『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス

2020年3月5日2000~09年の執筆物ケニア,医療

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の2回目で、エイズとウィルスです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズとウィルス

 今回は、『ナイスピープル』の主題となっているエイズについて少し書きたいと思います。

エイズはウィルスが原因で起こる極めて質の悪い病気です。免疫機構がやられること、ウィルスが体内に侵入すると死ぬまで除去出来ないこと、感染しても無症状の期間が長いこと、性感染症であること、社会的偏見がつきまとうことなどが特徴です。

元々人間には外部から侵入してくる細菌やウィルスなどの外敵とたたかって自分の体を守る免疫機構という機能が備わっていますが、エイズでは、その機能がやられてしまいます。HIV(ヒト免疫不全ウィルス)に免疫機構をやられて、普通では罹らない病気になるのがエイズなのです。

HIVの構造式

人がどうしてエイズという病気にやられるのか、また、どのようにHIVに感染するのかなどを少し詳しく見ていきましょう。

エイズ(後天性免疫不全症候群)はHIV(ヒト免疫不全ウィルス)によって引き起こされる病気です。性的接触や薬物乱用者の注射針の使い回しや、汚染された血液や血液製剤などの輸血を通して、体液(特に血液と精液)が交じることによって感染して行きます。免疫機構が正常に働く人なら普通は起こらないカリニ肺炎のような日和見感染症が特徴の免疫系の症候群です。従って、エイズは免疫不全症候群にも、性感染症にも分類されています。主人公の医師ムングチは性感染症の専門家ですから、エイズ患者がムングチの診察を受けにきたのもうなずけます。

血液の中の白血球は外から侵入してきた異物を排除して体を守る働きをしていますが、白血球の中でも、HIVは主にCD4という受容体(レセプター)を持つ陽性T細胞に侵入します。(陽性T細胞は病原体の侵入から人体を守る細胞性免疫機構で重要な役割を果たしています。)HIVにやられてCD4陽性T細胞の数が減少しますと、本来人間に備わっている免疫力が低下してさまざまな日和見感染症の症状があらわれるのです。(アメリカのテレビドラマ『ER緊急救命室』などでも、ERに来た患者が咳などをしていると肺炎→エイズ、の可能性があると疑われる場面がありますが、日和見感染症の一つカリニ肺炎を疑っているのです。また、首筋にかさぶたが出来ていれば、カポジ肉腫という日和見感染症→エイズ、という具合です。)

カポジ肉腫の患者

HIVの物質的な実体は、遺伝子情報の断片、たんぱく質の殻に覆われている9種類の遺伝子です。白血球(宿主細胞)に侵入し、その宿主細胞を自分自身のウィルス工場に変えてHIVを次々と産生することによって生き延びます。HIVの増殖の過程を簡単に書けば、次のようになります。

① HIVは、感染に対する生体の防御つまり外部から侵入してくる異物を排除する仕組みを調整する宿主細胞(主にT細胞)にある受容体に取り付きます。細胞の膜の上でタンパクの殻を脱ぎ捨て、遺伝物質(RNAという核酸)と逆転写酵素(RT)と呼ばれる酵素をT細胞の中に放出します。
② ウィルスのRNAは逆転写酵素によって逆転写/または「変換」されます。
③ ウィルスのDNAは、インテグラーゼと呼ばれる酵素によって宿主細胞の染色体に組み込まれます。
④ 感染した細胞は、新たなウィルスのRNAを産生します。ウィルスタンパク質が、翻訳と呼ばれる過程を通して、RNAからつくられます。
⑤ ウィルスのタンパク質はプロテアーゼによって小さく切断されます。
⑥ 新しくつくられたタンパク質とRNA遺伝子は集まって、新たなHIVを多数形成します。
⑦ 新しいHIVはその宿主細胞膜(人間の細胞膜です)を被って出芽し、その宿主細胞を殺し、移動してはまた別の宿主細胞に感染してその細胞を殺し、感染者の免疫機構の能力を奪います。

HIVの増殖過程図(Human Biology: Benjamin Cummings, 2010)より

HIVは自己複製出来ませんので人間の細胞の力を借りるわけですが、自己複製にはDNAの二本鎖が必要です。しかし、HIVには一本鎖のRNAしかありませんので、酵素を使ってRNAをDNAに変換し、その一本を鋳型にして二本鎖のDNAを作ってそれを人間の細胞のDNAに組み込むというわけです。あとは人間の細胞の道具を使って完全な姿になって出芽して完了です。何とも厚かましい話です。何とHIVを包む一番外側の膜は人間の細胞から作られるのです。しかも、最大の問題は、HIVに狙われる対象(=宿主細胞)が人の免疫機構を司る細胞、つまり侵入してくる外敵と戦う武器(抗体)を作るように指令を出す役目をしている細胞だということです。

宿主細胞から出芽するHIV

ウィルスは「正確に言うと生物ではありません。」と言われます。秋山武久著『HIV感染症』には次のように書かれています。「ウィルスが生物かといわれるといささか躊躇される。それはウィルスが増殖するためには、全面的に宿主細胞の助けを借りなければならないからである。宿主細胞の工場と酵素を拝借し、ウィルスが自分で提供するものは遺伝子だけである。すなわち遺伝子に記録された青写真だけを与えて、それに従って宿主細胞に働くことを指令する……感染に際して、核酸(遺伝子)のみを包んだウィルス粒子が解体されて、自らの遺伝子を宿主細胞に注入し、宿主にウィルス核酸やウィルスタンパク質を別々に合成してもらい、再びウィルス粒子として再構築する……こうなると、ウィルスは自立した生物とはいい難い。といって、完全な無生物というには気がひける。生物でも無生物でもないというのが正解」(南山堂、1997年)

HIV

しかし、「生物でも無生物でもない」と言われても、HIV(ヒト免疫不全ウィルス)は、宿主細胞である人間の細胞の中に侵入して自己を増やして、現にたくさんの人間を殺しています。

③の段階でウィルスが染色体の中に組み込まれますとそれ以降は異物として認識されなくなりますので、ウィルスは人間が死ぬまで体内に生き続けることになります。従って、現在開発されている抗HIV製剤で治療を始めることが出来たとしても、死ぬまで飲み続けなければならないわけです。

体を守る免疫機構をやられる点でも、いったん入り込まれるとウィルスを排除する方法がない点でも、エイズという病気は実に厄介な病気です。

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執筆年

  2009年5月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.10

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(2) エイズとウィルス