1976~89年の執筆物

概要

高校に在籍したままで修士課程に行きましたが、そこでの目標は、「高校での5年間で心身ともに疲れ果てたので出来るだけ寝る」ことでしたが、公費で通っている手前、修士論文も書かないわけにはいかず、その題材に大学の頃に惹かれながらそのままにしていたリチャード・ライトを選びました。

ミシシッピに生まれ、常に疎外感を感じながら自分の居場所を探し求めたライトに惹かれたのは、僕が、家にも、学校にも、地域社会にもいつも疎外感ばかりを感じていたからでしょう。生きる命題も見つからず無為に時を過ごしていましたので、余計に惹かれたのかも知れません。それに、自分を疎外したアメリカ社会への抗議を超えた、もっと普遍的なテーマへの模索を始めていたライトに自らを投影したかったのかも知れません。それに、圧倒的な文章の力を感じたのも、大きな要因だったと思います。

修士論文では、「地下にひそむ男」(“The Man Who Lived Underground”) を手がかりに、そんなテーマの普遍性を追い求めたライトと代表作を扱って『リチャード・ライトの世界』 (Richard Wright and His World) を書きました。

1981年には、はじめてアメリカに行き、ファーブルさん (Michel Fabre) の伝記 The Unfinished Quest of Richard Wright の巻末にある文献目録を片手に、シカゴとニューヨークの古本屋や図書館を巡って資料を探しました。ニューヨークの古本屋のうずたかく積まれた本の山の中からで「地下にひそむ男」が収められている選集Cross-Section を見つけ出しました。今から思いますと、1944年と言えば第二次大戦中で、そんな時に発行された本がはじめて行った古本屋でよくも見つかったものだと感心せざるを得ません。87年に再びその古本屋を探しましたが、すでにありませんでした。

日本ではライトの資料も手に入れ難かったこともあり、神戸市外国語大学を拠点に1950年代から活動を続けていた黒人研究の会に入ったのもその頃で、その機関誌『黒人研究』にこの「リチャード・ライト作『地下にひそむ男』―出版の経緯に触れてー」を寄せました。修士論文を書いたり、初めてアメリカに行った中から生まれたもので、「学術的な」最初の作品、ということになります。

「黒人研究」52号 (1982) 1-4ペイジ

本文

リチャード・ライト作『地下にひそむ男』―出版の経緯に触れてー

この作品が中篇とはいえ、黒人・白人の枠を超えて読者に訴えかけるのは、展開のおもしろさと表現上の工夫に加えて、テーマの普遍性と新しい視点に負う所が多い。この小説は、一部分も含めて、Accent 誌、Cross-Section 誌及び短編集『八人の男』(Eight Men) の中に “The Man Who Lived Underground" のタイトルで作品が収録されているが、この小論ではその出版の経緯に触れた上で、テーマと視点の面から「地下にひそむ男」の評価を試みたいと思う。

ライトは1941年の終りには150ペイジからなるこの作品の草稿を仕上げており、脱稿後直ちに翌年の春を出版のめどに、草稿をHarper’s社に送っているが出版を断られている。注1 同年12月には、Accent誌の刊行を始めていた友人Kerker Quinnにその草稿の一部を与えており、それが翌年の同誌春季号の170ペイジから 176ペイジに「ある小説からの二つの抜粋」と副題が付された小篇として収載されている。注2 1942年度中にはHarper’s社にならったCosmopolitanMacall’s MagazineThe Atlantic Monthlyにも出版を断られているが、それは単行本としては作品が短か過ぎて展開の統一性に欠けている理由からであった。又、その草稿が1940年にベストセラーになった『アメリカの息子』(Native Son) に匹敵するだけの作品かどうかの確信が、出版者側に持てなかった事にもよる。注3 結局、1944年にそれまでライトの出版に尽力して来た友人Edwin Seaverが、新人発掘を目的とした選集Cross-Section誌にこの作品を収載するまでまとまった形では公にされていない。注4 尚、作品は同誌の58ペイジから102ペイジに収められているが、最初の草稿にあったとされる場面が大幅に削られている。その削られた部分には、警察の暴挙により逮捕され不当な拷問を受けた末、無実の殺人罪を押し着せられた主人公の黒人青年が、隙を見て逃亡する場面が扱われている。注5 その後1960年には、Cross-Section誌に発表されたものと同一の作品が、短編集『八人の男』の中に収録されている。その短篇集は同年のライトの死によって翌1961年の出版になっているが、著者自らが編集し、配列した集大成とも言える内容の作品であるので、短編集の中に収められた作品を完成版と呼んで差しつかえないと考える。従って現在、1941年脱稿の草稿、1942年にAccent 誌に発表された小篇、及び1944年にCross-Section誌に収められ、後に『八人の男』の中に収録された完成版とが存在していることになる。草稿が未出版であるので三者を比較考察する事は出来ないが、草稿の一部と見られる小篇と完成版を比べる限り、完成版は小篇にかなりの手が加えられたものである事がわかる。もっとも、小篇には完成版に見られない表現も散見されるし、それが150ペイジの草稿からの7ペイジ足らずの短い抜粋である事も考える必要はある。しかしながら、抜粋という副題から考えて、その7ペイジ足らずがほぼ草稿のままで発表されたと見られる小篇に、完成版ではかなりの加筆が認められる事、更に、先に記したように完成版を発表する際に草稿が大幅に削られた事から判断して、完成版は草稿にかなりの手が加えられたものであると推察できる。

以上の経緯から、完成版を評価する際には小篇に触れるのが妥当だと思えるのだが、その小篇が、「地下にひそむ男」の作品評価の対象には現在なっていない。その理由は、それが草稿の抜粋である上、量が非常に僅かなことによると思う。しかし、逃亡後下水溝に逃れた主人公の地下での場面の一部を扱った小篇が、この作品全体のテーマに係る重要な部分の抜粋であり、「地下にひそむ男」の評価に関する重要な手掛りを握っていると思われるので、ここではまず小篇の考察を終えてから、この<地下作品>の評価をはかりたい。

Accent 誌の小篇は、副題の「ある小説からの二つの抜粋」が示す通り、二つの部分で構成されている。前半はほぼ3ペイジ半の分量で、下水溝から主人公が後に隠れ家と決め込む空洞に入るところから始まり、その空洞内で盗んで来た様々な「戦利品」を使って、例えば、天井から電気を引いて電燈をつけたり、膠を塗りつけた壁に紙幣を張りめぐらしたり、タイプライターを打つ場面が中心に描かれている。そして、その遊びに飽きてしまった主人公が、再び下水溝の中へ探険に出かけて行き、その途中で下水の窪みに落ち込むが、持っていた棒きれで九死に一生を得る箇所で終っている。後半は3ペイジ足らずの量で、主人公が空洞内で眠りから醒める場面で始まり、紙幣を張りめぐらした壁に、今度は釘を打ちつけ、そこに時計や指輪を吊り下げたり、ピストルを試射したり、或は泥の床にばらまいたダイヤモンドを踏みつけたりする場面が中心に描かれている。そして、壁をみつめながら道具箱の上に腰を下ろし、莨に火をつけ、深く物事を考えた様子で、主人公が首を横に振る場面で終っている。

