2000~09年の執筆物

概要

ジンバブエ人口の九十数パーセントに及ぶアフリカ人の四分の三を占めるショナ人と母国語のショナ語と英語をめぐる論文である。イギリス系の南アフリカ人によって侵略されたジンバブエでは、1980年に独立後も、西洋人とその人たちと手を組む少数のアフリカ人が大多数のアフリカ人を搾取する構造を維持しており、その支配体制に応じて言語事情も変化している。多数のショナ人は仕事を求めて英語を使うことを余儀なくされているし、知識階級における英語の重要性も増している。そんな立場にいるショナ人と支配者の言葉英語と母国語ショナ語をめぐる文化状況を分析した。

本文(写真作業中)

ショナ人とことば

ジンバブエ大学

ジンバブエに行ってから、八年が経つ。むこうで色んなことがあったはずなのに、記憶は日常の出来事の中に一つ一つ消えてゆく。

しかし、時折り、脈絡もなく、ある光景が思い浮かぶこともある。ジンバブエ大学のキャンパスの光景など、である。

ジンバブエの人口の九十数パーセントはアフリカ人で、その約四分の三がショナ語を話し、残りはンデベレ語を話すという。その二つのアフリカの言葉と英語が公用語である。

ジンバブエ大学は、南アフリカから移り住んだイギリス系の白人が自分たちのために創った大学で、瀟洒な白人居住区マウント・プレザント地区にあり、広大なキャンパスを持つ。日本では30年振りの大旱魃、と報じられていたが、キャンパスの芝生の上では、毎日、スプリンクラーがくるりくるりとまわっていた。

今は学生の大半がアフリカ人で、講義では英語が使われていた。接した学生は殆んどショナ人だったように思う。見せてもらった授業は英語科の授業だったから、ショナ人同士のやりとりがすべて英語でもおかしくはないのだが、問題は、授業が終わった後も、キャンパスではアフリカ人同士が英語を喋っていたことである。たしか、あの人たちはショナ人かンデベレ人だったはずなのに、みんな英語をしゃべっていた、そう言えば、キャンパスでは一切ショナ語を耳にしなかったような気がする……。

学生数が約一万のジンバブエ大学は人口が約一千万の国の唯一の総合大学で、選ばれた人たちの空間だったが、誰もが生活に精一杯のようで、部外者の受け入れが可能だとはとても思えなかった。英語科に問い合わせをした時も、返事の手紙に、カローラの九十年型を手配してもらえないかとあったから、在外研究員といっても、大学の建物を見てきただけで終わりという可能性もあった。それでも、行く前は、アフリカで家族と暮らせるだけでいい、と思っていた。

ツォゾォさん、アレックス

大学では二人のアフリカ人と親しくなった。英語科の教員トンプソン・クンビライ・ツォゾォさんと、学生アレックス・ムチャデイ・ニョタである。二人とも英語のファーストネイムを持つが、生い立ちなどを聞いているうちに、国の歴史的な経緯や二人の立場の違いなどがわかってきた。

西洋人が来たのは1880年代の後半で、目的は金だった。ケープ植民地相セスゥル・ローズは、第二のヴィットバータースラント(現ジョハネスバーグ)を夢見て、私設軍を送りこんだ。豊かな鉱脈は見つからなかったが軍隊は立ち去らずに侵略を始め、後に大量の移住者が流れこむようになる。

西洋人の侵略と戦ったのは、ツォゾォさんたちのお爺さんの世代だろう。お父さんの世代には、既に豊かな土地は取り上げられ、アフリカ人の大半は安価な賃金労働者に仕立て上げられていた。ジンバブエでは、同じ先祖から枝分かれした一族(クラン)の指導者のもとで農耕や牧畜が行なわれており、二人のひいお爺さんの世代までは、白人の脅威は存在しなかったはずである。英語のファーストネームには、侵略者の享受する豊かな生活に対する、親の世代の憧れや、無意識の願いがこめられていたのかも知れない。

定住した白人は、1920年代に南アフリカとの合併を拒み、独自の路線を歩む。西洋の資本、安価なアフリカ人労働力、豊かな鉱物資源などによって、南ローデシア(現ジンバブエ)は第二次大戦を境に一大工業国になっていた。充分に経済力と軍事力をつけた南ローデシアは、六十年代にイギリス政府の意向を無視して独自の路線を進むのだが、アフリカ人の力を知っていた政府は、アフリカ人中産階級を育てる政策をとった。クランの指導者の家系に生まれたツォゾォさんが、南ローデシア大学(現在のジンバブエ大学)に入学したのもその改革によるもので、1968年のことだった。1500人の学生のうち、300人がアフリカ人だったそうである。

