2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の25回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

 第25章 1983年2月・第26章 1984年―謎の病気

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

25章 1983年2月

私はアイリーンに、ドクターGGと別の男性と一緒にカミティ刑務所にギチンガ医師を迎えに行くと伝えました。ギルバートの殺人以来、ギチンガ医師のそばで働く気にはなれない、もし以前の持ち主に戻るのなら診療所を辞めたいとアイリーンは言いました。アイリーンはギチンガがギルバートを殺したと今でも信じていましたから、反対しませんでした。ギチンガを正当化する根拠がないのも分かっていましたから、ギチンガの弁護もしたくありませんでした。タンザニアの売春婦のハリマの死を見ていましたから、ギチンガ医師の無実も完全には保証出来ませんでした。

ギチンガ医師の兄だと紹介されたカリユキという名前の男といっしょに、ドクターGGが10時に診療所を訪ねて来ました。ギチンガが服役した4年間以上は刑務所に入れておきたくないので、11時前にはカミティに着きたいと二人は説明しました。私は黙って従い、受付が片付いたら出来るだけ早く診療所を閉め、その日の残り時間は休診にすると受付に説明するようにアイリーンに頼みました。

10時半にカミティの門に着き、釈放されたギチンガ医師を私たちが引き取りに来たと伝えました。門番が電話をすると、ギチンガ医師は既に釈放されて迎えを待っているということでした。刑務所はどうも苦手なので、釈放の手続きなどはドクターGGとギチンガ医師の兄に任せました。2人は私をフォードエスコートの席に残し、釈放室の方に歩いて行きました。
私はギチンガ医師が戻った後のことをあれこれと考えました。2年間診療所を経営してきた後では、誰かに雇われる状態に戻れないのは分かっていました。しかし、性病の患者に安い医療施設を提供するという使命も継続しなければとも考えていました。私一人で、ナイロビのような町から性病をなくすのは無理だと分かっていましたが、患者が払わないといけない費用が、時には薬や診断や診療にかかる額と釣り合わないほど高額でした。それについて私が話をした何人かの医者は私を馬鹿だと考えていました。その人たちが言うように、いわゆる法外な金額を設定したのは医者ではありませんでしたから。普通の人は、公的な診療所や私が経営している偏見のない個人の診療所に行くよりはこっそりと診察を受けたがりました。

ナイロビ市街地

ナイロビの中でも、一般の人が歩かない一流の建物が並ぶ高級住宅街では、金持ちには医療が必要で、そのために必要なら金は幾らでも払いました。そんな風に思いを巡らしているときに、一人の男が車の窓を叩きました。顔を上げるとドクターGGとカリユキ氏が立っており、その横にいたのはどうやらギチンガ医師のようで、すっかり変わってしまっていました。中でどんな仕打ちを受けたのかと、私は思わず叫び声を上げそうになりました。顔は艶もなく皺だらけで、ドクターGGと同じ60歳に見えました。僅か4年間で、人はこんなにも変わってしまうものなのか!と不思議な感じがしました。
「ご無沙汰してます。」
「やあ……どうして君は……そんなに……びっくりした……顔をして……?」
と、ギチンガ医師は弱々しく私に聞いてきました。
「私は……ハネムーンに……行って来たわけじゃ……ないからね……家まで……送ってくれ。」
かつては自信に満ちあふれていたケニア中央病院の医者が今はびくびくしてためらいがちな老人になっている姿を見ながら、吃音が一段とひどくなってしまったな、と思いました。
「ご自宅はどこですか?」と、私は尋ねました。
「ラビングトン……だよ……カワングレ……の……隣……。」
私はギチンガ医師について殆んど何も知らなのに気が付きました。ほぼ四年間もその人の下で働いていたにも関わらず、私は奥さんにも、話を聞いていた四人の子供にも会ってはいませんでしたし、家庭についても友人や知り合いについても知りませんでした。知っているのは、人生にひどく不満げでケニア中央病院はすべて駄目だと考えていることぐらいでした。
刑務所での体験を話し始めたとき、私は車を出しました。刑務所では大工仕事を習ったらしく、木材や平削りや釘打ち、それにほぞの継ぎ合わせにも詳しくなったよ、と言いました。獄中にいた4年の間は医学から遠ざかっていましたから、医療の情報も全く昔のままでした。服役中に地元の薬局に行って掃除をされて、鬱病になってしまいました。優れた外科医から清掃員になった環境の急激な変化が原因だったようです。まともな病院で2、3ヶ月も働けばすぐに元に戻るさ、とドクターGGは慰めました。しかし、ギチンガ医師はケニア中央病院にはもう関わらないでしょう。専門医を採るプリンスクワン病院かナイロビ病院はどうかと薦めました。

ナイロビ病院

市街地に入ると、ギチンガ医師はウェストランヅを抜けてラビントンに入り、そのあとコンバート通りからオースティン通りに行ってくれと言いました。当時に比べて新しく建物がたくさん建っていましたが、実習期間にラビントンで家庭医の実習がありましたから、この辺りはよく知っていました。

「コンバート通りとロヤンガラニ通りの交差点に家があるよ。」
と、ギチンガ医師が言いました。「聞いたところでは、妻が離婚の準備を進めていて、家の所有権は既に取ったそうだよ。」と嘆きました。
「どうして君の家の権利を奥さんが取れるのかね?」と、ドクターGGが聞きました。
「まあ、よくあることだよ。君のンデル診療所と一緒で、家は妻の名義で登録してあるからね。公務員は個人の診療所を持てないし、不動産も届け出が必要だからね……あぁ、着いたよ。まっすぐ黒い門の所まで行ってくれ。」
私は門まで行ってそこでクラクションを鳴らしました。ラビントンの門の「猛犬注意」や「警備員厳重警戒中」などの威圧的な標識をながめてから、私はもう一度クラクションを大きく鳴らしました。しかし誰も現れませんし応答もありませんでしたので、4人の中で一番年下の私が何かをしないといけないと感じました。私は車から降りて、重そうな鉄の門の所に行きました。開けようとしましたが、頑丈な鉄の鎖と同じように頑丈そうな錠前でしっかりと固定されていました。

「どなたかいませんか?」と、カワルグワレのスラムが見下ろせる家と門の間の500メートルの空間を越えて私の声が届いてくれるように祈りながら私は叫びました。返事はなく、ギチンガ医師はかっとなりました。車のクラクションに手を伸ばしてしつこく鳴らし始めました。平和なラビントンに侵入するならず者が誰なのかを確かめるために近所の人が何人か怒った顔で窓から顔を出し始めましたが、効果はありました。
「やっと、お出ましだ。」と、寝巻き姿で10歳くらいの女の子を2人連れた女性が門の方に歩いて来たとき、ギチンガ医師が叫びました。
「サラ、門を開けろ。」と、ギチンガは命令しました。夫の声を聞くと、その女性は仁王立ちになって私たちに悪態をつき始めました。
「言ったでしょ、気違い野郎、ここには一歩も入らせないわよ!帰りなさいよ、この泥棒野郎。」と、その女性は怒鳴ってから、今度は子どもたちに言いました。
「あんたたち、中に入って隠れなさい。この人は人殺しなんだからね。」

