続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「トラちゃんとキタローと昼咲き月見草」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「トラちゃんとキタローと昼咲き月見草」(小島けい)

1年くらい前から、台所に立つ時、私はいつもスマップの歌を聞いています。理由は簡単。新しく作ってもらったCDにスマップが入っていたから、それだけです。ただ、今までほとんど聞いたことのなかったスマップでしたが、なかなかいいなあと思うようになりました。

実は6年前の春、桜の花を描きすぎて血圧があがってしまいました。もちろんそれだけの理由ではなかったのですが、それ以来、シーンとしたなかで何かを一生懸命していると、神経が自身の内側へ内側へと入り込んでいくのを感じました。

これはいけない!と考え、絵を描く時と台所に立ってお料理を作る時には、毎回必ずバックグラウンドミュージックをかけるようになりました。

けれどCDを作るなどという面倒なことを自分でできるわけもなく、いつも娘に頼んでいます。そして、たまたま今回はスマップの曲だった、というわけです。

2枚のCDのうちの1枚は、あまり知っている曲もなく<たいしたことないかなあ>とあなどっていたのですが。2枚目にはダンスの教室で踊った曲やよく知っている曲も入っていて、<スマップもよくがんばっていたのだなあ・・・・>と改めて思うようになりました。

音楽というのは不思議なもので、曲が流れるとそれを聞いていた時代も同時によみがえったりします。その頃しんどい出来事があったりすると、そのことまで思い出されてしまうので、どんな曲をバックに流すのかは、私にとって結構難しい面もあるのです。

その点、スマップの曲は基本的に明るくて、踊るのに適しているので、軽く聞き流すにはうってつけです。おまけに<ナンバー1にならなくてもいい、もともと特別なオンリー1>などと歌われると、ほんとうにそうだよねえ、と納得してしまいます。なかにはちょっと深刻な歌詞の歌もありますが、あの人たちが歌うとヘンに重たくならず、素直に心に入ってきます。もしかしたらそのあたりが、グループが長年続いた理由の一つかもしれないなあと、今頃になって気付いたりしました。

<ずうっとおんなじ曲やなあ>とひかえめなイヤ味を言われながらも、これから当分私のスマップの時代は続きそうです。

二匹の猫の手前にいるのがトラちゃんです。13歳の時ひどい糖尿病で逝くまでは、大きな病気もなく、よく食べよく遊ぶ、手のかからない子だったそうです。病院の猫でしたので、何度も献血をして他の猫を助けたということでした。

ちょうど飼い主さんのお兄様と同じ時期に糖尿病がわかり、トラちゃんが亡くなった後、お兄様はすっかり回復されたとか。トラちゃんが兄の病気も背負っていってくれたのではないかと思ってしまいます、というお話でした。

病院のなかでとても仲のよかったキタローくんもいっしょに描いて下さいとのご希望でしたので、前々からいつか絵にしたいと思っていた昼咲き月見草の野原のなかの二匹を描きました。

キタローくんは<子ネコの時にひどい風邪の状態で病院にてくてくと自分ひとりで歩いてきて、玄関の前に座りこんだ>という伝説(?!)の猫です。

病院にやってきた時から足が悪く、ずっと高いところには登れませんが、今も元気に福岡の動物病院で暮らしています。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開

前回は「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の概要でしたが、今回は着想に至った経緯と今後の展開についてです。

<着想に至った経緯>

アフロアメリカの作家リチャード・ライトの小説を理解したいという思いで歴史を辿り始めたのですが、アフリカ系アメリカ人は主に西アフリカから連れて来られたのだと初めてアフリカに目が向きました。まだアパルトヘイトがあった時代で、アメリカで研究発表をしたり、反アパルトヘイト運動の一環で講演を頼まれてやっているうちに、次第に世界と日本、第三世界と先進国の関係が見えて来ました。おぼろげに見えて来たのは、次のような構図です。

イギリスを中心にした西欧諸国のこの五百年余りの侵略で、人類は二つの大きなものを変えました。生産手段と武器です。それを可能にしたのは1505年のキルワの虐殺に始まる西欧の略奪とそれに続く大西洋で繰り広げられた奴隷貿易によって蓄積された資本です。その資本で産業革命が可能になり、生産の手段を手から機械に変えました。人類は捌き切れないほど大量の工業生産品を作り出せるようになったわけです。あとは金持ちの論理で進んで行きます。さらなる生産のための安価な原材料と労働力が植民地戦争を産み、二度の世界大戦で殺し合いをしてもめげずに、開発と援助の名の下に多国籍企業による経済支配に制度を再構築して搾取構造を温存し、現在に至っています。その体制を維持するために剣から銃、終にはミサイルや原爆まで開発し、武器産業が「先進国」の重要な産業にもなっていて、在庫がだぶつくとアメリカは世界のどこかで戦争を起こして来ました。

