2010年~の執筆物

概要

前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」("The Struggle for South Africa")の前半で、①入植者による南アフリカ連邦の成立と、②アパルトヘイト政権について書きました。今回は後半で、③アフリカ人がヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、④白人政権に協力した日本と南アフリカの関係について書いています。

本文

南アフリカ小史後半

③ アフリカ人の抵抗運動

1910年に南アフリカ連邦が出来、1913年に土地政策の根幹となる原住民土地法が成立する前の年に、アフリカ人は抵抗運動組織「南アフリカ原住民民族会議」を創設しました。

1925年に「アフリカ民族会議」(ANC =African National Congress)と名前を変えていますが、今は南アフリカの与党です。

設立当初は、ロンドンに派遣団を送って陳情したり、壇上から反対を訴えかけるくらいの消極的な活動しかしなかったようですが、1940~50年代になると世界の流れに乗って、アフリカ人労働者が労働組合を作り、大規模なデモやストライキなどの積極行動を繰り広げるようになりました。

1955年にはクリップタウン郊外で大規模な国民会議を開き、全人種によるアパルトヘイト撤廃に向けての闘争を確認し合いました。しかし、1959年に「アフリカ民族会議」は分裂してしまいます。アフリカ人だけで闘おうとする理想主義者のロバート・ソブクエとアパルトヘイトの廃止のためなら誰とでも手を組むネルソン・マンデラの闘争路線をめぐる基本的な対立が表面化したからです。「パン・アフリカニスト会議」(PAC=Pan Africanist Congress)の創設は、追い詰められていた白人側には思いがけない幸運でした。「分断支配」すべきアフリカ人側が自分たちで分裂してくれたのですから。ソブクエとマンデラが少しでも歩み寄ることが出来ていたら、その後の歴史も大きく変っていたでしょう。

画像

(ロバート・ソブクエ)

ソブクエに率いられてパン・アフリカニスト会議は1960年に、パス法不所持の抵抗運動を単独で開始しました。アフリカ人であふれかえる警察署は想像以上に混乱し、警察がデモ隊に無差別に発砲する事態にまで発展し、国内は騒然となりました。これがシャープヴィルの大虐殺で、歴史の大きな転換点になりました。

シャープヴィルの虐殺(ポグルンド『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』より)

事件はただちに世界中に報道され、国連は非難決議を採択して経済制裁を開始しました。各国は表面上経済制裁に同調しますが、日本と西ドイツは流れに逆行して第2次世界大戦で中断していた通商条約を再締結してアパルトヘイト政権に応じました。その見返りに、日本は居住地区に関する限り白人並みに扱うという名誉白人の待遇を再度約束されましたが、アフリカ人にとっては、自国の都合しか考えない屈辱的な裏切り行為でした。

1961年にアフリカ人側はそれまでの非暴力の闘いを諦め、武力闘争を開始しました。白人政府は躍起になって力で押さえ込みにかかり、1964年までに、マンデラを含むすべての指導者を投獄しました。多くの指導者が逮捕を逃れて国外に逃亡しました。地下活動は続きますが、非常に困難を極め、1965年までに、武力闘争は完全に抑えこまれました。党の指揮権や解放軍はザンビアやタンザニアに移り、軍隊訓練はアフリカや海外で行なわれました。

ネルソン・マンデラ

指導者が国内にほぼいなくなった70年代に、まだ逮捕されていなかった大学生が闘争を始めました。指導的立場にいたスティーブ・ビコは、侵略を正当化する白人優位の体制のなかで自分に希望を見いだせなくなって諦め切っているアフリカ人の意識が問題で、自分や国に希望を抱いて体制に立ち向かおうと説き、多くの若い人たちが奮い立ちました。1976年にはアフリカーンス語の導入をめぐって高校生が政府と衝突して、たくさんの犠牲者を出しました。この事件はソウェトの蜂起と呼ばれています。

画像

(スティーブ・ビコ:小島けい画)

