2000~09年の執筆物

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は、借りた家の家主に雇われていたゲイリーの家族の話です。(写真作業中)

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 四  ゲイリーの家族  玉田吉行

家族

ハラレに暮らし始めてから一ヶ月ほど経ったある日、ゲイリーの家族がやって来ました。普段は侘びしい一人暮らしのゲイリーと一緒に冬休みを過ごすためです。奥さんはフローレンス、長男はウォルター、長女がメリティ、次女がメイビィです。すべて英語の名前、どうしてショナ語ではないんだろう、メイビィは「多分」という意味なのか。考えれば、おかしな名前です。名前としては初耳です。

フローレンスは鼻筋が通っていて、涼しげな顔つきです。フローレンスも子供たちもどことなく緊張した面持ちです。私の長女と長男は、同じ敷地内に住むのだから毎日一緒に遊べるぞと、早くもわくわくしています。ゲイリーの子供たちはショナ語しか話せませんし、二人の方も日本語しか話せません。遊ぶのはいいとして、どんな言葉を使って遊ぶのでしょうか。

歓迎の意味も込めて、一緒に写真を撮ろうと子供たちが言い出しました。早速カメラの用意です。ゲイリーたちはと見ると、部屋に帰りかけています。どうするのと聞いたら、写真を撮るのですから一帳羅に着替えて来ますということでした。

庭で二家族の写真を撮りました。お決まりのチーズなどと言ってみても顔はどことなく硬張ったままです。撮り終わったよと言ってからカメラを固定し、よそ見をしながら連続でシャッターを切ってみましたが、それでも笑顔はあまり見られませんでした。初対面だから仕方がないのかなとも思いましたが、フィルムがなくなってカメラ屋に行き、二十四枚撮りのフィルム一本が三十八ドルで、その焼増し料が百ドル近くもすると知った時、気軽に笑えなかった理由がわかったような気がしました。写真を撮るのも、一大事なのです。今のこの国の状況では、自分でフィルムを買ってカメラを自由に使える人はそう多くはいないでしょう。

子供たちが一緒に遊べるボールを探しに行きました。大学のコートで使う予定のバスケットボールは既に持っていましたので、新たにバレーボールを買ってきました。ゲイリーには何となく気がひけて言えませんでしたが、バレーボールは百六十九ドル九十九セント、ゲイリーの給料とほぼ同額です。ゴムのバスケットボールの方は百八十九ドル九十九セントでゲイリーの月給を優に超えていました。総じて、生活必需品ではないこういった品物の値段は高いようです。何日かのちにスーパーで質の悪いサッカーボールを買いましたが、それでも五十ドルくらいでした。硬式用のテニスボールを一個下さいといって、店員の白人青年ににゃっと笑われてしまいましたが、一個三十五ドルでした。どのボールも充分に元が取れるほど、子供たちには役に立っていました。なかでもサッカーボールは、ウォルターと長男をむきにさせてしまうだけの魔力を秘めていたようです。ボールをはさんだとき、子供たちに言葉は要らないようでした。大人の心配をよそに、連日楽しそうにボールを追いかけていました。

冬休み・夏休み

子供たちにとって、広い庭先をかけ回る毎日は本当に楽しかったようです。北半球から来た二人にとっては最高の夏休み、南半球にいるウォルター、メリティ、メイビィにとっては忘れられない冬休みとなりました。日曜日以外は英語やアート教室がありましたので、午前中こそ遊べませんでしたが、午後からは庭に出て五人入り乱れて遊んでいました。投げたり、蹴ったりのボール遊びが多かったようでが、鬼ごっこや木登りなどもやっていました。相撲好きの長男は、日本の国技のアフリカでの伝授に成功したようで、長男とメリティが取り組み合っている横で、末っ子のメイビィが大きな声でノコッタ、ノコッタと囃子たてていました。

ウォルターはゲイリーに似て穏やかな性格で、笑顔の素敵な少年です。精悍な体つきで身のこなしが素早く、サッカーボールを追いかける姿が堂に入っていました。

メリティは、はにかみ屋さんです。表面には感情をそう表わしませんが感受性が強く、いつも人の陰にそっとかくれているような少女です。お互いに感ずるところがあるのか、長女と一番近かったように思います。メイビィは茶目っ気たっぷりでした。陽気でいつも周りを明るい気持ちにさせてくれます。愛敬もたっぷりで「メイービィッ」という掛け声とともに始まるオリジナルの踊りは、腰が入った本格派です。みんなが手拍子を取ると、歌いながら得意そうに何度も何度もその踊りを披露してくれました。写真を撮るときは、必ずカメラを意識してポーズを取ります。いくらみんなが笑わせようとしても、最後までそのポーズを崩しませんでした。表情はいつも真剣そのものだったのです。

ゲイリーもそうでしたが、初めから家族も控えめで、最後まで変わりませんでした。何かをせがまれた記憶はありません。ゲイリーの子供たちの方も、自分たちの方から言い出せない場合が多く、いつも二人が庭に出てくるのをじっと待っていたようでした。

私たちがいなくても、好きなように庭の広い所で遊んで下さいとゲイリーには言ってありましたが、三人は部屋の中に居るか、部屋のすぐ前の小さな空き地で遊ぶか、南西に広がっている数メートルのマルベリーの木に腰を掛けているかでした。最初は気づきませんでしたが、部屋の近くを離れない大きな原因はデインでした。ゲイリーの子供たちを見ると、デインはいつも大きな声で吠えるのです。陽気なメイビイも、自分よりもはるかに大きな犬に吠えられて青ざめていました。ウォルターなどは、脱兎の如く部屋に逃げ込みました。

