続モンド通信18(2020/5/20)
1 私の絵画館:「ジプシー」(小島けい)
2 小島けいのジンバブエ日記11回目:空港にて (小島けい)
3 アングロ・サクソン侵略の系譜15:「ゴンドワナ 」(12~19号)(玉田吉行)
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1 私の絵画館:「ジプシー」(小島けい)
季節は冬から春に、そして初夏の装いへと静かに着実に移りかわっていますが、人の世界だけはずっと雲がかかったようなすっきり晴れない日々が続いていますね。
かくして私も、<唯一の救い>のような感じで毎週牧場通いを続けています。
例年ならば、三月末から四月五月と太陽の日ざしがまぶしい宮崎には多くの人が訪れて、ホテル<シーガイア>のすぐ横にある<うまいる>(牧場の支部?)の馬たちはお客様をのせて大忙しのはずですが。
今年は主要メンバーのジプシーも、しばらく前からずっと牧場の方にもどしてもらってのんびりとすごしています。おかげで私は、しばらくぶりに大好きなジプシーに乗せてもらえて、ハッピー!というわけです。
ジプシーは今年26歳の牝馬(ひんば)で、牧場が開かれてすぐやってきた馬です。
乗馬を始めて間もない頃に私はジプシーの絵を描き、それをオーナーのメグさんにさしあげました。
後で彼女から<あの絵を見た瞬間、鳥肌が立ちました!>と聞き、びっくりしましたが。
実は、ジプシーを初めて牧場に連れてきた夜、まだ整地もされていない荒れた原っぱだった広馬場に解き放ったそうなのですが。その時の月の光の中で走るジプシーと絵のジプシーとがピッタリ重なった!というのです。
何も知らずに描きましたが、そんな偶然もあるのだなあ・・・・と、不思議に思ったものでした。
私が今まで牧場で一番お世話になった馬がジプシーです。けれど調教がよくできていて、人が安心して乗れる信頼できる馬なので、何年か前に<うまいる>ができてからは、ほとんどシーガイアの方に常駐することになりました。どんなお客様でも彼女になら安心してまかせることができるからです。
それでもジプシーにとって大変なこともありました。外乗で海辺を走っていたとき。砂浜に流れついていた木片が跳ねてジプシーの胸につきささりました。けれどジプシーは騒ぐこともなく、走り続けたのです。
お客様が下りた後、スタッフが血を流しているジプシーを見て、初めてケガに気付いたそうです。きっとひどく痛かったにちがいないのに、あばれたり、続けて走るのをイヤがったりせず、ずっとがまんしていたと思うと、涙がでそうになります。
そんなに乗せている人の言うことをきかなくてもいんだヨ!と、言ってあげたくなるような馬なのです。
結局、そのケガは完治するまで思いのほか長くかかってしまいました。一応、つきささった木片は、最初の治療で取り出せたと思われたのですが。いつまでもキズ口が治らず、再度調べ直したところ、木片のかけらの一部がまだ体の中に残っていたのでした。
今ではすっかり元気になりましたが、軽い合図でも一生懸命走ってくれるので、少し走っては木陰でちょっと一休みして、そしてまた走る。ジプシーも私も<お年>ですので、お互いに疲れすぎないように気をつけながら、末長く一緒にすごせたらいいなあ・・・・と、明日の乗馬を楽しみにしている私です。
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2 小島けいのジンバブエ日記11回目:「空港にて」(小島けい)
10月3日
ハラレ最後の日。家主の老婆の突然の帰国で、時間的にも精神的にもすっかり狂ってしまいましたが、とりあえず18時40分二台のタクシーで、慌ただしく借りていた家を出発。空港に向かいます。
ジャカランダで薄紫に染まる街並みを見ながら<やれやれ・・・>と思ったのもつかの間。私たち二人が乗ったタクシーの運転手は道をよく知らないようで、どうも変な方向から空港に向かい、普通の倍くらいの時間がかかってしまいました。当然、子供たちの乗ったタクシーとはすっかり離れてしまいました。
そうしてようやく空港にたどり着きましたが、タクシーを降りた瞬間、そこには目を疑うような光景がありました。ハラレに到着した日はお昼頃で、小さな空港は閑散としていましたが。目の前の夜の空港には、どこからこれだけの人が集まったのかと思うほどの人々が押しよせて、空港の外の方まで人であふれています。
ハラレ国際空港
先に着いたはずの子供たちとアレックスとジョージはどこ?と捜しますが、あまりにも多くの人、人、人でなかなか見つけられません。そうこうしているうちに私たち二人は大きな流れのなかに飲みこまれ後からずんずん押されて、気がつけば手続きの場所まで来てしまいました。もしかしたら中にいるかもしれないと思い、とりあえず長い時間をかけて手続きをすませ、空港内に入りました。そして再びごった返す人々の中にび四人をさがしますが、見つけることができません。
ジョージ
やはり子供たちは手続きもできず、ゲートの外で私たちを待ち続けているにちがいないと、もう一度人々の間・彼方に目をやり捜し続けていました。すると、はるか向こうの建物の端の方で、茫然と立ちすくみ、私たちを必死に目で捜している四人を発見!