抜粋という形式を取った短いこの小篇から受ける印象は全体を通じて非常に曖昧である。例えば、主人公がどういう名のどんな人物で、なぜ地下に居るのか、又、紙幣やダイヤモンドがどこから持って来られたものなのか・・・それらについては殆んど記述がなされていない。只、タイプを打つ時に、「長い暑い日でした」(it was a long hot day)とやったり、契約書に見たてた用紙を手にして架空の人物に向って「はい、明日までに契約書を用意しておきます」と言った後、全く奴ら (they) のやる通りだとつぶやいたりする。或は自らを、朝食後の葉巻きを吸いながら散歩する富豪に仕立てて空洞内を歩いたりするといったことから、おそらく主人公が、いつも金持ちの白人を羨しげに眺めている黒人青年ではと想像するのは可能だが、それも明確なものではない。又、紙幣を張りめぐらした空洞を自分の隠れ家と決め込むところから何らかの理由で逃亡している事はわかるが、その原因は示されていない。或は紙幣にしてもダイヤモンドにしても最初から定冠詞が付されていて、それがどうして地下に持ち込まれたのかは明らかではない。更に、登場人物が主人公一人である上、大半が空洞内での主人公の行動についての記述になっている為、作品全体は単調で緊迫感に欠けている点は否めない。しかし、逆にその描写や記述の為に、かえって二つの姿が浮き彫りにされていると私は考える。一つは、主人公が紙幣を壁に張ったり、ダイヤモンドを踏んづけたりする中で執拗にその価値を問いかけている地上世界の姿であり、もう―つは、地下の空洞内での問いかけを通して、社会や自己について目覚める主人公の姿である。地上で価値あるものとされる紙幣もダイヤモンドも、地下の主人公には壁に張り、泥の床に踏みつける遊び道具に過ぎなかった。又、地上では意識の基準とされる時間も、地下の青年にはもはや意識する必要性のないものに過ぎなかった。壁に紙幣を張り終えた青年は「これで地上世界に勝った」と考える。又、それらの金品は「使う」ために盗んで来たのではなく、人があたかも森から薪を拾って来るように取って来たに過ぎないのだと考える。そう考える主人公には、地上世界が死臭に満ちている荒涼とした森のように見えて来たのである。その地上世界に拒まれた自分、その地上世界から逃れて来た自分とは一体何か。刻明な描写と記述を通して、社会の価値観や社会の中に於ける自分の存在についての問いかけを浮き彫りにしたこの小篇は、草稿からの一部の抜粋である短いものに過ぎないが、完成版のテーマに係る重要な問題部分を扱っており、この<地下作品>の評価への大きな手掛りを含んでいると考えるのである。

Accent誌のこの小篇と同様にCross-Section誌に収められた作品も二つの部分で構成されていて、その前半は、ほぼ30ペイジ分の量から成っている。官憲に無実の殺人罪を押し着せられた主人公の黒人青年フレッド・ダニエルズ (Fred Daniels) が、逃亡中、偶然の出来事からマンホール伝いに下水溝に逃げ込む緊迫した場面で始っている。そして、地下で旧下水道の空洞を発見し、そこを拠点に色々な地下室に侵入して相手に見られることなく地上世界の「現実の裏面」を垣間見たり、そこから持ち帰った紙幣やダイヤモンドを使い空洞内で遊びに興じる場面が中心に描かれている。その体験と遊びを通して地上社会の本当の姿や自分自身の存在に気づいた主人公は、その事を告げたい衝動を抑え切れず再び地上に戻る事を決意する。そして、地上に戻る途中、彼のせいで無実の罪の嫌疑をかけられ咎め立てを受けているラジオ店の少年の姿と、同じ様に咎め立てを受け、その責め苦に耐えかねた末自殺を図って死んで行く宝石店の夜警の姿を覗き見る所で終っている。後半は、ほほ14ペイジの分量で、主人公が地上に戻る所から始まり、無意識のうちに辿り着いた警察署での場面が中心に描かれている。そこで青年は、既に真犯人が捕えられている為に自分が自由の身であることを知る。それにもかかわらず、地下生活を通して知り得た真実を告げたいという思いが捨てられず、警官たちを自分が出入したマンホールの所まで案内する。しかし、地下生活から獲得した視点を明らかにしようとした彼の思惑とは裏腹に、その中の一人の警官の手にする銃に撃たれて、主人公が下水の中に消し去られる場面で終っている。

作品全体は、表現上数々の工夫がなされて緊迫感に満ちている。その中で浮き彫りにされるものは次の三点である。(1) 主人公が地下から覗き見た日常性に埋没している地上世界の人々の姿、(2) そのような人々の生活する虚偽と死臭に満ちた地上世界の姿、(3) そうした地上世界から追われて地下に逃げ込んだ結果知り得た自分の本然的な姿である。その (1) の日常性に埋没している地上世界の人々の姿については、主人公が垣間見た教会と映画館に関する場面があげられる。彼は地下から二度教会で歌う人々の姿を見る。最初、その光景を見て「何かひどく嫌なものを眺めている」(62ペイジ)注6と感じるが、その理由はわからなかった。二度目、その光景を見た時には「あいつらは間違っている」(85ペイジ)とつぶやいた後「あいつらは決して見つけられない幸せを求めようとするから、思い出す事も納得する事も出来ない何か恐しい罪を犯してしまったと感じるんだ」(85ペイジ)と考える。又、人が一旦その罪を感じると「意識では忘れていても、日常生活の中でいつも不安な状態を作り出すんだ」(85ペイジ)と主人公はその理由に気づく。又、映画館に入り込んだダニエルズは、映画に興じる人々を見て、教会の人たちを見て感じたのと同じ衝動を抱く。「この人たちは、自分の人生を嘲笑っているのだ」(65ペイジ)と思い、又、 奴らは自分たちの動く影に向って叫んだりわめいたりしているのだ」(65ペイジ)と哀れむ。更に、「この人たちは子供なのであり、生きている時には眠っていて、死にかけた時に目覚めるのだ」(65ペイジ)と考えてため息をつく。

(2) の虚偽と死臭に満ちた地上世界の姿に関しては、下水に流されている赤子の死体を見た場面、宝石店で、ある男が金庫から金を盗むのを覗き見た場面、或は主人公の盗みのせいで無実の罪の咎め立てを受けているラジオ屋の少年と宝石店の夜警の姿を垣間見る場面があげられる。更に、地上に戻った主人公が警官の手によって下水に流し去られてしまう場面もあげられよう。最初、下水溝を歩いていた主人公は、塵芥に交って流れる赤子の姿を見た時、まだ生きていると考えて一度は救おうとするが、死んでいる事に気づいてぎくりとする。その時、彼は教会で歌う人々から受けたと同じむなしさを味わうと同時に、警官に咎められた時と同じ感情を抱く。赤子は、眠っているように目を閉じ、無言の抗議をしているかの様に拳を握りしめていた。彼を地下に追いやった地上世界は、無垢な赤ん坊を下水に流し去るような人間の住む世界であった。又、宝石店で、偶然から金が一杯詰った金庫の中を覗き得た彼は、一度は大金の感触を味わってみたい感情から「盗み」を思い着き、金庫が再び開けられるのを待つ。閉店時かと思われた時、白い手が金庫のダイヤルに触れ、金庫は開けられ、ある男が金を持ち去って行った。ダニエルズは、自分の「盗み」は単に大金を手にする感動を味わいたい為で、おそらく快楽の為に使うその男の盗みとは違うのだと考える。閉店間際に忍び入って来て、いとも簡単に金庫を開けたその男は、実は店内の事情に詳しい内部の者ではなかったか。注7 その後、主人公が金庫内の金品を総て持ち去った為に、盗みの嫌疑を受け咎められる宝石店の夜警の姿を見るが、主人公は「現実に盗みを働いたその男が咎められていない」(87ペイジ)ことを苦々しく思う。地上世界は、信頼されるべき内部の人間でさえ盗みを働く所でしかなかった。そして、ダニエルズは、彼のせいで無実の窃盗罪を押し着せられ咎め立てを受けるラジオ屋の少年と前述の宝石店の夜警の姿を見ることになる。その夜警を厳しく責め立てていたのは、ダニエルズを拷問し、彼に無実の罪を押し着せた同じ三人の警官たちであった。責め苦に堪えかねたのか、夜警は自殺を図る。その光景を前にして、彼は地下から飛び出して行き彼らに真実を告げてやろうかと考えるが「夜警は罪を犯している。今責められている犯罪については無実であったとしても、彼はいつも罪を犯しているし、今までずっと罪を犯していたのだ」(87ペイジ)と考えて彼は思いとどまる。結局、その夜警は自らピストルを使って死んで行くが、その死体を前にして警官たちは次のように言う。

