しかも、ラ・グーマは、国民党が政権を握る以前の比較的締めつけの穏やかなときに少年時代を過ごしており、黒人とも同じ地域に住み、一緒に遊んだ経験がある。さらに、同じアフリカーンス語を話すオランダ系の白人アフリカーナーとも接する機会が多かった。つまり、ラ・グーマは、歴史的にも、社会的にも、厳しいアパルトヘイトの壁のわずかな隙間から、黒人の側も、白人の側も同時に、ほんの辛うじてではあるが、垣間見ることの出来る立場にいた、ということである。そして何より、ラ・グーマ自身がその立場をむしろ有利な地点と把えていたのは注目に値しよう。セルマガとのやり取りが私たちにそんな姿勢を伝えてくれる。

 

ケープタウン

セルマガ この本『夜の彷徨』は、南アフリカの事態が個人と、そして肉体的な意味ばかりか精神的な意味でも現在進展している事柄に影響を及ぼす状況をありのままに取り扱っています。同時に、あなたはアフリカーナー社会出身の警官のような人物像も描いています。今まで一緒に生活したことがないアフリカーナー警察官の人物像を創作したり、その人物像を実際あなたがなさっているようにリアルに個人に仕立て上げたりするのはどのくらいむずかしいとお考えですか。

ラ・グーマ そうですね。私は、ケープカラード社会がアフリカーナーや元々その土地に住んでいたアフリカ人たちの血が交っている人々から成り立っているというのは有利な点だと考えています。カラードの人たち自身の文化背景は大部分、アフリカーンス語と英語です。ですから、その観点からのむずかしさはさほど感じませんでした。

「『夜の彷徨』の舞台設定には何か特別重要な意味合いがあるのですか。」(本誌7号19ペイジ) と聞かれたとき、ラ・グーマは「まず何より第6区はよく知っている場所だということです。私はそこで生まれ、そこで暮らしました。しかし、同時に閉所恐怖を暗示し、抑圧的な雰囲気を醸し出したいとも考えました。」と答えたあと、「小説『夜の彷徨』では第6区のイメージ、第6区の雰囲気を創り出すことに努めました。そこで、その目的のために言葉を選び、文章を組み立てました。」(同20ペイジ) と付け加えた。

選び出した言葉で、組み立てた文章で、ラ・グーマはどんなイメージや雰囲気を創り出したのか。そして、それらのイメージや雰囲気から何を描き出しているのか。

シェイクスピア

イメージを創り出すのに、ラ・グーマは慣れ親しんだイギリス文学の古典、シェイクスピアを借用した。

エピグラフに用いたのはハムレット、である。

余はお前の亡き父の霊だ。

定めの時までは夜の闇をさまよい歩き、

昼は猛火につながれて断食の苛責に苦しみつつ、

ひたすら生前犯した罪業の

焼き浄めらるるを待つ身だ。

ウィリアム・シェイクスピア 『ハムレット』第1幕第5場(三神勲訳)

しかも、ラ・グーマはそのセリフを、落ちぶれ果てた末カラード人街に住むようになった白人アンクル・ダウティに朗唱させた。

アンクル・ダウティ かつては、イギリス、オーストラリア、南アフリカなどを巡業して回った元役者のアイルランド系老人で、カラードの妻はすでに亡く、年金の大半は安ワインに消える。世話してくれる者もなく、アル中に冒された痩せさらばえた体は、後はもう死を待つばかり、そんな設定である。

ケープタウンには、プア・ホワイトと呼ばれる人たちがたくさんいる。白人社会で、経済的に失敗したり、人種的考えを受け入れられなかったりするなど、何らかの形で白人社会からはじき出された末、カラー・ラインを越えて、カラード社会に流れて来た人たちである。大抵は、カラードの妻か愛人と一緒に移り住み、飲んだくれて荒んだ生活を送っていて、カラード社会から蔑みの目で見られる場合が多い。アンクル・ダウティもそんなひとりである。モデルとなったある老人を回想してラ・グーマは言う。

