続モンド通信・モンド通信

1「レオンくんと古城」(小島けい)
2「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「レオンくんと古城」(小島けい)

最近私の携帯には、毎晩いえ時には日に何度も決まった相手から電話がかかります。その相手とは、猫の“のらちゃん”です。

名前の通り元のら猫のその子は、4年前の5月頃突然娘のところにやってきました。そして家の外からどのように察知するのか、行く部屋行く場所の一番近い窓から、大きな声で必死になき続けました。しかもそのなき声は、今まで聞いたことのないような低くて太いダミ声でした。

東京で猫は飼えないから、と聞こえないフリ?をし続けていた娘でしたが。このままでは隣り近所から通報され殺されてしまうにちがいないと心配になり、目立たないところにエサを置くことにしました。“

すると少しずつですがなく回数が減り、いつのまにか玄関のドアの前で寝ているようになりました。ひどい雨の日、ずぶ濡れになっているのを見かねて箱を置くと、その中にもぐり込み安心して眠りました。

ある時試しにドアを開けてみると、最初は恐る恐る少しずつ入ってきましたが、そのうち家にあがりこみ長い時間くつろぐようになりました。

そうして<完全家猫>の座を獲得し“のらちゃん”となりました。

不思議なことに、あれほど低くて太い大きなダミ声だったのが、大切に可愛がられているうちに、ふと気付けば少し高めのかわいいか細いなき声にかわっていました。

保護された時が推定1歳でしたので、これまでの<のら生活>ではいろいろ大変なことも多かったと思うのですが、今やおしゃべり大好きな猫となり、<電話かけて!>とせがむようになりました。その電話を受けて私が話しかけると、じっと聞いていてそれなりにいろいろ返事をしてくれます。

今でも時折、自分で携帯にタッチして一人でニュースを聞いていたり。のぞき込んでタッチして自撮りの写真をとったりするそうですので、そのうち電話も一人でかけたい時にかけてくるようになるのではないか?!と、ひそかにその日がくるのを待っているこの頃です。

モデルは、チャイニーズ・クレステッドのレオンくんです。とても珍しい犬種だそうで、私自身も実際にはまだ会ったことがありません。

長い毛のもち主ですので、カットのしかたでずいぶん印象もちがってくるようです。いずれにしても<高貴な雰囲気>は動かしがたく、気品ある美しさには、やはりドイツの古いお城があうのではないか。そんなふうに思い、小さく描き入れてみました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界

「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)を修士論文の軸にしようと考えたのは、もちろんファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)を読んで行間から感じられる人柄に感動したからでもありますが、ファーブルさんが書いておられた「地下に潜む男」辺りから、普遍的なテーマへの広がりを見せ始めたというのが手がかりになりました。大学では英語はやりませんでしたが、少なくとも購読の時間のテキストだったのも一つのきっかけになったかも知れません。

修士課程一年目の1981年にニューヨークの本屋で、まさか「地下に潜む男」が収められている雑誌「クロスセクション」(Cross-Section, 1944)を見つけるとは思ってもませんでしたが、その雑誌で方向性を確認したような気持ちになり、ライトは人種主義に対する抗議から脱皮して、より普遍的なテーマへの広がりを見せた、という仮説で行こう、とはっきりと気持ちが定まりました。

「クロスセクション」

『リチャード・ライトの未完の探求』

「ジム・クロウ体制を生きるための倫理」(“The Ethics of Living Jim Crow,” 1938?), 『アメリカの飢え』(American Hunger, 1938?),『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945), 「ビガーは如何にして生まれたか?」(“How Bigger Was Born?,” 1938?), 「私は共産主義者になろうとした」(“I Tried to Be a Communist,” 1938?)などの自伝的なスケッチも入れたいと思いましたが、小説に限定して、「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)を軸に、抗議のテーマでは『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1940)、『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963年死後出版)、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)を、普遍的なテーマとしては『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)、『残酷な休日』(Savage Holiday, 1954)、及び『長い夢』(The Long Dream, 1958)を選び、表題を“Richard Wright and his World”(「リチャード・ライトの世界」)に決めました。

3学期制の夏休みに入る前辺りから本格的に書き始めましたが、仕上げるのに2年次の一月末日の提出期限ぎりぎりまでかかってしまいました。電動タイプが出始めたころで、毎日電動タイプの前で原稿を書きました。ちょうど二人目の長男が生まれた頃で、長男には電動タイプの音が子守り歌代わりの一つだったかも知れません。産休明けに職場復帰した母親に代わって、僕が母親の役目を果たしました。タイプを打ちながら、2時間おきにミルクをやったのを覚えています。時間をかけたにもかかわらず、最後の日は徹夜になって、大学まで二時間ほどタクシーに乗って行きました。まさに期限ぎりぎりの提出劇でした。

博士課程に行く必要がありそうと思い、京都大学、大阪市立大学、神戸大学と通える範囲の大学を受験しましたが、受け入れ先は見つかりませんでした。それぞれの大学で様式は違うものの論文の概要を求められました。今はとても書けないだろうなと思える内容です。肩に力が入っていたのでしょう。京都大学に出した400字詰め原稿用紙10枚の概要です。

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リチャード・ライトの世界(RICHARD WRIGHT AND HIS WORLD)

文学研究科英文学専攻望              玉田吉行

リチャード・ライトは一般に、アメリカ白人の人種主義に対する抗議作家としてのレッテルが貼られているが、「地下に潜む男」("The Man Who Lived Underground," 1944)以降の作品には、単に抗議作家としての評価に甘んじることなく、むしろ人種主義に対する抗議を越えようとするライトの様々な試みが窺える。本論文では主要な小説の主人公の跡を辿ることにより、単に抗議小説家としての評価だけでは正当に評価し切れないライトの世界を探って行く。ここで取り扱う主人公は、『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1940)のビッグ・ボーイ(Big Boy)とその他の主人公達、『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963年死後出版)のジェイク・ジャクソン(Jake Jackson、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)のビガー・トーマス(Bigger Thomas)、「地下に潜む男」のフレッド・ダニエルズ(Fred Daniels)、『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)のクロス・デイモン(Cross Damon)、『残酷な休日』(Savage Holiday, 1954)のアーススキン・ファウラー(Erskine Fowler)、及び『長い夢』(The Long Dream, 1958)のレックス・タッカー(Rex Tucker)である。尚、前3作については第2章に於いて人種主義抗議(Racial Protests)と題して、更に、後の4作については第3章に於いて、人種主義抗議を超えて(Beyond Racial Protests) と題して、それぞれ取り扱うものである。

『アンクル・トムの子供たち』では、ライトは、田園のアメリカ南部に於ける白人の抑圧の恐怖が、黒人にとって如何に大きなものであるかを強調しながら、もはや「アンクル・トム」の如く白人に忍従するばかりではない世代のビッグ・ボーイ達を描くことを通じて、特に白人に向けての強い抗議を表明している。同時に、その作品では、虐げられた黒人の解放への願いを込めて、白人の暴挙の真只中でさえ執拗に自分達の人間性にしがみつこうとする新しい世代の黒人群像を描き出すことによって、ライトは虐げられた同胞黒人に対する深い哀れみを示している。