「わしらの予感は正しかった。やっぱりこいつがやっていたんだ」

「よし、これでこの件も片づいた」(88ペイジ)

そんな光景を目の当りにしたダニエルズは、その後長くその場を立ち去れず暗闇の中に立ち尽す。地上世界とは、無実の人間が咎められない所でしかなかった。最後は、主人公が警官の手により下水に流し去れる場面に関してである。ダニエルズは、自分が地下生活の体験から得たものを立証する為に、先ず自らマンホール伝いに下水溝に降りて行く。下水の流れに立って、マンホールを覗き込んでいる警官たちに、自分に続いて入って来るように叫ぶが、警官のひとりがダニエルズをいとも簡単に銃で撃ってしまう。撃った後警官たちは次のような会話を交す。

「なぜあいつを撃ったんだ、ローソン」

「やらなきゃならんかったんだ」

「どうしてだ」

「ああいう手合いは撃たんといかん。あいつら物事を目茶苦茶にするからな」(101~102ペイジ)

地上世界は、官憲が代表するような体制の暴挙や不条理がまかり通る所で、物事をまるくおさめる為に無罪の人を咎めたり、邪魔者は虫けら同然に切り捨てる所でしかなかった。ダニエルズ主人公が地下から垣間見た地上世界は、そんな欺瞞と死臭に満ち溢れた世界であった。

(3) のそうした地上世界から追われて地下に逃げ込んだ結果知り得た自分の本然的な姿とは一体何であろうか。主人公は侵入した様々の地下室から「戦利品」を空洞内に持ち込んで「遊び」を繰り広げる。紙幣を壁に張りめぐらし、その壁に釘を打ちつけ、指輪や時計を吊り下げる。泥床にダイヤモンドやコインをばらまいて踏んづける。それらは総て、自分に犯罪人の烙印を押した地上世界への挑戦であり、虚偽に満ち溢れた地上社会の価値観に対する烈しい問いかけに他ならなかった。地下の主人公には、宝石店から盗んだ宝石も、肉屋から持ち帰った庖丁も同レベルの遊び道具としての価値しか持たなかった。又、地上では、時を「意識の王座」に着かせているが、昼夜の区別すらない地下にいて、社会から隔絶された彼には,もはや時を意識する必要性もなかったのである。

このように見てくると、この作品には主人公が黒人である必然性が必ずしもないとも考えられるが、それはライト自身が意図したことでもあった。ライトはこの作品の草稿を書き終えた後の1941年12月13日に、友人Paul R. Reynolds に当てて「自分がまともに黒人・白人問題を超えて一歩踏み出したのは初めてのことだ・・・」という手紙を送っているのである。注8又、この作品は数々の問題を提起している。虚偽に満ちた社会への疑問、日常の惰性に気づかぬ人々への批判、権力の暴挙に対する抗議、或はその社会の価値観に対する問いかけ、或はそんな社会の中で現に生活し、苦悶している自分の存在への不安、これら総ては、現在の社会にも相通じる問題である。従って、この作品の中で扱われているテーマは、ライト自身が意図したように,人種の枠を超え時代を超えた普遍性を備えていたと言える。更に、テーマの普遍性に加えて見逃してならないのは視点の問題である。つまり、主人公が多くの体験を通して社会や自己の存在について考え、その本当の姿に気づき目覚めたのが、日常性に埋没した地上世界に於いてではなく、むしろ異常とも言える地下世界からであり、主人公が垣間見たものは「さかさの現実」ではなくて、「現実の裏面」であったという新たな視点である。先にライトは『アメリカの息子』に於いて、黒人青年ビガーが白人娘メアリーを殺害したのは、黒人を隔離し続けて来た白人のアメリカ社会が産んだ所産だと決めつけ、烈しく白人社会に抗議した。この作品に見られるテーマの普遍性と新たな視点は、その『アメリカの息子』に見られる抗議的色彩の濃いテーマや視点を一歩踏み超えたものであったとは言えないであろうか。

又、そのテーマの普遍性と新たな視点からメタファーが生まれている。例えば、虚偽に満ちた地上世界が、あの「アメリカの息子」を生んだアメリカ社会の姿であるとすれば、悪臭に満ちた地下の排泄溝の世界は、白人には見えない、隔離された黒人社会の姿であると考えられる。或は夜警を死に追いやり、ダニエルズを虫けらの如く下水に流し去った権力の横暴が、正に不条理を孕む白人アメリカ社会の象徴であるとすれば、下水溝の中を塵芥に交って流れ去る黒人青年ダニエルズは、その白人至上主義社会で何の力も持たない黒人社会の化身であるとも考えられる。

完成版としての中篇作「地下にひそむ男」が、普遍的なテーマを扱い、新たな視点を備え、しかも黒人社会を暗喩(メタファー)として扱った点で、ライト自身の黒人作家としでの自己意識も失われていない作品であり、人種の枠を超え、時代の枠を超えて人々に訴えかける小説であると考えるのである。Edwin Seaverは1945年のCross-Section誌の序文で、前年に収載したこのライトの小説を 'excellent’ という語で形容しているが、注9 私もそれに賛成の意を表したいと思うのである。最後に、この作品が、既に1956年には、ハックスリー、トルストイ、モーパッサン、サロヤンと並んで『クインテット-世界最傑作中篇小説5篇』(Quintet – 5 of the World’s Greatest Short Novels) の中に収録されていることを付け加えてこの小論を終えたいと思う。注10

<注>

注1 Michel Fabre: The Unfinished Quest of Richard Wright,William Morrow & Company, 1973.

注2 Ibid., pp. 241, 575. 尚、Accent 誌は1940年の秋から開始された季刊誌で、この作品が収載されている春季号はVol.Ⅱ (Autumn, 1941 – Summer, 1942) に含まれている。

注3 Ibid., p.241. Michel Fabreは以下の記述をしている。

“It may also have been too short or tracking unity, considering the abrupt change from the realistic style of the police brutality in the first chapters to the more metaphoric,・・・”

注4 同誌にはA Collection of New American Writingの副題が付きれており、その序文で Edwin Seaverは、その語彙 'American’ は、アメリカ人によって書かれたというだけの意味であり 'New’ は今まで出版されていないという意味に過ぎないと予め断り、色々な事情から出版されない主として1940年代の作品の発掘が出来ればとの主旨を述べている。

注5 Michel Fabre: op. cit., p. 240.

注6 引用文はCross-Section (ed. Edwin Seaver, L. B. Fisher, New York, 1944) 誌中の本文による。以下、括弧内にペイジ数を記している。尚、日本語訳は赤松光雄・田島恒男訳『八人の男』(晶文社、1969年)を参考にした。

注7 この点は、古川博巳氏の直接の御指摘による。

注8 Michel Fabre: op. cit., p. 240.

