1976~89年の執筆物

概要

1988年9月に大阪工業大学で開催した黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の報告です。小林信次郎氏、北島義信氏、Cyrus Mwang氏とともに。私はラ・グーマと南アフリカについて発表しました。3月まで嘱託講師で工学部の学生に授業をしていましたが、その年の4月に宮崎医科大学に着任しましたので、出張の形で宮崎から参加しました。

本文

アパルトヘイトを巡って(シンポジュウム) 

アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト 玉田吉行

 「ゴンドワナ」12号(1988)6~19ペイジ

玉田と申します。3月までここにいて、そっちの方の部屋でビデオを使ってよくやってたんですが、今日は宮崎から来ました。

宮崎医科大学(旧大学ホームページから)

 レジメにありますアレックス・ラ・グーマについて、工大の人も多いみたいですので、どんな人だったかというのを最初に少しだけ紹介して、話に入りたいと思います。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

 アレックス・ラ・グーマは1925年に南アフリカのケープタウンに生まれています。そして1954年にブランシ・ハーマンと結婚して、今ブランシさんはロンドンに一人で住んでおられます。1955年に、このことについては少し今日触れますが、「ニュー・エイジ」という週刊新聞なんですが、その記者として採用されています。それから1956年には他155名といっしょに反逆罪で逮捕されました。1962年に一番最初のですけど、『夜の彷徨』がナイジェリアで出版されています。その後1966年にはロンドンに亡命。1970年にはロータス賞を、1969年度の分を70年度に授賞しています。それが、ロータス賞の第1回目になるんですが・・・・・・。そしてANCのロンドン地区議長となります。今のマツィーラさんが東京事務所でチーフ・リプリゼンタテイヴ (Chief Representative) という名前ですから同じで、僕も昨日手紙をいただいたんですけど、Comrade Alex La Gumaと書いてありましたので、やっぱりちょうどアレックス.ラ・グーマの後輩になるわけでしょうか。それから1978年には今度はANCのカリブ代表としてキューバに行っております。1977年にはアジア・アフリカ作家会議の議長になり、1982年にはAALA文化会議に出席するため日本に来て、この中でも何人か会われた方がいます。そして、1985年にキューバで、心臓発作で亡くなりました。

ロンドンに亡命中のブランシさんといっしょに

 去年の夏にカナダで、ちょうど3周忌になるんでしょうか、記念のカンファランスがある予定だったんですが、今年に延期されて、8月にアレックス・ラ・グーマとベシィー・ヘッドのメモリアル・カンファランスが開かれ、そこヘブランシ夫人が特別ゲストで行かれることになっています。

会議のブランシさん

 で、今日の話にうつりたいと思います。まずラ・グーマの話に入る前に少し前置きが長くなるかもしれませんが、お話させていただきたいと思います。横におられるムアンギさんからたぶん後で同じような話がでるかもしれませんが、少しだけ日本人のアフリカについての見方に触れておきたいと思います。

だいぶ前ですが、白いドレスを着た黒柳徹子という人が、黒人の子どもを抱きあげて、まあ、可哀相に、と言っていたのを、たまたまテレビをつけた時に見ました。理由ははっきりしてなかったのですが、僕は少しこれはいかんなという感じがしました。本能みたいなものですけど。理由を考えてみますと、あんまりベタベタ化粧するのは嫌いですし、本物かどうかわからないくらい化粧をぬってますから。それから甲高い声でキーキーやられるのも嫌いですから、それも理由だったんかもしれないんですが、どうもそれだけではない。最近、反アパルトヘイト運動を一生懸命やっておられる東京の楠原彰さんが、ある記事の中で黒柳徹子さんにはユニセフの親善大使をやめてもらわないとダメだ、というようなことを書いておられまして、ああやっぱり同じように思っている方がいるんだなあと思いました。

黒柳徹子さんに関しては他でもいろいろ言われていますが、楠原さんがどうしてそういうことを言われたかというと、昨年親善大使でモザンビークに行った黒柳さんに対してインタビューをして、アフリカとの関係について聞かれた時に、「日本は経済大国ですから南アフリカとの貿易を止めるわけには参りません」と言ったみたいですね。楠原さんはかなり強烈に即時南アフリカとの貿易をやめろと.言っておられますから、そのことによはどカチンときたのだと思います。僕はそれもきっかけになっていろいろ考えたんですが、やはりあの人の姿勢にはアフリカ人に対して対等にものを見ようとする点が欠けているのではないか。これは例えばアメリカのハリエット・ビーチャー・ストウが『アンクルトムの小屋』を書いて、哀れな黒人奴隷に福音書を書いて涙をそそり、それに共感した親たちがそれこそ、まあ可哀相に、と言いながら自分の子どもたちに物語を聞かせてやる、それと同じ人に対する憐れみの姿勢があるのではないか。

そのおかげで、おそらくそのおかげでかなりのお金が集まったようですが、ムアンギさん、飢餓キャンペーンのときは、これはブームではないですかとおっしゃつていましたが、黒柳徹子さん自身はそのことをどうも売り物にしているみたいで、例えば右翼の親玉が土地転がしや競艇で稼ぎながら、片一方では人類はみな兄弟と言いながら大きな金を寄付する、そういう構図とよく似ているように僕は思います。なんとなく偽善のにおいがしてならないのです。

(左から)小林さん、ムアンギさん、北島さんといっしょに

 これもたまたまですけれども、日曜日にあるクイズ番組がありました。この場合も日本人がいつもやっている調子なんですが、司会者はムアンギさんのケニアをとりあげて、甲高い声で次のように言いました。

今夜の不思議の舞台はアフリカ大陸ケニア。見渡す限り広い大草原サバンナ。

ここはまさに動物たちの楽園。巨大なアフリカ象が悠々と歩く。キリンたちがアカシアに長い首をのばす。そしてこの大草原に暮らすのが最強の部族と称えられたマサイ族。近代文明に染まることなく独自の生活を営んできたマサイ族等々。ミステリアスサファリ、ケニア・・・・・・。

スポンサーは日立。そこに解答者として黒柳徹子さんが出ておりました。3問目までは1つもあわないで、4問目に「愛と哀しみの果てに」という映画の話になりますと、それこそこれ見よがしに、「これは私の分野です」と得意そうに眩いておりました。

その後に見たテレビでもそうですが、白人がポップコーンを食べながらズールー人たちの踊りを観客席から見ているーその構図と同じ、という気がしたんです。不思議発見、ケニアのマサイ族ピンポン・・・・・・などといつまでやっているんでしょうかね。世界のヒタチがスポンサーにつき、食事どきのゴールデンタイムに流される番組を見る。もしこれがごく一般の日本人の家庭の家族そろっての楽しい団秦の一コマだとしたら、何とわびしい光景でしょう。そんな団欒だったらいらないと、僕はため息をついて言いたいのです。

前置きが少し長くなりますが、このごろわりと南アフリカに関することが多いので、もう少しテレビ番組の話をさせてください。しばらく前教育テレビで「南ア貿易日本の選択」という討論番組がありました。見られた方もいらっしゃると思います。その中で、アメリカ黒人を撮り続けて有名なフォトジャーナリストの吉田ルイ子さんが「南ア商品のボイコットを求めて日本のいろんな企業を回ったら、非常に冷たい反応であった。日本はもうそろそろ金儲けばかりのやり方を止めて、世界から取り残されることのないようにしましょう。日本は今世界からその姿勢を求められています」と非常に穏やかそうに話しておられましたが、僕の方から見ると、身体は怒りに震えているように思われました。では具体的にどうしたらいいのかということに対して吉田さんは、「南アにいる日本人はぬくぬくと生きてばかりいないで、まず黒人街に行き、その人たちと交流するように心がけて欲しい」と言っておられました。

