続モンド通信・モンド通信

続モンド通信18(2020/5/20)

 

私の絵画館:「ジプシー」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記11回目:空港にて (小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜15:「ゴンドワナ 」(12~19号)(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:「ジプシー」(小島けい)

季節は冬から春に、そして初夏の装いへと静かに着実に移りかわっていますが、人の世界だけはずっと雲がかかったようなすっきり晴れない日々が続いていますね。

かくして私も、<唯一の救い>のような感じで毎週牧場通いを続けています。

例年ならば、三月末から四月五月と太陽の日ざしがまぶしい宮崎には多くの人が訪れて、ホテル<シーガイア>のすぐ横にある<うまいる>(牧場の支部?)の馬たちはお客様をのせて大忙しのはずですが。

今年は主要メンバーのジプシーも、しばらく前からずっと牧場の方にもどしてもらってのんびりとすごしています。おかげで私は、しばらくぶりに大好きなジプシーに乗せてもらえて、ハッピー!というわけです。

ジプシーは今年26歳の牝馬(ひんば)で、牧場が開かれてすぐやってきた馬です。

乗馬を始めて間もない頃に私はジプシーの絵を描き、それをオーナーのメグさんにさしあげました。

後で彼女から<あの絵を見た瞬間、鳥肌が立ちました!>と聞き、びっくりしましたが。

実は、ジプシーを初めて牧場に連れてきた夜、まだ整地もされていない荒れた原っぱだった広馬場に解き放ったそうなのですが。その時の月の光の中で走るジプシーと絵のジプシーとがピッタリ重なった!というのです。

何も知らずに描きましたが、そんな偶然もあるのだなあ・・・・と、不思議に思ったものでした。

私が今まで牧場で一番お世話になった馬がジプシーです。けれど調教がよくできていて、人が安心して乗れる信頼できる馬なので、何年か前に<うまいる>ができてからは、ほとんどシーガイアの方に常駐することになりました。どんなお客様でも彼女になら安心してまかせることができるからです。

それでもジプシーにとって大変なこともありました。外乗で海辺を走っていたとき。砂浜に流れついていた木片が跳ねてジプシーの胸につきささりました。けれどジプシーは騒ぐこともなく、走り続けたのです。

お客様が下りた後、スタッフが血を流しているジプシーを見て、初めてケガに気付いたそうです。きっとひどく痛かったにちがいないのに、あばれたり、続けて走るのをイヤがったりせず、ずっとがまんしていたと思うと、涙がでそうになります。

そんなに乗せている人の言うことをきかなくてもいんだヨ!と、言ってあげたくなるような馬なのです。

結局、そのケガは完治するまで思いのほか長くかかってしまいました。一応、つきささった木片は、最初の治療で取り出せたと思われたのですが。いつまでもキズ口が治らず、再度調べ直したところ、木片のかけらの一部がまだ体の中に残っていたのでした。

今ではすっかり元気になりましたが、軽い合図でも一生懸命走ってくれるので、少し走っては木陰でちょっと一休みして、そしてまた走る。ジプシーも私も<お年>ですので、お互いに疲れすぎないように気をつけながら、末長く一緒にすごせたらいいなあ・・・・と、明日の乗馬を楽しみにしている私です。

=============

2 小島けいのジンバブエ日記11回目:「空港にて」(小島けい)

ハラレの借家

10月3日

ハラレ最後の日。家主の老婆の突然の帰国で、時間的にも精神的にもすっかり狂ってしまいましたが、とりあえず18時40分二台のタクシーで、慌ただしく借りていた家を出発。空港に向かいます。
ジャカランダで薄紫に染まる街並みを見ながら<やれやれ・・・>と思ったのもつかの間。私たち二人が乗ったタクシーの運転手は道をよく知らないようで、どうも変な方向から空港に向かい、普通の倍くらいの時間がかかってしまいました。当然、子供たちの乗ったタクシーとはすっかり離れてしまいました。

ジャカランダで薄紫に染まる街

 そうしてようやく空港にたどり着きましたが、タクシーを降りた瞬間、そこには目を疑うような光景がありました。ハラレに到着した日はお昼頃で、小さな空港は閑散としていましたが。目の前の夜の空港には、どこからこれだけの人が集まったのかと思うほどの人々が押しよせて、空港の外の方まで人であふれています。

ハラレ国際空港

 先に着いたはずの子供たちとアレックスとジョージはどこ?と捜しますが、あまりにも多くの人、人、人でなかなか見つけられません。そうこうしているうちに私たち二人は大きな流れのなかに飲みこまれ後からずんずん押されて、気がつけば手続きの場所まで来てしまいました。もしかしたら中にいるかもしれないと思い、とりあえず長い時間をかけて手続きをすませ、空港内に入りました。そして再びごった返す人々の中にび四人をさがしますが、見つけることができません。

ジョージ

 やはり子供たちは手続きもできず、ゲートの外で私たちを待ち続けているにちがいないと、もう一度人々の間・彼方に目をやり捜し続けていました。すると、はるか向こうの建物の端の方で、茫然と立ちすくみ、私たちを必死に目で捜している四人を発見!
大きなトランクを持ったままでは動くこともままならないので、私だけが迎えに行くためもどろうとしますが、係員から<一度入ったら出ることはできない!!>と強く止められます。<飛行機に乗る子供たちがまだあそこにとり残されているから>といくら説明しても、<No!!>というだけで、ラチがあきません。
飛行機の搭乗時間も迫っていました。このままあの四人が私たちを見つけられなければ、子供たち二人はアフリカにとり残されてしまう!!その恐怖が走った瞬間、私は混雑する人ごみの流れに逆らいジリジリと戻り始めました。ゲートが近付くと、係員に見つけられないよう身をかがめしゃがんだまま、どんどん中に入ってくる人々の足の間を逆行してゲートをすり抜け、ようやく四人のところにたどり着くことができました。
そうして、何とか無事に子供たちの手続きも終え、最後まで子供たちを守ってくれた信頼できる友人アレックスとジョージにお別れの挨拶。別れ際には、柵のこちらからむこうへもう使うことのない私たちが持っていたすべてのハラレのお金を二人に渡します。ほんとうにたくさんの<タテンダ!!(ありがとう)>押し寄せる人々の中で、大声でこの一言を叫ぶのが精一杯でした。

アレックス

 ジンバブエのハラレの空港で決して冗談ではなく、あやうくはぐれてしまうところだった私たち四人は、こうして何とかパリへの長い飛行機の旅路に着くことができました。

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜15:「ゴンドワナ」 (12~19号)(玉田吉行)

