1990~99年の執筆物

概要

(写真と概要は作業中)

本文

Robert・Mangaliso・Sobukwe

ロバート・マンガリソ・ソブクウェというひと

           (2) アフリカの土に消えて

 「ゴンドワナ」21号(1994)6~19ペイジ

1960年3月21日

政府のブレーンSABRAは、当初、PACがアフリカーナー・ナショナリズムの対局に位置し、自分たちが推し進める「分離発展」の政策に、かえって役に立つと考えました。また、共産党との共闘を拒んだり、ANCと「抗争する」という理由から、治安警察のなかにもPACを歓迎する人たちがいました。しかし、59年半ばには、ANCへの反感を煽るパンフレットを配布して、政府はPACの妨害活動を開始しています。白人政府を倒して黒人を解放しようとするPACが、体制の脅威になると考え始めたからです。ソブクウェは「ランド・デイリー・メイル」紙上で、PACがANCとではなく、白人支配と闘っていることをあらためて発表してその妨害に対抗しました。その後、PACの会議には、スパイを送りこんだ保安警察が会場の外で必ず待機するようになりました。

経験不足や財政難もあって、59年7月までに会員十万人を達成するという目標はかなわず、101支部2万5000人の会員しか集まりませんでした。8月初めの大会では、12月に開く初の全国大会までにあらためて会員十万人という目標を掲げ、PACがとる最初の政治行動「ステイタス・キャンペイン」について、ソブクウェが声明を発表しました。日頃、白人の侮蔑や屈辱に黙って従うことが、黒人の劣等性を認めることになるのだから、先ずアフリカ人自身が人間としての誇りを取り戻したうえで、政治的、経済的、社会的な地位(ステイタス)の改善を求めて広範なキャンペインを展開するというものでした。その後、議論が重ねられたすえ、積極的な行動と抑圧側への非協力をうたった49年の行動計画に沿って、パス法に的が絞られ、具体的に反パス法キャンペインに向けて、行動が開始されました。

パス法は、どの黒人の集会でも議題に取り上げられていましたし、女性にも援用されるようになってアフリカ人の反感や憎悪は極限に達していましたから、非難するのはた易いことでしたが、問題は反パス法キャンペインをどう闘うかでした。

ソブクウェは、黒人労働組合がキャンペインで重要な役割を果たすと考えました。従って、白人労働組合の手助けもあって、産業調停法で交渉権を禁じられながらも58年に黒人だけの自由アフリカ人労働組合同盟が結成されてPACの執行委員が議長に選ばれたとき、キャンペインの具体的な計画を立て始めました。労働者がパスを置いたまま家を出て、仕事に行く途中、最寄りの警察署に出頭して、自らパス不所持の罪で逮捕されるという戦略です。その方法が成功すれば、警察署や裁判所や留置場に人があふれて政府は混乱し、労働者がいなくて雇用者が困るという二重の効果があらわれると、ソブクウェは考えたのです。

国民にパス法反対の積極的な行動をとるように呼びかけること、出来るだけ早い時期のキャンペイン実施に向けて組織の充実をはかること、キャンペインのための特別会費を徴収すること、いかなる事態になっても「保釈金なし、弁護なし、罰金なし」の原則を守ることなどが予め執行部で充分に討議されたうえ、12月の全国大会では、反パス法キャンペインの議題が初めて公の場に持ち出され、約3万2000人といわれる会員の代表271名によって、その議案が正式に採用されました。ただし、開始日については、警察の妨害を避けるため、ぎりぎりまで秘密を守ることになりました。

パス法に対する黒人の不満は募るばかりでした。58年の1年間にパス法違反で有罪判決を受けた者が、およそ40万人にも達していたからです。黒人だけではなく、アジア人やカラードや白人も、パス法に反対して色々な抗議行動を起こしていました。国の外からも、当時吹き荒れていた「変革の旋風」の勢いが伝わってきていました。国民党政権の施策に異議を唱えたイギリスの首相マクミランの演説も、大きな波紋を呼びました。内外の状況から考えて、誰もが今なら変革は果たせるという期待を抱いていました。

一方、ANCは、成果はあまり見られなかったものの、既に59年の6月にパス法に反対する行動を起こし、12月の年次大会では、60年3月31日を「パス反対の日」に設定する次の計画を打ち出していました。したがって、ソブクウェは、ANCに先駆けて、出来る限り早い時期にキャンペインを実施する必要性を痛切に感じていました。当初、3月7日に向けて準備を進めていましたが、ビラの印刷が間に合わず、2週間後の3月21日に開始日を設定して「大地の子供たちよ、アフリカを忘れずに!」で始まる最終的な指示を出しました。自分たちの踏みだす第一歩が歴史的で、可能性に満ちていること、あくまで非暴力を貫くこと、闘いは独立が達成されるまで続くこと、アフリカ大陸も歴史も自分たちの側に味方していること、今日の独立と明日のアフリカ合衆国建国に向けて前進することなどが強調されていました。

3月18日にはジャーナリストに記者会見をして、キャンペインの予告と説明を行ないました。また、ANCと、黒人も所属する自由党には呼び掛けの手紙を、南アフリカ警察警視総監には、非暴力を貫くキャンペインの予告と、警察による武力行使の回避を要請する手紙を、予め送付しました。

二月中、ケープタウンを中心にケープ州を精力的に回ったソブクウェは、その時かなりの手応えを感じました。特に若い層の反応は大きく、ソブクウェも各地を回った他の執行委員も必ずキャンペインは成功すると確信しました。

1960年3月21日月曜日、ソブクウェはいつもより一時間早い5時に起き、6時半に家を出て、オルランドにあるソウェトの中央警察署に向かいました。ヴェロニカと、取材で同行するポグルンドが、自宅前でソブクウェを見送っています。途中、PAC会員と合流して、一時間後に警察署に到着し、8時20分には、数名と共に建物の中に入って、パスを携帯していないので逮捕してほしいと申し出ています。しかし、今は忙しいので外で待つようにとの指示を受けて、11時頃まで外で待つことになりました。警察署内は、どう対応すべきかが決まらず混乱しているようでした。中庭には、私服の保安警察とライフルを手にした数多くの白人警官が待機し、玄関前には、150人から200人のアフリカ人が集まっていました。

外で待っている間に、事態は思わぬ展開を見せました。ポグルンドの同僚が、何箇所かの黒人居住区で、警察の発砲によって死者も出ているというニュースを運んできたのです。ポグルンドからニュースを告げられたソブクウェは、動揺を隠せませんでした。ポグルンドは、さっそく居住区の一つシャープヴィルに駆けつけました。そして、大量虐殺を目のあたりにしたのです。死者68名、負傷者186名。300人の警官が、2万人近いアフリカ人に対して無差別の銃撃を行なったのです。死傷者の中には、女性や子供も含まれ、大半が背後から撃たれていました。警察の放った705発の銃弾によって歴史を大きく塗り替えられた南アフリカは、もはや元の状態には戻りませんでした。

シャープヴィルで惨状が繰り広げられていた頃、ソブクウェは既に逮捕されていました。11時頃に3人の保安警察が到着したあと、ソブクウェと数名のリーダーの名前が読み上げられて警察署内に入り、逮捕されています。ソブクウェが罪状を聞くと「扇動罪だ」と告げられました。その後、警察は、外にいるアフリカ人を追い返そうとしましたが、群衆はどうしても立ち退こうとはせず、結局、全員が逮捕され、リーダーたちとは別の場所に収容されました。

その後、ソブクウェはヴェロニカの病院に連れて行かれたあと、自宅と大学の捜査に立ち合い、午後1時には、ジョハネスバーグの中央警察署マーシャル・スクウェアに連行されています。他のPACのリーダーも、ソブクウェと同じように家宅捜査などに応じてから、全員がマーシャル・スクウェアに集められました。

シャープヴィルだけでなく、各地でキャンペインが展開されました。特に、ケープタウンとその近郊では、ソブクウェに深く感化を受けた21歳のケープタウン大学の学生フィリップ・コゥサーナの指揮のもとに、活発な活動が繰り広げられています。21日の朝には、ワインバーグで1000人以上が逮捕され、ランガなど3箇所ではたくさんの人が集まりました。5000人が集まったランガでは、武力衝突を避けるため、コゥサーナは群衆を一時家に帰していますが、夜になって再び一万人が集まったとき、警察は武力を行使して群衆を追い返しました。しかし、おとなしかった群衆が警察に投石したり、店や政府の建物に放火したりするなど、事態は騒然となりました。夜には、警察と軍隊の増強がはかられました。

シャープヴィル事件の翌日、PACは新聞に、あくまでパス法が廃止されるまでキャンペインを続けるという挑戦的な声明を発表しました。シャープヴィル地区では、何千人という黒人が、丸一週間、仕事をボイコットしたため、保安警察による明け方の家宅捜査が繰り返され、たくさんの地域で集会が禁止されました。にもかかわらず、3月24日には、ケープタウンでは数千人が警察に自ら出頭して、逮捕されています。3月25日には、コゥサーナに率いられた2000人が、町の中央警察署に詰めかけ、逮捕をめぐって押し問答をしたすえ、事態が収まるまでケープタウンではパス法を一時停止する、という約束を警察から取り付けています。ANCは、この時期に、3月28日を「哀悼の日」として、全国一日在宅ストライキを呼びかけました。

政府は、事態の収拾にやっきになりました。25日に、必要ならばPACとANCの活動を禁止させる法律を議会に提出するという声明が出され、翌26日には、警視総監を通じて、パス法の一時停止が発表されました。すぐ後に、法務大臣が、事態が正常に戻ればパス法を復活させることを補足して一時的な措置であることを強調しましたが、政府の譲歩とPACの勝利は明らかでした。

PACは、一時的措置を拒否して直ちに声明を出し、パス法キャンペインの継続を宣言するとともに、政府に、逮捕されているリーダーとの交渉を促しましたが、リーダーの逮捕による組織の弱体化は隠せませんでした。連絡の不行き届きや資金不足などの問題が表面化してきていたのです。悪いことに、ANCがキャンペインの主導権を握ったことで、組織は更に混乱しました。パス法の一時停止措置などの流れに乗じて、ANCが黒人にパスを焼き捨てるように呼びかけたからです。27日の新聞には、パスを焼き捨てるルツーリの写真が大きく掲載されました。当初はキャンペインに反対し、非難まで浴びせておきながら、パス法の一時停止措置などの成果を見て、永年の消極策を変更して急に積極策を打ち出してキャンペインに便乗してきたANCの日和見主義的なやり方を非難する声明を、ソブクウェは議長代行のジョロベを通じて伝えましたが、PAC会員も含めたアフリカ人大衆の勢いと時の流れの早さは、ソブクウェの読みをはるかに超えていました。

28日の在宅ストライキは史上最大のものとなりました。ケープタウン、ジョハネスバーグ、ポートエリザベスなどの大都市では、黒人労働者の90パーセント近くが、またピーターマリッツバーグなどの小さな町でも、相当数の労働者がストに参加して、仕事に行きませんでした。

ジョハネスバーグでは、ストに参加しなかった人たちが、帰宅したところを黒人に襲われ、パスが焼かれました。警察が強硬な手段で対処したため、夜になって黒人警官が殺されるほどの騒ぎとなりました。ケープタウンでは、約六万人の黒人がストを続行して仕事に出なかったために、牛乳や新聞は配達されず、パンや肉などの必需品も品切れになりました。又、ホテルや港や工事現場などでも、人手不足で大混乱が起きました。白人の恐怖は今や現実のものとなり、高揚する黒人の抵抗に直面しなければならなくなりました。

28日、政府はPACとANCの活動を禁止させる議案を国会に提出し、30日には裁判なしに人々を拘禁し、集会を禁止できる権限を警察に認める非常事態宣言を出して、事態の収拾に乗り出しました。朝早くから、数百人のリーダーが逮捕されています。タムボのように、辛うじて国外に逃れた者もいました。ケープタウンでは、リーダー逮捕の報せやその日行なわれたランガの強制手入れなどに刺激された群衆が行進を始め、夜になって国会議事堂の前に三万人が集まりました。先頭にいたコゥサーナは、法務大臣との会見の約束を警察と交わして、群衆を引き上げさせましたが、その後、約束を反古にされて逮捕されたうえ、9ヵ月間拘禁されました。ランガやニャンガなどでは、リベラルや反アパルトヘイト女性組織ブラック・サッシュなど白人の支援を受けながら、黒人はその後も抵抗を続けましたが、警察は大量動員を行ない、電気や水道を切って黒人に圧力をかけました。

4月8日には、PACとANCを非合法化する法律が発令されました。しかし、その時には、既に両組織とも壊滅状態で、組織としては機能していませんでした。

そして、4月10日にパス法が復活しました。PACの呼びかけに呼応して立ち上がった黒人勢力は、警察や軍隊や議会などを駆使した少数派白人に、完全に封じこめられてしまったのです。

ソブクウェは、3月21日付けで、ヴィットバータースランド大学に、辞職願いを郵送していました。手紙には、自分の行動が、大学をつぶす口実に利用されないように辞職を申し出ることや、PACの議長になってからの政府の圧力を無視してくれた大学側へのお礼などが書かれていました。大学は、3月31日付けで、正式に辞表を受理しています。

禁固刑三年

ソブクウェはマーシャル・スクウェアに二晩拘留されたあと、法廷に連れ出されました。「法律に反対する抗議の手段としてパスを持たないという罪を犯すように原住民を不当に、不法に扇動した」ため、被告第一号のソブクウェとリーダー22人に刑事法修正令が適用されるというものでした。同修正令はもともと、ANCの不服従運動をつぶす目的で1952年に改悪されたもので、500ポンド以下の罰金もしくは五年以下の懲役が課せられる重刑でした。ソブクウェは、白人が作った法律のもとで、黒人が公正な裁判を受けられるとは思えないので、抗弁はしないと述べて「保釈金なし、弁護なし、罰金なし」の原則を貫きました。そして、その日のうちに、未決囚として裁判所近くのフォート刑務所に移されました。

5月4日に「法に反する罪を犯すように人々を扇動した罪により、ソブクウェと18人は有罪、四人は無罪」という判決が出されました。ソブクウェには3年、レバロを含む4人に対しては2年、ほかの14人には1年半の禁固刑が言い渡され、今回は囚人としてフォート刑務所に送られました。判決が言い渡される前に、ソブクウェは「被告だれもが、少数白人によって作られた法律に従う道義的な責務はないと感じていました。裁判官の個人的な名誉を非難したいと願うものでは決してありませんが、不正な法律が公正に適用されることはあり得ないのです。たとえ私たちが刑務所に送られても、いつも代わりをしてくれる人たちがいます。自分たちが起こした行動の結果と対峙するのを恐れたりもしませんし、慈悲を乞うつもりも毛頭ありません」と語っています。

ソブクウェが法廷で闘っている間、政府は軍と警察を総動員して「秩序の回復」をはかりました。非常事態宣言後の大量逮捕第一波で、コミュニストやリベラルを含む千八百人が逮捕されてフォート刑務所に送りこまれ、ソブクウェが、南アフリカ共産党とANCの幹部であるジョー・スロボと刑務所内で鉢合わせするひとこまも見られました。多くの黒人居住区では、ランガやニャンガの場合と同じやり方で強制手入れが繰り返され、5月初めまでに、黒人の逮捕者は、18001人にのぼりました。刑務所は過密状態となり、囚人の待遇はますますひどくなりました。

政府は、8月31日に非常事態宣言を解除しています。「秩序を回復した」南アフリカは、一見いつもの様子を取り戻したかのように見えましたが、3月21日以前の南アフリカとは全く違った国に変貌していました。

フォート刑務所に収監されたソブクウェは、今度は、囚人としての扱いを受けました。刑務所にもアパルトヘイトが徹底されおり、「ナンバー・フォー」と呼ばれる黒人用のセクションに入れられ、惨めな食事や敵意に満ちた看守の残忍な扱いを強いられました。身に着けていた衣服の代わりに囚人服が支給されています。ショーティズと呼ばれる、膝上までのズボンと、カーキ色か赤の作業服と、セーターです。初冬で、コンクリートの床にもかかわらず、当初の2,3日間ははだしで、その後、ゴムのサンダルが支給されただけでした。靴下も与えられていません。頭はかみそりで剃られました。囚人同士が、少量の水と石けんをつけて剃るために、しばしば出血したり、切り傷が残りました。

通常、1室に10人から15人が収容されました。部屋にはトイレ用のバケツが一つ置かれていましたが、紙はありませんでした。1日に2度、2人が交替でバケツを空にして、汚物を洗い流しました。他にもう一つバケツが置いてあり、1日に2回、水が補給されました。サイザル麻のマットと、薄くて汚ない毛布が支給されましたが、枕はありませんでした。毎朝、マットと毛布はたたんで通路に置かなければならず、日中は、コンクリートの床の上で過ごさなければなりませんでした。面会も許されず、本や新聞はおろか、通常なら許される聖書さえも禁じられました。

食事は、1日3回、ドアの下の隙間から金属の皿を滑らせて配られました。朝食は、パップと呼ばれるとうもろこしのかゆに、濃い色の砂糖が少し入ったコーヒーのような飲み物、昼は11時から12時の間に、ゆでたとうもろこしと、たまに人参かビートの根、夕食は、3時に、パップかゆでたとうもろこしと、週に3回、2,3きれの肉が出されるだけでした。果物や牛乳などが付くことはなく、とうもろこしは腐ったような味で、パップにはいつも虫が入っていました。

待遇のひどさはどこも似通っており、ボクスバーグでは、食事のあまりのひどさに堪えかねた会員が2人、出された食事を投げつけて抗議し、罰を受けたほどでした。同調して抗議しようとする者も出ましたが、ソブクウェは、食事のことはささいな問題で、あくまで自分たちの闘いをやりぬくようにとその人たちを諌めています。そんな悪条件の中でも、会員たちはあくまで規律正しく、グループに別れての討論会や勉強会も行ないました。ソブクウェは、現在の政府やPACが理想とする政府や、ANCとの分裂やコミュニズムについてなどを議題に、主に政治的な局面について語っています。

政府の資料入手が不可能なので、正確な日時はわかりませんが、判決が言い渡された後しばらくしてから、ソブクウェはレバロといっしょにプレトリア中央刑務所に移されました。その後、ボクスバーグの二箇所、ストフバーグ、ヴィトバンクの各刑務所に回されたあと、急増する「政治犯」を収容するようになっていたプレトリア地方刑務所に移されています。

ポグルンドがシャープヴィル事件のショックからなんとか立ち直ってソブクウェを訪ねたのは、このプレトリア地方刑務所でした。ポグルンドはヴェロニカに連絡を取って手紙を書いたあと、ソブクウェから61年10月4日付けの返事を受け取っています。週に一通の手紙と一回の面会を許可されていたソブクウェと、看守の厳しいチェックを受けながら、金網の張られた分厚いついたて越しに、「ジャーナリスト」としてではなく「友人」として、ポグルンドは面会を果たしました。

三年の刑期を終えて、63年5月3日に出獄するはずのソブクウェの運命は、獄中にいる間の急激な展開によって、大きく変わってしまいました。その最大の要因は、ポコと呼ばれる集団のテロ活動でした。ポコは「アフリカの本当の持ち主」という意味のコサ語の文句「アマ・アフリカ・ポコ」の短縮形で、61年の暮れに、ケープタウンの黒人居住区でにわかに起こった運動です。非暴力を貫いた反パス法キャンペインを力で押さえこまれて遣り場を失なったPACの若者たちの憎しみが、白人に向けられたのです。容赦ない手入れを繰り返されて仕事を失ない、妻や子供をホームランドに送られたランガやニヤンガの住人や、政府の押しつけたバンツースタン政策に協力する傀儡(かいらい)に反発するトランスカイの若者や、スラムにたむろするチンピラなどを巻きこんで、ポコは急速に勢いを増しました。そして、2年の刑期を終えてバソトランドに逃れたレバロが指揮を取り始めた八月には、ますますその勢いを強めました。

