2000~09年の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の1回目で、『ナイスピープル』とケニアです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

『ナイスピープル』とケニア

「ナイスピープル」

『ナイスピープル』は1992年の出版です。アメリカでエイズ患者が出始めたのが1981年、ケニアでは1984年頃のようです。社会現象が作家に咀嚼されて小説や物語になり、それが印刷されて本になるのに必要な時間を考えれば、極めて早い時期に出版されたと言えるでしょう。エイズに関しての物語としては一番初期の作品で、歴史的にも価値のあるものだと思います。

ケニアの地図

著者のワムグンダ・ゲテリアについて詳しくは判りませんが、この本の紹介では1945年にケニアで生まれ、本書の主人公が学んだナイジェリアのイバダン大学、イギリスのオクスフォード大学、オースラリア国立大学で学んだとなっています。ケニア人のムアンギさんからこの本を借りたのですが、その時の話では、「高校の同級生で、たしか獣医やなかったかな。」ということでしたが、紹介記事では「環境と開発の経済で林学の修士号を取得している。」と記されています。物語『チェプクベの黒い黄金』という著書を85年に出しています。チェプクベはケニア西部の都市の名前で、黒い黄金は多分珈琲豆のことだと思います。
『ナイスピープル』は最初アフリカンアーティファクツという出版社で出版されています。その後、ヘンリー・チャカバさん(1992年にジンバブエの首都ハラレで、ブックフェアに来ておられたチャカバさんとお会いしたことがあります。)が経営する東アフリカ出版社で再出版されたようで、現在、アメリカのミシガン州立大学出版局からも出版されています。オーストラリアに留学している時に読んだ新聞記事「アフリカのエイズ 未曾有の大惨事となった危機」がこの本を書く動機になったと書かれています。今回の日本語訳で詳しく読めますが、「(ナイロビ発)中央アフリカ、東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、今や未曾有の大惨事と見なされています。この致命的な病気は世界で最も貧しい大陸アフリカには特に厳しい脅威だと見られています。専門知識や技術を要する数の限られた専門家の間でもその病気が広がっていると思われるからです。アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でも、アフリカの何カ国かはエイズの流行で、ある意味、『国そのものがなくなってしまう』のではないかと言われています。病気がますます広がって、既に深刻な専門職不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的に、政治的に、社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。」が本の最初に載せられた「著者の覚え書き」の一部です。

著者紹介のある『ナイスピープル』の裏表紙

医者などの専門的な知識や技術を必要とする人たちの間にもエイズが蔓延する事態に痛く危惧を覚えたようです。タイトルの「ナイスピープル」は主人公の医師ムングチのように、役所や大銀行や政府系の企業の会員たちが資金を出し合う唯一の「ケニア銀行家クラブ」の会員を指しています。「クラブには、ナイロビの著名人リストに載っている人たちが大抵、特に木曜日毎に集まって来る。テニスコート5面、スカッシュコート3面、サウナにきれいなプールも完備されており、ナイロビの若者官僚たちの特に便利な恋の待合い場所になっている。」と本文に紹介されています。

ムアンギさん

ケニア人で身近で接したことがあるのは2人だけです。ひとりは四国学院大学の教員をしているムアンギさん、もうひとりは宮崎大学の留学生だったサバです。どちらもナイロビ大学を卒業したと言っていました。

画像

ムアンギさん

ムアンギさんとは兵庫県の明石に住んでいた1980年代の半ば頃に知り合いました。(ちょうどケニアなどのアフリカ諸国でエイズ患者が出始めた頃ですね。)詳しくは忘れましたが、神戸にある黒人研究の会で知り合ったような気がします。高校の教員を辞めて大学の職を探している時に、大阪工業大学でいっしょに非常勤をしたこともあります。1987年だったと思いますが、資料を探すためにニューヨークハーレムにある公立図書書館を訪れる前に、UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)に滞在していた大阪工大のESSの学生の宿舎に寄ったあと、キャンパスをいっしょに歩いたりもしました。日本では日本語しかしゃべってこなかったムアンギさんが、アメリカでは英語でしゃべりかけて来ました。ギクユの人でナイロビ大学を卒業したあと、国費で京都大学に坂本龍馬の研究に来たとか。卒業後に法学部の助手もやっていたそうです。同じギクユ人の作家グギさんが来日したときに世話をしたら、ケニアに帰れなくなったのだそうです。当時のケニヤッタ政権に反対する立場にいたグギさんの友人は、ケニアでは反体制の危険分子だったというわけです。

サバ

もう1人のサバはルヒアの人で、宮崎大学の体育館で他の留学生や教員といっしょにバスケットをやった仲です。当時は農学部大学院博士課程の国費留学生で、醸造とかが専門でワインを作ったりしていたようです。普段は週に1回いっしょにバスケットをするだけで、ほとんど個人的な話はしませんでした。ちょうど英文の2冊目の本を書いていた時で、どうしてもケニアの事情が知りたくて聞くことにしました。その時のことをまとめて、英文のテキストに載せました。以下の文章がその日本語訳です。

私がケニア出身の学生とケニアの状況について話をしたとき、その学生は現体制についての不満を言いました。「私は日本に来る前、ナイロビ大学の教員をしていましたが、5つのバイトをしなければなりませんでした。大学の給料はあまりに低すぎたんです。学内は、資金不足で「工事中」の建物がたくさんありましたよ。大統領のモイが、ODAの予算をほとんど懐に入れるからですよ。モイはハワイに通りを持ってますよ。家一軒じゃなくて、通りを一つ、それも丸ごとですよ!ニューヨークにもいくつかビルがあって、マルコスやモブツのようにスイス銀行にも莫大な預金があります。今、モンバサに空港が建設中なんですが、そんなところで一体誰が空港を使えるんですか?私の友人がグギについての卒業論文を書きましたが、卒業後に投獄されてしまいました。ケニアに帰っても、ナイロビ大学に戻るかわかりません。あそこじゃ十分な給料はもらえませんからね。1992年以来、政治的な雰囲気が変わったんで政府の批判も出来るようになったんですが、選挙ではモイが勝ちますよ。絶対、完璧にね。」(『アフリカ、その末裔たち2―新植民地の局面―』(横浜:門土社、1988年刊、英文Africa and its Descendants 2

何年か前に、現在長崎市民病院で研修をしている服部晃好くんとサバの送別会をしました。その時は、奈良にある関西文化学術研究都市の会社に就職すると言っていましたが、その後は会っていません。6年間ですっかり身につけた日本語で「小腹が空いた」などと言っていましたが、まだ日本にいるんでしょうか。