「アングロ・サクソン侵略の系譜 13:ゴンドワナ (3~11号)」続モンド通信16、2020年3月20日)の続編で、「ゴンドワナ」の12号から19号に掲載された記事についてです。20~21号は校正段階で未掲載ですが、紹介しています。すべて宮崎医科大学に来てから書きました。

12号(1988年)→「アパルトヘイトを巡って」(シンポジウム)(6-19頁。)

「ゴンドワナ 」12号

1988年9月に大阪工業大学で開催された黒人研究の会創立30周年記念シンポジウム「現代アフリカ文化とわれわれ」の報告です。シンポジウムでは小林信次郎氏(大阪工業大学)、北島義信氏(暁学園女子短期大学)、Cyrus Mwang氏(大阪工業大学非常勤)といっしょに発表、私はラ・グーマと南アフリカについて話をしました。3月まで嘱託講師としてLL教室で工学部の英語の授業を担当していました。その年の4月に宮崎医科大学に着任しましたので、公費出張の第1号となりました。その4月に映画『遠い夜明け』の原作者ドナルド・ウッズ氏が大阪中之島のメイデイのデモに参加すると聞いていっしょに歩きたかったのですが、参加出来なかったのは心残りです。ドナルド・ウッズ氏はロンドンの亡命中でした。→「宮崎医科大学 」

大阪工業大学

13号(1988年)→<a href="https://kojimakei.jp/tama/topics/works/w1970/395″>「アレックス・ラ・グーマ 人と作品5 『夜の彷徨』下 手法」</a>(14-25頁。)

「ゴンドワナ 」13号

「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(「ゴンドワナ」11号39-47頁)の後編、ラ・グーマの作家論・作品論のシリーズ5作目で、『夜の彷徨』の文学手法についての作品論でです。表題に使った「夜」(Night)と「彷徨」(Walk)のイメージが、幾重にも交錯しながら物語全体を覆い、ラ・グーマが意図したように、作品の舞台となったケープタウン第6区(カラード居住区)の抑圧的な雰囲気を見事に醸し出している点を評価しました。

ナイジェリアのムバリ出版社の初版本(神戸市外国語大学黒人文庫)

14号(1988年)→「アパルトヘイトの歴史と現状」(10-33頁。)

「ゴンドワナ 」14号

松山市内で弁護士をされている薦田伸夫さんが誘って下さった「アサンテ・サーナ!(スワヒリ語でありがとう)自由」という催しの一環として、1989年7月1日に、愛媛県の松山東雲学園百周年記念館で講演した「アパルトヘイトの歴史と現状」をもとにしてまとめたものです。その催しでは、他に、アパルトヘイト否! 国際美術展・写真展、エチオピア子供絵画展、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ等の資料展示、「源の助バンド」によるレゲエのコンサート、「アモク!」の映画会が、主に一日、二日の両日にわたって行なわれました。

南アフリカのアパルトヘイトの歴史と、その制度が廃止される直前までの流れを分析したもので、アパルトヘイト政権誕生や体制の仕組みと、アフリカ人の抵抗運動の歴史的な経緯を詳説し、白人政府と富を共有する日本との関わりなどを含めた現状を分析しました。文学作品を理解する上で欠かせない歴史認識の作業から生まれました。

15号(1990年)→「ミリアム・トラーディさんの宮崎講演」(9-29頁。)

ミリアム・トラーディさん(小島けい画)

アパルトヘイト体制があった時代に南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎に招いて宮崎医科大学で講演してもらった時の講演の記録です。送った案内とは違った形で宮崎の新聞社5社に報道されました。テレビでも「人種差別を考える会」と放送されましたので、大学の執行部からブラックリストに載ったと言われ、助教授への昇進人事を凍結されました。それ以来マスコミ関係は避けるようになりましたが、ミリアムさん本人は、白人政権に荷担する日本に来て歓迎され、講演でも話を出来て満足そうでした。8月6日の女性の日に立正佼成会から招待されたとのことでした。

15号(1990年)→「ミリアムさんを宮崎に迎えて」(「ゴンドワナ」15号2-8頁。)

「ゴンドワナ 」15号

学生の助けも借りて、家でパーティをしたり、一ッ葉の海岸を案内したり、滞在期間にミリアムさんと過ごした時の随想です。ちょうど出版してもらったアレックス・ラ・グーマの編註英文書And a Threefold Cord(『まして束ねし縄なれば』)を紹介しましたら、南アフリカでは発禁処分を受けていたので、感慨深げに眺め、その日のホテルで明方まで読んでいたということでした。

And a Threefold Cord(表紙絵:小島けい画)

16号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品6 『三根の縄』 南アフリカの人々 ①」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、14-20頁。)

「ゴンドワナ 」16号

1964年に出版されたラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の前編です。1962年から1963年にかけて書かれたこの物語は、執筆の一部や出版の折衝などもケープタウン刑務所内で行なわれ、アパルトヘイト政権が崩壊するまで南アフリカ国内では発禁処分を受けていました。作品論に入る前に、1964年のリボニアの裁判とラ・グーマがコラム欄を担当した週刊新聞「ニュー・エイジ」を軸に、当時の社会的状況とラ・グーマの身辺について書きています。

17号(1990年)→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品7 『三根の縄』 南アフリカの人々 ②」(『三根の縄』はのちに『まして束ねし縄なれば』と改題、6-19頁。)

「ゴンドワナ 」17号

ラ・グーマの第2作『三根の縄』(And a Threefold Cord)の作品論の後編です。ラ・グーマの第2作目の物語『三根の縄』(1964年ナイジェリアムバリ出版社刊、のちに日本語のタイトルを『まして束ねし縄なれば』と改題)の作品論です。

雨と灰色のイメージを利用して惨めなスラム街の雰囲気をうまく伝えています。ラ・グーマが敢えて雨を取り上げたのは、政府の外国向けの観光宣伝とは裏腹に、現実にケープタウンのスラムの住人が天候に苦しめられている姿を描きたかったからで、世界に現状を知らせなければという作家としての自負と、歴史を記録して後世に伝えなければという同胞への共感から、この作品を生み出しました。自ら虐げられながらも、他人への思い遣りを忘れず、力を合わせて懸命に働き続ける人々の姿を描いています。

18号(1991年)→「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(7-12頁。)

ルス・ファースト役バーバラ・ハーシー

南アフリカの白人ジャーナリスト、ルス・ファーストの自伝『南アフリカ117日獄中記』(117 Days, 1965)をもとに、娘のショーン・スロボが脚本を書き、クリス・メンゲスが監督したイギリス映画『ワールド・アパート』の映画評です。『遠い夜明け』に続いて上映されました。アパルトヘイトによって傷つけられた母娘の切ない相克に焦点があてられています。

