2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した20回目の「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「演劇クラス」

ツォゾォさんは英語科の学生であるアレックスの先生でもありますが、大学院や就職先の相談にも応じてくれるジンバブエ大学の先輩でもあります。

管理職についてからのツォゾォさんは、前にもまして忙しそうでした。約束の時間に訪ねて行っても、会えない場合がよくありました。運よく部屋でつかまえても、話している間じゅう、ひっきりなしに電話が鳴っていました。インタビューを録音している時などは、何度もテープを止めなければなりませんでした。

忙しい合間にインタビューに応じて下さったツォゾォさん

国内にはツォゾォさんの代わりに映画や映像の講義を担当出来る人がいませんので、管理職に専念するのは当分の間は無理のようです。土曜日や日曜日でも、運動クラブの見周りなどで大学に出てきている日もありました。教育省時代には、独立直後にユーゴスラビアや中国に視察に行ったと言います。ムガベ政権の下で、スポーツ教育をどういった体制で行なうかを、同じ社会主義の国まで視察に出かけたというわけです。「今の体育制度はユーゴスラビアが手本ですよ。」と教えてくれました。

演劇や映画の研究のためにアメリカに留学しましたが、大学院を修了した時点で、アメリカの大学に誘われて、そのまま残るかジンバブエに戻るか、迷いましたとも言います。

映像学の授業でのツォゾォさん

大体の人が自転車も買えないというのに、家一軒分のベンツに乗ったアフリカ人を見かけましたが、一体この国はどうなっているんですかと尋ねましたら、ベンツに乗ってドライヴに行こうとしつこく誘う知り合いもいますよと言っていました。そう言えば、ツォゾォさんは自分の車に乗っています。それまであまり意識はしませんでしたが、ツォゾォさん自身がかなり選ばれた人の一人なのです。

独立を勝ち取ってアフリカ人の大統領や高官が誕生したものの、経済力を完全に旧体制に握られたままの状況は、どこも同じですね、新体制は発足しても政治や経済はままならず、選ばれた少数のアフリカ人が今までの白人の役割を演じるだけ、独立闘争での志とは裏腹に私利私欲に明け暮れる、一般の人の生活は独立前と同じか、かえって悪くなっている、自分たちが手に入れた権力を脅かすものがいれば、国の力で反体制分子として抹殺する、そんな今のジンバブエを見ていると、そっくりそのままケニアの後を追いかけているようですねと言いましたら、全くその通りですよとツォゾォさんが頷きました。

ツォゾォさんの演劇の授業では、人々に選ばれながら私欲に耽るアフリカ人の国会議員を風刺する戯曲を教材に取り上げていました。

アレックスは大学を楽園だと言っていましたが、授業風景も日本の大学とはずいぶんと違います。日本では最近、授業中の私語や居眠りが問題になっていますが、少なくとも私の出た授業では私語や居眠りはありませんでした。選ばなければ誰でもがどこかの大学に入れる日本の事情とは違って、ごく選ばれた人たちだけが集まって来ているだけに学ぶ意欲が違うという側面もありますが、もう少し現実的な事情もあります。大抵の学生には教科書や参考書を充分に買い揃えたり、コピー機を利用したりするだけの経済的な余裕がありません。試験前ともなれば、学生が図書館に殺到して特定の本は借りられなくなってしまうそうです。無事に単位を取るためには、授業中に教師の言う内容をノートに書き取るしかありません。従って、学生側に喋ったり眠ったりする暇などはないのです。質のよくないノートにインクの出方がすこぶる悪いボールペンを使って、学生はうつむいて、ただ黙ってひたすら速記の機械の如く書き移す作業に専念するのです。議論などはありません。

しかし、演劇の授業はやや趣が違いました。歌あり、演技指導ありです。舞台施設のある講堂での講義の前には、準備体操もします。円になって全員が踊りながら、一人を円の真ん中に呼び出して簡単なオリジナルの踊りをさせています。手拍子を取り、歌いながらです。ツォゾォさんも加わって、一緒に楽しそうに踊っていました。発声のための体馴らしでもあります。ゲイリーの踊りもそうでしたが、ショナの人の踊りは全般に動きが穏やかです。もともと、全体に性格の温厚な民族なのかも知れません。

画像

(演劇クラスの授業風景)

例年10月に授業の集大成として街で公演をするらしく、配役や演出の担当を決めて、授業中に何度も劇の読み合わせを行なっていました。ツォゾォさんは、太い大きな声を出し、身振り手振りを交えながら、その場合はこうやるんだよと演技指導に大忙しです。

演題は『誉れ高き国会議員』で、83年にジンバブエ大学を卒業したゴンゾウ・H・ムセンゲジィという若手の作家の英語の作品でした。毎年、受講する学生が話し合ってその年の出し物の脚本を選ぶそうです。独立闘争を支援し、ショナ語による本の出版を根強く続けるマンボプレスから出版されています。「マンボ作家シリーズ英語選集」の第16集に収められた2幕6場の戯曲で、B6版46ページの小品です。

