アフリカとその末裔たち 2 (3) ③今日的諸問題1992年のハラレ滞在
アフリカとその末裔たち2(3)③今日的諸問題:1992年のハラレ滞在
ハラレに行く前の何年間かは、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマについて書きながら、反アパルトヘイト運動の集会に出たり、講演に呼ばれて話をしたりしていました。国立大学に職を得て在外研究に行けることになった時、本当は、ラ・グーマの生まれ育ったケープ・タウンに行きたいと思っていました。しかし、申請時の1991年はまだ南アフリカとの文化・教育交流が禁じられていましたので(白人政府の良きパートナーですから経済的な繋がりは批評に強く、経済制裁や文化・教育交流の禁止は表向きだけの政策でしたが)、ジンバブエに行き先を変えました。南アフリカの入植者が住んでいたショナ人から土地や家畜を奪って作り上げた国なので制度が南アフリカとよく似ているうえ、アメリカ映画「遠い夜明け」のロケ地であったこともあって、映画の中のあの赤茶けた大地を見たいなあと思ったからです。
ジンバブエは1980年に独立していますが、経済力は完全に白人に握られ、上層部にいる少数のアフリカ人が私利私欲にふけっているという点では、他のアフリカ諸国と社会の構図は同じで、大統領のムガベが支配する社会主義路線の一党独裁が続いていました。
そんな国で、7月の半ばから3ヵ月足らず、家1軒を借りて、家族で住んできました。ハラレは、近郊も含めると100万人の人口を抱える大都市で、欧米並みのシェラトンもあります。1200メートルの高地にあって極めて過ごしやすい土地でした。気候も温暖で、庭にはマンゴウやパパイヤがなっていました。
白人街の500坪ほどの借家
大学と子供の学校に近く、自転車で通える範囲内で、という条件で家を探してもらいました。「ジンバブエには少数の貴族と大多数の貧乏人しかいませんので不動産事情が恐ろしく悪く、ホテル住まいも覚悟して下さい」と言われていましたが、出発の2週間前に、「新聞広告が効いて、家が見つかりました」と連絡をもらい、一軒家に住むことが出来ました。アレクサンドラ・パークという白人街の500坪ほどの家で、大きな番犬と「庭番」付きで家賃は2ヵ月半で2000米ドル(月額10万円ほど)でした。
ゲイリー(ガリカーイ・モヨ)
住み込みで24時間拘束される「庭番」のゲイリー(通称で、本名はガリカーイ・モヨ)とはすぐ仲良しになりました。正直な優しいクリスチャンで、住み始めてから10日ほど後に、冬休み(日本の夏休み)を一緒に過ごすために、奥さんと3人の子供たちがやってきました。普段白人の家主がいる場合家族はいっしょに住めないようですが、僕らが住むようになって家族を呼び寄せたのでしょう。私たちの2人の子供たち(14歳の女の子と10歳の男の子)とゲイリーの3人の子供たちはすぐ仲良しになり、毎日ボールを追い掛けたり、相撲をとったり、花を摘んだりして楽しそうでした。
庭で遊ぶ子どもたち
ゲイリーの月給が170ジンバブエドル(42000円ほど)、子供たちが蹴っていた段ボールが140ドル、番犬の餌代が150ドル、何とも複雑な気持ちでした。
ジンバブエ大学は、ハラレの白人街にある広いキャンパスをもった総合大学で、学生数は約一万人、当時は70パーセントがアフリカ人、農学部に小象がいたりして広々としていましたが、体育館もなく、図書館の蔵書も極めて貧弱でした。大半の学生が教科書を買えず、試験前には本が取り合いになるということでした。コピーの設備もほとんどなく、あっても経済的には使えない人がほとんどなので、授業の間、質の悪い紙のノートに、インクの出の悪いボールペンを走らせるばかり、そんな印象が強く残っています。
ジンバブエ大学教育学部棟
新聞では、毎日のように、30年ぶりの大早魅で死者多数、などと報じられていましたが、白人街にあるキャンパスの広々とした芝生の上では散水器が勢いよく回っていました。
ジンンバブエ大学ではアレックス・ムチャデイ・ニュタとい教育学部の3年生(最終学年)と仲良くなりました。その年の終わりにジンバブエ大学を卒業して、高校の教師をしながら、修士号を取る予定の英語科の学生でした。自分のいる寮に案内してくれた時、いっしょに食べたアイスクリームのお礼にと、金もないのにコーラをおごってくれたのが出会いでした。食べること自体が難しい大半のショナ人にとって、3度の食事を保障してくれる3年間の大学生活は「パラダイス」だと、アレックスは言っていました。
ジンバブエ大学学生寮ニューホール
直接お世話になった英語科の教員ツォゾォさんは、ショナの人々のためにショナ語で教科書や小説や劇などを書き、22冊も出版をしていました。
ツォゾォさん
大使館や大学との折衝、予防接種など、行く前から大変でしたし、滞在中も、搾取する側の人間として、搾取される側の歪みばかりが感じられて終始息苦しいばかりでした。
行きにロンドンに10間滞在して、亡命中だったアレックス・ラ・グーマ夫人のブランシさんと、帰りにパリに1週間滞在して、リチャード・ライトの国際シンポジウムでお会い出来たソルボンヌ大学のミシェル・ファーブルさんと再会しました。
ロンドンに亡命中のブランシさんと家族で
ソルボンヌ大学を背景にミシェル・ファーブルさんと家族で
アレックスが部屋に連れて来た学生の最初の質問が「日本では街にニンジャが走っているの?」でした。日本ではジンバブエに行く前にライオンに気をつけてねと何度も言われました。お互いを知らないで、グローバル化もないやろ、そんな気がしました。
以降、英語の授業の中で、アフリカやアフロアメリカの話題を取り上げ、滞在中に感じた加害者側の息苦しさを、学生に語るようになりました。(宮崎大学医学部教員)