注9 その序文には次のような記述がある。"I don’t mean to say that if I had not included Richard Wright’s The Man Who Lived Underground and Ira Wolfert’s My Wife The Witch in the first Cross-Section, these excellent novelettes would have gone unpublished forever."

注10 古川博巳著『黒人文学入門』 (創元社、1973年), 202ペイジ参照。

執筆年

1982年

収録・公開

「黒人研究」52号1-4ペイジ

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リチャード・ライト作『地下にひそむ男』のテーマと視点(78KB)

2000~09年の執筆物

概要

日本と深い繋がりのある南アフリカを、南アフリカの歴史を軸に、エイズなどの諸問題を通してすかし見える人間の哀しい性について論じたものです。20年近く英語やアフリカ文化論の授業の中出で取り上げて来たテーマの一つを、南アフリカという題材を通して論じたものでもあります。

本文(写真作業中)

目次1章(はじめに)15章(哀しき人間の性)南アフリカ小史奥付けを載せています。↓

目次

1章 はじめに 3
2章 「アフリカの蹄」 4
3章 南アフリカ概観 6
4章 アフリカ史のなかで 9
5章 ヨーロッパ人とリザーブ 12
6章 アパルトヘイトと抵抗運動 15
7章 ロバート・マンガリソ・ソブクウェ 19
8章 武力闘争 24
9章 アレックス・ラ・グーマ 26
10章 バンツー・スティーヴン・ビコ 28
11章 セスゥル・エイブラハムズ 30
12章 体制を支えたもの 35
13章 ネルソン・マンデラの釈放 39
14章 エイズと『アフリカの瞳』 43
15章 哀しき人間の性 52
註 57
南アフリカ小史 62

1章(はじめに)

この小冊子は、「アフリカ文化論」「南アフリカ概論」などの授業で話した内容をまとめたものです。

書く空間を求めて辿り着いた宮崎医科大学は旧宮崎大学と統合して宮崎大学となり、今はそこで英語と一般教養の科目などを担当しています。

授業では、折角大学で学ぶ空間を得た人に、価値観や歴史観を問い直してもらえればと考えて、アフリカなどを題材に取り上げています。アフリカ史を辿れば、英語が一番侵略的だった英国の言葉であることも、白人優位・黒人蔑視の思想が都合よく捏造されて来たことも判ります。アフロ・アメリカ史を見れば、今日のアメリカの繁栄が奴隷貿易や奴隷制の上に築き挙げられたことも分かりますし、全てが過去の出来事の羅列ではなく、過去から繋がっている現在の問題であることにも気づきます。

元来、自由な空間で培う素養は大切なものです。素養が価値観や歴史観の基盤でもあり、生き方を決める要素でもあるからです。大学に入学するために大量の知識を詰め込んできた人に、今までの歴史観や考え方そのものを揺さぶるような話をして、「さすがは大学だ」と思ってもらえるような授業がしたいといつも思っています。この小冊子が、自分自身について考えるための一助になれば嬉しい限りです。

1章ではこの小冊子の生まれた経緯を、2章では「アフリカの蹄」の中の問いかけを、3章では南アフリカの地理や言語などの紹介を、4章ではアフリカ史の中での南アフリカを、5章ではヨーロッパ人入植者が打ち立てた搾取機構を、6章ではアパルトヘイト体制とアフリカ人の抵抗運動を、7章では抵抗運動を指導したソブクウェを、8章では武力闘争の経緯を、9章ではアパルトヘイト体制下の作家ラ・グーマを、10章ではカナダで出会った学者エイブラハムズさんを、11章では黒人意識運動の指導者ビコを、12章ではアパルトヘイト体制を支えた実体を、13章ではマンデラの釈放とその後の実状を、14章ではエイズの実態を、15章では人間の性についての正直な思いを綴っています。

最後に、註と南アフリカ小史を載せました。

15章(哀しき人間の性)

哀しき人間の性

長々と南アフリカの歴史を辿って来たわけですが、そこに浮かび上がって来るのは、侵略という行為を通して透かして見える哀しい人間の性です。

最初は、直接侵略に関わったオランダ人、イギリス人入植者においてです。ヨーロッパ人はある日、片手に聖書、もう片方の手に銃を携えて南アフリカに現われました。力ずくでアフリカ人から土地を奪って無産者に仕立て、種々の税を課して、大量の安価な労働力を産み出しました。そして、アフリカ人に金やダイヤを掘らせては巨万の富を築きます。搾取体制を守るために連合国家を作り、反対するものは自分たちの作った法律で罰して「合法的に」排除、抹殺してきたのです。いいものを食べたい、広い土地に住みたいという個々の欲望が集まって総体的な意思となりました。植民地政策は本国を潤し、世論にも支持され続けました。

次にその白人王国に群がり、手を携えて共に甘い汁を吸い続けて来た多くの「先進国」においてです。「先進国」は、これ以上はあからさまな搾取体制を維持出来ないことを悟ると、アパルトヘイト政権に自らが決定した法律を反故にすることを強いて「政治犯」を釈放させ、基本構造を替えない形でアフリカ人政権を誕生させました。

そして、新アフリカ人政権においてです。未曾有のエイズ禍に苦しむ国民に抗HIV薬を供給出来ないと見るや、まだ治験の済んでいない薬を無料で配布したり、安価で販売するという暴挙に出たのです。欧米の製薬会社はエイズまでも食い物にしたわけですが、新政権の担い手の大半は、長く苦しいアパルトヘイトとの闘いを続けて来たはずです。その人たちはどうして、欧米の製薬会社の言いなりになったのでしょうか。エイズに苦しむ同胞をどうして苦しませることが出来たのでしょうか。

最後に、日本人においてです。授業で出会う学生が、「暗黒大陸」や「未開の地」というあからさまな偏見は持たないにしても、多くは「アフリカ人はかわいそう」「アフリカに文学があるとは思わなかった」「日本は、ODAを通じてかわいそうなアフリカに支援してやっている」(註27)と考えています。貿易や投資でアパルトヘイト政権を支えて莫大な利益を得たばかりか、今も形を変えてIT産業に不可欠な希少金属や電力供給に欠かせないウランなどを通して利益を得続けている現実に無関心を装い、積極的に深くを知ろうとはしません。そして、「遠い夜明け」を見ると、たくさんの人が「日本に生まれてよかった」と胸をなで下ろし、私たちに何か出来ることはありませんかと言います。アパルトヘイトの抑圧の中でも、外的要因によって自己否定して自らに見切りをつける人たちに自己意識の大切を説き、自分への希望を捨てず、国に対しても希望を育もうと語りかけたソブクウェやビコの崇高さに比べて、その無知と無関心と傲慢さに虚しさを覚えます。

そんな狭間に立って現実と直面していますとつい悲観的になって、授業の最後に「もう溜め息しか、出ませんね」と呟きましたら、受講生から次のような反論が届きました。

「『人間について考えれば考える程に絶望的になる』『人間の問題の現状について努力することは大切だけれども、ほんの少ししか変わらないか、全く変わらないかのどっちかだろうな。』という考えは十分にわかります。が、それで終わってしまうのはどうでしょうか。もちろん絶望を知ることは大切なことです。絶望と向き合うこと無しでは、何も理解出来ません。しかし、先生は、折角教壇に立てる機会を持つことが出来ているのです。私達生徒に絶望だけ、無力感だけを叩き込むのではなく『行動することで、現状はほんのわずかしか動かない。けれども、そのほんのちょっとが大事なんだ。』という方向も教えたほうが、私には社会や国にとって有益だと思えるのです。こんな考え方は短絡過ぎるでしょうか?」