よく観察していますと、デインは白人には吠えませんが、アフリカ人を見ると必ず吠えるのです。滞在した期間中に、ゲイリーの親戚や知人などたくさんのアフリカ人が家に来ましたが、ボーイとして働くゲイリーと元メイドのグレイス以外は、誰に対しても必ず吠えていました。ですから、ゲイリーか私たちが出ていかない限り、恐がって門から入って来る人はいませんでした。訪ねて来てくれたジンバブエ大学の学生の一人は、追いかけられて気の毒なくらいでした。家主のスイス人のおばあさんの親戚だという中年女性や男性や、家主の妹さんやそのお孫さんらしき人にはデインは吠えませんでした。最初から吠えられなかった私たちは、デインの目の中では白人に分類されているのかも知れないとふと考えました。

南アフリカには、英語と並ぶ公用語アフリカーンス語を話すアフリカーナーと呼ばれるオランダ系の人たちが圧倒的に多い地域があって、アパルトヘイト政権を支えたその人たちのアフリカ人に対する態度は非常に強硬で、その地域では飼い犬もアフリカーンス語で吠えると言われたそうです。犬を借りて、極右翼のアフリカーナーの偏狭性を表現したものでしょうが、デインを見ていると、そんな南アフリカの話を思い出しました。恐らく仔犬の頃から、アフリカ人を見たら吠えるように訓練されてきたのではないでしょうか。子供たちが五人で遊んでいる時でも、時折り急に吠え始めたりする場合があって、その都度みんなで叱りつけました。その甲斐があったのでしょうか、休みが終わる頃には、五人が遊んでいても顔を前脚に乗せて、うっとおしそうに目を閉じて昼寝を続けるようになっていました。

トランプなどのゲームや絵を描いたりして、室内で遊ぶ日もありました。日本から持って来た色鉛筆や画用紙を使って、お互いの似顔絵や自分たちの学校の絵を一心に描いていました。色鉛筆や画用紙を買う経済的な余裕などはゲイリーにはないでしょうから、街で買ってウオルターたちにプレゼントしたら、自分たちの部屋でも絵を描く時間が増えたようです。描いた絵をよく見せに来てくれるようになりました。

長女は日本で使っている中学二年生用の英語の教科書を持ってきて、六年生のウォルターと一緒に声を出して読んでいました。長男はメリティとメイビィにショナ語を教えてもらっています。象の絵を描いてンゾウと言えば、象のショナ語が相手に分かる訳です。長男は教えてもらったショナ語を忘れないように、よくメモをとっていました。言いたいことが相手に通じないもどかしさを感じた時には、大人が通訳として引っ張り出されることもありましたが、大体はお互いの気持ちが通じ合っているようでした。

ジンバブエ大学の学生から、日本には街にニンジャが走っていますかと真顔で聞かれましたが、ウォルターとメリティとメイビィが大きくなった時、そんな質問はしないような気がしました。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」4号に収載予定で送った原稿です)

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「(一九九二年・ハラレ)ジンバブエ滞在記 四 ゲイリーの家族」 (255KB)

2000~09年の執筆物

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は大遺跡グレート・ジンバブエに行った時の話です。(写真作業中)

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 三 グレート・ジンバブエ  玉田吉行

グレート・ジンバブエ

ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで行くのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観にいこうという気持ちがなくもなかったが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまって、親の方は遠出は止めようと言い出した。しかし、子供の好奇心は押しとどめようがない。結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけた。

遺跡グレート・ジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは遠い。遺跡は南に三百キロほど、滝は西に九百キロ近くも離れている。今は乾期だから、遺跡の方は大丈夫のようだが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にあるので、マラリアの危険がないわけではない。入院する事態を想像すると、ますます億劫になる。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレート・ジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着いた。

飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、三千七百三十三ドル、一人約九百三十三ドル、二万三千円あまりである。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいだろうか。しかし、千ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えない。

九月からは子供たちの学校も始まるので、八月の半ばの土曜日に行くことにした。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変である。家から空港まで二十キロはあるし初めてでもあるので、八時過ぎの便に乗るには六時くらいには家を出た方がよさそうだ。タクシーの予約もしなければならないが、アフリカ時間が気にかかる。電話には慣れてきたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒なので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしよう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味がある。今後の参考にさせてもらおう。

出発の朝である。アフリカ時間の心配は杞憂に終わった。予定の六時きっかりにタクシーがきて、滑りだしは順調である。土曜日でもあるし朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着いた。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想していなかった。隙間といってもこぶし大はある。石でも当たったのだろう。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っている。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないが、運転手の方は別に気にしている様子もない。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンド・ブレイカーの衿を立てて震えている。

この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転できればいいという状態の車が多い。ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけない。その場合は運転手が気を使って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれる。タイプは違うが、一応は運転手による自動開閉式である。

国際空港もぱっとしなかったが、国内線のほうは、もうひとつぱっとしなかった。行けるのかなあと不安になるほどだった。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませた。

空港内で、日本からと思われる団体客を見た。ヴィクトリアの滝へ行くらしい。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいた。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけている。四人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をついた。

さあ、いよいよ出発である。

飛行機は十二人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッド・エアと書いてある。パイロットもアメリカ人のようだ。乗客は十二人、すべて外国人で、私たち以外は白人である。飛行機に弱い長男は前の席を希望したが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席になった。すでに、長男は酔わないかと身構えている。

飛行機は飛び立った。小さいので音が大きく、会話も難しい。目的地は南へ三百キロのマシィンゴ空港である。

厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていた。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入ってくるが、湖や川などは一切見当らない。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていた。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じだった。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れなかった。 一時間でマシィンゴ空港に着いた。出迎えの車が二台待っていたが、自家用車である。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車三台で運ぶ、追って一台来るので待って欲しいという。

小さな空港である。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意された。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めた。よく事情はわからないが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめた。十分ほどして、白人のおばあさんが迎えにきた。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛ピードをあげて車は進む。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いている。頭に大きな荷物を乗せている人が多かった。グレート・ジンバブウェまで二十八キロと案内書には書いてあるが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着いた。

外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されている。さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれた。子猿がいる!と子供たちがカメラを出した。