 

1992年の在外研究は一つの転機になりました。国立大学の教員は国家公務員で、アパルトヘイト政権と密な関係にありながら、国は表面上、文化交流の禁止措置を取っていましたので、申請書を出した1991年には南アフリカのケープタウンには行けないと却下されました。かわりに、アメリカ映画「遠い夜明け」(Cry Freedom, 1987)のロケ地でもあり、南アフリカと制度のよく似た国ジンバブエに行き、奪う側、奪われる側の格差を実感しました。それまでいろいろ頭の中で考えていたものが、現実だったわけです。

しかしながら、加害者であるにもかかわらず、アフリカは可哀相だから助けてやっている、と考えている人が実際には大半です。以来、大学の教養に役目があるなら、意識下に働きかけて自分や社会について考える機会を提供することだと考えるようになりました。授業では出来るだけ英語を使い、映像や資料も集め続け、「概要」で紹介した英文書を二冊と、編註書A Walk in the Night(Mondo Books、1988)とAnd a Threefold Cord(Mondo Books、1991)、翻訳書『まして束ねし縄なれば』(門土社、1992)も出版しました。

医学生は教養を軽視する傾向があるうえ、馴染みのないアフリカだと拒否反応を示す人も多く、自然と医学と関連させる工夫をするようになりました。その中からエイズのテーマ「英語によるアフリカ文学が映し出すエイズ問題―文学と医学の狭間に見える人間のさが―」(平成15年度~17年度基盤研究C、2500千円)と「アフリカのエイズ問題改善策:医学と歴史、雑誌と小説から探る包括的アプローチ」(平成21年度~平成23年度、基盤研究C、3900千円)も生まれました。

旧宮崎大学と統合後は、教養が全学責任体制になって「南アフリカ概論」や「アフリカ文化論」なども担当し、『アフリカ文化論Ⅰ』(門土社、2007)も書きました。今も学士力発展科目「南アフリカ概論」や「アフロアメリカの歴史と音楽」などを担当、この3年間半で3400人を担当しました。

今回のテーマも、そんな「研究」と授業の中から、自然と生まれました。

<今後の展望>

奪う側、持てる側(The Robber, The Haves)は富を享受出来て快適ですが、奪われる側、持たざる側(The Robbed, The Haves-Not)はたまったものではありません。理不尽な思いを強いられたり、悔しい思いを味わった多くの人たちが文学や自伝や評論に昇華して、後の世に残しています。特にアングロ・サクソンに搾り取られできたアフロアメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの系譜を辿り、文学と医学の狭間からその系譜を見てゆきたいと思います。それぞれの手がかりとする作品と明らかにするテーマは以下の通りです。

<アフロアメリカと人種隔離政策>

歴史とライトの自伝的スケッチ"The Ethics of Living Jim Crow, 1937″、小説Native Son(1940)、歴史的スケッチ12 Million Black Voices(1941)、自伝Black Boy(1945)、ミシェル・ファーブルさんのライトの伝記The Unfinished Quest of Richard Wright(1973?)、マルコムのMalcolm X on Afro-American History(1967)

<ガーナと独立>

ライトのガーナ訪問記Black Power(1954)とクワメ・エンクルマの自伝The Autobiography of Kwame Nkrumah(1957)と自伝Africa Must Unite(1963)

<コンゴの独立・コンゴ危機とエボラ出血熱>

トーマス・カンザの評論The Rise and Fall of Patrice Lumumba(1981)とリチャード・プレストンの小説Hot Zone(1995)、バズゥル・デヴィドスン(写真 ↓)のAfrican Series (NHK, 1983)

<ケニアと新植民地支配とエイズ>

グギの評論Writers in Politics(1981)、ワグムンダ・ゲテリアのエイズの小説Nice People(1992)、メジャー・ムアンギのエイズの小説The Last Plague(2000)

