2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の2回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
(2) 第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第2章 ケニア中央病院(KCH)

私の父アレックス・ロレンゾは最も厳しい時代を生きながら15人の家族を養ってきました。僅かしかなかった全てを6人の息子と7人の娘のために犠牲にしました。その大部分は子どもの教育に使いました。私が白衣を着て胸から聴診器をぶら下げている姿を見ながら、父の顔は光輝き、誇りに満ちていました。父は自分の激動の人生が絶頂期に達したと感じていたのでしょう。

*************************

私たちは7月の肌寒いその日の朝、タラを出ました。相変わらず、乗り合いバスはぎゅうぎゅう詰めでしたが、これが最後の乗り合いバスになるんだと心に誓っていましたので、嫌な思いもしませんでした。父親は多くは口にしませんでしたが、今度はきっと私が自分の車かオートバイでタラに帰って来ると期待していたようです。

シルベスター・オルオッチ教授は、イバダン大学からの私の書類を読み終えるとにっこりして、「そうか、ダンボは、大学の副学長になったのか。」と言いました。

ナイジェリアイバダン大学

「はい。正確には去年からです。ダンボ教授をご存知なのですか?」と私は答えました。

「1965年にマケレレ大学で一緒に教壇に立っていたんだよ。ビアフラ戦争が勃発したんで、奴は国に帰ってしまったがね。」と教授が言いました。

マケレレ大学

父親は、私を学校へ連れて行った時に昔からそうだったように、私たちが喋っているのをじっと見ていました。私が28歳の大人になっても、まだ世話の焼ける少年のように思っているらしく、医者の象徴とも言える白衣を着るのを手伝ったりするのです。私の手を握り、ナイロビで何をしても、タラを忘れるんじゃないぞ、と諭すのです。

「忘れないよ、父さん。すぐにまた会うさ。」と、私が念を押すと、父は帰って行きました。

「さて若いの、これから何をやりたいのか考えたかね?」とオルオッチ教授が聞いてきました。

「いえ、先生。脳神経外科も行きたいんですが、当分は勤務医でいこうと思っています。」

「私たちの管轄の第20病棟に、脳神経外科の患者が一人いたな。そこで始めたらどうかね。指導医はワウェル・ギチンガ医師で、君はその人に就くことになる。C棟にあるがね。」と、教授はそう付け足すと、私を出口の方に促しました。私は、密かに自分に誓いを立てました。

「ジョゼフ・ムングチ、キロンゾの息子。医学と化学の学士さま、お前は、この国で1番の脳神経外科医になるんだ!」と自分の胸に黙って誓いを立て、私は「愛しのロリポップ」を鼻歌で歌いながら、第20病棟のあるC棟に向かって、一人元気よく歩き出しました。

ギチンガ医師は、192センチもありギクユ人にしては大柄で眼鏡をかけており、少し吃音混じりで話をしました。40代前半だと思いました。

「で、君が、わ、私の、け、研修医だね。イバダン大学で学んだのか?ま、まさか、あの忌まわしいヒポクラテスの誓いをやらされてなければいいんだがね。」と、ギチンガ医師は続けますが、私の方は神経がぴりぴりし始めてきました。

「もちろん、やらされましたよ、先生、ここではやらないんですか?」と、ギチンガ医師からさっき聞いた異説に完全に面喰らいながら私は言いました。

「前にね、君、絞首刑執行人の話を読んだことがある。首に縄をかける前に、死刑囚にこう言うんだ。『刑を執行しても、囚人を更生させることも、残忍な傾向を抑えることも出来ないが、自分の子どもの生活の糧のためには、絞首刑も必要なんだよ。」と。すると、死刑囚は決まってこう言うのさ。『何ぐずぐずやってやがる、早いとこ俺らを吊して、尻の穴にキスしな』、とね。」

「でも先生、ここは病院で、刑務所ではありませんよ。」

「違うね、きみぃ。ここはね、自分のことを医療関係者だと名乗る、全てのいかれた連中の監獄だよ。一度放り込まれると、善悪の判断、知能、理性は消えて無くなるのさ。ロボットやコンピュータが引き継ぐ方がいいと思うことさえあるよ。私の言ったことを、よく覚えておき給え。でないと、第20病棟に足を踏み入れた日を後悔しながら君は生きることになるぜ。」

私は、ギチンガ医師がなぜ早々に第20病棟のことを諭すのかが分からずに戸惑いましたが、すぐ後で私は知ることになるのです。

ギチンガ医師は、病棟を案内して、最初は診察室に、次に看護師の詰所に私を連れて行きました。詰所では、青い制服を着た愛らしい20歳の女性に会いました。

「アイリーン看護師だ。」

「おはよう。」と、私は言いました。

「おはようございます。先生。」

「いや、まだ医者じゃないよ。」と、ギチンガ医師に訂正されて、私は恥ずかしい思いがしました。こういう風に、経験豊かな自分と研修医をしっかりと区別したかったのでしょう。それから2人は、患者を診に行きました。

「こっちはンジョグだ。ンジョグは髄膜炎の患者だ。あれは麻痺が回復中のオパップだ、小児麻痺の後遺症で時々軽い発作は起きるがね。ここでは先週、患者が1人亡くなった。しかし、いつものやり方でやってたら、あの患者は死ぬことも出来なかっただろう。」と、空きベッドを指差しながら、ギチンガ医師が言いました。

「何のことですか、先生?」と、私はこの変わり者の医師に更に興味がわいて尋ねました。

「今にわかるさ。」と、ギチンガ医師はそう言うと、第20病棟の一番奥の、カーテンで仕切られたベッドの所に私を連れて行きました。

ギルバートは生命維持装置に紐でくくられていました。もう22ヶ月になりますが、KCHでは最も有名な患者でした。交通事故で、脳と心臓と肺以外は、すべてが麻痺してしまっていたのです。鼻から食事を与えられ、肺で呼吸をしていますが、固形物は食べられませんでした。命を支えているのは呼吸器官と点滴だけです。話は出来ませんが、きらりと光る両目だけが生き生きしていました。頭を120度ほど左右に動かして、目をきょろきょろ動かせますが、それが自分の意思で出来る唯一の動作です。他は動きませんでした。22ヶ月もの間、第20病棟のベッドに横になり、神の手に委ねる以外にそこから逃れる術はなかったのです。

「ユーサネイジアを君はどう思うかね?」と、ギチンガ医師が聞いてきました。

「ユーサネイジア?」

「そう、ユーサネイジア、安楽死のことだよ。」

「聞いたことがありません。」と、患者の聞こえる所でそんな話をする気にはなれませんでしたので、私は嘘をつきました。

「ダンボ教授は、医療倫理について話をしたことはないのかね?」と、ギチンガ医師が尋ねました。

「中絶、試験管ベイビーについては講義をして下さいましたが、殺人に関する講義は1度も無かったです。」と、私は嘘を重ねました。

「いいかね、ここにいるギルバートは死にたがっている。投薬をする時はいつも、怒りで発狂しそうに見える。感じているはずの切なさから自分を救ってくれと、ギルバートの目が訴えてくるんだ。しかし、敢えて誰もその懇願に応えようとしない。人間の命は奪わないと誓ってしまえば、こういったケースが非常に難しい決断になることもある。」と、ギチンガ医師が諦めたように言いました。

「しかし私たちは、痛みを長引かせないとも誓ったはずですよね?」

「そうさ。しかし、人間に何が出来る?」と、ギチンガ医師は力なく答えました。

オランダはこのような現実を受け容れていましたが、私たちが違う立場に立っていることもわかっていました。しかし、ケニア中央病院もいつか現実に目覚めてほしいと心から思いました。

これが、この病院の指導医が言うところの、我が入獄の第1章だったのです。規則を遵守するのを無視した方がいい場合もあります。希望もないのにギルバートにだけ使うので生命維持装置が足りなくなって、これまでに11人の別の患者がどういう風に亡くなったかを、私はギチンガ医師から聞かされました。看護師や研修医は皆、第20病棟での夜勤を恐れていました。ギルバートが死亡した際の担当医は誰であっても、医療行為を行なう資格を剥奪する、と病院長が言明していたからです。ギルバートは、ケニア中央病院に来る全ての医師の恐ろしいアキレス腱になっていました。プロの医療行為の資格を得ようとする人には、ギルバートは資格を取得できるかどうかの試金石でもありましたし、そのために、畏れと憎しみが入り混じった形でギルバートが受け止められていたのです。

ナイロビ市街

第3章 ンデル診療所

「泥棒や強盗や不誠実な人間ばかりだったら、君はどうやって自身の誠実さを持ち続けていくかね?」と、あるときギチンガ医師が私に尋ねたことがあります。

「わかりません。」と、私は正直に答えました。

「この病院では、私たちは医薬品に関して公正であるように求められているが、最高会計理事会は、医薬品の入手方法でずっと不正を働き続けてきている。」

「まさか!」

「あいつらは、俺たちのような医者には僅かしか払わないくせに、外国から来た医者には家を与え、ケニア人の医者の3倍もの給料を払ってるぞ。俺たちには使えない政府の車も使える。奴らには3ヶ月の休暇があるのに、こっちは1ヶ月ときている。それでも、あくせく汗水たらして、ただ効率良く仕事をするというわけさ。」

次の日曜日、ギチンガ医師は私を自分の村に連れて行ってくれました。ケニア中央病院から道中ぎしぎし、がーがー音を立てっぱなしのおんぼろフォルクスワーゲンに乗って、ダゴレッティ交差点、カワングワレ、ウシルを通り過ぎ、ナイロビーナクル線にやって来ました。ウシルでは、ナイロビ行きの乗り合いバスに、もう少しでぶつかりそうになりましたが。

「あれは、私が通った小学校だ。当時は、今頃億万長者になっていると夢みたものだが、ま、ごらんの通りさ。私はKCHに巣食う鼠のように、いまだにもがいてるよ。」と、ギチンガ医師は言いました。私は、物事がすべて空しく見えてしまうこの人に、何を言えばいいのかを考え始めていました。その人の病院での生活も、その人の人生観も、存在の負の部分が元になっていたのです。

「しかし、どれだけのケニア人が仕事だけでなく、車も持ってますか?何人のケニア人が医者をやってますか?」と、私はギチンガ医師にものごとの違う面を見てもらいたいと思って尋ねてみました。

「その人たちは7年もの間、解剖死体を扱ったり、臭いのきつい傷口の処置をしたり、感染の危険を覚悟で結核や淋病の患者を診たりはしてきていない。先の希望がない患者が話す哀しい話を1日中じっと座って聞いていたと言う人もいないよ。」

私は、どぶさらいやポン引きに売春婦、麻薬売人や囚人に悩まされる看守などについて話そうかとも思いました。普段は社会の底辺にいる人たちと接することが多くなる警察官の話もしたいと思いました。ひどい臭いの通りを巡回する人たち、その人たちの出来事の多い人生が社会の弱者といつもいっしょなのです、とも言いたかったのですが、言わない方がいいと思って黙っていました。