その学生が指摘する通りです。溜め息をついていても、問題が解決するわけではありません。現状を正しく受け止めたうえで、少しずつでもやれることをして行くしかないでしょう。アフロ・アメリカの小説を理解したいという思いでやり始めて気がついて見れば、妙な空間に踏み入ってしまいました。以来、大学の英語や教養の授業でアフリカやアフロ・アメリカを取り上げて二十年以上になりますが、余りにも出口の見えない現実に、悲観的になり過ぎているようです。

意識や発想を変えて

人が持つ哀しい性と無力を思い知ったうえで、何が出来るかを考えたいと思います。これだけ規模が大きくなった今、世界の構造の枠組みを変えるのは不可能に近く、実質的ではありません。しかし、意識や発想を変えて枠組みの中でやれることをやって、結果的に少しは変わるというのは可能です。

ボツワナのエイズ対策事業に取り組んで成功したアーネスト・ダルコー医師の例は参考になります。

ボツワナは、四三ペイジの表にも示しましたが、極めて絶望的な状況にあった国です。ダルコーさんは医療とビジネスを両立させて、多くのエイズ患者を社会復帰させています。(註28)

三六歳のダルコーさんは、アメリカに生まれ、タンザニアとケニアで過ごしました。ハーバードで医学の資格を、オクスフォードで経営学の修士号を得た後、ニューヨーク市の経営コンサルタント会社マッキンゼー社に就職して、二〇〇一年にエイズ対策事業のためにボツワナに派遣されました。(註29)

派遣された当時、三人に一人がHIVに感染していたと言います。最初の一年間は、「夜明け」という意味の国家プロジェクトMASAの責任者として「一日最低二十二時間」は働いたそうです。感染者数を知るためにモハエ大統領にテレビでエイズ検査を受けるように呼びかけてもらう一方で、医療体制を把握するために国じゅうを隈無く調査しています。その結果、絶対的な医師不足を痛感しました。周辺国に呼びかけ破格の給料を出して数年契約で医師を雇い入れると同時に、国内でも医師を育成し、現場に二千二百人の医師を配置しました。

最大の問題は薬でしたが、アメリカの製薬会社と交渉し、患者の資料を提供する代わりにほぼ無料で薬を確保し、半数以上の患者の治療を可能にしました。

政府の資金では足りませんでしたので、「エイズ撲滅のためのプロジェクト」を展開するマイクロソフト社のビル・ゲイツと掛け合い、一兆円を引き出しています。その薬と豊富な資金を基に、ネットワークシステムを構築します。プロジェクト本部の下に四つの支部を置き、それぞれの支部にコーディネーターを配置、コーディネーターはその下にある多くの拠点病院と連携し、現場の状況に応じて薬を届けるというシステムです。ダルコーさんは学んだ経営学の知識を生かし、ウォルマートの最先端の納品システムを参考にしたと言います。二〇〇〇年に三六歳までに落ち込んでいた平均寿命は上昇に転じ、二〇二五年には五四歳に回復する可能性も出てきたと言われています。(註30)

ダルコーさんは今、エイズ対策を専門に行なうブロードリーチ・ヘルスケア社を設立して、最大のHIV感染国南アフリカのケープタウンでエイズと闘っています。現在、アフリカ十二カ国がダルコーさんのエイズ対策モデルを取り入れていると言います。

ダルコーさんは、永年のアパルトヘイト体制の影が色濃く残っている南アフリカで医師や病院に頼らずにエイズ治療が出来るシステムを開発しました。白人の利用する民間病院に医師が集中し、アフリカ人が利用する公立病院に医師が極端に少ない現状の中でシステムを機能させる必要性に迫られたからです。そのシステムでは、感染者の多い地域で雇い入れられた現地スタッフが、定められたマニュアルに従ってエイズ患者の簡単な診察を行ないます。その診断結果がファックスで出先事務所に送られます。出先事務所では、情報をパソコンに入力してデータベース化され、必要に応じてケープタウンのセンターの医師に相談します。センターでは、医師が情報を総合的に判断し、現地スタッフが患者に薬を届けるのです。医師が現場にいなくても治療が出来、一人の医師がたくさんの患者を治療するという、南アフリカの現状に即した体制です。

そのダルコーさんに、かつて「国境なき医師団」で活動した医師貫戸朋子さんがケープタウンの事務所を訪れてインタビューを試みました。「私たちはエイズとの闘いに勝てますか?」という貫戸さんの質問にダルコーさんは次のように答えました。

「もちろんです。私は不可能なことはないと自分に言いきかせています。四千万人の感染者を救うのは無理だと言う人もいます。でも、然るべき時に然るべき場所で指導力を発揮すれば、実現できます。そもそも私たちは、何故失敗するのでしょうか。それは、私たち自身の中に偏見が潜んでいるからです。その偏見に打ち克つことが出来れば、エイズは克服できるのです。恐れることなく、国民に正しいメッセージを伝えれば、必ず前進できます。一人一人が精一杯呼びかけるのです。明日は、明日こそはエイズを食い止めることが出来るのだ、と。」

インタビューを終えた貫戸さんは、困難に立ち向かっている人たちのために再び現場に立つ意欲をかき立てられたと言います。(註31)

ダルコーさんは、壊滅的な医療体制を考えれば予防を最優先すべきだと主張して欧米の製薬会社が目を向けなかったエイズ患者を救い、帚木蓬生が『アフリカの瞳』の中で託したメッセージ「私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。戦争が仕掛けられ、数百億ドルの戦費がただ破壊のためだけに空しく費やされています。その何分の一かの費用を、エイズに対する戦いにあてれば、私たちは確実に勝てるのです。」を実践したわけです。

ダルコーさんのようには出来なくても、体制の枠の中で意識の持ち方を少し変えるだけでやれることもあります。八十年代の後半に、朝日放送がジョハネスバーグの日本人学校を取材したことがあります。有名企業から派遣された「名誉白人」に話を聞いたわけです。校長は治安の悪さから子供を如何に守るかについてだけを語り、母親たちは政治的無関心を貫き通し、子どもたちは、自分の家にいるアフリカ人のメイドたちのことを「住むかわりにやっぱり働かせてあげるっていう感じで」と答えていました。(註32)もし、同じ立場に立った時に、「折角の機会なのですから、子供たちにはこちらの子供たちと友だちになって、次の時代の橋渡しをしてもらいたいと思います」と校長や母親が言い、「一緒に遊んで友だちになり、将来いつかまた戻って来て何かのお役に立ちたいと思います」と子供たちが言えれば、親の世代が続けてきた損得だけの南アフリカとの関係を少しは変えて行けます。先ずは自分を大切にし、身近な回りを大切にして行けば、相手のことも敬えてたくさんのことを学ぶことが出来るでしょう。

絶望の淵にあっても、ダルコーさんのように、まだ出来ることはあると信じて、十年一日の如く語り続けられたらと思います。

後世は畏るべし、なのですから。

南アフリカ小史 (二〇〇五年九月現在)