<南アフリカとアパルトヘイトとエイズ>

ラ・グーマのAnd a Threefold Cord(1964)、セスゥル・エイブラハムズのラ・グーマの伝記・作品論Alex La Guma(1985)、ベンジャミン・ポグルンドのロバート・マンガリソ・ソブクエの伝記Sobukuwe and Apartheid (1991)、レイモンド・ダウニングの評論As They See It – The Development of the African AIDS Discourse(2005)、メイ・ポン編The Struggle for Africa(1983)

アングロ・サクソン中心の奪う側、持てる側(The Robber, Haves)が如何に強引に、巧妙に支配を続けていて、アフロアメリカ、ガーナ、コンゴ、ケニア、南アフリカの奪われる側、持たざる側(The Robbed, Haves-Not)が如何に辱められ、理不尽を強いられて来たか、文学作品とエイズやエボラ出血熱―文学と医学の狭間から見えるその基本構造と実態を明らかにしたいと思います。

最初は歴史を辿って行って結果的に作品に出会ったという流れでしたが、今回は作品から「アングロ・サクソンの系譜」を浮かび上がらせたいと考えています。

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」の次の申請が可能なら、アフロアメリカのところで手に入れて手つかずのままの奴隷体験記An American Slaveの41巻と、エイズのところで集めて消化仕切れていないアフリカのエイズ小説19冊を元に、違う形でのアングロ・サクソン侵略の系譜を辿ろうと思っています。奴隷貿易がおそらく、この500年余りの歴史の中で最も後の世に影響を及ぼした出来事で、エイズが人類史上でおそらく最大の被害と利益を生んでいる病気だからです。

それと、また科研費の交付があり得るのか、を確かめてみたいという気持ちも、ほんの少しだけあるようですから。(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「誕生(リープ)」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要(玉田吉行)

1 私の絵画館:「誕生(リープ)」(小島けい)

 

この前の日曜日、<奇跡のレッスン>という番組を見ました。それは、いろいろなスポーツをしている普通の子供たちのところに、世界で活躍する一流の選手やコーチがやってきて1週間指導する。そうして子供たちがどのようにかわっていくかを追う、というものです。

以前、フィギアスケートをとりあげた時にちらっと見たことがあったのですが、今回はハンドボールでした。

私自身が特に好きな球技というわけではありませんが。高校生の時同じ高校のハンドボール部が急に強くなりました。ハンドボールに詳しい体育の先生が来たかららしいということでしたが、強くなるためにはいったい何が必要なのだろう?とちょっと知りたくなりました。

指導を受けるのはある中学校のクラブで、そこにデンマークから有名な選手がやってきました。彼は、まず普段の練習を見ることから始めました。

最初はグラウンドを走る。その時、日本では珍しくありませんが、かけ声をかけながらみんなで走ります。彼は通訳の人に、彼等は何故声を出して走るのか?と聞き、あれはかけ声ですと教えられます。それに対し、歌っているのかと思った!とまずビックリ。

そして、次々と整然と練習がこなされていきます。この段階では、技術的にはかなりできている、と彼は判断していました。

ところが、試合形式に入った途端生徒たちの動きがバラバラになり、得点にむすびつきません。決まった練習では見せていた能力が、全く発揮されないのです。

その理由は、少し前に行われた試合のビデオを見てはっきりしました。実はこの部活動の指導は、ねっからの体育系と思われる女の先生がされています。生徒たちは試合中も、その先生の指示の声を聞きながら動いていたのです。瞬時に判断して動くスピードが必要とされる試合に、これでは動きがまにあいません。

さらに、声を出せ!声が出てない者が失敗するんだ!とゲキが飛びます。そうなるとまだ上手とはいえない生徒たちはますます萎縮して、動きがさらにぎこちなくなってしまいます。

ここでコーチの指導がいよいよ始まりました。まずやったことは、デンマークではよく使われているというゲーム感覚を取り入れた練習です。自分でドリブルをしながら、同時にスキを見て他の人間のボールをはじき飛ばすというものです。遊びのようですが、いつもまわりを見ながら動く練習になっています。

子供たちは初めての練習に、楽しそうに取り組み始めました。いつもの決まった練習では見せなかった笑顔や笑い声もおこります。

次々と展開されていく練習も、あくまで実践に即した内容が続きます。

こうしたなかで、それまで怒られるのが恐くてクラブをやめたいなあと思っていた生徒や、試合では決して使えないと先生に思われていた生徒たちが、予想外の能力を発揮していきます。