18号(1991年)→「マグディ・カアリル・ソリマン『エジプト 古代歴史ゆかりの地』」「ゴンドワナ」18号(2-6頁。)

「ゴンドワナ 」18号

宮崎に来て暫くしてから、バングラデシュから国費留学生として医学科で高血圧を勉強するために来日したカーンさんが、英語をしゃべる、という理由だけで、寄生虫講座の名和さんに連れられて僕の研究室にやって来ました。内科、薬理とたらい回しされたあと、寄生虫に拾ってもらったようでした。話し相手がいなかったのか、よく部屋に来るようになりました。奥さんと子供を家に連れて来たり。そのうち、友だちも部屋に来るようになって、その中の一人のエジプトの留学生に国のことについて英語で書いてもらい、僕が日本語訳をつけました。

19号(1991年)→「自己意識と侵略の歴史」(10-22頁。)

「ゴンドワナ 」19号

この500年ほどのアングロ・サクソンを中心にした侵略の歴史の意識の問題に焦点を当てて書いたものです。理不尽な侵略行為を正当化するために白人優位・黒人蔑視の意識を植え付けて来ましたが、意識の問題に正面から取り組んだアメリカ公民権運動の指導者の一人マルコム・リトルと、アパルトへイトと闘ったスティーブ・ビコを引き合いに、意識の問題について書きました。アパルトヘイト反対運動の一環として依頼されて話した講演「アフリカを考える—アフリカ」(南九州大学大学祭、海外事情研究部主催)や宮崎市タチカワ・デンタルクリニックの勉強会での話をまとめたものです。

20号~21号:校正段階未発行)

20号(1993年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ① 南アフリカに生まれて」(14-20頁。)

本来なら、マンデラに代わって国の代表となるべきだった人ロバート・マンガリソ・ソブクウェについての人物論です。30年以上ソブクウェと家族を支援し続けた白人ジャーナリストベンジャミン・ポグルンドの伝記『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』をもとに、誕生からやがて反アパルトヘイト運動の指導者として立ち上がり、ANC(アフリカ民族会議)と袂をわかって新組織PAC(パン・アフリカニスト会議)を創設するまでの過程を論じています。

ロバート・マンガリソ・ソブクウェ(小島けい画)

21号(1994年予定:校正段階未発行)→「ロバート・ソブクウェというひと ② アフリカの土に消えて」(6-19頁。)

「ロバート・ソブクウェというひと ①南アフリカに生まれて」の続編で、パン・アフリカニスト会議の議長として反アパルトヘイト運動を展開したソブクエの人物論です。政府はソブクエの影響力を恐れるあまり「ソブクエ法」という世界でも類のない理不尽な法律を作って「合法的に」ソブクエを閉じ込めましたが、拘禁されながら54歳の若さで南アフリカの土と消えるまで、そしてそれ以降も、南アフリカの人たちを支え続けたソブクエの孤高な生き方を検証しました。(宮崎大学教員)

ソブクウェと家族(『ロバート・ソブクウェとアパルトヘイト』から)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信17(2020/4/20)

 

私の絵画館:てんちゃんとつゆちゃんとネモフィラ(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記10回目:10月3日(晴れ)最後の晩さん(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜14:「宮崎医科大学」(玉田吉行)

4 (玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:「てんちゃんとつゆちゃんとネモフィラ」(小島けい)

 このところ、先の見えない毎日が続いておりますが、皆様いかがおすごしでしょうか。そして、犬ちゃんや猫ちゃんたちも、みんな元気ですか。

こちらは(正確には実情はわからないままに)全般的には、ゆるーい感じで時間が流れています。

それでも一応は、公民館でのジャズダンスの教室はお休みとなり、私は運動のため毎週のように牧場に通っています。

自転車で片道一時間。牧場で一鞍(約30分)乗って、帰りはまた自転車で一時間。なかなかの運動量です。けれど、牧場で馬・犬・猫・山羊たちに会い、帰りの田んぼ道できんぽうげやアザミを摘んで帰る。この普段通りのなにげない時間が、今の私には、ひとしお大切なひと時になっています。

これからどのようになってゆくかは全くわかりませんが。皆様と元気にお会いできる日を心待ちに、できる限り穏やかな気持ちで、絵を描き続けてゆけたら…と思っております。

てんちゃんとつゆちゃんとネモフィラ

2008年4月24日、元のら猫のアリスは家で5匹の子供を産みました。

アリス(パステル)

その中で一、二を争う美人猫が、当初さやちゃんMちゃんと呼んでいた猫たちでした。

この二匹は後に優しいご家族と出逢い、今も楽しく元気にすごしています。

毎年、年賀状で様子を知らせて下さっていましたが。本当に有り難いご縁で、感謝の気持ちを改めてお伝えしたいと、昨年二匹の絵をかかせていただきました。

美しい猫たちですので、やはり美しい花と一緒に描きたい!と思い、淡いブルーの<ネモフィラ>を選びました。

それがこの絵です。

昨年末絵をお送りしたところ、しばらくたって<ずいぶんとお礼が遅くなりましたが・・・・>と、かわいいミニアルバムが届きました。

そこには、てんちゃん(さやちゃん)とつゆちゃん(Mちゃん)の他に、同居しているまめちゃんとチーちゃんの写真もありました。残念なことに、唯一の男の子だったまめちゃんは<昨年天国に旅立ってしまいました>とありましたが、4匹とご家族のほほえましい日常のお写真が、絶妙なコメントとともに飾られていました。

このような素敵で心のこもったアルバムを作るには、ずいぶんの手間と時間がかかっただろうと思われました。

アルバムを何度も見なおしながら、二匹の絵をほんとうに喜んでいただけたのだなあと実感し、いつものことですが、仕上げるまでの大変さがすうっと後ろに遠ざかってゆきました。

アリス(水彩)

=============

2 小島けいのジンバブエ日記10回目:「10月3日(晴れ)最後の晩さん」(小島けい)

 今日、私たちはハラレを発ちます。

パリに持っていく荷物を詰め、ゲイリーたちにハラレで買った物を全て譲り、一生に一度の思い出に彼らをお風呂に入れてあげ、各部屋をもと通りにしなければいけません。それらをすませてから、アレックスたちと一緒に、楽しくお別れの食事会をするつもりでした。

ところが、明日帰国予定の家主が、午前11時過ぎ突然帰って来ました。まず空港からの電話で、冷蔵庫の冷凍室が一杯になるくらいのフランスパンを買いに、ゲイリーをパンの店まで走らせました。

