『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(17)第17章 医師用宿舎B10
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の17回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
(17)第17章 医師用宿舎B10
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
第17章 医師用宿舎B10
私は性感染症の専門医になろうと決めていました。リバーロード診療所ではすでにあまりにもたくさんの事が起きていたので、私はもっと多くの知識を得たいと思い始めていました。政府は公立病院で働く医師に個人の診療所を経営するのを止める命令を出しました。ギチンガ医師から私に政府の職を辞める依頼がありましたが、私は断りました。ギチンガ医師自身、政府の職も辞めないし、診療所を二つも持っていました。ギチンガが犠牲にしたかったのは自分の雇ったムングチ医師でした。
私は性感染症に関する本を読み漁りました。どの本も性感染症の原因が道徳にあると考える傾向にあり、その話題については、すべての著者が病気の蔓延の主な原因は性の乱れと道徳の欠如であると書いていました。予防策として一夫一婦制の安定した関係が健全だと推奨され、売春は声高に非難されていました。この問題をじっくり考えれば考えるほど、性感染症対策がうまくいかないのは、道徳のせいにする姿勢と、治療とは切り離せない費用の問題が原因であると確信するようになりました。私たちが性に関する問題をもっと公にし、例えば淋病を普通の風邪のようなごくありふれた病気と見なすようになれば、感染した人もためらわずに医療の助けを求めるでしょう。公立の保健所や病院がもっと速く薬が手に入るようにすれば、両機関が治療の妨げになることもなくなるでしょう。性感染症の患者は差別され、軽蔑され、恥ずかしい思いを強いられて、結果的に、意識をしてもしなくても、感染したまま病気を広げてしまっている、と私は感じていました。
性感染症への社会的な偏見と戦うために建てられたので取り組み姿勢も違うだろうと期待して、クロスロード沿いの特別治療診療所を訪ねましたが、事態が更に悪くなっているのがわかっただけでした。患者は、セックスの相手を一緒に連れて来るように言われていました。私が診療所の経営をするなら、誓って、患者に相方を連れて来るように言ったりはしないでしょう。むしろ私なら、性感染症は医師が患者に相談を受けるごく普通の病気であることを明らかに出来るように努力するでしょう。道徳的な束縛から如何に性を解き放すかが、今後の私の最大の課題になりそうです。人間は男も女も、牛や犬や鶏や山羊のように、どうしてみんなの前でセックスをしないのだろうかという別の考えが、ふと頭を横切りました。
ケニアでは、人前で愛撫やキスをすれば人は眉をひそめていましたし、ミニスカートも一時は流行りましたが、すぐに廃れました。今では、女性の脚を見せるスリット入りのスカートに人気が集中し、セックスと道徳に関しては、ケニアも間違いなく世間は開放の方向へ向かって進んでいました。
人間の脳は極めて強力な器官で、男女が性の問題で公然と張り合うようにしてしまう働きがあると書いたデズモンド・モリスの著書『裸の猿』を読んだことがありました。これが、結果的には一夫一婦制の関係や、セックスの相手を選ぶ際の年齢の範疇化に結びつくものの実態です。母親と息子、父親と娘、兄弟姉妹間のセックスに対する反対意見も書かれていました。しかし、誰もがやっていて、一日おきにでも誰かとしたいと思うセックスの謎めいた秘密については説明がありませんでした。