ほめられたことのなかった子がほめられて自信をつけたり、今回はまだ前編でしたが、様々な変化が子供たちにおこっていました。

後編では、前回負けたチームと再び対戦するということです。どうなるか予想もつきませんが。

コーチが生徒たちに伝えたかった大切なこと。

その1は、楽しむということ。その2は、その時どう動くかを、自分で考え判断すること。だったのではないかと思いました。

楽しんでやれば、これまで出せなかった声も出せ、他のメンバーとのコミュニケーションもとれるようになるでしょうし、すばやく判断して行動すれば、得点にもつながっていくはず。

ハンドボールで強くなるために必要なもの、だったはずですが。ふり返るとこの2つは、ハンドボールという1つの球技だけに限られたものではないような。

そんなことに気付かされた夜となりました。

子馬の名はリープ。何年か前のうるう年の2月に生まれました。名前はその<leap year>からつけられました。

子馬はふつう生まれてまもなく、自分の力で立ちあがります。ところがリープは、なかなかそれができませんでした。

ちょうど私が牧場に行った時も、リープは立とうとしてはバタッ!と倒れ、を何回も繰り返していました。

立つことができないとお乳を飲むことができず、子馬は生きていくことができません。そのためオーナーのメグさんが、必死で世話をしておられたのです。

そのかいあって、まもなくリープは見事に立ちあがり、元気に育つことができました。

今はちがう牧場でほがらかにすごしていると、少し前に教えてもらいました。

2 アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要(玉田吉行)

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」で、文部科学省科学研究費(平成30~34年度基盤研究C、4030千円)の交付を受けました。今回はその概略です。4年前に定年退職したとき、もう「研究」せんでもええんかな、とちらっと思いましたが、元々書いたり読んだりする空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取って大学を探し始めただけですから、厳密な意味で「研究」するとかしないとかの概念そのものが僕には元々ないんだったと思い直しました。

辛うじて38歳で宮崎医科大学に教養の英語学科目等の担当の講師として不時着、医学部では運営は教授だけで、それ以外は研究に専念をという方針のようで、書いたり読んだりするための理想的な空間でした。それでも大学では授業と「研究」は避けられません。幸いなことに、人も授業も嫌いではなかったですし、修士課程と非常勤講師の7年間ですでにたくさん書きためていましたので、「研究」のふりは出来そうでした。科研費も1年目に申請し、単年でしたが「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」(平成元年度一般研究C、1000千円)が交付されました。実際にはアパルトヘイト政権と手を組んで甘い汁を吸いながら、表向きは人権侵害反対のポーズを取る国の方針に忠実な文部省には、反アパルトヘイトを掲げて闘った南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ関連のテーマは許容範囲内だったのでしょう。門土社(横浜)のおかげで印刷物が多かったのも決め手の一つだったかも知れません。

今回申請書を出すとき、「学術的背景、核心をなす学術的『問い』」の欄には次のように書きましたが、それが「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」お概要です。

 

定年退職で時間切れと諦めていましたテーマで、再任により申請出来るようですので、機会を有り難く使わせてもらおうと思います。(語学教育センター特別教授二年目、一年毎の更新、最長十年)広範で多岐に渡るテーマですが、アフリカ系アメリカ人の歴史・奴隷貿易と作家リチャード・ライト、

ガーナと初代首相クワメ・エンクルマ、

南アフリカの歴史と作家アレックス・ラ・グーマとエイズ、

ケニアの歴史とグギ・ワ・ジオンゴとエイズ、

アフリカの歴史と奴隷貿易、とそれぞれ10年くらいずつ個別に辿って来ましたので、文学と医学の狭間からその系譜をまとめようと思います。

ライトの作品を理解したいという思いでアフリカ系アメリカ人の歴史を辿り始めてから40年近くになります。その中でその人たちがアフリカから連れて来られたのだと合点して自然にアフリカに目が向きました。大学に職を得る前に黒人研究の会でアフリカ系アメリカとアフリカを繋ぐテーマでのシンポジウムをして最初の著書『箱船21世紀に向けて』(門土社、1987)にガーナへの訪問記Black Power(1954)を軸に「リチャード・ライトとアフリカ」をまとめて以来、南アフリカ→コンゴ・エボラ出血熱→ケニア、ジンバブエ→エイズと広がって行きました。