20分で、ナイロビの金持ちだけがゴルフの出来るシゴナクラブに着きました。モービルガソリンスタンドにさしかかったところで、左折してムガガに入り、そのまままっすぐ進むと、ンデルという町に出ました。私たちは、円形競技場のような市場の中央に建つ木造の建物の前で車を止めました。その表玄関には、太字で次のように書かれていました。

ンデル クリニック
医師 ワウェル・ギチンガ
医学士、化学士(マケレレ大)

私は信じられない思いでギチンガ医師を見ました。そうです、病院のこの鼠は、診療所を持っていたのです。

「若いの、ここで小遣い銭が稼げるぞ。ま、私に協力すればの話だが。政府の決定によれば、臨床の職員が診療所に人員を配置してはならず、資格のある医師が……つまり、事実上、君には資格があるし、実際の業務は、先輩の医師が教えてくれる。ンデル全体の性病患者を治療すれば、あんたの研修医の給料の2倍は稼げる。」
2人は大股でクリニックの中に入っていくと、そこには、白衣を着て聴診器をぶら下げた60歳前後の男性が、眠そうに木製椅子に座っていました。

「おはようございます、ギチュア先生。こちらはムングチ医師、これからあなたと一緒に働いてもらうことになります。」と、ギチンガ医師が口火を切った。

「おはようございます。」と言って、私はひどく痩せた手を握った時、ひどく酒臭い息を吸い込んでしまい、その場で酔ってしまいそうな気分でした。

「どうぞ、よろしく。」と、ギチュア医師は、私の心に探りを入れようとする時に昔よく父がしていたように、私をまじまじと見つめ始めました。ギチュア医師はにっこりと笑いました。どうも、私のことがすぐに気に入ったようです。私は思わず引き込まれてしまいました。酔っ払った様子もそうですが、ギチュア医師は父にそっくりだったのです。ぜい肉のない体、鋭い眼光、陽気だが、いざという時には、威厳があってかつ頑固な気質が見て取れる鋭い目つきをしていたのです。

「今回は、一緒にこの町を出て行こう。」と、ギチンガ医師が付け加えましたが、私はどういう意味なのかを図りかねて当惑してしまいました。ンデルの秘密の詮索はやめよう、と決心したものの、私はこの診療所になぜか宿命が待ち構えているような気がしたのです。

HIV

●「ナイスピープル」(3)→「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(3)第4章 アイリーン・カマンジャ」「モンド通信 No. 8」、2009年1月10日)

●作品解説(2)→「『ナイスピープル』理解2:エイズとウィルス」「モンド通信 No. 10」、2009年5月10日)

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

2009年1月8日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 4

ダウンロード

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(2)第2章 ケニア中央病院(KCH)・第3章 ンデル診療所

2000~09年の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の1回目です。日本語訳をしましたが、翻訳の出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や雑誌を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(1) 著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

「エイズにやられる危険性は殆んどないという危険な思い込みが富裕層に蔓延していることもあり、今や世界で15万人近くもいると言われているエイズ患者は、きっと今年中に倍になると思います・・・・」
1988年       世界保健機構医師    ジョナサン・マン

著者の覚え書き

『ナイスピープル』の中で、どうしても書いておきたかったことがあります。1987年6月1日付けの「シドニー・モーニング・ヘラルド」紙の切り抜きです。3年後に今その記事を再現することになりました。

「アフリカのエイズ、未曾有の大惨事となった危機」(ハーデン・ブレイン報告)
(ナイロビ発)中央アフリカと東アフリカでは人口の4分の1がHIVに感染している都市もあり、かつてない大惨事だと思われています。

この命を脅かす病気は世界で最も貧しい大アフリカ陸には、特に厳しい脅威となっています。専門知識や技術を要する、数少ない専門性の高い職業人の間でもその病気が広がっているからです。

アフリカの保健機関の職員の間でも、アフリカ外の批評家たちの間でもある意味、エイズの流行でアフリカの何カ国かは「国そのものがなくなってしまう」のではないかと言われています。

病気がますます広がって、既に深刻な専門性の高い職業人の不足に更に拍車がかかり、このまま行けば、経済的・政治的・社会的に必ず混乱が起きることは誰もが認めています。

世界保健機構(WHO)によれば、エイズは他のどの地域よりもアフリカに打撃を与えています。今年度の研究では、ある都市では研究者が「驚くべき割合」と記述するような確率でエイズが広がり続けているというデータが出ています。

第三世界のエイズのデータを分析しているロンドン拠点のペイノス研究所の所長ジョン・ティンカー氏は、「死という意味では、アフリカのエイズ流行病は2年前のアフリカの飢饉と同じくらい深刻でしょう。しかし、飢饉は比較的短期間の問題です。エイズは毎年、毎年続きます。」

世界の多くの国では、基本的に同性愛者間の性交渉や静脈注射の回し打ちや輸血を通してエイズが広がってきましたが、アフリカでは主に異性間の性交渉を通して病気が広がっています。

アフリカでは、70年代後半から80年代前半に病気が始まって以来、男性も女性も数の上では同じ割合で病気にかかっています。

アフリカでは性感染症を治療しないままにしている割合が高く、その割合の高さがエイズの広がりの大きな要因になっている可能性が高いと多くの研究者が主張しています。

WHOのエイズ特別計画の責任者ジョナサン・マン氏は、一人当たり平均約1. 75米国ドル(2.40オーストラリアドル)しか医療費を使わないアフリカ諸国の保健機関にてこ入れをして教育への直接の国際支援と血液検査を行なえば、病気の広がりを抑えることが出来ると発言しています。

ジョナサン・マン

序章

ムンビの葬式にはたくさんの参列者がありました。ドクターGGには友人が多数いて、それも生存中のンデル出身の友人が多数いると誰もが信じていました。これまでドクターGGは、数多くの出産と少年の割礼に立ち会ってきました。咳や淋病熱の患者もたくさん診てきましたし、最近では、「スリム病」という独りよがりの診断を信じ切っている患者も助けてきました。

エイズ患者

私は敢えてドクターGGを見ませんでした。ずっと耐えてきた苦しみがわかっていたからです。父娘の絆が他の誰よりもずっと深いのを、長年身近にいた私はよく知っていました。娘を心から大切に思い、ムンビもまた父親をとても大事に思っていました。一度ムンビに、父親と同じくらい大切に思えた人はあなただけよ、と言われたことがあります。しかし私がムンビの思いに応えることが出来なかったのですから、私への思いが枯れても仕方のないことでした。私が与えられなかった温かい家庭と家族を求めて、ムンビは私のもとを去り、ヘルシンキへ発ってしまったのです。

ムンビは私にはずっと特別な人で、聡明で勇気もあり、決断力もありました。また、本当に素直な人で、メアリ・ンデュクのように偏見を持ったり、人に厳しい態度を取ったりすることもありませんでした。自分の感情に素直で、自分の感じることや信じることを隠さなかったのです。そうした正直さゆえに居ても立ってもいられずに、生まれて来た男の子の父親であるブラックマン船長に忠実であれと信じながら外国に渡ったのです。

辺りを見回すと、ムンビの母親が何事もなかったかのような顔をして立っているのが見えました。とても死者を悲しんでいるようには見えませんでした。私に気がついて微笑みましたが、私はとても笑える状況ではありませんでしたので視線をそらし、メアリ・ンデュクとユーニス・マインバが動揺しながらも話し続けるのを見つめていました。なぜ性格のまるで違う二人が一緒にいるのだろう、と私は不思議に思い、その時、自分がそれまで見てきた、人と人とが織り成してきた出来事に思いを巡らせました。アイリーンがドクターGGの隣に立って、自分の職場の同僚を慰めようとしているのがはっきりと分かりました。自分の娘が遠く離れたフィンランドで死んだと聞かされた時に、ドクターGGが心に受けた打撃の大きさを思わずにはいられませんでした。

いよいよ、持っていた花を棺に投げる私の番になりました。たくさんの参列者がムンビに最後のお別れをして遺体から離れて行くのを、私はずっと見ないようにしていました。花が棺に落ちたその時、それまで必死に堪えていた涙が溢れてきました。最後に泣いたのは何時だったかは思い出せませんでしたが、私はその温かい液体が流れるままにしていました。ここに横たわるムンビ、愛おしく、素直で、決して争わず競争相手にも道を譲るような素敵な人だったと私は思い返しました。ムンビは、私とメアリ・ンデュクとの仲が原因でモンバサを離れましたが、自分の産んだ男の赤ん坊が私の迷惑になると考えてカナンホスピスを去り、馴染みの人たちと気楽に暮せるようにと願って、帰郷したブラックマン船長の後を追ってこの国を去ったのです。

モンバサ

ガイ神父は30年以上も前に、ラザラスという名の男性の病気をイエス様がお癒しになったという説教をされたことがあります。神父は、民に神の偉大さを信じさせようとしてその男は病気になったのだ、と言われました。ムンビも同じ理由で死んだのだろうか、と私はふと思いました。タラ高校で何度も言い聞かされた愛の神は、ムンビに死をもたらし、私の医者としての資格を奪いそうになった疫病を引き起こした神と同じだったのでしょうか。ディン・シン医師は同じ神を信じていました。ワウェル・ギチンガもそうです。ディン・シン医師は辛うじて逃亡できましたが、ギチンガ医師は逃げ切れませんでした。神とは、ある者には与え、ある者には与えないという差別をする神だったのでしょうか?メアリ・ンデュクが生き残っているのに、ムンビのような聖人を殺した同じ神・・・。こんなことを考えながら、私の心はすっかり混乱していました。

ドクターGGの娘の亡骸を納めた棺に背を向けて、私はその場から立ち去りました。その時誰かが、私が倒れないように腕を掴んできたのを感じました。シスター・アイリーンでした。仕事に忠実なこの看護師が、私にどんな過酷な出来事が起きても、いつも傍にいてくれたことを私は思い出していました。そうです。病める者や悩める者が心安らかにいられるように、アイリーンのような聖人をも神様は遣わして下さっているのだという事実にも気が付きました。私はアイリーンを見つめ、私のことを気遣ってくれる人が本当に必要だとしたら、アイリーンこそが喜んで私を大事にしてくれるだろうと思いました。

第1章 イバダン大学

大学生活は快適なものでした。卒業後は本当に特別な人間、人類を苦しめる色んなもの治す、神に近い人間になるのだ、という大きな野心をもって医学書を読み漁りました。私たちは、犬や猫や馬を扱う獣医よりも当然、優位であったはずです。何しろ私たちは、より優れた種、すべての生きものの中でも最も偉大なホモサピエンスを治療することになるのですから。結核、マラリア、淋病、梅毒など、人間が患らうようになった色々な病気。私たちは本当に天からの授かりものではなかったのでしょうか?