ポコはすでに黒人の警官や通報者を殺していましたが、11月22日に、ケープタウン近くのパールで、白人2人を殺害し、翌年2月2日には、トランスカイで、2人の少女を含む5人の白人を惨殺しました。既にウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)を創設して、ANCが61年12月に武力闘争を開始していましたから、白人社会に与えた衝撃は尚更でした。裁判所は、「シャープヴィル」3周年の3月21日に、ポコがPACと同一体で、年内に革命的な手段による政府転覆の意図があるので、政府の迅速な対処を促すという報告をまとめています。

3月末、レバロはバソトランドで記者会見し、ポコは会員が15万人、PACとは同一体で、63年中にアフリカ人を解放すると話しました。そして、質問に答えて、革命では白人を殺すことも避けられないだろうと付け加えました。

ポコは4月の7日と8日に蜂起し、警察署を襲って武器を奪い、石油タンクに火をつけたり、白人の雇用者に毒を盛ったりして出来るだけ多くの白人を殺害する計画を立てていましたが、連絡の手紙を持ったメンバーがバソトランドで逮捕されて、計画は未遂に終わりました。3000人以上が逮捕され、ポコは消滅しました。レバロ自身は、イギリスの支援でタンザニアに亡命し、ダルエスサラームを拠点に79年までPACの議長代行を務め、86年に死去しています。

レバロは、釈放されるソブクウェにPACの主導権を戻したくなくてあのような行為に出たのか……その動機は推測の域を出ませんが、レバロの無謀な行為は、体制側にソブクウェの拘禁を延長する口実を与えました。ソブクウェがポコに関係があろうとなかろうと、白人支配の体制の脅威には違いなく、時の首相フォルターは、刑期終了後も法務大臣が認めれば、拘禁を再延長できる「ソブクウェ法」を考え出し、議会に提案しました。既に議会に提出されていた一般法再修正令俗に言う90日間無裁判拘禁法(本誌16号14ペイジから18ペイジを参照)と並んで審議され、5月1日には効力を発揮しました。「ソブクウェ法」は、一応、64年6月30日が期限となってはいましたが、国会の承認があれば1年毎に延長が可能という法律でした。共産主義に反対する立場を貫くソブクウェが、こともあろうに共産主義を弾圧する法律で拘禁されるという皮肉な結果となりました。

そして、ソブクウェはロベン島に送られました。

ソブクウェ法とロベン島

テーブル湾の真んなかに浮かび、テーブル山から一望できるロベン島は、長い所が3.2キロ、短かい所で1.6キロのほぼ楕円形をした小島です。一番高い所でも海抜20メートルという平らな地形で、ケープタウンからわずかに八キロしか離れていません。しかし、大西洋の波が荒く、しかも岩肌のために近寄ることさえ難しく、古くから流刑の島として使われてきました。早くは16世紀の初めに、ポルトガルの囚人が、17世紀にはイギリスの囚人が、そして19世紀初頭にはコサのリーダーがその島に流されたと言われています。その後百年ほどは、ハンセン病や精神病患者の隔離施設として使われましたが、第二次大戦中は、海からの攻撃に備えて大砲が据えつけられていました。60年には、島が最高治安刑務所となり、増えつつあった黒人男性の政治犯が収容されるようになりました。60年半ば頃までには、囚人の数は1500にも膨れあがっていました。

ソブクウェは3ヵ月ほど仮の場所に収容されたあと、建物番号158、159、160が付けられたバンガロー式の住宅が建つ、フェンスに囲まれた場所に収容されました。フェンスの上には有刺鉄線が張りめぐらされ、入り口の門には昼は1人、夜には2人の看守がつけられ、番犬も配備されていました。「万全を期する」ために、看守はすべて白人でした。

4辺が45メートル、51メートル、27メートル、54メートルの土地がソブクウェに与えられた世界でした。しかし、世論の非難をかわすためにフォルスターが言明したように、独房には監禁されずに、通常の囚人とは違う扱いを受け、あてがわれた敷地内での「自由」は保障されました。白いペンキで塗り替えられた建物には、小さな部屋が2つあり、ソブクウェは一つを書斎兼寝室に、もう一つを台所として使いました。部屋には、鉄製のベッドとマット、食器棚、テーブルと木の椅子、本棚と床マット、それにシーツと毛布が用意され、数か月後には、両方の部屋にカーテンがつけられています。敷地内の少し離れた所に、シャワーと洗面が出来るブロックと、使われていない別棟がありました。

食事は以前より内容のいいものが出されるようになり、囚人に許可される本や雑誌に加えて、新聞の講読や国営のラジオ放送を聞くことも許されました。時間の制約はなく、申し出れば、夜の明かりも消されることはありませんでした。

しかしながら、ひとり隔離された毎日の生活は詫しく、話しかけることの出来る相手もアフリカーナーの看守だけでした。その看守でさえも、ソブクウェには喋りかけないようにとの厳命を受けていました。

検閲を受けて、ソブクウェは週に2通の手紙のやり取りを認められましたが、面会は殆んど許可されませんでした。最初の九ヵ月の間に面会を許されたのは、ローマカトリック教会とメソジスト教会の牧師とイギリス国教会の司祭、それに兄のアーネストとヴェロニカの5人だけにしか過ぎません。

ソブクウェは、島内の囚人との接触は禁じられていましたから直接言葉を交わすことはありませんでしたが、遠くから目で挨拶を交わすことがありました。ソブクウェの存在を知っていたPACやポコのメンバーが、強制労働の作業中にソブクウェのいる敷地の近くまで来て、懲罰を覚悟して敬意を払ったからです。PACのサークル内でよく読まれていたトーマス・マコーレイの詩「ホレイシャス」をコサ語で大声を出して吟じた人もいます。ソブクウェはコサ語でその詩に応じています。

ソブクウェは、殆んど外部と接触することなく、ラジオを聞いたり本を読んだり、登録を済ませたロンドン大学の経済学士号の勉強をしたりしながら毎日を過ごしています。8月には、野菜や花を畑で作り始めました。2,3ヵ月のちに水不足で中断していますが、わずかな慰めにはなりました。食事が良くなり、強制労働がなくなったお陰で、年末までに体重がもとに戻りましたが、長い間刑務所内で体を冷やしたために、左肩の付け根と背中の下の部分に痛みを覚えるようになっていました。

この頃から、本格的なポグルンドの経済援助が始まっています。国際世論を気遣った政府が一応は特別待遇の措置は取ったものの、その措置が表面的で、充分でなかったからです。2人の手紙のやりとりは続きましたが、検閲により黒く塗り潰された箇所のない手紙は一度もなく、数か月遅れたり、手紙そのものが消えることもありました。ポグルンドは衣服や本も送りました。ソブクウェの通信教育用の本を貸してくれる図書館が見つからなかったからです。また、募金の協力を得て「ケープ・タイムズ」や「ランド・デイリー・メイル」などの新聞や、ソブクウェの好きな「リーダーズ・ダイジェスト」などの雑誌の講読手続きをして、ロベン島に郵送されるように手配しました。お陰で、ソブクウェのもとに、読み切れないほどの新聞や雑誌が届けられるようになりました。

12月には、ヴェロニカが3人の子供を連れてソブクウェに会いに行きました。ヴェロニカは、ロベン島でソブクウェと一緒に過ごせるように頼むためにフォルスターに手紙で面会を申し込みましたが、取り合ってもらえず、週に3回の訪問を許可されただけでした。訪問を許可されたといっても、日本の3倍もある国土のほぼ端から端、ヨハネスバーグからケープタウンへの1600キロの移動はそう簡単なものではありません。ソウェトで助産婦をしていたヴェロニカは、長期の休暇をもらって出かけています。助産婦や看護婦は、当時のアフリカ人女性の職業としては、一番恵まれた部類の仕事でしたが、アフリカ人であり、女性であるがゆえに最低の賃金しかもらえないヴェロニカに、まして、一家の柱を拘禁されたヴェロニカに、夫に会いに行くだけの経済的な余裕があるはずもありませんでした(本誌8号25ペイジでは、同じように助産婦や看護婦として働いていた、アレックス・ラ・グーマ夫人のブランシさんを紹介しています。また、15号の「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」では、2重の抑圧に苦しむアフリカ人女性の生の声を聞くことができます)

経済的な問題だけではありません。当時、乗り場近くにアフリカ人を泊めてくれるホテルがなかったために、ケープタウンに着いても宿泊する場所がなく、当初は、ロベン島へのフェリー乗り場から遠く離れたカラードの居住区ランガから、ロベン島に通わなければなりませんでした(のちになって、かろうじて市街地の端のカラードの居住区内に泊めてくれるホテルを見つけています)そればかりではありません。フェリー乗り場でも、島に着いてからも、白人看守の厳しいボディチェックや持ち物検査を受けて、毎回惨めな思いを味わいました。そして、小さな面会室で、やっと夫に逢うことを許されたのです。

ヴェロニカのロベン島行きを支えたのは、ポグルンドと友人のユラリ・ストットでした。ストットは、ブラック・サッシュの前議長で、当時ケープタウンの市会議員を務めていました。60年のステイタス・キャンペインでは、警察の弾圧を受ける黒人居住区に食料を援助をするなどして、政府に立ち向かっていました。資金集めやケープタウウンでの家族の世話などを快く引き受け、何年間にもわたって、ヴェロニカと家族を支援し続けました。このストットともう一人、同僚であったヴィットヴァータースランド大学のウェリントン元教授が、ソブクウェの面会を拒否されています。2人が、おそらく、政府の意に反してソブクウェを援助した鼻持ちならないリベラルだったからでしょう。

64年の1月から4月までの3ヵ月間、ポグルンドは記者として面会を許されました。手紙のやり取りを続けながら面会の機会を探っていたポグルンドは、治安警察の長官ヘンドリック・ファン・ダル・ベルフを通じて面会の許可を取りつけました。ベルフは、61年にポグルンドが投獄された時の判事で、その後も何回か食事をともにして議論をたたかわせたりしていました。そのベルフが、法務大臣フォルスターの友人であったために急きょ長官に抜擢されて、思わぬ面会の機会が訪れたのです。面会には、ベルフのラインを明かさない、という条件が付いていました。政府のねらいは、「新聞記者」の取材を使って、ソブクウェを虐待しているという国際世論を打ち消すことと、「友人」を利用して、政府にとってなお脅威の存在であるソブクウェの本心を聞き出すことでした。政府にとって、ポグルンドはうってつけの人物であったわけです。

政府の思惑がどうであれ、用意された小さな部屋での2人だけの3ヵ月が始まりました。2人は、盗聴器を予測して、隠して置きたいことは筆談を交えながら、家族や友人のことから、1960年3月20日以降の出来事や、パン・アフリカニズムの定義やバンツースタンなどにいたるまで、様々な問題について話し合いました。話のなかで、ソブクウェは、ヴェロニカが弁護士を通じて永久追放ビザの申請を行なっていることを告げました。ソブクウェは、いつ釈放されるかわからない状態のまま家族に犠牲を強いるのは堪え難い、このままロベン島で化石にならず自分の能力をアフリカのために使いたい、他の囚人よりいい待遇を受けるは忍びない、と考えて亡命を希望したのです。しかし、八月にはその申請は却下されています。おそらく、反アパルトヘイトの国外からの脅威になる可能性がある限り、ソブクウェを国内に閉じこめておく方が得策だと政府は考えたのでしょう。(本誌10号「祖国を離れて」で、永久追放ビザを取得して、家族でロンドンに亡命したラ・グーマを紹介しています)

6月には、65年6月30日まで「ソブクウェ法」が延長されています。今回、更に悪いことには、次回からの期間延長には議会の審議は必要なく、法務大臣の命令さえあればよいという改悪がなされていました。

地下活動をしていたPACやANCのメンバーが大量に逮捕されたり、国外に亡命したり、さらに、同年六月にはマンデラに終身刑が言い渡されるなど、政府の強硬な対応によって黒人側の状況はますます厳しくなり、ロベン島にいるソブクウェの情勢も、全く先が見えなくなっていきました。

65年2月早々に、「ソブクウェ法」は66年6月30日まで再延長され、以後、68年まで延長措置が続きます。今回は「海外に逃亡したPACの会員がソブクウェを指導者とみなしており、国内で活動の再会の動きがあるために釈放できない」という法務大臣のコメントが出されました。

1月31日には、ケープタウンのカール・ブレメ病院に入院し、2月1日に前立腺の手術を受けています。カール・ブレメ病院は、アフリカーナー政府のブレーンを育てるステレンボシュ大学の医学生の養成機関で、通常、黒人が入院することはなく、冷たい視線のなかでの辛い入院となりました。8日には退院して、ロベン島に戻されています。

体制の締め付けが強化されるにつれて、黒人だけでなく、白人も数多く国外に脱出し始めました。また、大量の逮捕者が出て、刑務所は囚人であふれ、待遇もますます悪化していきます。その刑務所の実態について、ポグルンドは6月から7月にかけて「ランド・デイリー・メイル」に12回のシリーズで記事を書きました。記事は反響を呼びましたが、ポグルンドと編集長ガンダは嫌がらせを受けたうえ、起訴され、四年と三ヵ月に及ぶ裁判に引きずりこまれました。

政府の締め付けは、ロベン島のソブクウェにまで及んでいます。ケープタウンから定期的に届けられるはずの果物が届けられなかったり、アメリカのリンカーン大学から授与された名誉博士号の連絡が本人に届かなかったりしています。また、白人アフリカーナー看守の敵意も厳しく、無言で置かれた食事がさめてしまうなどもたびたびでした。社会から完全に隔絶されたソブクウェの生活は詫びしく、辛い日々が続きます。

この時期、ヴェロニカはケープタウンに来ている間は、毎日ソブクウェを訪問する許可を得ましたが、反面、それを支えたポグランドや友人の経済的な負担が増しています。同伴した子供の分も含め、ジョハネスバーグからの旅費や滞在費、食費だけでなく、当時バソトランドの学校に通っていた子供の学費から、ソブクウェに送る果物や生活必需品などの費用を、すべてポグルンドとシャーロット・テイラー、モイラ・ヘンダーソン、ノエル・ロブなどのリベラルがまかなっていたからです。

9月に首相のファヴールトが暗殺されて、代わりにフォルスターが首相に就任しましたが、アフリカーナーの路線は引き継がれました。67年に、政府はテロリズム法を制定して権限を広げ、隣国ジンバブウェと南西アフリカ(現ナミビア)からの脅威に対抗しました。南西アフリカでは、アフリカーナー政府が国連の勧告を無視して支配を続けていたため、黒人解放戦線の活動が激化していましたし、アイアン・スミス白人政権を支援するジンバブウェからは、PACやANCの破壊活動要員が南アフリカ国内に潜入し始めたからです。そのような内外の厳しい状況のなかでのソブクウェの釈放は望むべくもなく、「ソブクウェ法」は当然のように延長されました。数年におよぶ孤独拘禁によって、ソブクウェの体と心は、すでに想像以上に蝕まれていました。この時期に訪問を許可されてソブクウェに会ったヘレン・スズマンは次のような手紙をポグルンドに送っています。

わたしがソブクウェに会ったのは、その時が初めてでした。「ヘレン・スズマンと申  します。ソブクウェさん、お加減はいかがですか」と言いますと「わたしは話し方を忘れかけています」という返事が返ってきました。私はその答えにびっくりして、ただあの人を見つめました。するとソブクウェは「さて、私は誰に話しかけるべきなんでしょうかね」と言いました。

その後、ソブクウェからスズマンとの会見についての手紙を受け取ったポグルンドは、手紙を読みながら、肉体的にも精神的にも追い詰められたソブクウェの近況を思って涙を流しています。

結果的には果たせませんでしたが、厳しい現状とあまりの将来の希望のなさに、ポグルンド自身も、この頃に、アメリカへの出国を希望しています。

67年の暮れに二週間、69年1月には数週間、家族はロベン島での長期滞在を許されて、ソブクウェは楽しいひとときを過ごしました。もちろん、すべての費用は、ポグルンドと何人かの友人が工面しています。そして、突然、4月24日に、6月30日をこえない出来るだけ早い時期にソブクウェを釈放するという法務大臣の声明が出されました。長い間の孤独拘禁によって、健康状態が悪化したり、精神障害の兆候が見えだしたソブクウェをこれ以上ロベン島に監禁して国際非難を浴びるよりは、釈放して自宅拘禁にして監視した方が得策だと政府は考えたのでしょう。

キンバリーで

「ジュウショハ、キンバリー、ハリシュウェ、ナレディドオリ六。スグニアイタシ」5月14日に、ポグルンドはソブクウェからそんな文面の電報を受け取りました。ソブクウェが連れていかれたのは、ジョハネスバーグから南に470キロ離れた小さな町キンバリーでした。もちろん、ソブクウェに選択の余地はありませんでした。

キンバリーは、1860年代にダイアモンドが発見されてから栄えた町で、白人36000人、アジア人1000人、カラード36000人、アフリカ人66000人が住んでいます。黒人居住区ハリシュウェは町の外れにあり、他のスラムと同じように、貧しい地区です。ツワナ系のアフリカ人が主流で、コサ出身のソブクウェには初めての環境でした。ソブクウェは、鉄製のベッドとわずかな家具しか準備されていないトタン屋根の家を割り当てられ、そこでの五年間の「自宅」拘禁を言い渡されました。キンバリー市内からは出てはならない、午後六時から朝の六時までは自宅内に留まること、医者や家族以外の自宅訪問は許可しないなど、様々な制限を受けています。また、黒人労働者のコンパウンドや工場、裁判所や学校などへの出入りはもちろん、自分の子供以外の教育や、拘禁処分を受けている人々との接触も厳しく禁じられました。それでも、世間から全く隔絶されたロベン島の生活に較べれば、大きな変化でした。

自宅拘禁は、武力闘争を開始した黒人勢力の破壊活動を封じるために62年に改悪された一般法修正令、俗に言う破壊活動法に規定された行政拘束処分ですが、大量逮捕によって刑務所に収容仕切れなくなった反体制勢力の活動を安上がりに禁じようとしたものです。ラ・グーマもビコも、この処分を受けています(本誌9号「拘禁されて」、10号「遠い夜明け    セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」で、自宅拘禁について触れています)事実、法務大臣ペルサーは、国民党のある集会で、一ヵ月に百ランドを稼げない白人の鉄道員もいるのに、なぜソブクウェに無料の住宅と月額100ランドを保障するのかと党員に問い詰められたとき、ロベン島ではソブクウェに年間1万2500百ランドが必要だったこと、ソブクウェが教育を受けた人間で逮捕前には相当な収入があったので、国際世論の非難をかわすためにも三ヵ月は無料の住宅と月額百ランドの保障は不可欠であることなどを強調して、その党員をなだめています。

ソブクウェにとって、キンバリーでの当面の問題は、家具と仕事でした。家は元々白人が所有していたので広く、家具をととのえるのは経済的にも大変でしたが、キリスト教会南アフリカ評議会が提供してくれた資金で、何とか最低限の家具を購入することが出来ました。