その人は元役者で、第6区の一室に住むようになったある老人です。その老人がある朝死んでいるところを大家のおかみさんに発見されました。そのことを私は物語の中の人物像の仕上げに使いました。実を言うと、その老人は私たちの親戚筋にあたります。母親の又従兄弟か何かで、他に行く所がなくなった末第6区に流れ着きました。その人は部屋を一部屋借りていました。いつも酔っ払っていた少しくずれた老人でしたが、特別に何かをしたわけではありません。ただそこにいたというだけなのです。そしてある日、老人は自分の部屋で死んでいるのを発見されました。

ラ・グーマはアンクル・ダウティに、先号の「語り」で書いた黒人が接し得る3番目の白人、つまり「落ちぶれ果てて黒人街に住むようになった白人」の役割を演じさせたのだが、実際には、それ以上の役割を担っている。ラ・グーマによって描き出されたダウティはハムレットの父親のように、まさに亡霊である。その現われ方はこうだ。

廊下の隅にある便所の戸が開いた。そしてひとりの男が宙を掻きむしるようにそこから出て来て、終始壁伝いに、木を切る鋸のような音を立て息を切らせながら、自分の部屋の方に向かって進み始めた。その男は年寄りで、足元がおぼつかなく、ずり下ったズボンのせいで進みにくそうだった。シャツがパジャマのようにズボンからだらりとはみ出していた。その老人はやっとの思いで息をしながら、大きな蟹のように、壁を伝ってゆっくりと進んだ。(21ペイジ)

ハムレットの父親の亡霊がわが子に語りかけて消えたように、ダウティはアドゥニスに『ハムレット』の一節を朗唱して、「そりゃ、わしら、わしらのことじゃ、まるで亡霊じゃよ、夜の闇をさまよい歩くことを運命づけられた、な。シェイクスピアじゃよ。」と眩きかけたあと、殺されて消える。実際に登場する時間は極めて短かいのだが、亡霊アンクル・ダウティは「夜」と「彷徨」の強烈なイメージを残して舞台を去って行く。

ラ・グーマが表題 (A Walk in the Night) に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk) のイメージは、幾重にも交錯しながら物語全体をおおい、ラ・グーマが意図したように、舞台となったケープタウン第6区の「抑圧的な雰囲気」を見事に醸し出して行く。

 

A Walk in the Night(ノースウェスタン大学版)

「夜」の象徴性

亡霊のさまよう「夜」(night) は闇 (darkness) あるいは暗黒 (blackness) を連想させ、物語全体を通して二つのことがらを象徴的に浮かびあがらせる。一つは第6区の劣悪な環境である。もう一つは警察国家である。

劣悪な環境は目に見えてわかる現象であるが、その現象を生み出した最大の原因はアパルトヘイト体制である。南アフリカの国土はさほど広くはないが、金、ダイヤモンドをはじめ鉱物資源も豊かで自然も美しい。その豊かな富が平等に分配されていれば、そんな現象が表面化することはない。

片方には、機上からでも一軒のプールが識別出来る程の豪邸に住み、何人ものメイドを抱えて優雅な生活をしている少数派の白人たちがいる。その人たちの生活が優雅であればあるほど、言い換えれば、富が一方に片寄れば片寄るほど、搾取される多数派のアフリカ人はそれだけよけいに、惨めな生活を強いられることになる。

体制側にいる白人たちは自分たちの優雅な生活を守るために、黒人に土地は譲り渡したくないし、安価な労働力も手放せない。その結果、大都市やその近辺には数々のアフリカ人居住地区、カラード居住地区が生まれた。ケープタウンの第6区も古くからあるカラード居住区である。老朽化した住宅ばかり、もちろん廃水施設も充分でない。それらの街は、おきまりの穢ない、騒々しい、臭いスラムを形成する。職のない若者たちが昼間から街角にたむろする。犯罪の数も増え、無法者がまかり通る。アドゥニスの殺人も、ちんぴら仲間フォクシィたちのもくろむ強盗も、おそらく極くありふれた日常の、ほんの街角のひとコマに過ぎないのだ。