1966年にはソ連と中国の支援を受けて独立闘争が始まり、1980年に独立を果たすのだが、独立は経済を欧米や日本に依存する妥協の産物だった。

独立闘争で活躍したツォゾォさんは、独立後、文部省を経て、ジンバブエ大学の教員となり、副学長補佐に昇任している。アレックスは、頭の良い普通の家の子弟で、奨学金をもらいながら大学生活を楽しんでいた。

ツォゾォさんには授業を見せてもらい、出来る限り話を聞いた。アレックスには子供の英語の家庭教師を頼み、学生寮やアフリカ人居住地区や街中に連れて行ってもらった。短かい期間ではあったが、二人を通してのジンバブエの一端を垣間見たように思う。

ゲイリー

ハラレでもう一人のアフリカ人と親しくなった。私たちがスイス人の老婆から借りた家に「ガーデンボーイ」として雇われていたガリカーイ・モヨ、通称ゲイリーである。ゲイリーは、同じ敷地内の小さな部屋に住んでいた。私たちは雇い主ではなかったから、最初から、友だちづきあいとなった。

到着した七月の終わりに、冬休み(北半球とは季節が逆)を利用してゲイリーの家族がやってきて、同じ敷地内に二家族が同居することになった。私たちの子供二人とゲイリーの三人の子供たちは、通じる共通の言葉こそなかったが、存分に楽しんでいた。

金持ちと貧乏人しかいない国の不動産事情は極めて悪いと言われていたので、ホテル住まいも覚悟していたが、運よく月額十万円の家賃で一軒の家を借りることが出来た。敷金などもなく五百坪ほどの敷地の家を、住んでいたままの状態で借りられたのだから、私たちに不満のあるはずもなかった。

一緒に暮らすうちに、ゲイリーの給料が月に四千円余り、一年の大半は家族と離れて暮らし、親子五人が寝泊りする部屋が、ベットもないコンクリート床の二つの小さな部屋だということなどがわかってきた。子供たちが庭で遊ぶ時に使っていたバスケットボールは、一個五千円ほどだった。

ある朝、ゲイリーは「バケツに一杯お湯をもらえませんか」と言ってきたが、その時初めて、「召し使い」の部屋では、トイレの水のシャワーしか使えないことを知ったのである。滞在中に私たちはゲイリーに色々頼み事をしたが、ゲイリーから頼まれたのは、そのバケツ一杯のお湯だけだった。

 

九月に入るとゲイリーの子供たちのうち二人は田舎に帰っていった。私たちは十月初めの帰国までに二人の小学校を訪ねる計画を立てた。ハラレから百キロほどの所にあるゲイリーの田舎のルカリロ小学校を訪ねたのは、九月の半ばである。運転手つきの車を借りて訪れた小学校では、全校あげての大歓迎を受けた。私たちは村始まって以来の外国人訪問客だったそうである。そこで、その住民の大半と、殆んどすべての小学生がショナ語しか話せず、ゲイリーの家族は、遥かに望む山裾までの広大な土地を持っている事実を知ったのである。ゲイリーも父親も、白人の貨幣経済の渦中に投げこまれ、現金収入を得るために村を離れることを余儀なくされた、典型的な安価なアフリカ人賃金労働者だったのである。

研究室も貰えず、途中でツォゾォさんの昇進人事がなかったら、図書館の利用許可証さえ貰えずじまいになる所だったが、二ヵ月半の短かい期間に、体制側にいるツォゾォさんとアレックスと、搾取される側にいるゲイリーに巡り会えたのは、実に幸運だった。

ことば

アレックスはアメリカ映画の影響で、日本では今も街中にニンジャが走っているのを疑わなかった学生の一人だったが、ある時、経済力のある日本はどうして他の人たちに日本語を話させないのかと聞いたことがあった。

考えてみれば、ほぼ百年の間で、アレックスたちの国の人たちは、侵略者の言葉の英語を日常に使うようになっている。ハラレにいるあいだ、市役所でも銀行でもデパートでも、レストランでもスーパーでも、接したのは殆んどアフリカ人だったが、英語で事足りた。ショナ語で話しかけられたことはない。生活の隅々にまで、英語が浸透していたのである。