大学は「UCI」と呼ばれていましたが、そのUCIから退学者が出ました。どうもその学生は、マーティン医師の心臓の標本を盗んだということで、クラス全体に回された標本を最後に手に取ったのが、その学生だったというわけです。標本が消えて無くなり、次の週の月曜の朝に、アデンクレが切れ切れの調理済みの肉を持って授業に現れ、「心臓を料理したんだ」と得意気に言い放ったのです。マーティン医師は怒り狂ってこれでもかとアデンクレを罵りましたが、アデンクレは医師を見てにやっとするだけでしたので、マーティン医師はますます怒り狂うのでした。

ナイジェリア地図

そんなとき、私はマラリアにかかってしまいました。どうにか体が持ちこたえますように、と皮肉まじりに祈りました。最終試験が1週間後に迫っていて、今度ばかりは神に裏をかかれたと思いました。頭は煮えたぎるように熱く、背中じゅうに細かい針が刺さっている感じです。苦痛ですっかり弱っていたところへ、あのアデンクレが、ジャジャ診療所のベットに横たわる私に会いにやって来ました。

「おい、マラリアなんかで死ぬなよ。マーティン先生が俺の退学にこだわらなきゃ、あんたを治してやれたかも知れないのにな。」とアデンクレはピジン訛りの英語で冗談めかして言いました。そこへ、180センチもある変わり者の英国人医師ウィリアム・ボイドが部屋に入って来て私に口を開けるように言うと、無造作に体温計を口に入れました。何だかとても嫌な感じがしました。

国じゅうを巻き込んだ凄まじいビアフラ戦争の猛威にも耐え、神に見捨てられたナイジェリアの泥沼の五年間を何とか生き永らえはしましたが、今や私は何とも哀れな肉の固まりになり果てていました。

イバダン市街

普段は見かけない医師が信じられないといった顔つきで私を一瞥したあと、「たしかに、相当ひどいな。」と言いました。それから、記録用紙に何かを書きつけて、そのまま部屋を出て行きました。

医師が出て行くと、アデンクレが記録用紙を手に取りました。そして注意深くそれを調べてから、私は死にかけだと言うのです。熱が40度ありました。私はその日を決して忘れません。相変わらず頭はがんがんしていました。身をよじって、何も口に出来ず、目が眩み、とうとう気絶してしまいました。私は意識を失なったのです。

司祭が私を起こしたに違いありません。目の前に平服を着たその司祭が立っていて、神のご加護に与りますか、と聞くのです。

「出て行ってください。あんたらは、頭がぼんやりしてものも言えなくなった時だけやって来るんだな。元気な時に来てくれと、あんたの神に言っといてくれ。」

「何て不遜なことを。本当に、今、神のご慈悲が要らないのですか?」

「それどころか、神が僕を病気にしたのなら、治してくれ、と言いたいですよ。僕は何も悪いことはしていない。むしろこの世の中から、神が創り給うた病気を消滅させようと人生の5年間を犠牲にしてきたんです。それなのに、その神様の思し召しの結果が、この態ですよ。」

イバダン診療所のベッドの中で、まさにその瞬間、私の中で何かがぷちんと切れたんだと思います。もはや、神の慈悲も愛も美徳も信じることが出来ませんでした。何百万という物乞いや売春婦、目や手足の不自由な人やその他社会の底辺で暮らす人たちはどうなのか?司祭は、そういう人たちもすべて神の子だと見なしていますが、では何故、来る日も来る日もある病気を治療するためにと、製薬実験室で何億という大金が使われているのか。

アデンクレは医学科課程を修了出来ませんでした。コーラ・ダンボ教授が署名して、アデンクレの退学の文書を議会に提出したのです。

私たちは学位を取得する前に、ダンボ教授が学生全員に読みあげた嫌な書類の内容をひとりひとりが確認して、署名をしました。

「わたくし、ジョゼフ・ムングチは、人に奉仕するために我が身を捧げることをここに固く誓います。患者の健康を  第一に考え、守秘義務を守ります。危機的な状況にあっても、受胎したその時から、人の命を最大限に尊重しま す。人道に反して、医学知識を使うことはありません。」

医学士、化学士(イバダン大学)
署名 ジョゼフ・ムングチ

イバダン大学

***********************

翌朝、イバダン発ラゴス行きナイジェリア航空の8席セスナ機に搭乗しました。それから、ラゴス時間でちょうど午後七時に、新しい人生を始めるべき、愛しの故郷ケニア行きのパンナム機ボーイング707便に乗りました。

朝8時に、飛行機はナイロビに到着しました。1974年、6月28日の翌日の金曜のことです。弟のムセンビが、ナイロビ空港に私を迎えに来ていて、タラまでまっすぐ車を走らせました。我が故郷です。村中が歓喜の声で沸き立っていました。自分たちの医者の到着だと、全員が分かっているのです。しかし、私が独立して患者を診るには、ケニア中央病院でまだインターンとして働かなくてはいけないということは、皆殆んど知らないようでした。

「ジョゼフ、こっちへ来ておくれよ。」と母親が部屋から私を呼びました。

「うん、母さん。」

「おじいさんとこに行くんだよ。お前のでなきゃ、他の者の薬は嫌だと言ってきかないんだからね。」

「そうなんだ、母さん。でも、どうして?」

「マチャコスの医者は、医療費稼ぎに水で薄めた薬を出してるぞって、きかないんだよ。」

「そんなことが出来るのかい、母さん?」

「お前が出て行った頃のケニヤとは、今は違うんだよ。警察は、賄賂欲しさに、もっと犯罪者が増えるように祈ってるし、判事は、拘置所を犯罪者で一杯にしたがってるし、看守だって同じだよ。弁護士が、犯罪の片棒を担いでるっていうのも聞いたことがあるね。そのほうが儲かるんだってさ。お前のような医者だって、淋病や梅毒、ヘルペス患者がもっと増えてほしいのさ。結局仕事は増えるし、もっと儲かるからね。皆そう言ってるよ。」

「じいさんが社会の仕組みをそんな風に見てるんなら、僕のことはどう思ってるんだろうね。」

「ここの地区判事が、先日ある男から5000シリングを受け取ってから、2人の取引についてしゃべれないようにと、その男に死刑を言い渡したらしいよ。」

母親は相変わらずでした。永年タラの噂話には強く、この小さな町の最新情報を聞き逃すことはありませんでした。それにタラでは、情報を伝えるのにマスメディアなど必要ありません。噂がその役割を果たすのですから。しかも大抵の場合は、大袈裟に伝わりました。

●「ナイスピープル」(2)→「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(2)第2章・第3章」「モンド通信 No. 6」、2009年1月10日)

●作品解説(1)→

メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com:80/0000274176/index.html

執筆年

2008年12月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No.3

ダウンロード

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―(1)著者の覚え書き・序章・第1章 イバダン大学

2000~09年の執筆物

概要

『アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性』(横浜:門土社)の続編で、出版予定で送った原稿です。校正も終わっていました。印刷前の最終稿を載せています。

本文(写真作業中)

目次第1章(はじめに)第7章(哀しき人間の性)奥付けを載せています。↓

目次

第1章 はじめに
第2章 1995年ハラレ報告
第3章 1992年ハラレ滞在
第4章 エイズ発見の歴史
第5章 HIV感染とエイズ治療薬
第6章 アフリカの現状
第7章 哀しき人間の性●さが●

■第1章 はじめに■

この掌編は、『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性●さが●』(門土社、二〇〇七年)の続編です。今回は、アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●について書こうと思います。

医学の基礎を学んだことのない私がエイズについて考えるようになったきっかけは、医学部での英語の授業です。

書くための時間を確保したいと考えて高校の教員を辞め、三十の歳から大学を探し始めて何とか見つかったのが宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)でした。以来、宮崎に移り住んで二十年の歳月が過ぎました。大学には一般教養の教官として採用され、医学科一、二年生の英語を担当し、その中でエイズの問題を取り上げるようになりました。

当時は一年次から解剖学や組織学の基礎医学科目もありましたし、「上級生になれば嫌でも医学のことばかりするのだから、授業では、出来るだけ医学に関係がないものを取り上げよう。」と決めました。特に受験勉強では「理解をして覚える」という作業を強いられるようですから、自分のことを自分で考える機会を少しでも提供出来ればと考えたわけです。

宮崎に引っ越しして来たその日に、ある方から分厚い手紙が届きました。兵庫県を離れる前に、何とか大学に居場所を見つけましたとその方に報告に出かけました。「僕はもともと頭が悪く受験の準備も出来なかったものですから行く大学が見つからず、仕方なく家から通える夜間課程に通うことになったんですが、そんな僕が受験勉強をやってきた頭のいい医学部の学生に授業をするのも不思議な話ですね。」というようなことを言ったのだと思います。医学部出身のその方は、そんなことを言う私に餞●はなむけ●として送って下さったのでしょう。医学部の学生に授業をする際の心構えとして今も大きな指針となっています。その手紙の一部です。

◆「……生物の成長というのは細胞が個数を増す細胞分裂と分裂によって小型化した細胞がそれぞれ固有の大きさをとりもどす細胞成長とによって達成されます。生物は本質的に成長するものなのですから、各細胞は成長の第一条件たる細胞分裂の傾向がきわめて強いのです。しかし、無制限に細胞の個数が増加して、その結果、過成長すると、こんどは個体の生命が維持できなくなります。そこで、遺伝子の〝細胞分裂欲求〟は不必要なときには抑制されています。この抑制因子をモノーという人はオペロンと名づけました。モノーのオペロン説です。フランスというところは困ったもので、いまだにデカルトの曽孫●そそん●のような顔をした人たちしかいません。このモノーもデカルトの曽孫にちがいありません。しかし、話を簡略にするためには、このオペロン説は便利です。化学変化を説明するのに結合手なる手を原子または原子団がもつものとするのに似て、こっけいですが御許しいただきたい。

さて、このオペロンがはずれてしまうというか 抑制因子がはたらかなくなったとき、細胞は遺伝子本来の〝分裂欲求〟に忠実に従って際限なく分裂を繰りかえします。ガンです。そして、ガンになりやすい体質は遺伝します。これはオペロンがはずれやすい傾向が子や孫に伝わるためです。たしか、一九二◯年代に有閑階級という新語をつくり流行させたアメリカの社会学者の言説をまつまでもなく、ヒトは〝侵略遺伝子〟を持っています。ヒトがすべて侵略者とならないのはこの恐ろしい〝遺伝子〟にもオペロンのおおいがかけられていて、容易には 形質を発現することがないためです。

ツングースの〝侵略遺伝子〟のオペロンは、窮迫によってはずされてしまったのです。それもほんの七千年か八千年ほど前のことです。そして、このオペロンのはずれやすい傾向は連綿と受けつがれ、いまなお子や孫が風を切って日本じゅうをわがもの顔に歩きまわっています。天孫降臨族●てんそんこうりんぞく●の末裔●まつえい●たちです。手っとりばやくのしあがることだけをひたすら思いわずらい四六時中蛇(蛇くんに邪気などない)のごとき冷たき眼を油断なく四方八方にくばるこの侵略者たちは、もちろん、効率百パーセントの水平思考を好み、鉛直思考など思いもよらぬことなのです。玉田先生が鉛直下の原言語に乱されて思考が中断するなら、私のほうは鉛直上の原言語に吸いとられて思考が消失します。中断と消滅、軽重の違いはあっても、二人とも、やはり頭が悪いのは確かなようです。