今までそんな光景を見たことがありませんでした。ギチンガ医師が車から飛び出し、狂ったように鉄の門をよじ登り、内側に飛び降りようとして、門の上側の尖った鉄釘に串刺しになりそうになったのはその時です。子どもたちはギチンガから離れました。私たちがギチンガを門から引き剥がしたとき、右手がざっくり切れてギチンガは泣き出しました。
「自分の血肉を分けた子どもに怖がられるなんて!サラ、いつかこの両手でお前を殺してやる……。」と、ギチンガは妻に毒づきました。
私たちは野次馬を楽しませてしまったようで、早くこの場から逃げ出した方がいいと思いました。私たちは車に乗り込み、もと来た方に急いで車を走らせました。ギチンガ医師は逆らいましたが、家の問題を整理するより手の治療の方が先ですよと私は言いました。
「パブに行ってくれ。」と、ギチンガ医師は言いました。
「どこのパブです?」と、私は尋ねました。
「リバーロードだったらどこでもいいよ。」
「先ずは診療所に行って手の治療をしましょう。」と、私はきっぱり言いました。

過マンガン塩酸で傷口を消毒してもらい、包帯を巻いてもらったあと、私たちはカジノシネマの隣の無認可バーに行きました。酒が安いのもありますが、マスターがジュークボックスから騒々しい音楽を流さないので年配の男たちが気に入りそうな場所だと知っていました。3回ほど来たことがあって、ドクターGGのような人にはぴったりの店だと思っていました。店の周りでは、小さな商売をする人や市の清掃員たちが部屋を借りて住んでいて、ドクターGGのような年配を相手に昼の商売をして稼ぎの足しにしていました。ギチンガ医師には酒を飲みながらゆっくり午後の時間を過ごすのが必要だろうと感じました。

4人は午後を楽しく過ごし、ギチンガ医師は私たちに心を開いてくれました。夫のすることを何も理解しない妻との結婚生活は相当悲惨だったようです。年をとれば少しは変わってくれると願いながら、ギチンガ医師は20年も耐えてきました。ところが、その女性は男遊びをするようになり、食欲も物欲も底なしで、ギチンガが可愛がっていた末の双子に、父親は悪魔で危険な殺人者だから近づいてはいけないと教えました。兄のカリユキが、こうなると予想して家に行かないようにとギチンガに言ったのですが、ギチンガにはラビントンの家に行って家族に確かめる必要がありました。私は気の毒に思いましたが、外科の腕を使って新しい人生を始められるように手伝う以外に私には出来ることはありませんでした。

ケニア周辺の地図

みんなで酒を飲み続けました。私はホワイトキャップを五本飲んで少し酔った気分になっていました。ドクターGGがギチンガ医師のためにハーフウォッカと呼ばれている酒を注文しましたが、見ると350ミリ入りのボトルでした。ドクターGGはタスカーを飲み、一緒に飲んでいたギチンガ医師の兄も、何か食べながら同じものを飲んでいるようでした。しばらく飲んでいると、若い女が一人仲間に加わり、ギチンガ医師がその女をかなりいやらしい目つきで見ているのに気づきました!ドクターGGは私よりも遥かに雇用主の好みを知っていると見えて、その医者の横に座ってビールをねだるようにと女に勧めました。女がギネスの黒ビールとコーラを注文すると、それぞれのボトルが運ばれてきました。酒宴は続きました。ギチンガ医師がウガンダの出身らしい女性と一緒にいてかなり興奮しているのが分かりました。2人はウガンダの言葉ガンダ語で喋りだしました。遥か昔、マケレレ大学で学んだギチンガ医師は懐かしい日々を思い出していたに違いありません。

ウガンダのマケレレ大学

2人はとても楽しそうで、いつもは退屈そうで、陰気なギチンガ医師もすっかり陽気になり、吃音も殆んど分からないくらいでした。

フローラはこの店の隣の角に住んでいて、自分の家を見に来るようにギチンガ医師を誘いました。私は危険を感じ、薬局に行って急いでコンドームを買ってきましょうかとドクターGGに耳打ちしました。その老人は堪え切れずに突然笑い出しました。
「コンドームには触らないよ。あの人なら抗生剤のカプセルを一握り飲むね。」と、ドクターGGは言いました。
「なあ、邪魔をするのはやめとこう。刑務所あがりの男には、女が友だちからの一番の贈り物だから。」
私は世間知らずで、囚人がどれほどセックスを渇望しているか、性に飢えているために、囚人同士がいかに同性愛者になりやすいかをすっかり忘れていました。店を出てフローラの家に行くギチンガ医師をみんなで冷やかしました。その女性がウガンダ人でしたから、客の物を盗んだり脅したりして評判の悪い土地の女と違って、ギチンガも安心だと誰もが考えました。三時間後にギチンガ医師が戻って来ましたが、生き生きとして楽しそうで、満ち足りたように見えました。

第26章 1984年―謎の病気

ギチンガ医師は市内でも一流の病院の一つプリンスクワン病院に仕事を見つけました。刑務所に引き取りに行った1月後に会ったとき、ギチンガ医師は平静を取り戻した感じで、こざっぱりとして落ち着いていました。妻は家財道具といっしょにキタレの親戚の農場に消えてしまったが、自宅の返還を請求したよとキチンガは私に言いました。妻が農場を持っていられるのもある計画を実行するまでだとも言いましたが、キチンガがどう財産権を確保するかについては教えてくれませんでした。目標を達成するためには色々な方法があると知っていましたので、私はその計画が何であるのかは敢えて聞きませんでした。ギチンガには現金が必要で、5万シリングほどでいつでもリバーロード診療所の「権利を放棄する」気持ちがあると言いました。銀行口座に診療所を運営する四万シリングはあるが、それは経営上の経費で個人のものではないと、私はギチンガに言いました。
「そう、まさにその通りだよ。」と、ギチンガはいらついたように言いました。
「私は自分の取り分をもらう、5万シリングにはなると思うがね。君は今まで通り診療所を続ける。」
私は経営はどうも苦手でしたが、診療所を持ち自分の診療所として経営するという考えにはかなり魅力を感じました。
「法的な手続きは全部するんですよね?」と、私は尋ねました。
「もちろんだよ。バークレイ銀行にも知らせておこう。」
バークレイは診療所の金を預けている銀行で、私にこれ以上は資金を求めないで、約束してくれたように経営が維持出来るだけの資金を残してくれる条件で、事情をよく理解しているギチンガ医師に一切の事務処理を任せました。2日後、ギチンガ医師が戻って来て、最初に2万シリングを、そのあと全部で5万シリングになるまで毎月1万ずつを支払うのではどうかと言い出しました。また、診療所が口座を残せば、当面はバークレイも一万シリングの当座貸越を受け入れるということでした。診療所で使っている家具と、手術用や医療用の器具が担保でした。良さそうな条件でしたが、低所得者層への治療が含まれるのを考えると、銀行からの借金と当座借越は少し危ない気もしました。イアン・ブラウンの家での一件があったあとも会い続けていたメアリ・ンデュクは、銀行の当座借越と聞いてひどく興奮した様子でした。
「今度こそ、ジャガーを買いなさいよ。」と、ンデュクは強い口調で言いましたが、私は敢えて答えませんでした。薬の価格が高騰し、必要最低限の薬品も不足して、気が付くと医療界でますます孤立した状態になっていましたので、低料金の医療を諦め始めていました。