その発言をお聞きして、僕はその去年の秋に放送されたテレビ朝日のニュース・ステイション「白いアフリカ、南アフリカ共和国」を思い浮かべました。これは宮崎に行って感じたのですが、むこうでは新聞の夕刊もないし、民営放送も二つしか入らない。もちろんテレビ朝日は入りませんので、久米宏という人の顔も長いこと見ていない。ずいぶん昔のような感じなのですが、去年の秋放映された後僕はすぐ授業で使いましたし、こちらにおられる小林先生もお使いになったんで、おそらくこの中にも見た人がおられると思います。思い出していただけるとありがたいのですが。

そのときにヨハネスブルクの日本人学校のことが紹介されていました。ガードマンに固く護衛された学校の校長は、まず子どもたちの安全を守るのが一番だと言いました。セレモニーが行なわれていまして、餅をついたり剣道をやったりして、いろいろな人たちが走り回っていました。そして美しい着物で身を飾った女の人は南アのことを聞かれて「とてもすばらしい国だと思います。きれいですし、食べ物はおいしいですし、こういうティーセレモニーもさせていただけますし・・・・・・」と答えていました。しかしアパルトヘイトに関する質問になってくると一様に「お答えできません」この一点ばりでした。そして僕は非常に腹が立ったのですが、子どもたちは自分の家にいる黒人のメイドたちのことを「住むかわりにやっぱり働かせてあげるっていう感じで」とか「雇ってあげないと職がないですからね」とか平然と答えていました。さらにその中の一人は関西弁で次のように言いました。「ぼくはですね、この国あまり好きちゃうねんけど、あの、恐いという印象が多いんですよね。ほしたら、おやじさんがいいから楽しめというんですけど、なかなか楽しめないんですよ」

あれからもよく考えたんですけど、この少年の父親はおそらく「お前らを楽させてやるから、おれのように一生懸命勉強して一流の大学に入り、お前も一流の企業に入ってこんな立派な生活をするんだぞ」と言いたかったのでしょう。この親たちは子どもたちに、いったい何を伝えているんでしょうか。

この人たちのことを考えると、ラ・グーマは貧しかったけれど、ほんとうに貧しかったようですが、すばらしい父親をもって幸せだったと思います。これは僕の個人的なことになりますが、特にオヤジさんが立派な人というのは何よりも宝だと、まだ生きている僕のオヤジに対して失礼なのですが、思います。

ラ・グーマ

 筋金入りの闘争家の父ジミー・ラ・グーマの生き様を見て育ったラ・グーマは、1937年スペインでフランコ独裁政権に自由を渡すなと国際義勇軍が結成された時、わずか13歳で志願しています。これは余談になりますが、日本からもちょうどその時密出国してニューヨークにいたジャック・白井という人が、実際にスペインに行って戦死しています。

わずか13歳でそのようなことを考えついたのは、おそらく自宅が若い活動家たちの出入りする拠点だったからでしょう。そしてまたオヤジさんがいたからでしょう。

そういうふうにラ・グーマは早くから解放闘争の渦中にいたわけですが、生まれた国で法律によりあたりまえの人間としてみなされていないわけですから、いわばラ・グーマの生き方は人間を取り戻すための闘いであったとも言えます。

ラ・グーマは闘争家でもありましたが、同時にすばらしい芸術家でもありました。ペンの力を充分に知っていました。ラ・グーマは作家として2つのことを常に念頭においていました。1つは、今現在南アフリカに起こっていることを世界の人々に知らせるのだ、ということです。

もとより白人の利害に従って考えられたアパルトヘイトは、私たちが想像している以上の文化荒廃をもたらします。次のラ・グーマの記事を読めば、おそらくそのひどさに驚かずにはいられないでしょう。アジア・アフリカ作家会議の季刊誌「ロータス」に1975年に載ったものです。

今まで述べてきたことが、南アフリカの作家にとって一体何を意昧しているのでしょうか。最もはっきりしているのは、多数派の黒人の利用できる文化施設が少数派の白人のに比べてはるかに劣っており、ある場合にはその施設が無きに等しい、ということです。ヨハネスブルクに労働力の大半を供給している巨大なアフリカ人居住地区ソウェトでは、ほぼ百万の人口に対してたった一つの映画館で、鑑賞できる映画の数は検閲制度によっておびただしく制限されており、アフリカ人は白人の十六歳以下と同じレベルに置かれています。国内にある優れた図書館は黒人に閉ざされています。ほとんどの黒人は劇場やコンサートホールの内側を見た経験もないのです。

アパルトヘイトは人種間の交流を絶ち、その間に大きな壁を作ります。またテレビ番組になるのですが、イギリスで作られた「教室の戦士たち-アパルトヘイトの中の青春」これは最近放映されたのですが、同じ16歳の白人シスカと黒人シルビアという二人の高校生が、自分たちの住まいを紹介しながら交互に語ります。

白人の高校生シスカは次のように言います。

南アのアパルトヘイトは世界の非難の的ですが、白人と黒人はごく自然に分かれているだけです。今の南アには人種差別はありません。白人と黒人の間に差別があるなんて根拠のないことだと思います。アパルトヘイトは白人と黒人の間に垣根を築いて一切の交わりを絶ってしまうものだと思われがちです。いろんな施設、学校とか映画館なんかが別々だってこともよく引き合いに出されます。でも、今ではそんなことはありません。白人は黒人や混血やインド人アジア系の人たちと多くのものを分かち合うようになってきました。そして次のように結びました。

ここ何十年かは急激な変化はないと思います。

一方、黒人の高校生シルビアは、

アパルトヘイトというものは、人間を肌の色ではっきり分けてしまうことです。例えば、ヨハネスブルグの公衆トイレは男性女性で分けるのではなく、白人黒人で分けてあります。学校でだって、黒人は自分たちが他の民族より劣った存在だと教えこまれ、一方白人は互いに助け合いましょうと教わっています。黒人はそんなことを一度も教えられたことがありません。一つの国の中で同じ考えや理想を頒ち合えないことがアパルトヘイトだと思います。

と、そういうふうに言っています。

白人高校生シスカが「今の南アには人種差別はありません」と言っても、実際にテレビに映っているソウェトの狭く汚ないシルビアの住まいと、プールつきの広くきれいなシスカの邸宅を見る聴視者の誰が、それを信じることができるでしょう。最近放映された『遠い夜明け』の中でもそうでした。警視総監クルーガーのあの豪邸と、ビコがドナルド・ウッヅを案内したスラム街キングウィリアムズタウンのその家々との格差が、私たちの目には焼きついています。そんな私たちにシルビアの言葉はただ空しく響くだけです。知らないことの恐ろしさをまざまざと見せつけられます。

