2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の12回目で、エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1

今回から何回かは2000年のダーバン会議で大旋風を巻き起こした元南アフリカの大統領タボ・ムベキとムベキが提起した問題について書きたいと思います。今回は、ムベキの育った時代の南アフリカの社会状況についてです。
ムベキほど、一個人でアフリカのエイズ問題で論争を巻き起こした人物もいないでしょう。前回の「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)で一部を紹介しましたが、政府のエイズ対策に失望していた国内の医療従事者や活動家の願いや、抗HIV製剤を売り込もうとする欧米の製薬会社の圧力も充分に承知したうえで、「すべてを一つのウィルスのせいには出来ず、ありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要がある」というそれまでの主張を繰り返しました。「会場は水を打ったように静まりかえりました。」(20066年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)ムベキの演説を聞いて「数百人が会場から出て行きました。」(「ワシントンホスト」紙、2000年7月10日)つまり、大半の人たちが思い描いていた期待にムベキの演説が応えられなかったということでしょう。

ダーバン会議でのムベキの発言に、欧米のメディアは過剰に反応しました。ほとんどが極めて否定的な報道でしたが、アフリカ内の反応は決して否定的なものではありませんでした。極めて対照的な反応だったわけです。当時のメディアの反応については別の機会に詳しく触れたいと思いますが、今回は欧米のメディアに叩かれたムベキについてです。

ムベキが大半の人たちの期待に反して、敢えてなぜそれまでの主張を繰り返したのか。その真意を知るためには、ムベキがどのような人物なのか、ムベキの生きた南アフリカはどんな社会状況だったのかを知る必要があるでしょう。先ずは、ムベキの育った時代と社会状況を見てゆきたいと思います。

ムベキは1942年に東ケープ州で生まれています。父親はゴバン・ムベキ。1964年のリボニアの裁判ではネルソン・マンデラ他7名と共に終身刑を言い渡されたあのゴバン・ムベキで、1963年にフォートヘア大学で教員免許といっしょに政治と心理学の学位を取得したインテリです。

ゴバン・ムベキ(『差別と叛逆の原点』より)

フォートヘアは1916年創立の伝統校で、ソブクウェやマンデラをはじめ、詩人のデニス・ブルータスや、1980年の独立以来今だに大統領職にしがみついているジンバブエのロバート・ムガベなど、アフリカ人の超エリートを輩出したアフリカ人向けの大学です。南アフリカの歴史の本としては古典の部類に入る野間寬二郎さんの『差別と叛逆の原点』(理論社、1969年)には、リボニアの裁判での様子が、「被告のなかの最年長者で、もっとも学識があるといわれるゴバン・ムベキは、終始落着きを失わず、しずかに、ときには聖職者を思わせる口ぶりで、とくにリザーブでのアフリカ人の貧困と苦悩について陳述した。」と紹介されています。あとで紹介するアレックス・ラ・グーマなどと同じく、ムベキもそんな父親の影響を受けて早くから解放闘争にかかわるようになったわけです。

『差別と叛逆の原点』

白人が殺し合いをした二つの世界大戦によって世界の秩序が大きく変わりました。それまで絶対的だった白人の力が低下し、それまで押さえつけられていた人たちが権利を主張し始めました。欧米で教育を受けたアフリカ人が祖国に戻り、抵抗運動を先導しました。変革の嵐と言われた1950年代後半から1960年代にかけてのアフリカ諸国の独立も、1955年にインドネシアで開かれたバンドン会議も、米国の公民権運動もその延長線上にあります。南アフリカでも1955年に国民会議が開かれました。

南アフリカは元々ヨーロッパ入植者が侵略して創り上げた国です。最初にオランダ人が、次にイギリス人が来てアフリカ人から土地を奪い、アフリカ人を安価な労働者に仕立てあげました。当初国自体は、軍事的に見てさほど重要性を持ちませんでしたが、19世紀後半に金とダイヤモンドが発見されてから、事態が急変します。オランダ系の入植者とイギリス系の入植者は壮絶な覇権争いを繰り広げますが決着はつかず、結局1910年に南アフリカ連邦を創設し、アフリカ人を搾取する点に妥協点を見い出しました。イギリス系の統一党とオランダ系の国民党の連合政権でした。経済的に優位だった統一党が与党で、南アフリカ連邦の根幹は、アフリカ人から奪って法制化した土地と、土地を奪って無産者に仕立てたアフリカ人の安価な労働力でした。アフリカ人は短期契約の労働者(今でいう昇級のない一番安上がりなパート従業員です)として、鉱山で鉱夫として、大農場で小作農として、工場ではパート職員として、白人家庭ではメイドやボーイという召使いとしてこき使われます。