その点最近の学生は、とくに、医学生は頭の良い子ばかりだそうです。なにしろなんかの方法で受験勉強をしなかった子はいないというのですから、〝学問〟に対するその真摯●しんし●な態度と勤勉に驚かずにはいられません。これは頭の良い両親の指導のもとに 水平方向に己れの行く末を見つめ、かっちりと計画がたてられる頭の良い子であることを意味しています。鉛直方向によそみをすることなど思いもよらぬ天才少年です。A先生がなにも書かず、深い読みに専念するよう注意してくださったそうですが、どこまで恐ろしい方なのか見当がつかぬほど驚いています。A先生は現在の医学や医療や医学部が∧行きつくところ∨まで行きついて、〝良い頭の〟学生たちが良いくらしだけを目標に青春をおくり、結局は良い人生が見つけられなくなっているのに心を痛めておられるのです。親しきといえどB先生に御遠慮されてこんな言葉になったのだと思われますが、よくみると、不幸がやくそくされている医学生たちが深い闇の奥に気づくように講義をしてやってほしいと読みとれます。A先生は子どもたちに無言で良い人生が〝教えられる〟教師の卵を無言で 教えておられる方に違いありません。

しかし、〝頭の良い〟学生たちと〝頭の悪い〟玉田先生、この両者に虹の橋はかけられないと絶望するのは早すぎます。学生たちの眠っている意識以前に無言で語りかけてください。深い読みとA先生が仰言●おっしゃ●っておられるのはこのことです。意識下通信制御です。百億年の因縁なんぞ信じないぞ、数百万の祖霊、そんなものはミイラに食わせてやるなどと仰言●おっしゃ●ってはいけません。

そうすれば、玉田先生の学生のなかから、医者や医学者ではなく、医家が必ず生まれることをかたく信じてください。そして、もちろん学生に好かれるように行動するのではなく、いつも御自分からすすんで学生のひとりひとりが好きになるようにつとめてください。〝良い頭の〟学生は医学生の責任だとはいえません。親はもちろん、あらゆるものがよってたかって腕によりかけ作りあげた〝高級〟人形であっても愛着をもってやれば、ある日ぱっちり眼を開き、心臓が鼓動をはじめ、体のすみずみにしだいにぬくもりがひろがっていくことが必ずあることを忘れないでください。

それと医学部の学生は最優秀と考えられていますが実際は外国語も自然科学も数学もなにもかもまったくだめだということを信じてください。子どもだから仕方のないことですが、世評がいかに無責任ででたらめなものであるかを、玉田先生も四月になればいやというほど思いしらされるはずです。たとえば、英語は百分講義で英文科三ページがやっとのところを、医学部は十ページをかるがるとこなすのですが、その医学部のひとりひとりをじっくり観察すると、こいつほんまに入試をくぐってきたんかいなと思う奴ばかりです。それでもうんざりして見捨てたりせず、この愚劣なガキどものひとりひとりからけっして眼をはなすことなく、しっかりと 見守ってやっていただきたい。なにしろ、まだ人類とはならぬこどもなのですから。」◆

当時の私の関心事だったアフリカ系アメリカとアフリカの問題は、今の中学校や高校では意図的に避けられる傾向にあって学生には馴染●なじ●みの薄い分野ですが、今まで培●つちか●われた価値観や歴史観を問うにはうってつけの題材でした。日本に一番関わりのある米国をアフリカ系アメリカ史の側から眺めれば、今日の米国の繁栄が奴隷貿易や奴隷制の上に築かれたことも容易に判りますし、全てが過去から繋●つな●がっている現在の問題であることにも気づきます。アフリカ史をひも解けば、英国人歴史家バズゥル・デヴィッドスンの「人種差別は比較的近代の病です」という名言にも合点●がてん●がいきますし、英語が一番侵略的だった英国人の言葉で、白人優位・黒人蔑視の思想が都合よく捏造●ねつぞう●されて来た構図も一目瞭然●いちもくりょうぜん●です。

元来、自由な空間で培う素養は大切なものです。その素養が価値観や歴史観の基盤になって人の生き方を決めるわけですから、入学するために知識を詰め込んできた人たちに、今までの歴史観や考え方そのものを揺さぶるような話をして、「さすがは大学だ」と思ってもらえるような授業がしたいと考えたわけです。

しかし、現実はそう思い通りにはいきません。学生の反応は思い描いていたものとは少し違っていました。授業では資料のプリントも作って配り、録画したテレビの映像や映画なども編集して使い、出来る限り英語を使うなど、様々な工夫をして来ましたが、それでも、何割かの学生の関心を惹●ひ●けませんでした。「どうしてアフリカなのか?」「折角医学部に来たのに、いまいちモーチベーションが上がらないんですよね。」「同じ分野で出会っていればよかったですね、玉さん、がんばって下さい。」その辺りが正直な感想のようでした。

しかし、よく考えてみれば無理のない話ではあるのです。小さな頃から家でも学校でも頭がいいと持ち上げられ、「頭の良い両親の指導のもとに」「良いくらし」を身近な目標にして、「水平方向に己れの行く末を見つめ、かっちりと計画」を立てて医学部に入学して来ています。アフリカに関しても、大半の学生が「アフリカの人たちは貧しくてかわいそう、ODAなどで日本が支援をして助けてあげなければ……」と考えているところに、「奴隷貿易で富を蓄積して産業革命を起こし生産手段を変えた西洋社会は作りすぎた製品を売り捌●さば●く市場の争奪戦を繰り広げて世界大戦を二度もやり、戦後は開発や援助の名目で第三世界に資本を投資して利子を取る戦略に変えた、つまり現在の繁栄もそういった第三世界の犠牲の上に築かれており、日本も加害者側にいるわけだから、それを承知でそんな社会で自分がどう生きればよいのか、自分自身について、自分の将来について考えて欲しい。」と講義形式で突然一方的に熱く語られても、あまりにも自分の現実とかけ離れていて「内容的に関心が持てない。」、「自分とは関係のない世界」、と思えてしまいます。医者になって患者の生き死にに直接かかわるようになれば少しは話も違って来ますが、特に低学年の頃にそういった事柄を自分自身の問題として考えるのは、実際にはむずかしいようです。

そこで、出来るだけ学生自身が自分の問題として考えられるようにと、関心の持てそうな医学的な話題とアフリカやアフリカ系アメリカの問題を結びつけて授業を展開できないかと考えました。その一つがエイズです。

二〇〇三年に旧宮崎大学と統合してからは、全学部生対象の教養科目と、教育文化学部日本語支援教育専修の大学院生対象の選択科目も担当していますが、教養科目名の一つを本の表題にして、南アフリカの歴史を軸に日頃考えていることを本にしたのが『アフリカ文化論〔1〕南アフリカの歴史と哀しき人間の性●さが●』です。

今回は新聞記事を軸に、最初のエイズ患者が出た八十年代初めから現在までのエイズ事情とHIV感染のメカニズムについて、英語や教養の授業をしながら考えたことも織り交ぜながら『アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●(上)』としてまとめました。

次回の『アフリカとエイズと哀しき人間の性●さが●(下)』では、ケニアの小説『最後の疫病』と『ナイス・ピープル』を軸に、新植民地支配という社会の大きな枠組みとその中で展開されるエイズ治療薬をめぐる論争や、ケープタウンを拠点にエイズ治療に活躍するアーネスト・ダルコー医師などについて詳しく書こうと思います。

取り上げる内容は、平成十五年~十八年に「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが」の題で文部科学省から交付された科学研究費補助金(註1)を使用して行なった研究の内容とも重なります。(註2)

一章では、すでに書いたようにこの掌編が生まれた経緯を、二章では九十五年のジンバブエの首都ハラレについての新聞記事について、三章では九十二年に家族で滞在したハラレでの出来事について、四章ではエイズ発見の歴史について、五章ではHIV感染とエイズ治療薬について、六章では、エイズ会議とアフリカの現状について、七章ではまとめとして、哀しき人間の性●さが●について書きました。

最後に、註を載せています。

第5章の「HIV感染」と「エイズ治療薬」の部分は、同僚の林哲也教授(感染症学講座微生物分野・フロンティア科学実験総合センター)に校閲をお願いしました。厚くお礼申し上げます。

■第7章 哀しき人間の性●さが●■

そのジンバブエは、今大変な事態に陥っています。経済は破綻●はたん●し、多くの国民が生き延びるために国を逃れています。二〇〇七年十月の朝日新聞の特集「国を壊す ジンバブエの場合① 独立27年 逃げる民」からもその凄●すさ●まじさが伝わってきます。

◆「『アフリカの希望の星』と呼ばれた国があった。80年に白人支配から独立を果たした南部のジンバブエ。農産物は需要を満たし、輸出で外貨収入の3分の1を稼ぎ出した。識字率は90%を超え、労働力の質は高く、鉄道の独自運行も可能だった。それが今―。農業はやせ細り、飢えが広がる。インフレ率が7千%を超えた。苦しさに耐えかね、国民の4分の1が近隣国に脱出している。」(註17)◆

「インフレ率が7千%」と言われても、実感はわきません。十年前にザイール(現在のコンゴ民主共和国)でエボラ出血熱が発生して話題になった時、「五桁のインフレ率」というのを初めて新聞記事で読みました。DIGITという英語が数字の桁●けた●を意味するとはすぐには思いつかなくて、活字の間違いだろうと思いました。しかし、翌年に大統領モブツが追いやられて、ローラン・カビラが国を掌握●しょうあく●して、内実が明らかになるに連れて、その数字の意味合いが徐々に判明してきました。五桁は一万以上の数字ですから、このジンバブエの記事よりも経済破綻●はたん●の状態が進んでいたということでしょうか。

その時の経済破綻の状況や政治的混乱が、今のジンバブエに酷似しています。十年前のザイールの記事を引用してみましょう。

◆「『ザイール、エボラウィルスで再び世界の脚光を浴びる』

ザイールでエボラウィルスが発生して、一九六三年(原文のまま)のベルギーからの独立以来、数々の危機に揺れ動いて来たアフリカ中部にある四〇〇〇万人の広大な国に再び注目が集まりました。

治療薬もワクチンも知られていないウィルスは、少なくとも六十四人の死者を出しました。

批評家によれば、多くのザイール人が過去三十年間無投票で当選し、不正に貯めこんだ個人の資産が数十億ドルにのぼるといわれるモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。

反対派の批評家やフリーのジャーナリストは、流行病が頻繁●ひんぱん●に起こるのも、取り扱う資源が不足するのも、既知のあらゆる戦略的に重要な鉱物資源に恵まれている国の富の管理ミスと賄賂●わいろ●のせいだと指摘しています。

『環境の管理不備に繋●つな●がる、公共資源の管理ミスが日和見●ひよりみ●的な要因を作り出して、流行病を発生させたり、広げたりしている。』と反対派の新聞ル・パルメールの社説は嘆いています。

『医療関係施設は悲惨な状況です。私たちは長い間、大災害が起きてもおかしくない方向に向かって進んできました。』とザイールの野党指導者エティニュエ・ツィセケディのスポークスマン、ランバエルト・メンデ氏は言いました。

賄賂●わいろ●はザイールの社会と政府に深く染み込んでおり、五百万人が住む首都をエボラウィルスから守るために発令された隔離手段でさえも賄賂がきく有様です、とキンシャサ市職員が言います。

