つれづれに: 高等学校2(2022年1月19日)

2022年1月20日つれづれに

つれづれに: 高等学校2

種からのリーフレタスの植え替えが何とか終わり、ブロッコリーと葱の植え替えをしている最中である。去年レタスとブロッコリーの種は採れたが、葱は採り損なってしまった。葱坊主にはなったが、長雨が続いて腐り、崩れてしまったからである。去年の長雨は、予想以上に長く、執拗だった。低い地区には絶えず大雨警報が出ていた。南瓜の成長が止まり、実がすべて子ぶりのままだったほどである。

土を運んで一番陽当たりのいい場所に新たに拵えた畝に植え替えたサニーレタス

「諦観」の意識下の深層を探るために高等学校について書いているが、今回は高校そのものについてである。嫌だった理由の一つが「高校そのものに関心がなかった」ことだと書いたが、中学の半ばから始めた社会活動が生活の中心になっていたからである。一年生から二年の夏休みまでは一つ上のまとめ役の先輩といっしょに、それ以降は私自身がまとめ役として活動に夢中だった。何人かの同学年と一つ年下の人たち何人かとはよく集まったし、少しは社会に関われている気がして毎日が充実していた。それで高校に関心が向かなかったのだが、高校生活自体がおもしろくなかった面も大きい。国語や社会などはもともと嫌いではないが、授業はつまらなかった。理科系の科目は性に合わなかったし、世界史や日本史はほぼ教科書をなぞるだけだった。古典と英語の人は受験一辺倒で、「はい、これ重要単語」という古典の人の鼻に抜ける甲高い声と、「リスポンポンシビリテイのビのところにアクセント」と言いながら黒板を叩くコンコンコンという音の感覚が今も耳に残っている。3年次の現代文の人は受験用の参考書を毎回そのまま読むだけだった。文章の末尾の「。(まる)」まで読んでいた。あまりに退屈なので、生徒の一人が質問をして怒らせたら「お前は俺よりえらいと思っているのか!」と大声を上げていた。「せんせよりえらくないと思ってるんですか?」と言い返されて、しばらく黙りこくっていた。言い返した生徒は京大に行ったと聞くが、普段から偉そうにして鼻持ちならなかったので周りは冷ややかで、ほぼ無反応だった。私の場合は、どっちもどっちやな、勝手にやりやと思うくらいだった。

小中でも同じだったが、高校でもひたすら教師の言っているのを聞くだけだった。自分から進んで何かをするとか、グループで討論するとか、誰かが来て違う角度から話をしてくれるとかもなかったし、映像を見ることも一切なかった。時代的なこともあるし、大学でも基本的にはそう変わらなかったが、大学の場合、内容が濃い科目の場合はおもしろかったし、高学年になると少人数のゼミもあって、自分でテーマを決めて発表する機会もあった。その点、高校の内容は、教科書を読めばわかる程度のものが多く、とにかく退屈極まりなかった。一方的に延々としゃべり続けられて、よくもまあ、おとなしく、黙って、座って、聞き続けられたもんだと、変に感心する。

もちろん、東大に行くとか京大に行くとかの身近な目標が持てるか、成績がよくて優越感を味わえたとかがあれば、授業も楽しくなっていたかも知れない。しかし、答えの分かった決められた内容をやらされるのは、苦痛だった。まずする気が起きなかった。一年生のほぼ同じ時期に二つの模擬試験を受けさせられて、一つは百番くらい、もう一方は四百番くらいだった。片方の国語が72で、もう一方が50くらいだったと思う。上位の百人ほどは実力がある程度あったのかも知れないが、それ以降は似たりよったりだったということだろう。入試用に本腰を入れる人が増える3年になれば、そういったこともなかったのかも知れないが。今でも覚えているのが3年の時の519という数字、高校の成績の最高記録である。

私学を受けるわけにもいかないし、そんな状態で国立大を受験したのだから、後から思えば、結果は見えている。それでも直前模試の数値50%を見ながらの担任との面接では、地方の国立大の合格率は「半々やな」と言われた。担任が東京教育大で、地方の国立大を受ける生徒もあまりいなかったこともあるが、無責任なものである。英語も数学も、他の教科もほぼ何もしないで国立大に行こうとする方が、元々無理な話なのだから。一番偏差値の低そうな、人の行きたがらない山陰の2期校の教育学部の小学校教員養成課程も、落ちた。

高校ホームページから

よくも卒業したものだが、3年の時は何やかや理由をつけて3分の1くらい学校を休んだ。規定を満たせば文句を言われる筋合いもないので、休むのに弁解がましい言い訳を考える必要もなかったと思うが、学校を休む=よくない、という意識が働いていたんだと思う。学校に行くか行かないかは本人の意思次第だし、嫌ならやめればよかったんだが、無意識の「常識」に縛られて、雁字搦めだったように思う。評定値は3.3、一番低かったのではないか。

高校の近くに寺があって、ときたま帰りにその寺に立ち寄った。当時は宝物殿とかに収容されていなかった観音像を見るためである。しばらく格子戸越しにぼんやりと観音像を眺めてから、家に帰った。その頃は、将来高校の教員になって、その寺の住職が同僚になるとは夢にも思わなかったが。その人も旧制中学を出たそうである。後輩とは言われず、わりとかわいがってもらった。生徒指導を担当して生徒に厳しかったが、指導を受けたことはない。

観音像があったと思われるお堂

次回は、高等学校3、高校がおもしろくなかったもう一つの理由「大人が生徒を子供扱いした」、か。