私は医師用宿舎の一階にあるB10号室に引っ越しました。駐車場、台所、トイレ、風呂、暖炉つきの広々とした居間と、ゆったりした寝室付きの部屋でした。ここでこれからの二年間を過ごすことになりました。以前のウッドリィキベラやイーストレイの住まいはこことはまったく違っていました。ウッドリィキベラのワンルームは、キッチンと風呂と居間と寝室だけでした。インド式の共用トイレだけが部屋の外にありました。イーストレイの部屋には、台所兼居間と寝室が一間ずつと、臭いが鼻につくいつも汚れたトイレがありました。メアリ・ンデュクはその場所を豚小屋に譬えていましたから、医師用の宿舎を訪ねて来た時に宿舎を大いに気に入ったのも不思議ではありませんでした。
「私の家には暖炉は無いわ。ここなら火を熾せるのね。」と、ンデュクがソファの上に脚を投げ出し、背筋を伸ばしながら大きな声で言い、古いソファがぎぃーぎぃーと大きな音をたてました。
「ソファを壊してしまうよ。」と、私は注意をしました。
「新しいのを買えばいいでしょ。」と、ンデュクはさらに大きなぎぃーぎぃーという音をたてながら文句を言いました。
「きっとブラウンさんは、豪華な暖炉を持ってるんだろ。」と、私は嘲けるように言い、ンデュクと距離を置きたい時にいつも使う話題を持ち出しました。その日は一日中、かなりきついテーマである神経梅毒にかかりきりでした。そんな時にンデュクが訪ねて来て、口喧しくあれこれ言って私をうんざりさせました。それにその時、医師用宿舎に引っ越しをしたと言った時に、宿舎を見ることに大いに興味を示したドクターGGの娘ムンビが来るのを、私は待っていました。
大抵の大学院生(医師)が住んでいたために、そこに住んでいる人たちは「登録医師用」と呼ばれ、先輩の医師、外科医や内科医、その他の分野の医師の監督の下で、ケニア中央病院を運営していました。臨床検査や医療相談、比較的簡単な手術、産科や整形外科や小児科が出す殆んどの処方箋は登録医師の責任でした。年輩の医師は私たちを管理、監督しながら、町のあちこちでたくさんの診療所を運営していました。難しい手術や込み入った問題が発生すると、ギチンガのような医師に相談しました。これは実に効果的で、私たちには何の不満もありませんでしたが、そのような診療所の存在は、時として政府の反感を買いました。診療所があるために、政府は殆んどの専門家を奪われたうえ、診療所があるために生じる薬局や医薬品の不足を解消するために混ぜものの入った薬が出回る機会を提供していました。
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「引越しのお祝いをしましょうよ。最新の設備がすべて整っている宿舎よ。二人でセレナに行きましょう。」と、ンデュクは私がそれとなく白人の愛人について触れたことを無視して叫びました。
「今は祝杯をあげる気分じゃないよ。」と、私は不機嫌そうに言いました。ンデュクと一緒に居たくありませんでしたし、セレナに行く気分にもなれませんでした。ンデュク一人だけで私の一週間分の酒代くらいの酒を飲みますから、セレナにンデュクを連れて行くには財布の中身が少なすぎました。
「じゃ、マサンデュクニにしましょうよ。」
マサンデュクニは、その手の酒場の椅子としてよく使われたビール瓶の木箱から名前が付けられた無認可の安酒場でした。
「今日は一日ほんとに大変だったんだよ。」
「ジョゼフ、一体どうしたのよ?」
「どうもしないさ、ただ疲れてるんだ。」
「そう!私に疲れたってことなのね?」
「いや、何もかもに疲れたんだよ。」
話し合ってもどうにもならず、私はだんだんと苛々し始めました。時刻はもう6時で、道を間違えてなければムンビがいつ来てもおかしくない時間になっていました。
「なあンデュク、どうだろう、お祝いはまた別の日にしよう。そう、明日はどうかな、その気になるかもしれないし。今は、金持ちの色男にセレナに連れて行ってもらっても気にしないよ、俺は。」
イアン・ブラウンの金回りの良さに触れると、ンデュクはいつも怒り出しました。
「嫌よ、今夜はあの人にヒルトンに連れてってもらうわ。今すぐここから電話させてもらうわよ。」と、ンデュクは恨めしそうに言い、急いで電話口に行って電話を取り上げました。
「それは内線電話だ。病院の外には通じないよ。」もし外部に電話をしたければ、病院の交換手を使えばいいので、半分は嘘の話でした。