アフリカ人には厳しい時代が続きました。

④ 日本と南アフリカの関わり

いくらアパルトヘイト政権が国家予算の30%を警察・軍隊につぎ込んでも、人口の13%ほどにしか過ぎない人たちが大多数のアフリカ人を押さえ込むのは不可能で、アパルトヘイト政権が維持出来たのは良きパートナーがいたからです。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本などは、表面上はアパルトヘイトに反対して経済制裁を唱えながらも、貿易の良きパートナーとしての関係を維持しました。日本はIT産業や他の産業に必要なレアメタルや金やダイヤモンド、安い農作物を輸入、代わりにトヨタやニッサンなどの自動車や工業製品を輸出、1988年には貿易高が世界一になって国連から非難決議をつきつけられました。日本の政財界は、自民党の二階堂進や石原慎太郎が旗振り役で南アフリカ政府と密接な関係を続けました。アパルトヘイト政権は、なくなりました。1990年に法律を変えないままマンデラが無条件で釈放され、4年後に全人種による選挙が行われて、初めてのアフリカ政権が誕生しました。

国外からの経済制裁の圧力、国内でのアフリカ人の抵抗運動、二重の設備を作ったり、無能な白人に高い給料を支払い有能なアフリカ人を使えないという制度自体への経済界の不満など、アパルトヘイト廃止の要素はいくつか考えられます。しかし最大の原因は、戦争が起きれば利益を分かちあっている先進国が一番困る、だったのではないでしょうか。内戦が起きれば白人側は米国、英国、フランス、ドイツ、日本などから直接間接に武器の供与を受け、アフリカ人側は、ソ連、中国、キューバ、北朝鮮、リビアなどの東側諸国から武器が流れて来て、南アフリカは灰になる可能性があり、多数派のアフリカ人が勝てば、アンゴラやモザンビーク、ジンバブエなどの社会主義政権が生まれる、そうなるとウランの産地が東側に移って東西のバランスが崩れるばかりか、利益を得ているすべての国が損をする→他のアフリカ諸国と同じく表面上はアフリカ人による政権を誕生させて実質を取る→そのためには圧倒的多数の支持を得る英雄が必要、その辺りがマンデラ釈放の真相のようです。

次回は「アフリカ系アメリカ小史前半」です。(宮崎大学医学部教員)

南アフリカ小史後半では、「大衆動員と抑圧」→「武力闘争」→「南アフリカの外国資本」→「南アフリカの帝国主義」→「黒人意識運動」→「ボタ、デクラーク、マンデラ」の流れに沿って、英文で書きました。日本語訳もつけた全文については、→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis7.docx(画面上に出てくるZimHis7. docxです。右のアドレスをクリックすれば “The Struggle for South Africa" in Africa and Its Descendants「南アフリカの解放闘争」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995) Chapter 2, pp. 46-70ワードファイルをダウンロード出来ます。)

『アフリカとその末裔たち』

執筆年

  2014年1月10日

収録・公開

  →「南アフリカ小史前半」(No. 65  2014年1月10日)

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  「南アフリカ小史前半」

2010年~の執筆物

概要

『アフリカとその末裔たち』(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」(The Struggle for South Africa)の前半です。

『アフリカとその末裔たち』

1章のアフリカ小史を受けて、典型的な植民地支配を最近まで受けて来た南アフリカ小史の前半、ヨーロッパ人入植者が南アフリカを植民地化して安価な労働力を大量に生み出す搾取機構を打ち立てたという歴史背景です。(ハラレでは実際にゲイリーたちがこの制度の元で大変な暮らしを強いられていました。)

次回は南アフリカ小史の後半、アフリカ人がそのヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、白人政権に協力した日本と南アフリカの関係についてです。

本文

南アフリカ小史前半

南アフリカの歴史背景としては大きくわけて4つの大枠を掴んでおく必要があります。

①つ目はヨーロッパからの入植者(European Immigrants)がアフリカ人から土地を奪って南部アフリカに作り上げた季節労働者制度(Migrant labour system)。
②つ目は、オランダ系の入植者の国民党(Nationalist Party)が単独政権を取って推しすすめた人種差別政策アパルトヘイト制度(Apartheid system)。
③つ目は、アパルトヘイトと闘ったアフリカ人の解放闘争(Liberation struggle)。
④つ目は、日本とアパルトヘイト政権のかかわり、です。

