つれづれに:山頭火と彼岸花(2022年9月22日)
つれづれに:山頭火と彼岸花
暑い暑い日々が続いていたら台風が来て、一気に秋になった。昼と夜の長さが同じになる秋分の日辺りの一週間が秋の彼岸で、気が付いたら彼岸花が咲いている。あしたは旧暦二十四節気の秋分で、次の寒露は10月8日、季節は確実に進んで行く。
彼岸花を見ると、山頭火の
移ってきてお彼岸花の花ざかり
が必ず浮かんでくる。昭和7年(1932)に山口県小郡町矢足の農家を借りて移り住んだ日である。其中庵(↓)と名付けたらしい。移って来た初日の日記の最後に載せられている。父親と財産を潰し、妻と熊本に逃げている。一時上京して市役所で働くも、関東大震災で離婚していた妻の家に転がり込んだ。
大正7年(1918)弟二郎自殺する。
8年(1919)木村緑平と初対面。単身上京。
9年(1920)妻咲野と離婚。臨時雇いとして一ツ橋図書館に勤務。
10年(1921)父死去。東京市役所に正式に就職。
11年(1922)熊本に一時帰る。東京市役所を退職。
12年(1923)関東大震災に遭い、熊本に帰る。
酔って市電に飛び込んでも死にきれず、得度、堂守になっても落ち着けず、旅に出てた。
13年(1924)酒に酔って市電を停める。報恩寺に連れて行かれ、禅門に入る。
14年(1925)出家得度、耕畝と改名。座禅修業。味取の観音堂の堂主、近在托鉢。
15年(1926)観音堂を去り、行乞放浪の旅に出る。放哉死去。
昭和2年(1927)山陰地方を行乞。
3年(1928)四国八十八ヶ所巡り行乞。放哉墓参。
5年(1930)宮崎地方行乞。熊本市内で自炊生活。「三八九居」と名付ける。
6年(1931)『三八九』一、二、三集を出す。咲野のもとに、後に再び旅に。
7年(1932)川棚温泉結庵に失敗。小郡町矢足に結庵、其中庵と名付ける。
生まれた近くの農家でのしばしの定住だった。
昭和七年九月廿一日
庵居第一日(昨日から今日にかけて)。
朝夕、山村の閑静満喫。
虫、虫、月、月、柿、柿、曼殊沙華、々々々々。
・移ってきてお彼岸花の花ざかり
・蠅も移って来てゐる‥‥
近隣の井本老人来庵、四方山話一時間あまり、ついでに神保夫婦来庵、子供を連れて(此家此地の持主)。
――矢足の矢は八が真 大タブ樹 大垂松 松月庵跡――
樹明兄も来庵、藁灰をこしらへて下さった、胡瓜を持って来て下さった(この胡瓜は何ともいへないいうまさだった、私は単に胡瓜のうまさといふよりも、草の実のほんとうのうまさに触れたやうな気がした)。
酒なしではすまないので、ちょんびりショウチュウを買ふ、同時にハガキを買ふことも忘れなかった。
今夜もうよう寝た、三時半に起床したけれど。
・さみしい嘱託の辛子からいこと
・柿が落ちるまた落ちるしづかにも
日記の中の樹明兄は近くの農業学校で教員をしていたようで、大山澄太や木村緑平などと同じような人のいい人たちである。俳友だけの縁で、乞食同然の山頭火のために神保夫婦(此家此地の持主)と交渉して住めるようにあれこれ尽力したわけである。家賃も何もかも、お布施だったのか。山頭火はそういう人たちに生かされていたということだろう。もちろん、そんな人たちばかりではない。其中庵に入る前は川棚温泉で住むことを断られている。地域を挙げて、住まんでくれと意志表示したわけだ。行乞とは言え、働きもせず、わけのわからぬ俳句を詠む乞食同然の生き方を川棚温泉の人たちは受け入れなかったのである。後の世代の川棚温泉の人たちは何もなかったかのように、山頭火ブームに乗って「山頭火の愛した川棚温泉」という文句を観光宣伝に使っている。温泉の好きな山頭火は「千人湯」(↓)に通ったらしい。
私と違って裕福な家に生まれても、楽しく暮らせるかどうかは自分次第ということか。勧められた相手と結婚して子供まで出来ている。日記などを見る限り、相手はまともな人のようである。夫と父親についていくしかなかったとは言え、いっしょに熊本に逃げて、酔って死にきれない相手は得度して旅に出てしまった。妻の咲野さんも大変な人生である。自分を持て余しながら、周りに散散迷惑をかけながら、山頭火は生き恥を晒していたわけか。句には人恋しさやどうしようもない自分や山や花やらがごちゃまぜで、それでも「移ってきてお彼岸花の花ざかり」の句には、長いどうしようもない旅のあとにしばし訪れた定住のほっとした安堵感がある。芸術作品は自己充足的なものらしいが、困ったものである。「 なんで山頭火?」、→「山頭火の生涯」、→「防府①」、→「防府②」はすでに書いた。「熊本へ」、「熊本で」、「宮崎へ」、「熊本から」、「再び宮崎へ」、「宮崎で①」、「宮崎で②」、「宮崎で③」、「其中庵へ」、「其中庵で①」、「其中庵で②」、「松山へ」、「風来居」を書くつもりだが、少し時間がかかりそうである。