画像

『誉れ高き国会議員』

民衆の代表として田舎の選挙区から国会議員に選出されたにもかかわらず、選挙民を忘れて贅沢三昧の毎日を送るシェイクスピア・プフェンデの話です。

10月4日の公演には是非ヨシも観に来て下さいと学生から招待されていましたが、あいにく私たちはその日にはもうハラレにはいません。何もなければ、パリにいるはずでした。折角の機会でしたが、授業の成果をこの目で確かめられなかったのは、返す返すも心残りです。(宮崎大学医学部教員)

ジャカランダの咲くハラレの街で

執筆年

2013年2月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」(No.54  2013年2月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記⑳ 演劇クラス」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した19回目の「ジンバブエ滞在記⑲ ロケイション」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ロケイション

ある時、音楽の話題になって、今ジンバブエでどんな歌が一番人気があるのと私が尋ねましたら、アレックスは「ミズミヤング」などの曲をあげてくれました。街に行けば、その歌のテープが簡単に手に入ると言うので、2人で出かけることにしました。

ウォークマンで音楽を聴くアレックス

大学でアレックスと待ち合わせて、大学からイマージェンシータクシー(Emergency Taxi)を使って街に出ました。ETは乗り合いのタクシーです。日本では馴染みはありませんが、利用者の多い2つの地点を結ぶもので、日本の乗り合いバスのタクシー版と考えればいいと思います。ただし、途中下車はなく、空席があれば途中でも拾ってくれます。ヴァン型の後部席の荷台と前の助手席に18人が詰め込まれます。普通は一杯になるまでは出発しません。
車を持てない大部分のアフリカ人は、仕事場のある白人街までバスかETを利用する場合が多いようです。うまく乗り継げない所は、歩くしかありません。ミスタームランボも、毎日2度ETを乗り継いだあと、45分も歩くんですよとぼやいていました。ETに使われている車はマツダ(MAZDA)が圧倒的に多いようです。

ミスタームランボといっしょに

料金はバスと同額で一律1ドルです。安い代わりに、窮屈な思いを強いられます。ETを利用してグレートジンバブエに行った経験のある吉國さんは、乗った時のこのままの姿勢で数時間ですよと、まるで満員電車の中にいるような仕草をしながら、その時の様子を教えて下さったことがあります。

アメリカ映画「遠い夜明け」の中で主人公のアフリカ人青年ビコが新聞社の編集長の白人ウッヅに「どうして俺たちのようにバスやタクシーを利用しないのか?」と問いかける場面を見て、タクシー?と疑問に思った記憶がありますが、あのタクシーはバスと同じ料金のこのイマージェンシータクシーだったわけです。

「遠い夜明け」の試写会でもらったパンフレット

何箇所かの店屋を回って3本のテープを買いました。1本が30ドル前後です。「ミュージシャンにはきつい時代ですよ、レコードでもテープでも、買う余裕のある人は非常に少ないんですから。ミュージシャンはみんな、他で稼ぎながらレコーディングをしています。」とアレックスが言います。

アレックスと一緒にみんなでまたシェラトンに出かけました。ゲイリーたちより2日遅れのお別れ会です。みんなで一緒にお別れ会をしてもよかったのですが、それぞれ接し方も思い入れも違いますので、別々の機会を持ちました。アレックスは、その日のために「食事を2回飛ばしてくるぞ!」と固い決意を見せていました。

画像

アレッククスと従業員の人といっしょに

ゲイリーは聖歌隊で歌うためにシェラトンに来たことがあったそうで、アレックスは教員の新任研修で丸2週間滞在した経験があると言います。普段はとても利用できないこの豪華なホテルを使って「これから君たちが新しい国造りをするように……。」と若い教員に政府の意気込みを見せようとしたのでしょうか。

また、みんなお腹一杯に料理を詰め込みました。飲みすぎたビールで私もアレックスも顔が真っ赤です。アレックスはもう動けませんと唸っています。

食事のあと、ホテルの職員に国際会議場をはじめ、ホテル内の施設を見せてもらいました。この前来た時に、子供たちが2人の職員と仲良しになり、今度来たときはお父さんやお母さんも一緒にホテル内を案内してあげようという約束をしてもらっていたようです。言葉もそれほど解らないはずなのに、子供の好奇心と柔軟性は大したものです。大人にはとても真似出来そうにありません。

お蔭様で、国際会議場も見せてもらいました。何とも豪華なものです。こんな会場で会議をしたあとホテルで存分に寛げば、ジンバブエも欧米諸国と何ら遜色はない、そんな錯覚に陥ったとしても不思議はありません。

シェラトンホテルでアレックスといっしょに

大半の人がその日の食事に事欠いている現実を見せつけられているだけに、その豪華さはどこか不釣り合いに思えました。「経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……いくら何でも不公平ですよ。」と言ったアレックスの言葉が思い出されて仕方がありませんでした。

アレックス

帰る前に、行ってみたいところがありました。ロケイションです。最初から、一度は訪ねてみたいと考えていました。アレックスに頼みましたら、意外と気軽に応じてくれました。今泊めてもらっている従妹の家まで連れていってくれると言います。

