『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(16)第16章 豚野郎フィル

2020年3月8日2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の16回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(16)第16章 豚野郎フィル

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

(16)第16章 豚野郎フィル

フィル・オグンヤはカベテ大学を卒業した獣医で、今は地方管轄の獣医係官でした。リバーロード診療所までドクターGGの苦情を言いに来た朝に、私はその人に一度会ったことがありました。ンデルで1年前に治療を受けてあなたのことを知っていますと言うことでしたが、私の方は髭を生やしたその人の顔をまったく覚えていませんでした。ドクターGGは、獣医用の大きな注射針を使っていたにも関わらず、治療の効果は出ていませんでした。大きな注射針で15ccのペニシリンを筋肉内に注射したために、危うくフィルを死なせてしまうところでした。老医師の注射のせいで腫れ上がったフィルの臀部を調べて、大きな陰茎に梅毒性の初期の潰瘍があると診断し、ちょうど市場に出たばかりの新薬を試せば治るのではないかと勧めて、3日置きに通院するように言いました。4日後、フィルはみすぼらしい身なりの女性と一緒に現われ、私に妻だと紹介し、妻には病名を言わないで治療してくれませんかと言いました。

フィル夫人は夫が出て行くと嫌だと言い出しました。二人とも病気だから病院に行こうとしか夫は言わなかったので、どこが悪いのかを教えてもらわなければ困りますと訴えました。どうするのがいいのか迷いましたが、取り敢えず血液と尿の検査をして、2日後にもう一度来るよう伝えました。合計すると200シリングにもなる診察費と治療費を翌日診療所に持って来る約束をしていたのですが、結局フィルは来ませんでした。妻の検査結果が木曜に出ましたが、血液検査からはトレポネーマの兆候は見られませんでした。性器を調べたり大陰唇の生体検査をしても私には何の利益にもなりませんでしたが、フィルが妻に病気をうつした可能性は調べられたかもしれません。診療所のお金を使わなければ、夫人に高価な薬を提供するのは無理でした。そのために私は非常に厄介な立場に立たされました。私は夫人に、あなたにはどこも悪いところはないと思いますが、出来るだけ早く主人に会って話しをしたい、と正直に言いました。フィルが現われたのは1週間後でした。私は治療費は受け取りましたが、夫人の治療の手付金は受け取りませんでした。

「奥さんの同意がなければ治療が出来ません。奥さんの状態がどの程度なのか、深刻なのか深刻でないのかを判断するためには、性器を調べる必要があります。」と、私は言いました。

「だめです、妻には知らせないで下さい。」
「では、奥さんには、潰瘍の検査だと伝えましょう。」
「だめです。それは出来ません。」
「あなたには、事態がどの程度深刻なのかをお分かりでないようですね。梅毒を治療しなければ、奥さんを死なせるだけではなく、あなた自身にも再感染するんですよ!」と、私は警告しました。

獣医とは言え大学まで出た人間が、病気の診断や治療のことになると、どうしてこうも世間知らずになれるのかが私には分かりませんでした。しかし、何とかうまくこの問題を処理しなくてはなりませんでした。考えるまでもなく患者を治療しなければならないという職業上の縛りもありましたし、患者の秘密も守った上で、雇い主の利益も確保する必要がありましたから。私は金と医療倫理の板挟みで、身動きが取れませんでした。

「わかりました、奥さんの治療に200シリング払って下さい。何とか様子を見てみましょう。」と私が言うと、金が要ると言うが妻は病気ではないと言ったじゃないか、とフィルは激しく言い張りました。

オグンヤ夫婦を何日か治療したあと、二人の体内から梅毒トレポネーマがすっかり消えているのを確認しました。2週間後に、今度はマインバ夫人と同じ年格好の女性と一緒にフィルが再び診療所にやって来ました。