全編を通してラ・グーマは、その環境のひどさを物語の背後に見え隠れさせているが、殺人の舞台となったアドゥニスやダウティの住むアパートの様子を一部次のように描く。

アパートの床には埃がすぐに溜った。すり切れてそげ立った廊下を住人たちが泥靴を引きずって歩いたあとには、両側の小さな床板の隆起に沿って、埃の小さな土手が出来た。あるいは水がこぼれたり誰かが小便をしたりすると、濡れた箇所が残り、天井や服の縫目から出た埃が宙に舞ってそこに集まり、乾いたときには黒ずんだしみが残る。こぼれ落ちたパンくずや油脂などが踏みつけられて広がると、見えないほど細かい粒となり漂っている埃を吸い寄せた。床板のそり上がったところ、うまくかみ合っていない継ぎ目の突き出たところ、ビクトリア朝しっくいの花飾りや浮彫り細工のあるところ、雨で湿ってふやけたあと次は熱気で乾いてひびの入ったモルタル、すべてが埃を吸い寄せるもとになった。そして湿ってくると腐ったところでは忌まわしい生命が生まれ、細菌がつき、黴が生える。暑くなったり風通しが悪くなるとものが腐り始める。そして、かつては丸ごとあったものや新しかったものが萎びたり腐ったりした。その腐った嫌なにおいが貧しい人たちのアパートじゅうに広がっていた。

隅っこの暗がりやこちらからは見えないが割れ目になっている所では、暑くてにおいがひどくなったり、湿って滑りやすくなる頃には、ダニに南京虫、蛆虫になめくじ、光沢のあるこげ茶色の堅い羽のごきぶり、細い足で死をもたらす小さな灰色の怪物のような蜘蛛、爪や毛に病気を宿し、埃をかぶったような黒い目をした鼠たちが怪しげに動き回っていた。(33~34ペイジ)

そして、ラ・グーマは殺人現場となったアパートの一室、アンクル・ダウティの部屋の様子をも詳しく描き出す。

その老人は少し酔っており、安ワインと汗、それに吐いたにおいを漂わせ、吐く息もくさかった。

部屋は開けたばかりの墓のように暑くむっとしており、片方の壁側には鉄製のベッドが置いてあり、洗たくされていないシーツがかけられていた。その隣には、テーブルとして使う背もたれのない椅子が一つあって、上には吸い殻とマッチの燃えかすで一杯になった欠けた灰皿と強い赤ワインの滓がべっとりついたグラスが一個載っていた。部屋の隅には、壊れかけの戸棚があり、ひびが入り蝿の足跡で汚れた鏡が掛かっていた。戸棚には手埃のついた本が少し積んであり、上に埃が積っていた。別の方の隅っこには、ワインの空瓶が何本もボーリングのピンのように転がっていた。(22ペイジ)

終章の第19章でラ・グーマは、物語の締めくくりに、主な登場人物の真夜中すぎの様子をそれぞれ少しずつ紹介するが、その中に、今は主人亡きアンクル・ダウティの部屋の様子に触れる次の件がある。

暗い部屋の幅木の下の割れ目から、ごきぶりが一匹、用心深そうに現われ、細い髪の毛のような触角をあちこちに振りながら障害物はないかと暗闇の中を探っていた。障害物が何もないのがわかると、ごきぶりは関節で直角に折れ曲った脚で前に進み、床を横切り、床板のはしがそり返ったところを越えた。それからごきぶりは何かねばねばするものに出くわした。それは殺された老人の部屋にこぼれた酒と吐物の混った味がした。その老人の死体はとっくに運び出されており、部屋は警官によって鍵がかけられていた。そして今、部屋にはごきぶりだけがいて、そこには腐敗と死の臭いが漂っていた。ごきぶりはねばねばしたところで暫く立ち止っていたが、どこかで床がきーっとなると、かさかさと小さな音を立てて慌てて逃げていった。しばらくして部屋が再び静かになると、ごきぶりはまた戻って来て貧り食い始めた。(89ペイジ)

アフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトが『ネイティヴ・サン』(1940) を書いたとき、シカゴの黒人居住地区サウス・サイドの環境のひどさを象徴的に表現するために、冒頭部に鼠を登場させた。ライトは、異常に繁殖した鼠が我が物顔に街中を走り回るのを見て、黒人の赤ん坊が就寝中にかみ殺された、という新聞記事を思い出し、鼠を冒頭部に使うことにしたらしい。作品では、登場するとすぐに主人公の黒人青年ビガー・トーマスの手で殺されごみ箱に捨てられてしまうのだが、丸々と太った鼠は狭く、騒々しく、穢ないキチンネットと呼ばれる部屋の、ひいてはサウス・サイド全体の劣悪な環境のイメージを、強烈にまず読者に植えつける役割を演じていた。

 

『ネイティヴ・サン』(1940)

そして、鼠を殺すまでの家族のどたばた劇はこれから始まる慌ただしく騒々しい大事件を暗示していた。

さらに、殺されて厄介ものとしてごみ箱に捨てられた鼠は、死刑を言い渡されてアメリカ社会の厄介者として社会から葬りさられるビガー・トーマスの運命をも暗喩していた。

 

黒人居住地区サウス・サイドのアパート(『1200万の黒人の声』1941年

 ライトの描いた鼠のように、暗闇の中で、アンクル・ダウティの死体から流れ出た血とアドゥニスの吐物を貧るごきぶりは第6区の劣悪な環境を象徴して余りある。この場合、「夜」のイメージから抽き出された闇(darkness)のイメージは、穢なさ、むさくるしさ (dirtiness, sordidness) から忌まわしさ (disgust) にまで広がって行く。

さらに、終章で物語の締めくくりに描き出されたごきぶりの存在は、アパルトヘイト体制が続く限り穢ない暗がりの中で生きることを余儀なくされる黒人たちの運命をも暗喩している。

劣悪な環境のテーマは次作『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に)にひきつがれ、さらに克明な形で描かれることになる。

 

『まして束ねし縄なれば』

警察国家は「夜」のイメージが象徴的に引き出すもう一つのことがらで、暗黒 (blackness)を連想させる。特に取り上げたちんぴらとの係わりの中でラ・グーマは、先の「劣悪な環境」よりむしろ、この「警察国家」に力点を置いている。

優雅な生活を守るアパルトヘイト体制を維持するために取らざるを得ない形態、それが警察国家である。一人一票制を認めれば体制は崩れ、今のような優雅な生活はない、そんな危惧をぬぐえない白人たちは、不合理を百も承知で力の制圧を強行する。遠くはシャープヴィル、ランガの虐殺、ソウェトの暴動、近くはベンジャミン・モロイセ氏の処刑など、歴史がそれを裏づける。誰でも理由なく逮捕でき、無期限に拘束できるという何とも理不尽な非常事態宣言が今も続いている。デモに参加する黒人たちに容赦なくシャンボック鞭を振るう警官の姿は、海を越えて日本にも映像として伝わって来ている。

南アフリカの黒人が日常生活の中でどれほど警察と深く係わっているかをセスゥル・エイブラハムズ氏とのインタビューの中でラ・グーマは語る。

私たちは南アフリカでいつも警察と背中合わせで生きています。黒人たちは絶えず警察に苦しめられています。パス法でなければ、酔払っているとか、他の社会的問題などによってです。統計を見れば、囚人人ロの多さでは南アフリカが世界でも指折りの国だというのがわかります。南アフリカの黒人たちの生活で警察は大きな役割を演じています。ですから、私が作品の中で係わるように、社会問題に係わろうとすれば誰でも、警察を抜きに考えることは出来ません。私の作品に警察のことがよく出てくるのも結局は、私が意図したというよりはむしろ、避けられないから、ということになると思います。