ルカリロ小学校の生徒は、英語が苦手だったようである。卒業して街で働き出すときには英語が必要で、必死に言葉を覚えるのだろう。

ゲイリーも日常の生活に支障のない程度の英語を使っていた。その後も手紙の遣り取りをしているが、綴りの間違いはあるものの、意志の疎通には支障がない。

何事も一旦制度化されると、それが一人歩きする場合が多い。元々母国語以外の言葉を覚えるのは面倒で、日本に来る大半の欧米人は、片言以外の日本語を覚えようとしない。それは言葉を使う必然性に乏しいからで、周りにはそういった人がたくさんいる。

ことばが人の文化や生活を伝える手段ならば、昨今の英語の隆盛は、英語を母国語とする人たちの文化的侵略の延長線上にある、と言える。

当初はアメリカの軍事目的でつくられたコンピューターの普及は目覚ましく、使われる言語は圧倒的に英語である。裏を返せば、英語を母国語とする人たちの文化の侵略の度合いがますます高まっているということである。

ショナ人同士が母国語のショナ語を使わずに英語を使いたがる傾向は、その侵略の度合いが、もう抜き差しならない所まできているということだと思う。その現象は、ジンバブエだけでなく世界の至る所にまで及んでいる。

先日も、小田実さんが「まかり通るインド英語支配」というエセイのなかで、家庭内でも子供に英語を話し、欧米国で教育を受けさせるインドの親たちに「それは文化の侵略じゃないのかね」と尋ねたら、「何を言ってる、侵略そのものだ」と言い返されたいう話を記していたが、意識的にその状況に便乗して生きている中産階級層が増えているということだろう。

日本でも英語の第二公用語化の論議が喧しい。国際化に備えての運用能力を高めるためだそうである。そう遠くない将来、ジンバブエのように、都会では意識的に英語が使われ、大学のキャンパスでは、日本人同士が英語を喋るようになっているかも知れない。

執筆年

2001年

収録・公開

「ごんどわな」24号62-65ペイジ

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ショナ人とことば

2000~09年の執筆物

概要

エイズの世界的な蔓延や、エボラ出血熱の大流行の遠因となったザイールの過去の歴史を検証した論文である。ザイールの惨状は豊かな鉱物資源に群がる西洋資本と、その資本と手を結ぶ一握りのアフリカ人が多くのアフリカ人労働者を搾取する体制から生まれたものであるが、その基本構図はベルリン会議後の1886年に承認されたベルギーのレオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」によって築かれた史実を論証した。その基本構図が、その後ベルギー領コンゴ、ベルギーから独立を果たしたコンゴ、アメリカに後押しされたモブツ大統領の独裁国ザイール、そして現在のコンゴ民主共和国へと引き継がれている点も指摘した。

本文(写真作業中)

ごんどわな復刊3号(24号、2001年1月)2-5ペイジ

 

コンゴの悲劇(一) レオポルド二世と「コンゴ自由国」

 

悲劇の始まり

「この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていた。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一頁が始まろうとしていた。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしている……。

しかし、ここ三年の、何という変わり様か!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題である。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりである。」

赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの実情を、米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)にそう誌した。(註1)

レオポルド二世

シェパードはコンゴに赴いた最初のアフリカ系アメリカ人で、「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたのである。

1890年から20年間アフリカで過ごしたシェパードは、レオポルド二世の「コンゴ自由国」の下での「変わり様」を目撃した。

シェパードが続けて誌す。

「どうしてこんなに変わったのか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからである。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしてゆけない。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もない。」(註1)

「認可」を出したのは、1865年に30歳で王位に着いたベルギーのレオポルド二世である。かつてスペイン、オーストリア、フランス、オランダの支配を受け、1830年に独立したばかりのベルギーは、大国フランスとドイツ両国に挟まれた弱小国家だった。両親も本人も、政略結婚を余儀なくされ、家族関係も冷たく、父母の情愛を受けずに成人している。

十歳から軍事教育を受けた王は学業に熱心ではなかったが、地理には関心を寄せた。貿易の利潤に興味を持ち、世界地図を眺めながら、いつかは植民地を手に入れたいと思うようになっていた。王位に着く前年に、イギリス所有のセイロン、インド、ビルマと、オランダ所有の東インド諸島を訪れてから、植民地獲得の夢はますます膨らんでゆく。