「ナオミと言います。妻にしたように治療してやって下さい。」
そう言って、フィルは出て行きました。

ナオミは5人の子供の母親で、一人はケニア中央病院の看護師をしており、フィルは夫の友人とのことでした。性器のまわりの苦痛が激しく、夫が病気を知れば鞭で打たれそうなので、友人に相談するしかなかったようです。大方、私とマインバ夫人の関係と似たようなものだろうと思ったので、フィルとどんな関係にあるのかを敢えて聞き出そうとは思いませんでした。ナオミはフィルと違って淋病で、診療所に3回来ただけで、簡単に治りました。

フィルとはその後も会い続けて、二人の間に親しい気持ちが生まれたと思います。人間の医者が犬の医者と一緒に飲まないかとフィルがよく電話をかけて来て、私も喜んで付き合いました。フィルは愉快な話をする愉快な人物でした。一風変わった逸話の持ち主で、愛らしい女性や花や合成物や服に、きらきらするものがすべて苦手でした。

「光るものが必ずしも金とは限らないよ。このきれいな金を見ろよ。汚い金と同じくらい邪悪なものだよ。女も簡単に買えるんだからな。」
と、フィルは時折私を諭すように言いました。ある意味では、フィルは変わり者で、二流なものが大好きでした。シャツの襟もよれよれでないと気が済みませんでした。コートは清潔でしたが、いつも色の褪せたものでした。正当な理由のある金以外は信じませんでしたし、必要か正当なものでなければ最小限の努力しかしませんでした。

「例えば、ナオミだよ。俺みたいに結婚してるだろ。旦那は俺みたいにあいつを満足させてやれないんだ。これが俺の女房の話なら、大変だな。フィル夫人よりナオミが好きだったらどうしていけないんだ?」

それからフィルは、2人の女の秘密を打ち明けました。特に大きなフィルの体は、性癖が底なしであることを秘密にしていたナオミに気に入られました。フィルの結婚した妻は、最初から夫のセックスの仕方に馴染めず、最近では夫を拒むようになっていました。

「カベテ大学じゃ、女の子らがよく俺の噂をしてたって想像が出来るかい?例えば、アメリカ人の彼女がいたんだが、よく教室から引っ張り出されたよ。女房は俺が近づくのも嫌がるけどね。」と、フィルは自慢そうに言いました。

「最近、奥さんとセックスしようとしたことはあるのかい?」

私は尋ねました。

「ああ、そしたら、俺のアソコが入り込む隙もなかったよ。」
「ナオミとはどうなんだよ?」
「順調だよ。」

刺し傷による大量出血の患者の処置を手伝って欲しいとギチンガからケニア中央病院の第20病棟にかかって来た1本の電話で、フィルとナオミの関係は劇的な展開を迎えました。アイリーンは狂ったように叫び声を上げ、ギチンガ医師はアイリーンに縫合糸をしっかりと持っておけとすごい剣幕で言いました。それは今まで見てきた中でも一番不思議な運命のいたずらでした。臀部に深い傷を負った男は私の友人のフィル・オグンヤ、つまりアイリーンの母親のナオミの愛人で、傷はサウスBの自宅のベッドで二人を目撃したアイリーンの父親カマンジャに負わされたものでした。

「母親がここに来て、自分のせいでフィルが血を流していて、決して側を離れないわと私に大声で叫ぶなんて想像できます?このことは警察には言わないでほしいです。」と、アイリーンはすすり泣きながら言いました。

「巡回中の警官ではないんだよ。たとえ相手が悪事を働いていても、私たちの仕事は病人を助けることだよ。」と、ギチンガは何度も強調してきた事実を言いました。

私が後に「豚野郎」と呼ぶようになるフィルは、すっかり回復するのに1ヶ月もかかりました。フィルを刺したことで父親が母親から殴られたと聞いた時は、フィルの昼食に一服盛りたい気分になったとアイリーンは私に漏らしましたが、フィルの看護はしっかりとやっていました。

「まずは、ギルバートの装置にシアンを入れなければ。」と、いつか誰かがやってくれないだろうかと半ば期待しながら、私は嘲るように言いました。

ナイロビ市街

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執筆年

2010年4月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 21

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