キタレ

ギチンガ医師が私に診療所を「売って」から数日後に、私はドクターGGに会い、ギチンガ医師が私に本当のことは言っていないと知らされました。リバーロード診療所もンデル診療所も、ギチンガ医師が刑務所に送られたときに、登録を抹消されていました。したがって、両方の診療所とも法的には違法な施設でした。ギチンガは戻ってすぐに再建しようとしましたが、うまく行かずに売りに出しました。しかし、ドクターGGの説明によれば、違う名前で申し込めば登録が出来ました。私は申し込んで、シゴナ診療所の名前を手に入れ、ドクターGGは私の名前を使って開業の許可証を取ってくれました。リバーロード診療所について言えば、その名称は看板から消え、単に「ジョゼフ・ムングチ医師、医学士、化学士、医学修士、性感染症専門医」と登録されました。

1984年1月に、ほぼ4年間私が勤めた診療所の敷地内にその看板が立てられ、私はとてもいい気分になりました。4年間ここで働き、私は国内でも一流の性感染症の専門家だと信じていました。ケニア中央病院に問い合わせても患者を助ける術がないと判ったライター症の一つの症例を除いて、診断して治療が出来なかった性病はありませんでした。ところが1984年の12月に、診療所で非常に難しい問題が持ち上がりました。最初は、鼠径リンパ肉芽腫の単純な症例だと考えたのですが、2度目に来た時には、単なる性器ヘルペスだと思っていたただれが患者の体じゅうに広がっていました。コンボとだけ名乗った患者はナイロビのあらゆる種類の医療を試し、プリンスクワン病院も、メーターミザリコーディアエ大学病院も試したが駄目だった、と私に言いました。ある友人がジョゼフ・ムングチ医師なら治してくれるだろうと、コンボ氏に私の診療を紹介していました。
「若先生さんよ、わしは金持ちじゃよ。ここに2万シリングある。わしのこの病気を治してくれる薬なら何でもいい、何とか探してくれんか。」
私は大金を前に断わるつもりでしたが、薬も不足していましたし、梅毒トレポネーマと帯状ヘルペスの最新医療の研究もありましたので、赤い紙幣の厚い束を受け取って、出来るだけのことはやってみますとコンボ氏に約束しました。コンボ氏は帰って行きましたが、今まで私が診てきた梅毒やヘルペスのどの患者よりも遙かに弱々しく見えました。

有名なナイロビの病院が私のことを聞いた上で、難しい患者を私に紹介しているのなら、母親キベティの息子ムングチは、(カンバ人は、気持ちが高ぶった時はいつも、母親誰々の息子と自分を呼ぶ習慣がありました)この国で私が一番であると証明するつもりでした。コンボ氏の症状に効く薬を見つけるまで2晩はケニア中央研究所の図書館に籠もると決めました。薬が手に入らなければ、最近一番人気の配送システムが毎日テレビで宣伝しているように、世界のどこからでも国際宅配郵便(D-H-L)で薬を取り寄せるための2万シリングが私の手許にありました。

最初の日は、何を調べればよいのかの手掛かりもありませんでした。ライター症はコンボ氏の症状とは少し違っていました。次の日、私は「アメリカ医療ジャーナル」の12月号を見つけました。そこには以下のように書かれてありました。

「アメリカ医療ジャーナル」(American journal of Medicine

「現在知られている抗生物質がすべて効かない疱疹が性器に出て、重い皮膚病の症状を示す。病気には下痢、咳、大半のリンパ節の腫れが伴なう。多くの普通の病気と闘う体力が体にはないので、患者は痩せ衰えて、やがては死に至る。病気を引き起こすウィルスが中央アフリカのミドリザルを襲うウィルスと類似しているので、ミドリザル病と呼ばれている。サンフランシスコの男性の同性愛者が数人、その病気にかかっている。」

コンボ氏に見られる症状だと私は確信しました。あとは、臨床検査をして診断し、病因を更に調べ、コンボ氏の経歴を確認する必要がありました。私の考えと同じ意見の医者に会えたらと思い「犬の溜まり場」に酒を飲みに行きました。私はケニア中央病院の元同僚で、今は大学にいるネネ医師とムワニュンバ医師を見つけました。新しい性感染症が見つかり、その病気が正体不明のウィルスによって感染するのではないかという私の意見に2人は賛成してくれました。ケニア中央病院でも既に5人が死亡したそうです。1人はフィンランド人で、米国人とザイール人が2二ずつでした。その週に、3人のケニア人が同じ病気で入院していました。その病気は感染力が非常に強く、末期的な症状を見せていました。そのために、男女とも柵をした部屋に入れられて、他の患者と隔離されました。医者も看護師も患者に近寄れないため、ガーゼのカーテン越しに、痛み止めと睡眠剤とカオリンしか患者には出せませんでした。

ミドリザル病の不思議な話を聞くうちに、心臓の鼓動がだんだんと早くなりました。しかし、コンボ氏の謎を解くまでは眠れません。私は店を出て、車でケニア中央病院に行きました。エレベータに乗って患者が柵をした部屋に入れられていると教えられた第22病棟に行き、担当看護師に自分の名前を言いました。私は調べた結果と比較して患者を見てみたいと思いました。目的を説明すると、看護師は3人が眠っているガラス張りの部屋に案内してくれました。私たちを怪訝そうに見つめる哀れな3人を見ながら、私は言いようのない無力さを感じました。そのとき1人の老人の姿が目に入りました―紛れもなく私の患者コンボ氏でした。口から泡を吹き、背を屈め、ひどく苦しそうに繰り返し咳き込んでいました。渇いた咳は明らかに両肺を穿っていました。老人は私だと気づきませんでしたが、私は柵をした部屋を後にして歩きながら、ひどく後ろめたい感じになっていました。
「さっきご覧になった患者はコンボ元少佐で、ナイロビ廃棄物処理株式会社の清掃最高責任者です。昨日運び込まれましたが、もっても今日一日でしょう。」
と、担当看護師が言いました。何年も前に、肛門性交を強いた市の清掃業者のボスの不満を訴えるためにリバーロード診療所に来たルオ人女性のことを思い出して、私はずっと感じていた後ろめたい気持ちが薄らいでいくような気がしました。私は警察にその重罪を通報しようとしましたが、医師という立場上、届け出を思い留まったのを思い出しました。哀れなコンボ元少佐、神がその男の犠牲となった女性たちに代わって復讐したに違いないと、私は自分なりに理屈をつけました。