次に、夜の飛行機に備え少しでも子供たちを寝させたい、と思っている午後2時すぎ、急に家主が庭に現われました。(いつものようにゲイリーに門を開けさせたのです。)典型的なこの国に住む白人の老婆でした。穏便にすませようとタマさんは、<私たちの出発した後午後七時以降に来てほしい>、と手紙を書きました。直接会えば喧嘩になりかねないからです。ゲイリーから手紙を受け取った家主は、タクシーを呼ばせて、タクシーの到着を待っている間中、庭の中を点検して回りました。自分の留守中に、得体の知れないアジア人に荒らされたり壊されたりしたところはないか?と疑っている様子がありありでした。

その後一応家主は引きあげましたが、老婆の出現で現実に引きもどされたゲイリーの表情はこわばったままですし、部屋の修復も、最初に台所の小さなスプーンに至るまでぶ厚いリストを作って渡されているので、なかなかの作業です。

借家

家主の一日早い帰国という予想外の出来事で、時間的にも精神的にもよけいにバタバタしましたが、午後5時40分に大幅に遅れていたアレックスとジョージが、チキンのテイクアウトを運んで来てくれました。ようやく、慌ただしいなかにもなごやかに、お別れパーティです。

アレックス

ところがその少し後、食事の最中に、タクシーが止まり再び家主が門の前に立ちました。タクシーが門を開けろ!という合図の警笛をならしています。途端にゲイリーの顔に恐怖が走ります。この国では黒人は家の中に入る時、玄関で裸足になって入らねばなりません。土足で、しかも居間で、私たちと一緒に食事をしている光景をもし庭からでも見られたら、即刻首にされるに決まっています。

ジョージ(小島けい画)

相方はとっさに判断して、いつものようにゲイリーに門を開けさせずに、自分で門に走りました。そして開けないまま門をよじ登って外側に降り、門の前に立ちふさがりました。そこで”出発まで庭で待ちたい”という老婆と”今日まで借りているのだから、出発した後で来るべきだ”と押し問答です。私たちは居間で、どうなることかと固唾をのんで様子を窺っていました。それはしばらく続きましたが、とうとう最後に、彼が大声で怒鳴り、やっとのことで老婆を追い返しました。

 しぶしぶ引きあげたとは言え、彼女は何時またもどって来るかわかりません。迫ってくる出発の時間と大きな不安。おまけに、予約した時間よりも大幅に早くタクシーが2台到着です。運転手たちには待ってくれるよう頼むしかありません。そうした混乱のなか、みんなは食事の残りを詰め込むように食べ終わり、慌ただしい<最後の晩さん>は終わりました。それでも出発前には、以前から約束していた<花火>だけはきっちりしました!

心に描いていた<ゆったりした楽しい食事会>とは程遠い、混乱のなかでの最後の食事会で、想いは乱れたままですが、ぎりぎりの時間となり、もうお別れです。抱き合い泪するゲイリーたちと私たち。”タテンダ(ありがとう)”という言葉しか言えません。

ゲイリーたち

空港まで送ってくれるアレックス、ジョージと、私たち家族4人は、4つの大きなトランクを積み込み、二台のタクシーで出発です。ジャカランダの花で全体が薄紫に染まる街が、夕闇と泪でかすんでいきました。

ジャカランダの街

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜14:宮崎医科大学(玉田吉行)

 1988年4月に、宮崎医科大学一般教養英語学科目等の講師になり、1年生の英語を担当することになりました。学歴のⅡ部が問題になり9月の教授会で承認されなかったものの、推薦してくれた人が3ヶ月後に同じ書類を再提出、「過半数を得て承認されましたよ」、と後で教えてくれました。

宮崎医科大学(旧ホームページより、今は宮崎大学医学部、花壇の一部は駐車場に)

生活は一変しました。

受験に馴染めず行く大学も選べなかった人間が、受験をこなして入学してきた医学科生の英語の授業を担当することになった、わけです。

慌ただしい引っ越しのあと、すぐに新学期が始まりました。5年間も非常勤が続いて居場所がありませんでしたので、研究室が何よりでした。小説を書く空間が欲しくて大学に来たことに多少の後ろめたさは感じましたが、それよりも空間を確保出来たという思いの方が強かったように思います。

私自身ずっと中高の試験のための英語が嫌でしたから、一般教養の英語は都合がよかったと思います。

英語も言葉の一つで伝達の手段だから使えないと意味がない、中高でやったように「英語」をするのではなく、「英語」を使って何かをする、教員としては人の書いたテキストを学生に買ってもらい、1時間ほどで採点をして成績がつけられる筆記試験をするのが一番楽かも知れないが、自分が嫌だったものを人に強いるのも気が引ける、新聞や雑誌も使い、可能な限り映像と英語を使う、折角大学に来たのだから中高では取り上げない題材を使って自分自身や世の中について考える機会を提供して、大学らしい授業だと思ってもらえるような授業がいい、医学のことはこの先医療系の教員が嫌というほどやってくれるのだから、一般教養の担当にしか出来ないことをしよう、自分の時間でもあるし、いっしょに楽しくやりたい、あちこち非常勤をしている間に、大体そんな方向性は決めていました。

最初の授業で配った自己紹介です。

 

「1949年兵庫県生まれ。

はじめまして。

碌なこともせずに、生き永らえています。疎外感しか感じなかった家や地域を出て行くつもりが、行く大学も見つからずに家を出そびれ、家から通える範囲の夜間課程に通いました。そんなつもりでもなかったのですが、英語をすることになりました。暫く高校の教員をやっていましたが、書きたい空間を求めて彷徨い、やっと何とか大学に辿り着きました。

大学の自由な空間のなかで培う素養は大事なものです。豊かな時間の中で、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観が正しかったのかを再認識してもらえればと願っています。いっしょに楽しくやりましょう。

いい出会いでありますように。

研究室は、福利棟304です。いつでもどうぞ、珈琲を淹れましょう。 たま」

 

研究室は授業をする講義棟と同じ階にあり、学生食堂に行く道筋にあったせいか、よく学生が部屋に来てくれ、何人かは定期的に来るようになりました。書いたり読んだりする空間さえあれば充分でしたので、学生が来てくれるのは全く考えていませんでした。小さい頃から医者は身近にいませんでしたし、文学しか念頭になく、周りは文系ばかりでしたので、医者やこれから医者になる学生は新鮮で、嬉しい誤算でした。

自己紹介に「珈琲を淹れましょう。」と書きましたので、文字通り珈琲目当ての人もいましたが、大抵はふらりと部屋に来て、他の授業の話や、家族やこの大学に入った経緯や、普段の生活、将来したいこと、授業を聞いている時に心にひっかかったことなどについて、1、2時間か、時には3、4時間ほど、とりとめもなく話をして帰って行きました。