ヨーロッパ入植者の侵略にアフリカ人が抵抗しなかったわけではありません。槍と楯で果敢に立ち向かっていますが、ヨーロッパ人入植者の銃と金の力は圧倒的でした。1912年には今の与党アフリカ民族会議(ANC)の前身南アフリカ原住民民族会議を結成して土地政策の制定を阻止しようとしていますが、圧倒的な力の前になす術もありませんでした。

事態が動き出したのは第二次大戦後です。連合国側にいた南アフリカは、二つの大戦を経て、食料や工業製品を輸出する一大工業国になっていました。当然、アフリカ人労働者の需要も増していたわけです。ここで若いアフリカ人が動き出します。1943年、ネルソン・マンデラ、オリバー・タンボなどがANC青年同盟を結成しました。その中にムベキの父親もいたわけです。若い人たちはそれまでの世代のやり方に飽きたらず、充分に戦略を練り、労働者を組織して大規模なデモやストライキを精力的に展開しました。ゴバン・ムベキは、地元東ケープ州トランスカイの農民を組織し、アパルトヘイト政府がでっちあげたバンツースタン政策に強硬に反対しました。(トランスカイの反乱として知られています。)1956年から1960年の農村社会での政府との対決を主導し、のちに出版された『南アフリカ:農民の革命』(1964)に、農民やトランスカイの実態を書き残しています。

『南アフリカ:農民の革命』(South Africa: The Peasants’ Revolt

 

ストライキによって、食料や鉱物や工業製品などの生産に支障が出るようになり、社会は騒然としてきました。そんな社会情勢のなかで、1948年に総選挙が行なわれます。総選挙と言っても人口のわずか15%足らずの白人だけの選挙です。勢いに乗るアフリカ人労働者をもはや押さえきれなくなった与党統一党に変わって政権を取ったのは、オランダ系アフリカーナーの国民党です。人種差別をスローガンに掲げた国民党は、白人の六十%を占める貧しい農民の票を獲得して、過半数の議席を取りました。大半のアフリカ人の給料を据え置き、少数の貧しいオランダ系農民を優遇する戦略が見事に功を奏したわけです。

次回も続きを書きたいと思います。

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執筆年

2010年3月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 20

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『ナイスピープル』を理解するために―(12)エイズと南アフリカ―タボ・ムベキ(1)育った時代と社会状況1

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の11回目で、エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

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エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議

 2000年7月、南アフリカのダーバンで国際エイズ会議が開かれました。開発途上国では初めての会議でもあり、世界中の人々が注目しました。国連合同エイズ計画のピーター・ピオット事務局長は「それまで国際エイズ会議が発展途上国で開かれたこととはありませんでした。私たちは是非ともアフリカで開催したいと思っていました。難しい問題が山積みでしたが、歴史の残る会議となりました。」と振り返っています。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

ピーター・ピオット

前回の「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)でも書きましたが、南アフリカ政府と米国政府や欧米の製薬会社との<コンパルソリーライセンス法>をめぐる論争は南アフリカのエイズの実態が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたるかどうかが争点でしたから、ダーバンでの会議は欧米の医者や科学者には、南アフリカのエイズの実態を自分の目で確かめる絶好の機会でもありました。