家庭教師を頼んだ時点ではまだ寮にいましたが、冬休みになって寮を追い出されたアレックスは、仕方なくロケイションにいる従妹の家に泊めてもらい、そこから毎日通って来てくれていたのです。

9月29日、9時半にアレックスと街で待ち合わせました。ラッシュは避けるという話になっていました。帰国する4日前です。

街の中心より南寄りのバス発着所の近くでETに乗りこみました。ラッシュ時ではありませんでしたが、バスの発着所は人で一杯でした。その辺りにいるのは、アフリカ人だけです。

街の中心部から南西の方角に10キロほど離れたグレンノラ地区に住む従妹の家に行くまでに、2度ETを乗り換えました。直通のETはないようです。まずムバレに着きました。この国最大のスラムで、1番の密集地だそうです。ゲイリーがお父さんと住んでいた地区で、たくさんの人です。大きな青空市に連れて行ってくれました。ムバレムシカという有名なマーケットだそうです。
衣類や装飾品など、たくさんの品物が並べられていました。外国の品物もあるようです。次に、近くの市営住宅の中を歩きました。鉄筋コンクリート4、5階建ての、日本の市営住宅や県営住宅と似ています。ただ、1部屋にかなりたくさんの人が住んでいるようです。排水事情も悪く、全体にうらびれた感じがしました。途中で、ひとりのおばあさんが2人の方に大きな罵声を浴びせかけてきました。ショナ語のようです。何と言ってるの?とアレックスに尋ねましたが、ばつが悪そうに笑っているばかりでした。何かに怒りをぶちまけているようですから、アレックスも言い難いに違いありません。詮索はしませんでした。やはり、私がここにいるのが場違いなのでしょう。

またETに乗り、別のショッピングセンターで乗り換えました。今度はしばらく待ちました。ひとりのアフリカ人の男性が、大きな声でアレックスにショナ語で話しかけています。横にいるのはお前のボスかって聞いていますよとアレックスが小声で耳打ちしてくれました。ボスなら金を持っているだろうから、一杯になるのを待たずにETを借り切らないかという誘いのようで、ロケイションでの外国人はボスが相場のようです。しかし、ボスかと聞かれても、アレックスも私も答えようもなく、何とも複雑な心境です。

グレンノラ地区に着きました。ずーっと一戸建の家が続きます。
電気や水道も通っているようす。道から少し入ったところに従妹の家がありました。挨拶のあと、部屋の中に入れてもらいました。2つの部屋は人に貸していて、周りのどの家もそうだと言います。電気は通っていますが、実際には使っていないそうです。
そうでないとやっていけないと言います。恥ずかしそうにしていた2歳の女の子が近くまで来て、踊りを披露してくれました。小さいのに、腰を使ってさまになっています。メイビィに似て陽気です。初めて白人を見て、興奮しているんですと母親が言ってますよとアレックスが笑っています。この女の子の目には、私は白人と映るのでしょうか。アレックスはここから通ってくれているわけですが、夜は電気なしの生活だそうです。昼間は大学の図書館で本を読んでいますが、5時に閉まるので困りますと言います。

しばらく話をしたあと、家を出て、帰りはバスに乗りました。バスは直通でハラレまで行くようです。バスに乗る前に、また酒場に連れていってくれました。人影もまばらで、ゲーム機なども備えつけられていました。

バス乗り場では15分ほど待ちましたが、バスはさほど混んでいませんでした。入り口のドアはありません。工業地帯を抜けて、バスは進みます。予想以上にたくさんの工場があります。乗客は大人しく、そのバスのスピードは、早いとは思いませんでした。

街に着きました。2人でウィンピーというレストランに入って食事をしましたが、アレックスは終始不機嫌そうでした。

画像

ハラレの街の出店

「この1ヵ月、白人地区とロケイションを行き来して、大変でしたね。心のバランスが取れなかったんではないですか?」
「…………。」私の方もうまく言えませんでしたが、感受性の強いアレックスの心の綾が、何となく私には理解出来たような気がして、心がますます沈んでいきました。

食事が済んだ2人は外に出ました。辺りはすでに暗くなっていました。アレックスは遠くの方を見つめながら、1度大学に戻りますと呟きました。(宮崎大学医学部教員)

アレックス

執筆年

  2013年1月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」(No.53)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「ジンバブエ滞在記ジンバブエ滞在記⑲ロケイション」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した18回目の「ジンバブエ滞在記⑱ アレックスの生い立ち」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

アレックスの生い立ちアレックスと大学で

アレックスは、1965年に国の中央部よりやや南寄りのシィヤホクウェという田舎で生まれました。シィヤホクウェはグレートジンバブエ遺跡が近いマシィンゴと、中央部の都市グウェルの間にあるタウンシップです。タウンシップは南アフリカと同じように都市部のアフリカ人居住地区を指す時期もあったようですが、今は田舎地方の商店などが集まった地区のことだそうで、ルカリロ小学校に着く前にミニバスで立ち寄ったムレワのタウンシップもそのひとつです。