大きなトランクを持ったままでは動くこともままならないので、私だけが迎えに行くためもどろうとしますが、係員から<一度入ったら出ることはできない!!>と強く止められます。<飛行機に乗る子供たちがまだあそこにとり残されているから>といくら説明しても、<No!!>というだけで、ラチがあきません。
飛行機の搭乗時間も迫っていました。このままあの四人が私たちを見つけられなければ、子供たち二人はアフリカにとり残されてしまう!!その恐怖が走った瞬間、私は混雑する人ごみの流れに逆らいジリジリと戻り始めました。ゲートが近付くと、係員に見つけられないよう身をかがめしゃがんだまま、どんどん中に入ってくる人々の足の間を逆行してゲートをすり抜け、ようやく四人のところにたどり着くことができました。
そうして、何とか無事に子供たちの手続きも終え、最後まで子供たちを守ってくれた信頼できる友人アレックスとジョージにお別れの挨拶。別れ際には、柵のこちらからむこうへもう使うことのない私たちが持っていたすべてのハラレのお金を二人に渡します。ほんとうにたくさんの<タテンダ!!(ありがとう)>押し寄せる人々の中で、大声でこの一言を叫ぶのが精一杯でした。
アレックス
ジンバブエのハラレの空港で決して冗談ではなく、あやうくはぐれてしまうところだった私たち四人は、こうして何とかパリへの長い飛行機の旅路に着くことができました。
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3 アングロ・サクソン侵略の系譜15:「ゴンドワナ」 (12~19号)(玉田吉行)
「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」(続モンド通信16、2020年3月20日)の続編で、「ゴンドワナ」の12号から19号に掲載された記事についてです。20~21号は校正段階で未掲載ですが、紹介しています。すべて宮崎医科大学に来てから書きました。
12号(1988年)→「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)(6-19頁。)
「ゴンドワナ 」12号
1988年9月に大阪工業大学で開催された黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の報告です。シンポジウムでは小林信次郎氏(大阪工業大学)、北島義信氏(暁学園女子短期大学)、Cyrus Mwang氏(大阪工業大学非常勤)といっしょに発表、私はラ・グーマと南アフリカについて話をしました。3月まで嘱託講師としてLL教室で工学部の英語の授業を担当していました。その年の4月に宮崎医科大学に着任しましたので、公費出張の第1号となりました。その4月に映画『遠い夜明け』の原作者ドナルド・ウッズ氏が大阪中之島のメイデイのデモに参加すると聞いていっしょに歩きたかったのですが、参加出来なかったのは心残りです。ドナルド・ウッズ氏はロンドンの亡命中でした。→「宮崎医科大学 」
大阪工業大学
13号(1988年)→<a href="https://kojimakei.jp/tama/topics/works/w1970/395″>「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」</a>(14-25頁。)
「ゴンドワナ 」13号
「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(「ゴンドワナ」11号39-47頁)の後編、ラ・グーマの作家論・作品論のシリーズ5作目で、『夜の彷徨』の文学手法についての作品論でです。表題に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk)のイメージが、幾重にも交錯しながら物語全体を覆い、ラ・グーマが意図したように、作品の舞台となったケープタウン第6区(カラード居住区)の抑圧的な雰囲気を見事に醸し出している点を評価しました。
ナイジェリアのムバリ出版社の初版本(神戸市外国語大学黒人文庫)
14号(1988年)→「アパルトヘイトの歴史と現状」(10-33頁。)
「ゴンドワナ 」14号
松山市内で弁護士をされている薦田伸夫さんが誘って下さった「アサンテ・サーナ!(スワヒリ語でありがとう)自由」という催しの一環として、1989年7月1日に、愛媛県の松山東雲学園百周年記念館で講演した「アパルトヘイトの歴史と現状」をもとにしてまとめたものです。その催しでは、他に、アパルトヘイト否! 国際美術展・写真展、エチオピア子供絵画展、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等の資料展示、「源の助バンド」によるレゲエのコンサート、「アモク!」の映画会が、主に一日、二日の両日にわたって行なわれました。
南アフリカのアパルトヘイトの歴史と、その制度が廃止される直前までの流れを分析したもので、アパルトヘイト政権誕生や体制の仕組みと、アフリカ人の抵抗運動の歴史的な経緯を詳説し、白人政府と富を共有する日本との関わりなどを含めた現状を分析しました。文学作品を理解する上で欠かせない歴史認識の作業から生まれました。
15号(1990年)→「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」(9-29頁。)
ミリアム・トラーディさん(小島けい画)
アパルトヘイト体制があった時代に南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎に招いて宮崎医科大学で講演してもらった時の講演の記録です。送った案内とは違った形で宮崎の新聞社5社に報道されました。テレビでも「人種差別を考える会」と放送されましたので、大学の執行部からブラックリストに載ったと言われ、助教授への昇進人事を凍結されました。それ以来マスコミ関係は避けるようになりましたが、ミリアムさん本人は、白人政権に荷担する日本に来て歓迎され、講演でも話を出来て満足そうでした。8月6日の女性の日に立正佼成会から招待されたとのことでした。
15号(1990年)→「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(「ゴンドワナ」15号2-8頁。)