会議に参加したマーティン・マコーウィッツ医師(米国アーロン・ダイヤモンド・エイズ研究所)は「2000年のダーバン会議は私の人生を大きく変えました。私だけでなく、多くの参加者にとってそうだったと思います。初めてアフリカへ行き、現地の様子をこの目で確認しました。実に悲惨な状況でした。それまでも報告書を読んだり、話を聞いたりはしていましたが、実際目にすると背筋が寒くなりました。」と語り、アンソニー・S・ファウチ博士(米国立衛生研究所)は「ベッドからベッドへと見て回りました。でも私たちが患者にしてやれることは何もありませんでした。こんなことをいつまでも続けていてはいけないと強く思いました。人間としてこんな酷い現実から目を背けることは出来ません。」と感想を述べたあと「自分は何をすべきなのだろうと深く考えました。そして、南アフリカの活動家の力強さを見て私は心を決めました。どんなやり方でもいいから、発展途上国の最前線に薬や治療を届ける、それこそが自分のすべきことだと確信しました。」と締めくくっています。(「エイズの時代(3)」)

ムベキや南アフリカ政府のエイズ対策に失望していた国内の医療従事者や活動家には、会議は事態を打開してくれる一縷の望みで、世界が注目すればムベキも別の反応を示すだろうと考えていました。医者は母子感染を防ぐためのAZTも承認されず、カクテル療法も公的機関では禁止されて、毎日無力感を味わいながら診療に当たっていましたから。

抗HIV製剤

マンデラの後を継いだのは長年副大統領を務めたタボ・ムベキで、エイズへの理解と支援の象徴レッド・リボンをつけて現われました。クワズール・ナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「ムベキはやるべき仕事は必ず実行するという公約を掲げて大統領に就任しました。私はその言葉に大いに期待しました。」と当時を振り返っています。

AZTは大統領に就任する半年前に、毒性が強いからと公的機関では既に禁止されていました。AZTで母子感染を防ぐことを発見したグレンダ・グレイ医師(ソウェトのパラグワナス病院)は「政府の役人は大統領の言うことを何でも忠実に守る取り巻きのような人ばかりでした。異論を唱えるような人はいません。だから赤ちゃんを救うために妊婦に予防接種を施すことも認めませんでした。」と語っています。(「エイズの時代(3)」)

カクテル療法も公的機関では禁止されました。活動家は政府のエイズ対策に抗議して大規模なデモを行ないました。ザッキー・アハマド氏は「政府が治療費を負担するよう私たちは要求しました。それは私たちにとって死活問題なのです。すべてのエイズ患者にとって生きるか死ぬかの問題でした。」と政府を批判しました。(「エイズの時代(3)」)

エイズ問題を含めアフリカの問題はアフリカで解決するというのがムベキの考え方でした。2000年当初にはエイズ問題に相当関心を深め、エイズの原因が単にウィルスだけではないと感じ始め、貧困などの様々な要素の方がもっと重要であると信じるようになっていました。そして、国の内外から専門家を招待して、アフリカにおけるエイズの流行についての議論を要請しました。ダーバン会議の一週間前の第二回会議で「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」という宣言が発表されましたが、欧米のメディアの反応は極めて批判的で、ムベキは厳しい批判を浴びました。

「エイズの時代(3)」の中でも、米保健福祉省長官(1993~2001)のドナ・シャレーラ氏の「ムベキはエイズを否定すると言うよりむしろこれを陰謀と捉えていたと思います。アフリカ人特有の考え方ですね。当時ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しましたが、形式的な返事が返って来ただけでした。こちらの話に礼儀正しく耳を傾けてからこう言ったんです。『やるべきことは分かっています。どうもありがとう。』」という否定的な見解が紹介されています。(ただ、コンパルソリーライセンス法をめぐるムベキとゴアの経緯を書いたばかりですので、圧力をかけた当事者と「いっしょにエイズ問題に取り組むように説得しました」と言われても、傲慢さしか伝わっては来ませんが。)

ムベキが内外の厳しい批判を受けながら、ダーバン会議が開かれたわけです。ムベキはそれまでの主張を次のように繰り返しました。

私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。従って、私は充分に医学的な教育も受けてもいませんので、この問題に答えを出せる準備が整ってはいませんが、特にHIVとAIDSについて他の人からも協力を仰ぎながら出さないといけない一つの答えがみつかるように、その問題に答えを出す作業を開始しました。私がずっと考えて来た疑問の一つは、安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来るのでしょうかということです。

タボ・ムベキ

次回は、ムベキとムベキが伝えようとした真意について書きたいと思います。

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執筆年

  2010年2月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 19

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(11)エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の10回目で、エイズ治療薬と南アフリカ(2)南アフリカ政府とゴアです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

