リチャード・ライトとクワメ・エンクルマ-ブラック・パワーを中心に(口頭発表報告)
解説
高校の教員を5年したあと、教員再養成の兵庫教育大学の修士課程に行き、修士論文でリチャード・ライトと取り上げたこともあって、1981年の夏くらいに黒人研究の会に加わりました。月例会にも参加し、次の年くらいには例会の案内や会誌、会報の編集のお手伝いも始めていました。以降、1988年に退会するまで、毎年会誌に投稿し、月例会や総会で、口頭発表も続けました。
ライト写真
22号から編集を担当した会報には、月例会の要旨も掲載していましたから、7月に行なった発表の要旨を掲載したわけです。
この年の11月のライトの国際シンポジウムで、ケント州立大学の伯谷嘉信さんから、87年のMLA (Modern Language Association of America)へのお誘いを受けて発表することになったのですが、この「ライトとエンクルマ」の発表が、結果的には、「イギリス文学・アメリカ文学以外の英語文学」の部会で発表した南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマへの橋渡しになりました。
伯谷さん写真
修士論文「リチャード・ライトの世界」では小説を中心に書きましたが、パリに拠点を移してからのライトは小説以外にもアジアやアフリカに出かけて精力的に活動していたようです。イギリスからの独立の動きを察知して植民地ゴールド・コーストに訪れて『ブラック・パワー』を書き、バンドンでのアジア・アフリカ会議に出かけて『カラー・カーテン』を出しました。
ライトの背景もそうですが、世界の流れの全体像を掴みたいこともあって『ブラック・パワー』について黒人研究の会の例会で発表させてもらいました。
のちに活字にしました。
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その過程で、奴隷貿易→産業革命による産業化→市場・原材料を求めての植民地争奪戦→植民地分割・植民地化→独立→第二次世界大戦後の資本投資・多国籍企業の貿易による新しい形の搾取構造の構築という流れの中の、独立時の概要を知る重要な歴史資料でもあることを後々になって知るきっかけになりました。
会報写真
「黒人研究の会会報」(1985) 第22号 6ペイジ。
本文
7月例会: 神戸外大 (7月27日)
リチャード・ライトとクワメ・エンクルマ
ー『ブラック・パワー』を中心にー
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『ブラック・パワー』
「アメリカ黒人」のものを読む場合、「アフリカ」を避けて通るわけにはいきません。いつかは辿り着くところ、一度は越えなければならないところ。折しも、今回のシンポンウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の感化もあって『ブラック・パワー』を取り上げてみました。
エンクルマと会議人民党に率いられた当時のイギリス領ゴールド・コースト(現ガーナ共和国)についての『ブラック・パワー』は、アメリカに、ついでヨーロッパに失望したライトが「アフリカ」に望みを託して書いたライト自身を語った書です。
反動的知識人と首長、イギリス政府、「今すぐ自治を」のスローガンをかかげる目覚めた大衆による「三つどもえ」の現状をしっかりと把え、ライトはうまくエンクルマヘの手紙にまとめあげました。本書には、新植民地主義への警告などを含め第三世界に希望を託すライトの熱いメッセージが記されています。
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クワメ・エンクルマ
渡仏後のライトの評価は芳しくないのですが、あくまでペンで闘う姿勢を崩さなかったライトを評価する意義は小さくありません。
『ブラック・パワー』についてはあまり研究が進んでおらず、ことに日本では充分に紹介すらなされていない現状ですから、まずは正当な理解を心がけました。今回、会誌55号に書きましたが、色々とご教示願えれば幸いです。
次は、1950年代アメリカの「アフリカ政策」についてのライトの批判と『カラー・カーテン』をと考えています。
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『カラー・カーテン』
執筆年
1985年
収録・公開
「黒人研究の会会報」22号6ペイジ