ほぼ20年後の1885年に、レオポルド二世は50歳で宿願の植民地「コンゴ自由国」を入手するのだが、小さな国の国王個人が、どうしてアフリカ奥地の広大な植民地を首尾よく手に入れることが出来たのか。

 

「コンゴ自由国」の成立

個人の植民地とは不思議な話だが、王の執念と、植民地列強の思惑と、時代の流れとが交錯して、現実に個人の植民地が成立した。

産業革命を果たした西洋社会は、作り過ぎた工業生産品を捌く市場と、労働者の安価な食料と工業の原材料を求めて、植民地争奪戦を繰り広げていた。ヨーロッパでは、侵略を正当化するための世論が大勢を占めていた。

1876年に王は、アラブ人の奴隷貿易廃止と「野蛮人に文明を」という大義の下に国際アフリカ協会を設立し、本部をブルリュッセルに置いた。すべて、植民地獲得への布石だった。

王は、初めからアフリカに拘ったわけではなく、薄れつつあった王室の権力を取り戻しさえ出来れば、植民地はどこでもよかった。しかし、当時すでに植民地はすべて西欧列強の手中にあり、世界地図の空白は、赤道直下のコンゴ川流域だけだった。世界地図の空白は、ヨーロッパ人「未到」と、他の植民地で手一杯のイギリスも、その地域を挟んで牽制し合うフランスもドイツも、まだ手を出していないという意味合いを含んでいた。王は、その空白に目をつけ、すでに東側から大陸横断を終えて、支援者を探していた英国人探検家ヘンリ・スタンリーに、密かに急接近を開始した。

情報から、王は、コンゴ川流域が植民地には最適と判断し、直ちに、450人の首長からただ同然の価格で広大な土地を買収させた。

スタンリーは、情報と世論の支持とを得るには欠かせない人物だった。世論の操作と外交術に長けた王は、イギリス、ドイツ、フランスの首脳を宮廷に招いては、手厚く遇した。成否の鍵を握るアメリカには、自らも乗り込み、大統領官邸との繋ぎ役には、南部の黒人人口の増加に脅威を感じ、アフリカに黒人を移住させたがっていた下院外交委員会議長のジョン・モーガンを選んだ。アメリカと、「小国なら却って実害がない」と考える西欧主要国の支持を得て、1886年のベルリン会議で、王個人が所有する植民地として「コンゴ自由国」が承認された。

 

「コンゴ自由国」

王は生涯に一度もアフリカに行かなかった。本国から指示を出し、当初は象牙で、後にはゴムで利潤をあげた。力による支配を強行し、劣悪な条件下でアフリカ人を働かせ続けた。

1888年には、ベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げた。

支配の根底には、アフリカ人蔑視の考え方があり、鞭打ちなどの残忍な手法を用いた。象牙の輸送には、急流地域では陸路を使うしかなく、大量の人夫が必要だった。当然、多くの犠牲者も出た。特に、ゴムを運ぶための鉄道建設では「レール一本を繋ぐのにアフリカ人一人の犠牲者が出た」とまで言われた。

1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起きた。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇った。アジアやラテンアメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの二十年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせた。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させた。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れた。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業を強いられた。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だった。

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされたが、その支配は23年間に及んだ。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能だが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されている。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われる。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んだ。

 

(註)

 

1) Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost A Story of Greed, Terror, and Heroism in  Colonial Africa    (Mariner Books, 1998)

 

2) 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びた。

執筆年

2001年

収録・公開

「ごんどわな」24号2-5ペイジ

 

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コンゴの悲劇1 レオポルド2世と『コンゴ自由国』

2000~09年の執筆物

概要

(概要作成中)

本文

ジンバブ大学② ツォゾォさん

ハラレで暮らし始めてからしばらく経ったころ、「在外研究の計画を練りなおしてください」という手紙が舞いこんだ。日本を発ったあとに届いたジンバブエ大学からのもので、同僚の機転で転送されてきたのである。すでに家を借りて生活を始めているのに、まさかそんな手紙が日本から転送されてこようとは夢にも思わなかった。直接差出し人のツォゾォさんの部屋を訪ねたら、授業中だった。授業を中断して出てきたツォゾォさんと、科長室(CHAIRMAN)と書かれた狭い部屋で、二時間ほどは話していただろうか。しかし、七月七日の手紙を意に介している様子はなく、最後まで、手紙の遅れを詫びる言葉はなかった。