『ひでえ日だ』では、北部の大都市シカゴに於ける黒人の生活の悲惨な実態に主として目を向けながら、目には見えないが、しかし巧妙な人種隔離(racial segregation)によって挫かれた、又、過度の物質文明によって阻まれたジェイクを描くことにより、主人公をその情況に追い遣った白人への抗議を示唆している。その作品では、同時に「一般大衆をして自らの窮状に気付かせる為の政治教育の必要性」を暗に示しながら、教養がなく、偏見に満ち、アメリカ物質主義(American materialism)に犯された極く平凡な労働者層を描くことによって、自分達の窮状の実態に気づき得ない同胞黒人へ厳しい警告を与えている。

前2作で示された抗議と警告の度合いは、『アメリカの息子』で、更に強まりを見せる。人種隔離の現状の中で、白人少女と黒人少女殺害という犯罪へ駆り立てられて行くビガーの物語を通じて、ライトは長年の暗黙の人種隔離政策によって抑圧し続ける白人に対する烈しい抗議を提示するとともに、その惨状にあまりにも黙従し続けた、又、現在も尚、従順に惨状を受け容れ続ける黒人に対して、その現状が如何に耐え難いものであろうとも、断じて目をそらすことなく、自らの本当の姿を正しく認識する必要があるという厳然たる警告を発している。その抗議と警告から、読者はビガーがアメリカの生み出した所産であるばかりか、大多数の人間が、日常の惰性に埋没する中で如何に自分たちの本当の姿に気づき得ない存在になってしまっているかを思い知らされる。白人側も、黒人側も、ライトによって描き出された現状を渋々でも認めざるを得ない程、その物語の抗議としての、又、警告としての力は圧倒的なのだが、それにもかかわらず、何か大切なものが欠けている感を抱かせる。それは、隔離によってもたらされた窮状の原因と結果をライトは見事に描き出して見せはしたが、現状を描くことにあまりにも重点を置き過ぎた為に、現状への解決策を見い出そうとする点にまで、目が行き届かなかったことに起因する。前3作では、黒人世界と白人世界の接触する所、つまり黒人と白人との間の裂け目に飛び散る火花にばかり心惹かれて、黒人たること自体への問いかけが案外なおざりにされてきた。換言すれば、ライトは人種主義によってもたらされたもの、つまり黒人の現状を見事に描き出すことには成功したが、黒人であることが意味するもの、即ち如何に黒人が、この矛盾した世の中で生きてゆくべきかという問題にまでは注意を払えなかったということである。それだけ人種主義によってもたらされたものが想像を絶するものであったとも言えようが、重点が、黒人たること自体への問いかけに置かれていたというより、むしろ黒人の実態を暴くことに置かれていたという実情は否定し難い。

『黒人の息子』(非凡閣、1940年)

それに反して、「地下にひそむ男」では、官憲に無実の罪を押し着せられた末の逃亡中、隠れ込んだ地下世界に於いて、自らの本当の姿に目覚め、今まで気付き得なかった新しい視点を獲得するに至るフレッドを描くことを通して、人種主義によってアメリカの一部でありながらそこから除外されているが故に「黒人は誰よりも早く世の中の矛盾に気付き得るのである」という利点を暗示することに努めている。ライトはこの作品に於いて、人種主義の生み出したものから、世の中で黒人であることに意味するものへ、言い換えれば、過去によってもたらされた現在から、未来を生み出すべき現在へとその目を転じることによって、単なる人種主義に対する抗議を一歩踏み越えようとしている。その見方は、この小説の初稿脱稿の後直ちに送ったとされる友人レノルヅ宛ての書簡中の「自分がまともに人種問題を踏み越えようとしたのはこれが初めてである・・・・・」というライト自身の言葉によっても窺い知ることが出来る。

青山書店大学用教科書

フレッドが獲得した<地下>の視点は『アウトサイダー』に於いて、更に広がりと深まりを見せる。不具故に、逆に他の人間よりもよく世の中の不条理に気づくという局外者(outsider)の視点に立ち得た州検事ハウストン(Houston)の言葉を借りて、実は人種隔離によって虐げられた黒人こそがアメリカ文化の内側と外側の両側に立ち得る二重の視点(a double vision)を賦与されるべき有利な地点に居るということを明示している。そして、主人公クロスを通じて人種主義によって、もはや世の中の価値や意義を見い出せなくなった矛盾した世の中で如何に生きて行くかを描こうとしている。結局は、局外者としての自らの方に従って殺人という行為を繰り返す主人公しか描けなかったところから判断して、必ずしも解決への道を示したとは言い難いが、アメリカの一部でありながらそこから排除されることにより、何世紀にも渡って虐げられ続けてきたアメリカ黒人の窮状を、むしろアメリカ文化の内・外両側に立ち得る有利な地点として捉えようとした姿勢は、ライトの黒人たること自体へのひたむきな問いかけの広がりの、或いは深まりの表われに他ならない。その意味では『アウトサイダー』は「自らの体験を取り扱うという特殊なものに焦点を当てることによって普遍性を達成」しようとしたライトの新たな一つの試みであったと言える。

橋本福夫訳(新潮社、1972年)

『残酷な休日』では、自らの心の中からぬぐい去りことの出来ない母親像に、ある夫人のイメージを重ねることで現実の殺人という犯罪を引き起こすに至る白人アースキンを描くことにより、罪と罰の問題を扱っている。その作品で、ライトは初めて登場人物の総てを白人にするという新しい設定の中で人種問題という枠を超えようと努めている。特に、日常の惰性の中に埋没しているが故に気づかない不安や焦燥の問題、それはおそらくパリ亡命中のライトの体験する西洋文明を含む現代文明が個人に生み出す得体の知れぬ不安や焦燥の問題でもあるのだが、その問題にライトは焦点を当てようとしている。退職によってそれまでの拘束から解き放たれて、一見自由になったと思えた時、突然得体の知れぬ不安に襲われるという主人公を通して、一体、個人にとって本当の自由とは何か、或いは、本当の意味での個人の解放とは一体何かという問いをライトは投げかけようとしている。それは、人種問題を離れて、現代文明の抱えた問題に正面から取り組もうとしたライトの新しい試みの一つであったと言える。

『長い夢』では、人種主義に支配されないパリに於ける主人公アレックスの亡命生活を描くことを目論んだ3部作の第1作として、故郷アメリカ南部を離れてパリに亡命するに至る主人公の過程に焦点が合わされている。ライトの突然の死により、3部作の完成はみなかったが、この作品が人種主義のない情況の中での主人公の生活を描く中で、黒人であることの意味を問いかけようとするライトの新たな試みの第1の布石であったことは、死後出版された第2部の一部分からも知ることができる。