『遠い夜明け』

 ラ・グーマは知らないということの重要性を作家として充分に認識しており、あるインタビューの中で次のように述べています。

作家たちは今まで南アフリカ一般の状況を描こうと努めてきてはいますが、違った人種グループと現に南アフリカに住む人びとについては殆んど語られては来ませんでした。例えば、カラード社会やインド人社会については多くは語られて来なかったと思います。人種がそれぞれ隔離された状況の中であっても、作家には果たさなければならない仕事があります。少くとも現在起こっていることを世界に知らせて行かなければなりません。たとえ隔離された社会の範囲の中でしかやれなくとも。

そう言っています。

ANCの一員であったラ・グーマの願いも民主総合国家の実現でしたから、実状を知らせることはその第一歩でもあったわけです、

ラ・グーマの真実を伝えようとする姿勢は1955年にリポーターとして採用された左翼系週刊新聞「ニュー・エイジ」で培われます。「ニュー・エイジ」は1962年に廃刊に追いやられた命の短かった新聞です。これはおそらくイギリスでしか手に入らないと思っていましたが、最近までコロンビア大学に留学されておられた会員の山本伸さんに無理をお願いして探していただいたら、ニューヨークにもそのマイクロフィルムがあって、今ここにそのコピーがあります。その中には例えば次のような記事があります。1957年ヨハネスブルグで行なわれていたあの有名な反逆裁判の模様を伝えた記事です。タイトルは「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」です。

私は被告たちの不平や後悔や泣き言を見つけ出そうとしましたが、無駄でした。見つかったのはただ、自信と温かさと気概だけで、それらが不退転の決意で固められているのを知るだけだったのです。ここには、人間の魂と、前進しようとする意志と、前向きにものを見つめ、全体の目的のためには個人の辛苦をも耐え忍ぼうとする勇気があります。またレンガにモルタル、筋肉に腱など、新しい生命を創造するのに欠かせない生きた血が、ここにはあるのです。

そういう記事でした。

『夜の彷徨』が発禁処分を受けたという「ニュー・エイジ」の記事

 ラ・グーマはアパルトヘイトはよくないとか、政府はこうあるべきだとか、新聞では言いましたが、文学作品ではいっさい語りませんでした。ありきたりの青年が、ひどい環境の中で、どれほど簡単にチンピラの仲間入りをするか、そういうことを書きました。また人々がいかに官憲の横暴に傷つけられているかを書きました。例えば今、年表の方で見ました『夜の彷徨』の中では、主人公マイケル・アドゥニスは、街で擦れ違った警官に尋問されます。まず、マリファナはどこだと聞かれます。初めから犯罪者扱いです。嫌疑を否定すると、今度はポケットの中味を見せろ、です。ポケットの中にある金を見つけると、実は給料の一部だったのですが、どこで取ったのだ、そういう質問です。そして結局、讐めるものがないとわかると、警官の一人は肘でアドゥニスをゴキッと突いてから、悠々と歩き去りました。これはすべて通りでみんなが見ている白昼に堂々と行なわれています。

編註書『夜の彷徨』(門土社、1989年、表紙絵小島けい画)

 それから第2作目の『三根の縄』(のちに『まして束ねし縄なれば』に改題) では、主人公チャーリーは恋人フリーダと寝ている最中に手入れを受け、泥靴で踏み込んできた警官に「マリファナはどこだ」と尋問されます。そして名前を聞き、二人がまだ夫婦でないのを知ると、警官の一人は恋人フリーダに「この黒んぼの淫売め!」と罵り帰って行きます。別の手入れの事件では、ある男性が裸のまま手錠をかけられて連れて行かれます。またその手入れをガウンを引っかけて見に出た男が、パスを調べられて、パスが無いと「パスは家の中にある」と叫びながら引っ立てられて行きます。

そんな姿を見せつけられる読者は、白人政府にとっては、1960年の悪名高いシャープヴィルやランガの虐殺、あるいは1976年のソウェトの主として黒人高校生にょる反乱に対する当局の武力による鎮圧が、日常茶飯事のことで、その延長上でしかなかった、そんな思いがするのです。

また、ラ・グーマは『三根の縄』で雨をうまく使っています。政府の観光用の宣伝に、南アフリカは非常にすばらしい、天気の良いところだ、と書いてあります。それを逆手にとりました。現実にはスラム街は雨によって苦しめられている。そういう苦しみを味わっているラ・グーマはその雨をうまく利用しました。

例えば、チャーリーの妹キャロラインが粗末な小屋で出産をします。そのときには雨漏り水が溜まって床の上をつたっています。産婆さんは来ません。苦しいそういう状況を書いています。そして手入れに来た警官の一人は中を覗き、「ああ、もう信じられん」と叫びます。

でも読者は、キャロライン自身が実際に鶏小屋のようなところで生まれたこと、そして本人もまた子どもをこんな惨めなところで産み、おそらくその子どももまたアパルトヘイトが続く限りそういう状況で産むだろうことを予測します。

一つ目が長くなりましたが、もう一つラ・グーマの念頭にあったのは、作家として歴史を記録するということです。今日僕は南アのテレビの父親の話をしましたが、おそらく父ジミー・ラ・グーマが自分に贈ってくれたように、ラ・グーマは次の世代に、きっと日本にいらっしゃるマツィーラさんも含めて、その人たちに何か贈れるものをと思って残していったにちがいありません。

これは基本的な問題に係わることですが、研究のための研究はないし、文学のための文学もありません。私たちは自分たちの子孫にこれから手渡して行ける何かを探しながら、ラ・グーマが残していってくれたメッセージを次の世代に引き継いでいきたいと思うのです。どうもありがとうございました。

『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992年、表紙絵小島けい画)

小林 ありがとうございました。内容があまりにもたくさんありますのに時間が短いので、玉田さんには途中で時間を切りまして失礼致しました。後ほどまた十分の間に整理していただきたいと思いますが、デヴォーさんと同じように、デヴォーさんの五番目の詩「現代を生きるのは、黒人女性には困難である」と同じように、作家のメッセージ、それは歴史を記録することである。さらにまた無知に安住してはだめだ。そして究極的には人間を取り戻すことだということを、玉田さんが平生みていらっしゃいますテレビ、これは私たちにも関係深いのですが、このコメントからいろいろ報告して下さいました。

今発表なさいました玉田さんに、どうしてもこのことについては聞きたいということがありましたら、遠慮なく質問紙に書いていただきまして私の方に、後ほど回収致しますので届けていただければありがたいと思います。

端折りまして恐縮ですが、では続きまして北島さんの方から「アパルトヘイトと宗教」というタイトルでご報告願いたいと思います。よろしくお願いします。

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」12号6-19ペイジ

「ゴンドワナ」12号

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「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)

1976~89年の執筆物

概要

1988年のアレックス・ラグーマ/ベシー・ヘッド記念大会の報告です。

前の年にカナダに亡命中のセスゥル・エイブラハムズ氏(当時ブロック大学人間学部学部長)を訪ねてラ・グーマについての取材に行ったときに、この会議に誘われて、再度カナダに行きました。その年の四月に宮崎医科大学に講師として着任していましたので、出張の形で参加出来ました。北米に亡命中の南アフリカの人たち大半で、その人たちの前で話をしたわけですが、一番きつい視線を経験したと思います。ブランシ夫人に会えたのは何よりです。

エイブラハムズさんの家でのパーティーで

本文

アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して一報告一

「黒人研究」第58号 (1988)36ペイジ。

8月3日、4日の両日、カナダオンタリオ州セイント・キャサリンズのブロック大学で、アレックス・ラグーマ/ベシー・ヘッド記念大会が行なわれた。特別ゲストとして招かれたラ・グーマ夫人をはじめ、カナダやアメリカに亡命中の南アフリカの人々、それにソ連やナイジェリアからの参加者もあった。