「来れば誰でも大歓迎ですよ」

こうして、ツォゾォさんの部屋に通う日々が始まった。

ある日ツォゾォさんの部屋に行ったら、表札の名前が変っていた。英語科の事務室で聞いて捜し当てた先は、管理棟の副学長補佐の部屋だった。隣の小さな部屋には、専属の秘書もいる。部屋にはコピー機まであり、秘書はパソコンを使っていた。図書館では一台のコピー機の前に人の列ができるし、手動のタイプライターでさえ貴重品だというのにである。それから二、三日後、「ツォゾォ、UZで新しいポストを得る」という見出しの記事が「ヘラルド」に掲載された。「ヘラルド」はこの国の一大日刊紙である。かなり大きな記事だから、副学長補佐への昇進は相当な出来事なのだろう。

管理職についてからのツォゾォさんは、前にもまして忙しそうだった。約束の時間に訪ねて行っても、会えない場合がよくあった。運よく部屋でつかまえても、話している間じゅう、ひっきりなしに電話が鳴っていた。インタビューを録音しているときなどは、何度もテープを止めなければならなかった。

「演劇や映画の研究のためにアメリカに留学しましたが、大学院を修了した時点で、アメリカの大学に誘われて、そのまま残るかジンバブウェに戻るか、迷いました」とも言う。

「大体の人が自転車も買えないというのに、家一軒分のベンツに乗ったアフリカ人を見かけましたが、一体この国はどうなっているんですか」と尋ねたら、「ベンツに乗ってドライヴに行こうとしつこく誘う知り合いもいますよ」と言っていた。そう言えば、ツォゾォさんは「自分の車」に乗っている。それまであまり意識はしなかったが、ツォゾォさん自身がかなり選ばれた人の一人なのである。

「独立を勝ち取ってアフリカ人の大統領や高官が誕生したものの、経済力を完全に旧体制に握られたままの状況は、どこも同じですね、新体制は発足しても政治や経済はままならず、選ばれた少数のアフリカ人が今までの白人の役割を演じるだけ、独立闘争での志とは裏腹に私利私欲に明け暮れる、一般の人の生活は独立前と同じか、かえって悪くなっている、自分たちが手に入れた権力を脅かすものがいれば、国の力で反体制分子として抹殺する、そんな今のジンバブウェを見ていると、そっくりそのままケニアの後を追いかけているようですね」と言ったら、「まったくそのとおりですよ」とツォゾォさんが頷いた。

ツォゾォさんの演劇の授業では、人々に選ばれながら私欲に耽るアフリカ人の国会議員を風刺する戯曲を教材に取り上げていた。

授業風景は日本の大学とはいささか違う。日本では最近、授業中の私語や居眠りが問題になっているが、少なくとも私の出た授業では私語や居眠りはなかった。選ばなければ誰でもがどこかの大学に入れる日本の事情とは違って、ごく選ばれた人たちだけが集まって来ているだけに学ぶ意欲が違うという側面もあるが、もう少し現実的な事情もある。大抵の学生には教科書や参考書を充分に買い揃えたり、コピー機を利用したりするだけの経済的な余裕がない。試験前ともなれば、学生が図書館に殺到して特定の本は借りられなくなってしまう。無事に単位を取るためには、授業中に教師の言う内容をノートに書き取るしかない。従って、学生側に喋ったり眠ったりする暇などはないのである。質のよくないノートにインクの出方の悪いボールペンを使って、学生はうつむいて、ただ黙ってひたすら速記の機械の如く書き移す作業に専念するのである。

しかし、演劇の授業はやや趣が違った。歌あり、演技指導ありである。舞台施設のある講堂での講義の前には、準備体操をする。円になって踊りながら、一人を円の真ん中に呼び出して簡単なオリジナルの踊りをさせる。手拍子を取り、歌いながらである。ツォゾォさんも加わって、一緒に楽しそうに踊っていた。発声のための体馴らしでもある例年十月に授業の集大成として公演をするらしく、配役や演出の担当を決めて、授業中に何度も劇の読み合わせを行なっていた。

十月四日の公演にはぜひ来てくださいと学生から言われていたが、あいにく私たちはその日にはもうハラレにはいない。何もなければ、パリにいるはずだった。

 

ツォゾォさんの生い立ち

ツォゾォさんが生まれた1947年は第二次大戦が終わった直後で、欧米諸国は自国の復興に追われて、アフリカの植民地どころではなかった時期である。アフリカ諸国では、ヨーロッパで学んだ知識階級を中心に、独立に向けての準備が着実に進められていた。