 

セスゥル・エイブラハムズ氏

 ラ・グーマは体制のそんな担い手の典型としてアフリカーナー白人警官ラアルトにその役割を凝縮させた。

ラアルトはウィリボーイが血を流して苦しんでいるのに、救急車を呼ぼうとする部下を制して、警察署行きを命じた。しかも、署に戻る途中で、切れたタバコを求めてポルトガル人の経営するコーヒーショップに寄り道をしている。急かせる部下には「なあに、時間はたっぷりあるさ。あの野郎はまだ死にかけちゃいねえよ。ここの連中はしぶといのさ。おい、あの店んとこで止めてくれよ。」と言って車を止めさせた。

『遠い夜明け』の中で、脳損傷の兆候が出ているからすぐ病院に、という医師の勧めを無視して、はるかかなたのプレトリア中央刑務所に護送せよ、の命令を下した構図と同じである。(本誌11号27ペイジ)

 

『遠い夜明け』

 ラアルトのウィリボーイを追いつめる執念は異常だった。大騒ぎする群衆に目もくれなかった。発砲を制止する同僚の声も届かなかった。ウィリボーイが隠れて見えなくなったときも、そんな遠くには行っていない、必ず近くに潜んでいるさ、と動じる気配も見せなかった。屋根の上にウィリボーイの気配を感じたとき、ラアルトは貯水タンクの陰で、待った。屋根から飛び降りて足を痛めたウィリボーイが追いつめられてナイフを抜いた時、ラアルトは至近距離からウィリボーイを撃ち倒した。容赦はなかった。まさに獲物を追い詰めるハンター、だった。

ラアルトの異常な行動をみて、アフリカ系アメリカ人のあるリンチ場面を思い出した。うなだれて木に吊るされた黒人を十数人の白人たちがながめている姿が写真には写し出されていた。目の光り方が異様だ。白人たちは、黒人のリンチを見物に、まるでピクニックにでも出かけるように、女子供を連れて出かけた、という。その人たちは、見せしめに黒人をなぶり殺しにすることをむしろ楽しんでいる、そんな風に映る。

ラアルトの場合も捕物をむしろ楽しんでいる風だった。妻との不仲で心が晴れなかった故もあるが、相方の若者アンドリースが「今夜はいやに静かですね。」と言ったとき「静かだな、何か起こってくれりゃいいが。ブッシュマン野郎の汚ねえ首に手をかけてこの手で締め殺してやりてえよ。」と吐き捨てるように答えている。

ラ・グーマは「あなたの使う隠喩的表現には、人間的なものを非人問的なものに同化してしまう傾向があります。ただの叙述的描写のためですか、それとも何か特別な意味を表わすためですか。」と聞かれた時、「私の場合、小説の中では人間らしさを失なった白人を扱っています。ただし、個人的に非人間的な感情はありません。私はまた、肉体的にも精神的にも疎外の問題を取り扱っています。」(本誌7号20ペイジ) と答えている。

「非人間的」ラアルトは、無防備の群衆に向けて無差別に発砲をしたシャープヴィルの警官をほうふつさせる。又、無邪気な少年を撃ち殺したソウェトの一場面を思い出させる。『アモク!』や『遠い夜明け』の映像で再現されたシーンが強烈に目に焼きついているだけに、その思いは強い。

警察国家、官憲の横暴のテーマは『三根の縄』に一部分引き継がれ、第3作『石の国』で刑務所を舞台に、真正面から取り扱われることになる。

「彷徨」の象徴性

亡霊アンクル・ダウティはまた、「彷徨」のイメージを残して去って行く。

サミン氏が「あなたの小説、ことに『夜の彷徨』と『季節終わりの霧の中で』では、登場人物がよく場所を変えて動きます。そこにはどんな意図があるのですか。」と尋ねたとき、ラ・グーマはその意図について語る。