ジンバブエの地図

1965年は、首相のイアン・スミスを担ぐローデシア戦線党政権が、土地を持った白人の大農家や賃金労働者と南アフリカの白人政府を味方に、イギリス政府や国内の白人産業資本家の意向を無視して、一方的独立宣言(UDI)を言い渡した年で、社会情勢はますます怪しくなっていました。

ゲイリーの場合もそうでしたが、田舎では小学校にも通えないアフリカ人が多かったようです。学年が進むにつれて、学校に通う生徒の数はますます減って行きました。アレックスの場合も、入学した時は40人いたクラスメイトが7年生になると25人になっていたそうで、特に女の子の数は少なかったようです。一般的に、親の方も女性はすぐに結婚するから学校は出なくてもいいと考えていたようで、男の子を優先して学校にやったと言います。
中学校に行ける人の数は更に少なく、アレックスの学校から進学したのは僅かに2人だけでした。近くには、有料で全寮制のミッション系の中学校しかなく、日用品や病院代の他に、教育費まで捻出して子供を中学校に送れるアフリカ人はほとんどいなかったからです。

ハラレ近郊のムレワの風景(小島けい画)

普段の生活はゲイリーの場合とよく似ています。小さい時から、1日じゅう家畜の世話です。小学校に通うようになっても、学校にいる時以外は、基本的な生活は変わっていません。朝早くに起きて家畜の世話をしたあと学校に行き、帰ってから日没まで、再び家畜の世話だったそうです。

「学校まで5キロから10キロほど離れているのが当たり前でしたから、毎日学校に通うのも大変でした、それに食事は朝7時と晩の2回だけでしたから、いつもお腹を空かしていましたよ。」とアレックスが述懐します。

小学校では教師が生徒をよく殴ったようです。遅れてきたりした場合もそうですが、算数の時間などは特にひどかったようで、「50問の問題なら、出来る子は1、2発で済みましたからまだましでしたが、出来ない子なんかは悲惨ですよ。48発も9発も殴られて、頭がぼこぼこでした。」と顔をしかめました。

「植民地時代のヨーロッパ人の考え方の影響ですよ。ヨーロッパ人は、アフリカ人は知能程度が低くて怠け者だから、体罰を加えて教え込まなければと本気で信じ込んでいましたからね。今度ゲイリーの村に行けば分かるでしょうが、田舎では白人は居ても宣教師くらいでしたから、教師はみんなアフリカ人なんです。それでも殴りましたよ。あの人たちは、ヨーロッパ人にやられた仕返しを同じアフリカ人の子供相手にやっていたんですね。独立後は、校長だけにしか殴る行為は認められていませんが……全寮制の中学校は、その点、まだましでした。」と続けました。
7年間の小学校のあとは、4年間の中学校(FORM1→FORM4)、2年間の高校、3年間の大学と続きます。中学校には普通コース(F1)と職業コース(F2)とがあり、F2は軽んじられる傾向があり、今もその傾向があるようです。中学校も人種別に、白人とカラード用のコース(GRADE1)とアフリカ人用のコース(GRADE2)に厳しく分けられていました。「アレクサンドラパークスクールもGRADE1ですから、今でも白人とカラードが多いでしょう。」と言われてみれば、なるほどと思い当ります。

アレクサンドラパークスクールで

高校に進学する人は、中学校よりも更に少なく、アレックスの中学校からは2人だけだったようです。アレックス自身も、中学校卒業後、すぐには高校に行っていません。最終学年の81年に、お父さんが死んだためです。田舎の学校では、卒業後めぼしい就職先は探しようもありませんでしたので、誰もが教員になりたがったと言います。アレックスも中学校の教師になりました。それも中学校を卒業して、すぐに中学校の教師になったのだそうです。独立によって、現実には様々な急激な社会体制の変化があり、小学校もたくさん作られ、誰もが5キロ以内の学校に無料で通えるようになりました。中学校もたくさん作られました。当然、教員は不足し、経験のない俄仕立ての教師が生まれたわけです。アレックスもその一人でした。

アレックスの中学校も、闘争の激しかった79年から独立時までは閉鎖されていました。生徒も男子は、敵の数や味方の銃の数を勘定したり、女子は兵士の食事を作ったりなどして、解放軍の支援をしたと言います。勉強どころではなかったのです。そのあとの激変です。混乱の起きないはずはありません。

「もう無茶苦茶でしたよ。教科書も何もないし……だいいち、FORM4を終えたばかりの人間がいきなりFORM4を教えるんですからね。それに、解放軍に加わって戦った年を食った生徒も混じっていましたから、生徒が教師よりも年上なんて、ざらでしたよ。おかしな状況でした。もちろん、いい結果などは望むべくもありません。その後、事態も徐々には改善されて行きましたが……。」