あれこれと悩みながら、私はアパートに戻りました。あの体の黒ずみ加減からすると、間違いなくコンボ元少佐は死にかけていました。

元少佐は治療に一番効く薬を買うように私に2万シリングをくれましたが、私はそのような薬は存在しないと言われただけした。感染を恐れてコンボ氏に直接その情報は伝えられませんでしたが、預かった金を返すことは可能でした。私は諦める前に別の医者の意見を聞いてみようと決めました。何か医療で困ったことがあると先ずはドクターGGに相談に行っていましたが、今回はあまりにも最新過ぎてドクターGGの医療知識では信用出来そうにはありませんでした。それでもいつもと同じようにンデルに車で行って私はドクターGGに会いました。

ドクターGGはその病気については、確かに知っていると言いました。「スリム病」と呼ばれ、ウガンダから来ていました。ツリアと呼ばれる場所のキツゥイ出身の霊媒師だけが治療法を知っていると言われました。他にも病気の進行を抑えるのに使われるウガンダのムバレの土もありました。私は霊媒師は信じていませんでしたが、取り敢えずはツリアに行って、窮地で助けとなるかも知れないウカンバニの名高い霊媒師の母親ウボオの息子ンゼキを探すことに決めました。キツゥイには金曜日に発つつもりでしたが、その日は水曜日でしたので、木曜日の午後は米国ではこの病気にどう対応しているのかを更に詳しく調べることが出来ました。最新情報を調べるにはケニア中央研究所(KEMRI)が1番でしたが、何故米国人の同性愛者がサルの病気にかかり、どうしてアフリカ人に感染したかは研究所でも分かりませんでした。KEMRIの研究室に行く途中で、私はもう1度第22病棟に寄りました。患者の数は10人に増えていましたが、前日の夕方に2人、フィンランド人とコンボ元少佐が死んでいました。
「ああなんてことだ……。」
と、私は空を見上げて嘆きました。その患者を死なせるわけにはいかなかったのに。私が薬を手に入れる前に、生涯の蓄えをはたいて死んでしまうとは!私はすっかり気が滅入ってしまいました。

ケニア中央研究所(KEMRI)

********************

その晩、ユーニス・マンイバがアパートに来て、私が非常に落ち込んでいるのを知りました。私はユーニスに伝染性の病気が発生したのでこの診療所も危なくなったと打ち明けました。患者の1人が一番効く薬を探すように2万シリングを置いて行ったが助ける前に死んでしまったとも言いました。私が親戚を探して金を返すべきだと思うかとユーニスに尋ねました。
「馬鹿正直ね、ジョゼフ。与えられたと思って他の人を助けるのにそのお金を使いなさいよ。」と、ユーニスは言いました。「親戚を探す必要はないし、探したら死んだ人の意志に反するわよ。それより、あなたの助けがいるの。夫も調子が良くないらしいの。ずっと下痢が続いてて収まらないわ。」
「病院に連れて行った方がいいな。」と、私は言いました。
「病院に行くのが怖いのよ。」と、ユーニスは答えました。
「どうして?」
「あなたが言った、コンボさんが死んだという病気のことだけど。」と、ユーニスが言いました。ユーニスが必死に涙をこらえているのが分かりました。
「血液検査が必要だと考える医者に夫が相談したら、どうも夫がその命取りの病気にかかった可能性があると遠回しに言われたらしいの。」
「助けが要るなら、検査を受けるべきだよ。」と、私は念を押して言いました。
「私もそう言ったんだけど、ひどく荒れてるの。『遺産が手に入るように早く死んでほしいんだろう。』、『お前にもお前の若い燕にも一銭も残さないぞ。』って。」と、ユーニスがしくしくと泣き始めました。
「ああ、ムングチ先生、わたしどうすればいいの?」
私はユーニスを何とかして慰めようとしました。前に言っていた肛門性交の問題は、その後何も言ってこないので何とかうまく処理出来たのだろうと考えていましたが、その時、もっと恐ろしい考えがふと頭をかすめました。もしユーニスの夫が肛門性交で感染すると言われるミドリザル病に実際にかかっていたとしたら、ああ、なんてことだ、この新しい伝染病で既にすごい事態になっている可能性もあるわけです。ユーニス・マインバの完璧な健康体がコンボ元少佐のように蝕まれていくのかと思うと体が震えました。
「いや、だめだ!」と、私は大声で叫びました。
「どうかしたの、ジョゼフ?」と、ユーニスが尋ねました。
「何でもないよ、マインバさん。」と、私は取り繕って答えました。どんな手段を使ってでも夫に徹底した検査を受けさせるように夫人に言いました。自分一人だけが危険なのではなく、家族全体が危険でした。私はキツゥイに行って、同じ問題を抱えるユーニスの夫や他の患者を救える可能性のある母親ウボオの息子ンゼキと話をしようと思いました。

私は金曜日の朝早くに車でキツゥイに行き、正午近くにツリアに着きました。霊媒師は非常に有名でしたので、場所は簡単に分かりました。広い敷地で、小屋が九棟ありました。小屋は真ん中にある一つを除いて、すべてが丸くて大きさが同じでした。真ん中にあるのが主な小屋で、手術室・薬局・治療処置室としてその老人が行なうすべての医療行為の役に立っていました。霊媒師に私の事情を説明し、ナイロビまで一緒に来てくれるように頼みました。老人の扱う非常に複雑な病気と薬を結びつけるハーブ、お守り、貝殻、動物の皮、鳥の羽、蛇の牙、頭蓋骨をすべて私に見せてくれました。しかし、老人はどうしてもナイロビには行きたがりませんでした。その人の助けが必要なら、今私がいるツリアの治療室まで患者が来なければなりませんでした。

執筆年

  2011年1月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 30

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(25)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の24回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

 第24章 1982年

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第24章 1982年

1982年7月に卒業したあと、私たちは医師住宅を明け渡す予定でした。町の中心部に近ければ、若い医者向けの二間のアパートなら月3000シリングが妥当なところでした。もっと安い部屋が見つかるイーストランドのブルブル地区に引っ越すつもりだと言うと、メアリー・ンデュクは本当に嫌そうな顔をしました。

ナイロビ市街

「ジョゼフ、あなたは事務員でも助手でも看護師でもないのよ。もう医者なんだから、住む場所を選ぶ時も医者らしくしないとね。私たちみたいな秘書でもイーストランドには関わりたくないって思ってるのが分からないの?」と、ンデュクは言いました。
「どうしろと言うんだい?ムサイガに住むような金は僕には無いよ。」と、私は言い返しました。
「ングモかナイロビウェストかンゴング通りかパークランズみたいな中のレベル辺りから始めたらいいわ。」
「じゃ、ケニア中央病院の近くで、20000か、3000シリングくらいの物件を見つけてくれよ。」と、こんなに熱心なんだからンデュクはきっと見つけてくるだろうと考えながら私は言いました。医師住宅よりもいいとは言わないまでも、8年間働いてきた優秀な性病専門医として同じくらいの住まいは必要でしたから、ある意味ではンデュクが言うのも当然でした。

