『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(15)第15章 ユーニス
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の15回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo. 35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
(15)第15章 ユーニス
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
(15)第15章 ユーニス
ある月曜の午後に初めて、医療倫理の問題に突き当たりました。リバー・ロードでの生活に満足していましたし、バークレイズ銀行の口座には既に6000シリングの貯金がありました。車の前金も簡単に払い、残りは上級公務員に許されている政府のローンを組みました。患者は私の診察に満足していて、次々と診療所にやってきました。待合室に男女の患者が20人も座っている時もあり、それぞれが私の診察を受けに来ていました。私自身もすっかりお決まりの問診が板についているようになっていました。
「おしっこをする時、痛いんです。」と、男が言いました。
「なるほど」と、私はあまり恥ずかしそうにも見えない患者に私は聞きました。
「最後にセックスをしたのは?」
「3日前です。」
「わかりました。では診療台にのぼってズボンを脱いでください。」
患者が女性の場合、問診のやり方は少し違いました。
「先生、背中が痛むんですが。」
「おりものは?」
「ありません。」
「普段見ないものが、下着に付いてましたか?」
「ええ。」
「おしっこをする時、痛みはありますか?」
「はい。」
「検査のために、おしっこを採ってもいいですか?」
性感染(病)症にかかっているとはっきりわかっていても、頑固な患者には、検査結果の出た翌日に診療所に来るように言いました。
この特別な月曜日に、私はゆったりとした気分で性感染症専門家のキャンベラの医師の記事を読んでいました。なぜ性科学が現代医学で一定の地位を占めているかについて、メアリ・スチュアート医師がタイム誌のインタビューを受けていました。
スチュアート医師はオーストラリアの男性は極めて差別主義的だと主張していました。「囚人として知らない土地に移住し無理矢理その土地に住むアボリジニ女性を娶りながら生き延びるしかなかった開拓史が差別の原点に違いない。今日、女性は強引な異性との出会いではなく愛情を求めているので、どの家庭でも問題を抱えている。では、オーストラリアの男性はどうするのか?オーストラリアの男性は結婚相手を求めてタイに行く。女性の方は、自分が女性であることを実感させてくれるジンバブエや南アフリカ、イタリアやギリシャや他の少数派の男性を結婚の相手に選ぶ。その理由により、オーストラリアは深刻な社会問題を抱えており、その問題を正せるのは男女の問題でロミオとジュリエットの悲劇にみられる恋愛感情がわかる性科学者だけで、もしその問題が解決されなければ、女性は抑圧されたままである。」以上ががメアリ・スチュアートの主張でした。
オーストラリア地図
実際にアメリカでは、性の問題を抱える男女が通院して性行動の教育を受けられるように、特別な病院を建てた、という記事をイバダンにいた最初の頃に読んだことがあります。この種の病院は殆んどが悪用され、偽装した売春宿になってしまったのは残念なことです。しかし、性の問題を扱う病院が、性を売る店になるのが間違っているとは私には思えません。性を買うことと、セックスセラピーにお金を払うことに、どんな違いがあるんでしょうか?見覚えのある高価な服装をした女性がドアを開けたのは、そんなことを考えている最中でした。
「わたしの名前はユーニスです。」と完璧な英語でその女性は言い、
「あなたに助けてもらえればいいんだけど。」と付け加えました。
「私に出来ることは何でもしますよ。」と、私は高価な服装をした40くらいの女性に少し気後れしながら答えました。裕福な暮らしを思わせる甘い香りと高価な香水、きれいにマニキュアをした爪、しっかりと目打ちされた靴からも、リバー・ロード診療所に来るタイプの女性でないのは明らかでした。