サバといっしょにバスケット

服部くんは名古屋の大学の工学部を出て暫くガス会社の研究所で働いたあと、海外青年協力隊の理科教師としてタンザニアのキゴマの中学校で3年過ごしたあと、ケニアでJICAの調整員を2年やったそうです。その後医学部を出て、いつかは再度アフリカに行くために、熱帯研究所のある長崎大学で医師の研修を受けることにしたそうです。
アフリカ音楽にも詳しく、会社を休んでユッスー・ンドゥールのコンサートに出かけたと言います。音楽の解説記事を頼んで、大学の授業でも使わせてもらっています。このシリーズでその解説記事なども紹介したいと思っています。

つづきは→「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

  2009年4月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 35

ダウンロード・閲覧

  →『ナイスピープル』を理解するために(1)―『ナイスピープル』とケニア

2010年~の執筆物

 2005年にEMPを初めてから毎年報告記を作りました。タイのプリンス・オブ・ソンクラ大学とカリフォルニア大学アーバイン校の留学期や、提携校や近隣の大学も誘って行なったシンポジウムの報告書も作りました。英文も何冊かあります。PDFにしてダウンロード出来るようにしてあります。

EMP報告書 001

留学記 001

EMP報告書、留学記・報告記、シンポジウム一覧です。

<EMP報告書>

20112年度以降は作業中です。

2011年度

「2011年度後期EMP報告書」(2012年3月29日、全62ペイジ)
「2011年度前期EMP報告書」(2011年12月15日、全85ペイジ)

2010年度

「2010年度後期EMP報告書」(2011年3月15日、全63ペイジ)
「2010年度前期EMP報告書」(2010年12月15日、全67ペイジ)

2009年度

「2009年度後期EMP報告書」(2010年3月29日、全92ペイジ)
「2009年度前期EMP報告書」(2009年12月15日、全67ペイジ)

2008年度

「2008年度後期EMP報告書」(2009年3月末、全108ペイジ)
「The 2009 (February) EMP Report」(2009年3月29日、全71ペイジ、英文)
「2008年度前期EMP報告書」(2008年10月15日、全56ペイジ)

2007年度

「2007年度後期EMP報告書」(2008年3月29日、全35ペイジ)
「The 2008(February) EMP Report」(2008年3月15日、全38ペイジ)
「2007年度前期EMP報告書」(2007年10月15日、全50ペイジ)

2006年度

「2006年度後期EMP報告書」(2010年3月15日、全63ペイジ)
「The 2007(February) EMP Report」(2008年3月15日、全26ペイジ)
「2006年度前期EMP報告書」(2006年10月15日、全10ペイジ)

2005年度

「2005年度EMP報告書」(2006年3月29日、全34ペイジ)
「The 2005 EMP Report」(2006年3月29日、全33ペイジ、英文)
「2005年度EMP報告書・ソンクラ報告記」(2006年3月29日、全4ペイジ)

<留学記・報告記>

「留学記・報告記(5)-PSU・UCI」(2013年3月15日、全95ペイジ)
「留学記・報告記(4)-PSU・UCI」(2012年3月15日、全62ペイジ)
「留学記・報告記(3)-PSU・UCI」(2011年3月15日、全80ペイジ)
「留学記・報告記(2)-PSU・UCI」(2010年3月15日、全85ペイジ)

「ソンクラ大学留学記・報告記(1)2005年度~2008年度」(2009年3月29日、全102ペイジ)
「2008年度ソンクラ留学記」(2009年3月29日、全24ペイジ)

<シンポジウム>

「International Collaboration and University Education―Thai – Japan Joint Symposium―」(2009年2月22日、全43ペイジ、英文)
「海外提携校を活用した専門家育成のための大学教育―タイ日合同シンポジウム―」(2009年2月22日、全44ペイジ)

アフロアメリカの歴史と音楽(前期用)

まとめてみると、結構いろいろやったわけやね。

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<アフロアメリカの歴史と音楽(前期用)>

概要

毎回映像を観てもらい、歌も聴いてもらうつもりです。発表や議論も期待しています。楽しみながら、いろいろと考える機会になれば嬉しいです。

授業では映像や資料をたくさん使い、映画も見てもらうつもりです。楽しくやれるといいね。今までの価値観や歴史観を自分のために問い直し、自分について考える貴重な時間になればと願っています。

僕のブログは「ノアと三太」https://kojimakei.jp/tamaで、今まで書いたものなども載せています。クラス専用のページを使う予定です。アクセス制限をかけています。

ユーザー名( c2018aaa ) パスワード( c9ZB )

メール:tamadayoshiyuki@gmail.comもどうぞ。

評価と課題

評価には懐疑的ですが、提出物(自己紹介、感想、課題など)と授業への関わり(発表、コメント、討論など)を総合的に評価する予定です。課題の提出がない時は未受験です。

<1回目>

4月12日

第1回目の授業でした。たくさん受講してくれてありがと。楽しくやれそう?

今日は受講者を決定するだけで精一杯でした。何とか決まってよかったです。ほんとは全部引き受けられるとええんやけど。

世の中の仕組みや、第3世界と先進国の関係と日本の位置、大学や学生、授業についてなどいろいろ話をしました。

金や権力を持っている人たちの都合で世の中がまわっていて、法律も自分たちのために作り、給与体系も自分たちに都合のいいようにこしらえ、その体制を維持するためには、たとえば人身売買(奴隷貿易)もするし、ただ働きをさせる(植民地支配)も何憚ることなくやってのける、その体制を守るための武器も開発し、ほぼ永遠に放射能を出し続ける核兵器も作って、実際に日本で人体実験までしてしまった、そんな話をしました。

この500年の侵略で一番厚かましかったひとたちの母国語が英語、そんな話もしました。

奴隷貿易でため込んだ資本で産業革命を起こし、生産の手段を変えて農業から工業へ変換を遂げた中で生まれた産業資本家はアメリカの北部に定住、それまで独占状態だった南部の荘園主、奴隷商たちと、奴隷制(安価な労働力)を巡って国を二つに割って戦争、それが南北戦争、法的には奴隷は解放されたものの経済的な差はさほどなかったので戦争でも決着がつかずに、奴隷が実際に解放されて市民権を得たのは1950年代、60年代の公民権運動を闘ったあとでした、そんな流れを辿ろうと思っています。

ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」のウェブの映像と、ニューポートジャズフェスティバルでの「聖者の行進」のトランペット演奏だけは何とか観て、聴いてもらいました。

白人に押しつけられた賛美歌、聖歌、スピリチュアル(霊歌)、ゴスペルなどの教会音楽からブルース、ソウル、ポップス、ラップなどの流れのなかで、それぞれの代表的な歌や演奏の映像も毎回観て、聴いたもらえると思います。