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エイズ治療薬と南アフリカ(2)南アフリカ政府とゴア

前回の「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)紹介した南アフリカ政府と米国副大統領ゴアとのエイズ治療薬をめぐる論争は、「先進国」と製薬会社との関係を鮮明にあぶり出しました。手の届かない抗HIV製剤を何とか安価に手に入れたいと願う南アフリカと、エイズをも利潤の対象にして稼ごうとする「先進国」の製薬会社。それはまさに、第二次世界大戦後に巧妙に「先進国」が再構築した多国籍企業による搾取構造そのものでした。

製薬会社(「エイズの時代」)

エイズ治療元年と言われる1996年以降、エイズは不治の病ではなくなりましたが、カクテル療法に使われる抗HIV製剤は高すぎて、南アフリカの大半の人の手には届きません。欧米諸国や日本が搾取体制を維持するために設立した世界貿易機関が貿易関連知的財産権協定で、開発者の利益を守るために特許権を設定しているからです。南アフリカ政府は薬を安く手に入れるために、1997年、協定が「国家的な危機や特に緊急な場合」に認めているコンパルソリー・ライセンスを使えるようにするための法律を国会に提案してその法律を成立させました。そこにゴアが介入したのです。1999年、当時のエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」には当たらず、コンパルソリー・ライセンス法は特許権を侵害すると主張しました。そんなゴアを英国の科学誌「ネイチャー」(1999年7月1日)は次のように鋭く批判しました。

抗HIV製剤

熱き民主党の大統領候補者オル・ゴアは、エイズ問題に関してそれなりの信念を持ってやってきていましたが、ある緊急のエイズ問題で、製薬会社の言いなりの冷たいおべっか使いという汚名を着せられて、自らを弁護する窮地に立たされています。

この春に行なわれた出産前の臨床調査では、性的に活発な年齢層の22%がHIVに感染しており、2010年までにエイズによって平均寿命が40歳を下回ると予想されています。発症と死の時期を遅らせることが可能になったカクテル療法はごく少数の恵まれた人以外、南アフリカでは誰の手にも届きません。

この事態に直面して、1997年、政府はある法律を通しました。同法の下では、権利の保有者にある一定の特許料を払うだけで国内の製薬会社が特許料を全額は支払わずともより安価な製剤を製造することが出来るという権利、いわゆるコンパルソリー・ライセンスを厚生大臣が保証出来るというものでした。・・・

欧米の製薬会社はそれを違反だとして同法の施行を延期させるように南アフリカを提訴し、ゴアと通商代表部は・・・その法律を改正するか破棄するように求めました。

公平に見て、アメリカの取り組みを記述するその強引な文言は、数々の巨大製薬会社の本拠地であるニュージャージー州から選出された共和党議員の圧力に屈して国務省がでっち上げたものです。・・・

しかしながら、動機がどうであれ、最近のゴアの記録は事実として残ります。南アフリカ大統領タボ・ムベキとともに、米国―南アフリカ2国間委員会の共同議長としての役割を利用して、副大統領は、悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返したのです。これまで「良心の価値」を唱え続けて来た人の口から出た言葉であるだけに、その発言は、少し喉元にひっかかりを感じます。

タボ・ムベキ

大統領選挙で、ゴアはブッシュに僅差で敗れました。石油業界や兵器産業界が地盤のブッシュは父親がした湾岸戦争にならって、武器の在庫を一掃するかのようにイラク戦争を強行しました。エイズは、そういった意味でも世界を左右する大きな問題でもあります。

<コンパルソリーライセンス法>を成立させた背景

「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)で紹介しましたが、HIVは売春婦や鉱山労働者を介して急激に広がっていきました。ジョハネスバーグ近くの最大のスラムソウェトのような密集したアフリカ人居住地区では特に感染者の数は多く、出産や授乳で乳児にも感染しました。医師や看護師は、目の前で爆発的に流行していくのをただ見守るしかありませんでした。ソウェトのバラグワナス病院のグレンダ・グレイ医師が当時の様子を次のように語っています。

