ジンバブエ滞在記⑥ 買物

2020年3月1日2010年~の執筆物アフリカ,ジンバブエ

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した6回目の「ジンバブエ滞在記⑥ 買物」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

1日目は、吉國さんの奥さんが買って下さった食べ物で大助かりでしたが、2日目からは自分たちで食料の買い出しに出かけました。辺りの見物も兼ねて、4人は地図をたよりに、セカンドストリートショッピングセンターに向けて出発しました。地図で見ると1キロほどですから、歩いて20分ほどの距離ですが、乾燥して道が埃っぽいうえ、車はスピードを出しますし、道路を渡るのも命懸けに思えましたから、かなり遠くまで来たような気分でした。

画像

自転車で買い物に

おまけにたくさん買い込みましたので荷物が重く、帰りは余計に遠く感じられました。野菜に果物、牛乳に卵やジュースのほか、当座の日用品や文具からパンやドーナツまで買ってしまい、運ぶのが大変でした。人数は四4人いても、平等とは限りません。人は生まれながらにして平等などというのは真っ赤な嘘で、「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ(種田山頭火)」です。

量や形が違いますので、単純に日本と比較は出来ませんが、野菜や果物、肉や卵やパンなどの必需品は大体半分から3分の1程度の値段です。例えば、この日買った英国風のパンは、日本のトースト用のパン2斤くらいの大きさですが、3ドルで80円足らずでした。選べば1ドルから2ドルくらいのもありました。ビールは小瓶よりやや小さ目ですが、2ドル足らずです。それも半分は瓶代ですから、1本が30円ほどです。日本より大きめの瓶に入ったコーラ類も1ドル以下で、ビールよりも安い値段でした。その時は気づきませんでしたが、空港で飲んだ飲み物の領収書を見ると、スプライト類2本で1ドル90セント、紅茶2杯3ドル20セント計5ドル10セント、合わせて130円ほどです。空港での割高を差し引いても、かなりの安さでした。

街中で

吉國さんが手紙の中で「衣類から靴まで大体のものはそろいます。物価は国産のものなら日本の半分くらい、輸入『贅沢』品なら日本の2倍ぐらいでしょうか。為替レートの関係で、ジンバブエの人は物価高騰に苦しんでいますが、外人(外貨所持者)は安い、安いと左うちわの生活です。」と教えて下さった通りでした。ただ、パンなどの必需品が僅か2ヵ月半の間に目に見えて値上がりし、こんなに物価が高騰して、ハラレの人は一体これからどうやって暮らしていくんだろうと不安になりました。ゲイリーも、先月と同じ値段では買えないとしきりに嘆いていました。タオルや文房具類は、日本と同じか高めでした。質の方はかなり落ちます。特に、紙の質はひどいもので、厚手の紙に包んで出した小包は、日本の税関で再包装され、透明のナイロンに包まれて届けられていました。再包装されていない場合でも、破れて中身の見えていないものはなかったように思います。紙が長い旅に耐えられなかったわけです。

後日、家の中で履くスリッパを2足買って来ましたが、底が質の悪いゴムと木で出来たスリッパは、3日もしないうちにひび割れてしまい、使いものになりませんでした。それでも1足53ドル1300円ほどの値段でした。

5日目に、近くの国立植物園まで4人でスケッチに出かけました。広い敷地です。小学校と違ってフェンスはなく、入り口に次のような掲示がありました。
「当公園は、日の出から日没後半時間まで開園しています」

長女、植物園の前で

殺伐とした都会の生活の中で忘れかけている何かが残っているようで、何だか嬉しくなりました。花は期待していなかったのですが、所々に鮮やかな熱帯系の大きな花が咲いていました。

4日目に自転車が来て、行動範囲が広がりました。植物園に出かけたあと、2台の自転車にそれぞれ2人乗りして、4キロほど離れたアヴォンデイルショッピングセンターに買い出しに行きました。

植物園の前で

吉國さんに教えてもらった持ち帰りの中華料理を買うのも目的のひとつでした。中国人が経営している店らしく、ジンバブエでは持ち帰りを英国風にテイクアウェイと言いますが、その店はテイクアウェイ専門でした。年配の中国人らしい人がレジに座り、中の調理場のショナ人に横柄な口をきいています。注文した料理が出来上がるまで、色々と話しかけてきました。どこから来たか、何をしているかなどです。そのあと、アメリカドルを持っていないか、持っていたら替えてくれないかと聞いて来ました。ないわけではありませんでしたが、今回はやめておこうと思いました。