仕事は、なかなか決まりませんでした。70年の初めには、法律の仕事に携われるようにと、南アフリカ大学の法学部の通信教育課程に登録しています(76年の6月に、下級弁護士に認められて、小さな事務所を開いています)市から、キンバリー市役所のバンツー行政局の事務官の仕事はどうかと言ってきましたが、ソブクウェが政府の傀儡(かいらい)の役を引き受ける訳もなく、アフリカーナー政府の「最大限の譲歩」も、ソブクウェには通じませんでした。ソブクウェの要請もあって、ポグルンドがスズマンを通じて、ドゥ・ビアーズ社での仕事の可能性を問い合わせましたが、何の返事もありませんでした。

キンバリーで拘束されてからも、ソブクウェは家族への責任を感じ、アメリカへの出国を希望して、ポグルンドにその可能性を探ってもらっていました。70年3月には、アメリカのウィシコンシン大学から、研究員・教員として受け入れるという手紙を受け取り、政府にパスポートを申請しましたが、再度、申請は却下されています。

ポグルンドは、69年6月の初めに、キンバリーのソブクウェを初めて訪問しています。ソブクウェの自宅はおろか、黒人居住区に入る許可もおりませんでしたが、2人は市内で再会しています。以後、ポグルンドのキンバリー通いが始まりますが、ジョハネスバーグから車で5時間か、キンバリーまで飛行機で、その後空港からレンタカーかの長旅でした。折りからのオイル・ショックに加えて、各国の経済制裁を受けた国内情勢は厳しく、訪問の度毎に、保安警察の監視、尾行、盗聴、おどし、密告者の危険なども付きまといました。また、ポグルンドが白人、ソブクウェが黒人であるがゆえに、レストランでの食事も、カフェに立ち寄ってコーヒーを飲むことさえもかなわず、美術館の中や、車に乗ったまま炎天を避けた茂みの下での逢瀬となりました。六時の門限に間に合うように、黒人居住区の近くでソブクウェを車からおろしたあと、舗装されていない道路の砂煙の中に消える後ろ姿を見送りながら、自宅拘禁を強いられるソブクウェの不自由な境遇を思って、ポグルンドは胸を締め付けられています。

少し落ち着き始めてから、ソブクウェは庭での野菜作りを再開したりしていますが、九年間の拘禁生活によって蝕まれた体と心は、容易に回復しませんでした。自分の思う距離が歩けないなどの体力的な衰えに加えて、精神的に不安定な状態が続いたので、政府の許可を取り付けて、ジョハネスバーグからポグルンドの友人の精神科医を呼んで診察を受けています。

70年初めには、ソブクウェに援助し続けたモイラ・ヘンダーソンとユラリ・ストットがケープタウンからソブクウェに会いにきています。リベラルと拘束中の黒人が会見する「場所」はなく、結局、ドゥ・ビアーズ美術館の端のガレージのようなところにテーブルを用意して昼食をともにすることになりました。

この時期、何人かのアメリカ人がソブクウェの訪問を許されていますが、その中に公民権運動のリーダーで、黒人国会議員のアンドゥリュ・ヤングがいます。74年にソブクウェに会ったあと、長女ミリズワと長男ディニをアトランタの自宅に引き取って、アメリカで教育を受けさせてはという提案をしました。その結果、ビザの発給が認められ、2人は75年6月に出国しアメリカ留学を果たしました。ミリズワは心理学を専攻して大学を卒業したあと、結婚してカメルーンに移り住み、ディニは卒業後結婚して、ワシントンの法律事務所で働いています。残念なことに、その後、ヤングは南アフリカを訪れても、なにか政治的な思惑があったのでしょうか、2度とソブクウェには会いませんでした。

75年5月に、母親が90歳で死去し、ソブクウェは葬式に参列するために、800キロ離れたウムタタ行きの許可を得ています。そして、帰途、キングウィリアムズタウンでスティーヴ・ビコに会いました。拘束処分を受けたもの同士が、警察に知られることなく、密かに会っていたのです。ソブクウェによれば、少なくとも6回のメッセイジが2人の間を行き交っています。

77年6月になって、ソブクウェは体調の不調を訴えました。熱が高く、ひどい咳がなかなか取れなかったからです。一応キンバリーの医者の診察は受けましたが、不安を覚えたポグルンドが、ジョハネスバーグで友人の医師ボウド・コックの診察を受けるようにソブクウェに奨め、法務大臣クルーガーに連絡をとって、何とかヨハネスバーグでの診察を実現しました。ヨハネスバーグ行きは公表しない、ポグルンドが指定した医者以外の診察は受けないなどの条件がついたため、レントゲン撮影も出来ず、ソブクウェキンバリーの病院のX線写真を持参することも許されなかったので、コックは正確な診断は下せませんでした。その時点での診断は、細菌感染によって心臓の筋肉が弱り病状は思わしくないものの、治療次第では良くなるだろうということでした。

しかし、9月にキンバレーの病院からコックのもとにX線写真が届けられて、ソブクウェが肺癌に侵されていることが判明し、直ちにアメリカにいたポグルンドに知らされました。ポグルンドから連絡を受けた政府は、オレンジ自由州の首都ブルームフォンティンでの手術を指示しましたが、ソブクウェはその命令をかたくなに拒否しました。敵意渦巻くアフリカーナーの病院でメスを受ければ、生きては帰れないと考えたからです。政府が、どこで手術を受けてもよいと発表したのは9月9日、ソブクウェがケープタウンで肺除去の手術を受けたのは、9月14日でした。その後、放射線治療を受けるために、キンバリーとケープタウンを何度か往復しましたが、移動の度毎に許可を取ったり、報告するために警察署に出頭するのは、重症のソブクウェには辛いことでした。78年1月には、痛みもだんだんと激しくなり、2月には危篤状態に陥りました。

そして、ついに1978年2月27日の早朝、54歳の若さで、ロバート・マンガリソ・ソブクウェは、2度と還らぬ人となりました。 (続)

1992年初夏                 宮崎にて

 

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ(Robert Mangaliso Sobukwe)年譜

 

西暦年 ロバート・マンガリソ・ソブクウェ 南アフリカ
1652

 

 

1806

 

1899

 

1910

1912

 

1913

 

1921

 

1924

 

1925

 

 

1930

 

1935

1936

1940

1942

1943

1944

1946

 

1947

 

 

1948

 

 

1949

 

 

1950

 

 

 

1952

 

 

1954

 

 

1955

 

 

1956

 

 

1957

1958

 

1959

 

1960

 

 

 

 

 

 

 

1961

 

1962

 

1963

1964

 

 

1965

 

 

1966

 

1967

1968

1969

1970

 

 

 

 

1974

1975

 

 

 

1976

1977

1978

1982

1986

1988

 

1990

 

 

1991

 

1992

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12月 5日、ケープ州フラーフ・レイニェトに生まれる。

 

 

 

ロケーション内のメソジスト教会系の小学校に入学。

 

イギリス聖公会系の学校に入学。

ヒールドタウンの高校に入学。

小学校教員養成課程を終了。進学課程に進む。

肺炎で入院、休学。

復学。

進学課程を終了。大学入学許可試験で好成績を収める。

フォート・ヘアの南アフリカ原住民大学(フォート・ヘア・カレッジ)に入学。セスゥル・ントゥロコと出会う。

「原住民行政」学を通して、目を開かされる。ントゥロコの研究室に入り浸り、友人と共に感化を受ける。

学生代表者評議会の会長に選ばれる。ビクトリア病院にて初めて、ヴェロニカ・ゾドゥワ・マテと出会う。

スタンダートンのジャンドレル高校に赴任。

 

 

 

不服従運動に呼応して、スタンダートンでANCの集会を開き、教職を失ないかける。父ヒュバート死去。

ヴェロニカと結婚。ヴィットバータースランド大学バンツー語学科語学助手に採用され、ジョハネスバーグに転居。

長女ミリズワ誕生。

 

 

 

 

 

ベンジャミン・ポグルンドと初めて出会う。

ヴィットバータースランド大学の名誉博士号を取得。

パン・アフリカニスト会議(PAC)が創設され、議長に選出される。3月21日、パス法反対闘争でオルランド警察署に出頭し、拘禁される(扇動罪で禁固3年の刑)ヴィットバータースランド大      学を辞職(3月31日付け)

 

 

 

 

 

 

 

マンデラ、逮捕される。一般法再修正令(90日間無裁判拘禁法)成立。リボニア裁判の開始。

「ソブクウェ法」成立し、ロベン島に送られる。

ポグルンド、記者として、三ヵ月間の取材。(一月から四月)「ソブクウェ法」延長。出国ビザ申請が却下される。

手術のため、ケープタウンの病院に入院。「ソブクウェ法」再延長。アメリカのリンカーン大学から名誉博士号を授与されるが、連絡されず。

「ソブクウェ法」再々延長。

 

「ソブクウェ法」、4目の延長。

「ソブクウェ法」、5回目の延長。

キンバリーに追放され、24時間自宅拘禁に。

南アフリカ大学法律学部通信課程に登録。モイラ・ヘンダーソン、ユラリ・ストット、ソブクウェを訪問。アメリカのウィシコンシン大学から研究員・教員として受け入れるとの手紙が届く。パスポートの申請、再度却下される。

アンドゥリュ・ヤング、ソブクウェを訪問。

母アンジェリーナ死去。キングウィリアムズタウンでスティーヴ・ビコと密かに会う。ミリズワと長男ディニ、出国して、アトランタに留学。下級弁護士として認められる。

 

ケープタウンで、肺癌の手術を受ける。

二月二十七日、死去(享年五十四歳)

ポグルンド、ソブクウェの墓の前で演説。

ポグルンド、ロンドンに移住。

ポグルンド、国連アパルトヘイト特別委員会で演説。

 

 

オランダ東インド会社、ケープに中継基地を建設。

 

イギリス、ケープ植民地政府を樹立。

第二次アングロ・ボーア戦争( -02)

南アフリカ連邦成立。

南アフリカ原住民民族会議結成。

原住民土地法成立(リザーブの設定)

南アフリカ共産党(SACP)結成。

 

 

南アフリカ原住民民族会議、アフリカ民族会議(ANC)と改名。

 

 

全アフリカ人会議結成。

原住民代表法、原住民土地法制定(人種隔離政策を推進)

 

ANCユース・リーグ結成。

 

 

 

 

 

 

国民党マラン政権誕生(アパルトヘイト政策を強行)

 

 

 

 

共産主義弾圧法、集団地域法、住民登録法など制定。SACPが解党し、非合法化される。

ANC、不服従闘争を展開。

 

 

 

 

 

クリップタウウンで国民会議が開かれ、自由憲章が採択される。

会議運動の指導者百156名が逮捕され、反逆裁判開始される( -61)

 

ANCが分裂。

 

 

 

シャープヴィルの虐殺。パス法一時停止。(3月28日)ANC、在宅ストを呼びかける(同日)非常事態宣言(3月30日)PAC、ANCが非合法化される(4月8日)パス法復活(4月10日)非常事態宣言解除(8月31日)

共和国宣言。ANC武力闘争を開始。

 

 

 

マンデラら、終身刑でロベン島に送られる。

 

 

 

 

ファヴールト首相暗殺され、フォルスターが首相に。

反テロリズム法制定。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ソウェト蜂起。

ビコ、獄中で殺される。

ピーター・ボタ、首相に。

 

 

フレデリック・デクラーク、大統領に。

PAC、ANC等、合法化され、マンデラ、無条件で釈放される。

ANC武力闘争を停止。アパルトヘイト法全廃される。

白人の信任投票で、デクラークの改革路線が支持される(三月)

 

執筆年

1994年

収録・公開

「ゴンドワナ」21号6-19ペイジ

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ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて

1990~99年の執筆物

概要

(写真と概要は作業中)

本文

Robert・Mangaliso・Sobukwe

ロバート・マンガリソ・ソブクウェというひと

(一) 南アフリカに生まれて

「ゴンドワナ」20号(1993)14~20ペイジ

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ。一九二四年に南アフリカに生まれて、一九七八年に死んでいったソブクウェの名は、日本ではあまり知られてはいませんが、厳しい抑圧のなかでさえ、生涯渝(かわ)らぬ生き方をし続けたひとりのアフリカ人の生きざまに、私は強く心を惹かれます。

そして、三十年以上にもわたってソブクウェとその家族を支援し続けたベンジャミン・ポグルンドという人の存在にも、心を打たれます。

一九九◯年に出版されたポグルンドの伝記『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト     これ以上美しく死ねるだろうか     』(ジョハネスバーグ、ジョナサン・ボール社)をもとに、ロバート・マンガリソ・ソブクウェというひとを紹介したいと思います。

フラーフ・レィニェト

ロバート・マンガリソ・ソブクウェは、一九二四年十二月五日に、父ヒュバートと母アンジェリーナとの間の第七子として、ケープ州南東部のフラーフ・レイニェトに生まれました(六人の男の子のうち、三人は幼くして死にましたが、十歳違いの兄アーネスト、二歳上の兄チャールズと姉エレノアの三人は無事に成人しています)

ヒュバートの父親は、バソトランド(現在のレソト)の出身で、第二次アングロ・ボーア戦争(一八九九~一九◯二)前に家族とともにその地を離れ、戦争直後にフラーフ・レイニェトに移り住みました。ヒュバートは、そこでコサ系のポンド人アンジェリーナと知り合って結婚し、ソブクウェが生まれています。ほかの黒人と同じように、ソブクウェの出生が正式に登録されることはありませんでした。

フラーフ・レイニェトは、ケープ州がオランダの統治下にあった一七八六年につくられた典型的な「白人」の町です。オランダ系の白人アフリカーナーが大勢を占め、町のはずれには、白人に安価な労働力を提供する黒人の居住区ロケーションがあります(一九二◯年の統計では、総人口一万七百十七人のうち、白人が五千百三十九人、カラードが三千六百七十七人、黒人が千八百八十三人、アジア人が十八人となっています)

カルーと呼ばれる赤土の乾燥性台地にあり、かつてはダチョウの羽毛の取り引きで栄え、今は羊や果物で潤おうフラーフ・レイニェトの町は、サンディズ川の恵みを受けて肥沃で、オランダ風の家並みも美しく、「カルーの宝石」と呼ばれています。

他の南アフリカの町と同じように、美しく整備された白人の町並みとは対照的に、ソブクウェの生まれたロケーションは、悪臭の漂う貧しい場所でした。もちろん、電気や水道の施設もありません。ソブクウェの育ったレンガづくりの家には、ほとんど家具らしい家具はなく、両親は古い鉄製のベッドで、子供たちは、土の地面の上にマット代わりに敷かれた麻袋の上で身を寄せ合って寝ていました。

父親は最初、町の役場に勤め、水路を維持する仕事をしていましたが、のちに羊毛の選り分けや、袋のラベル貼りをする店で働きました。かたわら、きこりのアルバイトもやり、町の市場で木を買っては家に持ち帰り、薪にしてロケーションで売りながら、家計を支えました。子供たちも交替で、朝早く起きて両親を助けました。母親は、何年もの間、町の病院の賄い婦や白人家庭のメイドとして働きました。

両親は、敬虔なメソジスト教会の会員で、住んでいる通りを「ソブクウェ通り」と名付けられるほど、ロケーションの人たちから尊敬されていました。自分たちは、貧しくて満足に学校に行けませんでしたが、子供たちには学校に行く機会を与えたいと願っていました。姉エレノアは、学校に八年間通ったのち、本人の希望ですぐに働き始めましたが、二人の兄は学校教育を終えて、教員の資格を取得しています。アーネストは、のちにイギリス聖公会の主教になりました。

ソブクウェは、ロケーション内のメソジスト教会の建てた小学校に六年間通いました。教会の長いすが机代わりの小学校の児童は黒人とカラードで、大半の子供たちは両親が貧しくて、途中から学校に来れなくなりました。小学校を卒業したのち、町にあるイギリス聖公会が経営する二年制の学校に四年間通いました。無償の初等教育とは違って、次の段階の中等教育を受けるための経済的な余裕が両親になかったからです。

高校から大学へ

一九四◯年、ソブクウェが十五歳の時に、兄チャールズと一緒に高等学校に行く機会が訪れました。学校は、フラーフ・レイニェトの町から二二五キロほど離れたヒールドタウンにあり、十九世紀にイギリスの宣教師達によってケープ州東部に創設された学校の一つでした。英文法と文学を基礎にしたキリスト教教育と教養教育が行なわれ、当時、黒人に教育の機会を与える中心的な学校でした。その年、高校に入学した黒人は五千八百八人で、全登録者数のわずか一・二五パーセントでしたから、ソブクウェも「選ばれた人」の一人であったことになります(黒人には義務教育の制度はありませんでしたから、「全登録者数」と言っても高校に入学する年齢層の一部にしかすぎませんでした。ちなみに、その年の白人の高校進学率は十六・四パーセントとなっています)

質素な寮生活でしたが、四十三年には、ケープ東部地域の黒人だけのテニスの試合で優勝するなど、スポーツに精をだしたり、学業に励んだりしながら、学校生活を楽しんでいます。際立った学業成績は白人教師の目をひき、三年間の小学校教員養成課程を終えたソブクウェは、その人たちに勧められ、学校の奨学金と校長のキャリー氏夫妻の援助を得て、二年制の大学進学課程に進みました。四十三年の八月から半年ほど、結核を患って入院していますが、復学してその課程を終え、四十六年末の大学入学許可試験では、優秀な成績を収めてフォート・ヘアの南アフリカ原住民大学(フォートヘア・カレッジ)に進学することになりました。

解放闘争への目覚め

フォートヘア・カレッジは、一九一六年に創設された黒人のための大学で、一時、白人が在籍していた時期もありますが、ソブクウェが入った年の入学者三百二十四人の内訳は、黒人二百六十人、カラード三十五人、アジア人二十九人でした。入学者のなかには、バソトランド出身者が十四人と他のアフリカ地域出身者が十八人含まれていました。女子学生はわずかに三十一人だけでした。

当時の黒人には、ケープタウンの大学とヴィットヴァータースランド大学のごく限られた枠以外に大学の門戸が開かれていませんでしたから、フォートヘア・カレッジには、優れた学生が集まりました。ボツワナの初代大統領セレツェ・カーマ、現ジンバブウェの首相ロバート・ムガベ、アフリカ民族会議(ANC)の元議長オリバー・タムボ、現議長のネルソン・マンデラなども、フォートヘアで学んでいます。

(本誌十号「セスゥル・エイブラハムズ   アレックス・ラ・グーマの伝記家を訪ねて」のなかで、九十九パーセントが白人で、黒人には授業にでることと図書館を利用することしか許されなかったためにヴィットヴァータースランド大学を一年でやめたというエイブラハムズさんを紹介しています)

二つの奨学金と、両親と兄アーネストからの僅かな仕送り、それにキャリー夫妻の援助に支えられて大学生活を始めたとき、ソブクウェは二十三歳になっていましたが、スポーツや学科以外のことに、あまり関心を示しませんでした。すでに解放闘争に係わっていた友人デニス・シウィサが入学前にソブクウェを訪ねて、闘争の話を持ちかけましたが、ソブクウェのあまりの関心のなさに気分を悪くして帰ってきたというほどでした。

そんなソブクウェが、解放闘争への意識に目覚めて、やがては国を左右する指導者になってゆくのですが、フォートヘアでの三つの出会いや出来事がのちのソブクウェに大きな影響を与えています。

一つは、二年次に取った「原住民行政」学によって、見る目を開かされたことです。黒人を管理、統制する諸法律の研究としての「原住民行政」学を通して、それまで自分がミッション系の学校で如何に白人中心の歴史を教えこまれてきたか、また様々な手段によって黒人が如何に抑圧されているかを知り、愕然としました。自分も含め、白人でない人たちが、貧困が同居する人種隔離制度によって劣等の意識を植え付けられたうえ、惨状に黙従することに慣らされてしまっている現状を、強烈に意識し始めました。ソブクウェにとって、それまで考えもしなかった見方でした。