辿った結論から言えば、アフリカの問題に対する根本的な改善策があるとは到底思えません。英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、根本的改善策には大幅な先進国の経済的譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩の兆しも見えないからです。しかし、学問に役割があるなら、大幅な先進国の譲歩を引き出せなくても、小幅でも先進国に意識改革を促すように提言をし続けることが大切だと考えるようになりました。たとえ僅かな希望でも、ないよりはいいのでしょうから。

文学しか念頭になかったせいでしょう。「文学のための文学」を当然と思い込んでいましたが、アフリカ系アメリカの歴史とアフリカの歴史を辿るうちに、その考えは見事に消えてなくなりました。ここ五百年余りの欧米の侵略は凄まじく、白人優位、黒人蔑視の意識を浸透させました。欧米勢力の中でも一番厚かましかった人たち(アフリカ分割で一番多くの取り分を我がものにした人たち)が使っていた言葉が英語で、その言葉は今や国際語だそうです。英語を強制された国(所謂コモンウェルスカントリィズ)は五十数カ国にのぼります。1992年に滞在したハラレのジンバブエ大学では、90%を占めるアフリカ人が大学内では母国語のショナ語やンデベレ語を使わずに英語を使っていました。ペンタゴン(The Pentagon、アメリカ国防総省)で開発された武器を個人向けに普及させたパソコンのおかげで、今や90%以上の情報が英語で発信されているとも言われ、まさに文化侵略の最終段階の様相を呈しています。

ジンバブエ大学教育学部

聖書と銃で侵略を始めたわけですが、大西洋を挟んで350年に渡って行われた奴隷貿易で資本蓄積を果たした西洋社会は産業革命を起こし、生産手段を従来の手から機械に変えました。その結果、人類が使い切れないほどの製品を生産し、大量消費社会への歩みを始めました。当時必要だったのは、製品を売り捌くための市場と更なる生産のための安価な労働者と原材料で、アフリカが標的となりました。アフリカ争奪戦は熾烈で、世界大戦の危機を懸念してベルリンで会議を開いて植民地の取り分を決めたものの、結局は二度の世界大戦で壮絶に殺し合いました。戦後の20年ほど、それまで虐げられていた人たちの解放闘争、独立闘争が続きますが、結局は復興を遂げた西洋諸国と米国と日本が新しい形態の支配体制を築きました。開発や援助を名目に、国連や世界銀行などで組織固めをした多国籍企業による経済支配体制です。アフリカ系アメリカとアフリカの歴史を辿っていましたら、そんな構図が見えて来て、辿った歴史を二冊の英文書Africa and Its Descendants(Mondo Books, 1995)とAfrica and Its Descendants 2 – The Neo-Colonial Stage(Mondo Books, 1998)にまとめました。

奴隷貿易、奴隷制、植民地支配、人種隔離政策、独立闘争、アパルトヘイト、多国籍企業による経済支配などの過程で、虐げられた側の人たちは強要されて使うようになった英語で数々の歴史に残る文学作品を残して来ました。時代に抗いながら精一杯生きた人たちの魂の記録です。

作品を理解したいという思いから辿った歴史ですが、今度は歴史に刻まれた文学作品から歴史を辿りながら侵略の基本構造と侵略のなかで苦しめられてきた人々の姿を明らかにするのが今回の目的です。その過程で先人から学び取り、将来の指針となる提言の一つでも出来れば嬉しい限りです。(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

門土社(横浜)には大変お世話になりました。

社長の關さんにお会いしたのは1983年か4年だったと思います。当時住んでいた明石から新幹線で横浜に行き、駅の近くでお会いしたように思います。

大学のゼミの貫名さんの追悼号に何か書きませんか、とお誘いを受けて会いに行った、ようなそうでないような。それが原稿第一号になりました→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」

その後、本を7冊、雑誌ごんどわな、ゴンドワナ、復刊ゴンドワナなど、いろいろ書く機会を下さいました。

雑誌を出すのが難しくなってからは、メールマガジン「モンド通信」。

一番たくさん書かせてもらいましたので、気持ちを継続させて、僕のブログで「続モンド通信」を始めることにしました。1号は小島けいの「私の絵画館」と玉田吉行の「ほんやく雑記」未掲載の原稿から始めます。

出来るだけ、月に一度は配信する予定です。記事や執筆者も増えそうな気がしています。

配信をご希望の方はtamadayoshiyuki@gmail.comにお申し込み下されば、毎号ご案内致します。

2018年12月19日  玉田吉行