「中華料理といっても、あのじいさん、中国を離れてから何十年にもなりますから、味もジンバブエ化してますな。」という吉國さんの解説通り、味の方は油や塩加減がジンバブエ風(?)にも思えましたが、2つずつ買った焼き飯に焼きそばはなんとかいけそうでした。

4人は家まで待てずに、ショッピングセンター横の空き地で、食べ物を広げて食べ始めました。白人もアフリカ人も、道端に食べ物を広げて食べたりはしないようなので、自転車を空き地にとめて、日本人4人がテイクアウェイの中華料理を囲んでいる図は、
道往くアフリカ人の目にはさぞかし珍妙な光景と映ったに違いありません。

ハラレでは出前もなく持ち帰りも少ないので、この中華料理屋さんには、このあとも何度か世話になりました。レジの中国人のじいさんは、行く度にアメリカドルはないかと聞いて来ました。あまりしつこいので、にやっと笑って「いつも同じ質問ですね。」
と言ったら、それ以降2度とアメリカドルの話はしなくなりました。しかし、隅におけないじいさんで、平気な顔でレジを打ち間違え、余分にふっかけて来ました。何度も同じ説明をしたら、やっと向こうが折れて引き下がりましたが、危うく騙されるところでした。しかし、自分の計算間違いなど、どこ吹く風です。お蔭で数字の訓練をみっちりさせてもらいましたが、お金の計算を英語で説明するのもなかなか骨が折れます。

自転車の性能がすこぶる悪く、漕いでも漕いでも、ペダルを踏む分の七割か八割ほどしか進まないような気がしました。サドルはやたらに高いし、帰り道は登り坂、後ろに子供、前に荷物、これ以上の条件はありません。

案の定、自転車は故障しました。この日、いざ出発と心高らかに家を出たとたんに、長女が自転車の荷台から転げ落ちました。大事に至らなくてよかったのですが、突然でしたのでびっくりしてしまいました。サドルの下を見ると、荷台を留めておく止め金が2本とも外れています。初めから止め金がついていないとは思いもしませんでした。長女が落ちたのは大きい自転車からですが、その自転車、ある日突然道の真ん中でペダルが空回りしてしまいました。調べてみると、右のペダルの根元の止め金が取れています。家までまだ3キロほど残っていましたので、左側片方のペダルだけで帰るはめになりました。坂道制覇を挑んでみましたが、片足では登り切れませんでした。帰ってゲイリーに話すと、その部品なら近くに売っていますよと言って、買って来てくれました。さっそくペダルと車軸とを貫く小さな穴にその止め金をハンマーで打ち込みましたが、大き目だったようで半分程しか入りませんでした。しかしながら、こんな部品が走っている間に取れたりするものなのでしょうか。それでも何とか走るようになりました。日本に帰ってからその部分を調べてみたら、止め金が中心に向かって車軸の方向に埋め込まれているようでした。これなら外れる心配も要りません。

街中で

子供用の自転車も、ある日ショッピングセンターから少し離れた所で、ぶしゅっと音を立てて空気が抜けてしまいました。パンクといっても、タイヤが裂けてしまっています。また3キロの道が待っていました。今回は、押して帰るしか術がありませんでした。幸い前輪だったので取り外し、タクシーを呼んで、買ったマニカサイクルまで持って行きました。領収書を見せて事情を説明したら、新しいのと取り替えてくれました。それなら、初めから新しいのを着けてくれれば良かったものを。

自転車での買物は、あの地域ではやはり場違いだったようです。すれ違うアフリカ人とは、ゲイリーに教えてもらったショナ語の挨拶を交わしましたが、大抵は温かい笑顔が返ってきました。時々、ショナ語で会話を続けられて、喋られずに謝る場面もありましたが、冷やかさを感じたことはありません。ただ、自転車の前篭の荷物を指差して、その食べ物を分けてくれませんかとか、バス代をくれませんかと、よくねだられました。しかし執拗さはなく、断ると何もなかったように去って行きました。