もうひとつは、セスゥル・ントゥロコとの出会いです。「原住民行政」学によって目を開かされたソブクウェは、「原住民行政」学を担当していたントゥロコに出会って、その見方を深めてゆきます。

ントゥロコは、ヒールドタウン、フォートヘア、ケープタウン大学を卒業し、南アフリカ大学の通信教育課程で「原住民行政」学を学んだあと、一九四七年から五十八年までの十二年間、フォートヘアで「原住民行政」学を担当しました。

二人が最初に出会ったのは、ソブクウェが代表挨拶をした新入生歓迎会の時でしたが、「原住民行政」学を取った二年次から、ソブクウェは親友のシウィサとガラザ・スタムパとの三人でントゥロコの研究室に入り浸るようになりました。話題の中心は主に政治で、「原住民行政」に関する本はもちろん、イーストロンドン発行の「デイリー・ディスパッチ」や、ナイジェリアやゴールド・コースト(現ガーナ)から送られてくる新聞なども読むようになりました。全アフリカ人会議(三十五年創設)を通じて、政治的にも強い関わりを持っていたントゥロコの感化を受けて、ソブクウェは、単に国内の問題だけでなく、独立への胎動を始めていたアフリカ諸国や広く世界の情勢についても考えるようになっていきました。

最後のひとつは、ソブクウェが政治的に目覚め始めたのと、アパルトヘイト政権の誕生とが重なったという時のタイミングです。

三十年代前半に国民党と南アフリカ党の連合によって与党となり、三分の二以上の議席を獲得した統一党は、数の力にまかせて、三十六年には「原住民代表法」と「原住民信託土地法」を制定し、それまでケープ州一部の黒人に与えられていた投票権や土地の所有権を奪って、人種による隔離政策の礎を築き始めました。そして、一九四八年、時の事態をさばき切れなくなった統一党に変わって、国民党マラン政権が誕生し、オランダ系白人アフリカーナー、特に低所得者層のアフリカーナーの熱烈な支持を受けて、アパルトヘイト政策を強力に推し進めました。ソブクウェが二年生、「原住民行政」学に目を開かされ、解放闘争に関心を持ち始めたころのことです。

だんだんと厳しくなる抑圧に対抗して、黒人側もANCを中心に運動の新たな局面をむかえていました。四十三年には、それまでの消極的な闘い方に不満を抱くマンデラやタムボなどの二十代の青年たちが、ANCに承認されてユース・リーグを結成し、国内のヨーロッパ人と同等の諸権利の即時獲得を求めて激しい闘いを展開し始めました。やがて、フォートヘアにもユース・リーグの支部ができ、ソブクウェは友人とともに、中心的な役割を果たすようになります。

四十九年には、ヴィクトリア病院の看護婦のストライキの支援活動を通して、生涯の伴侶となるヴェロニカ・ゾドゥワ・マテと出会っています。卒業年次の五十年には、母校ヒールドタウンから教職の誘いがありましたが、断っています。説得に駆けつけた支援者のキャリー氏に、自分が立ち向かうのは白人ではなく、白人至上主義だとソブクウェは説明しますが、理解されず、それ以降の援助金も打ち切られました。白人の目に適った「原住民」の優等生だったソブクウェは、フォートヘアで、体制に立ち向かうアフリカ人に生まれ変わっていたのです。

五十年にフォートヘアを卒業したソブクウェは、トランスバール州スタンダートンのジャンドレル高校に赴任することになりました。

ヴェロニカとポグルンド

ジョハネスバーグから百六十キロ東にあるスタンダートンも、ロケーションをもつ典型的な白人の町でした。電気も水道もないロケーションは貧しく、学校には図書館もホールもありませんでした。週に五日、毎日八時から二時まで、歴史と英語と聖書の科目を担当し、聖歌隊の指導などもやりながら、教員でクラブチームを作ってテニスやサッカーに興じたりもしています。生徒や教師の間での信頼は篤く、一九五二年にANCが展開した不服従闘争の際にスタンダートンで集会を持った責任を問われて職を失ないかけましたが、学校の後押しもあって、以後政治を学校に持ち込まないという誓約書を書かされるだけで済んでいます。その年の暮れに、父親が亡くなっていますが、しばらくは教員としての穏やかな日々が続きました。

一九五四年の六月に、ソブクウェはその後も交際を続けていたヴェロニカと結婚し、すでに採用が決まっていたヴィットヴァータースランド大学バンツー語学科語学助手として、ジョハネスバーグのソウェトに移り住みました。講師よりも待遇は悪かったものの、ほとんどが白人で占められていた教職員のなかにあって、語学助手は黒人に許された唯一の常勤職でした。ソブクウェ自身はコサ語を話しますが、初心者のための実用ズールー語を担当することになりました。結婚当初、二人はヴェロニカの母親の家に同居しましたが、九ヵ月のちには、市営の住宅に移りました。白人のための労働力としてタウンシップに住む黒人には、家を買う権利は認められないうえ、入居する家は内装もされておらず、内装の工事に二百ポンドもかかっています。二百ポンドは、結婚の際にソブクウェがヴェロニカの母親に贈ったお金の二倍、大学での年収の半分近い金額でした。

寝室と居間、それに食堂と台所だけの小さな家で、電気もなく、ロウソクの火と灯油ランプの生活が続きました。母親の家で女の子が、新居に移ってから三人の男の子が生まれて家が手狭になりましたが、「夫は子供たちが大好きで、子供たちと一緒に過ごす時間も多く、よくお話を、特にコサのお話を語って聞かせていました」とヴェロニカが述懐するように、子供をまじえた楽しい家庭でした。朝七時に家を出て、五時半頃には家に帰る毎日で、家についている小さな畑で花や野菜を作ったりもしています。

五十五年にヴィットヴァータースランド大学の名誉学士課程への登録を認められ、二年間、音声学や社会人類学などを学んだのち、五十八年に名誉学士号を得ています。翌年から、政府は「白人」大学への黒人の入学を禁止し始めましたから、ソブクウェはバンツー語学科の名誉学士課程への登録を許可された最後の「黒人学生」となりました。

五十九年には、アフリカ人作家に関する諸宗派会議の顧問に指名されて、強化される検閲制度に反対する意見を述べたり、オクスフォード大学出版局のアフリカ言語の出版顧問をしたりするなど、語学の分野での地位を固めていきました。

しかし、楽しい家庭生活や守られた大学での教員生活に、ひとり満足しているわけにはいかなくなりました。まわりのソウェトの現実と時の情勢があまりにも厳しすぎたからです。フォートヘアで育んだ「新しいアフリカ」への思いを温めながら、ソウェト内のANCモフォロ支部に所属したソブクウェは再び解放運動に身を投じることになりました。定期的に自宅で会合がもたれ、ソブクウェのもとに、次第に人が集まるようになりました。 一九五七年、ポグルンドが最初にソブクウェと出会ったのは、そのような時期でした。当時、ポグルンドはある工業系の会社に勤めながら、自由党のトランスバール州委員会のメンバーとして、ソフィアタウン地区の黒人の支援活動をしたり、不服従運動にも加わったパトリック・ダンカンの主宰するリベラル派の雑誌「コンタクト」に寄稿したりするなど、反アパルトヘイトの運動に積極的にかかわっていました。ANCの会員を通してアフリカニストとしてのソブクウェの名前は既に知っていましたが、二人が会ったのはポグルンドが婚約者をヴィットヴァータースランド大学の教室に迎えにいった時のことです。ズールー語を受講していた婚約者が、たまたま講義室に居合わせたソブクウェを紹介してくれたのですが、第一印象はいかにも学者ふうで、気の弱そうなという感じだった、とポグルンドは述懐しています。当時、親しい人の間ではロバートとかマンギーとかロビーとか、支援者の間では「教授」とかと呼ばれていたソブクウェを、ポグルンドはボブと呼び、ソブクウェはポグルンドをベンジーと呼び合うようになりました。四月の終わりにはポグルンドが、ソブクウェに「コンタクト」への寄稿を依頼しています。ソブクウェは快く応じましたが、共産党員の妨害や白人受講生の懸念を恐れて、ペンネームで原稿を書いています。ポグルンドは、原稿を見て、アプローチの仕方が幼稚で、はっきりとした政治的な考察に欠けているという印象を持ちました。

しかし、五十八年の半ばにポグルンドがジョハネスバーグの英語朝刊紙「ランド・デイリー・メイル」の記者になった頃には、ソブクウェに対する印象ははっきりと形を変えていました。最初にソブクウェから感じた気弱なイメージが、実はソブクウェ流のためらいで、楽しい家庭生活や守られた大学の生活と黒人の自由を獲得するための闘いとの狭間で、自分が何をすべきかを決めかねている正直な人間の苦悩であったと理解したのです。六月半ばには、ある友人にあてた手紙のなかで、ポグルンドは次のように書いています。「ソブクウェは気高く、明晰で、思慮深く、極めてすぐれた感性の持ち主でした。接すれば接するほど、私は好きになって、感化を受けています……何とも偉大な男です」

五十八年初めに、ローレンス・ガンダが編集長になってから「ランド・デイリー・メイル」は、黒人地区での取材をもとに、黒人の活動や居住区の生活などをより多く報じるようになり、体制批判の色合いを強めました。したがって、ポグルンドも記者として黒人居住区や集会に頻繁に出入りすることになり、公私にわたるソブクウェとの親交もますます深まっていきました。

 

パン・アフリカニスト会議

四十八年からの十年間で、国民党政権は体制を固め、五十八年四月の第二回の白人だけの選挙では三分の二の議席を確保して、更に徹底した体制づくりを開始しました。

集団地域法によって、居住区だけでなく、商業区域も人種による分離が明確にされただけでなく、白人に都合のいい居住区が強制的に白人地区に塗り替えられていきました。その結果、追い出されたり、色々な都市から流れてきた黒人が、ジョハネスバーグ南西部の広大な農地に移り住んで、ソウェトが生まれたりもしています。

ロケーションの再編成に向けて、農村部での強制立ち退きも行なわれ、政府主導型の「原住民政策」が強力に推し進められました。

ストライキも組合活動も法律で禁じられた黒人労働者は、白人雇用者の思いのままで、労働局の設定する最低賃金さえも保障されずに、大多数が生活最低基準以下の生活を強いられました。

黒人・白人間の教育費や教員の賃金の格差は広がり、白人大学への入学制限や政府の夜間学校への妨害などで、黒人の教育への門戸はますます狭められていきます。

背徳法やパス法での締め付けも厳しくなり、列車だけでなくすべてのバスにもアパルトヘイトが適用されるようになりました。

五十八年に首相になったヘンドリック・ファブールトは、政府のブレーン南アフリカ原住民問題局(SABRA)に「分離発展」の政策を研究させ、ミニ独立国家を作って黒人を外国人に仕立てるという、のちのバンツースタン政策の基礎がためを始めました。

こうした厳しい状況のなかで、ANCは大きな転機をむかえていました。政府の圧政に対抗するという問題のほかに、もう一つ大きな内部事情を抱えていたからです。指導部の指導力不足や財政難による軋轢(あつれき)もありましたが、何よりの問題は、アフリカ人による、アフリカ人の闘いを主張するアフリカニストを中心にする闘い方の路線をめぐっての紛糾でした。反逆裁判や活動禁止処分などによる政府の激しい締めつけに対抗して指導部を支持するようにという要請にもかかわらず、ケープ地区では既に二派に分裂、五十七年の半ばには、トランスバール地区で二派の対立が公の場に持ち出されるほどの事態に陥りました。闘い方の路線をめぐる対立は、もはや単なる各地区だけの問題ではなく、ANC全体の今後を左右する大きな課題となりました。

そうした緊迫した状況のなか、五十八年十一月はじめに、年次総会と特別会議を兼ねたトランスバール会議が開かれました。富の平等な分配をめざして、肌の色や人種の区別なく共闘するのがANCの基本方針だとする指導部と、闘い方が四十九年に採択された行動計画に沿っておらず、階級闘争を掲げるコミュニストや他の人種との協調の度合いに比べて、アフリカ人同士の団結の問題が軽視され過ぎていると主張するアフリカニストが真っ向から対立しました。実行されませんでしたが、会議の主導権を握るために、アルバート・ルツーリ、タムボ、マンデラなどの指導層を会議の前夜に誘拐するという計画もありました。それだけ、白人やコミュニストと協調しながら闘ってきたANCの柔軟路線に対するアフリカニストの積年の不満が大きかったということでしょう。一方では、アフリカニスト三人を狙撃するために三人の殺し屋が雇われていたという話もあります。ソウェト十人委員会で知られる医師タト・モトラナのように、アフリカニストに協力的で、コミュニストに感化され過ぎる指導部に批判的であることは認めながらも、隣国ジンバブウェなどの例をあげて、それでも分裂だけは回避すべきだと主張した人もいましたが、だれも時の流れを食い止めることは出来ませんでした。

この段階でソブクウェが一番恐れたのは、アフリカ人同士による流血の惨事でした。出席者六百人のうちの百人を占めるアフリカニストの多くは長い棒切れをもって、後部席に陣取っていました。夜になって、公式代表の審査をする資格委員会の選挙の開票の際には、会場内は緊迫し、一触即発の状態となったため、ソブクウェたちは、会場の外に出たほどでした。ただ一人の白人出席者ポグルンドも、危害が及ぶかも知れないと両陣営から忠告を受けて、会場をあとにしています。翌朝、タムボはこん棒などをもった百三十人の護衛隊を引きつれて会場に臨み、入場を厳しく制限してアフリカニストを締め出したため、ANCの分裂が決定的となりました。午後五時に、ソブクウェの起草した手紙がタムボに手渡されました。

この時期のソブクウェは、解放闘争と大学の教職との狭間で、個人的に非常に苦しい立場に立たされ、厳しい選択を迫られていました。積極的に闘争に係わっている以上、もはやヴィットヴァータースランド大学にはいられないと思い始めた頃、ケープ州東部グラハムズタウンのローヅ大学バンツー研究科から、常任講師としての誘いがあったからです。これ以上は政治に係わらないという誓約書を、との条件が付いていましたが、待遇や社会的な地位、あるいは将来性などから考えても、通常なら、願ってもないチャンスでした。迷いながら、とりあえず誓約書の件だけは断ったものの、最終的な判断を下せないまま、時が過ぎていきました。

ANCと決裂した五ヵ月後の五十九年四月、アフリカニストたちは、同じ会場で新しい組織の結成式を行ないました。会議は、予定より三分早く始められました。二時間や三時間、遅れることが当たり前になっていたANCの旧弊から、先ずは改めようというソブクウェの意気込みでもありました。会議では、パン・アフリカニズムを唱えるガーナの首相エンクルマやギニアのセコゥ・トゥレ大統領からのメッセージが読み上げられたあと、パン・アフリカニスト会議の名称と緑・黒・金の三色のシンボルカラーが採用され、議論の末、次の五つの目標が決められました。

(一) アフリカ・ナショナリズムに基づいた国民戦線に、アフリカ人を統合、集結させること。

(二) 白人支配を打倒するため、また、アフリカ人のための自己決断の権利を履行、    保持するために闘うこと。

(三) 各人の物質的、精神的な利益を優先するアフリカ社会民主主義を打ちたて、維持するために働き、尽力すること。

(四) アフリカ人の教育的、文化的、かつ経済的発展を促進すること。

(五) アフリカ人同士の連帯を強めることによって、南アフリカ同盟とパン・アフリカニズムの概念を伝え、広めること。

そして、満場一致の推薦をうけて、ソブクウェが議長に選ばれました。(続)

一九九二年春                    宮崎にて

*二十一号の続編には、ソブクウェの年譜と南アフリカ小史を添えています。

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[参考]

南アフリカ観光局(東京都港区赤坂)発行の「南アフリカ全国主要観光地ガイド」には、ソブクウェの生まれたフラーフ・レイニェトが次のように紹介されています。

Graaff-Reinet/グラーフ・レイネ■1786年以来の由緒ある町。中でも1812年に建った 古い牧師館レイネ・ハウスはケープ・オランダ風住宅の粋といえる優雅な佇まいをみせている。後年の修復も原型を損なわぬ見事なもので、内部は18~19世紀の家具で飾られている。裏庭の葡萄の木は1870年に植えたとか、幹の太さは世界一と評されている。開館:月~金09:00~12:00・15:00~17:00、土09:00~12:00、日祝10:00~12:00。十字架と切妻屋根が美しいオールド・ミッション・チャーチは修復されて南アフリカの代表的な芸術家たちの作品を集めた“ヘスター・ロバート・アートコレクション”を展示している。開館:平日10:00~12:00・15:00~17:00、土・日・祝10:00~12:00。レイネ・ハウスの向かい側にあるレシデンシー館や、ドロスティホフ通りに並ぶ19世紀の木造建築も美しく、見逃せない観光スポット。

執筆年

1993年

収録・公開

「ゴンドワナ」20号14-20ペイジ

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ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて

1990~99年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマの第二作 And A Threefold Cord (イギリスクリップタウン社一九八八年刊)の日本語訳で、初めての翻訳本です。初版は西ドイツベルリンセブンシィーズ社で一九六四年に出版されました。

クリップタウン社刊

 教科書版の注釈書(一九九一刊)を英語の授業で使っていましたが、門土社の關功さんのお誘いを受けて、翻訳しました。学生時代に、教員の姿をみて、翻訳本と教科書は出さないと思っていましたが、教科書についで翻訳本も出すことになりました。

注釈書 And a Threefold Cord(一九九一刊、表紙絵小島けい画)

 一九九二年に家族でジンバブエの首都ハラレにいたときに、本が届きました。表紙絵は、奥さんに描いてもらいました。衛星放送で見たナミビア辺りの映像からイメージをもらい、自分の理想の犬を放して、水彩で描いてくれました。

本文(写真作業中)

『まして束ねし縄なれば』(門土社、平成四年、1992年)

大切なブランシにこの本を捧げます

目次は↓

序 5 (収載)

まして束ねし縄なれば 17

アレックス・ラ・グーマの思い  169 (収載)

地図(南アフリカとケープタウン) 174

南アフリカ略史アレックス・ラ・グーマ年譜 175

ここでは①ブライアン・バンティングの「序」と②「アレックス・ラ・グーマの思い」を掲載します。

南アフリカで「芸術のための芸術」という概念を持ち出すのは容易なことではありません。人生そのものが執拗に様々な問題を投げかけ、その執拗さを無視できないからです。世界中を見渡してみても、この国ほど、頭に「政治的」という言葉がつく問題に人々が深くかかわっている国も少ないでしょう。アパルトヘイト政策は、始めた人たちが政略的な理由からその政策を否定している今日でも、人生のあらゆる局面に顔を出し、(白人の、カラードの、あるいはインド人の) 国会議員であれ、実業家であれ、労働者や聖職者、あるいは運動家や芸術家であれ、その政策の必然的な結果から逃れることはできません。もし、芸術というものに意義があるとすれば、この国の人々に取りついて離れない強迫観念や、南アフリカの人々の魂を憔悴させ、時には魂を崩壊させる感情を映しだすべきです。

反対勢力の激しい政治論争に恐れをなしたり、抗争の激しさに圧倒されたり、あるいは単に恐怖心を抱いて、自分の立場を明らかにしてある判断を示すよりも沈黙を守ろうとする作家もいることは確かです。しかし、全体として、まだ歴史は浅いながらも、南アフリカ文学ははっきりと政治的な状況を意識していることを示してきました。色々な事実に怯むことなく、人生や真実を大切に思う人たちによって、最も優れた、味わい深い文学が生み出されてきたのです。