子供のエイズ患者が増え集中治療室が一杯になりました。やがて子供の患者は集中治療室には入れないという決定が下されました。その子供たちは末期患者だからです。もっと助かる見込みのある子供のためにベッドを空けておく必要がありました。エイズが新たな人種隔離政策を生んだかのようでした。エイズの病状による差別が始まったのです。医師も看護師も無気力でした。何もしない政府への怒りもありました。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

1990年2月に釈放されたネルソン・マンデラは1994年5月に大統領に就任しました。エイズ予防に奔走した人たちはマンデラに期待しましたが、エイズには何も触れずに、すべてを副大統領のタボ・ムベキに一任しました。大統領だった5年間、マンデラはエイズ問題にほとんど関心を示しませんでした。政権委譲に伴なう問題が山積みで、エイズ問題までは手が回らなかったというのが実情でしょう。1964年のリボニアの裁判でどうして武力闘争を始めたのかを説明するのにアフリカ人の強いられた惨めな毎日の生活状況をとうとうと述べ、その後27年間も獄中にいた人が、アフリカ人の窮状を知らないわけがありません。しかし、南アフリカのHIV感染者は毎年2倍のペースで増え続けて行きました。

クワズールナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「流行を食い止めようといくら努力しても希望の光はまったく見えて来ませんでした。手強い相手と戦うにはすぐれた武器が必要です。でも私たちには、流行を止める有効な手段が何もありませんでした。」(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と述べています。

グレイ医師は政府の無策について「アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。黒人の病気だからと切り捨てたからです。新しい黒人政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です。(「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」)と批判しています。

2000年のダーバン会議は、次回です。

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執筆年

  2010年1月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 18

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  →『ナイスピープル』を理解するために―エイズ治療薬と南アフリカ(1)

2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の9回目で、エイズ治療薬と南アフリカ(1)です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズ治療薬と南アフリカ(1)

1996年はエイズ治療元年と言われます。それまで有効な治療の手段がなかったエイズも複数の薬を使って効果的な治療が出来るようになったからです。

「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)でも書きましたが、免疫機構(外部から侵入してくる細菌やウィルスなどの異物を排除する仕組み)を調整するCD4陽性T細胞の染色体に組み込まれたHIV(ヒト免疫不全ウィルス)を除去する手立ては今のところありません。しかし、従来の逆転写酵素阻害剤と新たに開発されたプロテアーゼ阻害剤を組み合わせる多剤療法によって発症を遅らせることが可能になりました。HIVの増殖を抑えて免疫機能を保つために継続的にたくさんの薬を飲まなければなりませんが、HIVに感染してもウィルスを抱えたまま普通の生活が出来るようになったというわけです。


それまではHIVに感染すれば死を覚悟するしかなかったのですが、多剤療法のお陰でエイズは死の病ではなくなったのですから、画期的な変化です。

米国のテレビドラマ「ER緊急救命室」の第2シーズンに、母子感染でHIVに感染した男の子に逆転写酵素阻害剤AZTによる治療を続けるかどうかで悩む母親が登場しています。「ER緊急救命室」は1994年の9月に開始されたシカゴを舞台にしたドラマで、この話は恐らく1990年代前半、多剤療法が始まる以前の状況を描いたもので、今となっては貴重な歴史的な資料だと思います。当時、エイズ治療には有効な薬はなく、辛うじて逆転写酵素阻害剤AZT(アジドジブジン)が使われていましたが、副作用も極めて強かったようです。腰椎から大量に薬を入れる時に伴う苦痛も激しく薬の効果も不確かで、治療に当たった小児科医ロスの薦めで治療を始めたものの、毎回激痛に耐える子どもを見るのが耐え難くなり、グリーン医師から見込みのない治療を続けるよりは残された時間を大切にする方がいいと助言された母親が治療を断念して我が子を家に連れて帰る決断をするという話です。子供にHIVを感染させてしまったという自責の念と、苦痛に耐える子供を見るに忍びない母親の苦悩がひしひしと伝わって来ますが、多剤療法が可能になったもう少し後の時期なら、母親の苦悩も軽減されていたのに、と思わずにはいられませんでした。