What a Wonderful Worldの音声ファイルを参考ファイルに置いておきます。ダウンロードして聴いてや。

僕の一方的な話やなくて、みんなにも参加して貰っていっしょにやっていこ。次回は名簿も出来そうなので、名前を確認したあと、毎回何人かにどうして授業を取ったかとか、何を望んでいるかとか、授業の感想とか要望とかについて聞きたいと思っています。

発表については、①アメリカのテレビドラマ「ルーツ」について、②奴隷貿易について、③英文A Short History of Black AmericansのSlave tradeの日本語訳。誰かやれへんか。

歌もたくさん聴いてもらうけど、歌ってくれたり演奏してくれたりも大歓迎です。僕は歌えないので、歌ってくれると嬉しいです。

今日は説明する時間はなかったけど、課題についても解説したいと思います。

配ったプリント:自己紹介用紙(次回出してや)授業と評価と課題について(一枚半と2枚目の裏に英文)、What a Wonderful WorldとNewportとJazz Festivalについての記事

手伝ってくれはった基礎教育事務室の工藤さんと宮川さん、地位資源創成学部の井上さんと上野さんにも感謝です。

<2回目>

4月19日

2回目の授業でした。

最初にこれから話をする大まかな内容について話をしました。一方的に僕が話すばかりにならないように、発表してもらう内容なども話しました。

①(ヨーロッパ人が来る前にアフリカ大陸に巡らされていた)黄金の交易網について→応用生物岩切くん、山田くん

②(ヨーロッパ人による侵略の始まりと言われる)キルワの虐殺→電子物理蓮田くん(発表は無理なので、課題で、らしいです。)

③(アングロ・サクソン系のイギリス人ながら一番アフリカの歴史を見通せていたと思える)バズル・デヴィドソンが(1983年にNHKで放映された)「アフリカシリーズ」について→希望者なし

 

④(叔母さんから聞いた話を元に7代遡って自分の祖先を捜し当ててそれを本にした)アレックス・ヘイリーか「ルーツ」(本・テレビドラマ)→応用生物高橋くん

 

 

⑤今日は言わなかったけど、英文(A Short History of Black Americans)→誰かやってや

大まかな話の内容は

①(イギリス人入植者の繁栄の基礎となった)奴隷貿易と(大農園主=寡頭勢力を潤した)奴隷制1:イギリス人入植者の繁栄の基礎となった奴隷貿易と2:奴隷制

②南北戦争(北部の産業資本家と南部の寡頭勢力の妥協が生み出した奴隷解放と北部の先導で強行した再建期と寡頭勢力の巻き返しの反動

③(実質的な権利を求めた)公民権運動とその後

です。

次回は発表を聞いて、次の発表者を決めて、時間があれば、今日始めた僕がアメリカに行った時の話の続きをしたいと思います。その中でニューオリンズとメンフィスの映像も紹介出来ると思います。

それでも時間があれば、「アフリカシリーズ」と「ルーツ」の一部を紹介出来れば。

配ったプリントはなし、です。

また、来週に。

まだ集めた自己紹介は読めてないけど、週末に読みたいと思っています。

<3回目><4回目>?

<5回目>

今日はいい天気で、行き帰り雨に難儀せずに済みました。沖縄はすでに梅雨入りらしいので、そのうち、また雨の季節が来そう。
薊(あざみ)が終わって、そろそろ紫陽花(あじさい)の季節。

4月26日の3回目授業の詳細は書けずじまい。黄金の交易網(岩切くん、山田くん)、「ルーツ」(高橋くん)と話をいろいろ、やったと思います。

5月1日の4回の授業は急遽休講にしました。申し訳ないです。

5月10日

5回目の授業でした。

「アフリカシリーズ」と「ルーツ」を紹介、英文のslave tradeを岩切くんがやってくれました。

最初にユッスー・ンドゥールのオブラデオブラダとジャパンツアーのインタビューと1994年のウッドストックの冒頭の紹介と、1990年のニューヨーク発のCopy Meを聴いて、観てもらいました。

「アフリカシリーズ」では、シリーズの前半(ヨーロッパ人が来るまで)の中から、西アフリカ、砂漠を越えて西アフリカの品ものをエジプトの都カイロまで運んで外の世界を結んでいたトワレグ人、カイロ、キルワの虐殺の映像を観てもらいながら、ヨーロッパ人の侵略が始まったあたりまで話をしました。

「ルーツ」では、30周年記念のDVD版の全体の紹介、クンタ・キンテの誕生、クンタ・クンテの戦士としての教育の場面、を観てもらいました。

次回は「ルーツ」の教育の場面の続き、出帆の前の奴隷船、奴隷狩り、奴隷船の場面をみてもらうつもりです。時間がありそうなら、奴隷市の場面も。

それから、英文のSlaveryの部分を読むつもりです。

配ったプリントは3枚、①ユッスー・ンドゥール、②「アフリカシリーズ」と「ルーツ」、③アフリカ系アメリカの歴史①です。

また、来週に。

課題の説明をまた出来なかったけど、プリントに詳しく書いているつもりなので読んで下さい。わからない時は、いつでもメールか直接かで聞いて下さい。
来週、少し話をしようと思いますが、質問があれば遠慮なく、どうぞ。

<6回目>

授業があった日に書いておこうと思い、次の日にも同じことを思いながら土曜日になってしまいました。気持ちを途切らせずに続けるのはなかなか難しいです。
授業前に色々準備して授業をして、そのあとブログを更新するのは、結構きついです。気持ちが途切れると、書かないページが借金のように増えていく(働き出してからは借金の経験はないけど)ので気持ちも滅入ります。

5月17日

6回目の授業でした。

英文のSlaveryの部分を読むの、すっかり忘れてました。栗田くん申し訳ないです。来週は映像のあと、忘れずに。みんなも目を通して来てや。

最初に少しヨーロッパの教会音楽とアフリカ系アメリカ人の音楽の話をしてから、「ルーツ」の続き、出帆の前の奴隷船、奴隷狩りの場面をみてもらいました。

そのあと、聖書の話などをしたあと、Amazing Grace(ニュージーランドのヘイリーの音声と白鳥英美子の映像)を紹介しました。
High Noon(真昼の決闘)の中で教会で聖歌隊(Choir)が歌うThe battle Hymn of the Republicを観てもらったとこらで時間切れでした。

次回は「ルーツ」の続き、奴隷船の場面をみてもらったあと→英文のSlaveryを読み→歌の続きThe battle Hymn of the RepublicとDeep Riverなどを紹介しようと思っています。

奴隷市、クンタ・キンテの逃亡などはその次です。

配ったプリントは2枚、①Afro-American songs(B4表)とThe battle Hymn of the Republic(B4裏)、② Deep River, Go Down, Moses, Joshua Fit the Battle of Jerico(B4表裏)