いくらそのつもりでも、南アフリカのすべての人々が様々な事実を知るのは容易なことではありません。人口登録や居住区の人種による隔離政策は厳しく、黒人と白人の間の分け隔ては非常にはっきりとしていて、両者の接点は極めて少ないのです。したがって、法的な障害があり過ぎて、現実に親しく付き合うのは極めて稀なことです。白人が黒人の生活を書こうとすれば、経験によるより、むしろ直感や当て推量に頼らざるを得ない場合が多くなります。そのために、時には人物の扱いが上すべりになっていたり、ごまかされたりしている場合もありますが、自ら望んだり意図したりしたものでないだけに、かえって残念です。

南アフリカの黒人作家は、白人の作家に劣らず、うまく洗練された形で全体の状況を描きだすのが難しいと感じながらも、作品を通して、南アフリカの全体像をただすのに大きな成果を収めてきました。黒人作家には、たえず一つだけ、白人作家よりも有利な点があったのです。つまり、南アフリカの人口の大多数を占める黒人に悲劇をもたらしている条件や状況を、詳しく、個人的に知っているという点です。白人の作家は、法律や習慣や黒人と比較すれば極めて安楽な生活によって保護され、人種の闘争からワン・クッションおかれた社会に所属しながら、どちらかと言えば、自分が直接かかわってはいない戦闘の状況を描く従軍記者に似た立場から、南アフリカの闘いを遠くから観察します。しかし、黒人作家の場合は、戦場で実際に闘っている戦士としてものを書きます。南アフリカのドラマがもっとも強烈に演じられるのは、黒人の生活の真っ只中においてです。喜びも悲しみも、嬉しさも厳しさも、その人たちの心の奥深くで感じたもので、たいていの白人の経験の枠をこえた状況のなかで体験したものです。

ブルドーザーで一掃され、今は歴史の中に消えてしまいましたが、かつては活気に満ちたカラード社会の中心地であった、ケープタウンの第六区に生まれ育ったアレックス・ラ・グーマの作品は、その街の姿を鮮明に描き出しています。アレックスは、ジミー・ラ・グーマの長男として、一九二五年に生まれました。父親ジミーは、南アフリカ闘争の草分けの一人で、当時すでに、通商産業労働者組合(ICU)、アフリカ民族会議、それに南アフリカ共産党の業務で、重要な役割を演じていました。共産党では、党が一九五〇年に解散させられるまで、中央委員会の一員でした。生まれた年から、一九八五年にハバナで死ぬ間際まで、政治は、アレックスの生命そのものだったのです。

トラファルガル・ハイスクールとケープ・テクニカル・カレッジを終えたあと、解放闘争に常時専念するようになるまで、事務員や会計係や工員として働きました。若年ながら共産党に入党し、党活動が禁止されるまで、党のケープタウン地区委員会のメンバーでした。その後も政治活動を続け、自由憲章が採択され、アフリカ民族会議の主導で会議運動が始まるきっかとなった、歴史的な一九五五年の国民会議の準備をするために、重要な役割を果たしました。

一九五〇年代には、政府の承認を受けて、国民党政権が、カラード社会に激しく襲いかかりました。体制は、人口登録法と集団地域法の条文をたてに、カラードのすべての権利を剥奪し、生活のあらゆる局面に人種隔離政策を押しつけようとしたのです。何千人もの人々が逮捕され、人種別に分類するという浅ましい作業に屈してしまいました。トランスバール州で人種別再分類の作業を担当した係官の手にかかった自らの苦い体験を、ある女性が次のように語っています。

検査官は、初めは右側から、次に左側から、私の横顔を見ました。それから、髪を念入りに調べました。目の細かい櫛をちゃんと持っていて、髪を少し摘むと、毛先のほうに櫛の目を入れたのです。そのあと、鼻に触って、おまえの母親の鼻はどんな形をしているかと聞きました。

南アフリカ・カラード人民機構(SACPO)の副議長として、アレックス・ラ・グーマは、こういった非道な行為に抵抗する最前線に立っていました。のちに、アレックスはSACPOの議長を引き継ぎ、その立場から、ケープタウンのバスにアパルトヘイト政策を導入しようとする動きに反対して、抗議運動を展開しました。(SACPOは、のちに南アフリカ・カラード人民会議と改名されました)

一九五五年八月のケープタウン会館での抗議集会で、ラ・グーマは次のように語っています。

みんなが国民会議の旗の下に団結すれば、自由と民主主義を求める闘いに敗れることはありません。南アフリカ国内だけでなく、国外にも、我々の側には、何百万という味方がついています。自由憲章が新しい南アフリカの基礎となり、未来は我々のものなのです。

一九五六年十二月五日、国じゅうで百五十六名の男女が警察に逮捕されましたが、アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。百五十六名は軍用機でヨハネスブルクに運ばれ、反逆罪で起訴されて裁判にかけられました。告訴側は、自由憲章で述べられた民主的な諸権利は極めて過激なものであり、国民会議を主催した人たちは、目的を達成する唯一の手段として武力と暴力によって政府の転覆をはかっていたに違いないと主張しました。この法廷論争と政治闘争については、裁判所で起訴事実が却下され、被告が自分たちの普段の生活に戻れるようになるまで、ほぼ五年の歳月が必要でした。

南アフリカで、積極的に政治活動をする人や、体制に反対して闘う人の生活は、決して正常ではありません。一九五八年のある夜、アレックスは暗殺計画の標的にされ、机に向かって仕事をしていた部屋の窓から二発の銃弾を撃ちこまれました。その一発は外れましたが、もう一発がアレックスの首をかすめました。暗殺者に見せかけた犯人の捜査は行なわれず、二、三日してからアレックスはポストに投げこまれた「おまえを殺りそこなって残念だ。またやって来る。愛国者」という匿名の手紙を受け取っています。

反逆裁判が未だ結審しないうちに、一九六〇年三月二十一日のシャープヴィルやランガでの警察による大量虐殺や、国民党政権による非常事態宣言に続いて、国じゅうがさらに激しい騒動に巻きこまれていきました。法に従って、政府は全国で二万人を逮捕しました。〈怠け者〉や〈浮浪者〉の名のもとに、急遽刑務所内で極秘裡に開かれた私的裁判にかけられて、遠隔地での強制労働につかされる者も出ました。二千人以上の政治的指導者たちが、裁判なしに、最高五か月のあいだ、刑務所に拘禁されたのです。アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。アレックスは、本を読んだり、ものを書いたり、のちに成功を収めることになる自らの仕事の準備をしながら、その幽閉された退屈な数か月間を過ごしたのです。

アレックスは生涯を通じて大の読書家で、かなり早い時期からものを書く腕試しをやっていました。しかしながら、仕事として本格的にやり始めるのは、一九五六年にスタッフに加わった進歩的な新聞『ニュー・エイジ』の記者としてでした。アレックスはそのペイジを、ケープタウンの人々の生活や闘争についての漫画やニュース記事、物語やたくさんの印象的な写真などで飾り立てました。

「ニュー・エイジ」一九六二年八月六日 ラ・グーマの活動禁止を報じている。カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)所蔵

その間じゅう、アレックスは政治活動も続け、嫌な思いを強いられる迫害にも決して気落ちすることはありませんでした。一九五六年、アレックスは、アパルトヘイト政策をとる事業や公共施設への経済的なボイコットを呼びかけるパンフレットを持って、許可証なしにニャンガ黒人居住区に入ったという理由で、ロナルド・シーガル、ジョゼフ・モロロングと共に逮捕されました。一九六一年には、ピーターマリッツブルク全アフリカ人会議の全国行動委員会のスポークスマンであるネルソン・マンデラが、ファヴールトの共和国宣言の式典に抗議して五月の終わりに三日間のゼネストを呼びかけた時、アレックス・ラ・グーマとカラード人民会議の仲間は、その呼びかけに応じて抗議運動に加わりましたが、逮捕され、政府がストライキの脅しに対処するために特別に成立させた新法の下で、裁判までは保釈金も積めない状態で、十二日間拘禁されました。ストライキが始まる前の大事な時期に指導者たちが刑務所にいるか、どこかに潜んでいたにもかかわらず、カラード社会の対応はすばらしく、ストライキの行なわれた三日間、ケープタウンの会社や商店は大きな打撃を受けています。

一九六一年六月に、アレックスは共産主義弾圧法で一切の活動を禁止されました。九月には不法なストライキを組織した嫌疑により、同法で起訴されましたが、その起訴はのちに取り下げられました。一九六一年十二月には、法務大臣からカラード人民会議の議長を辞めるように命じられました。しかし、同月、人々の忍耐は限界を越え、国じゅうのあらゆる地域の政府の建物や施設に対して向けられ一連の爆破事件は、解放運動の武力闘争部門、ウムコント・ウェ・シズウェの出現の前ぶれとなりました。

政府の反応は、悪名高い一九六二年の一般法修正令、いわゆる破壊活動法 (サボタージュ・アクト) で、なかでも、反体制の人間を自宅拘禁できる条文を含んでいました。一九六二年十二月に、アレックス・ラ・グーマは、一日に二十四時間、自宅拘禁を命ず、という通告書をつきつけられました。その通告の五年間に、アレックスを訪れることができる者は、わずかに母親と、妻の両親、それに過去、共産主義弾圧法に触れたり、活動を禁止されたりした経験のない医者と弁護士だけでした。

二十四時間の自宅拘禁生活をしていたという事実、その結果政治的な活動の可能性を完全に奪われたと言う事実でさえも、アレックス・ラ・グーマがさらに犠牲を強いられるという事態を救えませんでした。一九六三年に九十日間無裁判拘禁法が議会を通過したのに続いて、アレックスも逮捕され、裁判なしに拘禁されたのです。刑務所では、一日に二十三時間半、独房に監禁され、残りの半時間が「運動」と自分の時間にあてられるという孤独拘禁の状態におかれました。他の拘禁者の場合と同じように、アレックスも来訪者や読むもの、書くものを許されないばかりではなく、法的な助言者が近づくことも拒まれ、もっとも忌まわしい形の精神的な拷問を強いられて、警察の満足がいくまで尋問に答えることを強要される可能性もあったのです。

アレックスは屈しませんでした。アレックスにさらに圧力をかけるために、政府は、看護婦と助産婦をしていた妻ブランシも逮捕しました。二人の子供ユージーンとバーソロミューは、親戚が世話しなければなりませんでした。ブランシ・ラ・グーマは、のちに釈放されましたが、ほとんど同時に活動禁止命令も言い渡されました。当然の順序としてアレックスも釈放されましたが、保釈中の身で、発禁処分の文学書を所持していたとの罪で起訴される事態に直面しました。アレックスは有罪とされ、執行猶予つき三年の実刑を言い渡されたのです。

一九六六年、アレックス・ラ・グーマは再び拘禁されました。この頃までには、弾圧は非常に厳しいものになっていましたから、アレックスとブランシは二人の子供と一緒に祖国を離れることを余儀なくされました。家族は、最初ロンドンに落ち着き、イギリスにおけるANCの存在を強固なものにするために、大きな役目を果たしました。のちにアレックスがキューバでのANC主代表に指名されたとき、家族はハバナに移り住みました。アレックスとブランシの監督のもとに、何百人もの南アフリカの学生が、祖国では拒否された様々な分野の教育を受けることができました。

亡命の期間中、アレックスはできるだけ多くの時間を書くことに専念し、自らアジア・アフリカ作家会議の仕事にもかかわりました。アレックスは、世界平和評議会の議長の一人でもありました。一九八五年十月十一日、アレックスは、心臓発作のため、ハバナの病院で亡くなりました。六十歳でした。

死ぬ時までの数年間、アレックス・ラ・グーマはアジア・アフリカ作家会議の事務総長を務め、一九六九年にはその作家会議のロータス文学賞の受賞者になりました。一九八五年には、六十歳の誕生日を記念して、ソビエト連邦から民族友好勲章を、フランスからは文芸勲章を、コンゴからは文学賞を受けました。

アレックス・ラ・グーマが作家として、より広範な読者にその才能を最初にあらわしたのは、一九六二年の小説『夜の彷徨』の出版と同時でした。アレックスはすでに活動を禁じられ、喋ったり書いたりしたものは国内ではいかなる手段でも再現されることはありませんでしたから、最初の小説はナイジェリアのムバリ出版社から出版されました。二、三冊の本が密かに国内に持ちこまれ、人の手を経て読み継がれました。その本はただちに、想像力に富んだ優れた作品としての評価を得て世界中に出まわり、数力国語に翻訳されました。

その本は、わずか九十ペイジの長さの短篇小説です。しかし、そのペイジとペイジの間には、ケープタウンで最も色鮮やかな社会を構成した、カフェの常連や田舎者や客引き、労働者の夫婦、商売女やポン引きにちんぴらなど、ケープタウン第六区のさまざまなタイプの人物が登場するのです。建物がなぎ倒され、そこに住んでいた人たちが集団地域法によって四散させられて、第六区はすでにありませんが、かつて第六区を通ったことがある者は、その曲がりくねった混雑する通りを、その人間味あふれる騒がしさを、その臭いを、その貧しさと惨めさを、そして活発さと限りない多様性を忘れることはできないでしょう。いくら見た目が悪くても、その静脈の中には生命の鼓動が激しく鳴り響いていたのです。その鼓動があまりにも激しいので、今日まで度々その地区を「白人」地区に変えようと政府が努力してきましたが、黒人白人を問わず、ケープタウン社会全体の抵抗にあって、その計画は失敗に終わっています。人種差別をする人たちに土地を奪われたことに対する第六区の人々の憤りは、今日、ケープ西部の若者による政権と政策と軍隊に反対する全面的な闘争の中にこだましています。

1966年に強制立ち退きにあったケープタウン第六区の今と昔(タイム誌)

 アレックス・ラ・グーマは第六区をよく知っていました。ロジャー通り二番に住み、のちにガーランディルに移り住むまで、幼い頃の大半をそこで過ごしたからです。アレックスは、そこに住む人たちと、その人たちが「トラブル」と呼んでいたその人たちの問題を理解し、よく知っていて、心をこめ、細心の注意を払ってその問題について書きました。そこに登場する人物は、ペイジとペイジの間を生気なく気取って歩くような非現実的なものではなく、リアルで生き生きとした血肉の通った男性であり、女性なのです。その人たちは、世の中に無視され、軽蔑されて気落ちしてはいますが、生き延びて、食べたり飲んだり愛し合ったり、あるいは寂しさや恐怖に耐え、汚れを洗い流してくれる明日の夜明けを迎える自分たちの意志の固さを、執拗に物語っているのです。

アレックス・ラ・グーマの散文が鋭く訴えるのは、自分の環境をよく知り、完全に理解していたからです。効果をねらって努力するのではなく、芸術的な手腕と正確さで、労働者階級と権利を奪われた生活を浮き彫りにしています。住まいの壁にこびりついた汚れを感じ、裏通りのごみの山の臭いを嗅ぎ、街角のバーからどっと聞こえてくる笑い声を聞き、喧嘩の真っ最中に抜かれたナイフのきらっと輝く光を見ることができます。すべて、実際に目の前で起こっているかのように、劇的で、鮮明なのです。

アレックス・ラ・グーマが成功した秘訣は、物語の中の会話が人々が実際に話している会話に忠実であったことにもよっています。新しく刷り上がった紙幣のようにぱりっと音を立てながら、こちらをどきっとさせるような現実味を帯びて、人々の言葉が物語のペイジからあふれてきます。アレックスは、登場人物の言葉を次々と微妙に変化させながら、自分の語り口から物語の人物を創り出すこつを心得ています。それらの話は、真実のように、きびきびとして元気よく、ユーモラスで説得力のある、現に生きている人々の話なのです。

アレックスの書いたものは、法律に違反することなく、南アフリカで一般に読まれる可能性はありません。アレックスの名前は、活動を禁止された人のリストにまだ記載されています。重ねて念を押すかのように、一九六三年一月に郵便で『夜の彷徨』が国内に送られてきたとき、検閲官はその書が反政府的であると認定する、と宣告して、何冊もの『夜の彷徨』を押収しました。しかし、アレックスの書いたものは、それを押さえこもうとする検閲官の活動にもうち勝ち、その作品は長年にわたって、国内外の広範な評価を得てきました。『夜の彷徨』に続いて、一九六四年には『まして束ねし縄なれば』が出版されました。今回は、ケープタウン周辺に広がるスラムの生活を取り扱ったものでした。そこには、何万人という黒人 (カラードとアフリカ人) が小屋を立てて雨風を凌いでいます。その人たちは、「公式に認められた」住むための場所を持たず、生き延びる唯一の希望を自分たちに提供してくれる都市の周辺での不安定な生活にしがみついているのです。その住民の多くは存在する権利を保障してくれる書類もなく、度重なる警察の手入れや不安や貧乏の餌食となりながら、不法に都市地域に滞在しています。その人たちの家は、とにかく何とか雨露だけでも凌げるようにとあらゆる材料を使って立てられた粗末な小屋なのです。

それらの地域には、舗装された道路も、下水も、排水施設や電灯もありません。水も、バケツなどを運んで買いに行かなければならないのです。雨が激しく降りつけるケープの冬には、屋根は雨漏りがして、その辺りは一帯に水浸しとなり、地面はじゅくじゅくの状態です。どこに行っても、泥と惨めさの臭いが漂います。子供たちは泥の中で遊び、大人たちは泥に足を取られながら、暗闇の中を仕事に通うのです、それも、運よく仕事にありつけばの話なのですが・・・・・・。

『まして束ねし縄なれば』は全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅板画で捉えています。この作品は忌まわしいほど残虐な、限りなく絶望的な数々の出来事で南アフリカの奥深くを描きだしているので、あるいは読者の気を滅入らせたこともあったでしょう。しかし、物語の根底には、アレックス・ラ・グーマの人生に対する情熱と誠実さにより、楽観的な雰囲気が漂っています。わくわくする会話は、心の機微を捉えて生き生きと輝いています。アレックスのメッセージは・・・・・・団結は力である。独りで世間に立ち向かっても打ち負かされるが、みんなで協力してやれば、何事も切り抜けられる・・・・・・というものです。

その次のアレックス・ラ・グーマの小説は『石の国』(一九七六年) で、自らの獄中体験から生み出された、寒々とした壁や暗い廊下やガチャーンと響くドアの物語です。そのあと、危険で大胆不敵な地下活動を詳しく書いた『季節の終わりの霧の中にて』(一九七二年)、バンツースタンヘの強制移住に反対して闘う人々の抵抗運動を取り扱った『百舌鳥のきたる時』(一九七九年) と続きます。数々の短篇だけでなく、『アパルトヘイト―南アフリカの人種差別に関する南アフリカ人の著作集』(一九七一年) をも編集し、広くソビエト連邦を旅行したのちに『ソビエト旅行』(一九七八年) も出版しました。他にもたくさんの小品を書き、死ぬ間際には、新作『闘いの王冠』の執筆にいそしんでいました。

Stone Country (神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

 アレックス・ラ・グーマの作品の特徴は、リアリズムと楽天性を混ぜ合わせたものでした。アレックスは人生に真っ向から立ち向かい、掃き溜めの底にいる人たちに対する不快感を隠そうとはしませんでしたが、力を合わせてやれば、虐げられた人たちが自分たちの世界を変革し、資本主義や搾取、人種差別や偏見という悪夢を終わらせ、理性と協調に基づく新しい世界が構築できるという確固たる信念をいつも持ち続けていました。しかし、説教師ではありませんでした。アレックスは、本質的に、細部にまで行き届いた鋭い目と温かいユーモアの感覚を備えた物語作家でした。アレックスに敵意はありませんでした。