公務員は何ヶ月分もの給料を払ってもらえず、賄賂は生活の一手段となってしまっています。

ウィルスはザイールの老朽化した医療機関に広がっており、医療機関はたいていの国よりも激しくザイールを襲っているエイズ禍●か●の対応に追われています。

ザイールの政治の問題は早くに始まりました。鉱物の豊かな現シャバ州であるカタンガ州はベルギーから独立した十一日後に、不幸な結果に終わった分離工作が謀●はか●られました。その分離工作は血まみれの闘争の三年後に排除されました。

サハラ以南のアフリカで二番目に大きい国ザイールには豊かな農場があり、旧コンゴ川のザイールの川から水の恵みを得ています。

その国は世界でも有数の銅の埋蔵量を誇っていますが、経済のエンジンである国営巨大鉱山会社ゲカマインは、事実上操業を停止しています。

一九九四年には、銅の製造量は最盛期の五十万トンから五万トン以下にまで落ち込みました。コバルトの製造量も同じようにひどく落ちみました。

政府はゲカマイングループの中の三つの中心会社を解散させ、硬貨の七十パーセント以上を製造する国営会社の先行きについては言及していません。

世界銀行も国際通貨基金も旧宗主国ベルギーが仲立ちをする債権者たちも、ザイールをずっと以前に見放しています。

インフレ率が五桁●けた●近くなりつつあるインフレで、政府は定期的に価値のない紙幣を山のように印刷するようになっています……」(註18)◆

エイズ患者にとっては病気だけでも大変なのに、壊滅状態の医療施設に経済破綻●はたん●の追い打ちです。

「国を壊す ジンバブエの場合① 独立27年 逃げる民」では、生き延びるために国を逃れるジンバブエの人たちの様子が次のように書かれています。

◆「ブライドはジンバブエ南部の都市ブラワヨの出身だ。98年に軍を除隊したが職がなく、農産物の行商で暮らした。

バスで農村に行き、穀物や卵、野菜を仕入れ、それを町で売り歩く。足を棒にしても、月の収入は80万ジンバブエドル(Zドル)前後だった。

『今年4月には卵1個が5万Zドルだった。1カ月必死に働いても卵2ダース分の収入にしかならない。14歳を頭に3人の子どもがいる。食事は1日に1回、夕方だけだ。最低の生活だった。』

それでもまだ生きていくことはできた。絶望的な事態になったのは6月26日以降だ。ムガベ大統領が突然、『あらゆる商品の価格を半額にする。』と声明した。インフレ対策であり、暴利をむさぼる悪徳商人は許さない、と大統領はいった。

すべてがヤミ市場に回り、物価は暴騰●ぼうとう●した。卵は店先から消え、闇市場で1個が5万Zドルもするようになった。月の稼ぎが卵1ダース分になってしまった。

4月までパン1斤は2万Zドルだった。価格半額令以後、行列でしか買えなくなった。7月は5万、8月には6万6千Zドルになった。2カ月で3倍以上だ。

『このままでは家族を死なせてしまう。南アに行く決心をした。』……

南ア外務省のパハド副大臣は『ジンバブエ人の不法入国は三百万人にのぼると見られる。』と明らかにした。ジンバブエ総人口の4分の1である。北隣のザンビアにも1日数百人の脱出者が出ているという。

そのほとんどが40歳以下の男性だ。働き盛りの大量脱出。国は壊れつつある……」◆

二〇〇八年になって状況は更に悪化し、インフレ率も2万6000%になったと報じられました。ザイールの場合と同じ五桁です。記事は「最も貧しい億万長者」の模様を次のように伝えています。

◆「ジンバブエ インフレ2万6000% 『最も貧しい億万長者』

南部アフリカ・ジンバブエの中央銀行はこのほど、07年11月のインフレ率が年率2万470・8%と、過去最高を記録したと発表した……

中央銀行の今年4日の発表によると、07年9月の時点で年率約8千%だったインフレ率が、2カ月間で3倍以上に跳ね上がった。もはや中央銀行がとれる対策は超高額紙幣の乱発しかない状況だ。07年8月に最高額紙幣を20万ジンバブエ(Z)ドルに上げたのもつかの間、12月には75万Zドルに、今年1月には1千万Zドル紙幣を発行した。

超インフレが加速したきっかけは07年6月、インフレを抑え込もうとムガベ政権が出した価格半減令。元値を割ることを恐れた商店側が物資を闇市場に横流ししたため店から商品が消えたかわり、あらゆる物資が闇市場で高値で取引されるようになった。ジュース1個に100万Zドルの値段が付き、市民は「これでは世界で最も貧しい億万長者だ」などと不満を募らせている……」(註20)◆

九十二年にハラレに行った時は、最低賃金が百三十ドルになったとか、ゲーリーの月給が百七十ドルだとか言っていたのに。高額の紙幣を刷ると、銀行員が不正を働くので最高二十Zドル紙幣が一番大きなお札なんですよ、と言われたりもした。僅●わず●か十数年で何という変わりようでしょうか。持ち帰って家にある十Zドル紙幣や二十Zドル紙幣も、帰国後もお金代わりに手紙に忍ばせようと思って大量に買いこんだ二Zドルの切手も、今ではほとんど価値のない紙切れに過ぎないということです。

アレックスの「この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。」という見方は残念ながら正しく、「僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。」という予想も、違う方向で当たってしまいました。

アレックスは、ジンバブエ大学のツォゾォさんを訪ねた最初の日に部屋で授業を受けていた五人の学生のうちの一人です。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドルネイムのアレックスが英語の名前です。アレックスが受けていた授業は、映画・映像に関する特殊講義で、その日は説明を受けたあと学生がキャンパスをビデオカメラで撮影するというのが内容でした。後日の撮影会に誘われて出かけて行ったものの参加者はアレックスも含めて二人でした。気の毒に思ったのか、アレックスはキャンパスを案内してくれたあと、自分が住んでいる寮に案内してくれました。キャンパスで私がアイスキャンディーをおごったお礼にアレックスがコーラをごちそうしてくれたのですが、中身の値段は一本が七十五セント、二十円足らずで、結果的には、予想もしていなかった七十五セントの出会いとなりました。

ゲーリーとは子どもや天気のこと以外はなかなか共通の話題が見つかりませんでしたが、アレックスとは色々な話をしました。南アフリカのラ・グーマやケニアのグギさんなどの作家についてだけでなく、リチャード・ライトやスタインベックなどの米国の作家についても、似通った受けとめ方をしていました。「『怒りの葡萄●ぶどう●』に出てくる牧師が僕は好きでねえ。」と私が言うと、アレックスから「ジム・ケイシィは私も好きですよ。」という返事が返ってきました。ラ・グーマもグギさんもライトも亡命作家ですが「亡命後に書いたものはやはり勢いがないですよ、だから例えばラ・グーマなら、南アフリカにいる間に書いた処女作『夜の彷徨』が、やっぱり一番いいですね、また、グギさんが最近出した『マティガリ』も、長い間ケニアを離れているせいか、少し観念的で勢いがないように私には思えます。人物描写にも信憑●ぴょう●性がないですよ。」とアレックスは言っていました。三人とも私の好きな作家ですが、これだけ違った環境に育った二人がこんなにも似通った感覚を持ち得るものなのかと、驚いてしまったほどです。社会主義を掲げている南部アフリカの国で、こういった話が出来るとは夢にも思っていませんでした。

ある日、アレックスは寮で友人のジョージやイグネイシャスやメモリーを紹介してくれました。それぞれ国中から集まってきた精鋭ですが、日本の街にはいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいました。ハラレの街には日本のメイカーの自動車が溢れていましたし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのにです。原因は当時流行っていた米国のニンジャ映画の影響のようでした。「アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、野性動物と一緒に暮らせていいですねとか、ライオンには気をつけて下さいとか言う人もいたから、まあ、おあいこやね。」と説明しましたら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えました。さすがに精鋭の集団で、指摘されて即座に、ハイテクの国に忍者がいるのはやはりおかしいと悟ったのでしょう。しかし、精鋭の集団ですらこうなのですから、西洋の侵略を正当化しようとする力や、自分達の利益を優先するためにメディアを巧妙に操作する自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいと思わずにはいられませんでした。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買ってぶっ飛ばすこと、のようでした。私が車に乗らないと言ったら、アレックスが急に怒り出しました。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張るのです。車中心のこの社会では、車は必需品には違いありませんが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思いました。

アレックスにはロケイションと呼ばれるアフリカ人居住地区に連れて行ってもらいました。イマージェンシィ・タクシー(E・T)と呼ばれる乗り合いのタクシーを乗り継いで行きました。辺りにいるのは、アフリカ人だけでした。街の中心部から南西の方角に十キロほど離れたグレン・ノラ地区に住む従妹の家に行くまでに、二度ETを乗り換えました。最初に乗り換えたのは一番の密集地帯ムバレで、ゲイリーがお父さんと住んでいた地区です。近くの市営住宅の中を歩きましたが、排水事情も悪く、全体にうらびれた感じがしました。それから、アレックスが寮を出てから下宿をさせてもらっている従妹の家に行きました。

アレックスには子どもたち二人の英語の、私のショナ語の家庭教師を頼みましたので、いっしょに過ごす時間も多かったのですが、ある時インタビューに応じてくれました。先に紹介した帰国してから半年後に絞り出した本の中の一節です。

◆「アレックスの生い立ち

アレックスは、一九六五年に国の中央部よりやや南寄りのシィヤホクウェという田舎で生まれた。シィヤホクウェはグレート・ジンバブエ遺跡が近いマシィンゴと、中央部の都市グウェルの間にあるタウンシップである。タウンシップは南アフリカと同じように都市部のアフリカ人居住地区を指す時期もあったようだが、今は田舎地方の商店などが集まった地区のことである。規模の大小はあっても、ルカリロ小学校に着く前にミニバスで立ち寄ったムレワのタウンシップと雰囲気は似通った場所だろう。

六十五年は、イアン・スミス首相を担ぐローデシア戦線党政権が、土地を持った白人の大農家や賃金労働者と南アフリカの白人政府を味方に、英国政府や国内の白人産業資本家の意向を無視して、一方的独立宣言(UDI)を言い渡した年で、社会情勢はますます怪しくなっていた。

ゲイリーの場合もそうだったが、田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようである。学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行く。アレックスの場合も、入学した時は四十人いたクラスメイトが七年生になると二十五人になっていたそうだ。特に女の子の数は少なかったらしい。一般的に、親の方も女性はすぐに結婚するから学校は出なくてもいいと考えていたようで、男の子を優先して学校にやったという。中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅●わず●かに二人だけだった。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、子供の教育費まで捻出●ねんしゅつ●して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからである。

普段の生活はゲイリーの場合とよく似ている。小さい時から、一日中家畜の世話である。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていない。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから再び日没まで、家畜の世話である。

『学校まで五キロから十キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした。それに食事は朝七時と晩の二回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ。』とアレックスは述懐する。

小学校では教師が生徒をよく殴ったらしい。遅れてきたりした場合もそうだが、算数の時間などは特にひどかったようだ。『五十問の問題なら、出来る子は一、二発で済みましたからまだましでしたが、出来ない子なんかは悲惨ですよ、四十八発も九発も殴られて、頭がぼこぼこでした。』と顔をしかめる。

