つれづれに:ラ・ガーディアで(2022年6月25日)
HP→「ノアと三太」にも載せてあります。
つれづれに:ラ・ガーディアで
思わず本を買い過ぎてドルがほぼなくなり予定を変更せざるを得なかったこともあるが、そろそろ帰りたくなっていたので、ラ・ガーディア空港(↑)でフライトを変更して帰ることにした。アメリカに来て2週間近くなっていたので、だいぶ英語に耳が慣れていたような気もする。シカゴ(↓)のホテルでテレビをつけたら、当たり前だがすべて英語だ。聞き取れない悔しさか、枕をテレビに投げつけた。
カウンターで予定を変更して帰国したいと伝えたかったが、係員にうまく伝わらないようで、大声を出してしまった。元々気が短かいので、役所や銀行でも時々大きな声を出すことがあった。大抵は係の人が横柄に見えるときが多いのだが、今回はこちらの英語の問題である。しかし、心のどこかで、大声を出せば大抵は係員の態度が急に丁寧になって、しばらくお待ちくださいと言ったあと、中から少し役職の高い人か扱う事項にくわしい人が出て来る、と考えていたと思う。案の定、大声を出された相手は、言葉のわかる人を呼んできますので、と言って中に入って行った。少し経ってから、新しい人が来て、ゆっくり英語をしゃべり始めた。ま、アメリカである。1980年の初めという時期の問題もある。円高効果で、今なら観光客対応で日本語のわかる人が出て来るかも知れない。
帰りたくなった理由の一つは食べ物だったかも知れない。普段は肉も魚もほとんど食べないので、アメリカでは食べるものを見つけるのが難しかった。BLT (bacon, lettuce, tomato) のベーコン抜きか、トーストに珈琲と野菜サラダ、ビールにポテトフライ(↑Hash Brown)かお好み焼き風ジャガイモとポテト(↓Pasted potato and onion) を食べることが多かった。麺類なら日本食や中華料理の店を探せばよかったのかも知れないが、そんな気にもなれなかった。
慣れてしまえば、それはそれで何とかなるものだが、ごはんに味噌汁、饂飩(うどん)かにゅう麺の方が口に合っているらしい。一人の時は、食べることが面倒くさくて、一日に一度、がさっと中華料理を食べたりすることが多かったが、結婚してからは3度の食事を当たり前のように食べていた。インスタントのものも食べなくなっていた。妻は母親から結婚したら料理するようになるから今はしなくていいよと言われて料理をしたことがなかったらしいが、充分に毎回おいしかった。毎回弁当も作ってくれた。
初めてのアメリカだったが、ライトの雑誌をハーレム分館(↓)で見ただけでなく、マンハッタンの古本屋でライトの本(↑)やこれから必要になる関連の本をどっさりと買い込んだ。小さいときに摺り込まれたアメリカ化のイメージも、実際に行って確かめてみた。変な憧れや反感が少しは和らいだ気もする。ミシガン通りのパレードも普段は見ないと思うが、旅先でつい3時間も眺めてしまった。アメリカにはアメリカのよさがあると思えたのも大きな収穫だったかもしれない。修士論文の締め切りまで2年もない。資料もほとんど手に入ったので、帰ったらすぐに書き出せる、そんな気がした。フライトの変更も終えて、なぜかセントルイス経由で帰路に着いた。
次は、珈琲、か。