『ニュー・エイジ』紙に書いた初期の作品 (一九五六年八月三十日) の中で、アレックスはケープタウンの人々の窮状を次のように見ていました。

年寄りの間で語られる次のような話があります。何年も前のある日、神さまは白人とカラードの人を召されて、二人の前に箱を二つお置きになりました。箱の一つは大変大きく、もう片方の箱は小さいものでした。そのあと、神さまはカラードの人の方を向いて、箱をどちらか選ぶようにとおっしゃいました。カラードの人はすぐさま大きい箱を取り、もう片方を白人に残しました。箱を開けたとき、カラードの人はつるはしとシャベルを見つけました。一方、白人の方は、箱の中に金を見つけました。

人は、自分の運命を解釈する様々な説明づけを行ないます。民間説話、迷信、神話などの形を取る場合もあれば、完全に論理に適っている場合もあります。しかし、いずれの場合にも共通して、抑圧や苦しみや苦難が現実の人生であるという自覚があります。そして人々は、辛さをユーモアで和らげ、単調な生活の苦い薬を風刺的な人生哲学という蜂蜜で甘くするようになりました。しかし、人々はいつも痛みを意識しているのです・・・・・・。

国勢調査では、私たちカラードの人口はほぼ百二十五万人と言われています。しかし、身元の確認を姓名とか肌の色とかでは行なわず、厳しさと喜び、楽しさと苦しさ、憧れと挫折、報われることのない辛く単調な仕事、絶望と飢餓、文盲、肺炎と栄養失調、笑いと悪徳、無知、天才、迷信、永遠の知恵と揺るぎない自信、愛と憎しみなどで行なえば、きっと数えること自体を諦めざるを得ないでしょう。人々は、違った表紙によって初めてそれぞれの違いが区別できる本と似ています。

そして、人はしょせん神ならぬ身、人間でしかないのですから、朝起きれば、夜の毛布を投げ捨て、太陽に顔を向けなければならないのです。

一九八八年      ブライアン・バンティング

②アレックス・ラ・グーマの思い

一九八一年、川崎にて。小林信次郎さん撮影

 翻訳しながら、さまざまのことを感じました。なかでも、強く感じたのは、言葉にこめられたラ・グーマの思いでした。

ラ・グーマの作品の根底に流れるものは、身近な人への思いやり、人を大切に思う心です。その思いをひとつひとつ真綿に包むように行間にこめ、アパルトヘイト体制の下で虐げられながらも、肩を寄せ合って生きている周りの人たちを描いています。真綿に包まれた言葉をひとつひとつほぐす翻訳をやっていくと、言葉にこめられたラ・グーマの思いが、行間から滲み出てくるのです。

ラ・グーマがどんな生涯を送ったかは、ロンドンに亡命中の同僚ブライアン・バンティングが新版を祝って本書に寄せた熱き序に譲ることにしますが、常々ラ・グーマが語っていたところを総合すると、ラ・グーマは二つの思いに駆られて物語りを書いています。一つは、後の世の人のために、特に若い人たちのために歴史を書き留めておきたいという思いでした。そこから第一作『夜の彷徨』が生まれています。ラ・グーマの生まれ育ったカラード居住地区ケープタウンの第六区を舞台に、そんな若者たちに焦点を当て、もしアパルトヘイト体制という抑圧がなかったら、ごく普通に生きたと思われる若者が、八方塞がりの中で、いともた易くちんぴらの世界に足を踏み入れてしまう状況を描き出しました。

ケープタウンの第六区

 もう一つは、南アフリカで起こっていることを世界に知らせたいという思いでした。その思いから、第二作のこの『まして束ねし縄なれば』が生まれました。ラ・グーマは、舞台をケープタウン郊外のスラムに移し、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、スラムで暮らす住人が現実に悪天候に苦しめられている姿を描きました。ラ・グーマは、そのイメージをより鮮明に読者に印象づけるために、雨をうまく使っています。物語を雨で始め、雨で終え、しかも、主題にかかわる事件はすべて雨に絡ませ、雨のイメージで物語全体を包みました。バンテイングが序の中で言うように、この『まして束ねし縄なれば』は「全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅版画で捉えて」います。『夜の彷徨』は、一九六二年にナイジェリアで、『まして束ねし縄なれば』は六十四年にドイツで出版されました。しかし、六十一年暮れから開始された黒人側の武力闘争に対抗して急遽改悪された破壊活動法によって、六十二年の八月にラ・グーマがすべての活動を禁止されてから今日まで、ラ・グーマの作品を読むことも、引用することさえも、南アフリカ国内では、法律で禁じられています。裏を返せば、ラ・グーマとラ・グーマの作品が、体制側にとって大きな脅威であることに他なりません。宮崎県都城市に住む南アフリカ出身のコンスタンス・ヒダカ (Constance Hidaka) さんも「南アフリカにいるときは、もちろんラ・グーマなんて知らなかったヨ。だって、本がないもの」と話してくれたことがあります。

A Walk in the Night(神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

And a Threefold Cord(神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

 ラ・グーマの物語は、一つ一つの文章も長く、取り立てて言うほどの展開もなく、いわゆる英米の小説とはいささか趣を異にしています。「プロットがない」「人物像の内面が深く掘り下げられていない」「表現が淡泊すぎる」と評する人もいますが、ラ・グーマは、何よりもケープタウンの普通の人びとの語り口で、ケープタウンの人びとの物語を語りたかったのです。ラ・グーマ自身の言葉を借りれば「形式的な構造とかいった意味で、意識して小説をつくろうと思ったことはありません。私は、ただ書き出しから始めて、おしまいで終わったというだけです。大抵そんなふうにしてできました。ある一定の決まった形を持つというのは必要だとは思いますが、これまで特にこれだけは、と注意したこともありません。短い物語でも長い物語でも、私はただ頭の中で物語全体を組み立てただけです。自分ではそれを小説とは呼ばず、長い物語と呼ぶのです。頭の中でいったんでき上がると、座ってそれを書き留め、次に修正を加えたり変更したりするのです。しかし、小説が書かれる決まった形式という意味で言えば、私のは決して小説という範疇には入らないと思います」ということになります。

翻訳に際して、コンスタンス・ヒダカ (通称コニー) さんに色々とお聞きしました。この物語は一九五十年代のケープタウン郊外のスラムを舞台にした話ですから、アフリカーンス語で書かれている部分も含め、辞書だけでは解決のつかない箇所が多すぎたからです。コニーさんは、私たちの国のことですからと、快く質問に応じて下さいました。ヨハネスブルクに生まれて、キンバリーに育ち、八十年代前半にはケープタウンにも住んだ経験のあるコニーさんは、根気よく説明して下さいました。そして、コニーさん自身がケープタウンの人に似た語り口を、たっぷりと聞かせて下さいました。

コニーさんは、八十八年八月にカナダで開かれたラ・グーマとベシー・ヘッド記念大会で録音したブランシ夫人 (Blanche La Guma、二ペイジに写真を載せています) のテープを聞いたとき、「これ、これなのヨ。ケープタウンの人の話し方。腕を組んで、じっと考え、大きなジェスチャーでゆっくりと喋る。そうだったでしょう。これなのヨ」と大声で言いました。その説明を聞いたとき、記念大会で、ラ・グーマとの生活を振り返りながら、大きなジェスチャーを交えながら、しみじみと語りかけていたブランシ夫人の姿が、目の前に鮮やかに甦りました。

ブランシ夫人

 また、コニーさんは、私の質問のあと、いつも本文をじっくりと読むのですが、読みながら堪え切れずに何度も声を出して笑うのです。そして言います。「ワタシ、ここに書いてあるのと同じのを南アフリカで何度も見たヨ。いまでも同じネ」。特に、ユーモラスに描いてあるンズバやアンクル・ベン、裸同然でごみの山の中をうろつく子供たち、スージーやロマンなどの人物描写を読みながら、「ほんと、そっくりなひとがいたヨ」と感心し、スラムの様子などに対しては、「今でも、いっしょなのヨ」と言って、悲しそうな表情を見せました。

ラ・グーマは、生涯、自分を大切にし、周りの人たちを思いやって生きてきました。ラ・グーマの伝記家でもあり、良き理解者でもあった南アフリカ出身のセスゥル・エイブラハムズ (Cecil A. Abrahams) さんは、そんなラ・グーマを「わが子を見つめる父親のように」と評して、次のように語ります。

セスゥル・エイブラハムズ さん

 アレックスは、事実、カラード社会の人々の物語を語る自分自身を確立することに努めました。と言うのも、その人たちが無視され、ないがしろにされ続けてきたと感じていたからです。また、自分たちが何らかの価値を備え、決してつまらない存在ではないこと、そして自分たちには世の中で役に立つ何かがあるのだという自信や誇りを持たせることができたらとも、ラ・グーマは望んでいました。ですから、あの人の物語を見れば、その物語がとても慈しむ心に溢れているのに気づくでしょう。あの人はいつも誰に対しても暖かくて、腹を立てて、「仕方がないな、この子供たちは・・・・・・」と言いながらも、なお暖かい目で子供たちを見つめる父親のように、その人たちを理解しているのです。ラ・グーマの本を読めば、あの人が記録を収集する歴史家として、また、何をすべきかを人に教える教師として自分自身をみなしていると感じるはずです。それから、もちろん、アレックスはとても楽観的な人で、時には逮捕され、拘置され、自宅拘禁される目に遭っても、いつも大変楽観的な態度を持ち続けましたよ。あの人は絶えずものごとのいい面を見つめていました。いつも山の向う側を見つめていました。だから、他の人がよくないことをしても許せたのです・・・・・・。

激しい雨のなか、大空に向かって鳥が飛び立つ印象的な締めくくりは、チャーリーのその後の成長を暗に仄めかしています。それは、極めて厳しい状況のなかでさえ、みんなで力を合わせれば必ず何とかなるさというラ・グーマ流の楽観から生み出されたものでしょう。そこに絶望はありません。

ラ・グーマは、祖国の民主的な統合国家実現を夢見ながら、二度と南アフリカの地を踏めずにこの世を去りましたが、いま、ラ・グーマの果たせなかった夢を若い人たちが引き継いでいます。

アメリカ合衆国で公民権法が成立したのは一九六四年、実に、奴隷解放宣言より百年余りものちのことでした。その史実一つを取ってみても、アパルトヘイト法が廃止されたからといって、解放に向けての南アフリカの歩みが決して楽観的なものではないことがはっきりしています。しかし、九十一年八月の終わりに、エイブラハムズさんが政府の許可を得て南アフリカに一時帰国し、二十数年ぶりに家族との再会を果たしたという知らせなどを聞くと、ラ・グーマの夢の実現に向けて、少しずつは、歴史の流れが進みつつあるのだと思わずにはいられません。

印刷や編集などに携わった人たちと一緒に、『まして束ねし縄なれば』の翻訳ができてよかったなあと思います。と同時に、これが一つの機会となって、また新たな世界が広がってゆけばとも考えます。ブランシ夫人やコニーさん、今はイギリスに帰っている友人のジョン (John Bilingsley) をはじめ、ご協力下さった多くの方々に深くお礼申し上げます。

この『まして束ねし縄なれば』もすでに公のものですから、読者を得て版が重ねられ、不十分なところが改訂されて、よりよいものになってほしいと心から願っています。

一九九二年七月             宮崎にて                   玉田吉行

執筆年

1992年

収録・公開

翻訳書、門土社、表紙絵小島けい画

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アレックス・ラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』

1990~99年の執筆物

概要

アレックス・ラ・グーマの第二作 And A Threefold Cord (イギリスクリップタウン社一九八八年刊)の編註書で、大学の教科書として使いました。初版は西ドイツベルリンセブンシィーズ社で一九六四年に出版されています。

クリップタウン社刊

And a Threefold Cord(1991年、表紙絵小島けい画)

 1992年に家族でジンバブエの首都ハラレにいたときに、本が届きました。表紙絵は、奥さんに描いてもらいました。衛星放送で見たナミビア辺りの映像からイメージをもらい、自分の理想の犬を放して、水彩で描いてくれました。

本文

①献辞とエピグラフ、②編註書の前書きとして書いた「アレックス・ラ・グーマとA THREEFOLD CORD」、③ブライアン・バンティングの「序」、④その日本語訳を掲載します。

①献辞とエピグラフ

This is for Blanche with Love

Two are better than one; because they have a good reward for their labour.

For if they fall, the one will lift up his fellow: but woe to him that is alone when he falleth; for he hath not another to help him up.

Again, if two lie together, then they have: heat, but how can one be warm alone?

And if one prevail against him, two shall withstand him; and a threefold cord is not quickly broken.

ECCLESIASTES IV: 9 – 12

②「アレックス・ラ・グーマとA THREEFOLD CORD」

アレックス・ラ・グーマは1925年2月20日,ケープタウンのカラード居住地区第6区で生まれました.父親ジミーが解放運動の草分けの一人でしたから,ラ・グーマは早くから政治意識に目覚め,ハイスクールを中退したあと,46年にはストライキを先導して会社を解雇されています。48年には共産党に入党し,55年には南アフリカ・カラード人民機構の議長に選ばれています。同じ年にケープカラード社会での人望と文才を認められて,反政府路線の週刊紙「ニュー・エイジ」に記者として採用されました。57年からコラム「わが街の奥で」を書き始め,62年に破壊活動法によって記者活動を断念させられるまで健筆を揮いました、
56年に他155名とともに反逆罪の嫌疑で逮捕されて以来,60年,61年,63年,66年にも逮捕・拘禁されていますが,それはラ・グーマが白人政府に脅威を与える存在だったからです。66年に釈放され,5年間の自宅拘禁を強いられたラ・グーマは,家族と共にロンドン亡命の道を選び,祖国を離れます。
亡命してからのラ・グーマは,積極的に反アパルトヘイト運動を推進します。70年にはアフリカ民族会議(ANC)ロンドン地区譜長に,78年にはカリブ代表としてキューバに赴任しました。キューバでは,南アフリカからの留学生の世話をして後進を育てたり,多くの作家会議に出席して様々な国の作家と連帯しながら精力的な創作活動をも展開します。70年にアジア・アフリカ作家会議69年度ロータス賞を授与され,79年には同作家会議議長に選出されています。81年には来日し,アジア・アフリカ・ラテンアメリカ文化会議などに出席して講演したりしています。
67年の小説『石の国』に続いて,編集評論集『アパルトヘイト』(1971),小説『季節の終わりの霧の中で』(1972),紀行文『ソビエト紀行』(1978),小説『百舌鳥のきたる時』(1979)と,単行本も次々に出版されました。しかし,ラ・グーマは,85年11月11日夕刻,心臓発作のために,キューバの首都ハバナで二度と還らぬ人となりました。60歳の若さでした。
南アフリカに最初に来たヨーロッパ人はオランダ人ですが,植民地支配を確立したのはイギリス人です。インドヘの中継地にしか過ぎなかった南アフリカの存在は,十九世紀後半にダイヤモンドと金が発見されてから急変します。オランダ人とイギリス人はその利権をめぐって争いますが,双方とも深手を負い,このままでは多数派のアフリカ人にやられるという危機感の中で,アフリカ人搾取という点に利害の一致点を見つけ出し,南アフリカ連邦(`The Union of South Africa’)をつくります。「イギリス国王に承認された」ヨーロッパからの移住者の国ということにはなっていましたが,白人がアフリカから土地を奪って作り上げた植民地に他なりません。植民地経済に組み込まれたアフリカ人の安価な労働力を基盤に,南アフリカは第一次,第二次世界大戦をへて工業国になっていきました。
1948年には,社会の底辺に沈む危機感を感じていた大半のアフリカーナーの支持を得て,国民党が政権を取り,アパルトヘイト政策を前面に掲げて反体制勢力を弾圧し始めます。
第二次大戦で殺し合った白人社会の力が低下したとき,今まで権利を主張しても聞き入れてもらえなかった黒人社会が,声を上げ始めます。アメリカでは公民権運動が激しく展開され,1956年のエジプトの共和国宣言,1957年のガーナの独立などアフリカ大陸でも解放運動は勢いを増していきました。
南アフリカでも,諸外国の動きに励まされて,1955年にクリップタウンで国民会議が開かれ,国の指針として自由憲章が採択されました。政府は反逆罪の名で指導者を弾圧しますが、解放闘争は激しくなっていきます。1960年のシャープヴィルの虐殺で,国際社会の非難を浴びますが,弾圧を強化して一歩も譲りませんでした。政府の強硬な態度に対抗して,黒人を主導する解放闘争組織ANCは,それまでの非暴力の戦略を捨てて,武力闘争を始めます。
ラ・グーマも,そんな闘いのなかで自分自身を精一杯に生きていたのです。
そして,『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)が生まれました。
ラ・グーマが『まして束ねし縄なれば』を書いたのは,歴史を記録して,後の世の人に伝えたかったからです。そのために,南アフリカの人々の日常を語りました。1962年に,運よくナイジェリアで出版された『夜の彷徨』(A Walk in the Night)では,ケープタウンのカラード居住地区第6区の夜をさまよいながら,無為な時を過ごす若者たちを描きだしています。(1988年に,門土社からテキストが出ています。従って,本書はその続編になります)
本書では,舞台をラ・グーマは第6区からケープタウン郊外のスラムに移しています。心やさしいチャーリーを軸に,家族や恋人や親戚との日常の出来事・・・・・・葬式や出産や警察の手入れなど・・・・・・や,孤独な生き方しか出来ない寂しい人々などを織りまぜながら,アパルトヘイト体制の中で呻吟しながらも,力を合わせながらなんとか生き永らえている人々について書きました。助け合って生きる人々の姿が,ラ・グーマの目には,エピグラフの「二人は一人にまさる。其はその骨おりのために・・・・・・人もしその一人を攻め撃たば,二人してこれにあたるべし,まして東ねし縄なれば、たやすくは切れざるなり」という文章に重なったのでしょう。
ラ・グーマは世界の人々に南アフリカの実際の姿を知って欲しいとも考えて本書を書きました。作品中の多くの出来事を雨と絡ませたのは,美しい南アフリカを強調する政府の観光宜伝とは裏腹に,スラムの住人が現実に雨風に苦しんでいる姿を知って欲しかったからです。色彩語,擬声語などを駆使して,ケープの冬を「一連の絵画的,散文的銅版画」(バンティングの序)で見事に捕えています。
本書は,1988年にイギリスのクリップ・タウン社(Klip Town Books)から新たに出版された版に基づいています。初版は,ラ・グーマが未だ南アフリカにいた1964年に,東ベルリンのセブン・シィーズ社(Seven Seas Books)から出版されました。旧版にも、同僚ブライアン・バンティング(Brian Bunting)の序がついています。
作品理解の一助にと,巻末にラ・グーマ略年譜・著訳一覧・地図・南アフリカ小史を付けました。なお,ラ・グーマの人と作品については,カナダに亡命中の南アフリカ人セスゥル・エイブラハムズ(Cecil Abrahams)氏のAlex La Guma(Twayne Publishers, Boston, 1985)をお勧めしたいとおもいます。また,門土社の翻訳『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)や著訳一覧の中で紹介しているアジア・アフリカ総合誌「ゴンドワナ」(ゴンドワナ協会発行)に寄せた私の作家・作品論も併せてお読み下されば光栄です。
1950年代のケープタウン郊外のスラムのことで,辞書では解決のつかない箇所もたくさんありましたが,ヨハネスブルグ生まれで,1980年代の初めにケープタウンに住んだ経験もある都城市在住のコンスタンス・ヒダカ(Constance Hidaka)さんに,色々とお話を伺いながら註をつけました。私たちの国南アフリカのことですからと,多くの時間を割いて下さいました。今はイギリスにいる友人のジョン(John Bi1ligsley)にも色々とお世話になりました。また、佐々木孝臣さん,宮下和子さん,奥村修一さん,南太一郎さんにも資料のお願いをしました。深くお礼申し上げます。