2日後、ンデュクは、かなりいい話を持って来ました。ンデュクの3部屋の家に一緒に住み、家賃を半分私が払うという話です。それだと月に2000シリングになりました。私は1982年7月15日にンゴング通りのンデュクの部屋に移りました。私だけが使う部屋を一つもらい、その部屋に持ってきた荷物を置きました。台所、風呂、居間、貯蔵庫は共用で、特に決めたわけではありませんでしたが、二人はンデュクのベッドを使いました。食費とコンドームは私が払いました。食事は大抵ンデュクが作り、事実上、一つの家庭を築いたようでした。

7月31日、私はンデュクをウェストランドのゼブラホテルに連れて行き、12時までそこに居て、車で家に戻りました。

ケニア周辺地図

町じゅうにけたたましい叫び声が大きく響き、朝の4時頃にンデュクは私を起こしました。騒ぎは6時まで続き、ラジオから軍歌が流れ始めましたとき、何かがおかしいと思いました。6時半には、ラジオから軍が政府を掌握したという不運な声明が流れました。町中まで車で移動するのが危険だと思い知らされて、私たちはンゴング通りで動けなくなりました。私たちは一日じゅうラジオを付けて他の人と同じように部屋に閉じこめられていましたが、空軍の一部の不満分子による反乱を粉砕して政府が事態を完全に掌握しているので、市民は平静に行動し、略奪行為をしないようにという夕方6時のニュースを聞いて、ほっとしました。月曜日の朝、出かけるのが怖くなっていましたが、診療所に行くことにしました。独立記念高速道のハイレ・セラシエ交差点に着いたとき、事態はまだ正常ではないと知りました。治安隊に銃を突きつけられて戻るように言われ、私たちは引き返しました。事態が治まって安心して町の中心部に行けるようになったのは一週間あとでした。

市内じゅうで起きた略奪やレイプや商店の被害の報告は聞いていましたが、金曜日の朝に私が街で見たものの凄まじさは想像していませんでした。どの店も押し入られて、大量の商品が盗まれていました。段ボール箱、砕けたガラス、鉄板、打ち破られたドアなど、あらゆる種類のごみが通りじゅうに散乱していました。診療所は裏の窓ガラスが壊れただけで、何とか被害を受けなくて済んだようでした。しかし、ワナンチ薬局ではものが盗まれ、パテル外科は押し入られていました。私たちはいつも通りに診療所を再開しました。アイリーンは売春と女遊びを認めるのは難しいと私には言いましたが、最近は診療所での仕事がとても気に入っているようでした。私はアイリーンに、好んで売春婦になったり女遊びをする人の病気だけを治療しているわけではないと言いました。診療所に来る患者は、生活の手段を奪われて売春をせざるを得ない社会犠牲者です。女を買う男性も、田舎の妻から遠く離れて性に飢えてもナイロビの至る所で増えつつある様々な種類の宿屋で安くて手短なセックスで性欲を満たすしか方法がない犠牲者でした。

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性器全体に乾癬様皮疹が見られる明らかに症状の進んだ梅毒の男性患者の診察を私は終えました。ペニシリン・ベンザチンを二・4メガユニット処方し、隣りの部屋に行って注射を受け、薬をもらうように患者に言いました。そのあとすぐにその背の高い黒人患者が看護師の部室に入ったとき、私はアイリーンが叫び声を上げるのを聞きました。それは何とも奇妙な運命のいたずらでした。私が急いで部屋に入ったとき、アイリーンがナイフのように鋏を構えてそれ以上近づいたら刺してやると患者を脅していたからです。
「ムングチ先生、こいつは女を痛めつける獣よ。」と、アイリーンが叫びました。
「この人が何だって?」
「レオナルドの豚野郎よ!」
と、アイリーンは金切り声を上げました。その時、私は4年前にレオナルドという男に殴られたと打ち明けられたのを思い出しました。そうか、これがアイリーンを傷つけ、男性恐怖症にしてしまったあの183センチの大男なのかと思いました。心の中では怒りが煮えたぎっていましたが、特に医療に関係のある場合、復讐は神に任せるべきだとも分かっていました。
「頼むから、鋏を置いてくれないか。」と、私は出来るだけ落ち着いてアイリーンに頼みました。
「今回は奴も君を傷つけたりはしないから。」と私は言い、その日はもう仕事は出来ないだろうと思ってアイリーンの仕事を引き継ぎました。レオナルドは気が動転しているのか少し精神的な病があるのか、一言もしゃべりませんでした。ただ、自分の性器を指差して、食べ物に気づいた飢えた犬のように舌を巻いて何か呟きましたが、私には意味が分かりませんでした。私はそれぞれの尻に注射をしましたが、男は黙って従っていました。1週間後にまた来るように言いましたが、男は理解出来ないようでした。男は2度と現れませんでしたが、病気は治ったような気がしました。

私は出来るだけアイリーンを慰めましたが、レオナルドを見て、長い間心の奥に閉じ込めていた恐ろしい記憶がまた蘇ったと分かりました。私は心理療法の専門家にアイリーンのことを話そうと決め、何年も前の出来事についてアイリーンが気持ちを整理出来ればいいのにと祈りました。

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メアリ・ンデュクとの同棲は2ヶ月しか続きませんでした。年式の古い私のフォードエスコートをンデュクが嫌がったので、診療所に行くのにンデュクの車を2人で使うこともありました。一緒に住んでいても誰にも縛られない自分の生活があり、お互いに別々だと私はンデュクに言い聞かせました。ンデュクの私生活にも干渉するつもりはないとも強調しました。ンデュクは子供が欲しいと言い出しましたが、私ははっきりとまだ子供は欲しくないと言いました。お互いの理解の仕方は違いましたが、相変わらず二人は一緒の家に住み、同じベッドに寝ていました。メアリ・ンデュクは取り憑かれたように子供を作ろうとして、私を種馬にしようとしているのが分かりました。ある晩、ンデュクはもうコンドームには堪えられないと文句を言い、私よりも使いものになる男を見つけると脅してきました。私は2人の間に子供を作る気はないし、勝手に男を作ればいいと念を押しました。ンデュクは悪態をつき、モンバサの淫売漁り、金持ちおば様の燕と私を呼びました。マインバ夫人とのことは誰も知らないと思っていましたが、金持ちおば様という言葉が出て来たので、ンデュクは知っていると思いました。
「どういう意味だよ?」と、私は尋ねました。
「ナイスピープルランデヴーであなたが女と一緒にいるのを十回は見たわ。」と、ンデュクは食ってかかってきました。
「君はナイスピープルランデヴーで何をしてたんだい?」
「私にも金持ちのパトロンがいるってことね。」
「愛人はイアン・ブラウンだけだと思ってたけど。」
「ブラウンさんは愛人じゃないわ。私の愛人は陪席判事よ。」と、ンデュクは自慢そうに言いました。
「そいつの名前は何だい?」
「ご主人様と呼ばれているわ。」と、ンデュクは私を馬鹿にして言いました。私はそろそろ言い合いするのも止めにしないと、と思いました。