一息ついたあと、グレート・ジンバブウェに出発した。運転手が若い女性に変わっている。休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で三時間ほどの所に住んでいるらしい。ターニャという。南アフリカは地続きだから、車で行けるのか。それにしても、三時間とは近いものだ。ここでは外国から来ても、必ずしも海外からとは言えないわけである。

しばらくして、遺跡に着いた。小高い丘に、石造りの建造物がある。想像していたほどの威圧感はない。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれる。説明を聞いてもあまりわからない三人は、ガイドから付かず離れずの別行動である。

建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石が積み重ねられて作られている。この辺りには、このような遺跡が百五十ほどもあって、ここが最大級のものである。日本でも時たま特集番組で報じられたりしている。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたと聞く。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまった。それでも、遺跡の中で発見された陶器から、ヨーロッパ人が到来する以前より、遠くインドや中国との国交があったと推測されている。おそらく、イスラム商人が仲買人だったようだ。その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るベルベル人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われる。

はっきりとは断定出来ないが、十三世紀から十五世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明している。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうという。

ひと通り見終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内された。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せている。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりだ。山羊だと、長男が大声をあげた。しかしよく見ると牛である。この旱魃で、痩せ衰えているのだ。新聞で同じような写真を見てはいたが、山羊と間違えるとは思わなかった。予想以上である。

湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見た。ダンプカーよりもはるかに大きい。上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっている。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているから、多分サファリ用の車だろう。野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのだろう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がした。

夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻ったが、帰りの足がない。この時間帯には利用客がないからだろう、タクシーが見当らない。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれた。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれたので、有り難く便乗させてもらった。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしい。大助かりである。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していた。

降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りた。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、もう辺りは真っ暗だった。

 

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」3号に収載予定で送った原稿です)

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ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 三 グレート・ジンバブエ (289KB)

2000~09年の執筆物

概要

一九九二年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした二ヶ月半の滞在記の一部です。今回は生活を始めた頃の、買い物と自転車の話です。

本文(写真作業中)

(一九九二年・ハラレ)

ジンバブエ滞在記 二  買い物と自転車           玉田吉行

買物

日本では何のこともない買い物もハラレではなかなかの大仕事でした。車に乗るのは金持ち、歩くのは貧乏人という白人街では、前篭一杯に買いこんだ食料品を乗せて自転車を走らせる外国人の姿は珍しかったようです。

二日目、家から一番近くのショッピング・センターに食料の買い出しに出かけました。辺りの見物も兼ねて、四人は地図をたよりに出発しました。地図で見ると一キロほどの距離でしたが、乾燥して道が埃っぽいうえ、車も猛スピードで走りますし、道路を渡るのも命懸けに思えました。野菜に果物、牛乳に卵やジュースのほか、当座の日用品や文具からパンやドーナツまでたくさん買い込みましたので荷物も重く、随分と遠くまで出かけたような気がしました。

量や形が違いますので、単純に日本と比較は出来ませんが、野菜や果物、肉や卵やパンなどの生活必需品は大体半分から三分の一程度の値段のようです。例えば、この日買った英国風のパンは、日本のトースト用のパン二斤くらいの大きさですが、三ドル(八十円)足らずです。選べば一ドルから二ドルくらいのパンもありました。ビールは小瓶よりやや小さめですが、二ドル(五十円)足らず、それも半分は瓶代ですから、一本が三十円ほどです。日本より大きめの瓶に入ったコーラ類も一ドル(二十五円)以下で、ビールよりも安いようです。その時は気づきませんでしたが、空港で飲んだ飲み物の領収書を見ますと、スプライト類二本で一ドル九十セント(五十円足らず)、紅茶二杯三ドル二十セント計五ドル十セント(百三十円ほど)でした。

吉國さんが手紙の中で「衣類から靴まで大体のものはそろいます。物価は国産のものなら日本の半分くらい、輸入『贅沢』品なら日本の二倍ぐらいでしょうか。為替レートの関係で、ジンバブエ人は物価高騰に苦しんでいますが、外人(外貨所持者)は安い、安いと左うちわの生活です」と教えて下さった通りでした。ただ、パンなどの必需品が僅か二ヵ月半の間に目に見えて値上がりしましたが、こんなに物価が高騰して、ハラレの人は一体これからどうやって暮らしていくのだろうかと不安になりました。ゲイリーも、先月と同じ値段では買えないとしきりに嘆いていました。

タオルや文房具類は、日本と同じか高めのようでした。品物は粗悪なものが多く、特に紙の質はひどかったと思います。厚手の紙に包んで出した小包は、日本の税関で再包装され、透明のナイロンに包まれて届けられていました。再包装されていない場合でも、破れて中身の見えていないものはなかったように思います。紙が長い旅に耐えられなかったわけです。

後日、家の中で履くスリッパを二足買いましたが、底が質の悪いゴムと木で出来たスリッパは、三日もしないうちにひび割れてしまい、使いものになりませんでした。それでも一足五十三ドル(千三百円ほど)でした。

五日目に、近くの国立植物園まで四人でスケッチに出かけました。広い敷地で、小学校と違ってフェンスもなく、入り口には次のような掲示がありました。

「当公園は、日の出から日没後半時間まで開園しています」

殺伐とした都会の生活の中で忘れかけている何かが残っているようで、何だか嬉しくなりました。無料で入れる園内の花には期待が持てませんでしたが、それでも所々に鮮やかな熱帯系の大きな花が咲いていました。

自転車

ゲイリーの一月の給料が百七十ドル(約四千三百円)ですから、中古にしろ二万円足らずの自転車は、乗り捨てられた自転車が駅などに溢れかえっている日本とは違って、貴重品です。

四日目に中古の自転車が二台届いて、行動範囲が広がりました。植物園に出かけたあと、二台の自転車にそれぞれ二人乗りして、四キロほど離れたショッピング・センターに買い出しに行きました。自転車の性能が悪く、ペダルを踏んでも踏んでもなかなか進みません。サドルも高く、帰り道は登り坂、後に子供、前に荷物、まさに「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」でした。