私はただ南アフリカの人々の経験を語りたいのです。選択の余地はありません。人は自らの労働力の切り売りを余儀なくされます。アフリカ人は決してひとところに落ち着くことは出来ません。その場面で他の人物を紹介し、隠された、最下層の南アフリカの姿を示すのもひとつの文学上の手法なのです。細かな部分では自伝的なところもあります。(本誌7号20ペイジ)

3人の主な登場人物は絶えず場所を変えて動く。

アドゥニスは、バスを降りて先ず安レストランに寄り、食事を済ませたあと居酒屋に立ち寄る。それからアパートに戻り、殺人を犯してしまう。事件の後、部屋に居ることが出来ずインド人のコーヒーショップに出かけ、最後は「ジョリー」の店で、とうとうチンピラ仲間に加わってしまう。

ウィリボーイは、安レストランでアドゥニスに会ったあと、暫く街を歩き、金の無心にアドゥニスを尋ねて事件に巻き込まれる。慌ててとび出したウィリボーイは、裏通りからジプシーのシビーン(もぐり居酒屋)に行くが、口論の末たたき出されてしまう。そして暗がりを歩いているときラアルトに発見されて逃げ回ることになる。

ラアルトは、パトロール中にジョリーの店により店主から5ポンド巻き上げ再びパトロールを続ける。そして、ダウティの殺人騒動に出くわし、死体の確認を終えてパトロールに戻った時、ウィリボーイを発見する。それから、追い詰めて仕留めたウィリボーイを警察署に護送中に、既に書いたように煙草を求めてレストランに立ち寄る。

ラ・グーマは「彷徨」のイメージについて更に詳しくエイブラハムズ氏に語る。

私がこの本のタイトルを『夜の彷徨』にした理由の一つは、カラード社会では所詮南アフリカの人種差別に反対する闘争と関連した形でしか人は自分たちの存在を見出せない、ということがいつも心の中にあったからだと思います。その人たちは、さまよい、耐え忍び続けていました。そして、自分たちが貢献する社会の一市民として受け入れられ、一市民であると自認出来るようになるまで、こうして夜の闇をさまよい続けていました。私は、光を見つけ出そうと、夜明けを見ようと、そして何か新しいもの、何か自分たちの限定された社会での経験を越えたものを見ようともがき続ける人物像を創り出そうと努めました。

3人の他にもう一人ジョーという、「彷徨」のイメージを備えた人物が居る。ジョーはアウトローを決め込んだタイプの人間ではあるが、ウィリボーイのように街にたむろして悪事をたくらむちんぴらではない。人畜無害で、岸壁辺りで漁師や釣人たちが捨てていく魚介類を漁って何とか生き延びている浮浪者である。しかし、腹をすかしている自分に、夕食でもとわずかな金を与えてくれるアドゥニスのやさしさを理解する心を持ち合わせている。その証拠に、インド人のコーヒーショップで会ったアドゥニスがちんぴら仲間と親しげに接するのを見て、あとからわざわざ追いかけてきて、あいつらの仲間には入るな、とアドゥニスに渾身の説得をする。

たぶんあんたは大変な問題をかかえこんでいるんだろう。僕なんかよりでっかいのを。僕が言ったように、誰にもみな悩みはあるよ。でもああいう連中は誰もあんたの悩みの手助けなんかになってくれたりはしない。なぜって、あいつら自身がたくさん問題を抱えているからだよ。あんたは悩みを一つ増やすだけだよ。どう言っていいかわからないけど、問題から逃げても、又別の問題が起こる。あの連中のように。あいつら、はじめに起こすのは小さな問題だけど、それから逃げて、又別の問題をおこす、結果的には問題を増やしながら絶えず逃げてばかりいる。全く、わからないよ。(64ペイジ)