また、来週に。

Amazing Grace、日本人(米良さん、中島美嘉、本田美奈子など)、アメリカ人(Mahalia Jackson, Barbara Hendricks, etc.)などいろんな人が歌ったCDがあって、希望があれば音声ファイルを参考ファイルに置けるよ。掲示板かメールで知らせてや。

<7回目>

5月24日

7回目の授業でした。

今日はいい天気でした。

薊(あざみ)はほぼ終わって、紫陽花(あじさい)の季節です。下は額紫陽花(がくあじさい)。梅雨が始まるんかなあ。

「ルーツ」の続きを観てもらい、英文のSlaveryの部分を栗田くんがやってくれました。

「ルーツ」は奴隷船の場面。ハリウッドはすごいのを作るよね。そりゃー、莫大な資本を出した人は回収せんとあかんからね。それでも、空前のヒット、1977年は1年中繰り返し放映されてたそうやから、やっぱりそれだけ根の深い問題で、日常でも大きな問題なんやろな。
僕はその頃、テレビとは無縁やったから、「ルーツ」を知ったのは1983年ころ、修士を取って高校を辞めて大阪工大で非常勤をやらしてもらったとき(夜間3コマ、1コマ18000円、合計48000円が一月の全収入、の就職浪人の時代です)、世話をしてくれはった先輩の小林さんがLL教室でテレビから録画したのをダビングさせてもらいました。「アフリカシリーズ」もそうやけど、今となってはものすごく貴重な映像です。

小林は一般教育の英語の教授で、予算を取ってLL教室に助手(昼は夜間の学生、夜は昼間の学生)を確保して授業を手伝ってもらっていました。僕もLL教室を使わせてもらったんで、その3人の学生にはお世話になりました。今も毎年年賀状が届きます。3人は自分たちで判断をしてテレビを録画したり、当時話題になっていた映画のビデオをビデオショップから借りてダビングしてくれたり。その映像は今も使っています。

栗田くんの日本語訳はほぼ完璧、すごいねえ。

補足しながら英文を読んでいて、時間切れでした。

その前に奴隷貿易、大農園経営で金持ちになった大農園主が奴隷制を保持するために代弁者として代々民主党から大統領を首都のワシントン(南部の一番北の端)に送り込んだ話や、奴隷貿易で蓄積した資本で産業革命を起こして台頭した産業資本家の話、その両者が労働力(奴隷)を巡って国を二分して戦争をした話(南北戦争)の話などを、黒板に地図を書いて説明しました。

次回は英文の続きと、「ルーツ」の続き(奴隷市、農場の様子、クンタ・キンテの逃亡)と歌の続き(The battle Hymn of the RepublicとDeep Riverなど)です。

蓮田くんが、John Brown’s Bodyを歌ってくれるそうです。楽しみやなあ。

僕もジョン・ブラウンと英文の続き、歴史の解説②のプリントを用意しときます。

配ったプリントは「ルーツ」の感想、です。

次回、1回目の課題といっしょに出してや。人数がそう多くないので、課題は出来るだけ早く読むつもり、やけどどうやろな。

また、来週に。

<課題を郵便受けに入れた人に>

今日研究室に行ったら、郵便受けに結構課題と感想文が入っていました。教育実習で提出日に来られない人のようですが、連絡もメモもなく、本文に説明もないようです。

最初に配った課題のプリントでも書いたように、提出日の授業時に直接手渡して下さい。出されたものは、学生支援課の工藤さんにお願いして、返却します。

4月に期日は示してあるし、教育実習の日程もわかっているわけやから、郵便受けに黙って出すというのは、あり得ないと思います。

そもそも教育実習は公欠扱いではないので、担当者によっては欠席を認めてない人もいます。学部から配慮の要請は来ていますが、決めるのは担当者です。要は、受ける側の気持ちの問題でもあるんやないやろか。

実際、予め断って先週の授業で出した人もいるし。試験に代わるものやから、僕は出されたものを評価するしかないわけです。お互いのために出席は取らないと言ってあるし、出されたものがないと成績は出せないよね。お互いに事情がわかったうえで授業をやり、みんなは授業を受けているんやから、気持ちの通う付き合いをしようや。

今日提出していた人は、教育実習に行くとするといつか立場が教員になる可能性も高いわけで、立場を逆にして考えるとええんやないやろか。

試験に代わる課題の提出日が決まっていて、その日に教育実習があって出席出来ない場合、どうすればいいか。もし気持ちがあるなら、黙って郵便受けには入れないやろ、と思うけど。

単位を出さへんでと言ってるわけやないけど、黙って郵便受けに入れる、はないと思う。

<8回目>

5月31日

8回目の授業で、後半に入りました。
きのうは書けなかったんで、今日は書いてとかないとね。来週は予備日で授業がないので、会うのは再来週やもんね。

1回目の課題と「ルーツ」の感想文を集めました。

最初に「ルーツ」の続き、奴隷市、農場の様子、クンタ・キンテの1回目の逃亡の場面を観てもらいました。

英文については、最初は一人で逃亡したが、やがてグループで反乱を起こすようになり、1959年にはジョン・ブラウンの蜂起があって、白人社会に衝撃を与えたという流れを解説しました。
そのジョン・ブラウンを称えたJohn Brown’s Bodyを工学部の蓮田くんが歌ってくれました。感激やね。100点つけとくでえ、ほんま。

歌の続きはまずディオンヌ・ウォーイックのThe battle Hymn of the Republic、司会はフィドラー(Fiddler)役のルイス・ゴセット・ジュニアでした。
ポール・ロブソンのDeep Riverを紹介したところで時間切れ。

次回はGo Down, Moses, Joshua Fit the Battle of Jericoを聞いてもらい、今日配ったプリントにある奴隷解放(南北戦争)と反動、について。

それでも時間があれば、The battle Hymn of the Republicの続きとゴスペルの紹介を。

一つの山が奴隷貿易と奴隷制、2つ目が南北戦争と反動、3つ目が公民権運動、次回から2つ目に入ります。

配ったプリントは英文(奴隷解放と反動、B4表)とJohn Brown’s Body(B4裏)、英文(奴隷解放と反動、B4表裏)

忘れてなかったら、紹介したもののファイルがなかったマンディンゴの奴隷市と大農園での奴隷売買、主人公単独の逃亡の場面を観てもらうつもりです。

課題は出来るだけ早く読むつもりやけど。

また、来週に。

<9回目>

6月14日(17日の日曜日になってしまいました。)