アレックスは高校には行けませんでしたが、政府の急造した中学校の一つで教師をしている間に、通信教育で高校の課程を終えたそうです。同じ中学校に大学出の新任教師が赴任してきて、どうして通信教育を受けて大学に行かないのかと促されて、大学に行こうと決心したと言います。その同僚の存在が大いに刺激になったようです。無事に通信課程を終えて、90年から大学に通うようになりました。

画像アレックス、大学で

アレックスにとって大学は楽園(パラダイス)だそうです。毎日が大変な田舎の暮らしに比べると、という意味合いもありますが、知識を得られる場が確保されている上に、政府を批判する権利が学生だけに認められているからだと言います。独立前は、もちろん批判さえも無理でしたからと付け加えました。自動車業者との癒着が発覚して、閣僚の1人が辞任した89年の10月に、大学から街中まで初めてデモ行進が行なわれたそうです。街中では、失業者などが加わって大変な騒ぎになったために、それ以降は警備も厳しくなったようです。ストの当日は、今借りて住んでいる家も含めて大学近辺の地域はデモに参加する人たちの暴徒化を恐れて、警察による警戒も厳重になると言います。その年の4月に行なわれた学生のデモで何人かが逮捕され、現在も拘禁中であるという報道が日本でもなされていました。ツォゾォさんにその報道についての真偽を確かめますと、逮捕されたのは学生自治会の委員たちで、今は釈放されて、停学中の身だということでした。
最初に連れて行ってくれた学生寮「ニューホール」

「ゲイリーに聞くと給料も安く、独立によって何も変わらなかったように思えるんだけれど……。」と私が話し始めると
「それは実際には少し違います。」と遮って、独立後の状況と将来の見通しについて次のように話してくれました。

「独立前は、ゲイリーのように白人の家で働くアフリカ人の給料はもっと安かったです。政府が最低賃金を決めて、これでもまだましになりました。独立した当初、政府は社会主義を前面に掲げましたが、白人はしぶとく健在で、経済は欧米諸国(ファーストワールドカントリィズ)に牛耳られたままです。経済が自分たちでコントロール出来るようになって、いい政策が実施出来れば、人々もやる意欲を持てるのですが……。
独立するのにあれだけ田舎の力を借りたのに、自分たちが政権についたとたんに、自分たちの個人的な野望を達成することばかりで、田舎のことなど念頭にはありません。田舎の人は街に働きに出てきますが、現実には「庭師」や警備員などの給料の安い仕事しかありません。この国のアフリカ人エリートが白人の真似をして「白人」以上の白人になるのは本当に早かったですよ。
この国の将来は見通しが極めて暗いと思います。政府に対抗する反対勢力はないも同然です。国民は40パーセントの税金を取られています。党は金を貯めこんでいるのに、行政は充分には機能していません。これでは、いくら何でも不公平ですよ。」

アレックス

最後の辺りのアレックスの語気は強く、どうしようもない怒りを必死に堪えているようでした。そして「教育を受けた人は、海外に流れています。ボツワナやザンビアや最近独立したナミビアは人不足なので外国人を優遇していますから、お金につられて出ていくのです。」と付け加えました。

近隣諸国に流れる若者の問題は、大きな社会問題にもなっているらしく、8月17日の「ヘラルド」紙に「多数の教員がよりよい条件を求めて国を離れている」という見出しの次のような書き出しの記事が掲載されていました。

地方で養成された教員が何百人と、近隣諸国で働くために国を離れており、それによって教育の危機的な状況は更に悪化している。ジンバブエ全国学生協議会(ZUNASU)の第3回年次総会を公式に終えたあと、高等教育相スタン・ムデンゲ氏は「地方の教員養成大学で養成された5500人の教員のうち、5000人は産業関係の仕事に就くか、残りは近隣国の新天地を求めてジンバブエを離れているかの状況です。」と語った。

「新天地を求めて国を離れているそういった教員の穴を埋めるには、丸6年の期間が必要であり、学校では深刻な危機に直面しています……。

記事は、アレックスの指摘した税金の重さについては触れていませんが、教員に限らず最大の問題は、経済的な意味合いも含めて、仕事についてよかったと思えるかどうかでしょう。
「いくら何でも不公平ですよ。」と当事者が思う状況である限り、若者の外国流失の勢いは止められないでしょう。

画像

アレックス

南アフリカが経済的に豊かである以上、民主化されればその流れに一層の拍車がかかるでしょう。現に、ネルソン・マンデラが釈放されて以来、隣国から多くの人が経済的な豊かさを求めて南アフリカに流れこんでいるようです。バングラデシュから日本に来ている留学生から、ジンバブエに行くなら、ハラレで医者をしている従兄を紹介しますよと以前から言われていましたので、日本を離れる直前に電話で問い合わせてもらいましたが、その人はすでに南アフリカに移り住んでいるとのことでした。