お金のために愛人を大事にしているのが今では私には分かっていましたが、イアン・ブラウンのことを私に言われて、ンデュクは傷つきました。その男がどれほど素敵で、私がブラウンのようにメアリに洋服を買う余裕がないので、ある意味では如何に私がブラウンに援助されているかをンデュクはまくし立てました。パリ製の香水、マニキュア、マスカラ、口紅、ブラウンがロンドンから買ってきた下着や衣類はすべて、ンデュクにとっては、私がその銀行屋に感謝すべきものでした。ンデュクの考え方は私には受け入れられませんでしたが、メアリはしつこく、私のような医者には上品に服を着こなす女性が必要だと言い張りました。それは本当かも知れませんが、この特別な金曜日には、ドクターGGの娘のようなもっと普通の人間がそばに必要でした。私はンデュクにさようならを言い、どさっとベッドに腰を下ろして、ムンビと過ごす今夜のことをあれこれと考えました。
戸を叩く大きな音で目が覚めました。ムンビがとうとう医師用宿舎のB10号室までやって来たのは、7時を少し回った頃だったと思います。すらりとしたきれいな体の線を際立たせる青いデニムのジーンズをはき、米国の映画女優のように見える黄色のブラウスと赤いバンダナを身につけていました。踵の尖った靴は黒い色で、ンデュクなら自慢しそうな見るからに高価な輸入品でした。
「そうね、これでパパが言ってたスーパードクターが作られるのね。」と、ムンビは叫ぶと、古いソファに腰掛け、蹴って靴を脱ぎ捨てました。
「そうだよ、ここが登録医師たちの村だよ。」
「ここに一年住むのね。」
「いや、2年だよ。」
「じゃ、1980年までは結婚しないということね。」
「そうじゃないよ。結婚はいつでも出来るさ。明日でも、1980年でも、1990年でも、 2000年でも、ね。」
「私はここでは結婚しないわ。」
まだ誰とも結婚する気はないとムンビに言おうとした時、なぜか「言わないほうがいい」と誰かに警告されたような気がしました。私はムンビに見るように写真のアルバムを渡し、冷蔵庫にピルスナーがあるから自由に飲むように言いました。私はシャワーを浴びてジーンズに着替え、古いケニア警察犬養成所の向かいにあるマサンデュクニにムンビを連れて行きました。その店はケニア中央病院から歩いていける距離にあり、近いだけではなく、ビールも非常に安いので仲間の間ではかなり人気がありました。国内では極めて値段の高いワインやリキュールやウィスキーなどは出ないので、実際、財布の中身に容赦のないンデュクのようなタイプの女性から男を救ってくれました。
ピルスナー
店は混雑していて、病院の職員や看護師や臨床系の助手たちが、タスカーやピルスナーやホワイトキャップなどのビールで喉の渇きを癒しているのが見えました。店内のあちこちから賑やかな話し声が聞こえ、店の色んな所で客がグループを作っていました。私たちはジュークボックスの隣の空いたベンチ椅子に腰を下ろして、私はそれで足りるといいのにと思いながら、ホワイトキャップとピルスナーを4本ずつ注文しました。二人は飲み始めましたが、今回はムンビがかなり飲めるようでした。
ホワイトキャップ
「お酒は一週間振りね。ずっと下痢してたのよ。」と、ムンビが言いました。
「モンバサはどうだい?」
「そうね、相変わらずね。アメリカの水兵さんたち、もう帰っちゃったわ。」
「どういう意味だい?」
「アメリカ海兵の季節のこと、聞いたことないの?」
「いや、聞いたことないよ。」
「みんなって言ったでしょ。男だっているわ。」と、ムンビは素っ気なく言いましたが、私は無理にその話を続けたくありませんでした。ムンビが1957年に生まれて、4段階のC評価というあまりよくない成績で高校を卒業したこと以外にはあまり多くを知らないのに気が付きました。ムンビはすべり込んだ秘書コースの学校に通うためにモンバサに行っていました。
「タイプライター、いまだに恐ろしい機械ね。見ると毎回、嫌な気分になるわ。」と、ムンビが言いました。
「これからどんな仕事をしようと思ってるの?」と、私はムンビが現在何をやっているのかという話題を避けながら聞きました。
「そうね、結婚して子供を10人つくることかしら。」
「そんなにたくさん?」
「お医者様の給料とただの治療代、私が欲しいのはそれだけね。」