木内徹さん寄贈の訳『長い夢』(水声社、2017年)

以上の考察から、リチャード・ライトは単に人種主義に対する抗議小説家ではなく、むしろ人種主義によってもたらされたものから、黒人であること自体への問いかけをなすことにより、換言すれば、過去によってもたらされた現在から、未来を生み出すべき現在に目を転じることによって、人種主義に対する抗議をという枠を越えようとした作家であったと考えるのである。

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大学を探すために最低限必要だった修士号は何とか手に入ったものの、博士課程はどこも門前払い、途方に暮れるという言葉が一番相応しい状況を生み出すことになりました。

高校の教員の五年間は、教科に、ホームルームに、クラブ活動にと、楽しかったものの時間に追われる日々、久しぶりに開いた『ブラック・パワー』(Black Power, 1953)の活字が踊って見えました。その割には、三学期制の一学期は、ゼミで渋々イギリスの詩人キーツの詩を読んだり、必修の教養科目や英語評価論などの出来れば避けたい科目と落とさない程度につき合う羽目にはなったものの、夏休みにアメリカで資料を集め、帰ってからは修士論文にかかりっきりになれました。

普遍的なテーマへの移行を論証するにはテーマ自体も大きすぎましたし、二年足らずの期間は短すぎたとは思いますが、何とか仕上がったのは、若さゆえの賜物だったのでしょう。書く空間を確保するための第一歩を辛うじて踏み出せた、と思いました。(宮崎大学教員)

元は→“Richard Wright and His World” (兵庫教育大学第245号、兵庫教育大学図書館)

修士論文扉

続モンド通信・モンド通信

1「ロバのパオンちゃん」(小島けい)
2「アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「ロバのパオンちゃん」(小島けい)

私は馬も好きですが、ロバも大好きです。<ロバ好き>になったのは、パオンちゃんというロバと出会ったからです。
その出会いは、ちょうど14年前乗馬に通い始めた頃で、かってにパオンちゃんと名付けたそのロバの絵を、私は何枚も描きました。ロバ主さんは優しい方で、それらのほとんどを購入して下さいました。
そのため、今手元にはパオンちゃんの絵が少ししか残っていません。

私は新しいパオンちゃんの絵を描きたい!と思い、しばらく前からとりかかっているのですが、使っている写真は、左目の部分だけが暗くてよく見えません。
そこで何か参考に出来るロバの写真はないかしらん?とロバを検索していたら、えっ?!と思いました。
10年以上前に描いた<トンネルのパオンちゃん>が載っていたのです。そしてそこをクリックすると文章も読むことができました。

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高速道路の下のトンネルに、その驢馬(ろば)はつながれていました。名前は「パオンちゃん」と、私が勝手に名づけました。
驢馬(ろば)の鳴き声を聞いたことがありますか。
「パホパホ、パオーン」と、それはもう大きな声で鳴くのです。
その声があまりに大きすぎて、預けられている小さな牧場内では飼えません。そこで、私が通う牧場の外れにあるトンネルで暮らしています。
いつも独りでいるパオンちゃんは、小道の向こうの牧場に行きたくてしかたがありません。なにしろ、そこにはたくさんの馬、そしてポニーや、犬などがいますから。そうそう、最近は子馬も生まれましたしね。
パオンちゃんはトンネルの向こうの栴檀(せんだん)の木にくくられていますが、時々脱走しては仲間のところに走ります。
あまりにうれしくて、顔を空に向けたまま走るのですよ。
こんなパオンちゃんでしたが、別の牧場の方に気に入られ、引っ越しをしました。
今は、空に近い広い高原の牧場で、1番の人気者となり、楽しく過ごしているそうです。…………

という文章を書いてから2年後、高原の牧場にいるパオンちゃんとようやく再会を果たすことができました。
パオンちゃんは突然現われた私に、最初は少しとまどっているようでしたが、そこは馬よりも賢いと言われる驢馬(ろば)のこと、そのうち胸に頭を押しつけるようにすりつけてきました。きっと思い出してくれたのだと私は思います。
いつもひとりぼっちで寂しそうだったパオンちゃんが、青い空、白い柵、広い牧場のすばらしいパノラマのなかで、のんびり草を食べている姿を見て、ほんとうによかった!と思い、私は目的地へむかいました。
実はその高原からさらに40分ほど行った飯田高原の「九州芸術の杜」というところで、その10月、私は個展を開いていました。榎木孝明美術館をはじめ、小さなログハウスの美術館が点在するなかのギャラリー「夢」においてです。
その年はご縁があって、急きょ10月に個展をしましたが、今年は昨年同様、九月に個展を開きます。
大きな樹々に囲まれ、そこだけ別世界のゆったりした時間が流れている美しい場所に、今年もでかけることができる。誰にともなく、心から、感謝です。

「驢馬のパオンちゃん」(No. 25:2010年9月)

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何年も前から毎月書き続けている<私の絵画館>の一節でした。
結局、左目の参考になる写真は見つかりませんでしたので、またいつものように、見えない部分を想像で補い、見えているかのような感じで描くしかありませんが。
久しぶりに自分の絵と文章に出会えて、何だか懐かしいような感覚を覚えましたので、<まあ、いいか・・・>と、パソコンを閉じました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜5:ミシシッピ

1985年のリチャード・ライト(Richard Wright、1908-1960)のシンポジウムで、発表者の一人伯谷さんから、2年後のMLA (Modern Language Association of America)での発表の誘いを受けました。ファーブルさんに自分の思いが充分に伝えられなくて英語をしゃべろうと決めたものの、すぐに運用力がつくわけでもなく、取り敢えず英語に慣れるために、もう一度ミシシッピに行くことにしました。

初めての1981年は、図書館と古本屋巡りだけでライト縁の土地巡り(生まれたミシシッピ州→10年ほど住んだシカゴ→ベストセラーを生み出したニューヨーク→アメリカを見限って移住したパリ)まではかないませんでしたので、今回はニューヨーク→ミシシッピ→メンフィス→シカゴを辿ろうと思いました。ファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)では、ライトは小作人の父親と小学校の教師の母親の間にナチェズ(Natchez)で生まれ、その後州都のジャクソン(Jackson)、グリーンウッド(Greenwood)、テネシー州メンフィス(Memphis)に住み、1927年にシカゴ、37年にニューヨーク、最終的には46年にパリに移り住んでいます。亡くなったのは1960年、52歳です。

小作人(A sharecropper)

今回もサンフランシスコに泊まってからニューヨークに行き、ラ・ガーディア空港(LaGuardia Airport)からジョージア州のニューオリンズ(New Orleans)に飛びました。ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)が生まれ育ったというフレンチクウォーターをぶらついたあと、プロペラ機でライトの生まれたナチェズに飛びました。