予想通り、自転車は故障しました。ある日、いざ出発と家を出たとたんに、荷台から長女が転げ落ちてしまいました。大事に至らなかったのが幸いでしたが、突然のことでびっくりしてしまいました。見ると、荷台の止め金が二本とも外れています。初めから止め金がついていなかったのです。

長女が落ちたのは大きい方の自転車からですが、その自転車、今度はある日突然道の真ん中でペダルが空回りしてしまいました。どうやら右のペダルの根元の止め金が取れてしまっているようでした。家までまだ三キロほど残っていましたので、仕方なく、左側片方のペダルで漕いで帰るはめになりました。坂道制覇を挑んでみましたが、片足では登り切れませんでした。帰ってゲイリーに話しますと、その部品なら近くに売っていますよと言って、買ってきてくれました。さっそくペダルと車軸とを貫く小さな穴にその止め金をハンマーで打ち込んでみましたが、少し大き目だったようで半分程しか入りませんでした。しかし、こんな部品が走っている間に取れたりするものでしょうか。それでも応急処置で何とか走るようにはなりました。日本に帰ってからその部分を調べてみましたら、止め金が中心に向かって車軸の方向に埋め込まれていました。これなら、外れる心配も要りません。

子供用の自転車の方も、ある日ショッピング・センターから少し離れた所で、ぶしゅっと音を立てて空気が抜けてタイヤが裂けてしまいました。今回は三キロの道のりを押して帰るしかありませんでした。

幸い前輪でしたので取り外し、タクシーを呼んで、購入したマニカ・サイクルまで持って行きました。領収書を見せて事情を説明しましたら、すんなり新しいのと取り替えてくれましたが、初めから新しいのを着けてくれれば良かったのにと恨めしく思いました。

自転車での買い物は、瀟洒な白人街では珍しかったようです。すれ違うアフリカ人とは、ゲイリーに教えてもらったショナ語での挨拶を交わしましたが、大抵は温かい笑顔が返ってきました。時々、ショナ語で会話を続けられて、喋られずに謝る場面もありましたが、冷やかさは感じませんでした。ただ、篭の荷物を指差して、その食べ物を分けてくれませんかとか、バス代をくれませんかとか、突然話しかけられるのには閉口しました。しつこくという風でもなく、やんわり断わるとまるで何もなかったように去っては行きましたが。

自転車の篭に乗せて中身が見える形で、買物した品物を大量に運ぶ状況はないようでした。スーパーで買物出来る白人や一部の金持ちのアフリカ人は、車のトランクに乗せて荷物を運ぶからです。ほとんどのアフリカ人は、時には唐もろこしの粉の大きな袋を担いだりもしますが、パンとかマーガリンとか砂糖とかの単品を入れた小さな袋をもっているだけです。

前と後ろに買物した荷物を乗せて自転車を走らせるのも、そのうち心苦しくなってきましたが、毎回タクシーを呼ぶわけにもいかず、最後まで自転車での買い物が続きました。

白人街のスーパーでは、アフリカ人の店員が荷物を運び白人が僅かなチップを渡す、それが当たり前の光景のようでしたが、どうしても馴染めませんでした。アフリカ人の店員は当然のように荷物を運ぼうとしますが、断るのが大変でした。断るのにチップを払ったりしましたが、息苦しい思いが先に立ちました。

セカンド・ストリートのスーパーでは、こちらが断わるのに、松葉杖の老人が私たちの自転車の所まで買物のカートを押していこうとするので、結局、なにがしかのチップを出すはめになりました。悪いことをしているわけでもないのに、それ以降はその老人に見つからないようにと気を遣わざるを得ませんでした。目につかないようにと出来るだけ遠くに自転車を留めましたが、必ず目敏く見つけて近づいて来るのには参りました。足も悪いのですから、毎回運んでもらってチップを出せばよかったのでしょうが、猜疑心に満ちた卑屈な目を見たくない思いが先に立ちました。

二台の自転車はゲイリーに置いていくつもりでしたが、

帰国する日の一週間前の金曜日の夜から土曜日の明け方(金曜日は、週給の給料日で酒を飲んで浮かれる日だそうです)に見事に盗まれてしましました。ゲイリーによれば、番犬も吠えず、もの音一つ立てずに、ゲイリーが眠っているガレージから盗み出せたのは、以前に働いていたメイドの仕業だと言うことでしたが、

誰にも怪我がなかったのが不幸中の幸いでしたが、ゲイリーの落ち込みようは、見ていて辛いほどでした。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」2号に収載予定で送った原稿です)

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ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 二 買い物と自転車 (275KB)

2000~09年の執筆物

概要

1992年に家族でジンバブエに行き、首都のハラレで2ヶ月半を過ごしました。帰国後、暫くは何も書けませんでしたが、半年後に何とか思いを書きとめて1冊の本にまとめました。

まだ本の形では出版がかなっていませんが、その抜粋を「ごんどわな」(横浜:門土社)に「ジンバブエ大学① アレックス」(2000)、「ジンバブエ大学② ツォゾさん」(2000)、「ショナ人とことば」(2001)と題して寄せています。

出版を前提に、今回は元の原稿に少し手を入れ、抜粋をこの雑誌に寄せることにしました。雑誌では2段組の縦書きですが、ここでは横書きに改め、少し写真を入れました。

本文(写真作業中)

ジンバブエ

1992年に家族と一緒にジンバブエの首都ハラレで暮らした2ヶ月半をまとめた滞在記の一部です。文部省の在外研究員としてジンバブエ大学に通いました。

アフリカについて考えるようになったのは偶々です。85年にリチャード・ライト国際シンポジウムがあり、ミシシッピ州立大学に行ったのですが、その時の発表者の一人、ケント州立大学英語科教授の伯谷嘉信さんから87年の会議での発表の誘いを受け、南アフリカの作家アレックス・ラ・グーマについて発表することになりました。その頃から南アフリカの歴史についても考えるようになり、出来れば家族とある一定の期間アフリカで住んでみないと気が引けるなあ、と思うようなりました。