自転車の篭に乗せて中身が見える形で、買物した品物を大量に運ぶ状況を普段見かけることはありません。スーパーで買物が出来る白人や、ひと握りの金持ちのアフリカ人は、車のトランクに乗せて荷物を運ぶからです。大半のアフリカ人は、時には玉蜀黍の大きな袋を担いだりもしますが、パンとかマーガリンとか砂糖とかの単品をいれた小さな袋を持っているだけです。そう言えば、グレースが生ごみを入れてあるナイロン袋からわざわざごみを出し、洗って持って帰っていたのを思い出します。たくさん買わない限りもらえないのですから、ナイロン袋も粗末には出来ないわけです。

前と後ろに買物した荷物を乗せて自転車を走らせるのも、そのうち心苦しく思えてきましたが、毎回タクシーを呼ぶわけにもいきませんでした。

スーパーでも、アフリカ人の店員が荷物を当然のように運ぼうとするので、断るのが大変でした。断るのにチップを払う場面がよくありましたが、息苦しい思いが先に立ちました。

セカンドストリートのスーパーでは、こちらが断っているのに、松葉杖の老人が私たちの自転車の所まで買物のカートを押していこうとするので、結局、なにがしかのチップを出すはめになりました。こちらが悪いわけではないのでしょうが、それ以降はその老人に見つからないようにと気を遣うことになりました。出来るだけ遠くに自転車を置くのですが、それでも目敏く見つけて近づいて来るのには閉口しました。足も悪いのだし、毎回運んでもらってチップを出せばよかったのでしょうが、猜疑心に満ちた卑屈な目を見たくないという思いが先に立ちました。

街中で

ただでさえ気を遣いますので、食欲も衰えがちになります。体力が落ちると病気にやられる心配もあり、いかに食欲を維持するかは、大きな問題でした。

「アフリカに来るとなればいろいろ身構えて、食器や電化製品、日本の装飾品、食品、日用品などありとあらゆる品をそろえてやって来る人が普通ですが、その人たちはここに来てなお、日本の生活をしたい人達です。身ひとつでこちらに来られる方は、まずは、自分の身を保証するものからご準備なさればよいかと思います……日本食品も、これが切れると苦しいといったものをどうぞ、みそ、しょうゆなどは必需品です。」という吉國さんの奥さんの助言に従って、荷物を減らして来ましたが、味噌や醤油や茶などは何よりの貴重品でした。トランクが1つ増えて奥さんを困惑させてしまいましたが、無理をして大きな荷物を持ってきた甲斐があったと思いました。

ソースも醤油風のソイソースも、ケチャップもマヨネーズも、カレー粉までも味が違います。同じ味は塩くらいでした。空気も予想以上に乾燥していますし、9月には小学校も始まりますし、醤油がなかったら食欲が落ちなかったかどうか。味噌は1ヵ月ほどで切れてしまいましたが、何とか最後まで持ちこたえた醤油の方は、ロンドンで買い込んだ分も含めて大いに役に立ちました。

日本や中国のような大根などはありませんが、材料なら大概揃いました。2週間目くらいに、餃子を作って食べました。カナダの小さな町で作ったときは、葱とミンチ肉が手に入りませんでしたが、今回は他に、キャベツ、大蒜、生姜、胡椒、塩、ラードに至るまで、材料はみんな揃いました。餃子皮は望むべくもないので、小麦粉で一から作ることにしました。

餃子作りも大変
何とかそれらしきものが出来上がりました。無事に食べられたのは醤油のお蔭です。ゲイリーに試食してもらいましたら、神妙な顔つきで食べていました。
5日目には米を見つけて、早速翌日から食べ始めました。中国からの輸入米らしく、その日見つけたのは1キロ約5ドル120円あまりの米でした。品数は少なく、売場に米が見当らない時もありました。米粒がかなり砕けていて、たくさんの石が混じっています。その日から、炊く前に石の選り分けをするという仕事がまた一つ増えました。予想以上に時間がかかります。ここでは、毎日ご飯を食べるのも大仕事です。九月に入って、街の大きな店の片隅で、2キロ入りくらいで35ドル900円ほどの米の袋を見つけました。パンなどに較べると高級品です。今まで見つけた中では一番質のよさそうな米でした。お蔭で、石取り作業の負担が軽くなりました。(宮崎大学医学部教員)
植物園前で

執筆年

2011年12月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑥買物」(No.40 2011年12月10日)

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「ジンバブエ滞在記⑥買物」