在りし日のラ・グーマの姿を伝えるブランン夫人や主催者のセスゥル・エイブラハムズ氏(ブロック大学)、ラ・グーマのケープタウン時代の親友ジョ一ジ・ルーマン氏(カナダ在住)など、身近だった人々の発言には、ずしりと重みがあった。又、小林信次郎氏の翻訳などでもおなじみのコズモ・ピーターサ氏(オハイオ大学)と他二人によるラ・グーマとヘッドの作品朗読もラジオ劇風の迫力が感じられた。

会議でのブランシ夫人

二日目には、プログラムにはなかったが、特別ビザを得て南アフリカから直接駆けつけたアハマト・ダンゴル氏よる現状報告があり、会場が俄かに活気づく場面もあった。ブランシ夫人とダンゴル氏の談話は、翌日、地元の新聞に写真入りで報じられた。

参加者が50人程度と、国際大会としては決して大きなものではなかったが、1985年と1986年に客死した二人の偉大な南アフリカ作家を偲んでの記念大会が開催された意義は決して小さくはない。

大会では、日本の現伏に少し触れたあと、ANC東京事務所のマツィーラ氏からのメッセージと『三根の縄』(のちに、『まして束ねし縄なれば』に改題)についての論文を読んだ。日本は、南アフリカを苦しめている筆頭国の一つだが、その国からの参加者に対する温かい視線は私には何よりもうれしかった。と同時に、経済大国日本に寄せられる期待の大ききをも、今更ながら。痛感せざるを得なかった。

執筆年

1988年

収録・公開

「黒人研究」58号36ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して

1976~89年の執筆物

概要

1988年9月に大阪工業大学で行われた黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」を総括したものです。小林信次郎氏が司会、北島義信氏とケニアのサイラス・ムアンギ氏と私がシンポジスト、私は、抗議作家から脱皮し、国際人としてより普遍的なテーマを追い求めてアフリカとアメリカの掛け橋になろうとしたリチャード・ライトの役割について話をしました。

本文

アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト「黒人研究」58号13-15ペイジ

ラ・グーマが亡くなってからもうすぐ三年になる。八月にはカナダで、アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッドの記念大会がある。南アフリカの友人・後輩たちが企画したものである。真実を伝えよう、歴史を記録しようとしたラ・グーマの意図は、時の試練を経て確かに後世に伝わっている。

アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッドの記念大会のブランシ夫人

 ラ・グーマを語る前に、少し日本人のアフリカにっいての見方に触れておきたい。テレビ等で活躍している人の発言や、テレビ番組におけるアフリカの取り上げ方等にもあらわれているのだが、多くの日本人にはアフリカ人に対して対等にものを見ようとする点が欠けている、言い換えれば憐れみの姿勢があるのではないかと思う。
しばらく前教育テレビで「南ア貿易日本の選択」という討論番組があった。その中でフォトジャーナリストの吉田ルイ子さんが「南ア商品のボイコットを求めて日本のいろんな企業を回ったら、非常に冷たい反応であった。日本はもうそろそろ金儲けばかりのやり方を止めて、世界から取り残されることのないようにしましょう。日本は今世界からその姿勢を求められています。」と話しておられた。更に、では具体的にどうしたらいいのかということに対して吉田さんは「南アにいる日本人はぬくぬくと生きてばかりいないで、まず黒人街に行き、その人たちと交流するように心がけて欲しい。」と言っておられた。
その発言から、私は去年の秋に放送されたテレビ朝日のニュース・ステーション「白いアフリカ、南アフリカ共和国」を思い浮かべた。番組ではヨハネスブルグの日本人学校のことが紹介されていたが、ガードマンに固く護衛された学校の校長は、まず子供たちの安全を守るのが一番だと言った。そして<美しい>和服で身を飾った女性は南アフリカのことを聞かれて「とてもすばらしい国だと思います。きれいですし、食べ物はおいしいですし、こういうティーセレモニーもさせていただけますし・・・・・・」と答えていた。しかしアパルトヘイトに関する質問になると一様に「お答えできません。」の一点ばりだった。
そして子供たちは自分の家にいる黒人のメイドたちのことを「住むかわりにやっぱり働かせてあげるっていう感じで」とか「雇ってあげないと職がないですからね」とか平然と答えていた。さらにその中の一人は関西弁で次のように言った。「僕はですね、この国あまり好きちゃうねんけど、あの、恐いという印象が多いんですよね。ほしたら、おやじさんがいいから楽しめ、というんですけどなかなか楽しめないんですよ。」
この少年の父親はおそらく「お前らを楽させてやるから、おれのように一生懸命勉強して一流の大学に入り、一流の企業に入ってこんなりっぱな生活をするんだぞ。」と言いたかったのだろう。しかしこの親たちは子供たちに、いったい何を伝えているのだろうか。

この人たちのことを考えると、ラ・グーマは貧しかったが、ほんとうに貧しかったようだが、すばらしい父親をもって幸せだったと思う。
筋金入りの闘争家の父ジミー・ラ・グーマの生き様を見て育ったラ・グーマは、1937年スペインでフランコ独裁政権に自由を渡すなと国際義勇軍が結成きれた時、わずか13歳で志願さえしている。わずか13歳でそのようなことを考えついたのは、おそらく自宅が若い活動家たちの出入りする拠点だったからであり、父親がいたからであろう。

ラ・グーマ(小島けい画)

 そういうふうにラ・グーマは早くから解放闘争の渦中にいたわけだが、生まれた国で法律によりあたりまえの人間としてみなされていないわけだから、いわばラ・グーマの生き方は人間を取り戻すための闘いであったとも言える。
ラ・グーマは闘争家でもあったが、同時にすばらしい芸術家でもあった。ペンの力を充分に知っていたのである。ラ・グーマは作家として二つのことを常に念頭においていた。一つは、今現在南アフリカに起こっていることを世界の人々に知らせるのだ、ということである。
もとより白人の利害に従って考えられたアパルトヘイトは、私たちが想豫している以上の文化荒廃をもたらす。またアパルトヘイトは人種間の交流を絶ち、その間に大きな壁をつくる。
イギリスで作られたテレピ番組「教室の戦士たち-アパルトヘイトの中の青春」のなかで、同じ16歳の白人シスカと黒人シルピアという二人の高校生が、自分たちの住まいを紹介しながら交互に語る。
白人の高校生シスカは次のように言う。
南アフリカのアパルトヘイトは世界の非難の的ですが、白人と黒人はごく自然に分かれているだけです。今の南アフリカには人種差別はありません。白人と黒人の間に差別があるなんて根拠のないことだと思います。
そして最後に「ここ何十年かは急激な変化はないと思います」とまとめる。一方、黒人の高校生シルビアは「アパルトヘイトというものは、人間を肌の色ではっきりと分けてしまうことです・・・・・・一つの国の中で同じ考えや理想を頒ち合えないことがアパルトヘイトだと思います。」と述べている。
この対照的におかれた二人のことばにより、知らないことの恐ろしさをまざまざと見せつけられてしまう。
そしてラ・グーマはこの知らないということの重要性を作家として充分に認識していた。何故ならANCの一員でもあったラ・グーマの願いも民主統合国家の実現であり、実状を知らせることはその第一歩でもあったからである。
ラ・グーマの真実を伝えようとする姿勢は、1955年こリポーターとして採用された左翼系新聞「ニュー・エィジ」で培われた。「ニュー・エイジ」は1962年に廃刊に追いやられた命の短かった新聞である。(これはおそらくイギリスでしか手に入らないと思っていたが、留学中の会員の山本伸さんに無理をお願いして探していただいたところ、ニューヨークにもそのマィクロフィルムがあった。そのフォトコピーが手元に少しある。)その中には1957年ヨハネスブルグで行なわれていた、あの有名な反逆裁判の模様を伝えた「皆それぞれに大変だが、不平をこぼすものは誰一人としていない」という記事もある。


