つれづれに:南北戦争のあと:経済篇1(2026年1月日)
つれづれに:南北戦争のあと:政治篇

南北戦争は奴隷制を巡って争われたので人道問題のように見えるが、実際は経済の問題だった。経済面からみると、実に分かり易い。長い間奴隷を所有する少数の南部の大農園の独壇場だったところに、奴隷制で蓄積された資本で産業革命を起こして産業社会に突入したヨーロッパ社会の後追いをするアメリカでも、新たな金持ち層が台頭して来た。産業資本家である。その両者が奴隷を巡って利害が対立し、国を2つに割って市民戦争を起こした。奴隷制で大量の労働者を留め置く南部の寡頭勢力の好き勝手を、産業資本家が放っておけなくなったのである。つまり、僅かな金持ち層同士の争いだったわけである。いつの世も、僅かな金持ち層が好き勝手に世の中は動かしてきた。その構図は変わらない。南北戦争の場合も同じだ。
政治は議会制、代弁者を送り込んで自分たちの都合のいい法律を作り、利益を確保する。これもいつの世も変わらない構図だ。過半数を獲れば、法律は作れる。合法的な金儲けというわけである。
長い間、南部の寡頭勢力は代弁者をワシントンに送り、民主党が担ぐ候補が大統領になって南部寡頭勢力の代弁者をつとめてきた。そこに、北部の産業資本家が1860年の大統領選でリンカーンを共和党の候補者に選び、ワシントンに送り込もうとしたのある。南部に保持されている奴隷を解放し、労働者として北部に流すのが一番の課題だった。それを承知でリンカーンは大統領選に出馬した。奴隷制に反対するリンカーンとしてはいい機会だったに違いない。しかし、奴隷制を守ろうとする南部の寡頭勢力はアメリカ合衆国を脱退して、奴隷制を基盤にする南部諸州連合という新たな国を始めてしまったのである。リンカーンの課題も自ずと奴隷制廃止から南部統合へと変わった。リンカーンは南部を北部に戻すことを最優先せざるを得なかったわけである。当然言う内容も変わった。奴隷制廃止に力を尽くしてうれた北部の人たちが黙っているわけはない。「シカゴ・トリビューン」の主幹ホレス・グリーリーはリンカーンに公開質問状を叩きつけた。統合できるなら、奴隷制を廃止しなくてもよいと言わざるを得なかった。

その辺りの事情は本田さんの『アメリカ黒人の歴史』に詳しい。岩波新書は今も健在の名著である。南北戦争と公民権運動に焦点をあてて、熱い。公民権運動の熱が伝わってくる。

一橋大の教授時代に、神戸に本部があった「黒人研究の会」で一度だけ話を聞いた。穏やかな人だった。ゼミの担当者だった貫名さんの友人で、学会か何かで神戸に来たついでに小さな研究会で話をしてくれようだ。貫名さんは共産党員で、相方も神戸市会議員だった。娘さんも神戸市長選に出ていたようだ。

ワシントン大行進の辺りは特に熱がこもっている。その時ウィシャルオーヴァーカムを歌ったゴスペルの女王マヘリア・ジャクソンがその日泊まるレストランがなかったと書かかれていた。そうか、ワシントンは南部だったのか?そう思った記憶がある。

調べてみると、ワシントンには大統領官邸(ホワイトハウス)、連邦議会、連邦最高裁判所の三権機関が、ポトマック川対岸のバージニア州には国防総省(ペンタゴン、↓)がある。ワシントンはコロンビア特別区で、通称はワシントンD.C.、連邦政府の直轄地で、どの州にも属さない。ポトマック川を挟んで首都と国防の機能が密集している。この密集地帯が2001年9月11日の同時多発テロの標的となった。

1862年9月22日の奴隷解放宣言の予備宣言を出して、北部黒人の参戦を誘った。1863年1月1日に戦争が終結していなければという条件がついていた。戦争は65年まで続いたので、奴隷解放宣言は法的には有効になった。しかし、基本構図が変わったわけではないので、土地も家もない奴隷は現物支給の小作人(↓)になるしかなかった。

警ら係として雇われたプアホワイトやKKKの暴力を乗り越えて北部に辿り着くのは不可能に近かったからである。リンチで樹に吊るされた黒人は「奇妙な果実」と言われた。ジャズシンガーのビリー・ホリデイ(↓)がブルース「奇妙な果実」を歌い、2冊の伝記を基に「ビリー・ホリデイ物語ー奇妙な果実」をダイアナ・ロスが主演している。英語版のビデオテープを古本屋で見つけて観た記憶がある。英語や教養科目の授業でも聴いてもらった。

南北戦争で北部は勝った。新興の産業資本家が勝ったのだから、当然産業社会への歯車が大きく回った。たくさんの労働者が要る。そして、何より物を作るための原材料を手に入れる必要があった。南米から調達する程度では賄いきれなかったのである。侵略戦争→植民地の確保である。アフリカはヨーロッパン諸国の独壇場で入る隙がない。仕方がない、カリブ海とアジアで辛抱するか。先ず手始めは、スペイン帝国だった。各種産業とスペイン帝国と戦いが次回である。