今回は最初の二つ①と②についてです。

① 入植者による南アフリカ連邦の成立

最初に南アフリカに来たヨーロッパ人はオランダ人で、1652年のことです。

今のケープタウン辺り、ケープ地方にやって来ました。オランダ人入植者(Dutch immigrants、大半が農民だったのBoers【オランダ語で農民の意味】と呼ばれていましたが、のちに蔑称として使われましたので自らをアフリカーナー(Afrikaners)と呼ぶようになりました。)はのちにアパルトヘイト政権を打ち立てました。

当時ケープ地方(南西部)にはコイコイ人やサン人など、原始的な生活をしている人たちが住んでいましたので、入植者はその人たちを比較的容易に奴隷にして、自分たちの農場で働かせました。社会基盤は農業でした。

ケープタウンテーブルマウンティン

次にイギリス人が来てアフリカーナーとケープの覇権を争いました。イギリスはアジアの戦略拠点を競争相手のフランスに押さえられないように大軍を送り込みました。

奴隷貿易で蓄積した資本で産業革命を起こして産業化社会になりかけていたイギリスの狙いは、更なる生産のための安価な原材料と大量の安価な労働力でした。経済的に優位に立っていたイギリス人入植者(British immigrants)がアフリカーナーとの権力闘争に勝利して1795年にケープ植民地政府を樹立し、1833年には一方的に奴隷を解放しました。

敗れたアフリカーナーのうち、富裕は内陸部に大移動しますが、残りはケープ地方に留まりました。アフリカーナーは内陸部の行く先々で高度な文明を持つアフリカ人と衝突しました。

1854年頃までには一応富裕な海岸線の2州ケープ州とナタール州をイギリス人入植者が領有し内陸部の痩せた2州オレンジ自由州とトランスバール州をアフリカーナーが占有(厳密にはイギリス系がオランダ系の自治を承認)することで落ちついたものの、
オレンジ自由州でダイヤモンドが、トランスバール州で金が発見されて状況が一変しました。それまで南アフリカはインドへの航路としての役割はありましたが、さほど重要視されてはいませんでした。ダイヤモンドと金の採掘権を巡ってイギリス人入植者とアフリカーナーがアングロ・ボーア戦争(Anglo-Boer wars)を始めます。結果的には決着をつけずに、アフリカ人を搾取する一点に妥協点を見出して1910年に南アフリカ連邦(The Union of South Africa)を成立させました。どちらも過半数の議席に及ばずに妥協の産物として出来たイギリス人入植者とアフリカーナーの連合政権でした。

(南アフリカの地図)

アフリカ人から土地を奪い、アフリカ人に課税をして化貨幣経済に巻き込み、無尽蔵の安価な労働力を作り出して、自分たちの大農園や鉱山や工場や、白人家庭でこき使う大規模な搾取機構です。(ジンバブエは第二のヨハネスブルグ=金鉱を求めてやってきたこの時代のケープ植民地のイギリス系入植者がゲイリーたちの祖父の代の人たちから土地と家畜を奪って作った国で、植民相だったセシル・ローズは国に自分の名前をつけてローデシアと名付けました。ゲイリーたちにとっては何とも忌まわしい話です。)

ローズたちの駐留地はスクエア・ガーデン、アレックスと従姉妹と長女とで記念撮影

② アパルトヘイト政権

イギリス人入植者とアフリカーナーの連合政権は、1948年にアフリカーナーによる単独政権に変わりました総人口の13%に過ぎない白人の6割を占めるアフリカーナーが単独政権を取ったのは、第2次世界大戦が大きな引き金でした。

ヨーロッパが第二次世界大戦の殺し合いで疲弊したため、それまで虐げられ続けた人たちが権利を求めて闘う素地が出来上がっていました。アジア・アフリカ・ラテンアメリカでは独立運動、アメリカ国内では公民権運動と世界的な広がりを見せていきました。その余波を受けて南アフリカ国内でも、アフリカ人は積極的にデモやストライキをして政府に対抗しました。当時のイギリス系の与党統一党(The United Party)は意識に目覚めたアフリカ人労働者層が積極的に参加する闘争に対抗し切れませんでした。

少数の白人と多数のアフリカ人との緊迫したこの時期に、白人だけが投票権を持つ総選挙が行われました。アフリカーナーの国民党は白人人口の60%の大半を占める貧乏な農民(poor whiteに投票してくれれば、人種隔離政策(アパルトヘイト)で優遇する、つまり賃金の高い仕事は白人のために確保し、アフリカ人には低賃金のにしか就かせないというスローガンを掲げて選挙戦を展開、結果的には過半数を取ることになり、1948年にアパルトヘイト政権が成立しました。