ラ・グーマはアパルトヘイトはよくないとか、政府はこうあるべきだとか、新聞では書いたが、文学作品ではいっさい語らなかった。ありきたりの青年が、ひどい環境のなかで、どれほど簡単にチンピラの仲閥入りをするかを書いた。また人々がいかに官憲の横暴に傷つけられているかを書いた。例えば、『夜の彷徨』の中では、主人公マイケル・アドゥニスは街で療れ違った警官に尋問きれる。まず、マリファナはどこだと聞かれる。初めから犯罪者扱いである。嫌疑を否定すると、今度はポケットの中味を見せろである。ポケットの中にある金を見つけると、実は給料の一部だったのだが、どこで取ったのだ、という質問である。そして結局咎めるものがないとわかると、警官の一人はアドゥニスを肘で突いてから、悠々と歩き去る。これはすべて通りで、みんなが見ている白昼に堂々と行なわれている。

それから第二作目の『三根の縄』では、主人公チャーリーは恋人フレッダと眠っている最中に手入れを受け、泥靴で踏み込んできた警官に「マリファナはどこだ」と尋問される。そして名前を聞き、二人がまだ夫婦でないのを知ると、警官の一人は恋人フレッダに「この黒んぼ淫売め/」と罵り帰って行く。別の手入れの事件では、ある男性が裸のまま手錠をかけられ連れて行かれる。またその手入れをガウンを引っかけて見に出た男が、パスを調べられ、パスが無いと「パスは家の中にある」と叫びながら引っ立てられて行く。

そんな姿を見せつけられる読者は、白人政府にとっては、1960年の悪名高いシャープヴィルやランガの虐殺、あるいは1976年のソウェトの暴動に対する蛮行が、日常茶飯事のことで、すべてその延長上でしかなかった、そんな思いがするのである。
またラ・グーマは『三根の縄』で雨をうまく使っている。政府の観光用の宣伝に、南アフリカは非常にすばらしい、天気の良いところだと書いてある。それを逆手に取った。現実にはスラム街は雨によって苦しめられている。そういう苦しみを味わっているラ・グーマはその雨をうまく利用したのである。

例えば、チャーリーの妹キャロラインが粗末な小屋で出産をする。そのときには雨漏り水がたまって床の上をったっていた。産婆は来ない。大声を聞いてかけつけた警官の一人は中を覗き「ああ、何ということだ!」と叫ぶ。
でも読者は、キャロライン自身が実際に鶏小屋のようなところで生まれたことを知っている。本人が子供をこんな惨めなところで産んだのを見て、おそらくその子供もまたアパルトヘイト体制が続く限り同じような状況で子供を産むことになるだろう、と予測する。

 

もう一つラ・グーマの念頭にあったのは、作家として歴史を記録するということであった。父ジミー・ラ・グーマが自分に贈ってくれたように、ラ・グーマは次の世代に、きっと日本にいらっしゃるANC東京事務所のマツィーラさんも含めて、その人たちに何か贈れるものをと思って残していったにちがいない。
アパルトヘイトの問題は南アフリカだけの問題ではない。自分の生き方に係わる問題で、毎日の生活とそれほど切り離されてはいない。ほんの一例だが、日本人が結婚指輪に使うダイヤモンドが、すでに南アフリカと深く係わっている。
私たちはダイヤモンドがなくても生きて行ける。人間の欲はきりがなく、物質文明、消費文明に毒された現代社会が楽園だと考えている人もいないだろう。このあたりで私たちは一歩立ち止まって、すべての面で自分を、そして社会を見つめ直してみる必要がある。
これは基本的な問題に係わることだが、研究のための研究はないし、文学のための文学もない。私たちは自分たちの子孫に手渡せる何かを探しながら、闘争家・文学者ラ・グーマが残していってくれたメッセージを次の世代に引き継いでいきたいと思う。

執筆年

1988年

収録・公開

「黒人研究」58号13-15ペイジ

 

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アレックス・ラ・グーマとアパルトヘイト

1976~89年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマ(1925-1960)の最初の物語『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)の作品論です。アパルトヘイト体制下の南アフリカの状況を世界に知らせたいと書いたこの物語は夜のイメージをうまく使ってアパルトヘイト体制のなかでいとも容易く犯罪を犯すケープタウンカラード居住区の青年たちの日常を描き出しています。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

本文(写真作業中)

アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 -語り- 

「ゴンドワナ」11号(1988)39~47ペイジ

時代を越えて

<南アフリカ人として、南アフリカの大地に生を受けながら、白人でないという理由だけで、人間としての扱いを受けなかったラ・グーマ。ラ・グーマの一生は、人間を取り戻すための闘いであった。

貧しく虐げられながらも、更に拘禁され、祖国を離れることを強いられても、すばらしい両親の深い愛に包まれ、よき伴侶に支えられつつ、ラ・グーマは断じてひるまなかった。

祖国を離れて、疲れ果て、解放の日を見ることなくこの世を去ってしまったが、その生き様は時の流れの中に葬り去られることはない。慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中に、ラ・グーマの魂は生きつづけるだろう>

前回までの伝記的な部分を私はそう結んだが「慈愛を言葉にくるんで残していった数々の作品の中」から、今回は、先ず何よりも『夜の彷徨』を取り上げたい。執筆順で行けば『夜の彷徨』以前に既に発表されていた短篇や新聞記事などを最初に扱うべきなのだろうが、敢えて『夜の彷徨』を取り上げたいと思う。その理由は、この作品が、結果的にはラ・グーマの作家としての実質的な出発点となったし、ある意味では既に出ていた短篇や記事の集大成でもあったからだが、さらに言えば、この作品が世に出たこと自体に、時代を越えた何か因縁のようなもの、言葉を換えて言えば、ラ・グーマの執念にも似た思い入れのようなものを感じないではいられないからだ。

私は、ナイジェリアで出されたテキスト (写真①) を黒人文庫 (神戸市外国語大学図書館) から借り、ハーレムのリベレーション・ブックストアでノースウェスタン大学出版のテキスト (写真②) を買い、門土社から大学用のテキスト (写真③) を送ってもらい、いともた易くこの作品に接することが出来たのだが(のちに改訂版を出版―写真④)、人々を愛し、解放を願い続けたラ・グーマの思い入れがあったにしろ、もし、歴史の偶然、いや何かそれを越えた必然とでもいうべきものがなかったら、この作品は決してこの世で日の目を見ることはなかっただろう。

写真①

ナイジェリア版

写真②

ノースウェスタン大学版

写真③

門土社版

写真④

編註書(門土社、1989年、表紙絵小島けい画)