9回目の授業でした。
先週は予備日で授業がなかったし、授業の終わったあとにまた書けなかったんで、何とか書いとかないとね。

最初に三つの山の話

①が奴隷貿易と奴隷制、
②南北戦争と反動、
③公民権運動とその後

を大枠で辿ったあと、

南部の大荘園主と、奴隷貿易で潤った資本で産業化の結果生まれた北部の産業資本家が奴隷制を巡って起こした市民戦争=南北戦争の話と、3%の支配階級=大荘園主が奴隷所有者と大半の労働者階級=奴隷と貧乏白人の間にカラーライン(人種隔離政策)を引いて人種差別(賃金格差)を利用した実態について再確認しました。

北部(共和党)が担いだリンカーン(写真↓)が大統領になって南北合一のために戦争はしたものの経済力が拮抗していたために最終的な決着はつかずに、北部の自由な黒人の参戦の見返りに出した奴隷解放令だけが残り、元奴隷にとっては体制が変わる(賃金が上がる)ことはなく、奴隷が小作という名前に変わっただけでした。

北軍の占領政策は行われたものの北軍が去ったあとの南部の寡頭勢力の反動は凄まじく、1896年の隔離すれども平等という最高裁の判決を引き出してしまいました。

カラーラインを維持するために、奴隷制で貧乏白人を奴隷狩りや奴隷の調教師に雇ったように、貧乏白人を利用してリンチやKKKで元奴隷を締め付け続けました。

 

その文脈で、畜産草地の松浦さんと中田さんがKKKの成り立ちやその後について詳しく発表してくれました。非常にわかりやすく、しっかりとまとめられてたね、今回も。

少ししか時間がなかったけど、スピリチュアルの続きでGolden QuartetのGo Down, Moses,とJoshua Fit the Battle of Jericoを聞いてもらい、1990年にBSで放送されたゴスペルの旅の冒頭、元巨人選手クロマティの地元マイアミの教会の紹介の場面を見てもらったところで時間切れでした。
次回はその続きで、ゴスペルをたっぷり観て、聴いてもらうつもりです。

反動の時期の映像も少々紹介して、公民権運動に繋げたいと思っています。1950年、60年代の公民権運動は資料も多いし、リトルロックの高校事件、キング牧師(写真↓)、バスボイコット運動、マルコムX、ワシントン大行進など、調べて発表して欲しいと思っています。

この土日も、課題読めなかったなあ。8コマの授業でアップアップ、です。

また、来週に。

<10回目>

6月21日

10回目の授業でした。あと5回になってしもうたね。歌を聴いて、公民権運動とその映画を観てもらって、時間切れになるかもね。

今日は歌をたっぷり聴いてもらおうと思ってたけど、five penniesの中のThe Battle Hymn of the RepublicとWhen the Saints Go Marching inの二つだけしか紹介できなかったね。全体の流れを掴んでおいてもらおうと、配ったAfro-Ameican Songsの英文プリントを読んで解説しました。二冊書いた英文の本のうちの2冊目の4章で書いたものです。

次回は、

①ニューポートジャズフェスティバルでのルイ・アームストロングのトランペット演奏とマへリア・ジャクソンを観て、聴いてもらってから、

②ルイアームストロング(環境ロボ1年の北條くん)とマへリア・ジャクソン(環境システム4年の岡くん、あとから言いに来てくれました)の発表を聞いて、

③クロマティのゴスペルのミシシッピ→メンフィス→ニューオリンズを観て、聴いてもらうつもりです。

ルイアームストロングとビリーホリデイの歌も聴いてもらえるかも。

そのあと1896年の「隔離すれども平等」の最高裁での判決の話をしたあと、1954年の公立学校での人種隔離は違憲という最高裁の判決やその辺りの世界情勢も紹介出来ればと思っています。

前回も書いたけど、リトルロックの高校事件、キング牧師、バスボイコット運動、マルコムX、ワシントン大行進を調べて、誰か発表せえへんかな。

50人足らずしか来てないみたいなので、去年配ったCDを配れそうです。今まで観て、聴いてもらった映像ファイルや音声ファイルを入れてあります。気に入ったものは何回も聴いてもらえると思います。

また、来週に。

<11回目>?

<12回目>

7月5日

雨ばっかりで鬱陶しい日が続くねえ。前期もあと3回、今回もその日に書けずに、日曜日になってしまいました。大きなクラスでは来週に2回目の課題を集めて、授業が終わる頃には成績をつけとこうと思ってるけど、そううまいこと行くかな。毎年引き摺って引き摺って、へたすると成績が出るのがお盆過ぎになったり。

12回目の授業でした。

公民権運動の映像とニューオリンズの映像を中心にみてもらいました。

1954年の最高裁での公立学校での人種隔離は違憲判決に従って、実際に黒人の高校生が白人の高校に入学する際に起こったアーカンソー州リトルロックの高校事件を題材にした映像「アーカンソー物語」(Crisis at Central High)をみてもらいました。
白人の狂気、PTAの凄まじさ、今の時代にはほとんど見られない光景やけど、僕が受けた大学院での日教組の反対運動や、入学する1年前の東大安田講堂での学生と機動隊の攻防など、身近にあった光景です。
(僕が諦観を抱き世の中に関心を持てなくなった入った大学でさえも、まだ学生運動のなごりで、授業をしないで毎日クラス討議→学舎封鎖(写真↓神戸市外国語大学旧学舎)→機動隊による排除を冷ややかに眺めていました。)

黒人生徒の入学を阻止するのために州兵が出動、それを大統領命令で州兵を連邦政府軍の配下に置いて、今度は連邦政府軍が出動、それまでは考えられなかった天と地が逆さまになったような事態、公民権運動の間はずっとそんな状態が続いていたようです。
その大学版のミシシッピ州立大学、アラバマ大学事件とワシントン大行進の映像も観てもらいました。

マルコムXの映像と、映画マルコムXの冒頭だけ紹介しました。
歌は、ニューオリンズのゴスペルとマヘリア・ジャックソン、それにメンフィスのエルビスプレスリー。

最後にワシントン大行進で歌ったマヘリア・ジャックソンのWe Shall Overcome。

今日聴いてもらえなかったビリー・ホリデイのStrange Fruitと、シカゴ・ブルース、ソウル、We Are the Worldは紹介したいね。

次回は、先に2回目の課題を一人一人顔を見ながら集めてから、「招かれざる客」(Guess Who’s Coming to Dinner)。2時間ほどの映画なので最後まではいけないけど、観てもらえるところまで。(主演シドニーポワチエ↓)
毎回来てくれてるのが30人あまりやから、そう時間はかからないと思うけど、それ以外の人が問題やな。
今回は前にも言ったように、基本的には次回の提出日で直接受け取るのが原則、受け取るのは遅くても最後の授業の時まで。
2回目にしっしょに出したりとかも含めてあんまりええかげんなのは(出すのは勝手やけど)、成績は出さないつもりです。後期も持つつもりなんで、後期出直してや。(後期が最後かも)