「大学の友だちにも、卒業したらナミビアかボツワナに行こうと考えている人がたくさんいます。僕らアフリカ人には今はまだ南アフリカは恐い国ですが、民主化が進んで事態がよくなっていけば、この国からも行く人は必ず増えますよ。すでに南アフリカの田舎で医者をしている友だちもいるくらいですから……。卒業しても、みんな面倒をみなければいけない親類や兄弟をたくさん抱えていますから、何と言ってもやはりお金は魅力ですよ。そのうち結婚すれば、自分たちの住む家も必要です。新車も早く買いたいですからね。そう考えるのは間違っていますか?」とアレックスが言います。私にはその問いかけに答える術もありませんでしたが、もちろん、アレックスの表情が明るいはずはありませんでした。(宮崎大学医学部教員)

長女とアレックスと従姉妹と、スクウェアパークで

執筆年

2012年11月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」(No.51  2012年11月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

「ジンバブエ滞在記⑱アレックスの生い立ち」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した17回目の「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

「モロシャマリヤング」

次の日、私はニューホールにアレックスを訪ねました。ショナ語と英語の家庭教師を頼むためです。ジンバブエに来る前は考えてもみませんでしたが、いざ住み始めてみますと、折角遠くまで来たのだからショナ語をやってみてもいいなあ、幸いショナ語で本を書いているツォゾォさんにも出会ったのだし、短期間に多くは望めないにしても、せめて辞書がひけるようになれば、帰ってから何とか独りでやっていけるかも知れない、と考えるようになっていました。

学生寮「ニューホール」

子供たちも、生活の中で英語の必要性を感じていますし、学校の授業を補うような形で楽しく教えてもらえれば有り難いと考えていました。事情を話してみましたら、アレックスは即座に快よく引き受けてくれました。

学生のアルバイトも見つけにくいうえ、1日に8時間半働いても月に500ドルも貰えればいい方らしいですので、取り敢えずは、月額500ドルで私のショナ語と子供たちの英語を3時間教えてもらうことにしました。子供たちはまだムランボ教室がありますので、私の方が先にショナ語を始めればいいでしょう。

さっそく、アレックスを家に案内して3人に紹介しました。内気な長女は少し恥ずかしそうでしたが、長男の方は一面識で大いに気が合ったようです。ゲイリーにも紹介しましたら、2人はしばらくショナ語で楽しそうに話をしていました。

いよいよ、アレックスのショナ語教室の始まりです。

長女とアレックス

教室を始める前に、2人で本を探しに行こうという話になり、タクシーを呼んで街の本屋に出かけました。これから始めましょうとアレックスは小学校の教科書を何冊か選んでくれました。ゆくゆくは読めるようにと、ツォゾォさんのショナ語の本なども買っておきました。

本屋にはすでに何回か足を運んでいましたが、欧米や日本のように、多数の本が並んでいるわけではありません。一番大きな本屋で大量に本を買って、店の方から直接日本に送ってくれるように頼みましたが、そういうサービスはしていませんと断わられました。ジンバブエで大量に本を買い込んで自分の国まで送る人はそう多くはいないからしょう。結局、重い荷物を家に持ち帰り、質の悪い紙で梱包をして、郵便局で長い列に並んで順番を待つという過程を経なければなりませんでした。本を送るのも、ひと仕事です。

ツォゾォさんのショナ語の本

本屋を出たあと、アレックスは酒場に案内してくれました。中心街より少し南にあるので、ほとんどがアフリカ人です。入り口のガードマンらしき人と何やら話をしています。見学をしたいという 外国からきた友人を連れて来たといって2ドルを渡しましたと、席に着いてからアレックスが耳打ちしてくれました。アフリカ人以外の人がここに入るのは難しいのでしょうか。

アレックスは友人とよくここに来るそうです。酒場とは言っても、あまり清潔そうでない暗い部屋に何組かの椅子とテーブルが置いてあるだけです。食べ物が出るわけでもなく、ただビールを買って、そこで飲んで喋るだけです。グラスもありません。瓶も汚れている場合が多く、この前など、瓶の中に小さな蛇が入っていたらしいですよ、多分瓶を洗う時の検査がいい加減だったんでしょうねと吉國さんが話しておられたのを思い出しました。瓶の汚れ方を見ていますと、そんな事件が起こっても不思議はないなと思えて来ます。

それでも誰もかれも、話に花を咲かせて楽しそうです。エリザベスホテルというらしいのですが、これでホテルなのかと思えるほど、うらびれた感じでした。すすんでここに来る白人は、おそらくいないでしょう。

街で長女とアレックス

グレートジンバブエ行きやお別れ会や小学校の手続きなども重なって、ショナ語教室はすぐには始められませんでしたが、それでも8月中に2度機会を持つことが出来ました。

アレックスは陽気な青年です。来ると必ず片手を上げながら子供たちに向かって「ハロー、マイフレンド」とやります。陽気な長男はすぐにそれを真似て「ハロー、マイフレンド」とやり返すようになりました。

ある日、長女は「ハロー、マイフレンド」に相当するショナ「モロシャマリヤング」をゲイリーから聞き出して、アレックスやゲイリーを相手に「モロシャマリヤング!」とやり始めました。それ以来「モロシャマリヤング」がみんなの合い言葉になりました。