政策の根幹は、アフリカ人から土地を奪って課税して作り上げた安価な無尽蔵のアフリカ人労働者から搾り取れる一大搾取構造でした。たくさんの法律を作り、人種によって賃金に格差をつけ、アフリカ人には単純労働しかさせず、居住区なども人種によって差別するという、徹底した差別政策でした。

③ アフリカ人の解放闘争と④日本とアパルトヘイト政権のかかわりについては、次回の「南アフリカ小史後半」で取り上げます。(宮崎大学医学部教員)

日本語訳は長く、ブログの制限枠目安をはるかに超えているそうです。インターネット上にファイルをおきますのでご利用下さい。右のアドレスをクリックすればワードファイルをダウンロード出来ます。→https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/Zim6.docx(画面上に出てくるZim6.docxです。)

執筆年

  2014年1月10日

収録・公開

  →「南アフリカ小史前半」(No. 65  2014年1月10日)

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  「南アフリカ小史前半」

2010年~の執筆物

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に25回連載した『ジンバブエ滞在記』の一覧です。

フローレンス(小島けい画)

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 59(2013/7/10)までです。

2011年

<1>→「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988」「モンド通信」No. 35」、2011年7月10日)

<2>→「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目」「モンド通信」No. 36」、2011年8月10日)

<3>→「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車」「モンド通信」No. 37」、2011年9月10日)

<4>→「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」「モンド通信」No. 38」、2011年10月10日)

<5>→「ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯」「モンド通信」No. 39」、2011年11月10日)

<6>→「ジンバブエ滞在記⑥ 買物」「モンド通信」No. 40」、2011年12月10日)

2012年

<7>→「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」「モンド通信」No. 41」、2012年1月10日)

<8>→「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」「モンド通信」No. 42」、2012年2月10日)

<9>→「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」「モンド通信」No. 43」、2012年3月10日)

<10>→「ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐」「モンド通信」No. 44」、2012年4月10日)

<11>→「ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会」「モンド通信」No. 45」、2012年5月10日)

<12>→「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」「モンド通信」No. 46」、2012年6月10日)

<13>→「ジンバブエ滞在記⑬ 制服の好きな国」「モンド通信」No. 47」、2012年7月10日)

<14>→「ジンバブエ滞在記⑭ ルカリロ小学校」「モンド通信」No. 48」、2012年8月10日)

<15>→「ジンバブエ滞在記⑮ ゲイリーの家」「モンド通信」No. 49」、2012年9月10日)

<16>→「ジンバブエ滞在記⑯ 75セントの出会い」「モンド通信」No. 50」、2012年10月10日)

<17>→「ジンバブエ滞在記⑰ モロシャマリヤング」「モンド通信」No. 51」、2012年11月11日)

<18>→「ジンバブエ滞在記⑱ アレックスの生い立ち」「モンド通信」No. 52」、2012年12月10日)

2013年

<19>→「ジンバブエ滞在記⑲ ロケイション」「モンド通信」No. 53」、2013年1月10日)

<20>→「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」「モンド通信」No. 54」、2013年2月10日)

<21>→「ジンバブエ滞在21 ツォゾォさんの生い立ち」「モンド通信」No. 55」、2013年日3月10日)

<22>→「ジンバブエ滞在記22 ジャカランダの季節に」「モンド通信」No. 56」、2013年4月10日)

<23>→「ジンバブエ滞在記23 チサライ」「モンド通信」No. 57」、2013年5月10日)

<24>→「ジンバブエ滞在記24 ふたつの壷」「モンド通信」No. 58」、2013年6月10日)

<25>→「ジンバブエ滞在記25 『ジンバブエ滞在記』の連載を終えて」「モンド通信」No. 59」、2013年7月10日)

ゲイリー(小島けい画)

「モンド通信」に連載分一覧→「玉田吉行の『ジンバブエ滞在記』」(小島けい絵のblog)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した初回分の「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988 」です。1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo.62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988

アフリカについて考えるようになったのは偶々です。考えている間に、無意識に一度はアフリカに行ってみないとなあと思うようになっていました。80年代の初め辺りからアフロ・アメリカの延長線上にある問題としてアフリカについても書くようになっていましたが、書く限りは、出来れば家族とある一定の期間はアフリカに行って住んでみないと気が引けるなあ、と考えるようになっていました。