在外研究に行ける可能性が高かった1991年に文部省に申請の書類を出した時は、ラ・グーマの生まれ育ったケープ・タウンに行ってみたいと考えていました。しかし、申請した時点では、日本政府は、表向きは一応反アパルトヘイトを標榜して南アフリカとの文化・教育の交流の禁止措置を取っていましたので、国家公務員の南アフリカ行きは認められませんでした。結局は、「国内が独立に向けての混乱期でもあるので今回は遠慮して」、「しかし、折角の機会でもあるので、せめて『遠い夜明け』のロケ地となった南アフリカとは地続きの隣国ジンバブエの赤茶けた大地を見に行こう」、と自分に言い聞かせて、ジンバブエ大学に行くことにしました。しかし、知り合いがいたわけではありません。ジンバブエ大使館とジンバブエ大学に問い合せる一方、知り合いの紹介で、ハラレ在住の吉國恒雄さんに手紙を書きました。吉國さんは、アメリカの大学とジンバブエ大学でアフリカ史を学んだあと、現地採用でハラレの日本国大使館に勤務されていた方です。「恐ろしく不動産事情が悪いので、最悪の場合はホテル住まいになるかも知れません。」という手紙をもらっていましたが、ある日、家が見つかりましたので、という国際電話がありました。82歳の老婆がスイスに出かける間、家具付きで貸して下さるというのです。1ヵ月約10万円の家賃でした。宮崎を離れる10日ほど前のことです。

ハラレ第一日目

ハラレの空はからりと晴れていました。

ロンドンのヒースロー空港を真夜中に出た英国航空機は、およそ10時間後、ジンバブエの首都ハラレに着きました。92年7月21日のことです。日本では猛暑の季節ですが、南半球では真冬でした。海抜千500メートルの高原地帯にあり、雨期と乾期のあるサバンナ気候で、1年中過ごし易いところです。すんなり税関を通過し、待合室で吉國さんの奥さんの出迎えを受けました。2日前に車の盗難に遭ったという奥さんの話を聞きながら、私たちを乗せた車は独立記念のアーチをくぐり、ハラレの中心街を抜けて、これからの2ヵ月半を暮らす、アレクサンドラ・パーク地区フリートウッドロード22番地に到着しました。

500坪近くもある広い所で、オランダ風の建物がたっていました。南西の隅に車庫と「庭師」用の小さな建物があり、その建物の北側には野菜園がありました。庭には、パパイヤとマンゴウがたくさんの実をつけ、ジャカランダの大木が2本あり、北側にはハイビスカスの生垣がありました。

ハラレでの借家

道を隔ててアレクサンドラ・パーク小学校があり、ジンバブエ大学の建物も見えます。「この家の持ち主のおばあさんが雇っておられるゲイリーです。給料はおばあさんからもらうそうです。普段のゲイリーの仕事は、庭の手入れと、犬の世話かな。おばあさんがいる時は、買物や銀行にも行かされているようね。少しくらいなら手伝ってくれるでしょう。何かあったら、頼んでみて下さい。」と奥さんから紹介されたのが、ガリカーイ・モヨさんで、190センチ近くはある、すらりとしたショナ人でした。

体長が1メートル50センチほどの犬もいました。前脚が悪そうでしたが、デインと呼ばれる番犬のようです。ゲイリーがいたからでしょう、初めての私たちにも吠えませんでした。

ゲイリーとデイン

南の棟には、寝室が3つと風呂と台所、西側の棟には食堂と居間がありました。居間は20畳ほどで、応接セットに机とテレビが置いてあります。スイッチを入れたらぶんという音がして、映像が出るまでに少し時間がかかりました。

ダブルベッドのある12畳ほどの東の部屋を長男と私が、真ん中の6畳くらいの部屋を長女が、西側の7畳ほどを妻が使うことにしました。見かけとは違って、全体に陽当たりも風通しも良くないようでした。長女の入った部屋は犬が使っていたようで、臭いもひどく、ぎしぎしと大きな音をたて、寝心地が悪そうでした。どの部屋も照明器具がお粗末で、全体に暗い感じです。3方が広い窓の12畳くらいの台所には、冷蔵庫と4つ続きの電熱器があり、湯も出るようでした。故障したトースターと芝刈り機に似た掃除機もあります。電源を入れて試してみましたが、1円玉も吸いこまず役に立ちそうにありません。願ってもない邸宅を世話してもらっておきながら、文句ばかり、我ながら浅ましく思いました。便利で快適な日本の生活に浸りきっているようです。

夕方、吉國さんが食事に招待して下さいました。お宅は、同じ地区内の2キロほど北東にあり、手入れの行き届いた庭のある閑静なお住まいでした。久しぶりの家庭料理を味わいながら、子供たちはゲームを楽しみ、私たちは吉國さん夫妻のお話をうかがいました。ハラレでは、1年を通じて北東から南西の方角に概ね風が吹くようで、白人入植者は東側に水源地を確保したあと、南西の方角にアフリカ人の居住区(ロケイション)を造ったそうです。工業地帯をその間に置いて、緩衝地帯にしたと言います。なるほど、アフリカ人は風上には置かないということか。待てよ、どこかで似たような話を聞いたことがあるぞ。ジョハネスバーグ近郊のアフリカ人居住区ソウェトだ。 SOUTH WEST TOWNSHIPのそれぞれの頭2文字を取った地名です。ジョハネスバーグの南西にあり、55年のソフィアタウン強制撤去の後に自然発生的に生まれたといわれる地域です。金鉱のボタ山が、緩衝地帯になっています。そう遠くないハラレが、ソウェトのモデルだったのか。

遠く離れたアフリカの歴史などは、ややもすれば歴史の方から人の生活を捉えがちですが、実態は、いいものを食べたい、いい家に住みたいというようなごく一般的な欲望が、結果的に歴史を作ったのではないか。吉國さんと話している時、ふとそんな思いに捕らわれました。