1991年4月宮崎にて
玉田吉行

③ブライアン・バンティングの「序」

PREFACE

It is difficult to propound the notion of `art for art’s sake’ in South Africa. Life presents problems with an insistence that cannot be ignored, and there can be few countries in the world where people are more deeply preoccupied with matters falling generally under the heading of `political’. The doctrine of apartheid, even though today foresworn by its progenitors for reasons of expediency, permeates every sphere of life, and whether you be member of parliament (White, Coloured or Indian chamber), businessman, worker, priest, sportsman or artist you cannot escape its consequences. If art is to have any significance at all, it must reflect something of this national obsession, this passion which consumes and sometimes corrodes the soul of the South African people.
Some writers, caught in the cross-currents of fierce political controversy, appalled by the intensity of coflict, or simply fearful, have, it is true, lapsed into silence rather than commit themselves to making of a judgement. But on the whole the young South African literature has shown an intense awareness of the political situation, and the most successful and profound literature has been produced by those who have loved life and truth well enough not to shrink from the facts.
It is not easy for all South Africans, however well intentioned, to know the facts. Population registration and residential segregation are so entrenched, divisions between Black and White so sharp, points of contact so few, that real intimacy is rare and surrounded by legal obstacles. Whites writing about the lives of Blacks must often rely on intuition and guesswork rather than experience; this has sometimes led to superficiality of treatment and a falsification no less regrettable because unwanted or unintentional.
The work of South Africa’s Black writers has done a great deal to correct the perspective, though they themselves have found it no easier than their White colleagues to present a fully rounded picture of the South African scene. But the Black writer has possessed one great advantage, and that is detailed and personal knowledge of the conditions and situations which cotribute to the making of the South African tragedy for the great majority of the population. While the White writer, belonging to a community which is protected and cushioned by law, custom and comparative ease of life,observes the South African struggle from afar, somewhat in the positionof a war correspondent describing the course of a conflict in which he or she is not directly involved, the Black writers as a participant on the field of battle itself. It is in the lives of the Black people that the South African drama is played out with the greatest intensity. Their joy and sorrow, happiness and hardship are experienced with a depth of feeling and in a context which is beyond the range of experience of most Whites.
The work of Alex La Guma, born and bred in Cape Town’s District Six, the heartland of a vibrant community now bullozed into history, vividly illustrates its origins. Born in 1925, Alex was the son of Jimmy La Guma, one of the pioneers of the South Afriican liberation movement who in his day had played a prominent part in the affairs of the Indus-trial and Commercial Workers’ Union (ICU), the African National Congress and the Communist Party, of whose Central Committee he was a member before its dissolution in 1950. Politics was the stuff of Alex’s life from the year of his birth right up to his death in Havana in 1985.
After completing his education at Trafalgar High School and Cape Technical College, Alex worked as a clerk, bookkeeper and factory-hand before entering the service of the liberation movement full-time. As a young man he joined the Communist Party and was a member of the Cape Town District Committee of the Party until it was banned. He maintained his political activity in the succeeding years, taking a foremost part in the preparations for the historic 1955 Congress of the People where the Freedom Charter was adopted, setting out the perspectives of the Congress Alliance headed by the African National Congress.
The 1950s witnessed a sustained assault on the Coloured community by the Nationalist regime – it sought to eliminate Coloured franchise rights and impose segregation in alll spheres of life under the provisions of the Population Registration and Group Areas Acts. Thousands of men and women were rounded up and subjected to sordid classification procedures. One woman described her ordeal at the hands of a reclassification officer in the Transvaal:

He looked at my profile from the right side, then from the left, then he examined my hair and he has a fine comb there which he runs through the head of some. He touched my nose and asked me what my mother’s looked like.

As vice-chairman of the South African Coloured People’s Organisation (SACPO), Alex La Guma was in the forefront of the people’s resistance to these barbarities. Later, Alex took over the position of chairman of SACPO, and in that capacity led the campaign against the introduction of apartheid on the Cape Town buses. (SACPO was later renamed the South African Coloured People’s Congress.)
Speaking at a protest meeting in the Cape Town Banqueting Hall in August 1955, he said:

If we all unite under the banner of the Congresses, we cannot lose the struggle for freedom and democracy. We have the strength of millions on our side, not only in South Africa but outside. The Freedom Charter is going to be the basis of the new South Africa and the future belongs to us.

On 5 December 1956 Alex La Guma was one of the 156 men and women who were rounded up by the police all over the country and flown by military plane to Johannesburg to stand trial on a charge of treason. The prosecutor argued that the democratic rights set forth in the Freedom Charter were of such a radical nature that the organisers must have envisaged the overthrow of the government by force and vio-lence as the only means of bringing them about. It took nearly five years of legal argument and political struggle before the charges were thrown out by the court and the accused enabled to return to their normal lives.
Life for the political activist and the rebel in South Africa, however, is never normal. One night in 1958 Alex was the target of an assassintion attempt when two bullets were fired through the window of the room in his home where he sat working at his desk. One bullet missed, the other grazed his neck. The would-be assassins were never traced, but a few days later Alex received an anonymous letter through the post reading: `Sorry we missed you. Will call again.
The patriots.’ The treason Trial was not yet over when the country was plunged into further turmoil following the police massacres at Sharpeville and Lang; on 21 March 1960 and the declaration of a State of Emergency by the Nationalist regime. Ruling by decree, the government arrested 20000 people throughout the country. Some dubbed `idlers’ and `tsotsis’ were hastily processed by kangaroo courts held secretly in the jails and pressed into forced labour in remote districts. Owr 2,000 of the top political leaders of the people were detained in prison without trial for periods of up to five months. Among them was Alex La Guma. He spent the weary months of incarceration reading and writing, preparing himself for the career in which he was later to have such success.
Alex had been a voracious reader all his life and from an early age he had tried his hand at writing. His first professional efforts, however, were as a member of the staff of the progressive newspaper New Age whose staff he joined in 1956 and whose pages he dominated with cartoons, news reports, stories and many striking vignettes of life and struggle among the population of Cape Town.


All the while he continued with his political work and was in no way discouraged by the persecution to which he was subjected. In 1959 he was arrested with Ronald Segal and Joseph Morolong for entering Nyanga township, Cape Town, without a permit and with pamphlets calling for an economic boycott of apartheid firms and institutions. In 1961, when Nelson Mandela, as spokesman of the National Action Committee of the Pietermaritzburg. All-in African Conference, called for a three-day strike at the end of May in protest against the inauguration of the Verwoerd Republic, Alex La Guma and his colleagues in the Coloured People’s Congrss threw themselves into the campaign but were arrested and held for 12 days without bail under a new law specially passed to deal with the threat posed by the strike call. Although its leaders were in jail or in hiding during the crucial period before the strike was due to start, the Coloured community responded magnificently and Cape Town industry and commerce suffered heavily during the three days of the strike.
In July 1961 Alex was banned under the Suppression of Communism Act and in September charged under the Act for organising an illegal strike, but the charges were later withdrawn. In December 1961 he was ordered by the Minister of Justice to resign from the Coloured People’s Congress. That same month, however, the people’s patience ran out and on 16 December a series of bomb explosions directed against government buildings and installations in various parts of the country heralded the appearance of Umkhonto we Sizwe, the military wing of the liberation movement.
The regime’s response was the notorious General Laws Amendment Act of 1962, the so-called Sabotage Act, providing inter alia for the placing of government opponents under house arrest. In December 1962 Alex La Guma was served with a notice confining him to his home for 24 hours a day. The only visitors permitted him for the five years of his notice were his mother, parents-in-law and a doctor and lawyer who had not been named or banned under the Suppression of Communism Act.
The fact that he was living under 24-hour house arrest, and thus completely cut off from all possibility of political action, did not save Alex La Guma from still further victimisation. Following the passing of a 90-day detention-without-trial law in 1963, Alex was one of those arrested and detained without trial. In prison he was held in solitary confinement, locked in his cell alone for 231/2 hours a day, the remaining half-hour being allowed for `exercise’ – also on his own. As was the case with the other detainees, he was denied visitors and any reading or writing material, refused access to his legal adviser and generally subjected to the most abominable forms of mental torture so that he might be forced to answer questions to the satisfaction of the police.
He did not give way, and in order to bring further pressure to bear on him, his wife Blanche, a nursing midwife, was also detained. Their two children Eugene and Bartholomew, had to be cared for by relatives. Blanche La Guma was later released, but almost immediately served with a banning order and in due course Alex was also released, but on bail, facing a charge of being in possession of banned literature. He was convicted and given a suspended sentence of three years’ imprisonment.
In 1966 Alex La Guma was detained again. By, this time the repression was so intense that on release he and Blanche were forced to leave the country with their two children. They first settled in London, where they played a large part in consolidating the ANC presence in the United Kingdom. Later they moved to Havana when Alex was appointed chief representative of ANC in Cuba. Under the supervision of Alex and Blanche hundreds of South African students were able to acquire the education in various fields which was denied them at home.
During the years of exile Alex devoted as much time as possible to his writing, and also involved himself in the affairs of the Afro-Asian Writers’ Association. He was one of the presidents of the World Peace Council. He died in hospital in Havana on 11 October 1985 after a heart attack. He was 60 years old.
At the time of his death Alex La Guma had been secretary-general of the Afro-Asian Writers’ Association for several years and in 1969 was a winner of the Association’s Lotus Prize for Literature. In honour of his sixtieth birthday in 1985 he received the Order of the Friendship of the Peoples from the USSR, the Order of Arts and Letters from France and a literary award from Congo.
It was with the publication of his novel A Walk in the Night in 1962 that Alex La Guma’s talents as a writer were first revealed to a wider audience. Because he had been banned, nothing he said or wrote could be reproduced in any way in South Africa, so his first novel was brought out by Mbari Publications in Nigeria. A few copies were smuggled into the country and passed from hand to hand. The book won instant recognition as a work of talent and imagination, was circulated world-wide and translated into several languages.
It is a short novel – barely 90 pages long. But in its pages teem the variegated types of Cape Town’s District Six – the bar flies, the louts and touts, the workers and their wives, the prostitutes and pimps, the skollies, who constituted the most colourful community in Cape Town. District Six is no more, its buildings flattened and its population dispersed in terms of the Group Areas Act, but nobody who ever passed through District Six could ever forget its winding, crowded streets, its jostling humanity, its smells, its poverty and wretchedness, its vivacity and infinite variety. For all its outward degradation, the pulse of life beat strongly in its veins – so strongly that to this day the regime’s attempts to convert it into a `White’ area have been frustrated by the resistance of the whole Cape Town community, Black and White alike. The resentment of the people of District Six against their dispossession by the racists is being echoed today in an all-out struggle by the youth of the Western Cape against the regime and its police and military forces.
Alex La Guma knew District Six intimately, having lived there, in No.2 Roger Street, for most of his early life before moving to Garlandale. He knew and understood the people and their problems, their `troubles’, as they called them, and he wrote of them with intimacy and care. These are not cardboard characters, strutting lifelessly through his pages, but real, live, flesh and blood men and women who, though weighed down by the neglect and insult of the world, yet proclaim insistently their determination to survive, to eat, drink and make love, to endure the loneliness and terror and to welcome the cleansing dawn of tomorrow.
It is the very completeness of his knowledge and understanding of his milieu that gives Alex La Guma’s prose its incisive bite. He does not strain for effect but etches his cameos of working class and lumpen life with artistry and precision. You can feel the grime on the tenement walls, smell the mounds of rubbish in the back lanes, hear the bursts of laughter from the corner bar, see the flash of the knife drawn in the heat of the quarrel. It is as dramatic and vivid as if it were taking place before your very eyes.
Part of the secret of Alex La Guma’s success is the fidelity of his dialogue to the living speech of the people. The words burst from the page with startling realism, crackling like newly-printed bank notes. He has the knack of creating a character from his speech, the language of one subtly differentiating it from another. These are real people talking – terse, racy, humorous and convincing as truth.
Nothing Alex wrote was ever able to circulate in South Africa except illegally. His name is still on the banned list. As though to make doubly sure, the censors seized copies of A Walk in the Night as they entered the country by post in January 1963, declaring they found the book `objectionable’. But the quality of Alex’s writing overcame the efforts of the censors to suppress it, and his work over the years won widespread recognition both at home and abroad. A Walk in the Night was followed in 1964 by And A Threefold Cord, this time dealing with life in one of the shanty towns sprawled on the periphery of Cape Town. Here are housed the tens of thousands of Blacks-Coloured and African-for whom there is no `official’ place to live, clutching precariously to life on the outskirts of the cities which offer their only hope of subsistence. Many of the inhabitants are in the urban area illegally, lacking the papers which establish their right to existence, a prey to perpetual police raids, insecurity and poverty. Home for them is a crazily-constructed shack providing only the barest shelter from the elements.
There are no paved streets, sanitation, drainage or electric light in these areas; water has to be bought by the capful. In the Cape winter, when rain comes pouring down, the roofs leak and the whole neighbourhood becomes sodden and waterlogged. Over all hovers the smell of dirt and wretchedness. Children play in the mud, and men and women flounder in the dark going to and from work-if they are lucky enough to have work.
And A Threefold Cord is drenched in the wet and misery of the Cape winter, whose grey and dreary tones Alex La Guma has captured in a series of graphic prose-etchings. It could have been depressing, this picture of South Africa’s lower depths, with its incidents of sordid brutality and infinite desolation. But Alex La Guma’s compassion and fidelity to life infuse it with a basic optimism. His electric dialogue flashes with the lightning of the human spirit. His message is: unity is strength – if people face the world on their own, they get destroyed; if they work together, they can survive anything.
Alex La Guma’s next novel was The Stone Country (1967), a story of bleak walls, dark corridors and clanging doors distilled from his prison experiences; followed by In the Fog of the Season’s End (1972), recounting the danger and daring of work underground, and Time of the Butcherbird (1979), dealing with people’s resistance to the threat of forced removal to a bantustan. In addition to writing many short stories,
Alex La Guma also edited Apartheid: A Collection of Writings on South African Racism by South Africans and after extensive travels in the Soviet Union, A Soviet Journey (1978) . He wrote pieces besides and was busy on a new work Crowns of Battle at the time of his death.
It was the mixture of realism and optimism which was the hallmark of Alex La Guma’s work. He faced life squarely and did not try to hide its nastiness for those at the bottom of the tip but always retained his confidence that working together, the oppressed people could transform their world, end the nightmare of capitalsm, exploitation, racism and prejudice and build a new world based on rationality and co-operation. But he was not a preacher. He was essentially a story-teller with a sharp eye for detail and a warm sense of humour There was no malice in him.
In one of the first pieces he wrote for the newspaper New Age (30 August 1956), Alex looked at the plight ofthe Coloured people in Cape Town:

There is a story told among the old people which says that one day, many years ago, God summoned White Man and Coloured Man and placed two boxes before them. One box was very big and the other small. God then turned to Coloured Man and told him to choose one of the boxes. Coloured Man immediately chose the bigger and left the other to White Man. When he opened his box, Coloured Man found a pick and shovel inside it; White Man found gold in his box.
The people have many explanation for their lot. Some of these take the form of folk tales, superstitions and myths; others are downright logical. But in all there is a common cosciousness that oppression, suffering and hardships are facts of life. And they have learned to temper hardship with humour, and to sweeten the bitter pill of their drab lives with the honey of a satirical philosophy. But they have always been aware of pain….

The census declares that we are almost one and a quarter million. But if you identify a people, not by names and the colour of their skin, but by hardship and joy, pleasure and suffering, cherished hopes and broken dreams, the grinding monotony of toil without gain, despair wand starvation, illiteracy, tuberculosis and malnutition, laughter and vice, ignorance, genius, superstition, ageless wisdom and undying confidence, love and hatred, then you will have to give up counting. People are like identical books with only different dust jackets. The title and text are the same.
And since man is only human, he must rise in the morning, throw off the blanket of night and look at the sun.

BRIAN BUNTING, 1988

④ブライアン・バンティングの「序」の日本語訳

南アフリカで「芸術のための芸術」という概念を持ち出すのは容易なことではありません。人生そのものが執拗に様々な問題を投げかけ、その執拗さを無視できないからです。世界中を見渡してみても、この国ほど、頭に「政治的」という言葉がつく問題に人々が深くかかわっている国も少ないでしょう。アパルトヘイト政策は、始めた人たちが政略的な理由からその政策を否定している今日でも、人生のあらゆる局面に顔を出し、(白人の、カラードの、あるいはインド人の) 国会議員であれ、実業家であれ、労働者や聖職者、あるいは運動家や芸術家であれ、その政策の必然的な結果から逃れることはできません。もし、芸術というものに意義があるとすれば、この国の人々に取りついて離れない強迫観念や、南アフリカの人々の魂を憔悴させ、時には魂を崩壊させる感情を映しだすべきです。

反対勢力の激しい政治論争に恐れをなしたり、抗争の激しさに圧倒されたり、あるいは単に恐怖心を抱いて、自分の立場を明らかにしてある判断を示すよりも沈黙を守ろうとする作家もいることは確かです。しかし、全体として、まだ歴史は浅いながらも、南アフリカ文学ははっきりと政治的な状況を意識していることを示してきました。色々な事実に怯むことなく、人生や真実を大切に思う人たちによって、最も優れた、味わい深い文学が生み出されてきたのです。

いくらそのつもりでも、南アフリカのすべての人々が様々な事実を知るのは容易なことではありません。人口登録や居住区の人種による隔離政策は厳しく、黒人と白人の間の分け隔ては非常にはっきりとしていて、両者の接点は極めて少ないのです。したがって、法的な障害があり過ぎて、現実に親しく付き合うのは極めて稀なことです。白人が黒人の生活を書こうとすれば、経験によるより、むしろ直感や当て推量に頼らざるを得ない場合が多くなります。そのために、時には人物の扱いが上すべりになっていたり、ごまかされたりしている場合もありますが、自ら望んだり意図したりしたものでないだけに、かえって残念です。

南アフリカの黒人作家は、白人の作家に劣らず、うまく洗練された形で全体の状況を描きだすのが難しいと感じながらも、作品を通して、南アフリカの全体像をただすのに大きな成果を収めてきました。黒人作家には、たえず一つだけ、白人作家よりも有利な点があったのです。つまり、南アフリカの人口の大多数を占める黒人に悲劇をもたらしている条件や状況を、詳しく、個人的に知っているという点です。白人の作家は、法律や習慣や黒人と比較すれば極めて安楽な生活によって保護され、人種の闘争からワン・クッションおかれた社会に所属しながら、どちらかと言えば、自分が直接かかわってはいない戦闘の状況を描く従軍記者に似た立場から、南アフリカの闘いを遠くから観察します。しかし、黒人作家の場合は、戦場で実際に闘っている戦士としてものを書きます。南アフリカのドラマがもっとも強烈に演じられるのは、黒人の生活の真っ只中においてです。喜びも悲しみも、嬉しさも厳しさも、その人たちの心の奥深くで感じたもので、たいていの白人の経験の枠をこえた状況のなかで体験したものです。

ブルドーザーで一掃され、今は歴史の中に消えてしまいましたが、かつては活気に満ちたカラード社会の中心地であった、ケープタウンの第六区に生まれ育ったアレックス・ラ・グーマの作品は、その街の姿を鮮明に描き出しています。アレックスは、ジミー・ラ・グーマの長男として、一九二五年に生まれました。父親ジミーは、南アフリカ闘争の草分けの一人で、当時すでに、通商産業労働者組合(ICU)、アフリカ民族会議、それに南アフリカ共産党の業務で、重要な役割を演じていました。共産党では、党が一九五〇年に解散させられるまで、中央委員会の一員でした。生まれた年から、一九八五年にハバナで死ぬ間際まで、政治は、アレックスの生命そのものだったのです。

