つれづれに

つれづれに:立春が過ぎ

 旧暦ではすでに春が立ち、立春(2月4日~18日)の期間もはや半ばである。寒さを覚悟していた大寒(1月20日~2月3日~18日)の時期でも、そう寒い思いをしなくて済んだ。予報によれば、もうすぐ春一番が吹いて、春めいてくるそうである。高台の公園では梅もすでに散り、隣の桃(↑↓)が満開である。

 今は、週に1度の白浜(↓)行きや散歩や畑作業の時も含めて、その時どきに感じる日常の情景、月1回のズームAAの報告と補足、漂泊の思いに誘われて出た旅、それに最後の外部資金のテーマにしたアングロ・サクソン系の侵略の系譜について書くことが多い。すべて、定年退職後に再任された後、やっと書き始められた小説の材料でもある。退職の年に、長年HPを使った褒美(ほうび)にと拵(こしら)えてもらったこのブログを、有難く修作に使わせてもらっている。小説の方は、5作目のあと小休止している。今後の進み具合は、出版社次第になりそうである。

いつもの位置(上)、神社を背に青島港に戻る漁船を撮った(下)

 今日は日常の情景についてである。この前書いたのが→「快晴」(1月27日)だから、その間にズームAAの報告と補足(→「第3回目報告」、→「口承伝達」)、旅(→「下田」)、侵略の系譜(→「アメリカ1860年」、→「日本1860年」、↓、→「南アフリカ1860年」)と、色々挟(はさ)んだわけである。「口承伝達」のあと、10日ほど書いていない。特別な理由はないが、ぴたっと勢いが止まってしまった。

 規則正しく毎日送られればいいが、実際はそうはいっていない。長距離で自転車をこいだ次の日は、なかなか体が動かないし、雨が降れば難儀してまで歩けない時もある。うまく寝られればいいが、布団に入っても眠れないときもある。食べるものが薬だからと思って、できるだけいろいろなものを摂るようにはしているが、食べたくないときもある。退職すればすることがなくて‥‥という人がいると聞いたことがあるが、そんなことはない。起きてから寝るまで、次々とすることがある。妻の作ってくれたおかずに野菜や甘酒などの支度をして時間をかけて食べる、外に出て1時間ほど歩く、洗濯に掃除、今なら体を冷やさない程度に畑に出て作業、生きるのを維持するのに必要なことばかりだ。

 今、畑では南側(↑)と東側の通路に正方形のコンクリートを敷いて通路を拵えている。折角なのでコンクリートの下の黒土を畑に入れて、そこに東側の家の脇の道路下から掘り起こした真砂土を運び入れている。通路には上に砂利が敷いてあるので、それを取り除いて水で洗ってからなので、結構手間がかかる。幸い畑には何個所か溜枡(ためます)が拵えてあるので、そこに雨水が流れるような工夫も必要である。新しいものを拵えるのは、それなりにおもしろい。ただ、土を掘り起こし、真砂土や砂利をわけてバケツで運ぶので、体の節々が痛い。最近は、特に指や前腕と両肩の痛みがわりときつい。

 春も立ち、下の気温も上がってくるので、体を冷やさずに畑に出られる時間も長くなる。それだけ作業も進む可能性はあるが、それも体が続けばの話である。レタスとブロッコリー(↑)を必要な分だけ摘んで食べられるのは、有難いことである。葱(ねぎ)も大体は植え替えて、順調に大きくなっている。切ってもまた後から生えて大きくなるので、重宝な野菜だ。今年はこまめに刻んで冷凍し、年中途切れないように出来るといいが。ときたま、近くの人たちにもお裾分けをしている。

青島神社参道、キャンプの影響か参詣客が多かった

つれづれに

つれづれに:口承伝達

 アフリカと欧米では家(house)が持つ概念が違うというのを、ジンバブエの学生→「アレックス」から教えてもらったが、歴史の伝達の仕方もずいぶんと違う。日本は中国や韓国の影響が大きいので、紙に墨(すみ)でかいたものを残して歴史を編纂(さん)して来た。古事記や日本書記などである。そのときの金持ち層の都合によって捏(ねつ)造されたり、捻(ね)じ曲げられたりしている部分もあるだろう。しかし、伝達されている紙媒体で残されたものをもとに歴史が書かれているのは確かである。公教育の場では、その歴史が伝達されている。