一六五二 東インド会社、ケープに中継基地を建設。

一七九五 イギリスの第一次ケープ占領。

一八〇六 イギリス、ケープ植民地政府樹立。

一八三三 イギリス、ケープで奴隷を解放。

一八三五 ボーア人、 内陸への大移動(グレイト・トレック)を開始。

一八三八 ブラッド・リバーの戦い (ズールー人対ボーア人)。

一八六七 キンバリーでダイアモンドを発見。

一八八〇 第一次アングロ・ボーア戦争 (~八一)。

一八八六 ヴィトヴァータースランドで金を発見。

一八九九 第二次アングロ・ボーア戦争 (~一九〇二)。

一九一〇 南アフリカ連邦成立。

一九一二 南アフリカ原住民民族会議〔後に、アフリカ民族会議(ANC)と改名〕結成。

一九一三 「原住民土地法」制定 (リザーブの設定)。

一九二一 南アフリカ共産党結成。

一九三六 「原住民代表法」・「原住民信託土地法」制定。

一九四八 国民党マラン内閣成立 (アパルトヘイト体制強化)。

一九四九 「雑婚禁止法」制定。

一九五〇 「共産主義弾圧法」制定。南アフリカ共産党禁止。「住民登録法」、「集団地域法」制定。

一九五五 クリップタウンの人民会議で自由憲章を採沢。

一九五六 「反逆罪裁判」事件開始 (~六十一)。

一九五八 パン・アフリカニスト会議(PAC)結成。

一九六〇 シャープヴィルの虐殺。ANC、PAC禁止。

一九六一 共和国宣言。ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)創設、ANC武力闘争を開始。

一九六二 ネルソン・マンデラ逮捕。

一九六三 リボニア裁判開始 (~六十四)。

一九六七 「反テロリズム法」制定。

一九七六 ソウェト蜂起。

一九七七 バンツー・スティーヴン・ビコ獄中死。ANC、ゲリラ闘争を開始。ピーター・ボタ首相政権発足。

一九七八 ロバート・マンガリソ・ソブクウェ死去。

一九八二 統一民主戦線 (UDF) 結成。スワジランドと不可侵条約締結。

一九八四 ボタ、執権大統領に就任。三人種体制発足。モザンビークと不可侵条約締結。

一九八五 アレックス・ラ・グーマ、キューバで客死。「背徳法」、「異人種間結婚禁止法」廃止。

一九八六 「パス法」廃止。

一九八七 オリバー・タンボANC議長来日し、中曽根首相と会見。

一九八八 ANC東京事務所開設 。国連総会で対南アフリカ貿易に関する日本非難の決議を採沢 。

一九八九 南アフリカ外相、米国務長官にアパルトヘイト廃止を約束 。マンデラと初会談のボタ大統領、マンデラの声明を発表 。ボタ辞任 、フレデリック・デ・クラーク、大統領に就任 。

一九九〇 マンデラ釈放。

一九九一 アパルトヘイト関連法の廃止。

一九九四 全人種参加の総選挙を実施、マンデラ政権成立。

一九九五 地方選挙を実施。

一九九七 新憲法発効。

一九九九 第二回目の総選挙実施、タボ・ムベキ大統領就任。

二〇〇四 第三回目の総選挙実施、ムベキ大統領再任。

奥付け

玉田吉行(たまだよしゆき)

四十九年、兵庫県生まれ。宮崎大学医学部医学科社会医学講座英語分野教員。英語、EMP (English for Medical Purposes)、南アフリカ概論、アフリカ論特論(教育文化学部日本語支援教育専修)などの授業を担当。

著書にAfrica and its Descendants 1 (1995), Africa and its Descendants 2 (1998) など、訳書にラ・グーマ『まして束ねし縄なれば』(九十二年)、注釈書にLa Guma, And a Threefold Cord(1991)などがある (いずれも門土社)。

「アフリカとエイズ」(二〇〇〇年)、「医学生とエイズ―ケニアの小説『ナイス・ピープル』」(二〇〇四年)、「医学生とエイズー南アフリカとエイズ治療薬」(二〇〇五年)、「医学生と新興感染症―一九九五年のエボラ出血熱騒動とコンゴをめぐって」(二〇〇六年)など、感染症に関わるエセイもある。

 

 

 

 

 

執筆年

2007年

収録・公開

横浜:門土社 64ページ

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アフリカ文化論(一)ー南アフリカの歴史と哀しき人間の性(341KB)

2000~09年の執筆物

概要

(作業中)

本文(写真作業中)

エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師 玉田吉行

ケープタウンで

南アフリカを拠点にエイズから人類を救う医療活動を行なう人が現われました。アーネスト・ダルコー医師です。蔓延するエイズ患者と高いHIVの感染率を考えれば、国そのものの存続を危ぶむ声さえ出ていましたが、医療と経営を結びつけてボツワナでエイズ患者の治療に成功しました。今はケープタウンにエイズ対策を専門に行なうブロードリーチ・ヘルスケア社を設立して南アフリカのエイズと闘っています。

アパルトヘイト体制がなくなりアフリカ人政権が誕生しても、大多数のアフリカ人の生活は変わらず、従来の貧困問題に加えて犯罪率の高さが国の荒廃に拍車をかけ、エイズが更に追い打ちをかけています。NHKスペシャル「アフリカ二十一世紀」(二〇〇二年二月二十日放映)は、南アフリカの現状を次のように報告しています。

「この国を直撃しているエイズは、アパルトヘイトと深い関係があると言われます。現在、エイズ感染者は五百万人、六人に一人、ここソウェトでは三人に一人が感染しています。アパルトヘイト時代、鉱山で隔離され、働かされていた単身者が、先ず、売買春によって感染し、自由になった今、パートナーに感染を広げているのです。」

番組では、月に一度、国立病院に薬をもらいにくる末期のエイズ患者が紹介されていますが、その女性が手にしたのはエイズ治療薬ではなく、抗生剤とビタミン剤だけでした。ウィルスの増殖を防ぐ抗HIV薬は一人当たり約百万円の費用がかかります。その年の末に、南アフリカは欧米の製薬会社と交渉してコピー薬を十分の一の価格で輸入出来るようにはなりましたが、薬の費用を政府が負担する国立病院では、感染者が余りにも多過ぎて薬代を政府が賄えなかったからです。「感染者すべてに薬を配るとすれば、年間六千億円が必要で、国家予算の三分の一を当てなければならなりません」、と報告しています。

南アフリカ政府は、激増するエイズ患者に対処するために、九十七年に「コンパルソリー・ライセンス」法を成立させました。欧米で劇的な成果をあげていた多剤療法のための抗HIV薬を安価で手に入れるためでした。しかし、欧米の製薬会社の反対にあって計画は頓挫します。その辺りの事情を帚木蓬生は小説『アフリカの瞳』(「講談社、二〇〇四年」)の中で次のように書いています。

「こうした動きとは別に、フランスの〈ル・モンド〉が日曜版の特集で、製薬会社がエイズ治療薬の知的所有権をいかに主張してきたかを詳細に報道した。ひと月前のことだ。製薬会社はこの十数年、ひとつのエイズ治療薬の開発費が最低でも三億ドルから十億ドルにのぼるのを理由に、知的所有権を譲れないと強調し続けてきた。貧しい開発途上国が、価格の大幅値引きとコピー薬の製造あるいは輸入の許可を世界貿易機関に訴えても、毎回否決され続けた。今ではエイズ治療には多剤併用が中心なので、ひとりの患者が一年間に使う薬剤費は平均して五千ドルから一万ドルだ。それは開発途上国の一人あたりの年収の十倍から二十倍に相当する。つまり現在の薬価を十分の一に下げたところで、貧しい国の患者には手の届く額ではない。それなのに、世界貿易機関は去年の八月、いかにも大英断のような顔をして、コピー薬の製造認可と、正規薬の薬価の十分の一での輸入を認めた。しかしこれは全くの御為ごかしであり、貧しい国の患者の救済にはほど遠い。〈ル・モンド〉の記事内容を翻訳紹介した英字新聞を読んだとき、作田はこれまでの自分の主張がそのままそっくり認められたような気がした。ところが記事は、さらに二歩も三歩も踏み込んだ論調を繰り広げていたのだ。記者たちは、エイズ治療薬によって得た各社のこれまでの利益を細かく計算して、具体的な数字を出していた。それによれば、十数年前に発売されたエイズ治療薬による収益は既に開発費の七、八倍に達し、開発途上国での価格を現在の千分の一に下げても、充分採算がとれていた・・・・」