『夜の彷徨』は、1962年にナイジェリアのイバダン大学で、ムバリ出版社によって出版された。1956年以来、逮捕、拘禁が繰り返される中での執筆自体が驚きに値するが、厳しい官憲の目をかい潜って草稿が無事国外に持ち出され、ナイジェリアで出版された事実は、一種の奇蹟とも言えるだろう。如何にしてラ・グーマが原稿を守ったのか。ラ・グーマより一つ歳上の友人で、亡命して今はアメリカのピッツバーグ大学にいる詩人デニス・ブルータスに登場を願おう。(本誌7号でも紹介した)

私は最近アレックス・ラ・グーマ夫人に会ったことがある。夫人の話によるとアレックス・ラ・グーマは自宅拘禁中にも小説を書いていた。彼は原稿を書き終えると、いつもそれをリノリュームの下に隠したので、もし仕事中に特捜員か国家警察の手入れを受けても、タイプライターにかかっている原稿用紙一枚しか発見されず、その他の原稿はどうしても見つからなかったのである。(コズモ・ピーターサ、ドナルド・マンロ編、小林信次郎訳『アフリカ文学の世界』南雲堂、1975年, 191~192ペイジ)

幸いなことに、1960年にラ・グーマが再逮捕されたとき『夜の彷徨』の草稿はほぼ完成されていた。ラ・グーマは原稿を一年間郵便局に寝かせておくように、と妻ブランシに指示を与えてから拘置所に赴いた。一年後、郵便局から首尾よく引き出された原稿は、ブランシ夫人の手から、私用で南アフリカを訪れていたムバリ出版社のドイツ人作家ウーリ・バイアー (本誌7号参照) の手に渡り、国外に持ち出されたのである。ラ・グーマの機転、ブランシ夫人の助力、ウーリ・バイアーの好意、どれひとつが欠けても、おそらく『夜の彷徨』の出版はかなわなかっただろう。それだけに「その本に対して何ら望みは持っていませんでした。ただ、自分にとっての習作のつもりで書いただけでした。ですから、現実にうまく出版されたときは驚きました」と言うラ・グーマの感慨がよけいに真実味を帯びて迫って来る。

ロンドンに亡命中のブランシ夫人と家族、1992年

シャープヴィルの虐殺で始まった60年代、「ソウェト」を体験した70年代を経て、間近に21世紀の鐘を聞こうとする今、発禁の書『夜の彷徨』が、生まれた地南アフリカで蘇ろうとしている。前号で紹介したセスゥル・エイブラハムズ氏のもとに、ケープタウンの出版社から同書再版依頼の手紙が届いており、しかも出版の可能性は高いという。時代を越えた人間の魂の力を思わずにはいられない。

1960年のシャープヴィルの虐殺

短い新聞記事

『夜の彷徨』をラ・グーマが書こうと思った直接のきっかけは、ふと目にしたケープタウンのある新聞の短い記事である。その記事には「某チンピラが第6区で警官に撃たれ、パトカーの中で死亡した」とあった。

既に書いたように、ラ・グーマは55年に嘱望されて左翼系週刊紙「ニュー・エイジ」の記者となり、57年には、コラム欄「わが街の奥で」を担当し始めていた。従って、ラ・グーマはジャーナリズムの最先端にいたわけで、報道の実状を充分に知っていたのである。

コラム欄「わが街の奥で」(Up My Alley)

白人支配の国では、白人の利益にしたがって報道も厳しく規制されており、白人層に関心のない黒人社会の記事は当然なおざりにされる。白人記者は充分調査もしないで、人づての資料をもとに黒人社会についての記事を書く。アパルトヘイトの壁によって黒人杜会と厳しく隔てられているので、白人記者が生きた黒人社会の実態を報道することは不可能である。ラ・グーマの見た記事も、おそらく警察からの発表をそのまま、埋め草用にでもと編集長に担当記者が送った類のものであろう。

ラ・グーマは充分その記事について調べたわけでないが、第6区の只中で現実を見据えながら人々とともに生きていたから、「某チンピラ」が如何にしてパトカーの中で死んでいったかを手に取るように理解することが出来た。その辺りの経緯をラ・グーマは次のように述懐する。

私は、この男がどのようにして撃たれ、如何にしてパトカーの中で死んでいったのか、そしてその男に一体何が起こったのか、と、ただ考えただけでした。それから心の中で、虚構の形で、とは言っても、第6区での現実の生活がどんなものであるかに関連させた形で全体像を創り上げてみました。こうして私はその悲しい物語『夜の彷徨』を書いたのです。

もの語り

『夜の彷徨』は、ラ・グーマの最初の小説だと言われてはいるが、本当は、祖国の解放を願うラ・グーマの、人々を語った「もの語り」と言う方が適しい。

もの語りは、主人公の青年マイケル・アドゥニスと友人ウィリボーイ、それに警官ラアルトの3人が中心になって展開されるが、息を飲んで片時も目を離せないほどスリリングな事件が起きるわけでもなく、登場人物の内面を深く掘り下げて分析している風でもない。むしろ、ケープタウン第6区のごく普通の人々の、ありきたりな生活の一断章、といった趣きが強い。しかも、現状のアパルトヘイト体制が続く限り、この物語に終章はない、そんな思いを抱かせるもの語りである。

それらの特徴は、伝記家セスゥル・エイブラハムズ氏が強調するように、歴史の記録家、真実を伝える作家を認じ続けたラ・グーマの思いがそのまま反映されたもので、エイブラハムズ氏とのインタビューで、ラ・グーマは次のように言う。

本当のことを言えば、形式的な構造とか言った意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。私は、ただ書き出しから始めて、おしまいで終わったというだけです。たいていはそんな風に出来ました。ある一定の決った形をもつというのは必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短い物語でも長い物語でも、私はただ頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶんです。頭の中でいったん出来上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決った形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います。

そこには、しかし、南アフリカのケープタウンの、アパルトヘイト下に坤吟する人々の生々しい姿が描き出されている。

アパルトヘイトの中で

もの語りには、黒人白人を含めて様々な人物が登場するが、ラ・グーマはただ慢然とそれらの人物を並べたわけではない。歴史を記録し、世界に真実を知らせたいと願う作家らしい透徹した目がそこには光っていて、それぞれの人物に見事にその役割を演じさせている。

もとより白人の利益に基づいて築かれたアパルトヘイト社会での黒人の生き方は、限られる。諦めて法に従うか、アウトローを決め込むか、或いはその法と真向うから闘うか。

諦めて法に従えば、屈辱と貧困と悲惨な生活が待ち受けている。アウトローを決め込めば、盗むか、襲うか、乞うか、たかるか、そんなたぐいの生き方しかない。

法と闘えば、国外に逃れるか、拘禁されるか、或いは官憲の目をかいくぐって地下に潜むかしか道が残されていない。

法と闘う人物像はラ・グーマののちのテーマとなるが、このもの語りでは、特に、諦めて法に従っていたがやがてアウトローの世界に足を踏み入れるマイケル・アドゥニスと、すでにアウトローを決め込んだウィリボーイにラ・グーマは焦点を当てている。

「法」によって厳しく規制されたアパルトヘイトは体制下の日常生活で、黒人が白人と係わりを持つ局面は、主として3つ考えられる。

1つは職場である。専ら白人のために存在する経済機構のなかでは、白人対黒人の関係は、常に主と従、であり、その一線を越えようとすれば、黒人は職を失うしかない。その時黒人は、又、新たに職探しをするか、或いはアウトローの仲間入りをするかの二者択一を迫られる。