「なるほど、ね。」
ムンビはどんな運命が待ちうけているかについては疑いを持たず、たとえ男が浮気をするものだと分かっていても、父親よりも金持ちの医者と結婚をして十人の子供を設け、父親に対しても誠実に生きようと考えていました。当面は、モンバサで出来ることをやって暮らしていました。
「あと2年ってことでしょ?」と、ムンビは私が恐れていた話題をまた持ち出しました。
「そうだね。」と、私は自分の寿命を縮めているとは知らずに素っ気なく言いました。
私たちはしばらく飲み続け、10時になろうとしかけた頃に、洩れ聞こえて来た会話の内容を聞いて私は身震いしました。
「トムの殺人以来、あの人が一度もキスムに来ていないなんて想像出来ますか?」と、背の高いルオ人の助手が言いました。
「ギクユ人に支配権があったとは言え、やはり、あの人は優れた指導者だったよ。」と、医師が付け足して言いましたので、私はますます聞き耳を立てました。
「あの人たちは一体何を話しているんだよ?」と、私はムンビに聞きました。
「ケニヤッタが死んだ話よ。」
「ケニヤッタがどうしたって?」
私はいきなり拳で殴られたようでした。
「一体、あなた一日中どこにいたの?昼の一時から、ずっとニュースでやってるわ。」
15年ほどケニアを支配してきた老人が死んでいたとは知りませんでした。ムンビの話では、ケニヤッタが数日前に、モンバサの家族全員と海外の外交団全員に電話をかけ、その週の出来事で自分が死ぬことがはっきりするだろうと言ったそうです。
「老衰で死ぬたくさんの人が自分の死期がわかるんだよ。」と、私はムンビに言いました。「犬の溜まり場」と呼ばれている店の中では、何組かの客のグループが1978年8月20日の話題で遠慮なく言い合っていました。
「コイナンジェとギチュルが後を継がなくてよかったね。二人とも危険だからな。」と、カンバ訛りの言葉を話す細身の男が言いました。
「モイが政府内の民族間バランスをうまく取って、景気も良くしてくれるといいんだけどな。」
「二人がモイにやらせると思うか?」
「もちろんさ。二人が誰を出馬させることが出来ると思う?ギチュルはコイナンジェを、コイナンジェはギチュルを出馬させたりはしないからな。」
ダニエル・アラップ・モイ
いつもなら、「犬の溜まり場」は最後の客が帰る朝の4時か5時まで開いているのですが、今夜は11時に店が閉まりました。外部から人が病院に入りこまないように建ててある二つの門を通って、私とムンビはすっかり酔いながら自宅に向かって歩きました。警備員が居眠りをしているのが見えたので、ムンビは起こして中に入れてもらえるように、赤い靴で警備員の詰め所を何度も蹴らざるを得ませんでした。
「何号室ですか?」と、厚手の黒いレインコートを着た年配の警備員が聞きました。
「B10ですよ。引っ越してきたばかりです。」と、私が言うと、欠伸をしながら、当然寝る時間だから寝る必要があるんだと強調しました。中に入れてもらい、何も口にしないで、二人はそのままベッドに直行しました。
ムンビを怒らせるようなセックスをしてしまったに違いありません。後になって気が付きましたが、私の体をぐいっと押しやって、ムンビが寝ぼけた酔っ払いと私のことを呼んだのを思い出しましたから。目を覚ましたとき、私はまだ夢を見ているようでした。玄関の戸の前で、ものすごく大きなどすんという音がしました。
「ジョゼフ、ジョゼフ、ムングチ先生、起きなさいよ。」というンデュクの神経質な声がしました。鍵穴から覗くと、ピンクのプジョーが止まっているのが見えました。
「ちょっと待っててくれ。」と、私は叫び、そのあとタオルを掴み取って腰に巻くと、ムンビが起きないよう祈りながら戸を開けました。
「何か用かい?」と、私はンデュクに聞きました。こんな遅い時間にンデュクを中に入れたくありませんでした。
「凍えてしまうわ。」と、ンデュクは文句を言うと、私を戸口の方に押しやりました。寝室の方に歩いて行きそうだったので、思わずンデュクの左手を掴んで自分の方に引っ張りました。
「だめだよ。入らないでくれ。」と、私は何故ンデュクが寝室に入れないかを隠し通せたらと祈りながら頼みました。しかし、思ってもみないような速さと力で私から手を引き離し、ンデュクは悪態をつきながら寝室に歩いて入りました。