配ったプリント:We Shall Overcome(B4表裏1)、Strange Fruit(B4表裏1)

12日(木)に、また。

<13回目>

7月12日(前日の書き込みになりました。)

ブログ、最後あたりになって、なかなか手こずってるなあ。授業のこのページは大体その日に書けてたのにねえ。

あしたと来週で終わりです。何とか最終日までに成績をつけようと思っているんやけど、なかなか思い通りにならないね。金土日、ある人に書く手紙でかかりっきり。書きたいことは胸の辺りにあって、書いていくうちにだんだんと書きたいことがはっきりして、一応全部吐き出してから、手を入れる、大体そのような要領で書くことが多いみたいです。
アレックス・ラ・グーマ(ラ・グーマのAnd a Threefold Cordとその翻訳『まして束ねし縄なれば』の表紙絵の原画です。奥さんに描いてもらいました。最近画像を取り込みました。↓)は、書き始めるときすでに頭のなかに全部が出来ていて、それをタイプライターに向かって書くだけ、毎回そんな風に書いていたそうやけど、人それぞれやからなあ。
13回目の授業でした。

「招かれざる客」(Guess Who’s Coming to Dinner)を途中まで。白人若い女性の家にロサンジェルスから結婚予定の相手の両親が来るところで終わりました。

次回はその続きで最後まで。そのあと公民権運動、その後の映像を少しと、まだ紹介していないStrange Fruitと、シカゴ・ブルース、ソウル(『ブルーズ・ブラザーズ』のなかから一曲、We Are the Worldはを紹介したいけど時間足らんやろなあ。CDの中に入れてあるんで、時間がないときは、観て聴いてや。

「公民権運動、その後」、シカゴ・ブルース、ソウル(『ブルーズ・ブラザーズ』のなかから一曲)、We Are the Worldのプリントは用意しています。

19日(木)に、また。

<14回目>

7月19日

実質的な最終授業でした。
『招かれざる客』(Guess Who’s Coming to Dinner)の最後までと、コメントを10人ほどでした。

次回はその続きで最後までコメントが聞けるとええね。

時間があれば、『招かれざる客』の主人公シドニー・ポワチエの映像を少々、「公民権運動、その後」の映像を少々→Strange Fruit→シカゴ・ブルース、ソウル→『ブルーズ・ブラザーズ』のなかから一曲→映画『上流社会』のジャズシーン→We Are the World、それでも時間があれば、Contemporary gospelを1曲、それと映画『マルコムX』のエンディング曲Revolution。

『招かれざる客』のジョンと父親の遣り取りのtranscrptionと日本語訳です。A Short History of Black Americansの引用に使いました。

The color line issue was brought into Hollywood in order to let the world know that the United States was supporting the Civil Rights movement; Guess Who’s Coming to Dinner was made. In the film a young black professional marries a young white woman whose father is a rich liberal newspaper owner. The young man and his father have a fierce dispute. It was a fight between the young and the old generation:
合衆国は公民権運動を支持していると世界に知らせるために、人種差別の問題をハリウッドに持ち込みました。「招かれざる客」です。映画では、黒人の若い医師が、父親が金持ちでリベラルな新聞社の社長である若い白人女性と結婚します。その若者と父親が激しく言い争いをします。その議論は新しい世代と古い世代の戦いでした。

“Father: Well, I don’t care what your mother says. Maybe she’s gone haywire, too. This is between you and me. Son: That’s the first thing you said that makes any sense because that’s exactly where it’s at . . .
父:「そうだな、お前の母さんが何を言おうが気にしない。たぶん母さんも混乱している。これはお前と私の問題だ。」
息子:「初めてまともなことを言ったね、これでまともに話せる……。」
Father: Yeaah what I mean to say . . .
父:「うーん、私が言いたいのは……。」
Son: No, you said what you had to say. You listen to me. You say you don’t want to tell me how to live my life, so what do you think you’ve been doing? You tell me what rights I’ve got or haven’t got and what I owe to you for what you’ve done for me. Let me tell you something. I owe you nothing. If you carried that bag a million miles, you did what you were supposed to do. Because you brought me into this world and from that day you owed me everything you could ever do for me. Like I will owe my son if I ever have another. But you don’t own me. You can’t tell me when or where I’m out of line or try to get me to live my life according to your rules. You don’t even know what I am, Dad, you don’t know who I am. You don’t know how I feel, what I think. And if I tried to explain it the rest of your life, you’ll never understand. You are thirty years older than I am. You and your whole lousy generation believe the way it was for you is the way it’s got to be and not until your whole generation has lain down and died will that dead weight of you be off our backs. You understand you’ve got to get off my back, Umh, Dad, umh, Dad, you’re my father. I’m your son. I love you, I always have and I always will. But you think of yourself as a colored man. I think of myself as a man, umh, now, I’ve got a decision to make and I’ve got to make it alone and I’ve got to make it in a hurry, so would you go out there and see after my mother?”
息子:「いや、父さんの言いたいことは充分に聞いた。今度は僕の番だ。父さんは僕がどうやって生きていくべきかを指図したくないと言ってるけど、今まで父さんは何をして来たと思ってるの?父さんは僕にどんな権利があって、どんな権利がないのかを言ってきたし、父さんがして来たことに僕がどれほど恩があるかを話して来たよね。じゃ、言わせてもらうね。僕は父さんに借りはないよ。父さんがかばんをずっと運んでたとしても、それは父さんの仕事だったからだよ。父さんは僕をこの世に生み出したから、その日から、できる限りのことを僕のためにする義務がある。同じように、僕に子供が出来たら、その子に義務があるからね。でも僕は父さんのものじゃない。僕がいつどこでコースを外れるかは父さんが口出し出来ないし、父さんのルールに従って僕を生きさせようとしてもだめだよ。父さんは本当の僕を知らない。父さんは僕が誰なのかも知らない。僕がどんな風に感じて何を考えているかも知らない。そしてもし、僕が一生かかってそれを説明しようとしても父さんには分からないよ。父さんは僕より30も年上だ。父さんたちのようなこちこちの世代は、重荷を下ろして死ぬまで自分たちのやり方が一番だと信じて疑わないんだよ。父さんは僕らの背中から荷物を取り除かないといけないと分かっているんだよ。うーん、父さん、うーん、父さんは僕の父さんで、僕は父さんの息子だよ。大好きだよ。これまでも好きだったし、これからもずっとだよ。だけど父さんは自分を黒人として考えてる。僕は自分を人間として考えてるんだよ。今や僕は決めないといけなし、一人で決めないといけないし、それも一人で、急いでね。だから父さん、向こうに行って母さんをよろしく頼めないかな?」