大学構内でアレックス

アレックスと長男の陽気な2人組は、時たま庭に出て、「アチョー!アチョー!」と、すっとんきょうな奇声をあげていました。

カンフー(中国拳法)の真似事のようです。アレックスはクンフー(Kung fu)と発音していたが、その種のアメリカ映画が大流行しているようで、日本人なら誰でもそのクンフーをやるものと信じていたと言います。長男はアレックス直伝のクンフーがすっかり気に入ったようです。2人は人目をはばかる様子もなく、その後も出会う毎に「アチョー!アチョー!」とやっていました。

8月の30日に、出会いの感謝も含めて、アレックスに8月分と9月分の謝礼金を手渡しました。今度はいよいよ、子供たちの英語教室も同時開講です。

しかし翌日、アレックスは現われませんでした。火急の用事でも出来たのでしょうか。それとも体の調子でも悪くなったのでしょうか。電話で確かめる術もありません。

小学校の学期初めで気を遣ったり、私自身の体の調子が思わしくなかったせいもありましので、アレックスと次に会ったのは3日のちでした。

何とか体の調子も戻りましたので寮にアレックスを訪ねますと、友人のムタンデと話し込んでいる最中でした。様子から判断すると、体の調子が悪かったようにも思えません。

教育棟前でムタンデと

アレックスによると、大金を手にしたその日、つい気が大きくなって友人を誘い、例のエリザベスホテルに繰り出して酔っ払ってしまったようです。気にはなっていましたが、約束を果たせなくてすみませんでしたと言います。

ミスタームランボの例もありますので、前金を渡したのがいけなかったのかなという思いが少しは頭をかすめていただけに、経緯を聞き、やはり出会いは嘘ではなかったのだと安堵感を覚えました。そして、何となく嬉しくなりました。

教育棟前でミスタームランボといっしょに

アレックスは煙草を吸います。箱では買えませんので、ばら売りを買って吸っているようです。そこで、百円ライターを一つプレゼントしました。火器類の機内持ち込みは禁止されていますが、百円ライターが貴重品だと聞いていましたので、何個かをトランクの中に忍ばせていたのです。

次の日、ライターを持っているはずのアレックスがマッチを使っているのに気がつきました。その理由を聞きますと、例のホテルの酒場で日本製のライターだと見せびらかしたら、我も我もと取り合いになって、たちまちガスがなくなってしまいましたと言います。その光景が目に浮かびそうで、吹き出してしまいました。アレッスは恥ずかしそうにしています。それまで半信半疑でいたのですが、百円ライターも確かに貴重品の一つだったようです。

アレックスはビールやチキンが大好物です。毎回、お昼を食べながらビールを一緒に飲みました。もともと肌の色が黒いので目立たなのですが、ビールが入ると少し赤くなって、陽気なアレックスが更に陽気になります。私の方も顔を赤くして、陽気になり、話も弾みます。

ビールを飲んで陽気なアレックス

大学の3年間は楽園ですよとアレックスが話します。大学に来るまでも大学を出てからも、どうやって食べていくかの心配ばかりですが、少なくとも寮にいる3年間は、1日に5ドルで3食が保障されていますから、その心配をしなくていいだけでも天国ですよと付け加えました。

妻にとっても、毎回の食事の準備は大変です。ある日、長男も食べたいと言いますので、アレックスにもフライドチキンを買ってきましたら、大好評でした。鳥肉の苦手な妻と長女は敬遠しましたが、それから時折、ビールとチキンが昼食のメニューに加わるようになりました。アレックスも大喜びし、妻も食事の用意の手間が多少軽減されて、まさに一石二鳥です。

ジンバブエでは鳥肉が一番高価です。南アフリカやケニアでもそうらしいようですが、鶏をつぶして客人に供するのが最高のもてなしだそうです。従って、ショッピングセンターや中心街にはチキンインという持ち帰り(テイクアウェイ)の店が必ずありますが、日本のケンタッキーフライドチキンなどよりは高級な扱いです。骨付きの3片にフライドポテトがついて、12ドルほどでした。アレックスも普段はとても食べられませんからと言いながら、おいしそうにチキンを食べていました。

アレックスと長男

ビールにしても、普段はそう飲めるわけではありません。私自身、チキンはあまり好きではありませんでしたが、ビールを飲みながら如何にもおいしそうにチキンを食べるアレックスにつられて、つい食べるようになってしまいました。

アレックスとは色々な話をしました。ゲイリーの場合は、ある程度話題が限定されていましたが、アレックスとは文学を中心にして、話の世界が広がっていったように思います。感性の響き合う部分が重なっていたせいもあるしょう。

ラ・グーマやグギ・ワ・ジオンゴなどのアフリカの作家だけでなく、リチャード・ライトやスタインベックなどのアメリカの作家についても、よく似た受けとめ方をしていました。『怒りの葡萄』に出てくる牧師が僕は好きでねえと私が言いますと、アレックスからジム・ケイシィは私も好きですよという返事が返ってきました。