グループセックスのことは聞いたことがありましたし、学生時代に一度、ルームメイトとイバダンの売春婦二人と寝たこともありましたが、医師用宿舎B10にいる女友だち二人を相手にすることになるとは思ってもみませんでした。
「あら、ここには誰がいるの?だから私を中に入れないようにしたわけ?」
と、ンデュクは嘲笑い、ムンビの顔にかかった毛布を剥ぎ取りました。ムンビは目を醒まして明かりに両目をしばたかせながら、ようやく目を開けました。
「ムングチ先生、これは一体なんなの?」と、ムンビは叫びながら、毛布を引っ張りあげて尖った乳首を隠しました。
二人の女の違いに気が付いたのはこの瞬間でした。ムンビは締まってすらりとした乳房で、お腹も平らでしたが、メアリはとても大きな乳房で、お腹も太めで少し突き出ていました。混乱しながらも、一つ屋根の下で同時に二人の女と向き合う、そういったことでも起きなければ、医学部で読んだ本の内容がすべて、実際の役に立つことなど無いだろうなと考えていました。
「ンデュク、二人はすごく眠いんだよ。」と言って、私はベッドに飛びこみました。ベッドはンデュクに邪魔をされたと言わんばかりに、きーっと大きな音を立てて軋みました。
「私だって眠いわよ。」とンデュクは毛布を引っ張って、服も脱がずにベッドに潜り込んできました。ベッドは大人三人の重みで一層大きくぎーっと軋みました。メアリのベルトが私の背中を突付くので、寝たければベルトを取ってくれよ、と私は文句を言いました。メアリは服を脱ぎ、気が付くと私は、体の隅々まで知っている二人の女に挟まれていました。
半時間ほど経った頃、ムンビは私がそわそわしているのに気づきました。
「その女を相手にしたら?私はもう済んだから。モンバサでは、二人を相手にするのをツーサムって言うのよ。」と、ムンビは不機嫌そうに言うと私に背を向けました。ツーサムも悪くないなと思い始めながら、私は寝た振りをして両方の二の腕をしっかりと押さえていました。私は眠れず、メアリが私の体を触り始めたとき、肉体の本能に屈してしまいました。ムンビもメアリも私に気に入られようとし、私も競争相手としてその夜が始まった二人を相手にしようという気持ちになってきました。
ンデュクは新しい女とうまくやるように私に言うと、翌朝かなり早い時間に出て行きました。今のところ私は誰のものでもなかったので、罪の意識は感じませんでした。メアリ・ンデュクにはイアン・ブラウンがいて、ムンビにはたくさん話を聞かされるモンバサの男たちがいました。しかし、モンバサでのツーサムという言葉がムンビの口から出たとき、私は動揺し、ムンビはモンバサで生きるために何をしているのかを知りたくなりました。なるべく早いうちにその話題を持ち出そうと心に誓いました。
モンバサ
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ベッドの隣の本棚の上に置いてある時計を見ると、7時半でした。ムンビはかすかに鼾を立ててすやすやと眠っていて、私は起こしたい気持ちになりました。昨夜のビールと寝不足で頭が痛み、こんな状態で授業に出ても何かに集中出来るのだろうかと思いました。
ベッドから飛び起き、シャワー室までよろよろと歩き、水に打たれれば素面に戻って目も覚めないだろうかと思いながら、蛇口を一杯に回しました。思い出したのは、水に背中を打たれた瞬間でした。今日は午後まで授業はありませんでした。しかし、自分の部屋で待機しておく必要はありました。私はシャワーを止め、背中にかかった水を拭い去ってベッドに戻りました。
「夕べは素晴らしかったわ。」
ムンビが目を覚ましました。
「何だって?」
「素晴らしかった、って言ったのよ。」
「よく分からないね。」
「夕べは、あなたすごく良かったってことよ。」
「僕が?」
「そう、ツーサムは誰にでも動物的本能を呼び覚ますのね。だから、普通よりずっといいわけよ。」
「どうして分かるんだよ?」
「モンバサで私が何をしてると思ってるの?水兵は特に好きなのよね。」