2つ目は「法」に忠実に従い体制維持をはかる当局で、黒人に対するその態度は実に高圧的だ。だが、黒人には忍従するしか術はなく、もし反抗すれば投獄、である。

3つ目は、落ちぶれ果てて黒人街に住むようになった白人である。ヨーロッパ入植者とアフリカ人、アジア人との混交が何世代にもわたって行なわれてきたケープ社会ではよく見かけられる現象で、ラ・グーマは特に、2つ目に相当する白人警官ラアルトと、3つ目の落ちぶれ果てた白人アンクル・ダウティを取り上げて、典型的な白人像を描き出そうとしている。

マイケル・アドゥニス

アドゥニスが、同じアパートの住人アンタル・ダウティを瓶で撲り殺したのは、安ワインの勢いをかりたはずみには違いないが、本当の原因はもっと深いところにあった。幼い頃から長年の間に積もり積もった白人への怒りや憤りが、今は老いぼれ果てた弱者にむけられて一気に爆発したのである。ラ・グーマはその白人への怒りや憤りがどんな風にしてアンクル・ダウティに向けられたのかをさりげなく描き出してはいるが、よく見ると、先に記した黒人の接し得る3つのタイプの白人の典型を実に巧みにわずか数時間のもの語りの中に織り込んでいる。

1つ目は職場の白人である。作品の中に実際に登場しているわけではないが、その白人の様子はアドゥニスの会話を通して読者に知らされる。アドゥニスは口うるさい職場の白人に口答えをして馘にされたばかりで、立ち寄った安レストランに居あわせたウィリボーイにその怒りをぶちまける。

あの白人野郎は運がよかったぜ、俺はそんなに文句を言ったわけじゃねえんだからよ。奴はこうなるのをずっと望んでやがったのさ。人がションベン行くたんびにぶつくさ言いやがって。なんてこった、あいつの言う通りにしてりゃ、一寸手を休めるかわりにションベン漏らしてたぜ。そうさ、あいつ、俺がションベン行くとこをつかまえて小言を言いやがった。それで、くたばっちまえ、と言ってやったんだ。

・・・・・とにかく、俺は奴に、このろくでなしボーア人め、と言ってやったんだ、そしたらあいつ、支配人呼びやがって、奴ら給料払ってから、とっとと失せろ、と言いやがった。あのボーア人野郎、今にカタをつけてやる。(ムバリ出版刊テキスト3~4ペイジ)

どうあがいてみても、カタのつかないことは、誰よりも本人が一番よく知っている。だからこそ、尚更その怒りや憤りが治まらないのだ。

その怒りと憤りは、帰途路上で出会った2人の白人警官によって倍加される。

前方に警官の姿が見えたとき、アドゥニスはよけようと思ったが、結局はよけ切れなかった。そんな場面をラ・グーマは次のように描く。

マイケル、・アドゥニスが酒場の方に向きを変えたとき、2人の警官がこちらにやって来るのが目に入った。2人は平たい帽子にカーキ色の上下、腰には磨きのかかったガンベルトに革ケース入りの重い銃を下げて歩道をこちらにやって来た。2人とも、まるでうすら赤い氷の中から彫り出してでもきたかのように、固く凍りついた表情をしており、厳しくて冷たそうな目が、青いガラスの破片のように鋭く光っていた。2人は自分たちのコースを変更しないで、海を行く駆逐艦のように歩道の人の流れを押し分けながら、並んでゆっくり決然とした足どりで歩いていた。

2人はそのまま進んでやってきた。アドゥニスは避けて自ら脇によろうとしたが、うまく逃れるまえに、2人はいつものように造作ない巧みなやり口で側面にまわり、アドゥニスを挾み打ちにしてしまった。(9~10ペイジ)

マリファナはどこだ、と警官は尋問した。初めから犯罪者扱いである。アドゥニスがその嫌疑を否定すると、今度はポケットの中を見せろ、の命令である。2者のやりとりの場面が続く。

「その金はどこで盗ったんだ」その質問は洒落っ気もなく恐ろしいほど本気で、口調にやすりの表面のような硬さがあった。

「盗ったんじゃないっすよ、だんな (この糞ったれのボーア人め)」

「じゃあ、通りから消え失せろ。二度とこの辺りをうろつくんじゃねえぞ。わかったな」

「わかりやしたよ (この糞ったれポーア人め)」

「わかりやした、だけか。お前、誰と話してるつもりなんだ」

「わかりやした、だんな。(このブタ野郎ボーア人め、くだらん銃なんぞぶら下げやがってこの薄汚ねえ赤毛しやがって)」

だんな (bass・・・・・・アフリカーンス語で、英語のmaster, sirに相当する) をつけさせるのは、かつてのアメリカ南部の白人が黒人にsirをつけさせたのと同じである。白人優位社会の象徴のようなもので、そのカラー・ライン(人種の壁)は想像以上に厳しい。

これらのやり取りは、人通りの中、白昼に堂々と行なわれた。尋問のあとで2人の警官はアドゥニスを後に立ち去ったが、1人は肘でアドゥニスを押しのけてからゆうゆうと歩いて行った。「アドゥニスの心の中に痛みが渦のように絡み合って、激しい怒りと憤懣と暴力的な感情が膨らんでいった」(11ペイジ) と表現されたアドゥニスの屈辱感がみごとに伝わって来る。

とは言っても、アドゥニスにとって、これが初めての経験とは思えない。これまでにこんな辱めを幾度となく味わった、と考える方がむしろ自然である。

そんな積もり積もった白人への怒りが、馘にされた職場の白人と、路上で辱めを受けた白人警官に触発されてとうとう、酒に溺れた、死にかけの白人アンクル・ダウティに向けられたのである。

従って、アンクル・ダウティを殺したあとのアドゥニスの反応は、済まないことをした、という類のものではなかった。死体を見て気分が悪くなり、壁に向かって戻したあと、いわばショックで酔いが醒めたような感じとなり、「ああ、こんなつもりじゃなかったのに。こんな老いぼれ、殺るつもりじゃなかったんだ」(20ペイジ) と口走っている。続いて、たいへんなことになる、こんなつもりじゃなかった、逃げた方がいい、サツは白人が殺られちゃ黙っちゃいねえ、こんなつもりじゃなかった、誰か来る前に逃げないと、などと千々に心を乱しながらも、死体を視つめながら「そうさ、奴はカラードの俺たちと一緒に住む権利などなかったんだ」と、はや自分の行動を逆に正当化することを考え始めている。おそらく、それだけアドゥニスの白人への怒りや憤りが強かった、ということになろう。

この事件が、結果的には、偶然尋ねて来たウィリボーイを巻き添えにし、アドゥニス自らも意に反して、チンピラ連中の仲間入りを余儀なくされる引き金となる。

ケープタウン第6区

ラ・グーマは、第6区で出会った様々な青年をもとに、アドゥニス像を創り上げたが、中でも、本誌8号で紹介した黒人少年ダニエルのイメージが特に強かったと、次のように語る。