『植民地時代の西洋人の考え方の影響ですよ。西洋人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、西洋人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……。全寮制の中学校は、その点、まだましでした。』と続けた。 七年間の小学校のあとは、四年間の中学校(FORM1→FORM4)、二年間の高校、三年間の大学と続く。中学校には普通コース(F1)と職業コース(F2)とがあり、F2は軽んじられる傾向にあったそうだ。今もその傾向があるらしい。中学校も人種別に、白人とカラード用のコース(GRADE1)とアフリカ人用のコース(GRADE2)に厳しく分けられていた。『アレクサンドラ・パーク・スクールもGRADE1ですから、今でも白人とカラードが多いでしょう。』と言われてみれば、なるほど思い当る。

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは二人だけであったらしい。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていない。最終学年の八十一年に、お父さんが死んだためである。

田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもなかったので、誰もが教員になりたがったと言う。アレックスも中学校の教師になった。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうだ。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があった。小学校もたくさん作られ、誰もが五キロ以内の学校に無料で通えるようになった。中学校もたくさん作られた。当然、教員は不足し、経験のない俄●にわか●仕立ての教師が生まれた。アレックスもその一人である。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった七十九年から独立時までは閉鎖されていたらしい。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたという。勉強どころではなかったのである。そのあとの激変である。混乱の起きないはずはない。

『もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……。だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……。』

アレックスは高校には行けなかったが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうである。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したという。その同僚の存在が大いに刺激になったらしい。無事に通信課程を終えて、九十年から大学に通うようになった。

アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうだ。毎日が大変な田舎の暮らしに比べると、という意味合いもあるが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだという。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えた。

自動車業者との癒着●ゆちゃく●が発覚して、閣僚の一人が辞任した八十九年の十月に、大学から街なかまで初めてデモ行進が行なわれたそうである。街なかでは、失業者などが加わって大変な騒ぎになったので、それ以降は警備も厳しくなったようだ。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になるという。

その年の四月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていた。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめると、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということだった。

『ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……。』と私が話し始めると『それは実際には少し違います。』と遮●さえぎ●って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれた。

『独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファースト・ワールド・カントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……。

独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権に就いたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することに頭が一杯で、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして『白人』以上の白人になるのは本当に早かったですよ。

この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は四十パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。』

最後の辺りのアレックスの語気は強かった。どうしようもない怒りを必死に堪●こら●えているようだった。そして『教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです。』と付け加えた。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、八月十七日の「ヘラルド」紙に『多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている』という見出しの次のような書き出しの記事が掲載されていた。

◆「地方で養成された教員が何百人と、近隣諸国で働くために国を離れており、それによって教育の危機的な状況は更に悪化している。

ジンバブエ全国学生協議会(ZUNASU)の第三回年次総会を公式に終えたあと、高等教育相スタン・ムデンゲ氏は『地方の教員養成大学で養成された五千五百人の教員のうち、五千人は産業関係の仕事に就くか、残りは近隣国の新天地を求めてジンバブエを離れているかの状況です。』と語った。

新天地を求めて国を離れているそういった教員の穴を埋めるには、丸六年の期間が必要であり、学校では深刻な危機に直面しています。」◆

記事は、アレックスの指摘した税金の重さについては触れていないが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事に就いてよかったと思えるかどうかだろう。「いくら何でも不公平ですよ。」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないだろう。

南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるだろう。現に、ネルソン・マンデラが釈放されて以来、隣国から多くの人が経済的な豊かさを求めて南アフリカに流れ込んでいるようだ。バングラデシュから日本に来ている留学生から、ジンバブエに行くなら、ハラレで医者をしている従兄を紹介しますよと以前から言われていたので、日本を離れる直前に電話で問い合わせてもらったが、その人はすでに南アフリカに移り住んでいるとのことだった。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……。

卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」

私にはその問いかけに答える術もなかったが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはなかった。」◆

アレックスは今どうしているのか。ツォゾォさんは、そしてゲイリーは、そんな思いがめぐります。

僅●わず●か百年余り前に侵入して来た西洋の入植者に土地や財産を奪われ、安価な労働者として働かされるようになったゲーリーのおじいさんやお父さん、独立の戦いで大変な思いをしたゲイリーやツォゾォさん。歴史や時代を通しての巨大な機構の中で翻弄●ほんろう●されるジンバブエの人たち。そんな人たちとほんのひとときをいっしょに過ごしましたが、ハラレにいる時も、帰国してからも、加害者側にいる自己の存在を思うと、息詰まる思いが先にたちました。今もその思いは、かわりません。

HIVはコンゴで感染したハイチの難民がモブツの圧制を逃れて国に帰り、そこからフロリダに渡って感染を広げたようです。そのハイチ人の祖先は奴隷貿易でアフリカの西部から連れて来られた人たちで、巡り巡って地域を越えた大きな世界で、ウィルスというミクロの世界でも、歴史や大陸というマクロの世界でも、人々が苦しめられ続けているわけです。

ウィルスの仕組みが解明されて、感染の仕組みも明らかになったのですから、少なくとも予防策を抗じれば感染の拡大を防げるはずです。しかし、性感染症の厳しさや抗HIV製剤でさえ暴利の対象にしてしまう欧米の製薬会社の実態などを見せつけられると、人間の愚かしさを思わずにはいられません。

アフリカの問題を考えても、エイズの問題を考えても、出口は見い出せません。見えるのは人間の哀しき性●さが●だけです。どうも、妙な空間に迷い込んでしまったものです。

授業を担当している大学生の大半は、日本が開発や援助の名目でかわいそうなアフリカ人を助けていると考えています。その意識と厳しい現実との差は余りにも大きくて、呆●ぼう●然とします。

しかし、絶望的なボツワナや南アフリカでエイズと闘っているダルコー医師のような人もいます。見知らぬ大学生のために長い手紙を認●したため●めて、エールを送って下さる人もいます。

まだまだ捨てたものではないと諦めずに、「水平方向に己れの行く末を見つめ」、「良いくらしだけを目標に青春をおく」る人たちの「眠っている意識以前に無言で語りかけ」続けたいと思います。いつかは「医者や医学者ではなく、医家が必ず生まれる」のですから。

玉田吉行 たまだよしゆき 1949年、兵庫県生まれ。

宮崎大学医学部医学科教員。英語、アフリカ文化論、基盤的研究方法特論(博士課程)、EMP (English for Medical Purposes)、アフリカ論特論(教育文化学部日本語支援教育専修)などの授業を担当。

著書にAfrica and its Descendants 2 (1998) 、 『アフリカ文化論[1]』(2007年)など、訳書にラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(1992年)、注釈書にLa Guma, And a Threefold Cord (1991年)などがある (いずれも門土社)。

「アフリカとエイズ」(2000年)、「医学生とエイズ―ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(2004年)、「医学生とエイズ―南アフリカとエイズ治療薬」(2005年)、「医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって」(2006年)など、アフリカと感染症に関するエッセイもある。

アフリカ文化論[2]

著者●玉田吉行

編集●田邉道子

発行所●株式会社 門土社

〒232-0016 横浜市南区宮元町3-44

電話045-714-1471番 画電045-714-1472番

http://www.mondo-books.jp

発行者●關  功

発行日●平成20年10月1日

初版第1刷発行

copyright●Tamada Yoshiyuki 2007

ISBN 978-4-89561-263-0 C1322

印刷・製本●モリモト印刷株式会社

執筆年

2008年

収録・公開

出版予定で門土社 送った原稿です。64ページ。

ダウンロード

アフリカ文化 [Ⅱ]ーアフリカとエイズと哀しき人間の性(さが)(上)

2000~09年の執筆物

概要

This paper aims to show why I have picked up the 1995 Ebola issue in Zaire in my English classes for medical students. It is important for English teachers to know what students need in English classes, and necessary to prepare suitable materials which motivate them. The 1995 Ebola outbreak in Zaire, a good material for the classes, spread fear around the globe through media. It is mainly because there were some wrong and exaggerated reports and lack of fundamental information on Zaire. Cong, including the former Zaire – the present République Démocratique du Congo, has been exploited by European and American powers. Without precise information and perspective, we cannot find possible RX for survival. Through historical analysis of the Congo, this paper shows the backgrounds for a fair understanding of the Ebola issue and the Congo for the students.

本文

医学生と新興感染症

―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―

Medical Students and the Emerging Infection

―On the 1995 Ebola Issue in Zaire―

1. はじめに

医学生の英語を担当し始めてから19年目になりますが、医学に無縁だった人間が医学部の英語の授業で何をするか、何が出来るかを考え続けています。当初、一般教養科目として医学科1年生の授業を担当したこともあり、専門家には出来ない何かをという思いが強かったのですが、理想論だけではやってはいけません。何事にもあまり関心を示さない学生から英語の必要性を認識して実際に英語が使えるようにと願う学生まで、学生も様々で、一年間の長丁場です。学生の思いに応え、しかも自分の気持ちのバランスも取るというのは難しいもので、試行錯誤の末、医学と僕の専門分野の(アフリカ)文学の狭間から何かが提示出来ないかと考え始めました。EGP (English for General Purposes) とESP (English for Specific Purposes) の狭間で、基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たす、それが現実に対応出来るやり方ではないかと考え始めたわけです。修士論文で取り上げたアフロ・アメリカの文学からアフリカに辿り着いていましたから、守備範囲にあるアフリカと医療を結びつける形で何かが出来ないかと考え、エイズなどの新興感染症も取り上げるようになりました。エボラ出血熱もその一つです。

2.1995年エボラ出血熱騒動

1995年のエボラ出血熱騒動は、毎年取り上げている医学的な話題の一つですが、EGP 、ESPに共通する題材として、興味深いものがあります。当時の騒動を伝える新聞記事、ニュース映像、アメリカ映画「アウトブレイク」などを使用しています。

エボラ出血熱はエボラウィルスによる急性熱性疾患で、1995年以前に、スーダン(1976、1979)、ザイール(1976、1977)、コートジボアール (1994)、ガボン(1994) でも発生しています。キクウイットの場合、4月に町の総合病院を中心に患者が発生し、約40日後に米国、WHO(世界保健機構)、ベルギー等のチームが入り、6月20日に終焉しています。最終的には315名が感染し、256名(81%)が死亡しました。(注1)

1995年のエボラ出血熱は、想像以上に大きな騒動になりました。世紀末の不安もあったでしょうが、ベルリンの壁やソ連の崩壊、湾岸戦争、ネルソン・マンデラの釈放とナミビアの独立、マンデラ政権の誕生など、歴史的な出来事が立て続けに起こったからかも知れません。不安を煽った最大の原因はメディアの過剰な反応ですが、メディアに容易く惑わされたのは、永年の白人優位・黒人蔑視に起因する、正確な歴史認識の絶対的な不足だったのではないかと思います。