宮崎医科大学から在外研究に行ける可能性が高かった1990年に文部省に申請書類を出す前は、アレックス・ラ・グーマ(1925-85)の生まれ育った南アフリカのケープタウンに行ってみたいと考えていました。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

しかし、今では嘘のような話ですが、在外研究を申請した時点では、日本政府は南アフリカとの文化・教育の交流の禁止措置を取っていましたので、国家公務員の南アフリカ行きは認められませんでした。結局は、国内が独立に向けての混乱期でもあるので今回は遠慮して、しかし、折角の機会でもあるので、せめてアメリカ映画「遠い夜明け」のロケ地となった南アフリカとは地続きの隣国ジンバブエの赤茶けた大地を見に行こう、と自分に言い聞かせました。

ケープタウン(南アフリカ観光局パンフレットより)

1992年の7月から2ヶ月半の間、首都のハラレの白人居住地区にあるジンバブエ大学に行って、家族といっしょに暮らして来ました。その時の話です。

スイス人のおばあさんから借りた家

アフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(1908~1960)の『ブラックパワー』(1954年)がアフリカについて考える直接のきっかけだったと思います。
パリに住んでいたライトが、アフリカ独立の動きをいち早く察知して、当時英国の植民地だったゴールドコーストに行き、後に首相となるクワメ・エンクルマ(1909~72)に会って書いた旅行書です。その時も無意識にライトの生まれたミシシッピに一度は行かないとなあと考えていました。
『ブラックパワー』については1985年に「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」第55号26-32頁)、英訳“Richard Wright and Black PowerMemoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48, 1986.)を書きました。

リチャード・ライト(小島けい画)

初めてアメリカに行ったのは1981年の夏です。団塊の世代ですので、アメリカには憧れと反発が両方あるようで、高校の英語の教員をしていましたが、英語は話さないと決めていました。たぶん、アメリカかぶれした風潮に少しは抵抗したかったのでしょう。日本の学校では、英語がしゃべれなくても英語の教師は務まります。「ライトはミシシッピに生まれて、メンフィス、シカゴ、ニューヨーク、パリと移り住んだそうだから、取り敢えず、今回はパリを除いて反対にずっーと辿ってやろう」、と思って出かけたのですが、シカゴと二ユーヨークで本を買いすぎて、セント・ルイスあたりで資金が尽きてしまい、南部へは辿り着けずじまいでした。英語には、当然のことながら不自由をしましたが、それでも英語をしゃべりたいとは思いませんでした。その後、高校を辞めて大学を探し始めましたが、なかなか見つかりませんでした。
ライトに関する本は大体読みましたが、ミシェル・ファーブルさんの伝記が一番でした。自分の書いたもののレベルが知りたくて英語に翻訳してファーブルさんにも送りました。返事はもらえませんでしたが、1985年にライトの死後25周年を記念する国際シンポジウムで直接お会いすることが出来ました。夜、寮の一室でファーブルさんとお話する機会があったのですが、英語をしゃべらないと決めていたせいで、自分の思いを伝えられませんでした。外国語が出来なくて悔しい思いをしたのはその時が初めてです。帰国してから英語で自分の思いが伝える準備を始めました。2回目のアメリカ行きでした。(ジンバブエの帰りにパリのファーブルさんをお訪ねした時、英語には困りませんでした。)
ライト死後25周年記念国際シンポジウム

「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」(「黒人研究の会会報」第22号4頁。)、“I Like Michel ”などを書きました。

シンポジウムはミシシッピ州立大学であったのですが、その時の発表者の一人、ケント州立大学で英語科の教授をしておられた伯谷嘉信さんから87年の会議で発表しませんかとの誘いを受けました。伯谷さんが司会をするイギリス文学、アメリカ文学以外の英語による文学の部会でラ・グーマについて発表することになり、その時から南アフリカの歴史についても考えるようになりました。日本語でお誘いを受けたものの実際には英語を話す人たちの前で発表するし、この前は南部を回れなかったこともあって、翌年の86年の夏に、再び南部に行きました。今回は一人でライトの生まれ育ったナチェズ、ジャックソン、グリーンウッド、メンフィスなどを歩きました。ミシシッピ州オクスフォードの本屋にも再度立ち寄り、店主のリチャーズさんにアフリカに関する資料は日本では手に入れ難いので、いいのが見つかったら送って下さいと頼んで来ました。3回目のアメリカ行きでした。「ミシシッピ、ナチェズから」(「英米文学手帖」24号72-73頁、1986年。)、「なぜ英語が出来なかったか」(すずかけ祭第20回宮崎医科大学パンフレット、1996年)などを書きました。