しかし、アフリカの場合、長く文字を持たなかった。文字がなくても、自分たち流の生活が送れたからだろう。欧米諸国は、アフリカ人が文字も持っていない=文化程度が低い、を自分たちの野蛮行為や白人優位・黒人蔑視の意識を正当化するために利用したが、文字を持つかもたないかは、文化の違いである。アフリカ人は過酷な大陸で生き延びる方策を持っていたのである。製鉄の技術も高かった。鉄を作るには、鉄鉱石を地中から掘り出す技術が要るし、加工するためにはかなりの温度の高炉も必要である。どれくらい温度を上げられるかで鋼(はがね)の強度が決り、鋼の強度で刀の精度が決まる。長いこと、刀社会では精度の高い刀が命だったと聞いたことがある。

口伝えで自分たちの歴史を次の世代に引き継いで来たのを知ると、口承文化の乏しい私たちからすれば、凄(すご)いとしか言いようがない。文字を持つアフリカ系アメリカの作家アレックス・ヘイリー(↓)が、奴隷として連れて来られた西アフリカの小さな村まで辿(たど)り着き、その村のグリオ(griot)の口から、自分の祖先のクンタ・キンテの名を聞いて、それを本にして出版し、その本を基にテレビ映画「ルーツ」を拵(こしら)えているのだから。

 久しぶりに→『ルーツ』の第2部を見た。2007年に放映30周年記念の6枚組のDVD版(↓)が出て、日本語・英語字幕が完備された鮮明な映像を授業でも使えるようになった。しかし、記念版は第1部だけである。第2部はNHKのアーカイブにもないので、今となっては貴重な映像である。非常勤で世話になった→「LL教室」でダビングさせてもらった映像のお陰である。(→「大阪工大非常勤」

 クンタ・キンテの子孫のアレックス・ヘイリー役の俳優がアフリカに渡り、ジュフレ村で自分の祖先の名前をグリオから聞くくだりは、圧巻である。叔母のシンシアから聞いた話に興味を持ち、調べ始めた。当初、奴隷主の家計を辿り、根気よく図書館で調べ続けて、祖先が乗せられたロード・リゴニア号(↓)が入港したアナポリスに行き、相談を持ちかけた係員に言われた。

「174年から1810年の間に、一体何隻の船がこの港に入ったと思います?もちろん、税関の目を逃れてそこらの入り江に入ったかなりの数の密輸船を除いての話ですよ‥‥大雑把(ざっぱ)に言って、あなたの言ってた期間に上陸した奴隷の数は10万人を超えるでしょうね。あなたのお探しのものは、到底みつかりませんね」

 しかし、ヘイリーは見つけ出した。妻子にも出ていかれ、原稿を持ち込んだ出版社にも、マルコムXのインタビューに成功した「プレイボーイ」にも、アフリカ渡航の前借りを断られた。しかし、執念が実り、言語学者からガンビア川を遡(さかのぼ)ったマンディゴの村の名前を聞き出し、リーダーズダイジェストから前借りも出来て、ガンビア(↓)に渡った。そして、クンタ・キンテがある日森にドラム用の木を切りに行って奴隷狩りに遭い、姿を消したことをグリオの口から直(じか)に聞くことができたのである。

 叔母の話を聞き、文字で残された記録を辿って、西アフリカのガンビアを突き止め、川を遡ってジュフレ村に行き、村の歴史の語り部グリオの口から、ある日森に木を切りに出かけたクンタ・キンテ(↓)が姿を消し、戻らなかったと聞いた。雨季や旱魃(かんばつ)、支配者の動向で年月を数えたグリオが代々守り続けてきた口承伝達の文化と、執念で祖先に辿り着いた子孫のヘイリーの文字の文化が融合し機能して、7世代を繋(つな)いでくれたのである。

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つれづれに:南アフリカ1860年

桜田門外の変で斃(たお)れた井伊直弼

 日本でもアメリカでも1860年が歴史の大きな潮目だったが、南アフリカでは1867年だった。7年遅れである。(→「日1860」、→「米1860」

1860年に大統領に選ばれたエイブラハム・リンカーン

 南アフリカの歴史を辿(たど)ったのは、業績が大学の職を得る唯一の選択肢だったので、アフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960)で書いていたが、急遽(きょ)南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma, 1925-1985、↓)でも書くようになったからである。「ライトシンポジウム」でミシシッピ大に行ったとき、アメリカの学会「MLA」に誘われ、出来ればイギリス文学とアメリカ文学以外の英語で書かれた文学で発表してもらえたらと言われた。