定期的に研究室に来るようになった人たちを大まかに分けると、群れるのが苦手な人たちか、何らかの挫折を味わった人たちかだったような気がします。

 

映像を使う人が多くなかったからでしょう。プロジェクターも貧弱で、分厚い暗幕で真っ暗にする必要がありましたので、長い映画などを見る時以外は、台車に載せたわりと大きな画面のテレビを毎回教室に持ち込みました。約100人を4つに分けて、1クラス25名程度の授業でしたので、学生とも近いですし、その方がお互いに好都合でした。テレビで録画したものや映画やビデオショップで借りて来てダビングした映像などを編集しました。中でも傑作は、アメリカのテレビドラマ「ルーツ」と、NHKの「アフリカシリーズ」です。修士論文をアフリカ系アメリカ人の作家で書きましたし、アフリカやアフリカ系アメリカについては小中高で意図的に避けているようですし、「豊かな時間の中で、自分について考え、今まで培ってきた物の見方や歴史観が正しかったのかを再認識」するための材料としてはよかったと思います。

「ルーツ」も「アフリカシリーズ」も非常勤で行っていた先のLL (Language Laboratory)教室でダビングしてもらった孫テープです。先輩が整えたLL教室を使わせてもらいました。「ある日、家の近くの海岸でのんびり釣りをしていたら、指導主事を辞める飲み友だちから突然、お前さんどうや?と電話が掛かって来て」、先輩は33歳のときに指導主事になったそうです。辞める人が次を指名するのが慣例だったとか。その後、指導主事時代に、LLを使って現職教員の研修をしたら、その手腕が買われて大阪の私立大学の講師の話が来て、当時の上司の副知事が口をきいてくれたら、「助教授で採用されたわ」、ということでした。

英語科では、助教授の日本人と英会話の外国人講師が同僚で、日本人の同僚が秋から在外研究でアメリカとイギリスに行かれたので、その人が担当していた隣の大学の農学部の非常勤も引き受けました。その人の在外研究の関係で、1年目と2年目は2年生も担当し、3年目からは日本人の同僚が2年生を、僕が1年生を、外国人教師が1、2年生の英会話を担当しました。

研究室で

 大学から20キロほど離れたところに一軒家を借り、大抵は片道1時間余りの道を自転車で通いました。

そんな生活が始まりました(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信16(2020/3/20)

私の絵画館:パオンちゃんとチューリップ(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記9回目:9月26日 自転車泥棒(小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜13:ゴンドワナ (3~11号)(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:「パオンちゃんとチューリップ」(小島けい)

ロバのパオンちゃんとの出会いは、15年前私が乗馬に通い始めた牧場で、でした。

ほんとうは<ランディ>という素敵な名前を持っていましたが、<パホ・パホ・パオーン!!>と、とてつもなく大きな声でなくことから、私が勝手に<パオンちゃん>と呼びはじめ、そのうち牧場のオーナーやロバ主さんまでもが、パオンちゃんと呼ぶようになりました。

小さな牧場では近所迷惑で、牧場のはずれのトンネル(高速道路の下)につながれていましたが、しばらくして、阿蘇高原の大きな牧場に移りました。

何年か後、大空に近い広大なパノラマのなかで人気者になっていたパオンちゃんと会いました。この絵は、その時のことを思い出して描きました。

今も元気で草を<はむ・はむ>してくれているといいなあ・・・・と思います。

=============

2 小島けいのジンバブエ日記9回目:「9月26日 自転車泥棒」(小島けい)

帰国を1週間後にひかえ何かとせわしない土曜日の早朝、ゲイリーたちの騒ぐ声で目が覚めました。二台の自転車が明け方盗まれたのです。

ゲイリーとデイン

自転車は門から真っすぐ進んだつきあたり、一番奥にあるガレージにいつも置いていました。そこへ行くには、私たちが寝ている三つの寝室のすぐ横を通らねばなりません。けれどゲイリーとグレース以外の黒人には必ず吠えるデインが、昨夜は一吠えもしませんでした。そのためガレージの横の部屋で寝ていたゲイリーたちも、全く気付かなかったのです。日時も、帰国が七日後に迫った金曜の夜です。私たちは自転車をゲイリーたちにあげるつもりでしたが、普通なら、自転車店に売り渡す直前です。これらから、私たちが帰国する日を知っていたメイドのグレースの関与はほぼ確実のようでした。

突き当たりがガレージ、右手が寝室

 実は、私たちは八月末でグレースにやめてもらいました。もともと彼女が要求した賃金は通常の数倍でした。またこれも後でわかったことですが、徒歩で通っているにもかかわらず往復のバス代も請求しました。

<高いなあ・・・>とは私たちにもわかりましたが、もめるのがイヤで、言われた通りの金額を払いました。

にもかかわらず彼女は三日目くらいから、次々と様々な要求をし始めます。家主のスイス人の老婆がメイドにそんなことをしたとは考えられませんが。まず<10時にお茶がほしい>といわれ、紅茶と砂糖を出しました。砂糖ツボの砂糖は、その度に全て無くなりました。さらにはお茶だけでなく<パンとバターもほしい>と続き、パンとバターを出すと、バターも毎回ごっそり無くなりました。

食べるのはパンなのかバターなのか?!と思いながらも、きっと家で待つ子供たちへのおみやげなのだろうと考え、黙って出し続けました。それでも小さな要求にはどめがかからないので<要求はまとめて聞こう>というと一応大人しくなりましたが、かわりに小さな物が無くなるようになりました。

グレースが私たちの寝室を掃除している時ポケットの中に何かを入れているのを、娘が目撃したこともあります。けれど私たちは、鏡台の引き出しにもすべて鍵をかけるこの国の習慣には、なじむことができませんでした。神戸で買ったお気に入りの私のサングラスも、いつのまにかなくなっていましたが、現場を見ていないので問いつめることはできません。<ふつうに>置いていた私たちの方が悪いのでしょう。

慣れない外国暮らしで、日々疲れがたまって来ていました。そうした状況で、家の中でまで神経を張りつめるのは、正直これ以上堪えられませんでした。

運悪くその日はたまたまグレースが弟をつれて来た日で気の毒でしたが(私たちの神経も限界でしたので)少しお金を多めに渡して<私たちの滞在中はいったん今日でやめてほしい>と話をしました。原因はグレースにありましたが、精悍な顔つきの青年にはひどく屈辱的な出来事で、深く傷ついたに違いありません。帰り際に見せた青年の憎しみの目は、今も忘れられず、苦い思いが残っています。