こうして、ハラレの第1日目が終わりました。

突然の訪問者

暮らし始めると、予期せぬ事態が起きるものです。

第2日目、「誰か玄関に来てるよ」という長男の声に起こされました。8時過ぎです。朝早くから誰だろう、そう考えながら玄関を開けると、すらっとしたショナ人らしき女の人が立っていました。突然のことで事態がよく飲みこめませんでしたが、育ち盛りの男の子が3人いるんです、今度来る人に雇ってもらえるから今日来るようにとここのおばあさんから言われました、と言っているようでした。取り敢えず10ドルを手渡して、引き取ってもらいましたが、吉國さんに相談するしかなさそうです。

翌3日目の朝、昨日よりも早い時間です。

「玄関で何か言ってるよ」という長男の声で戸を開けると、今度は中年の品の悪そうな白人女性です。車を置いてもらおうと中に入れたらエンストしてしまった、夫に連絡を取りたいから、電話を貸してほしいという事情のようでした。夫に連絡がつきましたと言い、車に乗り込んで帰って行きました。さては、おばあさんの偵察隊?

次は8日目、7月28日のことです。

10時過ぎにYAMAHAのバイクに乗ったおじさんが突然やって来ました。電気代を払わないと明日から薪の生活になるぞ、明日からでも電気を切るぞと脅しているようです。市役所か郵便局で、明日までに200ドルを払え、24時間は待ってやる、そうでないと、薪の生活だとにやにや笑っています。

翌日、無事払い込んで郵便局で言われたように、市役所に電話をして、支払いを済ませた旨を告げると、その領収書を持って明日来るようにとの返事、何のために行くのかと尋ねたら、来られるでしょうの一言で電話は切れてしまいました。

翌朝、市役所に係の人を尋ねて受け取りを見せたら、「いいですよ」の一言、何がいいものか。こっちは電話をかけるのも大変なのに……大体、支所の係の者が一本電話を入れれば済むことじゃないか。あとから吉國さんに確かめたところによると、ジンバブエでは電気を引く際にはディポジット(保証金)が必要で、電気を切った時には、払い込んだお金は戻ってくるとのことでした。おばあさんは電気を引く際に、保障金を払わなかったようです。支払いなどに関するデータは、すべてコンピューターに入力されるとのことでしたが、入力するコンピューター自体の性能がよくないので、半年後とか、1年後に突然こういった事態が起こり得るのだそうです。ともかく、電気を切られる事態だけは免れたようでした。

今度は、生活にも慣れ始めた8月15日です。

朝早く、突然大きなトラックが進入してきました。作業服を着た2人の青年が、ゲイリーと何やらショナ語で大声の会話を交わしています。ゲイリーの説明によると、家具のレンタル会社が、契約が切れたので、食堂のダイニング・セットを引き取りに来たようです。しかし、突然椅子と食卓を持って帰ると言われても……。何回かのやり取りの末、何とか私たちがこの家を離れる次の日に、改めて引き取りに来てもらうことに落ち着きました。「独り暮らしだから、普段あそこは使ってなかったんでしょう。家を人に貸すことになって、ダイニングセットくらいは入れておかないとでも思ったんでしょうね。古き良き植民地時代にいい思いをしたローデシアばあさんの一種の見栄ですな」と吉國さんが説明して下さいましたが、何とも中途半端な契約をしたものです。

小学校

4日目、アレクサンドラ・パーク小学校に行きました。中学2年生の長女と小学校4年生の長男を受け入れてもらうためです。9月から始まる3学期の最初の1ヵ月しか学校には通えませんし、英語もわかりませんが、2人には又とはない貴重な機会を最大限に生かして欲しいと考えていました。

 

校長は、私たちより少し若そうなショナ人で、黙って事情を聞いたあと、本当に2人分のお金をお支払いになりますかと何回も念を押します。3学期分に1人当たり、授業料など約500ドルが必要だそうで、1万2500百円ほどです。貴重な経験が出来ると思えば、高くはありません。

「何とか空きがありますから、お姉さんは7年生に、弟さんの方は3年生に入ってもらいましょう、この手紙を持って教育省に行き、許可証を貰ってからもう1度学校に来て下さい」と言う校長から手紙をもらいましたが、「あそこの小学校の教員で700, 800から1000ドル、校長でも1500百ドルの月給はもらってないでしょう」という吉國さんの話を聞いた時、校長が念を押した理由に気づきました。実際に学校に通うためには、授業料などの他に経費も必要で、わずか1ヵ月のために大金を払ってまで子供を学校に通わせる理由が、校長には見当がつかなかったのでしょう。吉國さんの話によれば、80年の独立以来、無償だった小学校が、2年前から有償になっているようでした。白人地区に住むアフリカ人の子供を同じ学校に通わせたくないための措置だそうで、植民地時代の良き思い出を捨てきれない反動勢力の巻き返しといったところでしょうか。制服が買えないで学校に行けないアフリカ人も多いと聞くのに、1学期に500ドルも一体誰が払えるというのでしょうか。

そういった事情があるにしろ、校長も好意的な感じでしたし、まだ決まったわけではありませんが、先ずは一安心、週明けに教育省に行けば手続きも、予想していたよりは簡単に済みそうな感じでしたが、そうは行きませんでした。

月曜日の朝、教育省に行きました。建物に入ると、長い人の列、入場者は手荷物検査を受けていて、なかなか順番がまわって来ません。小学校の入学の許可証をもらうだけなのに手荷物まで検査されるとは。

受け付けで指示された部屋に行き、一から事情を説明すると、分かったから次の人のところへ行けということです。今度は女性で、また、一から説明です。少し時間はかかりましたが、やはり分かりましたと言い、教育省の便箋にタイプを打って書類を作ってくれました。正式な許可証のようです。これを持って移民局に行って下さいと言います。書類を見ると、移民局長から出されている貴殿の在外研究員許可証に従って、小学校への入学許可を認めると書いてありました。さて、次は移民局です。何人もの人に場所を尋ねて、移民局に辿り着くと、また長蛇の列で、1時間以上待たされました。やっと順番が来て、また一からの説明です。