永年の苦しい獄中生活や解放闘争を経験した新政府のアフリカ人が国民の生活水準の向上を願わないとは考えられませんが、経済基盤を持たない政権に、実質的な改革を求める方が無理なのでしょう。番組の中で、グレンダ・グレイ医師は政府の無策を次のように嘆いています。

「アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。アフリカ人の病気だからと切り捨てたからです。新しい政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です」。

南アフリカに

ダルコーさんはその南アフリカに行ってエイズと闘っているのです。ダルコーさんは、永年のアパルトヘイト体制の影が色濃く残っている南アフリカで医師や病院に頼らずにエイズ治療が出来るシステムを開発しました。白人の利用する民間病院に医師が集中し、アフリカ人が利用する公立病院に医師が極端に少ない現状の中でシステムを機能させる必要性に迫られたからです。そのシステムでは、感染者の多い地域で雇い入れられた現地スタッフが、定められたマニュアルに従ってエイズ患者の簡単な診察を行ない、その診断結果がファックスで出先事務所に送られます。出先事務所では、その情報をパソコンに入力してデータベース化され、必要に応じてケープタウンのセンターの医師に相談します。センターでは、医師が情報を総合的に判断し、現地スタッフが患者に薬を届けるのです。医師が現場にいなくても治療が出来、一人の医師がたくさんの患者を治療するという、南アフリカの現状に即した体制です。

そのダルコーさんに、かつて「国境なき医師団」で活動した医師貫戸朋子さんがインタビューを試みました。「私たちはエイズとの闘いに勝てますか?」という貫戸さんの質問にダルコーさんは次のように答えました(BS特集「アーネスト・ダルコー~地球をエイズから救う~」NHK衛星第一、二〇〇六年八月十三日放送)。

「もちろんです。私は不可能なことはないと自分に言いきかせています。四千万人の感染者を救うのは無理だと言う人もいます。でも、然るべき時に然るべき場所で指導力を発揮すれば、実現できます。そもそも私たちは、何故失敗するのでしょうか。それは、私たち自身の中に偏見が潜んでいるからです。その偏見に打ち克つことが出来れば、エイズは克服できるのです。恐れることなく、国民に正しいメッセージを伝えれば、必ず前進できます。一人一人が精一杯呼びかけるのです。明日は、明日こそはエイズを食い止めることが出来るのだ、と。」

貫戸さんは、困難に立ち向かっている人たちのために再び現場に立つ意欲をかき立てられたと言います。ダルコーさんは、欧米の製薬会社が目を向けなかったエイズ患者を救い、帚木蓬生が『アフリカの瞳』の中で託したメッセージ「私は人類の英知として、特定の国、つまりHIV感染が蔓延している国では、治療薬を無料にすべきだと訴えたいのです。無料化の財源は世界規模で考えれば、どこかにあるはずです。」を実践しているわけです。

ボツワナで

三十六歳のダルコーさんは、アメリカに生まれ、タンザニアとケニアで過ごしました。ハーバード大学で医学の資格を、オクスフォード大学で経営学の修士号を得た後、ニューヨーク市の経営コンサルタント会社マッキンゼー社に就職して、二〇〇一年にエイズ対策事業のためにボツワナに派遣されました。

派遣された当時、三人に一人がHIVに感染していたと言います。最初の一年間は、「夜明け」という意味の国家プロジェクトMASAの責任者として「一日最低二十二時間」は働いたそうです。感染者数を知るためにモハエ大統領にテレビでエイズ検査を受けるように呼びかけてもらう一方で、医療体制を把握するために国じゅうを隈無く調査しています。その結果、絶対的な医師不足を痛感しました。周辺国に呼びかけ破格の給料を出して数年契約で医師を雇い入れると同時に、国内でも医師を育成し、現場に二千二百人の医師を配置しました。

最大の問題は薬でしたが、米国の製薬会社と交渉し、患者の資料を提供する代わりにほぼ無料で薬を確保し、半数以上の患者の治療を可能にしました。

政府の資金を補うために「エイズ撲滅のためのプロジェクト」を展開するマイクロソフト社のビル・ゲイツと掛け合い、一兆円を引き出しています。その薬と豊富な資金を基に、ネットワークシステムを構築します。プロジェクト本部の下に四つの支部を置き、それぞれの支部にコーディネーターを配置、コーディネーターはその下にある多くの拠点病院と連携し、現場の状況に応じて薬を届けるというシステムです。ダルコーさんは学んだ経営学の知識を生かし、ウォルマートの最先端の納品システムを参考にしたと言います。二〇〇〇年に三六歳までに落ち込んでいた平均寿命は上昇に転じ、二〇二五年には五十四歳に回復する可能性も出てきたと言われています。現在、アフリカ十二カ国がダルコーさんのエイズ対策モデルを取り入れています。

アフリカに限らず世の中の仕組みや人の営みについて考えれば考えるほど絶望しか見えて来ないように思えてなりませんが、絶望の淵にあっても、ダルコーさんのように、まだ出来ることはあると信じたいと思います。先ずは自分を大切にし、身近な回りを大切にして行けば、相手のことも敬えるでしょう。後の世に一縷の希望を託したいと思います。

後世は畏るべし、なのですから。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」6号に収載予定で送った原稿です)

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「エイズから人類を救うアーネスト・ダルコー医師」 (301KB)

2000~09年の執筆物

概要

(作業中)

本文(写真作業中)

コンゴの悲劇 独立―新植民地支配の始まり  玉田吉行

ヨーロッパ人がアフリカを侵略し始めて以来、中央アフリカの大国コンゴは絶えず搾取され続けてきました。今回は、独立をめぐる話を書きたいと思います。先ずは、独立までの経緯を簡単に辿っておきましょう。

あまり知られていませんが、一八八五~六年のベルリン会議で、コンゴはベルギーのレオポルド二世個人の植民地として承認されています。その支配は二十三年間に及び、少なくとも人口は半減し、約一千万人が殺されたと推定されています。王が植民地から得た生涯所得は、現在の価格にして約百二十億円とも言われます。

「コンゴ自由国」は一九〇八年にベルギー政府に譲渡されて「ベルギー領コンゴ」になり、搾取構造もそのまま引き継がれます。支配体制を支えたのは、一八八八年に国王が傭兵で結成した植民地軍です。その後、植民地政府の予算の半分以上が注がれて、一九〇〇年には、一万九千人のアフリカ中央部最強の軍隊となっています。まさに力による植民地支配だったのです。

第一次大戦では、アフリカ人は兵士や運搬人として召集され、ある宣教師の報告では「一家の父親は前線に駆り出され、母親は兵士の食べる粉を挽かされ、子供たちは兵士のための食べ物を運んでいる」という惨状でした。第二次大戦では、軍事用ゴムの需要を満たすために、再び「コンゴ自由国」の天然ゴム採集の悪夢が再現されます。また、銅や金や錫などの鉱物資源だけでなく「広島、長崎の爆弾が作られたウランの八十%以上がコンゴの鉱山から持ち出された」と言われています。