1996年がエイズ治療元年になったのにはわけがあります。最大の理由は、当時のクリントン政権が多額の予算を投入して薬の開発がし易くなったからでしょう。治験に応じる患者が多かったことも新薬の開発には有利だったようです。それまでのレーガンとブッシュ政権はほとんどエイズ問題に手をつけませんでしたが、クリントンは1992年の大統領選で、縦割り行政ではなく責任者を決めて国が積極的に包括的な関与をすべきだとするマンハッタン計画をスローガンの一つに掲げました。1993年に大統領になるとさっそく責任者を決めて計画を推し進め、研究予算を3倍に、治療の予算も2倍にしています。

クリントン大統領

臨床治験の参加者ウィリアム・W・ドッジ氏は当時の状況を次のように語っています。

大量の薬を飲みました。3種類の薬を1度に20錠も。もの凄く副作用の強い薬で、かなり具合が悪くなりました。・・・退院するときウィルスが検出出来なくなるまでどれくらいかかるかと聞きました。すると、もう検出出来なくなっている、投与を始めてから5日目にはねという答えが返ってきました。驚きましたよ。でも、喜びを友人と分かち合うことは出来ませんでした。私は病気の発症を免れましたが、友人には発症している人もいるんです。誰でも治療を受けられるわけではありません。自分が歴史の転換点にいるように感じました。私より前のHIVの世界と私より後のHIVの世界はまるで別の世界でした。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

米国アーロン・ダイヤモンド・エイズ研究所のマーティン・マーコウィッツ氏とデヴィド・ホー氏は、HIVがあまりうまく複製出来ないウィルスで頻繁に突然変異が起こって薬に耐性が出来てしまう点に注目しました。そして、複数の薬で同時にウィルスを追い詰めるとHIVがすべての薬に対して同時に耐性を作ることが極めて難しいことを突き止め、プロテアーゼ阻害剤を含む3種類の薬で臨床治験を行ないました。その結果を1996年のカナダのバンクーバーでの世界エイズ会議で発表しました。複数の薬を同時に処方するこの治療法はカクテル療法(多剤療法)と呼ばれるようになり、HIVの感染が死の宣告だった時代が終わりを告げました。

同じ会議に招待されたエイズ患者のザンビア人の母親が「滞在費を出して下さってありがとうございます。それは私の3年分の家賃と同額です。航空運賃を出していただき感謝します。子どもたちが大人になるまで食べて行ける金額です。ありがとうございました。」と虚ろな表情で謝意を述べました。会議では薬が途方もなく高額なことには触れられませんでしたが、いくら新薬が開発されても薬代を出せない人には何の意味もないと訴えたのです。南アフリカから参加していたクワズール・ナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「その年のテーマは、一つの世界、一つの希望だったと思います。会議の終わりに私は本当にがっかりしていました。一つの世界なんて夢のような話です。私たちには希望のかけらもありませんでした。南アフリカであんな高価な薬を手に入れられる人はほとんどいません。」(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と嘆いています。

抗HIV製剤

1997年、南アフリカ政府は急増するHIV感染者が新薬の恩恵を受け易いように、薬の安価な供給を保証するために「コンパルソリー・ライセンス」法を制定しました。同法の下では、南アフリカ国内の製薬会社は、特許使用の権利取得者に一定の特許料を払うだけで、より安価な薬を生産する免許が厚生大臣から与えられるというものでした。(その法律には、他国の製薬会社が安価な薬を提供できる場合は、それを自由に輸入することを許可するという条項も含まれていました。)

しかし1999年の夏に、アメリカの副大統領ゴアと通商代表部は、南アフリカ政府に「コンパルソリー・ライセンス」法を改正するか破棄するように求めました。開発者の利益を守るべき特許権を侵害する南アフリカのやり方が、世界貿易機関(WTO)の貿易関連知的財産権協定(TRIP’s Agreement)に違反していると主張したのです。しかし、その協定自体が、国家的な危機や特に緊急な場合に、コンパルソリー・ライセンスを認めており、エイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」に当らないと実質的に主張したゴアは、国際社会から集中砲火を浴びることになりました。

HIV

次回は欧米の製薬会社と南アフリカの状況と、2000年のナタール州ダーバンでの世界エイズ会議について書きたいと思います。

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執筆年

  2009年12月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 17

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  →『ナイスピープル』を理解するために―エイズ治療薬と南アフリカ(1)