「以下のものを揃えて来て下さい。

一、それぞれの子供に対する校長からの推薦状2通、

一、子供のレントゲン撮影の公立病院での証明書2通、

  • 親の承諾書1通、

一、保証人の推薦状1通、

一、外国通貨で経費を支払える証明書1通、

一、登録費1人151ドル2名分302ドル。

よろしいですか。はい、次の方」

それで終わりでした。病院を探しだし、子供たちを連れてレントゲンの撮影に行かなければならないと思うだけで気が滅入ってきます。

その夜はただ疲れ果てて、何もせずに寝てしまいました。その後2日間は学校に出向く気が起こりませんでしたが、3日後に意を決して妻と2人で、再び校長を訪ねました。今までの経緯を話し、移民局からたくさんの提出物を求められたが、来たばかりの私たちには子供を病院に連れて行くのも大変です、校長の裁量で何とかなりませんか、わずか1ヵ月のことでもあるし、お金はきちんとお支払いしますからと目を見据えながら訴えました。これから先の手続きの煩わしさを考えたら、もし効めがあるものなら少々の寄付金を出してもいいとさえ思ったほどです。その思いが通じたのか、しばらく考えたあと、校長は「分かりました、移民局は無視しましょう。学校から手紙を出しますから、その手紙が着いたら、郵便局で経費を支払い、領収書を持って学校へ来て下さい。そのからもう一度、学校から手紙を出します。そのあとは、PTA会費を払ったらそれで完了です。それでどうですか」と言います。それなら、最初からそのように取りはからってくれればよかったのに……。

自転車

小学校の次は、足の確保です。

教育省に出かけた日に、電話で申しこんで初めてタクシーに乗りました。「公共運輸施設はほぼ無いとお考え下さい。タクシーは当てにならないし……」と聞いていましたが、充分に利用出来そうです。窓ガラスの1部が壊れていたり、ドアの把手がないこともありますが、ショナ人の運転手も人が良さそうですし、料金も格段に安いようです。車中心の白人街には、小売店はなく、広い市街地にショッピング・センターが点在しているだけです。買物にも大学にも、自転車は必要なようです。

4日目、街まで自転車を買いに行きました。マニカ・サイクルという店のフロアには、玩具や遊具と一緒に自転車が並べられており、1台1500ドル前後の値札がついていました。事情を説明すると、それなら中古車がいいでしょう、帰る時には引き取りますよと店主が薦めます。結局、中古自転車を2台買うことにしました。1台2万円足らず、性能はあまりよくなさそうでしたが、2ヵ月半、何とか持ちこたえてくれますようにと祈るしかありませんでした。

ジンバブエ大学

次は大学です。日本経由の手紙を、吉國さんの奥さんが届けて下さったのは、4日目の朝です。

「前略

92年1月27日付けの貴殿の手紙が今日私の机に届きましたので、あなたがジンバブエに来られるための手配をする時間が十分にないように思われます。どの国の場合もそうですが、外国人が入国する際には、手続きに時間がかかります。

従いまして、貴殿の計画を新しく練りなおして下さるようお手紙を差し上げている次第です。敬具

7月7日 英語科科長代行トンプソン・ツォゾォ」

既に受け取っていた「貴殿の当大学での在外研究を歓迎いたします」という英語科からの手紙を信じて日本でも手続きを済ませてやってきたわけです。無事に税関を通り抜け、既に家を借りて生活を始めています。まさかそんな手紙が日本に送られ、その手紙が転送されていようとは夢にも思いませんでした。

「予期せぬ事態」も次々と起こるし、小学校、教育省、移民局、市役所や銀行にも足を運ばねばならず、大学に出かけたのは2週目の半ばを過ぎてからで、直接、T・K・Tsodzoと書かれた部屋の戸を叩きました。授業中なのか、部屋の中に数人の学生の姿が見えます。人懐っこいアフリカ人の顔が現われました。この人がツォゾォさんに違いない。私の名前を告げると、一瞬困惑の表情が浮かぶ。きっと、7月7日に書いた手紙を思い出したのでしょう。

ツォゾォ氏は学生に何やら指示を与えてから部屋を出て、ついて来て下さいと言う。廊下を少し歩いて行くと、そこは英語科の部屋でした。事務員の若い3人のアフリカ人女性に紹介を済ませたあと、ツォゾォさんは、さあどうぞと別室に私を招じ入れてくれました。狭い部屋です。ドアには科長室と書かれていました。教育省や移民局などで鍛えられて、少しは英語に慣れてきていたせいか、ツォゾォさんの陽気な冗舌に誘われてでしょうか、私の方も言葉が滑らかに出てきました。2時間ほど話をしましたが、例の手紙を意に介している様子はありませんでしたし、手紙の遅れを詫びる言葉もありませんでした。

「来れば誰でも大歓迎ですよ」

辛うじて、大学の方も一段落したようです。

白人街

アレクサンドラ・パークは白人街で、アメリカ映画「遠い夜明け」の世界です。幅の広い道路に大きな街路樹、プールやテニスコート付きの広い家……借りた家にはプールやテニスコートはありませんでしたが、両隣にはプールが、南側の家には、夜間照明つきのテニスコートがありました。

泥棒にも3分の理と言いますが、白人街に住むアフリカ人が仮に盗みを働いたとしても、アフリカ人に五分の理があると感じました。ある場合には、9分の理すらあると思えるほど、持てる白人と持たざるアフリカ人との格差が大きく見えました。