ナチェズ空港

空港からの景色

もうずいぶんと経ちますので記憶がぼんやりとしていますが、その時の感想を「ライト縁の土地巡り」の途中で、アメリカ文学関係の雑誌「英米文学手帖」に書いて送りましたので、ナチェズで何を思ったのか、どう感じたのかが僅かながら残っています。

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「ニュー・オリンズから、僅か5人の乗客を載せたプロペラ機が着いたところは、空港と呼ぶには、あまりにもイメージが違いすぎていた。もし、飛行機さえなければ、れんが造りの閑静な佇まいは、小さな郡役所と呼ぶ方が適しい。リチャード・ライトの生まれた1908年のナチェズが再現されるわけではないが、いつか、ライトが生まれたというナチェズの地に、立ってみたかった。

小さな空港の、入口の扉を押し開いたところに「ナチェズ」が広がっていた。ポールに星条旗の掲げられたむこうに、馬が数匹、のんびりと草を食べている。背景は深い森だ。美しく、牧歌的な光景だった。

「私たちの耕す土地は美しい・・・・・・」で始まる一節を思い出した。かつて、アフリカ大陸から連れて来られた黒人たちの数奇な運命を綴った『千二百万の黒人の声』の一節である。ライトは、苛酷な白人社会と、美しく豊かな風土とを対比させることで、理不尽な白人社会の苛酷さを、読者の心に鮮明に焼きつけた。「風土が美しければ美しいほど、読者の目には白人社会が、より苛酷なものに映る」とある雑誌に書いたが、心のどこかで、その豊かで美しい風土をこの目で確かめたかったのかも知れない。ライトは、たしかに文学的昇華を果たしていた、という思いが深まって行く。

最近、「アーカンソー物語」というビデオ映画を見た。リトル・ロックの町でおきた事件を扱ったドキュメンタリー風の映画である。黒人の高校生を受け入れまいとする、白人の側の愚かしさが浮彫りにされていた。

キング牧師が、白人の警官に首根っこを押えつけられている写真、木に吊るされている黒人青年を取り囲む十数人の白人男女の異様な写真など、次から次へとその残像が目に蘇って来る。すべて、この美しく豊かな土地の上で展開されたのか。

今は夜中だが、ホテルの中庭のプールでは黒人、白人の男女若者が入り交って、楽しげに騒いでいる。喧噪に誘われて廊下に出ると、へイッ、ヨシ!という威勢のよい声が飛んで来た。昼間立ち話をした陽気な黒人育年である。頭のてっぺんにだけ円く髪を残した髪型が、似合っている。会う度ごとに、大声で気軽に声をかけてくれるのは、うれしいが、そんなに早口にまくしたてられても、相変らず慣れぬ耳が素早く応じてはくれない。にこにこと笑うしか能がない自分が、少々もどかしい。そのくせ、変に焦らないのも又なぜかおかしい。アメリカへ来るのが、これで3度目になるせいかも知れない。

昨年の11月に、ミシシッピ州立大学でリチャード・ライトのシンポジウムが行なわれた。あるセッションの終わりに、高校で教員をしているという若い白人の女の人が立ち上がり、州は華やかな国際シンポジウムに協力はしても、担任しているあの子たちに何もしてやっていないと訴えた。担任している生徒の95パーセントは黒人であるという。

通りすがりの旅行者にしかすぎない私には、本当の現実の姿は、見えない。

人の営みとは無関係に、歳月だけは過ぎ去って行く。第3次世界大戦の前夜。最近の世の中の動きは不穏にすぎる。「人は歴史から何も学んではいない」と鋭く指摘したのは、たしか加藤周一氏だったか。歴史から何かを学ぶために、私は今、一体、何をすればよいのだろうか。

今回は7人に増えた乗客を載せたプロペラ機は、俄かに降り出した雨の中を、ライトが少年時代を過ごしたという州都、ジャクソンに向かう。(1986年7月25日)」

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『千二百万の黒人の声』(1941)

綿畑で

「英米文学手帖」→「ミシシッピ、ナチェズから」

『千二百万人の黒人の声』については「黒人研究」(1986)に書いています。→「リチャード・ライトと『千二百万人の黒人の声』」

ナチェズからはプロペラ機で首都のジャクソンに行き、しばらく街中を歩いたのち、今度はバスでグリーンウッドに向かいました。

州都ジャクソン

グリーンウッドではアメリカが車社会だと再認識させられる出来事がありました。ジャクソンからグリーンウッドのバスターミナルに着いたとき、そう広くない建物は乗降客で混雑していました。人混みを避けてしばらくぶらついたあと戻ってみると、建物の入り口のドアに鍵がかかっていました。次のバスが来るまでのあいだ、入り口に鍵をかけるとは想像もしていませんでした。外には電話ボックスも見当たらないようで、しばらくぶらぶらして辿り着いた先は、警察署。白人の警官は外国からの旅行者にはとても親切なようで、それでは、とパトカーでホテルまで「護送」してくれました。

ホテルには辿り着いたものの、どこかに出かけようにもタクシーは使えないようでした。仕方なく、真夏の炎天下、ミシシッピ川まで歩いて行くはめになりました。一時間ほど歩いたあと川を見ながら、かつては蒸気船が奴隷の作った大量の綿の積み荷をメンフィスからニューオリンズまで運んでいたのだと思いました。

グリーンウッドのミシシッピ川

港湾労働者(Stevedoors)

メンフィスに行く前に、オックスフォードのミシシッピ大学に寄りました。シンポジウムをご主人と主催した、当時はミシシッピ大学で准教授だったメアリエマ・グラハム(Maryemma Graham)さんと、知り合いになったスクエアブックスのリチャーズ(Richards)さんに会うためです。グラハムさんは前回も掲載したファーブルさんといっしょに撮ってもらった写真にも写っています。約束もせずに直接研究室を訪ねましたが、歓迎してくれました。

メアリエマ・グラハムさん(中央)

リチャーズさんには二年後にMLAで南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマ(Alex La guma)で発表することになったので、何か資料が入荷したら送って下さいとお願いしました。

そのあと、今度はバスでメンフィスに行きました。今ならエルビス・プレスリー(Elvis Aron Presley)の生家グレースランド(Graceland)と、有名なビールストリート(Beale Street)には行くと思いますが、その時は大きな通りを歩いただけのような気がします。夕方四時頃だったと思いますが、大きな通りを歩いていると、大柄な黒人がつかつかと近づいて来て、ペーパー?と聞いてきました。道のまん中でペーパー?と思いながら、自信なさげに、ペーパー?と聞き返したら、怒ったように口に指を突っ込み、僕を見下ろしながらI’m hungry!と言ったようでした。なるほど、Give me a favor.つまり、金をくれと言うことか。ミシシッピでは鉄道線路の近くを歩いているときに、二回ほどGive me money!と突然言われていましたが、その都会版と言うことのようでした。Give me a favor.も聞き取れなかったんだと、今になって思います。