小島けい画

 アメリカの作家で引き受けたのに、アフリカの作家をと言われてもすぐに対応できないところだったが、→「黒人研究の会」の月例会で月に一度はアフリカ研究の発表を聞いていたので、すんなり「やってみるか」と思えた。まだ職探しの最中で目途もついてなかったが、先輩の薦めで会った出版社の人から雑誌(→「ゴンドワナ (3~11号)」)、→「ゴンドワナ (12~19号)」)に書いてはと言ってもらっていたので、原稿を書いて送ることにした。

 歴史についてはバズル・デヴィドスンの「『アフリカシリーズ』」「ハーレム」の本屋さんで手に入れたThe Struggle for Africaが手元にあったのは幸運だった。

 南アフリカには先にオランダ人が、そのあとイギリス人が入植していた。イギリスにとっては、植民地争奪戦でインドへの要衝地をフランスに譲れないというのが居座った主な理由だったが、南アフリカ自体はそれほど重要ではなかった。先に来ていたオランダと諍(いさかい)はあったものの、1854年頃には肥沃な海岸沿いの2州をイギリスが、内陸部をオランダがと棲み分けが出来ていたが、1867年にダイヤモンドが、1886年に金が発見されてから、俄(が)然状況が変わった。産業社会では金とダイヤモンドは重要な鉱物資源だったからである。両方ともオランダの領有地で発見されたので、当然戦争をしたが、相手を殲滅(せんめつ)できるほどの軍事力の差はなかったので、折り合いをつけて1910年に国まで創ってしまった。その流れでは、1867年が潮目だったと言えそうである。日米に遅れること7年である。(→「南アフリカ1860」

1960年代のヨハネスブルグの金鉱山「抵抗の世代」より

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つれづれに:日本1860年

小島けい画

 まさかと思って調べてみたら、日本でも1860年は歴史の大きな潮目だった。しかし、その流れを感じたのは、アングロ・サクソン系の侵略の系譜を辿(たど)って、ある程度見渡せるようになってからだ。

アメリカ系アメリカの歴史を辿れば、自ずとアフリカに行き着く。奴隷が連れてこられたのがアフリカからだったからである。私の場合、アフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(Richard Wright, 1908-1960、↑)が書いた訪問記Black Power(↓)がアフリカとの最初の出遭いである。ライトが1940年代の後半に逃げるようにアメリカからパリに移り住んでいたときに、独立の気配をいち早く察知してイギリスの植民地ゴールド・コーストに出かけて訪問記を書いていた。(「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」

 その訪問記を理解するには、アフリカの歴史を知る必要がある。ちょうどその頃、バズル・デヴィドスンの「アフリカシリーズ」(↓)に出遭ったのも幸いした。「奴隷貿易の蓄積資本で産業革命を起こし、産業社会に突入していたヨーロッパ社会は、奴隷貿易から植民地支配に換えた。安価な原材料・労働力と製品の市場が必要となったからである」とデヴィドスンに教えてもらった。

 1543年に遭難した時に、ポルトガル人が助けてくれた種子島の人に火縄銃(↓)を置いていったと高校の授業で聞いていたが、てっきりポルトガル船で来て難破したと思い込んでいた。しかし、実際は明船に便乗していただけだった。日本にはその1丁の火縄銃から精度の高い銃を作る製鉄技術があった。1573年には長篠の戦で信長が堺商人に銃を集めさせ、勝利を収めている。長篠の戦が当時の世界最大の銃撃戦だったと知ったのはずいぶんと後のことである。まだヨーロッパでは植民地争奪戦どころか、奴隷貿易も始まっていなかった。日本は1600年に鎖国をした。そして、1859年に黒船が来た。開国を迫るためである。

 鎖国か開国かを迫られていたとき、1860年に桜田門外の変が起きた。実力者井伊直弼(↓)が斃(たお)れて、潮目は変わった。大砲は刀では防げなかったわけである。開国した日本には、欧米を追いかけて、産業化とアジアでの植民地化の道を歩むことが約束されていたのである。(→「日1860」