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言い合いをした3日後、私が家に帰ったとき、メアリ・ンデュクのプジョーの横にベンツが停めてあるのに気が付きました。ミスター「ご主人様」は本当で、ンデュクの部屋に来ていると考え、私のフォードエスコートを青いベンツ250の隣に停めました。

2人の警備員が戸の所に立っていて、中に入ろうとする私を止めました。私は逆らって、自分の家に入るのを邪魔されるいわれはないと言いました。私が不法に持ち主の部屋を占拠しているので中に入れないようにと持ち主から命令を受けていると二人は説明しました。
「どの持ち主だって?」と、私はひどい剣幕で尋ねました。
「白人です、その人、中にいますよ。」と、警備員の一人が答えました。白人という言葉を聞いたとたん私はかっとなり、それ以上話を聞かずに大きな警備員を押しやって戸を開け、居間に入って行きました。
「ンデュク、どこにいるんだい?」と、私は呼んでみましたが返事はありませんでした。2階のンデュクの寝室から声がしましたが、敢えてそこに踏み込まない方がいいと感じました。代わりに、2人が言い争う声をじっと聞きました。
「嫉妬深いアフリカ男が振る舞ってるみたいね。」と、ンデュクが明らかに泣きながら突っかかっていました。
「だが、その男を私の家に入れるなと言っておいただろう?」と、男が英語で言い返しました。非常にもの静かで、落ち着いている感じでした。
「あの人は家賃を半分払ってくれてるわ。だから不法侵入者とは違うから、もし出て行ってもらうなら、退去通知を出さないといけないわね。」
メアリ・ンデュクは賃貸契約法をしっかりと理解していたようです。

それ以上は我慢が出来ませんでした。私は物置き場から手斧を探し出し、敵と向き合うために階段を昇りました。イアン・ブラウンに会ってはいませんでしたが、メアリ・ンデュクの話と持っていた写真から、緑色の目を見たとき、この男に違いないと感じました。背が高く痩せ型で、極端に長い鼻をしていました。ハンサムとは言えませんが、身に付けている金の時計やネックレス、濃い青色のスーツと服に合った靴から、金持ちであるのは確かでした。

「二人とも、今すぐ出て行ってもらえませんかね。」と、私はイアン・ブラウンの顔を睨みつけながら怒りを込めて言いました。
「ムングチ先生、ここは私の家でね。」と、イアン・ブラウンは言い返しましたが、声が少し震えているのが分かりました。
「お前の家かどうかは関係ない。殺される前に出て行けよ。」

持っていた手斧でブラウンに切りつけることも出来たでしょうが、私は普段は自分が紳士だと信じていました。男に対する嫌悪感と男がンデュクと居たことに金持ちであることに対する嫉妬が入り混じって私は息が詰まりそうでした。怒りに震えながら立っているような感じでした。「お前を殺す」という言葉を聞いたとたんに鞭で打たれたように体をびくっとさせて慌てて寝室から飛び出し、ンデュクも追いかけて行きましたから、ブラウンは危険を感じ取ったのでしょう。その事件のあと、ンデュクとの同棲は続けられませんでしたが、運良くミリマニの高級住宅街で同じくらい居心地のいい部屋が見つかりました。家賃は1000シリング増えましたが、ンデュクとイアン・ブラウンのような男から自由になるために払うのなら極めて適切な価格でした。

執筆年

  2010年12月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.29

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(24)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の23回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

 第23章 一匹狼の医者

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

    (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第23章 一匹狼の医者

ンデュクの見方には拒否反応を感じました。薬の費用と家賃に水道代と電気代、それと私自身の給料を除けば、診療所を手放す必要もありませんでした。儲けるのは実業家で、私は実業家ではありませんし、医者で、商品を売る人間ではありません。もしこのリバーロード診療所の所有者が違ったように考えていたとしても、それはその人の問題で、減刑でもない限り、その人にはカミティ刑務所での服役があと2年もありました。政府は医者が二重の業務に就いてはいけないと決めましたので、自分たちの診療所で働くか政府の病院で働くかしかありませんでした。ケニア中央病院で仕事をしながら個人の診療所にもこだわりを見せる私のような場合は、少しうるさく言われました。私自身はリバーロード診療所で2年間働くことを選びました。患者には特に性病の治療をより安く受ける資格があることと、50シリングや100シリングや300シリングもの現在の治療費は非人道的で、ソーホー地区での売春や、ニューヨークハーレムのストリップ劇場やポルノ映画や雑誌が性を売りものにして儲けているという点では殆んど変わりはないということを証明したいと思いました。

リバーロード診療所が非常に有名になり、気が付くと私は時には10時間から12時間も働くことがありました。もっと高い治療費を取る医者たちの意に反して、20シリングという安い治療費にも関わらず、診療所が資金不足になることはありませんでした。毎日1000シリングかそれ以上の収入がありました。労働者、店主、バーのホステス、新聞売り、靴磨きの少年、あらゆる職業の男女など、医療の手助けを必要としてる人たちを診療所が呼び込みました。

私はアイリーンに週末と平日の仕事が終わってからと祝日に手伝ってくれるように頼みました。私が診察をしたり処方箋を書いたりしているあいだ、アイリーンは注射をしたり、薬を出したりして大いに助けてくれました。私の信念は、こういう病気に関して何も恥じることはないというのを患者に気付いて欲しいということでした。私がどれだけ淋病と梅毒、軟性下疳とトリコモナス病を撲滅する役に立っているかは分かりませんでしたが、もしケニアじゅうの医者と病院がこの方針を取れば、脅威を抑えられるのにと心から思いました。

ケニア周辺地図

ある日、シティタイムズの記者が電話をかけてきて、インタビューを申し込んで来ました。個人の診療所の宣伝はケニア医師会の規則に触れると説明したのですが、その記者は診療所の宣伝はせず、その点は記事の中でもはっきりさせると約束しました。性感染症には思い遣りが必要で馬鹿にしてはいけないという私の主張を記者は繰り返すだけでした。記者が訪ねて来た四日後に、マインバ夫人が診療所にやって来ました。私をナイロビ医療界のドンキ・ホーテと呼んでいる新聞記事を私に見せました。記事は私の見方をうまく伝えてはいましたが、ナイロビの性感染症の患者をすべて一人で処置し切れるのか、ましてや国中となると、という疑問も投げかけていました。また、記者が記事の中で指摘していたとおり、診療所のドアに書かれた「性病専門医」のせいで逃げ帰る性感染症の患者がいたのも事実です。性病専門医の診療所に入っていくのを人に見られるのが怖くて帰った人もいたわけです!その他に、特に勤務医がやっている個人の開業医の医療費が高くなっていると記者は非難していました。

シティタイムズの記事の1週間後、ボイスオブケニアの記者から、テレビに出て診療所と私の仕事について視聴者が知りたがっている質問に少し答えて欲しいと頼まれました。個人の診療所なのでテレビに出ることは出来ないと説明しましたが、記者は私の説明を無視して、リバーロード診療所の所有者ではなく、ジョゼフ・ムングチ医師として出演してもらうつもりですと説明しました。初めてのテレビ出演でした。ヤードスティックとシチズンとシティタイムズのジャーナリストたちがずらりと並んでいました。