ジョーは、言いたいことが喉のところまで出かけていたが、なかなか出て来なかった。うまく言葉にならなかったのである。

アドゥニスの方は、心の中ではジョーの言うことがわかりすぎるくらいわかってはいたが、出て来た言葉は「おまえさんに一体どんな悩みがあるってんだい。」という反発だった。そして「お前さんの家族はどうなってんだい」と問い返す。

ジョーは、自分たちを捨てていった父親や家族のことを話し始める。

僕にはわからないが、たぶん父親にもたくさん悩みがあったんだろう。父親には仕事がなかった。長いこと仕事からあぶれてた、だから食べるものがなかったことが多かったよ。僕と弟マティは朝になると古くなったパン切れをもらいに家々をまわったもんだよ。昨晩のおかずをもらうこともあった。でも家族みんなには到底足りなかった。年老いた母親は食物に決して手を出そうとはしなかったよ。大抵は食物を小さいもの同士でわけて食べた。また、家賃も払えなかった。しばらくして母親は、出て行けという手紙を受け取った。家主は何通も手紙を送って来た。どの手紙にも、きれいに出て行けと書いてあった。それから何人かが紙切れを一枚持って部屋まで入って来て家具を輔道に全部積み上げてからドアに鍵をかけて行ってしまった。もしまた部屋に入ったら、ぶちこんでやるぞと言ったよ。(65ペイジ)

ジョーは更に続けて言う。

年老いた母親は、メアリ、アイザック、マティ、それに僕と一緒に積み上げられた家具のそばにただ座って、泣いた。それから暫くして言ったよ、結局、田舎に戻ってばあちゃんと一緒に暮らすしかないね。中古屋に家具を売って、みんなは戻ったよ。」(65ペイジ)

ジョーは、しかし、母親について戻らなかった。幼な心に、田舎に戻ることは逃げることだ、と考えたからである。勿論、小さな子供であるジョーにこれから先食べて行くあてなどあろうはずがなかった。

それから幾歳月が過ぎ去ったのか。元の生地すらわからないほどに汚れた服を着て、原形すらとどめていない靴をはいたジョーが、ちんぴらの仲間入りなどして自分の悩みから逃げてはいけない、と全身全霊でアドゥニスを諭す。そんな情景を生み出すアパルトヘイト体制とは一体何なのか。

アンクル・ダウティが亡霊なら、アウトローを決め込んで若く貴い命を散らすウィリボーイも、ちんぴらの仲間入りをしてやがてはウィリボーイと同じ運命を辿るアドゥニスもやはり亡霊である。そして、黒人を追いつめることに異常な執念を燃やすラアルトも、今日もまたあてどなく岸壁をさまよい歩くジョーも又、たしかに亡霊である。その亡霊たちは、アパルトヘイト体制が続く限り、各人各様に、「夜」を「彷徨」することを運命づけられているのである。

劣悪な環境と警察国家を浮かびあがらせた「夜」のイメージは、その亡霊たちがさ迷う南アフリカの国そのものを暗に象徴している。又、「彷徨」のイメージは、その国でさまようことを運命づけられた人々の姿を見事に暗喩している。

ラ・グーマは、真実を世界に知らせようと、後世に歴史を伝えようと、1960年代にこの作品を書いた。あれから4半世紀が過ぎ去ったにもかかわらず、南アフリカの事態が基本的なところで何ら変わってないのは残念な限りである。

ラ・グーマが死んで、もうすぐ3年になろうとしている。

今年の8月には、カナダで、アレックス・ラ・グーマ/ベシィー・ヘッド記念大会が開かれる。異国の地で、南アフリカの同僚や後輩が企画したものである。ブランシ夫人が特別ゲストに招かれる。

 

ブランシ夫人

私も参加して、是非その大会の模様をお伝えしたい。(宮崎にて)

(宮崎医科大学助教授・アフリカ文学)

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」13号14-25ペイジ

「ゴンドワナ」13号

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法