アメリカ映画『怒りの葡萄』

ラ・グーマもグギさんもライトも亡命作家ですが「亡命後に書いたものはやはり勢いがないですよ、だから例えばラ・グーマなら、南アフリカにいる間に書いた処女作『夜の彷徨』が、やっぱり一番いいですね、また、グギさんが最近出した『マティガリ』も、長い間ケニアを離れているせいか、少し観念的で勢いがないように私には思えます。人物描写にも信憑性がないですよ。」とアレックスは言います。3人とも私の好きな作家ですが、私自身も日頃から同じような感想を持っていましたので、これだけ違った環境で育った2人がこんなにも似通った感覚を持ち得るものなのかと、驚いてしまったほどです。社会主義を掲げている南部アフリカの国で、こういった話が出来るとは夢にも思いませんでした。

グギさん(小島けい画)

子供たちに英語を教えてもらうようにと話は決めたものの、ほとんど英語が聞き取れない2人にどうやって英語を教えるのか、ミスタームランボの時と同じように、心配でもあり興味もありました。

いざ始まってみますと、そんな心配は不要でした。子供の柔軟性は大人の想像をはるかに超えていました。それぞれ1時間ほど英語で英語の説明を受けて、結構反応しています。よく笑い声も聞こえてきました。おかしくもないのに笑ったりはしないでしょうから、それなりに言われている内容を理解し、心も通わせていたのでしょう。初めは恥ずかしそうにしていた長女も、毎日を楽しみにするようになりました。学校で出された宿題をアレックスに聞いたり、日本から持ってきた学校の教科書を読んでもらって録音したり、なかなか積極的に楽しんでいる風でした。時にはウォークマンを持ち出して、尾崎豊やイギリスの歌手グループテイクザットなどの歌をかけて、アレックスに聞かせていました。アレックスも初めて見る高性能のテープレコーダーに目を見張りながら、ヘッドフォンをかけては独り、音響の世界に浸っていました。ジンバブエの音楽とは随分とリズムが違うようですが、アレックスは日本の歌を大変気に入ったようです。長女は日本から持ってきていた音楽テープを録音して、アレックスにプレゼントしていました。

ウォークマンで音楽を聴くアレックス

寮でアレックスは、ジョージやイグネイシャスやメモリーなどの友人を何人か紹介してくれました。それぞれ国中から集まってきた精鋭ですが、日本ではいまだに忍者が走っていると本気で信じ込んでいました。街には日本のメイカーの自動車が溢れていますし、ハイテクニッポンの名前が知れ渡っているのに、です。

画像

ジョージ(小島けい画)

アメリカのニンジャ映画の影響のようです。アフリカ人がいまだに裸で走り回っていると思い込んでいる日本人もいるし、今回私がジンバブエに行くと言ったら、「野性動物と一緒に暮らせていいですね」とか、「ライオンには気をつけて下さい」とか言う人もいたから、まあ、おあいこですねと説明しましたら、なるほど、それじゃ日本について教えて下さいと誰もが口を揃えて言い出しました。さすがに精鋭の集団です。言われて即座に、ハイテクの国に忍者がいるのはやはりおかしいと気付き、自分たちの誤った認識をただしたいと考えたのです。しかし考えてみますと、精鋭の集団ですらこうなのですから、西洋の侵略を意図的に正当化しようとする力や、自分達の利益を優先するためにあらゆるメディアを巧妙に操作しようとする自称先進国の欲が抑えられない限り、お互いの国の実像が正確に伝わるのは難しいでしょう。日本でのアフリカの情報にも、この国での日本の情報にも、欧米優位の根強い偏見がしっかりとしみついています。

大柄なイグネイシャスは、小さい頃に大人から聞いた民話を書いたり、自ら詩を創ったりしている文学青年です。ヨシの奥さんに絵を描いてもらって、日本で僕の作品を紹介してくれませんかと真剣な顔つきで話します。日本に留学出来ませんかとも言います。

童顔のメモリーは空手に興味があるらしく、しきりに空手についての質問を浴びせかけてきます。経験のない私は、メモリーの質問にはお手上げでした。

アレックスの夢は新車(ブランドニューカー)を買って、ぶっ飛ばすことだと言います。周りの者も頷いています。私が車に乗っていないと言いましたら、アレックスが怒り出しました。日本なら簡単に車が買えるはずなのに、どうして車に乗らないのか、車に乗らないなんてどうしても理解できないと言い張ります。ほぼ詰問です。

車なしでもやっていける、確かに車は便利だが、スピード感が変わってしまうし、今の季節感も失ないたくないなどと私なりに説明を加えてみましたが、アレックスは最後まで不服そうでした。

車中心のこの社会では、車は必需品には違いありませんが、アフリカ人にとっては車を持つこと自体が、同時に一つの成功の証なのかも知れないと思いました。車を手に入れたいというアレックスの願いと、出来れば車文化の渦中に巻き込まれないでいたいという私の思いの間には、想像以上の隔たりがあるように思えてなりませんでした。(宮崎大学医学部教員)

画像

アレックス

執筆年

  2012年11月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」(No.52)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「ジンバブエ滞在記⑰モロシャマリヤング」