司会者が番組の主旨を述べ、ジャーナリストが各自の自己紹介をしたあと、口火を切ったヤードスティックの記者の最初の質問で活発な質疑応答が始まりました。

「ムングチ先生、薬局も医療機器メーカーも葬儀屋でさえも儲けていますが、医者なのにどうしてあなたは稼ごうとされないんですか?」
「リビングストン博士もシュバイツァー博士もヒポクラテス自身も病人を診て儲けようとは思いませんでした。一旦儲けようと考え始めれば、処方箋も時間も医療技術もおろそかにして、患者を手術半ばで投げ出してしまう可能性もあります。医療行為では利益優先の考え方が一番嫌われると医療人なら誰でも知っていますよ。」
「あなたの言われた人たちは、貨幣経済以前の時代、経済的な利益がなくても社会奉仕をする余裕があった時代に生きていました。今の時代なら、リビングストンやシュバイツァーのような人たちは飢え死にしています。」と、シチズンの記者が言いました。
「私は飢え死にしていませんよ。恋人はジャガーに乗れと言いますが、それはまた別の話ですよ。」と、私は素っ気なく答えました。みんなが笑いました。
「ムングチ先生、他の医者はあなたの2倍も3倍も、中には五倍も性感染症の患者に治療費を請求していますから一匹狼の医者だと言われていますね?あなたはどうやりくりをしているんですか?」
「たくさんの患者で、1日に50人も診ています。経済学者が言う『規模の経済利益』をリバーロード診療所はうまくあげているんだと思いますね。」と、私は自分の弱点を誰かに教えているとは知りませんでした。
「では、ムングチ先生、あなたは規模の経済を通して儲けているんですか?」と、シティタイムズの記者は「儲け」を強調しながら聞きました。
「儲けてはいませんよ!性感染症の患者は、自分で支払って受ける治療で規模の経済の恩恵を受けることが可能なんですよ!」と、私は腹を立てながら言いました。「儲け」を非難しながら診療所で10時間も働いてこの国の底辺の人たちに尽しているのですから、私は認められて当然だと最初からずっと信じていましたが、私が拒んで来た動機を持ち出す記者がいました。私はひどく侮辱されたと感じました。

インタビューはようやく終わりました。司会者は特に感染症との闘いに勝つには私一人では限界があるのではないかと心配してくれていたようですが、私のインタビューがよかったと感謝してくれました。司会者の言ったとおりでした。そのインタビューの後、何百人もの患者が診療所に押し寄せ、閉めていた7時を夜中に変更しましたが、それでも対応出来ませんでした。私は憔悴し切ってしまい、自分の仕事の将来に疑問を感じ始めました。私が言い出した低料金のせいで、大きな病院しかさばけないような圧倒的な数の患者で診療所は溢れ、息も絶え絶えになりました。噛み砕ける以上のものを私が口の中に入れてしまったのは確かです。ある日、マインバ夫人が診療所にやって来て、お尻のできものが疼くように痒いと言いました。診察してみると、膣トリコモナス症にかかっていました。夫人は、夫と私以外には誰ともセックスはしていないと言いました。私も夫人とンデュクだけだから極めて清廉潔白だと言いました。
「夫は私と寝ることも忘れてしまってるわ。」
「どういう意味ですか?」
「だから、私とは寝ないのよ。」と、ユーニスは言いました。
「旦那さんと僕の2人だと言ったと思うけど。」
「あなたは、ちゃんとしてくれるわ。夫は無理やり別の所でって言うのよ。」
「なんだって。」
「だから私、ずっと下痢がとまらないわ。」
「断わるべきだよ。」
「断われないわ、あのひと、家から私を追い出すもの。最近の夫、すっかり獣で、ほんとに恐ろしいわ。」
刑法には自然でない行為と呼ばれる禁止行為も含まれますが、禁止されている行為の一つが肛門性交でした。バジョン家では生理中に夫にその部分を使わせていると聞いたことがありましたし、以前に読んだ米国人の性行動に関する多くの文献によると、同意した男女の間ではその種の性行動は受け入れられているようでした。特に配偶者が関係している場合、肛門性交に関する同意した成人の法律的な立場は少し複雑で、警察に通報してマインバ夫人を救える可能性はありませんでした。職業上、そういう夫婦間の問題を警察に通報するのも医者としては出来ませんでした。私はマインバ夫人に、下痢になるだけでなく、直腸炎のような他の病気になる可能性もあるので、どんな手段を使っても夫のやり方には従わないように言いました。夫の気持ちが全く涸れてしまったと聞いて、私は夫人が気の毒になりました。2人に更に致命的な病気が襲いかかる可能性があることも知らないで、マインバ氏は妻に肛門性交を強いて完全に満足していました。

ナイロビ市街

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の22回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

 第22章 仮論文

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第22章 仮論文

ついに、これですべて終わりました(と、私は思いました)。修士論文はタイプして製本され、一部を公衆衛生学科の科長オルオッチ教授に提出し、私の研究指導教官のジム・バイロン医師の所にも一部置いてもらいました。ケニア中央病院の相談の業務は非常勤でいいということでしたので、私はこれでリバーロード診療所を開業出来ました。

ナイジェリア地図

論文を提出してから2週間後、私は論文の口答試問のために論文審査会の前に呼び出されました。論文は、道徳的に批判したり隠したりせずに、メディアを最大限に使って性感染を受け容れれば、性感染症との闘いでかなりの成果が得られるだろうというものでした。

審査委員長はガーナ人のクワメ・アフリファ医師でした。その隣にはナイジェリアのンスッカ大学のアジズ・アシカ氏、オックスフォード大学のポール・ウッド医師ローデシアに移住し、今はソールズベリー大学で教員をしているケニア出身のジョージ・ムバルト教授がいました。

