概要
前回は「アフリカとその末裔たち」(Africa and its Descendants 1)の2章「南アフリカの闘い」("The Struggle for South Africa")の前半で、①入植者による南アフリカ連邦の成立と、②アパルトヘイト政権について書きました。今回は後半で、③アフリカ人がヨーロッパ人入植者と戦った解放運動と、④白人政権に協力した日本と南アフリカの関係について書いています。
本文
南アフリカ小史後半
③ アフリカ人の抵抗運動
1910年に南アフリカ連邦が出来、1913年に土地政策の根幹となる原住民土地法が成立する前の年に、アフリカ人は抵抗運動組織「南アフリカ原住民民族会議」を創設しました。
1925年に「アフリカ民族会議」(ANC =African National Congress)と名前を変えていますが、今は南アフリカの与党です。
設立当初は、ロンドンに派遣団を送って陳情したり、壇上から反対を訴えかけるくらいの消極的な活動しかしなかったようですが、1940~50年代になると世界の流れに乗って、アフリカ人労働者が労働組合を作り、大規模なデモやストライキなどの積極行動を繰り広げるようになりました。
1955年にはクリップタウン郊外で大規模な国民会議を開き、全人種によるアパルトヘイト撤廃に向けての闘争を確認し合いました。しかし、1959年に「アフリカ民族会議」は分裂してしまいます。アフリカ人だけで闘おうとする理想主義者のロバート・ソブクエとアパルトヘイトの廃止のためなら誰とでも手を組むネルソン・マンデラの闘争路線をめぐる基本的な対立が表面化したからです。「パン・アフリカニスト会議」(PAC=Pan Africanist Congress)の創設は、追い詰められていた白人側には思いがけない幸運でした。「分断支配」すべきアフリカ人側が自分たちで分裂してくれたのですから。ソブクエとマンデラが少しでも歩み寄ることが出来ていたら、その後の歴史も大きく変っていたでしょう。
(ロバート・ソブクエ)
ソブクエに率いられてパン・アフリカニスト会議は1960年に、パス法不所持の抵抗運動を単独で開始しました。アフリカ人であふれかえる警察署は想像以上に混乱し、警察がデモ隊に無差別に発砲する事態にまで発展し、国内は騒然となりました。これがシャープヴィルの大虐殺で、歴史の大きな転換点になりました。
シャープヴィルの虐殺(ポグルンド『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』より)
事件はただちに世界中に報道され、国連は非難決議を採択して経済制裁を開始しました。各国は表面上経済制裁に同調しますが、日本と西ドイツは流れに逆行して第2次世界大戦で中断していた通商条約を再締結してアパルトヘイト政権に応じました。その見返りに、日本は居住地区に関する限り白人並みに扱うという名誉白人の待遇を再度約束されましたが、アフリカ人にとっては、自国の都合しか考えない屈辱的な裏切り行為でした。
1961年にアフリカ人側はそれまでの非暴力の闘いを諦め、武力闘争を開始しました。白人政府は躍起になって力で押さえ込みにかかり、1964年までに、マンデラを含むすべての指導者を投獄しました。多くの指導者が逮捕を逃れて国外に逃亡しました。地下活動は続きますが、非常に困難を極め、1965年までに、武力闘争は完全に抑えこまれました。党の指揮権や解放軍はザンビアやタンザニアに移り、軍隊訓練はアフリカや海外で行なわれました。
ネルソン・マンデラ
指導者が国内にほぼいなくなった70年代に、まだ逮捕されていなかった大学生が闘争を始めました。指導的立場にいたスティーブ・ビコは、侵略を正当化する白人優位の体制のなかで自分に希望を見いだせなくなって諦め切っているアフリカ人の意識が問題で、自分や国に希望を抱いて体制に立ち向かおうと説き、多くの若い人たちが奮い立ちました。1976年にはアフリカーンス語の導入をめぐって高校生が政府と衝突して、たくさんの犠牲者を出しました。この事件はソウェトの蜂起と呼ばれています。
(スティーブ・ビコ:小島けい画)
アフリカ人には厳しい時代が続きました。
④ 日本と南アフリカの関わり
いくらアパルトヘイト政権が国家予算の30%を警察・軍隊につぎ込んでも、人口の13%ほどにしか過ぎない人たちが大多数のアフリカ人を押さえ込むのは不可能で、アパルトヘイト政権が維持出来たのは良きパートナーがいたからです。アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本などは、表面上はアパルトヘイトに反対して経済制裁を唱えながらも、貿易の良きパートナーとしての関係を維持しました。日本はIT産業や他の産業に必要なレアメタルや金やダイヤモンド、安い農作物を輸入、代わりにトヨタやニッサンなどの自動車や工業製品を輸出、1988年には貿易高が世界一になって国連から非難決議をつきつけられました。日本の政財界は、自民党の二階堂進や石原慎太郎が旗振り役で南アフリカ政府と密接な関係を続けました。アパルトヘイト政権は、なくなりました。1990年に法律を変えないままマンデラが無条件で釈放され、4年後に全人種による選挙が行われて、初めてのアフリカ政権が誕生しました。
国外からの経済制裁の圧力、国内でのアフリカ人の抵抗運動、二重の設備を作ったり、無能な白人に高い給料を支払い有能なアフリカ人を使えないという制度自体への経済界の不満など、アパルトヘイト廃止の要素はいくつか考えられます。しかし最大の原因は、戦争が起きれば利益を分かちあっている先進国が一番困る、だったのではないでしょうか。内戦が起きれば白人側は米国、英国、フランス、ドイツ、日本などから直接間接に武器の供与を受け、アフリカ人側は、ソ連、中国、キューバ、北朝鮮、リビアなどの東側諸国から武器が流れて来て、南アフリカは灰になる可能性があり、多数派のアフリカ人が勝てば、アンゴラやモザンビーク、ジンバブエなどの社会主義政権が生まれる、そうなるとウランの産地が東側に移って東西のバランスが崩れるばかりか、利益を得ているすべての国が損をする→他のアフリカ諸国と同じく表面上はアフリカ人による政権を誕生させて実質を取る→そのためには圧倒的多数の支持を得る英雄が必要、その辺りがマンデラ釈放の真相のようです。
次回は「アフリカ系アメリカ小史前半」です。(宮崎大学医学部教員)
南アフリカ小史後半では、「大衆動員と抑圧」→「武力闘争」→「南アフリカの外国資本」→「南アフリカの帝国主義」→「黒人意識運動」→「ボタ、デクラーク、マンデラ」の流れに沿って、英文で書きました。日本語訳もつけた全文については、→ https://kojimakei.jp/tamada/works/africa/ZimHis7.docx(画面上に出てくるZimHis7. docxです。右のアドレスをクリックすれば “The Struggle for South Africa" in Africa and Its Descendants「南アフリカの解放闘争」:『アフリカとその末裔たち』(Mondo Books, 1995) Chapter 2, pp. 46-70ワードファイルをダウンロード出来ます。)
『アフリカとその末裔たち』
執筆年
2014年1月10日
収録・公開
→「南アフリカ小史前半」(No. 65 2014年1月10日)
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