メンフィスの通り

最後に、ライトが10年ほど過ごしたシカゴに行きました。最初に来た時には、3時間ほどパレードをぼんやりと眺め、シカゴ図書館で1920年代の新聞記事の現物を見て、あの時代の新聞が残っているんだと感心し、シカゴ美術館でモネ(Claude Monet)の睡蓮の大作を見て、凄いなあと思いました。(1992年にパリのマルモッタン美術館(Musée Marmottan Monet)に行ったとき、たくさんの睡蓮を見ながら、シカゴの方がすごかったなあと感じました。)

シカゴではシンポジウムで連絡先を聞いていたスターリング・プランプ(Sterling Plump)さんの自宅を訪ねました。発表者の一人で当時イリノイ大学(The University of Illinois)の教員をしておられたようです。今から思うと、シンポジウムに行く前にプランプさんの編著Somehow We Survive: An Anthorogy of South African Witingは読んではいましたが、シンポジウムのあとで少し話したくらいの日本人をよくも家に迎えて下さったと思います。何を話したのかは覚えていませんが、高層マンションの一室から街中を見おろしながら話をした光景がぼんやりと残っています。一度木内さんから、その時のインタビューを録音してないか、残っていたらインタビュー集の本に入れるからとメールで聞かれたことがあります。Sterling Plumpさん、有名になられたのかなあと思いました。残念ながら、その時は録音用の小型テープレコーダーは持って行きませんでした。

アメリカの場合、日本のように定年退職の制度はなく、出来る人は年を取っても現役だそうです。伯谷さんも84歳で現役、この前出版された46冊目の本を送ってもらいました、と木内さんから聞きました。

2週間ほどの日程でしたので、それほどたくさん英語をしゃべる機会があったわけではありませんが、僕自身のライト縁の土地巡りは何となく出来たような気がしました。(宮崎大学教員)

シンポジウムについては簡単な報告と報告の日本語訳を書き残しています。

「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」(「黒人研究の会会報」第22号4ペイジ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒人研究の会会報」第22号

 

→<a href="https://kojimakei.jp/tama/topics/works/w1970/2353″>"Richard Wright Symposium"</a>(報告の日本語訳)

続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「チェリーちゃん・ハッピーちゃんとチューリップ」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム (玉田吉行)

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1 私の絵画館:「チェリーちゃん・ハッピーちゃんとチューリップ」(小島けい)

昨年の春頃に書いた文章に、<上質なタオルの生産地として注目されていた愛媛県の今治市ですが、最近では全く違う理由で、えらく有名になってしましました>とあります。確かに1年前はそうだった・・・・と思い出します。けれど新しい大学も出来てしまうと、もうはやニュースにとりあげられることはなくなりました。
あの今治も落ち着いたのかなあと、以前短い間ですが、住んでいた私は、小さい城跡なんぞを思い出しています。
父は明治の終わり頃に生まれた人で、すでに何十年も前に亡くなりましたが、紡績の技術者でした。今からふり返れば、父が紡績の仕事にたずさわっていた時期は、日本の紡績が栄えていた時代とほぼ重なり、そういう点では、とても幸運だったのかもしれません。
当時は日本の各地に工場があり、両親は転勤で何十回も引っ越しをしたと聞きました。
しばらく前、何人かでの食事会の時、<私は小さい頃ずっと塀の中で暮らしていたから・・・・>と話をしたら<どういうこと?!>と回りの人たちから、びっくりして聞き返されましたが。
この場合の<へい>は板べいで、決して映画に出てくるようなコンクリートの頑丈な塀のことではありません。
実は、各工場には必ず社宅があり、それらが高い板塀で囲われていた記憶があるのです。私は小学校6年生の3学期に西宮から今治に引っ越しました。私たちが入った社宅は、美しい浜辺と道路一本をへだてた場所にありました。そのため500坪以上あったと思われる敷地の半分程は砂浜そのままで、昔からはえている巨大な松たちが、大きな枝をあちこちに延ばしていました。
奥の方には、当時としてはまだ珍しいテニスコートがあり、その横が祖母が耕すには広すぎる畑でした。
実際に生活をする家の前方には、日本庭園が造られており、池には鯉が泳いだりしていましたが。この家で珍しかったのは、玄関の間を入るとすぐ横に、小さな窓の3畳の部屋があったことです。私たちには必要ありませんでしたが、昔でいう女中部屋、今でいうなら住み込みのお手伝いさん用の部屋があったのです。
そしてもう一つは、広い廊下の片側にトイレが三つ並んでいたことです。
昔ですので、男性用女性用の二つはあたりまえですが、女性用がもう一つというのは何だったのか。一つはお客様用としてなのか、今考えてもよくわからないままです。
当時、工場長の社宅はおおよそ500坪くらいが普通だったらしいというのは、次に明石へ引っ越してみて見当がつきました。
ただ、各工場によりこだわった部分は異なるようで、明石の家には<電話室>がありました。いわゆる木で作られた電話ボックスが、玄関の間の次にドンとあったのです。
まだ電話そのものにも慣れていなかった私は、お友だちにかける時も、緊張してドキドキしながら電話室のドアをあけたものでした。
明石の家は今治より少し後の時代に作られたのか、南側の庭は日本庭園ではなく、バドミントンがのびのびできるくらいの一面の芝生でした。
父は、この明石の工場を最後に退職しましたが、それからまもなく、今治も明石も、工場が閉鎖されたと聞きました。
私が住んでいた少し時代後れのような社宅も、今では跡かたもなく、なくなってしまいました。

この絵のモデルは、ポメラニアンこのハッピーちゃんとチェリーちゃん。
まだ大分県の九州芸術の杜の<ギャラリー夢>で、個展をしていた時に出逢いました。
二匹は、ご家族と一緒に北九州から来てくれました。ハッピーちゃんが男の子で、チェリーちゃんが女の子ですが、どちらもとても元気で愛らしかったのを覚えています。
その可愛らしさには、明かるいチューリップがぴったりと思い、たくさんのチューリップの花と描きました。
まだまだ元気に遊んでくれているかしらん?!と思いながら、この絵を選びました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜4:リチャード・ライト死後25周年シンポジウム

2回目のアメリカ行きはミシシッピで、初回から4年後の1985年でした。ミシシッピ州立大学でリチャード・ライトの死後25周年の記念大会があるから行きませんかと、黒人研究の会で知り合った木内さんから誘いがあり、すぐに行くと決めました。ファーブルさん(Michel Fabre)にお会いしたかったからです。
実は、修士論文を書くときに読んだ伝記に感動して、ファーブルさんに読んでもらえるように自分の書いたものを英語訳してパリの自宅に送っていました。
“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”(Memoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 29, No. 1: 1-14.)元は→「Richard Wright, “The Man Who Lived Underground”の擬声語表現」(「言語表現研究」2号 1-14ペイジ。)