ハラレで自転車は貴重品です。乗る練習までしていたゲイリーとフローレンスは、大変な落胆ぶりでしたが、私たちはむしろ、誰にも怪我がなくてよかったと、胸をなでおろしました。

自転車に乗るゲイリー

と同時に、私たちはあくまで短期滞在の外国人なのだ、という現実を思い知らされました。片言のショナ語を覚え、大学でも小学校でもいい関係が出来てきた。そう思い始めていた時だけに、背すじを冷たいものが走り、ふと我に帰りました。

出発まで一週間ですが、自転車だけですむだろうか。街なかで何らかの被害にあわないのは珍しい、といわれていた私たちですが、いつも誰かに見張られているような不安を覚え、夜ちょっとした物音でも、目覚めるようになりました。

その得体の知れない緊張感は、この国を離れるまで続きました。

フローレンス(小島けい画)

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜13:「ゴンドワナ (3~11号)」(玉田吉行)

 大学のゼミの担当者だった貫名さんが亡くなられて暫くしてから、大阪工大でもお世話になっていた小林さんから追悼文を書かないかと誘われました。横浜の門土社が発行中の雑誌に追悼集を組むからということでした。それが門土社との出会いです。

夜間課程はゼミが一年だけでしたが貫名さんのゼミを取りましたし、研究室に行ったり、卒業してから貫名さんが創られた黒人研究の会で研究発表もしていましたが、実際には定年間際の貫名さんとは何回かお話ししたくらいでした。英書購読の授業やゼミでのことを思い出しながら、何とか書いたのが、最初の依頼原稿となりました。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」(「ゴンドワナ」3号8-9頁、1986年。)

「ゴンドワナ」3号

その前か後か、出版社の人と会うことになり、横浜で社長さんと編集者の方と三人で話をしました。それから暫くして、宮崎での話が決まり、医学科での授業も始まりました。元々小説を書くための空間が欲しくて30を過ぎてから修士号を取りに行きましたから、僕としては書くための空間さえあれば充分でした。いつの頃からか、立原正秋という人の小説が僕の中では生涯のモデルとなり、同じように職業作家になって直木賞をと漠然と考えていましたが、社長さんから直木賞も本を売るための出版社の便法で意味がないと窘められました。大学の教員には授業などの教育以外に研究や社会貢献も求められますので、専任になっても当座は小説を封印、大学の流れにまかせようと何となく心に決めました。

出版社は演劇、アフリカ関係の本や大学のテキストが中心で、独自の雑誌「ゴンドワナ」も創り始め、黒人研究の会の人も投稿しているようでした。気に入って下さって、ちょうどラ・グーマをやり始めた頃から書きませんかと誘って下さるようになりました。当初から計画があったわけではありませんが、その後、誘われるままに本も7冊、雑誌にもせっせと原稿を書き、翻訳も三冊やりました。「ゴンドワナ」は19号まで出ましたが、今回は3号から11号までに載った原稿についてです。

雑誌「ゴンドワナ」創刊号の表紙に1984年9月とありますから、最初にお会いした少し前に創刊されたようです。後に一部送ってもらった創刊号はA5版(A4の半分)32ページの小冊子で、定価が600円。ハイネマンナイロビ支局のヘンリ・チャカバさんの祝辞、作家の竹内泰宏さん、毎日新聞の記者篠田豊さんなどの投稿も含め、アフリカや演劇関係の記事が大半です。アフリカ関係の民間の雑誌は、アフリカ本の出版がかなり多かった理論社のα(アルファ)という雑誌でも7号で廃刊、それだけアフリカものの出版は経済的に厳しかったわけです。その意味では19号まで出たのは、時期を考えても驚異的です。元々アフリカや演劇関係の読者層は圧倒的に少なく、採算が取れるとは考えられないからです。当然、原稿料はありません。

「ゴンドワナ」創刊号

3号(1986年)の貫名さんの追悼号の次に原稿を送ったのは7号(1987年)の分で、コートジボワールの学者リチャード・サマンさんが1976年にタンザニアで行なったラ・グーマへのインタビューの日本語訳と、それに関連する当時のアフリカ事情について書いた評論です。ミシシッピの会議でお会いしたソルボンヌ大のファーブルさんがラ・グーマを始めた頃に大学発行のAfram Newsletterという英語の雑誌を送ってくれるようになって、その中にサマンさんの記事を見つけました。ファーブルさんに翻訳をしてもいいですかと手紙を書いたら、本人に直接聞くように住所を教えてくれました。アフリカにはフランスに植民地化された国も多く、フランスの同化政策の影響もあって、パリが文化の拠点で、たくさんのアフリカ人がパリに留学したりしています。サマンさんのその一人のようでした。ジンバブエの帰りにパリに寄って家族でファーブルさんを訪ねた時に宿の世話をしてくれた女性もモロッコからのファーブルさんの学生さんで、子供たちはその人のことをモロッコさんと呼んでいました。日本に比べてアフリカとは地理的にも近く、特に北アフリカや西アフリカとは色んな意味で関係が深いようです。マリのサリフ・ケイタやセネガルのユッスー・ンドゥールなどの歌手も、パリを拠点にして世界的に有名になっています。→「アレックス・ラ・グーマ氏追悼-アパルトヘイトと勇敢に闘った先人に捧ぐ-」(19-24頁。)と→「アフリカ・アメリカ・日本」(24-25頁。)

「ゴンドワナ」7号

次は8号(1987年)で、ラ・グーマが闘争家として、作家としてどう生きたのかを辿りました。最初に大きな影響を受けた父親ジェームズさんと少年時代について。それからANC(アフリカ民族会議)やSACP(南アフリカ共産党)に参加し、ケープタウンの指導者の一人として本格的にアパルトヘイト運動に関わりながら、作家としても活動したことなど。最後に、ブランシさんと結婚し、反体制の週間紙「ニュー・エイジ」の記者になった辺りまでを書きました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品1 闘争家として、作家として」(22-26頁。)

「ゴンドワナ」8号

次は9号(1987年)。1956年の反逆裁判から1966年のロンドン亡命まで。ANC、共産党員として解放運動の指導的な立場にいたラ・グーマは、「南アフリカで起きていることを世界に知らせたい」「後の若い世代に歴史の記録を残したい」という思いから作家活動も続けました。最後に、亡命の道を選択したラ・グーマの生き方について書いています。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品2 拘禁されて」(28-34頁。)

「ゴンドワナ」9号

次は10号(1987年)。ラ・グーマを知るために、カナダに亡命中の南アフリカ人学者セスゥル・A・エイブラハムズ氏を訪ねた際の紀行・記録文と、作品・作家論の3作目です。紀行文では、見ず知らずの日本からの突然の訪問者を丸々三日間受け入れて下さったエイブラハムズ氏の生き様、そのエイブラハムズ氏が語る「アレックス・ラ・グーマ」を、録音テープの翻訳をもとにまとめました。→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(10-23頁。)