私は体に稲妻が走ったような衝撃を感じました。
「じゃ、君はアメリカの水兵を相手にしてるの?」と、私は聞かなくてもいい質問をしてしまいました。
「そうよ。アメリカ人に、韓国人、パキスタン人、日本人、シンガポールの水兵だってね。みんな田舎ものよりはるかに気前がいいわ。」と、ムンビはきっぱりと率直に答えました。
「生活のために何をしてるんだい?」
耐え難くても、ありのままを知る必要がありました。
「特に何も。日中は着飾って、水兵が町にいて暮らしている間、相手をするわ。」
「売春婦みたいに自分の体を売っているのかい?」
「女はみんな体を売ってるんじゃないかしら?」
「みんなじゃないさ。」
「ほんと?」
「本当だよ。」
「夕べはあなた、私を買ったじゃないの。」
「買ってないよ。」
「ンデルでいっしょだった日は?」
「買ってないよ。」
「見えてないようね。私はンデルであなたのお金でピルスナーを10本飲んだのよ。夕べは7本くらいね。おまけにあなたのベッドで寝て、お茶を飲んであなたの食べものを食べて……。」
「それは『買った』とは言わないよ。」
「あなたを共有したあの女性はどうなの?プジョー304に乗って、ロンドン製の服と靴を身につけて、ケニア王妃のような化粧をしていたあの女性は誰なの?」
「秘書をしている。」
「自分の体を売らない女がいるかしら?」
「僕には分からないよ。」
「体を売るのと、ただで与えるのと一体どこが違うの?」
「少し眠りたい。」
私はムンビと遣り合うのを諦めました。ムンビもそうでした。私は、どんな風に言われても充分に自分を正当化出来そうな機転のきく気性を認めるしかありませんでした。売春についてのムンビの話の中には明らかに正しいこともあると認めざるを得ませんでした。
目が覚めた時は太陽の光がふんだんに差し込み、時計が11時を指していましたから、私はいつの間にか寝てしまっていたのでしょう。ショーツとブラジャーを浴室のタオル掛けにぶら下げたまま、ムンビはずっと前に帰ったようです。混乱したまま思いはぐるぐると頭の中を回っていましたが、意識はだんだんとはっきりして来ていました。シャワーを浴び、カーキ色の事務服の上に、赤文字でムングチ医師と書かれた名札のついた白衣を羽織り、聴診器をぶら下げて第20病棟に向かいました。第20病棟はもう私の担当病棟ではありませんでしたが、頭が混乱するといつも私はアイリーンを訪ねて行きました。アイリーンは思い遣りがありましたから、私の周りで起きる様々な出来事についてかなりよく知るようになっていました。
「シスター・アイリーン、調子はどう?」
私とアイリーンは病院では兄妹のように親しくなっていて、私は血縁関係に近い感じでアイリーンのことを見ていました。
「大丈夫ですよ。ムングチ先生は?」
「売春婦と寝て来たよ。」
「まあ!それで、調子が悪いんですね。」
「いや、そうではないけど。」
「昔レオナルドが私にしたように、その売春婦が先生に危害を加えたりしなければ、何も問題などないわ。」
ほぼ4年も前に起こった出来事を思い出したので、私は驚きました。
「いや、問題なのは、その娘が売春婦だってことに僕が気付いてなかったことだよ。」
私は、少しだけ知っているドクターGGの娘のこととその娘を私が如何に素敵な娘だと見なしていたかを話し続けました。ムンビが売春婦と分かった今となっては、ムンビの世界にいる米国や韓国やシンガポールの水兵とは、とても付き合えそうにありません。
「かわいそうに、ムングチ先生。でも、先生はとっても素敵な人よ。」
こういう反応は、アイリーンと私の間に育まれてきたある種の喜びの表現でした。明らかにお互いが癒され、慰められるような効果があるように思えました。そういう言葉が交わされる度ごとに、苦しみが体からすべて滲み出て行くような感じがしました。私がアイリーンから聞きたかったのはまさにこういう言葉で、アイリーンの言葉を聞いて、私は日常に戻って行けると信じるようになっていました。私はアイリーンに礼を言って、食堂に向かいました。
ナイロビ市街
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執筆年
2010年5月10日