「エボラは突然の発熱、嘔吐、筋肉痛、頭痛や下痢などの症状が特徴的です。しばしば、内蔵での出血が見られます。器官が溶解してどろどろになり、目や鼻や他の開口部から血液が流れ出ます」といったような誤った内容を伝えた新聞記事(注2)が騒ぎを大きくしたのも事実ですが、最大の原因はハリウッド映画「アウトブレイク」でしょう。アフリカの未開の奥地で未知のウィルスを発見、CDC(米国疾病予防センター)が軍医を送り生物兵器開発のために血液を採取したのちに村を爆破、致死率100%・空気感染のウィルスがアメリカ本土を直撃、汚染された街を爆弾で気化させるという大統領命令が下る、という内容は、映画としては刺激的でしたが、タイミングが良すぎました。NHKのBS世界のドキュメンタリー「人類の健康は守れるか:第3回エイズ・鳥インフルエンザ対策」(2006年3月16日BS1) の中で、1976年にCDCから派遣された軍医が撮影した当時のビデオ画像が放映されましたが、映像から伝わる当時の混乱した状況を見てその思いを強くしました。映像が映画と重なっていたからです。永年植え付けられた西洋優位の思想に由来するザイールへの関心のなさと、基本的な認識の欠如によって騒ぎは更に大きくなりました。

騒ぎは、もう一つ大きな問題を浮き彫りにしました。当時の大統領モブツの暴虐ぶりです。1995年5月16日のロイター通信が次のように報じています。

ザイールでエボラウィルスが発生したために、1963年(原文のまま、独立は1960年)のベルギーからの独立以来次々と起こる危機に揺れ動くアフリカの中心部にある四千万人の広大な国に再び世界の注意が向けられました。

治療法もワクチンも知られていないため、そのウィルスによって少なくとも64人の死者が出ました。多くのザイール人がモブツ・セセ・セコ大統領の政府に公然と腹を立てています。批評家によるとモブツは、過去約30年もの間、誰の挑戦も受けずにずっと政権の座にあり、推計で数十億ドルもの個人資産を蓄財したと言われています・・・

腐敗はザイール社会と政府の隅々にまで行き渡り、五百万人の首都へのウィルスの侵入を阻止しようとして取られた隔離対策にも賄賂が効く体たらくです、と市の職員が話しています・・・(注3)

さらに、6月14日のCNNは、「モブツ大統領は、エボラ対策の費用は他の国が保証すべきで、自分がすべき問題ではありませんと語っています」というニュースと本人の画像を大きく映し出しました。

そんなモブツを生んだコンゴは一体、どんな国だったのでしょうか。

3. コンゴをめぐって

3.1 「コンゴ自由国」:植民地支配

現在の「コンゴ民主共和国」はこれまでに何度か国名を変えていますが、ここではすべてコンゴと言う呼び方を使います。(注4)

コンゴの悲劇は、植民地を持ちたいというベルギー王子の夢で始まります。奴隷貿易で暴利を貪って資本蓄積を果たした西洋社会は、更なる冨を求めて産業革命を起こして資本主義を加速させます。さばき切れない製品の市場と原材料を求めてアフリカ争奪戦を繰り広げますが、争奪戦は余りにも激しく、世界大戦の危機を回避するためにベルリン会議を開いて妥協案を模索します。英国、フランスなどが植民地分割を決めたのはよく知られていますが、その会議で、コンゴがレオポルド2世個人の植民地として認められた事実はあまり知られていません。植民地を増やす余裕はないので競争相手には取られたくないが小国ベルギーに譲るなら安全と計算する英国とフランス、増えるアフリカ人奴隷の子孫をアフリカ大陸に送り返す策を模索していた米国、3国の思惑が一致し、レオポルド2世の接待外交も功を奏して、レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」が認められたのです。

レオポルド2世自身は生涯アフリカの地を踏んでいませんが、私兵を送り、電気と自動車という時宜を得て、銅と天然ゴムで暴利を貪り尽くします。

「黒人をアフリカに送り返せ」という南部の差別主義者の野望と、「アフリカへ帰れ」と唱える黒人の考えが、皮肉にも一致した結果、白人の牧師と共に、プレスビテリアン教会からコンゴに派遣されたアフリカ系米国人牧師ウィリアム・シェパードは、教会の年報「カサイ・ヘラルド」(1908年1月)に、赤道に近いコンゴ盆地カサイ地区に住むルバの人たちの当時の様子を次のように記しています。

この土地に住む屈強な人々は、男も女も、太古から縛られず、玉蜀黍、豌豆、煙草、馬鈴薯を作り、罠を仕掛けて象牙や豹皮を取り、自らの王と立派な統治機構を持ち、どの町にも法に携わる役人を置いていました。この気高い人たちの人口は恐らく40万、民族の歴史の新しい一ペイジが始まろうとしていました。僅か数年前にこの国を訪れた旅人は、村人が各々一つから四つの部屋のある広い家に住み、妻や子供を慈しんで和やかに暮らす様子を目にしています……。

しかし、ここ3年の、何という変わり様でしょうか!ジャングルの畑には草が生い茂り、王は一介の奴隷と成り果て、大抵は作りかけで一部屋作りの家は荒れ放題です。町の通りが、昔のようにきれいに掃き清められることもなく、子供たちは腹を空かせて泣き叫ぶばかりです。

どうしてこんなに変わったのでしょうか?簡単に言えば、国王から認可された貿易会社の傭兵が銃を持ち、森でゴムを採るために夜昼となく長時間に渡って、何日も何日も人々を無理遣り働かせるからです。支払われる額は余りにも少なく、その僅かな額ではとても人々は暮らしていけません。村の大半の人たちは、神の福音の話に耳を傾け、魂の救いに関する答えを出す暇もありません。」(注5)

「認可」を出したのは、レオポルド2世で、王は1888年にベルギー人とアフリカ人傭兵から成る軍隊を組織し、多額の予算を拠出して中央アフリカ最強のものに作り上げました。1890年に、タイヤや、電話、電線の絶縁体にゴムが使われ始めて世界的なブームが起こります。原材料の天然ゴムは利益率が異常に高く、それまでの過大な投資で窮地にいた王は蘇ります。アジアやラテン・アメリカの栽培ゴムに取って代わられるのは、木が育つまでの20年ほどと読んだ王は、容赦なく天然ゴムを集めさせます。配偶者を人質にし、採取量が規定に満たない者は、見せしめに手足を切断させました。密林に自生する樹は、液を多く集めるために深い切り込みを入れられ、すぐに枯れました。作業の場はより奥地となり、時には、猛烈な雨の中での苛酷な作業となりました。牧師シェパードが見たのは、そんな作業の中心地カサイ地区での光景だったのです。

 

 

ヨーロッパとアメリカの反対運動で、王は1908年にベルギー政府への植民地譲渡を余儀なくされますが、その支配は23年間に及びました。その間に殺された人の数を正確に知るのは不可能ですが、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されています。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約120億円とも言われます。王はアフリカ人から絞り取った金を、ブリュッセルの街並みやフランスの別荘、65歳で再婚した相手の16歳の少女に惜しげもなく注ぎ込み、1909年に死んでいます。

「コンゴ自由国」は1908年にレオポルド2世からベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれます。支配体制を支えたのは、1888年に国王が傭兵で結成した植民地軍(The Force Publique)です。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、1900年には、1万9000人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。軍はベルギー人中心の白人と、主にザンジバル〈現在はタンザニアの一部〉、西アフリカの英国植民地出身のアフリカ人で構成され、「一人か二人の白人将校・下士官と数十人の黒人兵から成る小さな駐屯隊に分けられていました。」(註6)兵隊がアフリカ人に銃口を突きつけて働かせるという、まさに力による植民地支配だったのです。

レオポルド2世は国際世論に押されて渋々政府に植民地を譲渡しますが、国際世論とは言っても、この時期、ドイツは南西アフリカ(現在のナミビア)で、フランスは仏領コンゴで、英国はオーストラリアで、米国はフィリピンや国内で同様の侵略行為を犯していましたので、批判も及び腰で、国王が死に、1913年に英国が譲渡を承認する頃には、国際世論も下火になり、第一次大戦で立ち消えになってしまいました。アフリカ人は人頭税をかけられて農園に駆り出され、栽培ゴムや綿や椰子油などを作らされました。第一次大戦では、兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」(註7)という惨状でした。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現されます。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの80%以上がコンゴの鉱山から持ち出された」(註8)と言われています。名前が「ベルギー領コンゴ」に変わっても、豊かな富は、こうして貪り食われたのです。

コンゴが貪り食われたのは、豊かな大地と鉱物資源に恵まれていたからです。ベルギーの80倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、北はコンゴ(旧仏領コンゴ)、中央アフリカ、スーダンと、東はウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、タンザニアと、南はアンゴラ、ザンビアとに接しており、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあります。植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていきました。「1953年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの70%を産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」(註9)になっていました。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となりました。行政区は、北西部の赤道州、北東部の東部州、中東部のキブ州、中西部のレオポルドヴィル州、中部のカサイ州、南東部のカタンガ州の六州に分けられ、大西洋に面するレオポルドヴィル州に首都レオポルドヴィル(現在のキンシャサ)があり、カタンガ州とカサイ州南部が鉱物資源に恵まれた地域です。

コンゴは南アフリカと並んで、暴虐の限りを尽くした植民地支配の典型だったのです。

3.2 独立とコンゴ動乱:新植民地支配の始まり

2度に渡る世界大戦での殺し合いで、ヨーロッパ社会の総体的な力が低下したとき、それまで抑圧され続けていた人たちが自由を求めて闘い始めます。その先頭に立ったのは、ヨーロッパやアメリカで教育を受けた若い知識階層で、国民の圧倒的な支持を受けました。宗主国は当初、独立への動きを抑えにかかりますが、大衆の熱気を見て戦略を変更します。独立は認めるが独立過程で最大限に混乱させる、自国の復興を待って力を回復させ機が熟せば傀儡政権を立てて軍事介入をする、それがその時点での最良の戦略だったのです。

コンゴの場合、ベルギーの取ったやり方は、何ともあからさまでした。1960年、ベルギー政府は政権をコンゴ人の手に引き継ぐのに、わずか6ヵ月足らずの準備期間しか置きませんでした。ベルギー人管理八千人は総引き上げ、行政の経験者もほとんどなく、36閣僚のうち大学卒業者は3人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、国民の圧倒的な支持を受けて首相になったパトリス・ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいました。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったかも知れません。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

 

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえるはずもありません。名前こそ変わったものの、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされているのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」で、高い関税をかけられるので加工して輸出することも出来ず、結局は原材料のまま売るしかないのが現状です。

こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。

3.3 モブツ:新植民地支配

政権の座に着いたモブツは、アメリカの梃子入れで30年以上も独裁政権を続けました。その暴政はよく知られています。1984年から2年間、海外協力隊員としてザイールの田舎で過ごしたアメリカ人の新聞記事から、モブツ政権下で人々の悲惨な様子が窺い知れます。