「ゴンドワナ 」15号
学生の助けも借りて、家でパーティをしたり、一ッ葉の海岸を案内したり、滞在期間にミリアムさんと過ごした時の随想です。ちょうど出版してもらったアレックス・ラ・グーマの編註英文書And a Threefold Cord(『まして束ねし縄なれば』)を紹介しましたら、南アフリカでは発禁処分を受けていたので、感慨深げに眺め、その日のホテルで明方まで読んでいたということでした。
And a Threefold Cord(表紙絵:小島けい画)
16号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、14-20頁。)
「ゴンドワナ 」16号
1964年に出版されたラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の前編です。1962年から1963年にかけて書かれたこの物語は、執筆の一部や出版の折衝などもケープタウン刑務所内で行なわれ、アパルトヘイト政権が崩壊するまで南アフリカ国内では発禁処分を受けていました。作品論に入る前に、1964年のリボニアの裁判とラ・グーマがコラム欄を担当した週刊新聞「ニュー・エイジ」を軸に、当時の社会的状況とラ・グーマの身辺について書きています。
17号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、6-19頁。)
「ゴンドワナ 」17号
ラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の後編です。ラ・グーマの第2作目の物語『三根の縄』(1964年ナイジェリアムバリ出版社刊、のちに日本語のタイトルを『まして束ねし縄なれば』と改題)の作品論です。
雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気をうまく伝えています。ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからで、世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から、この作品を生み出しました。自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、力を合わせて懸命に働き続ける人々の姿を描いています。
18号(1991年)→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(7-12頁。)
ルス・ファースト役バーバラ・ハーシー
南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストの自伝『南アフリカ117日獄中記』(117 Days, 1965)をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督したイギリス映画『ワールド・アパート』の映画評です。『遠い夜明け』に続いて上映されました。アパルトヘイトによって傷つけられた母娘の切ない相克に焦点があてられています。
18号(1991年)→「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号(2-6頁。)
「ゴンドワナ 」18号
宮崎に来て暫くしてから、バングラデシュから国費留学生として医学科で高血圧を勉強するために来日したカーンさんが、英語をしゃべる、という理由だけで、寄生虫講座の名和さんに連れられて僕の研究室にやって来ました。内科、薬理とたらい回しされたあと、寄生虫に拾ってもらったようでした。話し相手がいなかったのか、よく部屋に来るようになりました。奥さんと子供を家に連れて来たり。そのうち、友だちも部屋に来るようになって、その中の一人のエジプトの留学生に国のことについて英語で書いてもらい、僕が日本語訳をつけました。
19号(1991年)→「自己意識と侵略の歴史」(10-22頁。)
「ゴンドワナ 」19号
この500年ほどのアングロ・サクソンを中心にした侵略の歴史の意識の問題に焦点を当てて書いたものです。理不尽な侵略行為を正当化するために白人優位・黒人蔑視の意識を植え付けて来ましたが、意識の問題に正面から取り組んだアメリカ公民権運動の指導者の一人マルコム・リトルと、アパルトへイトと闘ったスティーブ・ビコを引き合いに、意識の問題について書きました。アパルトヘイト反対運動の一環として依頼されて話した講演「アフリカを考える—アフリカ」(南九州大学大学祭、海外事情研究部主催)や宮崎市タチカワ・デンタルクリニックの勉強会での話をまとめたものです。
(20号~21号:校正段階未発行)
20号(1993年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」(14-20頁。)
本来なら、マンデラに代わって国の代表となるべきだった人ロバート・マンガリソ・ソブクウェについての人物論です。30年以上ソブクウェと家族を支援し続けた白人ジャーナリストベンジャミン・ポグルンドの伝記『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』をもとに、誕生からやがて反アパルトヘイト運動の指導者として立ち上がり、ANC(アフリカ民族会議)と袂をわかって新組織PAC(パン・アフリカニスト会議)を創設するまでの過程を論じています。
ロバート・マンガリソ・ソブクウェ(小島けい画)
21号(1994年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」(6-19頁。)
「ロバート・ソブクウェというひと ①南アフリカに生まれて」の続編で、パン・アフリカニスト会議の議長として反アパルトヘイト運動を展開したソブクエの人物論です。政府はソブクエの影響力を恐れるあまり「ソブクエ法」という世界でも類のない理不尽な法律を作って「合法的に」ソブクエを閉じ込めましたが、拘禁されながら54歳の若さで南アフリカの土と消えるまで、そしてそれ以降も、南アフリカの人たちを支え続けたソブクエの孤高な生き方を検証しました。(宮崎大学教員)