基本的に、車中心の街で車に乗るのは白人、歩くのはアフリカ人です。80年の独立以降、白人街の家1軒分にも相当するベンツを乗り回すアフリカ人もいます。しかし、それは体制側にいる一握りの「白人化」したアフリカ人で、大半のアフリカ人には車は無論のこと、自転車を持つ余裕もありません。「ここは車(金持ち)が歩行者(貧乏人)をけ散らして走るのが普通ですから……」という吉國さんの手紙の内容は、まさにその通りでした。うっかり歩行者優先などと思っていると、大変な目に遭ってしまいます。車が最優先なのです。歩行者用の青信号の短かいこと、青になったとたんにもう点滅が始まっていると思えるほどでした。老人や身体の不自由な人は、到底信号は渡れません。乗用車に限らず、車は猛スピードを上げて走ります。広い道路を渡るのも命懸けだと最初は思いましたが、慣れるとそれほどの緊張感を持たずに道路を渡れるようになります。

歩く方も、知恵を絞ります。少し広い空き地には、蜘蛛の巣のように小道が出来ています。長い距離を少しでも縮めるためです。

ほとんどの白人は家の中に入るまで車を降りようとはしません。門まで来ると、クラクションを鳴らします。その音ですぐに庭師が走り出てきて、門の鍵を開けるのです。車を車庫に入れている間に庭師が鍵を閉めて、車庫に急ぎます。荷物があれば庭師が家の中に運びこみます。スーパーでも、買物の重い荷物を運ぶのは店員のアフリカ人で、白人は当然のように表情も変えず、わずかなチップを渡すだけです。

鍵の国

入居の日に、吉國さんの奥さんから、鍵の束といっしょに陶器の食器から銀のスプーンに至るまでの調度品の明細が書かれている用紙の分厚い束を渡されました。家主にしてみれば、独立以来風向きも変わって住みづらくなってきた今、家を貸して大金も欲しい、かといって我が家の宝ものを盗まれるのもかなわない、そんな心の葛藤に苦しんだ末に、この明細書を書いたのでしょう。家にある品物はどれも古くて趣味の悪いものばかりです。保証金2000ドルを取っていても、おばあさんの目には、日本はよほど未開で、野蛮な国と映っているようです。

鍵の束は、重いものでした。普段出入りする門、玄関、居間、台所の鍵の他にも何本かの鍵がついていて、その一つ一つが大きいのです。鍵を使って、まず玄関に入ります。ドアにはチェーンロックと鍵穴の上下に2つ止め金がついている4重式です。2畳ほどの空間に、電話台が置いてあり、左は寝室と風呂、トイレ、正面は食堂、右手は居間に通じていますが、すべての戸に鍵穴があるのです。どのドアも、内と外の両側から鍵がかけられるようになっていました。机にはどの抽出にも鍵がかかっています。台所では、冷蔵庫にまで鍵がついていました。

家の中だけではありません。街のいたるところ、鍵、鍵、鍵です。レストランのトイレではトイレットペーパーにまで鍵がかかっていました。兼好法師ではありませんが、この鍵なからましかば、と溜息が出てきました。

大学では、ツォゾォさんも大きな鍵の束を持っていました。机の鍵を開けて、抽出の中からビデオテープを取り出した時には、ビデオテープが貴重品であるのを肌で感じました。窓の鉄格子と鍵を束ねる大きな金の輪には、最後まで馴染めませんでした。

ある日、台所の戸棚を開けて、またびっくりです。透明のナイロン袋に入った30個ほどはあると思われる鍵の山が見つかったのです。台所の違う箇所にも、居間の机の引き戸の中にも、同じような鍵が入っていました。使いふるしなのか、予備の鍵なのかは分かりませんでしたが、一度にそんなにたくさんの鍵を見た経験がなかったので、何か見てはならない暗部を覗き見る思いでした。

鍵だけではありません。一番大きな寝室の厚板ガラスの一枚を除いて、すべての窓に鉄製の格子が取り付けられていたのです。監獄のようなものでなく、花柄の模様が多かったのですが、確かに格子です。外からの侵入者を防げるかも知れませんが、中からも出られません。警察とは別に、その地区全体で私設のガードマンも雇っているようですし、玄関には「24時間警備会社と契約中」の掲示もあります。敷地内には見張り役の「庭師」や「番犬」もいますし、大きな塀もあります。生き垣の下には金網も張ってあるし、あちらにもこちらにも鍵がかけられています。それでも窓には格子です。私には白い花柄の鉄格子が、穏やかな言葉を操りながら、残虐な侵略行為を朝飯前にやってのけたイギリス人入植者の分身に思えてなりませんでした。

1日24時間扱き使われて「130ドル」では、車を盗もうと思っても不思議ではありません。うまく捌ければ、何年分ものお金にもなります。自転車なら更に盗み易く、鍵など掛かっていても、担いでいけばいいのです。自転車を停めて、ちょっとよそ見をして振り向くと、自転車がなくなっていた、といっても冗談ではないほどの状況でした。大学でも状況は同じで、廊下や部屋の中まで自転車を持ち込む光景を何度も見かけました。私も買物に行ったときは、標識の鉄柱か店の横の鉄柵か金網に、大学では階段の鉄の手摺りか鉄の支柱にチェーンロックをかけましたが、わびしい思いが先に立ちました。門には電灯もブザーもありません。必要性がないからです。危険なので夜間外出は差し控えますし、仮に出掛けても客が来ても、門の前でクラクションを鳴らせば、誰かが呼べるのです。車の中にいる限りは安全なのですから。

門の前で、アフリカ人が口笛を吹く光景をよく見かけました。ブザーがないから、広い敷地内の片隅にいる「庭師」や家の中の「メイド」を呼び出していたのです。垣根越しの会話もよく見かけました。縁者でも恋人でも、中に入れてはもらえないようでした。口笛で合図を送って呼び出せても、門をはさんでの会話が許されるだけとは切ない限りです。

そんな中で生活していると、生い茂る街路樹や聳える大木は、初期の入植者たちが、理不尽な侵略で荒んだ心とアフリカ人への恐怖心を和らげるために植え付けたのではないかと思えてなりませんでした。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2005年

収録・公開

mon-monde 創刊号 14~24ペイジ

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ジンバブエ滞在記 1992年ハラレ 1 初めてのアフリカ(134KB)