ツォゾォさんは国の南東部にある小さな村で生まれた。その村には、第二次大戦の影響もほとんど及ばなかったと言う。

広大なアフリカ大陸である。隅々にまでヨーロッパ人の支配が行き届いていた訳ではない。ヨーロッパ人の侵略によってアフリカ人はそれまで住んでいた肥沃な土地を奪われ、痩せた土地に追い遣られていたので昔のようにはいかなかったが、それでもツォゾォさんが幼少期を過ごした村には、伝統的なショナの文化がしっかりと残っていたそうである。

同じ祖先から何世代にも渡って別れた一族が一つのまとまった大きな社会〓クランを形成し、一族の指導的な立場の人が中心になって、村全体の家畜の管理などの仕事を取りまとめてきたという。ツォゾォさんはモヨというクランの指導者の家系に生まれたので、比較的恵まれた少年時代を過ごしている。

ツォゾォさんがジンバブウェ大学(当時はローデシア大学と呼ばれていた)に入学した1968年頃の社会情勢は非常に緊迫していた。1965年にイギリスの意向を無視して一方的に独立を宣言し、強硬に白人優位の政策を進めるスミス政権に対して、アフリカ人側が武力闘争を開始していたからである。アフリカ人と白人との対決姿勢はますます鮮明になり、人種間の緊張は高まっていった。

イギリス政府に後押しされ、国内の産業資本家を支持母体とする時の与党統一連邦党は、大多数のアフリカ人を無視しては国政を行なえない状況を熟知していたので、かなりの数のアフリカ人中産階級を育てて自らの陣営に組み入れようと様々な改革を行なっていた。その政策によってツォゾォさんもジンバブウェ大学入学が可能になったという訳である。(大学案内によれば、入学者数は初年度1957年が68人、独立時の1980年が2240人、1990年が9300人となっている。ツォゾォさんの学生時代が1500人で、私たちが訪れた1992年でも、学生総数は約一万人だと言われていたから、ツォゾォさんも含めて、大学教育の機会を得た人はほんの一握りの選ばれた人たちであったのは確かである)

ツォゾォさんも当然、闘争の渦中に巻き込まれている。取り込むべき「中産階級」の子弟であるツォゾォさんは、政府の思惑とは裏腹に、1971年までの学生時代の三年間も、モザンビークの国境に近い東部のムタレなどで中学校の教員をしていた時代も、ハラレの教育省に勤務していた期間も、闘士として解放闘争の支援を続けた。

人種差別政策の厳しかった当時、白人地域に出入り出来たアフリカ人は、白人の下で使われる労働者に限られていた。大学は白人地区にあったので、キャンパス内だけは特別な扱いを受けていたが、近くの白人地区に足を踏み入れたとたんに警察に逮捕される仕組みになっていたと言う。

学生1500百人のうち五分の一の300人がアフリカ人であったそうだが、同じ卒業生でも白人とアフリカ人では給料の格差が著しかったので、1971年には、大学生のストライキが行なわれ、翌年には全国的なストライキが敢行されたそうである。その時は逮捕はされなかったものの、警察と激しく衝突したという。事態を憂慮した穏健派アベル・ムゾレワ主教が大学に来て、事態を収拾した。

隣国の独立や各国の経済制裁で追い詰められたスミス政権は、南アフリカからの唯一の資金援助を後ろ盾に、アフリカ人の抵抗運動に対して容赦ない弾圧を加えた。

 

1976年になると、アメリカが介入の手を延ばし始める。ZANUがソ連から、ZAPUが中国からそれぞれ闘争の支援を受けていたために、東側、特にソ連とキューバの介入をアメリカが恐れたからである。

アメリカと近隣5ヶ国に、投資の利潤で甘い汁を貪ってきたイギリスなどの西側諸国も加わって、事態の収拾に向けての様々な会談や調停が繰り返された。そして、1979年にイギリスのランカスターハウスで行なわれた会議で、ようやく最終案が成立した。

翌年の1980年2月の選挙では、ZANUが57議席、ZAPUが20議席、穏健派の統一アフリカ民族評議会(UANC)が3議席を取り、四月にはZANUのムガベを首班とする黒人政権が誕生した。

しかし合意された最終案は、白人の特権を保護するなどの条件がついた妥協の産物であったため、独立とは名前だけの船出となってしまった。政治や行政面ではアフリカ人が権利を勝ち獲ったものの、経済面や技術分野での主導権は白人や外国資本に握られて、基本的な搾取構造は変わらなかったので、大半のアフリカ人の生活は苦しいままであった。

