つれづれに:作家(2024年8月16日)

つれづれに

つれづれに:作家

 8月7日から始まる立秋の頃には、朝晩は過ごしやすくなるだろうと思っていたが、いぜん35-26℃辺りの暑さが続いている。暑い最中に外にでるにも勇気が要る。暑中のころから衰えを見せずに、百日紅(↑)がまだあちこちで咲いている。

私は小説を書く空間が欲しくて30を過ぎてから大学の職場を探したが、すでに妻も子供もいたからである。元々貧しかったので、自分一人なら収入の目途がつくまで食いつないでいけばよかったが、自分のわがままを妻や子供にも強いるのは嫌だった。働いていた妻も、それいいねと賛成してくれた。一人ではどうにもならなかったが、何人かの人に世話になって何とか医大に決まった。

明石にいる時によく通った市場魚の棚

 作家を意識し始めたのは、スポーツ好きの父親が取っていた読売新聞の夕刊の連載小説を読んでからである。自分の中の何かが反応した。もっと読みたくて、その作家(↓)の小説を探して神戸や元町の古本屋を回った。多作な人で、編集者の要請に応じでいろいろ書いていた。どうでもいいようなものも多かったが、やっぱり自分の中の何かに反応した。

 小さい頃から家には本がなかったが、中学の頃から最初は教科書でみた芥川や太宰、三島や川端(↓)など手に入れやすいものを読むようになっていた。しかし、言われるほどはおもろないなあと感じた。高校では源氏などの古典や萩原朔太郎の詩なども読んでみたが、しっくり来なかった。なぜ新聞小説が自分の中の何かに反応したのかはわからないが、自分の中に書きたい気持ちがあるのに気がついた、そんな感じだった。文章はいくらでも出て来たので、そんなもんだと思っていた。

 本を読み始めてから、文学のための文学があるような気がしたし、作家についてもよく考えたが、なぜ職業作家になると思ったのかははっきりしない。小説を書きたいと思ったが、自分の本の出版をみたいと思ったことはない。大学を探しているときに、先輩から横浜の出版社の人にあって、雑誌の記事を薦められて書いた。大学が決まってからはテキスト(↓)や翻訳など次々と言われてこなしていたら、気づいたら定年退職していた。小説を書き出せたのは、退職後その人が亡くなったあと3年ほどしてからである。

2冊目の英文編註書(小島けい表紙絵)

 南アフリカの作家については、ミシシッピのシンポジウム(↓)に参加したとき、アメリカの学会での発表を薦められたのがきっかけである。アフリカ系アメリカの作家のシンポジウムだったが、誘ってくれた人が座長をする「イギリスとアメリカ以外の英語による文学」というセッションで発表することになった。出来ればアフリカの作家でと言われたとき、黒人研究の会でアフリカの話も毎月聞いていたので、わりとすんなりと、じゃあ、南アフリカの作家でやりましょか、と言う流れになった。

 先輩の薦めもあってラ・グーマ(↓)の作品を読んだが、作家が小説を書く動機が明確だった。ジンバブエのハラレで暮らした時、文学のための文学はないと感じたが、まさにその世界だった。理不尽なアパルトヘイト体制と闘うために書いていた。欧米や日本を初め他の国は南アフリカのアフリカ人については知らないので、知ってもらうためにどこにでもいるようなアフリカ人の生活ぶりを書いた。さらに、やがてアパルトヘイト体制がなくなったあと風化しないように後の人のために物語として記録していた。それは、小さい頃からアパルトヘイトと闘う父親やその取り巻きの中で、自分が選んだ生き方だった。

雑誌の挿画:小島けい画

 作家になる動機は、生きている国によって大きく変わる。人生の残り時間が数え易くなった今、なぜ新聞小説で読んだときに自分のなかの何かが反応したかを考えながら、小説を書きたいと思っている。原稿用紙400字詰めで300~500枚くらいのものを4冊書いているが、次回も500枚くらいのものになりそうである。原稿が売れると出版社が判断するかどうかは、わからない。

西条柿、実の重さで枝が一本折れてるので、今年は250個くらいか?