「とても疲れやすくて、体全体が張った感じがするの。いつもの婦人科の医者は何も見つけられなかったわね。」
「特に痛む箇所はありますか?」
「ええ、背中と両足と、それに首も、ね。」
「いつの頃からですか?」
「今年に入ってずっとね。でも病気じゃないと思っていたの。」
「どの先生に診てもらってましたか?」
「私はずっとジンマーマン先生にかかって来たわね。」
ロベリ・ジンマーマンはナイロビの医学界ではトップクラスです。高級なブルース・ハウスの6階に診療所を持つ高給取りの婦人科の開業専門医でした。それなのにそのユーニスが1年目の医師ジョセフ・ムングチに助けを求めています。私の「タイタニック号」が間違いなく姿を現わしました。電話が鳴ったのは、そんなことを考えている最中でした。
「ワウェル・ギチンガだ。ドクター・ムングチか?」
「はい、私です。」と、私は答えました。
「マインバ夫人が君に診てもらいに来てるかね?」
「え?どなたですか?」と私が答えて患者の方を見ると、そうだと頷いていました。
「ええ、来られてますよ。」と、私は答えました。
「しっかりとみてやってくれよ。」と言うと、ギチンガは突然電話を切ってしまいました。
その女性の不思議な病気の原因を突き止めるために、出来る限りしっかりと患者を診察しました。45歳の女性としては心拍数も血圧も正常でした。熱もなく、中年女性を侵す婦人病の兆候もありませんでした。
「マインバさん、最後の生理はいつでしたか?」
「1年前ね。」
「便の具合はどうですか?」
「もう何年も下痢はしてないわ。」
「おしっこはどうですか?」
「きれいね。」
「何かスポーツはされてますか?」
「最近、ヒルトン・ヘルス・クラブでトレーニングとサウナを始めたわね。」
「どのくらい前ですか?」
「1週間ぐらい前かしら。」
これ以上問診をしても効果がなさそうでしたので、何種類かの臨床検査をしようと決めました。検査用に尿と便と血液を採るように夫人に頼んだあと、検査結果が手に入る3日後にもう一度診療所に来てくれるようにと言いました。
「きっと何の問題もないわよ。」と、夫人はそう言うと媚びた目つきで、何か深刻な問題があれば見つけてごらんなさいよ、とでも言いたげにくすっと笑いました。
「では、3日後にお会いしましょう、マインバさん。」と、私は早く夫人が出て行ってくれれば次の患者の診察を続けられるのにと思いながら言いました。その男性患者は、梅毒の症状である潰瘍(硬性下疳)が気になるようでした。しかし、夫人は帰りませんでした。ドアをノックして私の承諾も得ないで部屋に入って来ると、便と尿を入れた容器をテーブルの上に置きました。
「私の婦人科医もこれは調べたわ。私のお腹じゃなくて、この辺りに目を向けてほしいわね、若先生。」と、夫人は手で胸元を触りながら言いました。
私の対応が適切ではなかったと遠回しに言われて少し怒りっぽくなっていたのは確かですが、マインバ夫人については婦人病のことは考えていませんでした。リバー・ロード診療所に来る私の患者はこれまでの所、非常に簡単な病気か、カンジダ症、トリコモナス症、梅毒、マラリアなどでした。高所得者層の健康そうな主婦が、実際に病気で苦しんでいるとは思えないような様子で私の診療所を訪ねてくることなどまずありませんでした。私は梅毒の患者に服を着て、受付で待つように頼みました。
「マインバさん、どうして私の処置が正しくないとお考えなんですか?」
「ワウェルが、あなたが検査もきっちりとやるし、ケニア中央病院の医者よりはるかに私の症状に興味を持つはずだっておっしゃったからよ。」
「ワウェル?」
「ギチンガのことよ。」
私は目眩を覚えました。自分の雇い主から紹介された患者が、私を未熟だと現に考えていると思うと心が乱れました。しかし、医学の専門的な知識もない口うるさい女性に負けるわけにはいきませんでした。
「便と尿と血液の検査が終わってから、木曜日に検査をするつもりだったんですが、今日がいいということでしたら、ベッドに上がって服を脱いで下さい。」と夫人に言ってから、私は手袋を着け、検査用の手鏡を手に取りました。そしてイバダン大学の医学部以来何年も使っていなかった道具で検査を始めました。