コンゴが貪り食われたのは、豊かな大地と鉱物資源に恵まれていたからです。ベルギーの八十倍の広さ、コンゴ川流域の水力資源と農業の可能性、豊かな鉱物資源を併せ持つコンゴは、地理的、戦略的にも大陸の要の位置にあります。植民地列強が豊かなコンゴを見逃す筈もなく、鉄道も敷き、自分達が快適に暮らせる環境を整えていきました。「一九五三年には、世界のウラニウムの約半分、工業用ダイヤモンドの七十派セントを産出するようになったほか、銅・コバルト・亜鉛・マンガン・金・タングステンなどの生産でも、コンゴは世界で有数の地域」になっていました。綿花・珈琲・椰子油等の生産でも成長を示し、ベルギーと英国の工業原材料の有力な供給地となりました。

独立

二度に渡る世界大戦でヨーロッパ社会の総体的な力が低下したとき、それまで抑圧され続けていた人たちが自由を求めて闘い始めます。その先頭に立ったのは、ヨーロッパやアメリカで教育を受けた若い知識階層で、国民の圧倒的な支持を受けました。

ベルギー政府は、コンゴをやがてはアフリカ人主導の連邦国家に移行させて本国に統合する構想を描き、種々の特権を与えて少数のアフリカ人中産階級を育てていました。五十六年当時の総人口千二百万人のうちの僅かに十万人から十五万人程度でしたが、西洋の教育を受け、フランス語の出来る人たちで、主に大企業や官庁の下級職員や中小企業家、職人などで構成されていました。独立闘争の先頭に立ったのは、この人たちです。

インドの独立やエジプトのスエズ運河封鎖などに触発されて独立への機運が高まりアフリカ大陸に「変革の嵐」が吹き荒れていましたが、コンゴで独立への風が吹き始めたのは、ようやく五十八年頃からです。

五十八年当時、アバコ党、コンゴ国民運動 、コナカ党などの政党が活動していました。中でも、アバコ党が最も力を持ち、カサヴブとボリカンゴが党の人気を二分し、党中央委員会の政策がコンゴ全体の政治の流れを決めていました。カサヴブは即時独立を求めましたが、民族色の濃い連邦国家を心に描いていました。

五十八年十月創設のコンゴ国民運動は、従来の民族中心主義を排し、国と大陸の統合を目指して活動を始めました。誠実で雄弁な指導者パトリス・ルムンバ が、若者を中心に国民的な支持を得て、第三の勢力に浮上しました。ルムンバに影響されたカサイ州バルバ人の指導者カロンジが第四勢力の地位を得ましたが、五十九年六月にルムンバに反発して分裂し、ベルギー人(教会、大企業、政庁)の支持を受けてコンゴ国民運動の勢力を二分しました。イレオなど多数がカロンジと行動を共にします。

カタンガ州では、チョンベがベルギー人財界や入植者の支援を受けてコナカ党を率いていました。

ベルギー政府に独立承認の意図は未だありませんでしたが、五十八年十一月辺りから事態は急変します。西アフリカ及び中央アフリカの仏領諸国が次々と共和国宣言をしたこと、十二月にガーナの首都アクラで開かれた第一回パンアフリカニスト会議に出席したルムンバが帰国したことに刺激を受けて、独立への機運が急激に高まったからです。

翌年一月四日、レオポルドヴィルで騒乱が起き、五十人以上の死者を出しました。事態を無視出来なくなったベルギー政府は独立承認の方法を模索し始め、六〇年一月二十日から二十七日にかけてコンゴ代表四十四名をブルッセルに集めて円卓会議を開催して、急遽、同年六月三十日の独立承認を決めました。

宣戦布告

五月に行なわれた選挙でコンゴ国民運動は百三十七議席中の七十四議席を得てルムンバが首相にはなったものの、絶対多数には届かず、カザヴブの大統領職と、大幅な分権を認める中央集権制を容認せざるを得ませんでした。ルムンバには民族的、経済的基盤もなく、分裂要素を抱えたまま、大衆の支持だけが支えの船出となりました。

六月三十日の独立の式典で、ルムンバはコンゴの大衆と来賓に、次のように宣言します。

「・・・涙と炎と血の混じったこの闘いを、私たちは本当に誇りに思っています。その闘いが、力づくで押し付けられた屈辱的な奴隷制を終わらせるための気高い、公正な闘いだったからです。

八十年来の植民地支配下での私たちの運命はまさにそうでした。私たちの傷はまだ生々しく、痛ましくて忘れようにも忘れることなど出来ません。十分に食べることも出来ず、着るものも住まいも不充分、子供も思うように育てられないような賃金しか貰えないのに、要求されるままに苦しい仕事をやってきたからです・・・・

しかし、選ばれた代表が我が愛する祖国を治めるようにとあなた方に投票してもらった私たちは、身も心も白人の抑圧に苦しめられてきた私たちは、こうしたすべてが今すっかり終わったのですと言うことが出来ます。

コンゴ共和国が宣言され、今や私たちの土地は子供たちの手の中にあります・・・・

共に、社会正義を確立し、誰もが働く仕事に応じた報酬が得られるようにしましょう。

自由に働ければ、アフリカ人に何が出来るかを世界に示し、コンゴが全アフリカの活動の中心になるように努力しましょう・・・・

過去のすべての法律を見直し、公正で気高い新法に作り変えましょう。

自由な考えを抑え込むのは一切辞めて、すべての市民が人権宣言に謳われた基本的な自由を満喫出来るように尽力しましょう。

あらゆる種類の差別をすべてうまく抑えて、その人の人間的尊厳と働きと祖国への献身に応じて決められる本当の居場所を、すべての人に提供しましょう・・・・

最後になりますが、国民の皆さんや、皆さんの中で暮らしておられる外国人の方々の命と財産を無条件で大切にしましょう。

もし外国人の行ないがひどければ、法律に従って私たちの領土から出て行ってもらいます。もし、行ないがよければ、当然、安心して留まってもらえます。その人たちも、コンゴのために働いているからです・・・・

豊かな国民経済を創り出し、結果的に経済的な独立が果たせるように、毅然として働き始めましょうと、国民の皆さんに、強く申し上げたいと思います・・・・」

このルムンバの国民への呼びかけは、同時にベルギーへの宣戦布告でもありました。

しかし、ベルギーはルムンバに容赦せず、ベルギー人管理八千人を総引き上げしました。ルムンバが組閣しても行政の経験者はほとんどなく、三十六閣僚のうち大学卒業者は三人だけでした。独立後一週間もせずに国内は大混乱、そこにベルギーが軍事介入、コンゴはたちまち大国の内政干渉の餌食となりました。大国は、鉱物資源の豊かなカタンガ州(現在のシャバ州)での経済利権を確保するために、ルムンバの排除に取りかかります。危機を察知したルムンバは国連軍の出動を要請しますが、アメリカの援助でクーデターを起こした政府軍のモブツ大佐に捕えられ、国連軍の見守るなか、利権目当てに外国が支援するカタンガ州に送られて、惨殺されてしまいます。このコンゴ動乱は国連の汚点と言われますが、国連はもともと新植民地支配を維持するために作られて組織ですから、当然の結果だったと言えるでしょう。当時米国大統領アイゼンハワーは、CIA(中央情報局)にルムンバの暗殺命令を出したと言われます。

独立は勝ち取っても、経済力を完全に握られては正常な国政が行なえる筈もありません。名前が変わっても、搾取構造は植民地時代と余り変わらず、「先進国」産業の原材料の供給地としての役割を担わされたのです。しかも、原材料の価格を決めるのは輸出先の「先進国」です。

こうして、コンゴでも新植民地体制が始まりました。

(たまだ・よしゆき、宮崎大学医学部英語科教員)

執筆年

2006年

収録・公開

未出版(門土社「mon-monde 」5号に収載予定で送った原稿です)

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