ある日、リチャーズさんから『アレックス・ラ・グーマ』という新刊書が届きました。読んでみると本格的な学術書でした。セスゥル・エイブラハムズという著者名しかわかりませんでしたが、ラ・グーマに関してはこの人に聞くのが一番だと思いました(ラ・グーマは既に亡くなっていました。)住所を調べて「行ってもいいですか?」と手紙を書いたら、「北アメリカに来たらお電話下さい。」と返事がありました。エイブラハムズさんは伯谷さんが住んでおられたオハイオ州に近いカナダのセイント・キャサリンズという町に住んでいました。19歳の時に亡命して、当時はブロック大学という大きな大学の人間学部の学部長をされていました。日本はアパルトヘイト体制の白人政府のパートナーで、南アフリカの人たちにとってはいわば敵国でしたが、温かく迎えて丸3日間も泊めて下さって、ラ・グーマについて色々と教えてくれました。4回目の渡米です。「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁、1987年。)、「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」「英米文学手帖」24号123-124頁、1987年。)、“Africa and I”(1995年)などを書きました。)

セスゥル・エイブラハムズさん、娘さんと

その年の暮れにサンフランシスコで行われた会議で無事ラ・グーマについて発表しましたが、その夜、エイブラハムズさんは奥さんを連れて、家族で泊まっていたホテルの部屋まで会いに来てくれました。5度目のアメリカ行きでした。「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」(「黒人研究」58号36頁、1988年。)、「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」(「ゴンドワナ」11号22-28頁、1988年。)などを書きました。)

翌年には、主に北米に住む亡命中の南アフリカの人たちが集まったラ・グーマの記念大会で「ヨシ、ラ・グーマの奥さんのブランシも来られるので、発表してみないか。」と誘われて、ラ・グーマについて発表して来ました。初めてブランシさんにお会いして、すてきな人だなあと思いました。発表については、「視線がきついなあ」と感じました。白人政府と結託して自分たちを苦しめている国から来た発表者に対して、無理もなかったと思います。6度目の渡米で、それ以降何度か行く機会もありましたが、それ以来アメリカには行っていません。

ブランシさん

私は1949年(昭和24年)に兵庫県の小さな町に生まれました。4、5歳くらいからの記憶がぽつりぽつりと残っていますが、まだ戦争の影響が色濃く残っていたように思います。
東京オリンピックが1964年に開催されたために中学3年次の東京への修学旅行が2年次に変更になったり、1970年の学生運動で同じ歳の東大生全員が留年したり、今から思えば、時代の波をまともに受けていたようです。スラムのようなところで育ち、地域や学校にも馴染めず、いつも疎外感ばかり感じていました。ラ・グーマのように、貧しくても両親に大切に育てられていたら世の中を憾むこともなかったかも知れません。ミシシッピにアフリカ系アメリカ人として生まれ、屈辱と疎外感に塗れて育ったライトの作品に惹かれたのも、自分の心にいつもあった疎外感のためかも知れません。

受験勉強が出来なくて、一浪までしていますが、結局家から通える神戸市外国語大学の夜間課程に行きました。世の中に背を向け、渋々行った大学で、何も期待していないうえ、授業にも出ない出来の悪い学生でしたが、結局は英語の授業で使われたライトの教科書や、留年して取った高校の教員免許状があとで関係するとは思ってもいませんでした。偶々アパルトヘイトが廃止される直前の歴史的な空間に巡り合わせたわけですが、その後も南アフリカには行けずじまいでいます。

神戸市外国語大学(ホームページより)

ハラレから戻って半年後に、今しか書けないと思って絞り出すようにして書いた本を元に、赤茶けた大地を思い出しながら、書いてみたいと思います。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2011年7月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988」(「モンド通信」No.35)

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「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988」