私は夫人の体を隅々まで検査しました。夫人は私に言われたように服を全部脱ぎ、金の指輪と耳と鼻のピアスだけの姿になりました。首と脚に着けていた装飾品もみな純金でした。私は宝石商ではありませんが、50000シリングは下らないほどの金やダイヤモンドを身につけているのだろうと思いました。歯、鼻、口、両目、腋、恥骨、両手両脚、すべて完璧な状態でした。陰部には、傷もいぼも発疹もなく、体のどこにも吹き出物ひとつありませんでした。実際、男性でも女性でも、今までこれほどの健康体を私は見たことがありませんでした。
「そうですね、これだけは言えますよ、今まで私が診察してきた中であなたは一番完璧な生き物です。」と言って私は手袋を外しながら夫人に服を着るように言い、検査結果が出るまで時間をくれるように頼みました。
「私、本当に大丈夫なの、先生?」
「診断結果異常なしの証明書が出せますよ。」
夫人は服を身につけながら、もう一度悩ましげな笑顔を私に見せ、化粧を直して唇を真っ赤に塗り終えると意気揚々と部屋を出て行きました。
ナイロビ市街
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ユーニス・マインバは、木曜日の夕方5時ちょうどにやって来ました。普段は診療所を閉める時間ですが、どうやら終わる時間に合わせて来たようです。他の患者はすべて帰っていましたので、私には好都合でした。艶めかしい女性が私に偉そうに言ったり、ここの規則を無視して好き勝手に振る舞うのを他の患者には見られたくなかったからです。夫人は私にバラの花を持って来て、「奥さんに毎日机の上に飾ってもらうといいわね。」と言いました。
「妻を持つという光栄にまま浴していません。」と、自分で自分の首を絞めているという自覚もほとんどないまま、私はそう言いました。
「まあ!こんなハンサムな男性が、まだ結婚なさってないの?」と、夫人は目を大きく見開いて不思議そうに言いました。
「マインバさん。検査結果が出ています。病気を起こす可能性は全くありません。帰ってもらっていいですよ。リラックスして、健康な毎日を楽しんで下さい。」
「リラックスするのを助けて下さる?」
「あなたのなさる何を助けるんですか?」と、私は聞きました。
「リラックスして、健康な毎日を楽しむんでしょ?」
「自分が楽しむのに人の助けなど要りませんよ。」と私は言いました。実際にその通りだと思います。
「じゃあ、ジョセフ・ムングチ先生、あなたは私が「両性具有」だとでもおっしゃるの?」夫人は私の好きな専門的な領域に入り込んできましたが、決してこの夫人にやられたままになっているつもりはありませんでした。
「いいえ、マインバさん。私は「無性症」ではありませんが、自分が楽しむのに他人の手助けは要らないと言っているんです。」
「そうなの?じゃ、マスターベーションはやるの?」
「やりません。」
「それじゃ、自分が楽しむのに他人の手助けは要らないって、あなた、どうやって言えるのかしら?」
私は今まで如何に世間を知らずに生きて来たんだろうと思い始めていました。結婚すれば性生活でも必要なだけの満足感を得られるもので、健康そのもののユーニス・マインバも、生活に必要なすべてを備えた満ち足りた母親だと信じていました。
すべてはこうして始まりました。マインバ夫人と私はその後一年間関係を持ち、二人は破滅寸前まで行きました。週末には国内じゅうのあちらこちらに出かけ、仕事が休みの時には、パンガニにある金持ち層ナイスピープルの恋の巣窟で何時間もいっしょに過ごしました。ユーニスは気前のいい女性でした。私の少ない給料を当てにするメアリ・ンデュクとは違って、高いホテルでは、ほとんどユーニスが支払いました。スーツまで新調してくれました!ある晩、ユーニスは私の嫌いな縞模様のスーツを着るように言いました。すでに私は金持ち夫人に仕える若い燕になっていました。
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執筆年
2010年3月10日