つれづれに:超早場米(2021年8月12日)
つれづれに:超早場米
来た当時の宮崎医科大学(大学ホームページから)
1988年の3月28日に、家族で宮崎に引っ越して来た。子供が二人に、妻も働いていたし、僕は非常勤だけの無職の浪人時代が5年目になっていた。最後の年は専任の話のためにもと言われた分も含めて1コマ100分を週に16コマ、非常勤講師として一般教養の英語の授業やっていた。12コマが大阪で電車は満員、毎日がいっぱいいっぱいだった。妻は学校の後片付けもあったし、家では引っ越し作業、ほんとに最後はばたばたで、取り敢えず引っ越しを、とそんな感じで、西明石から新幹線に乗って、小倉で日豊線の特急に乗り換えた。
新幹線西明石駅
宮崎医科大学の人事が決まり、推薦者に紹介してくれた広島の人から電話を受けたとき「え、そんな遠いとこ、ほんまに行くんですか?」と聞いてしまった。今から思うとずいぶんと失礼なことを口走ってしまったが、何度か人事が最後にだめになっていたので決まるとは思っていなかったから、つい口に出てしまったのである。宮崎までは、実際、長かった。特に小倉からの5時間ほどが堪(こた)えた。今なら、飛行機に乗る。
引っ越し前に住んでいた朝霧近くの大蔵海岸
南国だという意識が働いて「ストーブなんか要らんやろ」と気軽に言ったのを今でも悔やむ。世話して下さった人に任せていたら宿舎は国民宿舎、雨も降って、寒い一日、散々の出だしだった。退職に伴う諸々を何とか片づけてきた疲労困憊の妻には、今でもその時の恨みごとを言われる。返す言葉もない。今なら宮崎観光ホテルに泊まるだろう。
大淀川河畔の宮崎観光ホテル
宮崎神宮駅の少し北辺りに一軒家を借りて生活が始まったが、着いた当初は寒いし、近所の人にはいろいろお節介されるし、幼稚園と小学校では関西弁をしゃべるからと集団でいじめられるし。今でも心の傷になったままだ。僕の都合だけで3人を連れて来てたが、三人には負い目を感じる。大学の人とは家の近くで会いたくない気がして、大学からは20キロ足らず離れた借家で暮らすことに決めていた。
借家近くの宮崎神宮
雨の降る中、空港からタクシーで家まで行ってもらったが、田植えのシーズンだった。まさか3月の末に田植えとは考えてもみなかった。英語科の年上の同僚が「台風が来る前に収穫できるように3月末に植える超早場米ですね」と教えてくれた。温厚な人で、いろいろお世話になった。
4年前の3月の終わり頃もこんな感じだった
住んでみれば、わかる。超早場米は、農業に携わる人の代々の知恵である。台風が来れば、外には出ない。身を守る術である。激しい雨風のなか、外に出る理由がない。台風前にすでに稲刈りが始まっていて、6日(金)に写真を撮った時は、半分程度がすでに稲刈りを終えていた。そこへ台風である。金曜日の夕方も、土曜日の午前中も作業をする人が多かったようだ。台風に備えての作業もあって、今年は稲刈りの写真を撮り損ねたと思っていたが、台風の翌々日に作業をしていたトラクターの写真を撮った。
少し画面を引けばもう何羽かの烏が、トラクターの後ろから撮ればあと二人が映っていた
台風前にすでに田起こしをしているたんぼもあった。起こす土のあとを何羽もの白鷺がついて歩く。格好のえさが掘り起こされるんだろう。これから何度かお目にかかれそうである。
田起こしの済んだたんぼ