配ったプリント:「公民権運動、その後」(B4表裏2)、シカゴ・ブルース(B4表裏1)、ソウル(『ブルーズ・ブラザーズ』のなかから一曲)(B5表1)、We Are the World(B4表裏1)、「授業についての感想」(B5表1)、「『招かれざる客』の感想」(B5表1)

感想2つは次回持って来てや。

来週に、また。

<15回>

最終回は、公民権運動その後の映像を何本かと、デンゼルワシントン、シドニー・ポワチエの映像、それと何曲か聴いてもらったような。本当はひとりひとりコメントを聞きたかったんやけどなあ。

<アフロアメリカの歴史と音楽の成績について>

授業で、これはないやろ、こんな授業ならしたくない、と思ったように、課題を読んでもほぼ読む内容のないのが多かったです。授業を聞いてくれてたんやろか。人に授業料を払ってもらって考える豊かな時間をもらっておきながら、それはないやろ、そう思いました。
最初にも言ったように、僕は定年退職しています。国立大には65歳以降専任として採用する制度は以前はなかったんやけど、独立行政法人になってからいろいろ大学独自の判断で規定を変えて制度的に新しいことが出来る裁量が増えてるようです。僕は定年した年の終わりに、新学部(地域資源創成学部)を手伝ってもらえないかと、学長、教育担当副学長、事務局長(所謂トップスリー)から頼まれました。非常勤ではいやなのでと言うと規定を変えるからと言われました。頼まれたのは新学部を手伝って、だけやったんで、今持っている医学科1年生の英語の2クラスと学士力発展科目3クラスは、僕のお節介です。
もちろん、授業でも言ってるように、今の受験に向けた中学や高校では欠落している、自分や社会について考える大学での空間は大事やとずっと思ってきたし、折角大学まで来たら、インプットした個々の大量の情報を使って論理的に、客観的に述べるという知的な作業は大切やと思ってもきました。大学でそんな空間を共有できる立場にいるわけやから、それを大事にしよう、今まで考えなかった分野で学生一人一人の意識下に響くようなことをしよう、と思って30年以上やって来ました。集めた新聞や雑誌の記事も書いたテキストも配るプリントも毎回書くブログも配る資料やコメントなどもすべてそのためやと思っています。毎回8クラスのブログを書くのも、もちろん大量のプリントを印刷刷るのも、大量の課題を読むのも、大変です。でも、あんまり仕事やと思ってやってこなかったのは人間が好きみたいやし、授業も嫌いでないようなので、続いて来たかも。案外僕には向いているんかも、と思ってきました。

でも、今回みたいなことがあるとぷつんと切れるよね。ま、今回だけやないけどね。
それで、すでに後期も取りやめたし、来年も持たないつもりです。大学の一方的なやり方にも切れてしまうところもあって、約束した新学部の卒業生の出る来年まではいようと思っています。

本当は、10月から医学部の学部長を引き受けさせられる片岡さんみたいに、まだ子供ですからもう一度チャンスを与えて下さい、という寛容さがあればいいんやろなあ。解剖の授業を受けた医学科の1年生が調子に乗って兎を解剖してネットに載せたのが問題になり、関係した学生8人全員を退学にという教授会での強硬論の流れを一言で変えてしまったもんなあ。結局首謀者が停学二年他は停学一年、首謀者の一人が卒業後自殺したと聞いてるけど、他は医者になってるねえ。全員僕の選択授業を取ってくれたこともあって知ってるけど、ちょっとおかしいのが多かったねえ、正直医者にはならん方が患者のためやと、今も思ってるから、本当のところ、何がよかったのはわからんけどね。

今回は、最後の授業が終わる週に成績をつけ終えるとつもりやったけど、今日(25日)まで引き摺ってしまったなあ。
140人も登録があったのに、成績を出したのは41人、16人は再試対象です。かなりええかげんやったと思うけど、最初に配ったプリントを読んで、再試期間にしっかりとしたものが提出されれば成績を考えよと思います。

大体、1枚や2枚で、インプットした個々の大量の情報を使って論理的に、客観的に述べるという知的な作業が出来るわけがないやろ。授業に来て提出物を出してるだけで成績をつけてる人も多いんで。(もし内容でチェックしたら、半分以上は不可ややろと思う)

授業料払って授業を受けてるんやから、出席で縛られるのに慣れるのはよくないと思うけどねえ。それと同じように、たいして内容のないのに、実質が伴ってないのに、成績を出さないと成り立たない大学って、必要あるんやろか、とほんまに思うねえ。

後味の悪い授業でした。でも、成績をつけるまではやりました。まだ登録と再試の扱いが残ってるけど。

今さらやけど、普段はだいたい講評については、以下のようなコメントをつけています。

ある一定の基準以上やなあと思えるのは満点、少し工夫すれば満点は秀(大学の規定では九割以上)。満点と秀は以下の通りです。

仮説がないか、はっきりしないもの、調べたものをまとめたもの(いわゆるレポート)、本を読んでの感想、になっているものや、絶対的に量が足りないもの、課題図書を最低1冊は読むなどの基本的な事項を満たしたないのが多かったと思います。ま、それでも、単位はまかしといてや、と言った通り、成績はつけました。
大学では、インプットした個々のインフォーメーションを使って、論理的に、客観的にものを述べるというのは大事なことなので、一つのきっかけにしてもらえたならうれしいです。英語で書いている人もあました。十分に読めるので、自信を持っていいと思います。

本来、書くものは、何をどう書くか、相手に伝えるか、が最終的には善し悪しの決め手になるので、読んだあと、ずーんとこっちに伝わって来るのが、やっぱり一番かな。日本語で書いても英語で書いてもそれは同じやと思います。
ただ、評価には懐疑的な僕としては、この評価が正しいという自信はやっぱりありません。ただ、毎年たくさん読むので、横に並べられる分、レベルの区別は可能なような気がしてるけど、それもどうやろ、ま、そんなところで、毎年うろうろしています。

今年の4月から4年間、「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」で科研費をもらってるので、侵略の系譜のなかで残された文学などについてアフロアメリカでも継続的に書こうと思っています。

進路や英語についても、僕で役にたてることがあるときは、来年までは養育文化棟328、医学科3S17の研究室がありますので、いつでもどうぞ。
8月の初めに、海洋4年の山脇くんが東京海洋大の院の入試問題を見て下さいと来てました。去年アフロアメリカの歴史と音楽を取ってくれたそうです。同じく授業を取ってくれた教育文化学部の立本さんは教員採用試験のお手伝いをして今福岡で教員をしています。川越くんは慶応の院に決まったけど、お金を貯めてからというので大分に戻ってクロネコヤマトで働いています。それからも続きそうな人たちに出会えたのは、この授業お蔭なんやろけどなあ。