伝記を読んだときの感動をファーブルさんに伝えたい、自分が書いたもののレベルが知りたいと思い、手紙を書いて英語訳を添えました。返事はもらっていませんでしたので、ファーブルさんの反応も本人から直に聞きたいと考えたのでしょう。当時、何校かの非常勤講師はしていたものの、大学の口は見つからず経済的にもきつかったと思いますし、会議での僕の英語力にも問題はありましたが、後先を考えずに、取り敢えずミシシッピに行きました。今から思うと後先を考えてなかったなあと思います。地図を見て、ミシシッピ州立大学とテネシー州メンフィスはそう離れてないのでバスで簡単に行けるやろ、と思い込んだんですから。アメリカは車社会、テネシー州メンフィスからのバスの便は極めて少なく、結局タクシーで行くはめになりました。たしか4万ほど払ったと思います。
シンポジウムは11月21日~23日の3日間で12のセッションが組まれていました。7月初めに届いたパンフレットの通りで、すごい顔ぶれでした。会場に着くと早速、面識のあった発表者の一人伯谷嘉信さん〔Critical Essays on Richard Wright (G. K. Hall, 1982) の編者〕が、Keneth Kinnamon, Edward Margolies, David Bakish, Donald Gibsonさんを紹介して下さり、木内さんとファーブルさんはにこやかな挨拶を交わしていました。修士論文を書いたあともライトに関して書き続けていましたので、それぞれ本を通して名前はよく知っていましたが、実際に会えるとは思っていませんでした。

       シンポジウムパンフレット

ビニール資料入れ

23日のニューヨークタイムズ紙は、「ミシシッピはかつて逃げた『ミシシッピ生まれ』を誉めたたえる―ミシシッピはアメリカの息子に帰郷の機会を与える」("Mississippi Honors a 'Native Son’ Who Fled – Mississippi Offers Homage to Native Son" )の見出しの次の記事を載せました。ライトがニューヨークで有名になりましたので、ニューヨークの新聞も取り上げたのでしょう。

国内、中国、フランス、西ドイツ、日本、コートジボワールからの57人の学者をこの落ち葉で美しい約221万坪のキャンパスにひき寄せたシンポジウムは、タイトルに「ミシシッピ生まれのアメリカの息子」を使っています。1940年に出版の後すぐにベストセラーになった、1930年代のシカゴの黒人の苦しみと白人の人種主義の重くて、痛ましい小説「アメリカの息子」は、もちろんライト氏の15冊の中でも一よく番知られている本のタイトルですが、数々の分科会がここミシシッピで、そして、わずか23年前にミシシッピ大学(愛称オル・ミス)の黒人学生第一号になったメレディス(James H. Meredith)を守るために約三万人の州兵が送られたまさにこの大学の構内で開催されたという事実を思うと、ここにおられる多くの方はどうしても信じがたいという思いが拭えないでしょう。」と、ロナルド・ベイリーは木曜日初日の参加者に語りかけました。
(The symposium, which has attracted 57 scholars from the United States, China, France, West Germany, Japan and the Ivory Coast to this lovely 1,800-acre, leaf-strewn campus, is titled “Mississippi’s Native Son." Even though “Native Son" is the title of one of the best-known of Mr. Wright’s 15 books―the harrowing novel of black suffering and white racism in Chicago in the 1930’s that became a best-seller soon after its publication in 1940―the irony of the symposium’s title is not lost on the sponsors.
“The fact that the sessions are being held in Mississippi, and on the very campus where only 23 years ago 30,000 Federal troops were sent to protect James H. Meredith when he became the first black to enroll at Ole Miss, “have struck many of you as incredulous," Ronald Bailey told the opening day audience Thursday…. )

参加者は百五十名ほど、前年に同じミシシッピ出身の白人作家ウィリアム・フォークナーの会議には一万人が参加したと聞きました。個人的にはフォークナーは読みづらく退屈でしたので、ライトの評価は低すぎるなあと感じましたが。

Black Metropolis の共著者、貫名さんに似た白髪の大御所 St. Clair Drake さんと話をしたり、Fabre さんのThe World of Richard Wrightと小説家M. WalkerのThe Daemonic Genius of Richard Wrightの出版記念パーティーにも顔を出したり、最終日の夜にはライト自身が出演して1951年にアルゼンチンで作られた映画「ネイティヴ・サン」も観ることが出来ました。
元々学者の話を聞くのは苦手の上、僕の英語力で発表を理解していたとは言いがたいのですが、それでも本の中でしか思い描けなかった世界が、広がった気がしました。
ファーブルさんに会うのが一番の目的でしたから、その意味では願いは初日にかなっていたわけですが、二日目の夜には伯谷さんの部屋に招かれて、Fabreさんと直にお話することができました。他にもMargolies、Kinnamon, John Reilly, Bakish, Nina Cobb, John A. Williams, James Arthur Millerさんや木内さんなどがいっしょでした。ただ、高校の英語の教師はしていましたが、アメリカ化に抵抗して英語を聞かない、しゃべらないと決めていましたので、思うように自分の意志を伝えられず、木内さんに、玉田さん、英米学科出身でしょ、通訳しましょか、と言われてしまいました。戻ってからテレビやビデオデッキを買って英語を聞き、独り言でしゃべる練習を始めました。七年後、ジンバブエからの帰りにファーブルさんを訪ねたとき、英語に不自由を感じなかったのは幸いでした。
Peter Jackson氏が Native Son の擬声語表現について言及された翌朝、すっと寄って来られて、肩をぽんと叩き、あなたと同じことを言ってましたねと声をかけて下さったとき、手紙の反応を直にファーブルさんから聞きたいという願いも叶いました。
シンポジウムの副産物もありました。伯谷から2年後のサンフランシスコのMLA (Modern Language Association of America)で発表の誘いを受けました。伯谷さんは、当時僕が住んでいた明石から見える淡路島生まれで、広島大学4年生の時にアメリカに渡り、その時はケント州立大学の英語の教授でした。MLAの発表については稿を改めて書くつもりです。(宮崎大学教員)

伯谷ご夫妻と長男の嘉樹くん

日本に戻ってから、シンポジウムについて黒人研究の会の例会で報告し、会報に載せました。
「黒人研究の会会報」(第22号 (1985) 4ペイジ)
「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21~23)」
(英語訳)→“Richard Wright Symposium"

続モンド通信・モンド通信

1 私の絵画館:「梅とぴのこ―2019―」(小島けい)

2 アングロ・サクソン侵略の系譜3:「クロスセクション」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「梅とぴのこ―2019―」(小島けい)