私はケープタウンで育ったアドゥニスのような少年をたくさん見てきました。私が少年のころ、ダニエルという名の親しい友だちがいて、2人はよく一緒に遊んだものでした。しかし、その子が黒人だというので、集団地域法のためにめいめい違うところに住むことになりました。何年かたって、お互い大きくなったとき、私はダニエルと再会しましたが、そのときダニエルはもういっぱしのちんぴらで、すっかり街にたむろする札付きのごろつきになっていました。ダニエルが私のむかしの友だちだったので、よけいに胸が締めつけられる思いでした。2人があまりにも違った方向に進んでしまった事実をしみじみかみしめることになったのです。ダニエルは私に強烈な印象を残した青年の一人でした。他に、私と一緒に学校に通ったダニエルと同じような友だちもいます。必ずしもその友だちみんながみんな犯罪者になってしまったわけではありません。多くは、これからどうなるのかもわからず、何とか生計を立てながら、ただその日その日を生きて行くだけ、そんなごく普通の人たちでした。その人たちこそ『夜の彷徨』に出て来る本当の意味での登場人物なのです。

ラ・グーマは「私にとって写実的表現とは単なる現在の投影ではないのです・・・・・・写実的表現によって読者に真実を確信させ、何かが起こり得ることをほのめかす必要性があります。その目的は読者の心を動かすことなのです」と語ったことがあるが、アドゥニスに関するラ・グーマの写実的表現によって、アパルトヘイトのなかで、法に従うアドゥニスのようなごく普通の青年が、如何にた易くチンピラ仲間になって行くかを、読者はたしかに思い知らされる。

ウィリボーイ

ウィリボーイは、すでにアウトローを決めこんだ青年である。アドゥニスが、自分を馘にした白人への怒りを口にしたとき、ウィリボーイは、次のように息巻いてみせる。

「そうだろう。白人んとこで働いてりゃ、そんなこたしょっちゅうさ。俺は白人んとこで働いたりなんぞしねえよ。もちろんカラードんとこでもさ。仕事なんぞ、糞食らえだ。仕事、仕事、仕事、仕事なんかやってどうなるってんだ、俺はやらねえぜ」(3~4ペイジ)

「いや、俺は働かないぞ。いままでだって、これっぽっちも働いたこたねえよ。働いたって、働かなくたって、何とか生きてけるもんよ。俺が飢え死にしたっとでも言うんかい。仕事。けっ、仕事なんぞ」(4ペイジ)

アウトローを決め込んだウィリボーイではあったが、体制は見逃してくれなかった。こともあろうに、仕事なんぞ・・・・・・と息巻いて見せた相手アドゥニスに僅かな金の無心に行って事件に巻き込まれ、殺人犯の濡れ衣を着せられてしまったのである。

白人警官から不意に呼び止められたとき、本能的にウィリボーイは逃げ出した。長年の経験から無実を言い張ることのむなしさを、肌で感じ取っていたからである。

ラ・グーマは逃げ回るウィリボーイに過去を回想させながら、ウィリボーイがなぜチンピラになったのか、一体どんな家庭に育ったのかを読書に告げる。

ウィリボーイは再び考えた。俺が一体何をやったと言うんだい、俺はなんにもやっちゃいねえよ。ウィリボーイの心臓は高鳴った、母親が、このやんちゃ坊主が、と見下ろしながらつっ立っていたからである。ウィリボーイは7歳だった。いつも夕刊を売り歩いた。親方が、売り上げの中から、2, 3 ぺンスほど支払ってくれたが、その金は決して家には持って帰らず、いつもひとかかえの魚とポテトチップスに消えてしまった。ウィリボーイはその朝も何も食べていなかった、あとで食べたのもわずかにミルク、砂糖なしの粥を碗に一杯と古いパンを一枚きりだったから、夕方には腹の虫がないてないて仕様がなかった。ぼろアパートの部屋に戻った時、ウィリボーイは魚の臭いをぷんぷんさせていたうえ、新聞の稼ぎを出せなかったから、母親は顔をぴしゃりとやって、このやんちゃのろくでなし、とウィリボーイを罵った。母親が何度も何度もびしゃびしゃっとやったから、頭が肩の上でだらんとなって、顔がひりひりと痛んだ。ウィリボーイは痛くて泣いた。

母親はほんのちょとしたことで腹を立ててウィリボーイを鞭で打った。母親が、父親に撲られる腹いせに自分を撲りつけているのをウィリボーイはよく知っていた。父親の方は、毎晩酒に酔って帰ってきては母親を撲り、厚い皮ベルトでウィリボーイに襲いかかった。母親は部屋の隅にうずくまって金切り声を上げ、もう堪忍して、とすすり泣いた。母親の番が終わると必ずウィリボーイに順番がまわってきた。時には部屋からうまく逃げ出せることもあったが、夜中遅く戻って来ると、父親は酔いつぶれて高いびき、母親は泣きながら眠り込んだあと、という場合が多かった。父親から逃れられない母親は、ウィリボーイに鞭を振るってその仕返しをやっていたのである。ウィリボーイは今、屋根の上にへばりついていたが、再び「このやんちゃのろくでなし」という母親の声を聞いた。

逃げないと、逃げないと、撃たれたくねえよ、奴に撃たさないでくれ、とウィリボーイはつぶやいた。(78ペイジ)

しかし、ラアルトはウィリボーイを逃さなかった。無情にも、追いつめられてポケットからナイフを構えたウィリボーイを、ラアルトは撃った。救急車も呼んでもらえず、パトカーの後部席に放り込まれたウィリボーイは、再び母の声を聞く。

「このやんちゃ坊主め」と母親が叫んで顔をびしゃっりと叩いたので、ウィリボーイは体じゅうに痛みが走るのを覚えた。カーキ色のシャツの汚いぼろ袖で出てくる鼻をふき、太くて短いつま先でもう片方の足の甲をこすりながら、稜ない部屋の戸口の脇柱にもたれて、泣いた。(84ペイジ)

そして、パトカーの中で意識が薄れかけた時、夢うつつをさ迷いながら、ウィリボーイは口走る。

「助けて、神さま、助けてくれ。ああ、かあちゃん、ああ、かあちゃん。神さま、助けて下さい。助けて下さい。死んじゃうよ。死んじまうよ。助けて下さい、助けて下さい。ああ、神様、お助け下さい。お助け下さい。お助け下さい。どうか、お助け下さい。神さま、神様。おかあさん。助けて。助けてよ」(86ペイジ)

ラ・グーマによれば、ウィリボーイもアドゥニスと同様、少年時代の友人の一人がモデルであると言う。

ウィリボーイは、私の少年時代の友人の一人を典型的なかたちで描いたものです。その少年は私と一緒に育った友だちで、若いころ私にギターの弾き方を教えてくれた少年のひとりです。街角ででしたがね。たぶん、私がその少年より少しだけもの知りだったからでしょう、私のことを教授、と呼んでいましたね。

アウトローを決め込んで、つっぱり続けたウィリボーイが、最後には自らの恵まれなかった子供時代をうらみもせず、むしろ母親の名を呼びながら死んでいく姿は、ことのほか読者の哀れを誘う。若く貴い命を、なんとむなしく散らして行くことか。今はちんぴら仲間に入ってしまったアドゥニスが、やがては、このウィリボーイと似通った運命を辿ることになるのだろうか。おそらく読者は、そんなやるせない思いをいだかないではいられない。(つづく)    (大阪工業大学嘱託講師・アフリカ文学)

執筆年

1988年

収録・公開

「ゴンドワナ」11号39-47ペイジ

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アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り