独立闘争での働きも大きかったので、ツォゾォさんは、新政権の下で重用されている。1984年からは、ジンバブエ大学での研究生活が始まった。1986年にはフルブライト奨学金を得て、アメリカ合衆国のオハイオ州立大学に留学し、二年間で演劇と映画の学位を取ったそうである。帰国後、1992年の8月に副学長補佐に昇進した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」23号(復刊2号)74-77ペイジ

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ジンバブエ大学② ツォゾさん

2000~09年の執筆物

概要

ジンバブエ大学の英語の授業で出会ったアレックス。教育学部3年生で、住んでいる学生寮に案内してくれ、友人も紹介してくれました。相性がよかったのか、いろんな話をして、アフリカ人の住むムバレにも案内してくれ、インタビューにも応じてくれました。長女と長男の英語の相手をしてくれ、長男とはカンフーのアチョーというかけ声をかけながら楽しそうに戯れたりしていました。卒業後は外国に出稼ぎに行くと行ってたけど、どうしてるかなあ。

本文

ジンバブ大学 ①  アレックス

ツォゾォさんを訪ねた最初の日、部屋では五人の学生が授業を受けていたが、その中にアレックスがいた。

ムチャデイ・アレックス・ニョタ。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドゥルネイムのアレックスが英語の名前である。

アレックスと仲よしになったのは、偶然である。

教育学部棟を背景に

 アレックスが受けていたツォゾォさんの授業は、ここ数年来ツォゾォさんが英文科の学部生を対象に講じていた映画・映像に関する特殊講義だった。

教育学部棟

 2回目の授業の時、ツォゾォさんがビデオカメラの簡単な説明をしたあと、学生たちはカメラを抱え、好きな映像を撮るためにキャンパスに出ていった。学生は1時間ほどして戻ってきたが、処女作の出来栄えが気になるらしく、来週の授業まで待てないので、出来るだけ早く観る機会を設けてほしいと言い出した。

映画・映像に関する特殊講義のツォゾォさん

 私も誘われて、約束の金曜日の2時に、ツォゾォさんの部屋まで出かけて行った。しかし、半時間が過ぎても、人の気配がない。ツォゾォさんの部屋も閉まったままである。これがアフリカ時間なんだろうなと諦めかけていたとき、アレックスがムタンデという学生と一緒に姿を現わした。

ムタンデといっしょに

 階段の踊り場で、話をしながら三人でしばらく待ってみたが、結局ツォゾォさんも残りの学生も姿を見せなかった。仕方なく解散しかけた時に、アレックスが折角ですからキャンパスでも案内しましょうかと言ってくれた。

構内のアレックス

 図書館や管理棟や学生会館に案内してくれた。会館の入り口で、アイスキャンディを買い、三人は食べながら並んで歩いた。3本で、3ドル程度だったように思う。

ジンバブエ大学構内

 それから、アレックスが住んでいる寮に案内された。最上級の3年生用の寮で、12月の初めには、この寮を出て就職先が決まるまで一時田舎の自宅に帰るらしい。机とベッドが備え付けられた狭い部屋だが、日当たりもよく清潔な感じである。3食付きで、共同のシャワーがあると言う。

学生寮ニューホール

 部屋には、本棚にラ・グーマの本や英語の辞書などが少々並べられてあり、ダブルカセット付きのラジオカセットが置いてあった。

しばらく喋ったあと、何か飲み物でも買って来ませんかと私が気をきかせたら、それじゃ売店までみんなでコーラを飲みに行きましょうとアレックスがいう。中身より瓶の方が高いので、その場で飲む人が多い。冷蔵庫が貴重品なので、清涼飲料水を冷やしておくのもなかなか大変なのである。もちろん誘った私が払うつもりでいたが、支払う段になって、アレックスがどうしても自分が払うと言い出した。折角の好意なので、ここはアレックスの顔を立てることにした。

帰りには、アレックスが近道を行きましょうと学校の外れまで送ってくれた。学費を払うだけでも大変でしょう、無理しなくてもよかったのにと話したら、アイスキャンディのお礼ですよ、おごってもらったら、お返しをするのがショナのやり方ですと言う。コーラの値段を聞いたら、中身は一本75セント(20円足らず)ですと教えてくれた。