のら猫だったアリスは、家につれて帰って24日後に子猫を産みました。もうすぐ11年になります。
5匹生まれた子猫のうち、気の弱い男の子のジョバンニと生まれつき胃腸が弱いといわれた女の子ぴのこを家に残しました。
先生の見立て通り、ぴのこは少食で、ほんの少しでも多く食べるとその瞬間にもどしました。量だけでなくほんの少し固い物もダメ。大きさも5mmくらいでも固い物が混じるとアッというまに出しました。
それは大人になっても変わりませんでした。
2年前の秋、あまりにももどしてしまうので、病院で調べてもらいましたが、レントゲンで見る限り異常はありません。
ただ異常は見つからないといっても、すぐもどしてしまうわけですから、何とかもどさずおいしく食べてもらえるようにするしかありません。
そこで一大決心をしてアレコレ試行錯誤をくり返すこと半年余り、ようやくぴのこがもどさず喜んで食べてくれる食事が完成しました。
まず自家製野菜スープ(液体)をペットボトルのキャップ一杯。もち麦のおかゆを小さじ一杯。野菜のペーストを小さじ半分。ひきわり納豆を小さじ3分の1。
そこにぴのこの好きな魚のカンづめをつぶして小さじすり切れ1枚。さらに消化器系のカリカリをミキサーで粉状にしたものを小さじすりきれ2杯。
このご飯をあげるようになってから、生まれて初めてぴのこは<食>の楽しさに目覚めました。
今では、そんなに早食いだったかしらん?!というスピードで自分のご飯を食べてしまい、お母さんのアリスやジョバンニのところに走り、気の強さでは誰にも負けないため、残りをたいらげてしまいます。
食べてくれるのはいいのですが、一定量を少しこえただけでももどすのは、変わっていません。そこで同じケージのなかで食べるアリスとの間は、食事の度に段ボールの屏風(?)で仕切ります。
魚アレルギーのジョバンニは、別のケージのなかで食べていますが、ぴのこが入って押しのけてしまわないように、扉をきっちり閉めることにしました。
そのため、自分の分を食べ終えたぴのこは扉のまん前に座り込み、待つことになります。その距離の近さと迫力にジョバンニはしばしば負けて、少し残っていても食べるのを止めてしまうほどです。
ほんとうはこんなにも食べることが好きだったのに、もっと早くに食事の大改革をすればよかったと、ぴのこには申し訳ない思いで一杯です。
ただ、よく食べるようになってくれたぴのこですが、細い身体はそのままで、今でも一歳くらいの頃と変わりません。
<梅とぴのこ>は1枚目も、2枚目も、それぞれ猫好きの方のお家に行って手元にありませんので、もう一度描きたいと思い3枚目の<梅とぴのこ―2019―>を描きました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜3:「クロスセクション」

初めてアメリカに行ったのは1981年で、高校教員のままで通った大学院一年生の夏です。修士論文の軸となるリチャード・ライト(Richard Wright)の「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)が収められている雑誌「クロスセクション」(Cross-Section, 1944)のフォトコピーがニューヨーク公立図書館ハーレム分館にあるとわかったからです。

「地下に潜む男」は教科書(青山書店、1969)も出ていましたし、『八人の男』(晶文社、1969, Eight Men; World Publishing, 1961)にも収められていましたので原作は手元にありましたが、作品の収載されている雑誌が見たかったのだと思います。それに、アメリカのことをするのに、アメリカに一度も行ったことがないのも気が引けるなあという気持ちもあったような気がします。

生まれたのは1949です。第二次大戦直後に生まれた世代は、否応なしにそれぞれのアメリカ化を経験しているような気がします。神戸から電車で西に一時間ほどの小さな町に住んでいましたが、高校の頃に若い宣教師が自転車に乗っているのを家の二階からたまたま見かけるまで外国人を見た記憶がありません。小学校の頃にテレビが普及し始め、ハリウッド映画からエンパイアステートビルディングやナイアガラの滝、ゴールデンゲイトブリッジなどの映像が流れてどっと「アメリカ」が生活に入り込む一方、洗濯機や炊飯器、掃除機などの電化製品でどんどん生活が「便利に」なって行きました。その頃自覚していたとは思えませんが、便利さや快適さから来るアメリカへの憧れと、敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発が妙に入り混じっていたように思えます。

入学した大学が外国語大学でもあったせいか留学に気持ちが傾いた時期もありますが、ずっと1ドル360円でしたし、学費も生活費も自分で都合しないといけない中では経済的に実際は無理だったと思います。休学してスウェーデンに遊学したクラスメイトもいましたから、それほど行きたい気持ちが強くなかったということでしょう。そのクラスメイトは、滞在中にお金やパスポートなど一切合切を盗られて2年も余計にスウェーデンにいることになった、と帰ってから話をしていました。

ライトが移り住んだコース(生まれたミシシッピ州→10年ほど住んだシカゴ→ベストセラーを生み出したニューヨーク→アメリカを見限って移住したパリ)のうち、今回はシカゴ→ニューヨーク→(セントルイス経由で)ミシシッピ州ナチェツ(生まれた所)、までを辿ってみようと計画を立てました。コピーしたファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)の巻末の参考文献目録を旅行鞄に忍ばせ、サンフランシスコに何泊かしてからシカゴとニューヨークに行きました。1ドル280円台だったと記憶しています。

ナチェツ空港

5年間高校で英語の教員をしていましたが、「敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発」もあって、英語は聞かない、しゃべらない、と決めていましたので、英語はまったく聞き取れませんでした。日本ではなぜか、英語がしゃべれなくても英語の教員は「勤まり」ます。

目的は図書館での文献探しでしたが、結局はニューヨークの古本や巡りになってしまいました。今から考えるとおかしな話ですが、ライトの『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の初版本はありませんかと出版元まで訪ねて行ったのですから。もちろんあるはずもありませんが、訪ねてみるもんですね。大量の本を古本屋に流していますので、タイムズスクエアーのこの古本屋に行くとひょっとしたら、と言われました。1985年のI Love New Yorkキャンペーンでその辺り一帯がきれいにされる前でしたから、古本屋やポルノショップなどが溢れていました。

教えてもらった古本屋に『アメリカの息子』の初版本はさすがにありませんでしたが、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)など主立った本はもちろんのこと、スタインペッグの『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やハーパー・リーの『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)なども難なく見つかりました。そして何より、「地下に潜む男」の掲載された「クロスセクション」(CROSS SECION)の現物が手に入ったのです。雑誌と言っても559ページもあるハードカバーの立派な本でした。見開きにはCROSS-SECTION A NEW Collection of New American Writingとあります。

日本でも神戸や大阪の古本屋には何度もでかけていましたが、ニューヨークで古本屋巡りをするとは思ってもみませんでした。本をぎっしり詰めた旅行バックが肩に食い込んだ重さの記憶が残っています。今ならVISAカードで簡単に処理したんでしょうが、何箱か船便で送ったら、持って行っていたお金がほぼなくなってしまって、経由地のセントルイスまでは辿り着いたものの、そこから予定を変更して戻って来るはめになりました。