作品・作家論では、家族でロンドンに亡命した1966年から、キューバのハバナで急死した1985年までを書いています。年譜と著・訳書一覧をつけました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品3 祖国を離れて」(24-29頁。)

「ゴンドワナ」10号

次は11号(1988年)、アメリカ映画「遠い夜明け」(CRY FREEDOM)の映画評とケニアの作家グギさん関連の日本語訳とラ・グーマの作家・作品論の続編です。

映画評は1987年に上映された「遠い夜明け」で、主人公ドナルド・ウッズが亡命する姿を、ウッズより先に同じように亡命したラ・グーマとセスゥルに重ね合わせて書きました。→「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」(22-28頁。)

日本語訳は、ムアンギさんが書いたグギさんについての作品論を日本語訳したものです。ムアンギさんとは、1982年か83年かに黒人研究の会で初めて会いました。黒人研究の会でのシンポジウムや大阪工大での非常勤も一緒でした。四国学院大学の専任になったあと、宮崎医科大学でいっしょにシンポジウムもやりました。→「グギの革命的後段(メタ)言語学1 『ジャンバ・ネネ・ナ・シボ・ケンガンギ』の中の諺」(34-38頁。)

ラ・グーマの作家・作品論は、第1作『夜の彷徨』(A Walk in the Night, 1962)についての前半です。夜のイメージをうまく使い、アパルトヘイト体制のなかでいとも容易く犯罪を犯すケープタウンカラード居住区の青年たちの日常を描き出している点を高く評価しました。→「アレックス・ラ・グーマ 人と作品4 『夜の彷徨』上 語り」(39-47頁。)

「ゴンドワナ」11号

専任が決まらない時期でしたが、たくさん書きました。宮崎医科大学に決まった翌年に「1950~60年代の南アフリカ文学に反映された文化的・社会的状況の研究」で初めて申請して科学研究費[一般研究(C)1989年4月~1990年3月(1000千円)]が交付されたのも、出版物が多かったからだと思います。(宮崎大学教員)

続モンド通信・モンド通信

続モンド通信15(2020/2/20)

 

私の絵画館:「ニモ No. 1」(小島けい)

2 小島けいのジンバブエ日記8回目:ルカリロ小学校 (小島けい)

3 アングロ・サクソン侵略の系譜12:「MLA (Modern Language Association of America)」(玉田吉行)

**************

1 私の絵画館:「ニモ No. 1」(小島けい)

この絵は、知人の家に保護された<ニモ>が子猫の時に描いた3枚のうちの1枚です。とても気に入っているのですが、今までのカレンダーの中には入れていません。なぜなら縦長ではないからです、

毎年作っている<私の散歩道「犬・猫・ときどき馬」>は、小さな縦型のカレンダーですので、絵はどうしても縦描きになってしまいます。

昨年の個展で、毎年見に来て下さる私より十歳年上の方が<この絵、いいね>とポツンと言われました。ご自身も絵を描かれるこの方は、一昨年も<こう言っては何だけど、昨年よりレベルが上がったね>と言って下さいました。

一年間ずっと一人で描き続ける私には、個展でのこんな一言が、むしょうに嬉しくて、励みになります。

この文章を書きながら、四角のこの絵ならいつかカレンダーの表紙になってもらうのもいいかなあ・・・・?と思いはじめたりしています。

=============

2 小島けいのジンバブエ日記8回目:「9月17日(快晴)ルカリロ小学校」(小島けい)

 <ジンバブエ>は南半球に位置します。そのため8月が学校の冬休みです。

ゲイリーの三人の子供たちは、休み中お母さんのフローレンスと一緒にハラレにやってきました。そして一夏(一冬?!)、私たちの子供(二人)と楽しく遊んですごし、九月の新学期に間にあうよう田舎に帰って行きました。

私たちは9月から学校にもどったウォルターとメリティに会うため、大きなバンを借り、ゲイリーの田舎の「ムレワ」を訪問しました。

土埃の舞うムレワのショッピングセンター(日本のように建て物があるわけではなく、赤茶色の土の広場の両側にいくつも店が広げられているという場所です。)からでこぼこの細い道をたどると、ゲイリーの家に着きます。さらにもっと奥の丘の上に、二人の通うルカリロ小学校がありました。若いジャカランダの木が二本、入口あたりにアーチのように植えられていて、その向こうに小さな建物がコの字型に建っています。

車が止まると、中から一斉に子供たちが、その後から先生たちが飛び出して来ました。そして、差し出される手、手、手。握手ぜめです。

ルカリロ小学校の子供たち

 資金不足のために床や壁や屋根のない校舎を見学した後、広場で盛大な歓迎会です、私たちは村を訪れた初めての外国人なので、村人たちも三三五五集まってきました。

村人たちも総出です

 アフリカ特有のダンスから始まり、クラス毎の合唱、英詩の暗唱と、会は延々と二時間以上続きました。最後は「イシェコンボレリアフリカ」の大合唱。それに対し、相方がお礼の言葉を述べて、会は終わりました。

音楽の先生と歌う女子生徒たち

けれどその後には、各クラス、さらには全体の記念撮影が待っていました。この国では、ショナ人たちが写真を撮る機会は、ほとんどありません。彼、<迷カメラマン>の大活躍です。ほぼ300人全員での記念撮影

 撮影会の後、ゲイリーの家にもどりました。幾つものインバ(小屋)で出来た彼の家から、遥か向こうの山裾までがゲイリーの土地です。つい百年前までは、この土地で自給自足の生活が可能だったそうです。

1980年に独立はしたのですが、白人優位の経済機構は変わらず、ほとんどのショナ人は以前と同様に、街へ出稼ぎに行かなければ暮らしていけなのが、現状です。

ゲイリーの家族といっしょに

丘を背景に、子供たちいっしょに

=============

3 アングロ・サクソン侵略の系譜12:「MLA (Modern Language Association of America)」(玉田吉行)

MLAのためにサンフランシスコに行ったのは1987年の暮れのことです。二年前のシンポジウムでの別れ際に伯谷さんから「サンフランシスコは日本から一番近いから、家族といっしょにいらっしゃいよ。」と言われた当初、日本から一番近いと言われてもなあ、と思いましたが、結局、子供二人に奥さんといっしょに行きました。まだ定職も見つからない状態でしたが、フルで務めていた奥さんの「ビジネスクラスで行こ」という提案に逆らう理由もなく、5歳の長男には「13時間の飛行はきついやろな」と、一度ハワイに立ち寄ってから行くことにしました。(飛行機代金は4人で二百万ほどだったと思います。)