ナイジェリアイバダン大学

「ムングチ先生。あなたは、移動範囲が更に拡大し、性に対してますます寛容になり、経口避妊薬がより広範囲に使われ、性の乱れがますます激しくなっているために性感染症が何年も増え続けていると認めています。それは性の自由を認めるということではないですよね?もしそうだとしたら、どういう形の性の自由を考えているんでしょうか?」と、オルオッチ教授が口火を切りました。
「ムングチ先生。」と、アジズ・アシカが始めました。
「あなたは、売春が性感染症の主な原因であるという見方を否定し、伝統的に売春をしないマサイのような社会と、攻撃を避け、雄の食べものを集めて性的に自分を売り込む雌のチンパンジーやヒヒと、性交渉はしないが客に手で対応する売春婦を引用していますが、前例は二つとも性感染症の拡大の影響を受けやすく、最後の例(売春婦)はその人たちの行為自体からの性感染の可能性は殆んど無いという見方を裏付けるために引用したんですね?」
「そうですが。」と私は認めましたが、質問の意図がはっきりとは掴めませんでした。
「しかし、売春の研究者は、性の取引で経済的な問題を解決しようとする夫を持たない女性、奴隷や捕虜、離婚した人や未亡人、社会から落ちこぼれた人や結婚出来ない人たちを扱っています。」と、アシカ氏は続けました。
「おっしゃるとおりです。その偏見のために性感染の拡大が増幅され、女性が物とサービス、特に医薬品や医療サービスを受けにくくなっていると私は述べました。私はロシアとフィンランドとわが国の伝統な社会と、法で認められた売春と医療ケア対策特にコンドーム使用の最近の流れについて調査を行ないました。一人当たりの性的な関係の数より、医療ケアが充分でないために性感染症にかかる割合が増えているという証拠が増えています。」
「ムングチ先生。」と、ポール・ウッドが質問しました。
「国民に対してどれくらいが適切な医療と言えるんでしょうか?どの国にも提供出来る限度というものがあるからこそ、医療の優先順位があると思うんですがね。」
「まさにそうです。道徳上、性病の責任がどこか別のところにあると考えるために、私たちは性感染症疫学に対してあまりにも無関心過ぎると思います。私が申し上げているのは、淋病や梅毒や軟性下疳は一般の風邪の症状と同じように見るべきだということです。」
「ムングチ先生、売春は性感染症の脅威を煽る悪として売春を糾弾する教会は間違っていると、君はどうして思うんですかね?」と、ムバルト教授が聞きました。
「教会が売春の必然性を認めないから間違っていると思います。そもそも性感染症という病名は女神ウェヌスから来ています。売春宿でも他の所でも、みんなウェヌスの規則をしっかりと守っていますよ。」
私はおかしいとは思いませんでしたが、審査官は全員、私の発言に吹き出して大笑いました。クワメ・アフリファ教授が、私の提案を支持する国もあるが、病気はまだ一掃されていないと言って口頭試問を締めくくりました。病気を一掃するのを目指すのではなく、病気を許容出来る水準に抑えることを目指すのです、と私は返事しました。

ナイジェリア地図

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4ヵ月後にコースが修了して、性病学の医学修士試験の合格通知といっしょに、私は以下の書状を受け取りました。

「登録医師 ナイロビ大学」

用件:修士論文 執筆ムングチ医師

医学修士(性病学) 候補者:証明番号8050095 1980年5月

ムングチ氏の修士論文「ケニアの道徳と淋病とトレポネーマ症の疫学に道徳が与える影響」を受理し、以下のように報告したいと思います。

66ページの論文(引用文献と付録は除く)は上手く書かれており、著者に優れた英語力があるのを立証しています。不自然な英語は僅かに数箇所だけで、綴りのミスとタイプのミスがまったく無いのは特筆すべきです。ケニアの一般的な経済から、性感染症の治療の実現性という特殊な状況に進む構成は極めて論理的です。しかしながら、流れは必ずしも円滑ではなく、セクションや章の中には少し冗長的な部分も見られます。

現在多くの性感染症の診断と治療の特徴となっている道徳的か経済的な制約を受けずにすべてのケニア人が無料で医学的な治療を受けられるようにすることを中心に書かれた第一章の最後の部分に本研究の目的が述べられています。人が地方から都市へ移住したり、仕事を失ったり、字が読めなかったり、特に女性が経済的に困窮したり、国内外の観光産業が盛んになったりする中で、今日ケニアでは貧しさが原因で売春をする率が増えているという見方で論が組み立てられています。

著者が多くの先進国が無料の医療提供を実施し道徳的な制約は社会の本質的な部分で、非常に根が深いということを認めていないのは残念です。そういった問題は、教会やモスクやその他の宗教的な集まりに任せるのが一番いいと思われます。

しかしながら、論の質は非常に高く、裏づけの資料も説得力があると感じます。道徳と哲学を扱う医療人という難しい性質を考えれば、不十分だった点は完全な論文にするにはもとと充分な時間が必要だったということで補えると思います。従って、ぎりぎりではありますが、修士論文に合格点を出したいと考えます。敬具」

イバダン市街

試験に合格して医学修士号が出ましたが、審査官の批評には腹が立ちました。私は小中高とイバダンの学生時代でも、ぎりぎりの及第点は取ったことはありませんでした。成績はいつもいい方でしたので、性の問題を隠し立てしないという私の提案に対しての社会的な偏見がなければ、もっといい点が取れていたのにと自分に言い聞かせました。私は自分の論の正しさを証明するためにリバーロード診療所を使おうと心に決めました。ワナンチ薬局が2年間使っていた建物を診療所として再開させ、患者に診療所の専門を知らせる白地に黒の太字で書いた看板を掛けました。

ケニア地図

リバーロード診療所

ジョゼフ・ムングチ医師、医学士・化学士(イバダン大学)、

医学修士(ナイロビ大学)性病科医

専門の療所かケニア中央病院かを紹介する複雑な患者以外、性病患者の治療代は一律20シリングという最低料金に設定しました。私は世界保健機構(WHO)とナイロビ市議会(NCC)に手紙を書いて、ナイロビで非常に低い料金で性病の優れた治療を受けられるように、道徳的、金銭的援助をしてくれるように依頼しました。一月後、WHOから私の働きかけを知り幸運は祈るものの、残念ながら当面は性感染症用の資金がないので残念ですという返事を受け取りました。市議会は返事も寄こしませんでした。しかしながら1月後に、ケニア医療協会(KMA)の役員数名の訪問を受け、その人たちは個人医療の宣伝をする説明を私に強く求めました。私は、人々はそのような特別な診療所があることと診療所が営利目的ではないことを知るべきだと説明しました。役員たちは私に賛成せず、看板をもっと控えめな文字で書いて掛けなおすように言いました。私の計画について話をしたとき、私がどういう経緯で懸命になって無料で治療を提供しようとしているのかが理解出来ずにンデュクは笑いました。

「ジョゼフ、あなた殉死でもするつもり?ケニアは国が個人の開業を認めないタンザニアとは違うのよ。この国で出来るだけたくさんお金を稼ぐ必要があるし、普通は、あなたの考えてることを認めないわ。ナイロビの医者や弁護士をご覧なさいよ。みんなベンツやジャガーやボルボを乗り回してるわ。それなのにあなたは……。」と、ンデュクは狂ったように甲高い声で言いました。
「頼むよ、ンデュク、もう何度も聞いたよ。」と、私はンデュクを制するように言いました。
「あなたの友だちはみんな今、キタスルやリビングストンやキレレシュワに住んでるわ。」と、ンデュクが続けました。
「そうだけど、これは話が別だろう。もっと公平なやり方で医療に取り組んで、ケニアの医療界の役に立たないといけないんだよ。」
「誰の役に立ちたいって?去年ストライキをやったときのことを忘れたの?政府は個人の開業を認めたんじゃなかったの?」
「(確かに)認めたけど、搾取の問題は別だよ。」
「ドクタームングチ、あなたはいかれてるわ、あなたには出世は無理ね!」と、ンデュクは怒るように言ってから激しく音を立ててドアを閉め、歩いて部屋から出て行きました。ンデュクを気の毒に思いました。倫理に反する態度が求められるときでも、ンデュクには金儲けだけでしたから。

ナイロビ市街

執筆年

  2010年10月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 27

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