初めてのアメリカ行きでもあったので、サンフランシスコではゴールデンゲイトブリッジに行き、シカゴではミシガン通りでパレードを眺め、ニューヨーク州ではナイアガラの滝を見て、エンパイアステートビルディングにも昇りました。元々人が多いのは苦手でエンパイアステートビルディングも入り口に列が出来ていなかったら昇ってなかったと思いますが、入り口には人がまばらで。しかし、途中で乗り換えがあって、そこでは人が溢れかえっていて、何だか騙された気分になりました。

ミシガンストリートで3時間ほどパレードを眺めていた時に、アメリカにもアメリカのよさがある、と何となく感じました。ニューヨークのラ・ガーディア空港では日本語が通じずにカウンターでついに大きな声を出してしまいましたが、ちょっとお待ち下さい、言葉のわかる者を連れて来ますので、と言われて待っていましたら、人が現われて、ゆっくり英語をしゃべってくれました。

通じないもどかしさを何度も味わいましたが、それでも帰って来て、英語をしゃべりたいとは思いませんでした。

「地下に潜む男」を読んだのは大学の英語の購読の時間で、青山書店のテキストです。大学に入ったのは学生運動が国家権力にぺちゃんこにされた翌年の1971年で、浪人しても受験の準備が出来ないまま結局はうやむやに心の折り合いをつけて、家から通える神戸市外国語大学のえせ夜間学生になりました。

えせは、神戸市役所や検察庁などの仕事を終えてから授業に出る前向きな「同級生」に比べて、という意味です。検察庁の「同級生」は「神戸の経済を二度失敗した」末に入学したそうですが、「ワシ、今日はやばいねん、昨日取り調べたやーさんに狙われるかも知れへんから」と帰り道に言っていました。高校も定時制(4年間)だった別の「同級生」は住友金属で働く好青年で、何百万か貯めて着実に生活している風に見えました。若くに人生を諦めてしまって大学の空間を余生としか考えていない身には、ずいぶんと希望に満ちた大人に見えました。もちろん、僕と同じようなえせ夜間学生で、定職は持たず、昼間の運動部に混ざって練習をしている同類も僅かながらいましたが。

学費は年間12000円(昼間は18000円)、月に1000円、定期代も国鉄(現在のJR)と阪急(電鉄)を合わせても1500円ほど、朝早くに1時間ほど配っていた牛乳配達が月に5000円ほど、学費はそれで充分にまかなえていたように思います。もっとも自分から進んでやった牛乳配達ではなく、母親がやっていたのを見兼ねてやるようになっただけでしたが。

神戸市外国語大学全景(上)、木造学舎(下)大学HPより

入学した年、中央以外では学生運動の残り火が燻っていたようで、神戸大でも神戸外大でもヘルメットを被った学生が拡声器を持って「われわれは・・・・」と、がなり立てていました。僕には入学式も無意味なので通常なら出ることはないのですが、一浪したあとよほど気持ちが縮こまっていたようで、つい入学式に出てしまいました。奇妙な入学式で、図書館の階段教室で始まって学長という人が挨拶を始めたとたん、合唱部とおぼしき人たちが初めて聞く校歌らしき歌を歌い始め、違うサイドでは拡声器を持った学生が「われわれは・・・・」とまくし立て始めていました。座っている学生は僕のようにへえーと感心しているものもいれば、四方に野次を飛ばしているものもいました。

その後、授業はなく毎日のようにクラス討議なるものが強要され、ある日学生がバリケードをして学舎を封鎖しました。しばらくして機動隊が突入して「正常化」されたようでした。70年安保の学生運動では国家体制の再構築というような理想論が取りざたされたようですが、覚えている限り、マイクから聞こえて来て耳に残っているのは、たしか、学生食堂のめしが不味いから大学当局と交渉して勝利を勝ちとろう、そんな内容だったと思います。中央では負けたので、地方では部分闘争をということだったんでしょうか。

バリケード封鎖された学舎

昼間のバスケット部といっしょに練習をしていましたが、運動部はバリケードが張られているときも、中に入れて練習もやっていました。マネージャーの女子学生も、ヘルメットを被って封鎖に参加している学生の一人で、後に退学したようなことを聞きました。

学生側についた七人の教員は、最後まで学生側についていたようです。後にゼミの担当者になった教授もその中の一人で、共産党員のようでした。その人は十年ほどかかって仕上げた翻訳原稿を投げ入れられた火炎瓶で焼かれたそうですが、また同じ年月をかけて翻訳出版したという話も聞きました。その担当者の追悼文が僕の記事の第一号です。→<a href="https://kojimakei.jp/tama/topics/works/w1970/282“>「がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-」</a>(「ゴンドワナ」3号、1986年)

神戸市外国語大学ホームページの「大学のあゆみ(沿革)」によれば、1946年に設立された神戸市立外事専門学校が1949年に神戸市外国語大学に昇格(外国語学部に英米・ロシア・中国の3学科設置)しています。僕が入学した夜間課程が設置されたのは1953年、その年に語学文学課程、法経商課程の2コースが設置されています。

学生の時はよくは知りませんでしたが、語学文学課程を担当した教員の中には、おそらく1950年、60年代のアメリカの公民権運動やアフリカの独立運動の影響もあったと思いますが、それまであまり取り上げられなかった分野、アフリカ系アメリカ人やアフリカの歴史や文学や言語などの研究をしていた人たちが少なからずいたようです。小西友七という人の黒人英語などもそんな分野の一つで、他にも西洋のバイアスがかかっていないアフリカ系アメリカやアフリカの名前を学内ではよく見かけたように思います。

そのようなアフリカやアフロアメリカに関心のある人たちの何人かが核になって、1956年に黒人研究の会を作り、研究会や研究誌の発行など、精力的に活動をしていたようです。修士号を取って高校の教員をやめたあと暫く研究会に入って、会誌や会報の編集などを手伝っていましたが、会誌や会報を見ながら、勢いあるなあと感心したのを覚えています。60年代70年代の神戸外大の紀要「外大論叢」の書かれたものの中には今読んでも勢いが感じられる論文が少なからずあります。

自分が意識していたかどうかにはかかわらず、おそらくそんな流れの中で、英語の購読の時間にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトの「地下に潜む男」の教科書を読むことになり、修士論文の軸にクロスセクション誌に載った短編を据えることになったのだと思います。

夜間にしろ大学には空間が欲しくて行っただけで、英米学科にもかかわらず英語はしませんでした。学生だと学割が使えるし、という極めて「不純な動機」で修士の試験は受けましたが、案の定「玉田クン、26人中飛び抜けて26番やったね」と好きな新田さんから言われてしまいました。それではと、新田さんにアメリカ文学で読むべき本を聞き、文学史や言語学や英作文の必須図書を自分で探して揃え、一年間目一杯準備をして二度目を受けた時も、結局は書いたものを消して出てきました。大学には行かないという思いの方が、その時は強かったのでしょう。

でも、七十路(ななそじ)足らずの春秋を送れる間に、「世の不思議を見ること、ややたびたびになりぬ」、ですね。その後、書くための空間を求めて大学を探し始めたわけですから。(宮崎大学教員)