やった授業が一覧出来るように授業一覧は作っておきます。最後のプレゼントです。

アフロアメリカの歴史と音楽(前期用)

授業で、これはないやろ、こんな授業ならしたくない、と思ったように、課題を読んでもほぼ読む内容のないのが多かったです。授業を聞いてくれてたんやろか。人に授業料を払ってもらって考える豊かな時間をもらっておきながら、それはないやろ、そう思いました。

最初にも言ったように、僕は定年退職しています。

国立大には65歳以降専任として採用する制度は以前はなかったんやけど、独立行政法人になってからいろいろ大学独自の判断で規定を変えて制度的に新しいことが出来る裁量が増えてるようです。

僕は定年した年の終わりに、新学部(地域資源創成学部)を手伝ってもらえないかと、学長、教育担当副学長、事務局長(所謂トップスリー)から頼まれました。非常勤ではいやなのでと言うと規定を変えるからと言われました。頼まれたのは新学部を手伝って、だけやったんで、今持っている医学科1年生の英語の2クラスと学士力発展科目3クラスは、僕のお節介です。

もちろん、授業でも言ってるように、今の受験に向けた中学や高校では欠落している、自分や社会について考える大学での空間は大事やとずっと思ってきたし、折角大学まで来たら、インプットした個々の大量の情報を使って論理的に、客観的に述べるという知的な作業は大切やと思ってもきました。大学でそんな空間を共有できる立場にいるわけやから、それを大事にしよう、今まで考えなかった分野で学生一人一人の意識下に響くようなことをしよう、と思って30年以上やって来ました。集めた新聞や雑誌の記事も書いたテキストも配るプリントも毎回書くブログも配る資料やコメントなどもすべてそのためやと思っています。毎回8クラスのブログを書くのも、もちろん大量のプリントを印刷するのも、大量の課題を読むのも、大変です。でも、仕事やと思ったことはなく好きなことをやってると思ってやって来られたのは、たぶん人間が好きみたいやし、授業も嫌いでないからかも、案外僕には向いているんかもなあ、と思ってきました。

でも、今回みたいなことがあるとぷつんと切れるみたいやね。ま、今回だけやないけどね。他のくらすのもいっしょに重なったんかも。
それで、すでに後期も取りやめたし、来年も持たないつもりです。大学の一方的なやり方にも切れてしまうところもあって、長くて、約束した新学部の卒業生の出る来年までやろなと思っています。

本当は、10月から医学部の学部長を引き受けさせられる片岡さんみたいに、まだ子供ですからもう一度チャンスを与えて下さい、という寛容さがあればいいんやろなあ。

解剖の授業を受けた医学科の1年生が調子に乗って兎を解剖してネットに載せたのが問題になり、関係した学生8人全員を退学にという教授会での強硬論の流れを一言で変えてしまったもんなあ。普段はすべての議題を入れても2時間はかからないのに、一つの議題だけで、めずらしく3時間ほど教授会で話し合いました。

結局首謀者が停学二年他は停学一年、首謀者の一人が卒業後自殺したと聞いてるけど、他は医者になってるねえ。全員僕の選択授業を取ってくれたこともあって知ってるけど、ちょっとおかしいのが多かったねえ、正直医者にはならん方が患者のためやと、今も思ってるから、本当のところ、何がよかったのはわからんけどね。

今回は、最後の授業が終わる週に成績をつけ終えるとつもりやったけど、今日(25日)まで引き摺ってしまったなあ。
140人も登録があったのに、成績を出したのは41人、16人は再試対象です。かなりええかげんやったと思うけど、最初に配ったプリントを読んで、再試期間にしっかりとしたものが提出されれば成績を考えよと思います。

大体、1枚や2枚で、インプットした個々の大量の情報を使って論理的に、客観的に述べるという知的な作業が出来るわけがないやろ。授業に来て提出物を出してるだけで、(めをつぶって)成績をつけてる人も多いんで。(もし内容できちんとチェックしたら、半分以上は不可ややろと思う)

授業料払って授業を受けてるんやから、出席で縛られるのに慣れるのはよくないと思うけどねえ。それと同じように、たいして内容のないのに、実質が伴ってないのに、成績を出さないと成り立たない大学って、必要あるんやろか、とほんまに思うねえ。

後味の悪い授業でした。でも、成績をつけるまではやりました。まだ登録と再試の扱いが残ってるけど。

今さらやけど、普段はだいたい講評については、以下のようなコメントをつけています。

ある一定の基準以上やなあと思えるのは満点、少し工夫すれば満点は秀(大学の規定では九割以上)。満点と秀は以下の通りです。

仮説がないか、はっきりしないもの、調べたものをまとめたもの(いわゆるレポート)、本を読んでの感想、になっているものや、絶対的に量が足りないもの、課題図書を最低1冊は読むなどの基本的な事項を満たしたないのが多かったと思います。ま、それでも、単位はまかしといてや、と言った通り、成績はつけました。
大学では、インプットした個々のインフォーメーションを使って、論理的に、客観的にものを述べるというのは大事なことなので、一つのきっかけにしてもらえたならうれしいです。英語で書いている人もあました。十分に読めるので、自信を持っていいと思います。

本来、書くものは、何をどう書くか、相手に伝えるか、が最終的には善し悪しの決め手になるので、読んだあと、ずーんとこっちに伝わって来るのが、やっぱり一番かな。日本語で書いても英語で書いてもそれは同じやと思います。
ただ、評価には懐疑的な僕としては、この評価が正しいという自信はやっぱりありません。ただ、毎年たくさん読むので、横に並べられる分、レベルの区別は可能なような気がしてるけど、それもどうやろ、ま、そんなところで、毎年うろうろしています。

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今年の4月から4年間、「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜ーアフロアメリカとアフリカ」で科研費をもらってるので、侵略の系譜のなかで残された文学などについてアフロアメリカでも継続的に書こうと思っています。

進路や英語についても、僕で役にたてることがあるときは、来年までは養育文化棟328、医学科3S17の研究室がありますので、いつでもどうぞ。
8月の初めに、海洋4年の山脇くんが東京海洋大の院の入試問題を見て下さいと来てました。去年アフロアメリカの歴史と音楽を取ってくれたそうです。同じく授業を取ってくれた教育文化学部の立本さんは教員採用試験のお手伝いをして今福岡で教員をしています。川越くんは慶応の院に決まったけど、お金を貯めてからというので大分に戻ってクロネコヤマトで働いています。これからも続きそうな人たちに出会えたのは、この授業お蔭なんやろけどなあ。

やった授業が一覧出来るように授業一覧は作っておきます。最後のプレゼントです。