長男に英語を

 アレックスとは色々な話をした。

大学の3年間は楽園ですよとアレックスが言う。大学に来るまでも大学を出てからも、どうやって食べていくかの心配ばかりですが、少なくとも寮にいる3年間は、1日に5ドルで3食が保障されていますから、その心配をしなくていいだけでも天国ですよと付け加えた。

寮でアレックスは、何人かの友人を紹介してくれた。それぞれ国中から集まってきた精鋭だが、日本ではいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいた。街には日本のメイカーの自動車が溢れているし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのにである。

かっこいいジョージ(小島けい画)

 アメリカのニンジャ映画の影響らしい。アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、野性動物と一緒に暮らせていいですねとか、ライオンには気をつけて下さいとか言う人もいたから、まあ、おあいこだねと説明したら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えて言う。

しかし考えてみると、実質的に国内唯一の総合大学ですらこうなのだから、西洋の侵略を正当化しようとする力や、自らの利益を優先するためにあらゆるメディアを巧妙に操作しようとする自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいだろう。日本でのアフリカの情報にも、この国での日本の情報にも、欧米優位の根強い偏見がしみついている。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買って、ぶっ飛ばすことだと言う。周りの者も頷いている。私が車に乗らないと言ったら、アレックスが怒りだした。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張るのである。

アレックスと

 車中心のこの社会では、車は必需品には違いないが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思った。車を手に入れたいというアレックスの願いと、出来れば車文化の渦中に巻き込まれないでいたいという私の思いの間には、想像以上の隔たりがあるように思えた。

アレックスの生い立ち

アレックスは、1965年に国の中央部よりやや南寄りの田舎で生まれた。田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようで、学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行ったそうだ。

中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅かに二人だけだった。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、子供の教育費まで捻出して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからである。

普段の生活は小さい時から、一日中家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。

「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ」とアレックスは述懐する。

小学校では教師が生徒をよく殴ったらしい。遅れてきたりした場合もそうだが、算数の時間などは特にひどかったようだ。

「植民地時代のヨーロッパ人の考え方の影響ですよ。ヨーロッパ人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、ヨーロッパ人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……全寮制の中学校は、その点、まだましでした」と続けた。

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは二人だけであったらしい。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていない。

田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもなかったので、誰もが教員になりたがったと言う。アレックスも中学校の教師になった。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうだ。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があった。小学校もたくさん作られ、誰もが5キロ以内の学校に無料で通えるようになった。中学校もたくさん作られた。当然、教員は不足し、経験のない俄仕立ての教師が生まれた。アレックスもその一人である。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった1979年から独立時までは閉鎖されていたらしい。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたという。勉強どころではなかったのである。そのあとの激変である。混乱の起きないはずはない。

「もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……」

アレックスは高校には行けなかったが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうである。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したという。その同僚の存在が大いに刺激になったらしい。無事に通信課程を終えて、1990年から大学に通うようになった。

借家内でアレックスと

 アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうだ。毎日が大変な田舎の暮らしに比べるとという意味合いもあるが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだという。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えた。

自動車業者との癒着が発覚して、閣僚の一人が辞任した1989年の10月に、大学から街中まで初めてデモ行進が行なわれたそうである。街中では、失業者などが加わって大変な騒ぎになったので、それ以降は警備も厳しくなったようだ。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になるという。

その年の4月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていた。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめると、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということだった。

「ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……」と私が話し始めると「それは実際には少し違います」と遮って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれた。

ウォークマンで尾崎豊を聴くアレックス

 独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファースト・ワールド・カントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……

独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権に就いたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することに頭が一杯で、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして「白人」以上の白人になるのは本当に早かったですよ。

この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は40パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。

お昼に行ったシェラトンで従業員の人といっしょに

 最後の辺りのアレックスの語気は強かった。どうしようもない怒りを必死に堪えているようだった。そして「教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです」と付け加えた。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、8月17日の「ヘラルド」紙に「多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている」という見出しの記事が掲載されていた。

記事では、アレックスの指摘した税金の重さについての言及はなかったが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事についてよかったと思えるかどうかだろう。「いくら何でも不公平ですよ」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないだろう。南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるだろう。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……

卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」

アレックスのい従姉妹と長女と、スクエア・ガーデンで

 私にはその問いかけに答える術もなかったが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはなかった。

執筆年

2000年

収録・公開

「ごんどわな」22号(復刊1号)99-104ペイジ

「ごんどわな」22号

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ジンバブエ大学① アレックス