ワイキキの浜辺

兵庫県の明石に住んでいましたので伊丹空港から、結構寒い12月24日の夜中の便でした。目が覚めたら、早朝の真夏のハワイが広がっていました。クリスマスだけあって、赤い服を着たサンタクロースがワイキキの浜を歩いていました。厳しい陽射しで、サンタさんもきっと大変だったでしょう。

時差はなかったものの真冬から真夏の突然の激変に体もびっくりしたと思いますが、海の見えるホテルはなかなか快適でした。ワイキキの浜で遊んだり、浜辺の日本食の店屋で食事をしたり。それからサンフランシスコに。わりと穏やかな天気で、秋の半ばくらいの雰囲気でした。

 

海の見えるホテルで長女と

 海外での発表は初めてでした。ミシシッピの会議でファーブルさんとお会いし、英語をしゃべろうと思ったものの、すぐにとは行きません。英語に慣れるのも兼ねて、会議の翌年の夏にミシシッピを回りました。81年の最初のアメリカ行きで叶わなかったライトが生まれ育ったミシシッピです。サンフランシスコ→ニューヨーク→ニューオリンズ→ジャクソン→ナチェズ→グリーンウッド→メンフィス→シカゴ→サンフランシスコの行程で、ライト縁の土地に行きました。ただ、2週間ほどでしたので、言葉に少し慣れた頃に帰国、でしたが。

「アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム」続モンド通信4、2019年3月13日)→「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」続モンド通信5、2019年4月20日)

ミシシッピ州ナェズ空港

手元に、神戸の英会話学校「ベルリッツ」の領収書が残っています。すっかり忘れていましたが、高い授業料(領収書には30 courses, 221,000, 9/6/85とあります。ミシシッピの会議の前に通い始めていたようです。)を払ってでも英語に慣れたいという思いが強かったんでしょう。他に、大阪工大に提出した稟議書も残っていました。最初に詳しい説明もなく、週に二日の出講でしたし、その意識もありませんでしたが、嘱託講師も、表向きは専任教員だったようで、シンポジウムの申し込み書には、Lecturer, Osaka Institute of Technologyと書いていました。MLAのName PlateにもOsaka Institute of Technologyと書かれています。

「アングロ・サクソン侵略の系譜10:大阪工業大学」続モンド通信13、2019年12月20日)

大阪工業大学(大学ホームページから)

発表はラ・グーマの初期の作品A Walk in the NightとAnd a Threefod Cordの象徴性についてでした。やり始めて1年余りで、背景となる南アフリカの歴史やラ・グーマについても蓄積がない中での発表でしたので、「聞きに行くのも気の毒だから・・・・」とセスルが言ったような内容だったと思います。English Literature Other Than British and Americaという伯谷さんが司会の小さなセッションで、聞きに来た人も少なく、質疑応答もありませんでしたが、貴重で、稀有な機会となりました。後に発表内容を元に練り直して、日本の雑誌で活字にしました。→“Realism and Transparent Symbolism in Alex La Guma’s Novels”(「言語表現研究」12号73~79頁、1996年。)

発表会場で、伯谷さんと

ミシシッピの会議に一緒に参加した木内さんも、ライトのセッションで発表していました。木内さんはその後毎年MLAに行って役員にもなり、トニー・モリソンやライトの翻訳書や、ライトのHAIKUについての伯谷さんとの共著書も出版しました。ライトのHAIKUについてはJapan Timesでコラム欄を担当、すでに退職していますが、あと一冊ライトのまとめを出すのが最後の仕事だ、と一昨年に会った時に話をしていました。

会場での木内さん

サンフランシスコは4回目でした。東海岸までの直行便はきついですので、サンフランシスコで何日か過ごしてからニューヨーク方面に行くことにしていました。家族と一緒は初めてで、地下鉄やケーブルカーにも乗り、タクシーでゴールデンゲートブリッジと漁夫の波止場(Fisherman’s Wharf)に行きました。どこも観光名所です。漁夫の波止場の39埠頭(Pier 39)辺りのレストラン街にいきましたが、クリスマスシーズンでどの店も一杯で、唯一空いている店に入ったら、飛びきり辛いメキシコ料理店でした。漁夫の波止場の場面が登城する旅番組を今でも英語の授業で使うことがあります。医学科の一年生は全部の科目が必修で、リスニングも選択肢の一つにした時期がありますが、その材料の一つとしてNHKの衛星放送で録画した旅番組も使いました。非常勤で行っていた宮崎公立大学でリスニングに特化した選択クラスを頼まれた時にも旅番組を使いました。サンフランシスコの映像はオーストラリアのテレビ局のもので旅情をかき立てるような20分ほどのもので、比較的聞き取りやすく、英語と日本語の違いなどを説明するのに適した材料でした。カリフォルニア大学アーバイン校で6年次に小児科と救急で臨床実習を受ける学生のための講座で、実習の直前に用語とリスニングのoral checkをした時にも使いました。さすが本場で実習を受けるために一年生から準備しただけあって、かなり早口の映画の場面などを使って英問英答でチェックしたのですが、大体の人が言っている内容を把握して適切に答えていました。大学に入って来たときは入試のために準備をしただけで英語がほとんど使えない人たちが、臨床実習という短期の目標を設定して本場アメリカの救急や小児科で支障なく英語をこなす学生と接して、出来るもんやなあと感心していました。小児科で実習を受けた学生の一人が、授業で見せてくれた場面ですよね、と後輩のための実習王国といっしょに漁夫の波止場の写真を送ってくれましたので、英語科のホームページに載せたことがあります。→「2015/06/20 June 20(石﨑友梨)」英語科ホームページ「songkla diary・Irvine diary – ソンクラ・アーバイン通信」)

「ほんやく雑記①「漁夫の波止場」」「モンド通信」No. 91、2016年3月22日)

 

タクシーの運転手さんといっしょに

漁夫の波止場

セスルとローズマリーさん、家族といっしょに

MLAの会員でもあったエイブラハムズさんはその年の12月のサンフランシスコの発表には「聞くのも気の毒だから、遠慮しとく」と言って来てはくれませんでしたが、奥さんのローズマリーさんといっしょにホテルまで会いに来てくれました。

「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁)

「アングロ・サクソン侵略の系譜11:アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・A・エイブラハムズ」続モンド通信14、2020年1月20日)

なかなか専任の口は決まりませんでしたが、ライトから始まってガーナの独立とエンクルマ、そして南アフリカとラ・グーマへと、知らず知らずのうちに世界が広がっていたようです。(宮崎大学教員)