トラファルガル・ハイスクールとケープ・テクニカル・カレッジを終えたあと、解放闘争に常時専念するようになるまで、事務員や会計係や工員として働きました。若年ながら共産党に入党し、党活動が禁止されるまで、党のケープタウン地区委員会のメンバーでした。その後も政治活動を続け、自由憲章が採択され、アフリカ民族会議の主導で会議運動が始まるきっかとなった、歴史的な一九五五年の国民会議の準備をするために、重要な役割を果たしました。

一九五〇年代には、政府の承認を受けて、国民党政権が、カラード社会に激しく襲いかかりました。体制は、人口登録法と集団地域法の条文をたてに、カラードのすべての権利を剥奪し、生活のあらゆる局面に人種隔離政策を押しつけようとしたのです。何千人もの人々が逮捕され、人種別に分類するという浅ましい作業に屈してしまいました。トランスバール州で人種別再分類の作業を担当した係官の手にかかった自らの苦い体験を、ある女性が次のように語っています。

検査官は、初めは右側から、次に左側から、私の横顔を見ました。それから、髪を念入りに調べました。目の細かい櫛をちゃんと持っていて、髪を少し摘むと、毛先のほうに櫛の目を入れたのです。そのあと、鼻に触って、おまえの母親の鼻はどんな形をしているかと聞きました。

南アフリカ・カラード人民機構(SACPO)の副議長として、アレックス・ラ・グーマは、こういった非道な行為に抵抗する最前線に立っていました。のちに、アレックスはSACPOの議長を引き継ぎ、その立場から、ケープタウンのバスにアパルトヘイト政策を導入しようとする動きに反対して、抗議運動を展開しました。(SACPOは、のちに南アフリカ・カラード人民会議と改名されました)

一九五五年八月のケープタウン会館での抗議集会で、ラ・グーマは次のように語っています。

みんなが国民会議の旗の下に団結すれば、自由と民主主義を求める闘いに敗れることはありません。南アフリカ国内だけでなく、国外にも、我々の側には、何百万という味方がついています。自由憲章が新しい南アフリカの基礎となり、未来は我々のものなのです。

一九五六年十二月五日、国じゅうで百五十六名の男女が警察に逮捕されましたが、アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。百五十六名は軍用機でヨハネスブルクに運ばれ、反逆罪で起訴されて裁判にかけられました。告訴側は、自由憲章で述べられた民主的な諸権利は極めて過激なものであり、国民会議を主催した人たちは、目的を達成する唯一の手段として武力と暴力によって政府の転覆をはかっていたに違いないと主張しました。この法廷論争と政治闘争については、裁判所で起訴事実が却下され、被告が自分たちの普段の生活に戻れるようになるまで、ほぼ五年の歳月が必要でした。

南アフリカで、積極的に政治活動をする人や、体制に反対して闘う人の生活は、決して正常ではありません。一九五八年のある夜、アレックスは暗殺計画の標的にされ、机に向かって仕事をしていた部屋の窓から二発の銃弾を撃ちこまれました。その一発は外れましたが、もう一発がアレックスの首をかすめました。暗殺者に見せかけた犯人の捜査は行なわれず、二、三日してからアレックスはポストに投げこまれた「おまえを殺りそこなって残念だ。またやって来る。愛国者」という匿名の手紙を受け取っています。

反逆裁判が未だ結審しないうちに、一九六〇年三月二十一日のシャープヴィルやランガでの警察による大量虐殺や、国民党政権による非常事態宣言に続いて、国じゅうがさらに激しい騒動に巻きこまれていきました。法に従って、政府は全国で二万人を逮捕しました。〈怠け者〉や〈浮浪者〉の名のもとに、急遽刑務所内で極秘裡に開かれた私的裁判にかけられて、遠隔地での強制労働につかされる者も出ました。二千人以上の政治的指導者たちが、裁判なしに、最高五か月のあいだ、刑務所に拘禁されたのです。アレックス・ラ・グーマもその中の一人でした。アレックスは、本を読んだり、ものを書いたり、のちに成功を収めることになる自らの仕事の準備をしながら、その幽閉された退屈な数か月間を過ごしたのです。

アレックスは生涯を通じて大の読書家で、かなり早い時期からものを書く腕試しをやっていました。しかしながら、仕事として本格的にやり始めるのは、一九五六年にスタッフに加わった進歩的な新聞『ニュー・エイジ』の記者としてでした。アレックスはそのペイジを、ケープタウンの人々の生活や闘争についての漫画やニュース記事、物語やたくさんの印象的な写真などで飾り立てました。

「ニュー・エイジ」一九六二年八月六日 ラ・グーマの活動禁止を報じている。カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)所蔵

その間じゅう、アレックスは政治活動も続け、嫌な思いを強いられる迫害にも決して気落ちすることはありませんでした。一九五六年、アレックスは、アパルトヘイト政策をとる事業や公共施設への経済的なボイコットを呼びかけるパンフレットを持って、許可証なしにニャンガ黒人居住区に入ったという理由で、ロナルド・シーガル、ジョゼフ・モロロングと共に逮捕されました。一九六一年には、ピーターマリッツブルク全アフリカ人会議の全国行動委員会のスポークスマンであるネルソン・マンデラが、ファヴールトの共和国宣言の式典に抗議して五月の終わりに三日間のゼネストを呼びかけた時、アレックス・ラ・グーマとカラード人民会議の仲間は、その呼びかけに応じて抗議運動に加わりましたが、逮捕され、政府がストライキの脅しに対処するために特別に成立させた新法の下で、裁判までは保釈金も積めない状態で、十二日間拘禁されました。ストライキが始まる前の大事な時期に指導者たちが刑務所にいるか、どこかに潜んでいたにもかかわらず、カラード社会の対応はすばらしく、ストライキの行なわれた三日間、ケープタウンの会社や商店は大きな打撃を受けています。

一九六一年六月に、アレックスは共産主義弾圧法で一切の活動を禁止されました。九月には不法なストライキを組織した嫌疑により、同法で起訴されましたが、その起訴はのちに取り下げられました。一九六一年十二月には、法務大臣からカラード人民会議の議長を辞めるように命じられました。しかし、同月、人々の忍耐は限界を越え、国じゅうのあらゆる地域の政府の建物や施設に対して向けられ一連の爆破事件は、解放運動の武力闘争部門、ウムコント・ウェ・シズウェの出現の前ぶれとなりました。

政府の反応は、悪名高い一九六二年の一般法修正令、いわゆる破壊活動法 (サボタージュ・アクト) で、なかでも、反体制の人間を自宅拘禁できる条文を含んでいました。一九六二年十二月に、アレックス・ラ・グーマは、一日に二十四時間、自宅拘禁を命ず、という通告書をつきつけられました。その通告の五年間に、アレックスを訪れることができる者は、わずかに母親と、妻の両親、それに過去、共産主義弾圧法に触れたり、活動を禁止されたりした経験のない医者と弁護士だけでした。

二十四時間の自宅拘禁生活をしていたという事実、その結果政治的な活動の可能性を完全に奪われたと言う事実でさえも、アレックス・ラ・グーマがさらに犠牲を強いられるという事態を救えませんでした。一九六三年に九十日間無裁判拘禁法が議会を通過したのに続いて、アレックスも逮捕され、裁判なしに拘禁されたのです。刑務所では、一日に二十三時間半、独房に監禁され、残りの半時間が「運動」と自分の時間にあてられるという孤独拘禁の状態におかれました。他の拘禁者の場合と同じように、アレックスも来訪者や読むもの、書くものを許されないばかりではなく、法的な助言者が近づくことも拒まれ、もっとも忌まわしい形の精神的な拷問を強いられて、警察の満足がいくまで尋問に答えることを強要される可能性もあったのです。

アレックスは屈しませんでした。アレックスにさらに圧力をかけるために、政府は、看護婦と助産婦をしていた妻ブランシも逮捕しました。二人の子供ユージーンとバーソロミューは、親戚が世話しなければなりませんでした。ブランシ・ラ・グーマは、のちに釈放されましたが、ほとんど同時に活動禁止命令も言い渡されました。当然の順序としてアレックスも釈放されましたが、保釈中の身で、発禁処分の文学書を所持していたとの罪で起訴される事態に直面しました。アレックスは有罪とされ、執行猶予つき三年の実刑を言い渡されたのです。

一九六六年、アレックス・ラ・グーマは再び拘禁されました。この頃までには、弾圧は非常に厳しいものになっていましたから、アレックスとブランシは二人の子供と一緒に祖国を離れることを余儀なくされました。家族は、最初ロンドンに落ち着き、イギリスにおけるANCの存在を強固なものにするために、大きな役目を果たしました。のちにアレックスがキューバでのANC主代表に指名されたとき、家族はハバナに移り住みました。アレックスとブランシの監督のもとに、何百人もの南アフリカの学生が、祖国では拒否された様々な分野の教育を受けることができました。

亡命の期間中、アレックスはできるだけ多くの時間を書くことに専念し、自らアジア・アフリカ作家会議の仕事にもかかわりました。アレックスは、世界平和評議会の議長の一人でもありました。一九八五年十月十一日、アレックスは、心臓発作のため、ハバナの病院で亡くなりました。六十歳でした。

死ぬ時までの数年間、アレックス・ラ・グーマはアジア・アフリカ作家会議の事務総長を務め、一九六九年にはその作家会議のロータス文学賞の受賞者になりました。一九八五年には、六十歳の誕生日を記念して、ソビエト連邦から民族友好勲章を、フランスからは文芸勲章を、コンゴからは文学賞を受けました。

アレックス・ラ・グーマが作家として、より広範な読者にその才能を最初にあらわしたのは、一九六二年の小説『夜の彷徨』の出版と同時でした。アレックスはすでに活動を禁じられ、喋ったり書いたりしたものは国内ではいかなる手段でも再現されることはありませんでしたから、最初の小説はナイジェリアのムバリ出版社から出版されました。二、三冊の本が密かに国内に持ちこまれ、人の手を経て読み継がれました。その本はただちに、想像力に富んだ優れた作品としての評価を得て世界中に出まわり、数力国語に翻訳されました。

その本は、わずか九十ペイジの長さの短篇小説です。しかし、そのペイジとペイジの間には、ケープタウンで最も色鮮やかな社会を構成した、カフェの常連や田舎者や客引き、労働者の夫婦、商売女やポン引きにちんぴらなど、ケープタウン第六区のさまざまなタイプの人物が登場するのです。建物がなぎ倒され、そこに住んでいた人たちが集団地域法によって四散させられて、第六区はすでにありませんが、かつて第六区を通ったことがある者は、その曲がりくねった混雑する通りを、その人間味あふれる騒がしさを、その臭いを、その貧しさと惨めさを、そして活発さと限りない多様性を忘れることはできないでしょう。いくら見た目が悪くても、その静脈の中には生命の鼓動が激しく鳴り響いていたのです。その鼓動があまりにも激しいので、今日まで度々その地区を「白人」地区に変えようと政府が努力してきましたが、黒人白人を問わず、ケープタウン社会全体の抵抗にあって、その計画は失敗に終わっています。人種差別をする人たちに土地を奪われたことに対する第六区の人々の憤りは、今日、ケープ西部の若者による政権と政策と軍隊に反対する全面的な闘争の中にこだましています。

1966年に強制立ち退きにあったケープタウン第六区の今と昔(タイム誌)

 アレックス・ラ・グーマは第六区をよく知っていました。ロジャー通り二番に住み、のちにガーランディルに移り住むまで、幼い頃の大半をそこで過ごしたからです。アレックスは、そこに住む人たちと、その人たちが「トラブル」と呼んでいたその人たちの問題を理解し、よく知っていて、心をこめ、細心の注意を払ってその問題について書きました。そこに登場する人物は、ペイジとペイジの間を生気なく気取って歩くような非現実的なものではなく、リアルで生き生きとした血肉の通った男性であり、女性なのです。その人たちは、世の中に無視され、軽蔑されて気落ちしてはいますが、生き延びて、食べたり飲んだり愛し合ったり、あるいは寂しさや恐怖に耐え、汚れを洗い流してくれる明日の夜明けを迎える自分たちの意志の固さを、執拗に物語っているのです。

アレックス・ラ・グーマの散文が鋭く訴えるのは、自分の環境をよく知り、完全に理解していたからです。効果をねらって努力するのではなく、芸術的な手腕と正確さで、労働者階級と権利を奪われた生活を浮き彫りにしています。住まいの壁にこびりついた汚れを感じ、裏通りのごみの山の臭いを嗅ぎ、街角のバーからどっと聞こえてくる笑い声を聞き、喧嘩の真っ最中に抜かれたナイフのきらっと輝く光を見ることができます。すべて、実際に目の前で起こっているかのように、劇的で、鮮明なのです。

アレックス・ラ・グーマが成功した秘訣は、物語の中の会話が人々が実際に話している会話に忠実であったことにもよっています。新しく刷り上がった紙幣のようにぱりっと音を立てながら、こちらをどきっとさせるような現実味を帯びて、人々の言葉が物語のペイジからあふれてきます。アレックスは、登場人物の言葉を次々と微妙に変化させながら、自分の語り口から物語の人物を創り出すこつを心得ています。それらの話は、真実のように、きびきびとして元気よく、ユーモラスで説得力のある、現に生きている人々の話なのです。

アレックスの書いたものは、法律に違反することなく、南アフリカで一般に読まれる可能性はありません。アレックスの名前は、活動を禁止された人のリストにまだ記載されています。重ねて念を押すかのように、一九六三年一月に郵便で『夜の彷徨』が国内に送られてきたとき、検閲官はその書が反政府的であると認定する、と宣告して、何冊もの『夜の彷徨』を押収しました。しかし、アレックスの書いたものは、それを押さえこもうとする検閲官の活動にもうち勝ち、その作品は長年にわたって、国内外の広範な評価を得てきました。『夜の彷徨』に続いて、一九六四年には『まして束ねし縄なれば』が出版されました。今回は、ケープタウン周辺に広がるスラムの生活を取り扱ったものでした。そこには、何万人という黒人 (カラードとアフリカ人) が小屋を立てて雨風を凌いでいます。その人たちは、「公式に認められた」住むための場所を持たず、生き延びる唯一の希望を自分たちに提供してくれる都市の周辺での不安定な生活にしがみついているのです。その住民の多くは存在する権利を保障してくれる書類もなく、度重なる警察の手入れや不安や貧乏の餌食となりながら、不法に都市地域に滞在しています。その人たちの家は、とにかく何とか雨露だけでも凌げるようにとあらゆる材料を使って立てられた粗末な小屋なのです。

それらの地域には、舗装された道路も、下水も、排水施設や電灯もありません。水も、バケツなどを運んで買いに行かなければならないのです。雨が激しく降りつけるケープの冬には、屋根は雨漏りがして、その辺りは一帯に水浸しとなり、地面はじゅくじゅくの状態です。どこに行っても、泥と惨めさの臭いが漂います。子供たちは泥の中で遊び、大人たちは泥に足を取られながら、暗闇の中を仕事に通うのです、それも、運よく仕事にありつけばの話なのですが・・・・・・。

『まして束ねし縄なれば』は全篇にケープの冬の湿気と惨めさが充満し、その灰色の侘びしい色調を一連の絵画的、散文的銅板画で捉えています。この作品は忌まわしいほど残虐な、限りなく絶望的な数々の出来事で南アフリカの奥深くを描きだしているので、あるいは読者の気を滅入らせたこともあったでしょう。しかし、物語の根底には、アレックス・ラ・グーマの人生に対する情熱と誠実さにより、楽観的な雰囲気が漂っています。わくわくする会話は、心の機微を捉えて生き生きと輝いています。アレックスのメッセージは・・・・・・団結は力である。独りで世間に立ち向かっても打ち負かされるが、みんなで協力してやれば、何事も切り抜けられる・・・・・・というものです。

その次のアレックス・ラ・グーマの小説は『石の国』(一九七六年) で、自らの獄中体験から生み出された、寒々とした壁や暗い廊下やガチャーンと響くドアの物語です。そのあと、危険で大胆不敵な地下活動を詳しく書いた『季節の終わりの霧の中にて』(一九七二年)、バンツースタンヘの強制移住に反対して闘う人々の抵抗運動を取り扱った『百舌鳥のきたる時』(一九七九年) と続きます。数々の短篇だけでなく、『アパルトヘイト―南アフリカの人種差別に関する南アフリカ人の著作集』(一九七一年) をも編集し、広くソビエト連邦を旅行したのちに『ソビエト旅行』(一九七八年) も出版しました。他にもたくさんの小品を書き、死ぬ間際には、新作『闘いの王冠』の執筆にいそしんでいました。

Stone Country (神戸市外国語大学図書館黒人文庫所蔵)

 アレックス・ラ・グーマの作品の特徴は、リアリズムと楽天性を混ぜ合わせたものでした。アレックスは人生に真っ向から立ち向かい、掃き溜めの底にいる人たちに対する不快感を隠そうとはしませんでしたが、力を合わせてやれば、虐げられた人たちが自分たちの世界を変革し、資本主義や搾取、人種差別や偏見という悪夢を終わらせ、理性と協調に基づく新しい世界が構築できるという確固たる信念をいつも持ち続けていました。しかし、説教師ではありませんでした。アレックスは、本質的に、細部にまで行き届いた鋭い目と温かいユーモアの感覚を備えた物語作家でした。アレックスに敵意はありませんでした。

『ニュー・エイジ』紙に書いた初期の作品 (一九五六年八月三十日) の中で、アレックスはケープタウンの人々の窮状を次のように見ていました。

年寄りの間で語られる次のような話があります。何年も前のある日、神さまは白人とカラードの人を召されて、二人の前に箱を二つお置きになりました。箱の一つは大変大きく、もう片方の箱は小さいものでした。そのあと、神さまはカラードの人の方を向いて、箱をどちらか選ぶようにとおっしゃいました。カラードの人はすぐさま大きい箱を取り、もう片方を白人に残しました。箱を開けたとき、カラードの人はつるはしとシャベルを見つけました。一方、白人の方は、箱の中に金を見つけました。

人は、自分の運命を解釈する様々な説明づけを行ないます。民間説話、迷信、神話などの形を取る場合もあれば、完全に論理に適っている場合もあります。しかし、いずれの場合にも共通して、抑圧や苦しみや苦難が現実の人生であるという自覚があります。そして人々は、辛さをユーモアで和らげ、単調な生活の苦い薬を風刺的な人生哲学という蜂蜜で甘くするようになりました。しかし、人々はいつも痛みを意識しているのです・・・・・・。

国勢調査では、私たちカラードの人口はほぼ百二十五万人と言われています。しかし、身元の確認を姓名とか肌の色とかでは行なわず、厳しさと喜び、楽しさと苦しさ、憧れと挫折、報われることのない辛く単調な仕事、絶望と飢餓、文盲、肺炎と栄養失調、笑いと悪徳、無知、天才、迷信、永遠の知恵と揺るぎない自信、愛と憎しみなどで行なえば、きっと数えること自体を諦めざるを得ないでしょう。人々は、違った表紙によって初めてそれぞれの違いが区別できる本と似ています。

そして、人はしょせん神ならぬ身、人間でしかないのですから、朝起きれば、夜の毛布を投げ捨て、太陽に顔を向けなければならないのです。

一九八八年      ブライアン・バンティング

本文(写真作業中)

 

執筆年

1991年

収録・公開

註釈書、Mondo Books

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And a Threefold Cord by Alex La Guma(本文は作業中)