2年間、私はザイール中部のカサイ地区でボランティアをしました、この地球上の他のどの地域よりも痛ましい、土の小屋と裸足と貧困のまっただ中で・・・

20世紀の後半に、人々が銃に脅されて奴隷のように綿摘みを強要され、今は失脚したモブツ・セセ・セコの金庫を一杯にするのを、私はこの目で見ました。

ザイールでの私の仕事はたんぱく質の欠如によって病気にかかった子供たちを助けることでした。・・・村の養魚池を作って、田舎の地域に栄養補給をすることでしたが、田舎の地域は貧しくてアスピリンの一錠が家計を圧迫する惨状でした。しかし、私の仕事はまったく象徴的なものでした。貧困は余りにも根が深く、広範で深刻過ぎました。そしてアメリカの援助は余りにも小さすぎました。私はそれぞれ何軒かの家族の手助けをしました。

神(あるいは神の不在)は細部に潜んでいます。腐りかけの歯を何とかしてもらうために私の家に来た村の人々の泣きじゃくる顔のような細部にです。アフリカの基準から言っても、ザイールの医療の状況は驚くほど酷く、ほとんど医療は望めません。アメリカや他の西側諸国によって寄贈された薬は、モブツ軍によって慣例的に強奪され、法外な価格で闇市場に転売されました。目的の場所に援助物資が届いた時でも、保証はありませんでした。私は、以前不釣り合いなフランスとアメリカの軍服を着た兵士が、ユニセフが配給した粉ミルクを溶いてこしらえた飲み物を下痢で苦しむ少女の手から取り上げて、自分で飲んでしまう光景を目の当たりにしました。

私のいた小さな村で、人々が病気になった時、私は持っていたアスピリン、マラリア用の錠剤、包帯などどんな僅かなものでも与えました。また、村人たちが歯痛のため私の所へ来た時には、求められたガソリンをその人たちに与えました。私は、オートバイのキャブレターから半インチのガソリンを注ぎました、そして70歳の女性と15歳の男の子がガソリンを唇にたらし、そのガソリンを口に含んで、シュシュと音を立てるのを見ました。ザイールの容赦のない基準では、これが歯の治療だったのです。地元の人々によると、このように使う僅かなガソリンは感染を防ぎ、痛みを和らげる手助けをするということでした。私はその考えに拒絶反応を見せました。しかし、人々は私の所へ来続けました。口を腫らして、泣きながら、頼むから何とかしてくれと言って、数十キロも歩いてくる人もいました。だから私は歯医者になりました。何もないよりはいいと思ったのです。

私が住んでいたザイール中部では、政府が求める強制労働の要求を満たせるように、村人は健康でいることが特に重要でした。家族の十分な食料を得るために耕す為に既に充分苦労していたすべての成人男性は、600坪ほどの土地に綿を植え、その綿を政府に売るように要求されました。綿を植えない人、または植えられない人々には厳しい罰金や、凶暴なライフル銃の銃身で規則を守らせるために派遣された兵士から鞭打ちの刑を受ける危険がありました。それはベルギーによる植民地時代からそっくり受け継がれた体制だったのです。モブツは独占的に綿の価格を不自然なまでに低い基準に規制し、買い取る際にいつものように目盛りをわざと不正に操作し、村人を再び騙しました。村での綿販売は私の前庭で行われていましたので、ことの子細をすべて知っています。私は無数の鞭打ちを含め、すべてを戸口から見たのです。(注10)

これはすべてアメリカとヨーロッパの支援によって可能になりました。1977年、1978年と1984年には、アメリカとフランスが直接的、または間接的に、最後にモブツ政府を倒した人たちに似た改革派による暴動からモブツ政権を救う手助けをしました。1980年代、アメリカは、腐敗や夥しい人権侵害についての信頼し得る報告書を入手していたにもかかわらず、モブツ政権に軍事援助と経済援助をし続けました。モブツは冷戦を最大限に利用し、新植民地主義者から最大の援助を引き出しました。その代わり、ロシア人とキューバ人を国内に入れずに領土を安定させ続け、西洋の工場向けの鉱物を生産しました。

冷戦の終わりには、モブツの個人資産と国債が共に60億ドルに達したと言われています。

3.4 コンゴ民主共和国

外圧によって腐敗や人権侵害が取り沙汰されるようになるにつれて、国内政治への支配力は弱まりました。モブツは1990年に民主主義的な改革にむけての内外の圧力に屈服しますが、1994年のルワンダの大量虐殺で、また息を吹き返します。西洋がモブツをもう一度必要としたからです。1996年10月18日、東部地域で反乱が発生しました。ローラン・カビラ(当時56歳)に導かれたルワンダ人の支持する反乱軍、及びコンゴ・ザイール解放民主勢力連合は、余り訓練されずに士気のあがらないザイール軍を敗走させて、ゴマとブラブなど、東部の境界周辺の主要な町を占領したのです。

米国大統領ビル・クリントンはモブツに、ロナルド・レーガンが1986年にフィリピンでフェルディナンド・マルコスに明言したように、武力を行使しない形で平和裡に政権移譲を行なうべきだと伝えます。5月17日、反体制軍は首都に行進し、2日後に、カビラはコンゴ民主共和国の大統領として宣誓しました。国民への演説の中で、カビラははっきりと以前のザイールに民主主義な変化をもたらすと言いました。

ルムンバ内閣の閣僚の一人だったカビラは、モブツの支配した残酷な時代に、辛うじて死を免れ、キブ州とリフト渓谷沿いの境界線地区と湖畔地区の深い森の中に逃げ込みました。カビラを探した人もいましたが、その人たちからは何の情報も聞かれませんでした。カビラは1960年代からずっと小規模な反乱に参加しており、モブツの追放を切望していました。その反乱で初めて反体制の代表者を務め、1996年10月に、指導者として前面に推されました。それはカビラがザイールのルバ人の一員として、フツ人とツチ人の間の紛争で、恐らく中立の立場にいる人に見えたからでしょう。広大な国を平和な流れに導く舵取りとして忽然と姿を現わしたのです。カビラは大統領宣言を果たしますが、2001年に暗殺されて、息子のジョゼフ・カビラが大統領に就任しました。そして、カビラのいたコンゴ東部では、今、ITビジネスに欠かせない希少金属タンタルが新たな紛争の種になっています。

1995年のエボラ出血熱騒動には、こうした凄まじい背景が潜んでいたのです。

NHKで放送中の海外ドラマ『ER緊急救命室』の第9シリーズと第10シリーズで、カーター医師は、カビラの潜んでいたコンゴ東部にボランティアとして出向きますが、今まで述べたような背景なしにはカーターが訪れたコンゴを理解するのは難しいでしょう。

4.医師をめざす人のための英語の授業

宮崎大学医学部では2005年度から、タイのプリンス・オブ・ソンクラ大学との学生交換プログラムに向けての英語講座を始めました。1・2年次にはさほど関心を示さなかった4・5年生が、タイでの単位互換を伴なうクリニカル・クラークシップ・プログラムに参加するという差し迫った目標が出来て、生き生きと英語を学び始めました。語学を学ぶうえで、明確な目標が如何に大切かを肌で感じています。一ヶ月間のプログラムに参加した学生は例外なく、英語もさることながら、医学をもっと勉強しなければと言います。タイでは医者の数が少なく、5・6年生は実際の医者に近いことを要求されますから、日本の学生に比べて遙かに勉強もしますし、よく出来るのです。感染症病棟でエイズ患者の回診をした学生は、社会制度を学ぶ大切さを口にします。

大学に入学するために大量の知識を詰め込んできた中で得た歴史観や考え方を再点検して、自分自身について考える機会になればと願って授業をやりますが、うまく行くとは限りません。新入生の最初の授業でカーターの行ったコンゴのERを授業で見てもらったとき、ある学生は「初回の授業を受け、(それなりに覚悟はしていたつもりではありましたが、)やはり衝撃を受けました・・・“人であることを止めるか” “人に尽くそうとすることを止めるか” の選択であるような気がしました。せめて誠実でありたい―今はそう思います。」という感想を授業専用のホームペイジの掲示板に寄せています。「誠実で」あるためには、まず西洋寄りの体制の中で作り出された自分の価値観を見直し、大学生として相応しい基礎知識が何であるかに気づく必要があります。その学生はまた、「第1回目の授業はとても衝撃的でした。授業そのものも勿論ですが、授業のあとで、私同様に “油断していた所に直撃を受けて激しく動揺する人” と “「てか超だるいんだけどー」と言える人” の2通りに大別されたことが面白かったです。」と同級生の反応について記しています。

制度の問題もあります。医者を志望して医学科に入って来ていない学生の数が想像以上に多く、そういう学生は教養でも専門でも授業には関心が薄く、単位や試験には敏感です。しかし、入学試験で学科の成績を問う限りは、「したいことは見つからないし他の学部に行くよりは医学部へ行く方がまし」と考える学生を排除することなど実際には出来ません。

一対多という講義形式にも限界があります。いくら準備や工夫をしても、誰もが満足する授業が出来るとは思えません。厳しく出席を取らないと成立しない授業もあるようですし、厳しく出席を取っても、後の席で寝ていたり、携帯をしている学生もいるようです。

色々な問題を抱えながらやって行くしかないわけですが、やはり大学の自由な空間で培う素養は大切なものです。ESPとEGPとの狭間で、歴史観や考え方を再認識するきっかけを提供し、結果的にはそれが基礎医学・臨床医学への橋渡しの役目を果たすような授業をして、学生一人一人がいつかは適切な処方箋(RX)を書けるようになることを願いながら、十年一日の如く試行錯誤を続けたいと思います。

  1. IDSC(国立感染症研究所感染症情報センター)「感染症の話」

(http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k02_g2/k02_32/k02_32.html)

  1. (May 13, 1995). Deadly ebola virus sweeps through Zairean town. Los Angeles Times in THE DAILY YOMIURI.「解剖は非常に気持ち悪かったが、いったん血をすべてきれいにしてしまうと、内蔵器官は損なわれていないままだとわかりました」[Robin McKie, “Nature of the killer virus,” (Johannesburg: Mail & Guardian, May 19 to 24, 1995)] という記事からも、誤った推測記事だと判ります。
  2. (May 16, 1995) Ebola virus returns Zaire into World’s spotlight. THE DAILY YOMIURI.
  3. 1885年のベルリン会議でベルギー王レオポルド2世個人の植民地「コンゴ自由国」として認められて以来1908年「ベルギー領コンゴ」→1960年「コンゴ共和国」→1967年「コンゴ民主共和国」→1971年「ザイール民主共和国」→1997年「コンゴ民主共和国」と名前が変わって現在に至っています。
  4. Hochschild, Adam. (1998) King Lopold’s Ghost – A Story of Greed, Terror, and Heroism in Colonial Africa, 261. New York: Mariner Books. 同時期に仕事で当地に滞在した作家のジョセフ・コンラッドは、自らの体験に基づいた小説 Heart of Darkness を書き、ヨーロッパや アメリカで注目を浴びました。
  5. 前掲書. 121.
  6. 前掲書. 279.
  7. 前掲書. 278.
  8. 小田英郎(1986)『アフリカ現代史Ⅲ中部アフリカ』東京:山川出版社. 118.
  9. Tidwell, Mike. (June 6, 1997) Looking back in Anger: Life in Mobutu’s Zaire. Washington Post in THE DAILY YOMIURI.

執筆年

2006年

収録・公開

「ESPの研究と実践」第5号61~69ペイジ

ダウンロード

医学生と新興感染症―1995年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって―