2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した12回目の「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ゲイリーの生い立ち

ある日、私はゲイリーの生い立ちを聞きました。

ゲイリーは英語の呼び名で、本名はガリカーイ・モヨだそうです。グレイスがゲイリーをガーリーと呼んでいるのを聞いて、何と訛りの強い英語だろうと思っていましたが、なるほど、ガーリーは言わばショナ語の愛称だったわけです。食堂で2人きりになって、いつかこの国や人々について書きたいので、少年時代、学校生活、家族、独立戦争、独立後の生活、国の現状と将来についてなど、ゲイリーの目からみたゲイリーのジンバブエを話してほしいと頼みましたら、次のように話してくれました。

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生い立ちを語るゲイリー

私は1956年4月3日に、ハラレから98キロ離れたムレワで生まれました。ムレワはハラレの東北東の方角にある田舎の小さな村です。小さい頃は、おばあさんと一緒に過ごす時間が多く、おばあさんからたくさんの話を聞きました。いわゆる民話などの話です。家畜の世話や歌が好きでした。聖歌隊にも参加していて、いつでもよく歌を歌っていました。

その頃、両親は大変だったと思います。白人の経営する農場や鉱山にたくさんの人が流れていました。石綿や金などの鉱山です。

1962年に私は父親と一緒に、ハラレのアフリカ人居住区ムバレに移りました。労働許可証と住むところが確保できたので、市役所の警備係をしながら、私をハラレの小学校に通わせようとしたのです。そして、私はジョージ・スターク小学校に2年間通いました。兄弟は、男が5人、女が4人いましたが、父親についていったのは私だけでした。

都会はムレワの田舎と違って、同世代の子供も垢抜けた感じがしましたが、暮らしは大変でした。給料が少なかったからです。文句を言う人もいましたが、白人の管理職が来て、田舎ではピーナッツバターなど食べられなかったんだから、それで充分、都会の生活を有り難く思えと言っていました。典型的なローデシアの白人です。アフリカ人の居住地区はロケイションと呼ばれていますが、下水などの設備も悪く、ひどい環境です。政府はアフリカ人の住宅環境など、問題にもしません。

2年後、父親が職を失なったので、ムレワに戻り、ルカリロ小学校に行きました。ルカリロ小学校は、今度みんなで行く予定の、ウォルターとメリティが現在通っている小学校です。7年生まで行って、小学校は修了しました。小学校では、英語、歴史、地理、算数、国語のショナ語と聖書をやり、進学のための主要科目は英語と算数でした。教師はいい人も少しはいましたが、人種による差別意識の強い人も多くて、教室で生徒をよく殴りました。サッカーもしましたが、聖書と歌が好きでした。

ルカリロ小学校

当時は、試験があってその試験に合格しなければ、進学は出来ませんでした。スミス政府は、再受験を許しませんでした。小学校を出たら、大部分のアフリカ人を農場か工場で働かせるためです。ボトルネックと言われています。大多数が瓶の部分、小学校から先に行ける人は瓶の先の部分でごく僅かというわけです。親が上の学校に子供をやるのも大変です。家畜を売ったりして、なんとか学費を都合しなければなりません。アフリカ人が学校にいくのは本当に難しかったのです。

小学校を出たあとは、父親を助けて家で家畜の世話をしていました。74年に2ヵ月間、ある煙草会社で働きました。そのあと、76年に別の煙草会社に採用されました。GAという会社で、給料は1週間に8ドルでした。今、空港の近くにある同じ系列の会社で弟が働いていますが、月給が600ドルですから、今ならたぶんそれくらいの額だと思います。事務員で、入金伝票を書いたりする事務所での仕事でした。そこには、6年間勤めました。

78年、独立戦争中のことです。ムレワは「保護地区」になっていて、政府の軍隊によってたくさんの人が村に集められました。12月にハラレからムレワに帰る途中、白人の軍隊に襲われて腰の辺りを撃たれました。たくさんの血が流れて、気絶しました。一緒にいた友人が近くの村に助けを求めてくれて、その村に運ばれました。弾を抜いてもらって運よく助けられましたが、今でも腰に大きな傷が残っています。

家族もみんな戦争に係わりました。弟も解放軍に加わり、撃たれてミッション系の病院に担ぎこまれました。そこに政府軍が来て「誰がテロリストか」と弟を尋問したそうです。その頃、ちょうど戦争が終わったので命拾いしましたが、もう少し戦争が長引いていれば、弟もたぶん殺されていたでしょう。79年の暮れに戦争は終わり、独立したのは80年です。

独立後、再び同じ会社に戻って働きました。それも、次の年の81年までです。その後、会社は競買にかけられましたから、新しい仕事を探さなければならなくなりました。家族を支えていかなければならないので、必死で仕事を探しましたがなかなか見つかりませんでした。田舎とハラレを行ったり来たりしながら、農場で働いたり、石綿や食用油の工場に行ったりなど、臨時雇いの仕事を転々としました。

去年の暮れに、現在私が通っている教会に来ている人から、売りに出している家の世話をする人を探している友達がいるので働かないかと誘われて、この家に来ました。今、この家は55万ドル(約1375万円)で売りに出されています。家を見に来た人は、たいてい口をそろえたように、高すぎると言っていますから、すぐには買い手は決まらないと思いますが、この仕事もこの家が売れるまでです。ここに来たのは今年の1月の初めで、その月の終わりに他の所に住んでいた家主のおばあさんが戻ってきました。すでにお話したように、ここの給料は1ヵ月に170ドル(約4200)です。草花や樹の水やりと家の番が仕事ですが、買物や銀行や郵便局にも行かされます。週に1回、木曜日ですが、おばあさんの妹の車が来て、一緒に買物に連れて行かれます。その日は1日仕事で、銀行や郵便局にも立ち寄ります。

家主のおばあさんが住む家を借りて暮らした借家

あなたが来る前は、この家と交渉役の日本人の方の家とを何度も往復しました。家主のおばあさんの伝言を伝えるためです。でもそのお陰で、こうして運よくあなたに会えました。スミス政権の下では、人々の暮らしは大変でした。軍隊が村に解放軍の捜索に来て、たくさんの家が焼かれ、財産を失ないました。解放軍の支援をしたからという理由です。当時は、交通の手段が奪われて他に方法もありませんでしたから、誰もが長い距離を歩くしかなかったのです。私もムレワまでの約100キロの遠い、遠い道を歩いて帰りました。

軍隊は、老人も子供も容赦なく殴りました。友達もたくさん死にました。小学校以来の一番の親友も死にました。もう2度と帰って来ません。私など、今生きているだけでも幸運な方です。戦争で戦って独立したのに、終わってみれば仕事がありません。この国がどうなってゆくのか、私には全くわかりません。昔に比べれば、学校には行きやすくなりましたが、それでも物価が高くてかないません。私には家族がいるので、一生懸命に働くつもりですが、これから先はどうなるかやはり分かりません。

ウォルターとメリティを小学校にやるのに、毎年10ドルずつかかっています。170ドルでは大変ですが、ムレワの家では、玉蜀黍(とうもろこし)や野菜を育て、それらの一部を売ったお金で、何とか生活しています。

ウォルターとメリティ

今一番の願いは、一人立ちして自分でなんとかやっていけるように、子供たちを学校にやることです。そのためには早く運転免許を取って、タクシーの運転手になろうと思っています。そうすれば、何とかウォルターを中学校にやってやれると思います。

毎週日曜日の朝、ゲイリーは歩いて教会に出かけています。南の方に4キロほど行った所にある教会です。私たちが住むようになってからは、自転車に乗って出かけるようになったようです。家族が来てからは一度も出かけてはいませんが、そこで賛美歌を歌うのもゲイリーの楽しみだそうです。独立戦争で死ぬような目に遭いながら、戦争が終わっても、結局、苦しい生活は変らなかったようです。現金収入を得るために、田舎の家族と離れて、都会に来て働いて、今は侘しい独り暮らしです。画像

一人暮らしのゲイリーを訪ねて来た家族とお母さんと従兄弟

ほら、まだこんなに傷跡が残っているでしょうと、ゲイリーは腰骨の上についた古傷を見せてくれました。独立戦争で親友を失なった話をしてくれた時には、目に涙を浮かべていました。

話し終えたあと、賛美歌を何曲か歌ってくれました。おそらく、苦しい毎日の生活や不安な将来への思いを交錯させながら、もう二度とは帰って来ない親友を思い出して歌ってくれたのでしょう。憂いに沈んだゲイリーの歌声は、四方の白い壁に跳ね返り、
聴きいる私の胸のなかに、ずんと沁み入るようでした。(宮崎大学医学部教員)

ゲイリー

執筆年

2012年6月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」(No.46)

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「ジンバブエ滞在記⑫ ゲイリーの生い立ち」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した11回目の「ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記⑪ お別れ会

手紙には1時頃に皆さんでお越し下さいと書いてありましたので、4人は12時50分に盛装して玄関に現われました。フローレンスのモデル代や少しは私たちが援助出来た分で、それぞれ新しい服が買えたようです。前日私に少し熱があり早起きが出来なかったせいもあって、1時までには準備が整のわず、4人には一度部屋に帰ってもらいました。ハンバーガー、スパゲティ、肉と野菜の炒め物、こふき芋、ゆで卵、パンなどをバイキング形式に並べて、各自がお皿で取れるようにしました。前の日にシェラトンで買っておいたデコレーションケーキやアイスクリーム、それにお菓子や果物も並べました。ゲイリーたちはアルコール類を飲まないので、飲み物にはジュースや紅茶などを用意しました。これくらいのものでもいざ外国で準備をするとなると、なかなか大変でした。

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フローレンスといっしょに

お別れ会が始まったのは、1時間遅れの2時からでした。私たちはシャンペンで、あとはアップルジュースで乾杯をしました。なぜか、どちらの母国語でもない英語でチアーズ!と声を掛け合いました。

米が主食の日本人と玉蜀黍(とうもろこし)が主食のショナ人が、ハンバーガーとスパゲティというのも考えてみれば不思議な話ですが、それでも皆それぞれにおいしそうに食べていました。現実に、ゲイリーたちが肉を食べられるのは週に1度くらいだそうですから、ごちそうには違いありません。一生懸命に準備した気持ちは、汲んでもらえるでしょう。普段余りたくさんは食べられないはずなのに、子供たちもゲイリーもフローレンスもがつがつしたところがありません。

長女がテープレコーダーから、いま若者の間で流行っている日本の歌を次々と流します。大体食べ終えた頃、街の大きなスーパーの音楽コーナーで買ったヴィラ音楽のテープをかけてみましたら、ゲイリーとフローレンスが立ち上がって軽快に踊り始めました。軽く拳を握り、90度に曲げた両腕を前後に振り、足を軽く上げるだけの動作が主体で、時折り違うステップを踏んで向きを変える踊り方です。踊り自体は単純なのですが、腰の切れがよく、ぴたりと決まっています。踊りの好きな妻が、すかさずフローレンスの横に並んで、踊り始めました。今まで経験したことのない踊りを覚えて帰ろうと、フローレンスやゲイリーに合わせて踊っています。子供たちも加わりました。特にウォルターが軽快です。私はひとりカメラマンに専念しました。絶えずレンズを意識しながらも、メイビィが自分の踊りに酔い痴れています。曲が日本の歌に変っても、踊り方はあまり変わりませんでした。

フローレンス

何曲か踊ったあと、全員一休みです。ケーキやデザートを食べながら、今度はゲイリーとフローレンスがショナ語の歌を歌ってくれました。日本でも知られているコシシケレリアフリカのショナ語版です。コシシケレリアフリカは「神よアフリカに恵みを」というアフリカの解放を願って作られた賛美歌調の歌です。1897年に南アフリカのイーノック・ソントンガというテンブ人によって作られ、南部アフリカで親しまれています。南アフリカのほか、ザンビア、タンザニア、ジンバブエではそれぞれその国の言葉で国歌として歌われていると日本でも紹介されていました。ジンバブエ大学で歴史学を研究していたソロモン・ムッツワイロ氏が作詞した国歌が2年前に出来たそうで、今はこの曲が国歌ではありませんが、アフリカ人の間では広く歌われていると言われます。ショナ語の曲名は、イシェコンボレリアフリカでした。2人に途中から子供たちも加わって、きれいなハーモニーを聞かせてくれました。大学の授業で学生にも聞いてもらいたいからと録音の用意をして、今度はゲイリーとフローンスの2人に歌ってもらいました。

お返しに私たちもコサ語のコシシケレリアフリカを歌いました。
妻のピアノ伴奏で家でも時々歌っていたからです。1989年に来日した南アフリカの作家ミリアム・トラーディさんを宮崎に迎えたとき、家でもミリアムさんと一緒にコサ語でその歌を歌ったことがあります。久し振りでしたので最後まで歌えるかどうか多少不安でしたが、なんとか無事に歌い終えました。

ミリアム・トラーディさんとコシシケレリアフリカを

デザートを食べ終えた頃、ゲイリーの甥が訪ねて来て、お別れ会に加わりました。それまでにもゲイリーをよく訪ねてきていましたので、すでに顔見知りです。若者の踊りには勢いがあります。
残っていた料理を動けないほどお腹一杯に詰め込んだあと、後半の部の踊りに加わりました。踊ったあとは、長女からウォークマンを借りて、ひとり音楽の世界に浸っていました。最後に、私の方から少しだけお別れの挨拶をして、妻と子供たちがプレゼントを手渡しました。ゲイリーにはお金とハンカチを、フローレンスにはネッカチーフや裁縫セットなどを、子供たちには辞書と文具やおもちゃなどをそれぞれかわいい布の袋に入れたプレゼントでした。今度はゲイリーが立ち上がって、みんなを代表してと挨拶を始めました。

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ゲイリーと

「7月21日以来、親切にしてもらったことに対して、また友だちになれたことに対して感謝しています。この日は一生忘れないでしょう。ヨシもケイコもサヤカもセイも今のままで渝らないでいて下さい。ウォルターとメリティは学校があるので帰りますが、フローレンスとメイビィは皆さんがお帰りになる日までここに残ることにしました。フローレンスは私の食事を作ってくれますが、モデルや洗濯のお手伝いも出来ると思います。」思わぬ事態になってきました。グレイスに辞めてもらうつもりでしたが、滞在期間も短かく時間も大切ですから、出来れば知り合いで洗濯だけでも手伝ってくれる人はいないだろうかと8月の半ば頃にゲイリーに相談を持ちかけていたのです。フローレンスがやってくれるというなら、願ったりかなったりです。よけいな気を使わなくて済みます。モデルの方も、あと1ヵ月も描けるとは思ってもいませんでした。

フローレンス(小島けい画)

ジンバブエを発つ前に、もう一度お別れを言うために、ウォルターとメリティの学校に行こうと言いましたら、タクシーの運転手をしている私の友人なら、500ドルも出せば車を出してくれるよとゲイリーの甥が言っています。金額の方は少々怪しいと思いますが、運転手付きの車か小型バスを確保して、みんなで学校の2人に会いに行くとしましょう。飛び入り客あり、ゲイリーの発言ありで、事態は思わぬ方向に進みましたが、いずれにしても、ゲイリーの家族とはますます付き合いが深まりそうです。2時に始まったお別れ会が終わったのは、5時半を少しまわった頃です。(宮崎大学医学部教員)

ゲイリーたち

執筆年

  2012年5月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」(No.45  2012年5月10日)

ダウンロード・閲覧

  →「ジンバブエ滞在記⑪お別れ会」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した10回目の「ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記⑩ 副学長補佐

ツォゾォさん

子供たちと一緒にバスケットボールをしている時、通りかかった学生がよく声をかけてきました。ある日、3人でシュート練習をしていましたら、1人の大柄なショナ人の学生が、どこから来たんですかと気軽に聞いてきました。日本からですと答えますと、
私の方をまじまじと見つめながら、日本人でもバスケットボールをするんですねと言います。それから、こんな風にお辞儀するだけかと思ってましたよ、今まで見た日本人はたいていこうでしたからねと言いながら、腰を曲げて深々とお辞儀をしてみせてくれました。

ジンバブエ大学構内

その学生は、その後も子供たちを見かけると遠くの方からでもバスケットを一緒にしようと声をかけてくれました。日曜日にはたくさんの人が集まって練習しているから一緒にやりませんかとも誘ってくれました。間もなく子供たちの学校が始まったり、冬期休暇でキャンパスからすっかり学生が姿を消したりで、練習には一度も参加出来ませんでしたが、もう少し時間的な余裕があり、うまく時間が合っていれば、日本人がバスケットをする姿を見てもらえたのにと今でも心残りです。日本では、留学生や教員や学生といっしょに毎週試合をしていましたので、体力的には何とかやれたでしょうから。その学生とは一緒にやれませんでしたが、高校生くらいの青年とはしばらくの間一緒にプレイすることが出来ました。長女と2人でやっているのを近くでじっと見ていましたから、一緒にどうですかと声をかけたんですが、その青年は待っていたように2人に加わりました。コートはもちろんですが、ボール自体がなかなか手の届かない存在ですから、バスケットボールをする機会があまりないのでしょう。専門的にやったような動きではありませんでしたが、いかにも楽しそうに動いていました。じゃあ又ねと子供たちとも気軽に挨拶を交わして別れましたが、その人とはその時が一度きりのプレイとなりました。

今でこそ学生や教職員の大半がアフリカ人ですが、1980年の独立までは白人地区にある白人中心の大学だったそうですから、その名残りでもあるのでしょうか、バスケットコートに限らず、大学の施設を部外者が使うのはなかなか難しいようです。安易に許すと、人で溢れかえる可能性があるからでしょう。

バスケットコートを使い始めてしばらくした頃、ガードマンがやって来ました。許可証を見せて下さいと聞かれました。在外研究員で日本から来ましたと事情を説明しましたが、学校から正式に許可証をもらって下さい、そうでないと使えませんと強硬です。
一向に近くを離れそうにありませんので、仕方なく途中で止めざるを得ませんでしたが、外のコートを使うのに許可証を強く求められるとは夢にも思いませんでした。舗装されたコートが減るわけでもないのでしょうに。

歓迎されていないとはいえ、一応は大学の在外研究員でという話になっていますので、許可証くらいはすぐに出してもらえると高を括っていましたが、書類には時間がかかります。ミスタームランボに頼んでもツォゾォさんに頼んでも、いつも返事ばかりでした。

おそらく、ツォゾォさんが副学長補佐になるという時の偶然がなかったら、許可証は帰るまでもらえずじまいだったと思います。その思いはその場で感じた確信に近い実感です。ある日ツォゾォさんの部屋に行きましたら、表札がM・ムランボの名前に変わっています。2人部屋に居たムランボさんがお蔭で独立できたようです。きのう会ったとき、ツォゾォさんは何も言っていませんでしたが、一体どこへ行ったのでしょうか。

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ツォゾォさん

英語科の事務室で聞いて捜し当てた先は、管理棟の副学長補佐の部屋でした。なるほど、ツォゾォさんは管理職に昇進したのか。隣の小さな部屋には、専属の秘書もいます。しばらくすると、年配の男の人が紅茶を運んで来ました。専用係のようです。部屋にはコピーの機械まで備えつけられていますし、秘書はパソコンを使っていました。図書館では一台のコピー機の前に人の列が出来ていますし、一般には手動のタイプライターでさえ貴重品だというのに、です。

それから2、3日して、「ツォゾォ、UZで新しいポストを得る」という見出しで8月12日付けの「ヘラルド」紙に次のような記事が掲載されました。

ジンバブウェ大学は今月の1日付けで、英語講師トンプソン・クンビライ・ツォゾォ氏を新副学長補佐に任命した。ツォゾォ氏の主な任務は、ゴードン・チャブンドゥカ教授の補佐として、ジンバブウェ大学内外の事情に精通することであり、精通すれば、大学と大学外の関係を改善するように副学長にも進言できる。45歳のツォゾォ氏は、1990年にスウェーデエン、デンマーク、ノールウェイ、フィンランド大使に任命されたンゴニ・チデヤ博士の後任である。
1984年からUZに勤務するツォゾォ氏は「このポストでの私の任務は、ジンバブウェ大学で行なわれている活動をうまく外部に伝え、大学のイメージを高めることであると思います。」と話している……

ジンバブウェ大学(UZ)

急に任務に燃え立ったというわけでもないのでしょうが、副学長補佐室に移ったその日に、学内施設が使えるようにという手紙を書いて、秘書にタイプ打ちを頼んでくれました。もちろん副学長補佐の署名入りです。その書類を持って係を訪ねたら、バスケットボールのコートだけでなく、テニスコートとプールまで使える許可証を即座に発行してくれました。ついでに図書館にも手紙を書いてくれて、その日のうちに二つもの許可証が手に入ってしまいました。図書館の許可証は、持って行った写真をホッチキスで留めただけのものですが、図書館のゴム印が押されているばかりか、れっきとした係の人の署名入りです。

「ヘラルド」はこの国の一大紙です。かなり大きな記事でしたから、副学長補佐への昇進は相当な出来事なのでしょう。ヨシ、ちょっとついて来いと言って、学内の小さな図書室にいる女性の所に案内してくれました。奥さんの妹さんだそうで、昇進の報告に来たということらしいです。

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ツォゾォさんと居合わせた職員

そこに居合わせた他の職員も含めて、わいわいと言いながら、如何にも嬉しそうなツォゾォさんと一緒に、5、6人で写真を撮りました。後日焼増しをして写真を届けに行きましたが、あなたは映りがいいとか悪いとか、ひとしきり写真の話で持ちきりでした。大学でも、写真を撮るのは一大行事なのです。(宮崎大学医学部教員)

ツォゾォさん

執筆年

  2012年4月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」(No.44)

ダウンロード・閲覧

  →「ジンバブエ滞在記⑩副学長補佐」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した9回目の「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

それから5日のちに、ゲイリーの家族がやって来ました。奥さんはフローレンス、男の子はウォルター、女の子は上がメリティ、下がメイビィと言います。すべて、英語の名前です。どうしてショナの名前ではないのでしょうか。メイビィは「多分」という意味なのでしょうか、名前としては初耳です。

ウォルターとメイビィ

フローレンスは鼻筋が通って、涼しそうな顔つきです。フローレンスも子供たちもどことなく緊張した面持ちですが、私たちの子供たちは、同じ敷地内に住むのだから毎日一緒に遊べるぞと、早くもわくわくしています。ゲイリーの子供たちはショナ語しか話せないと言いますし、二人の方も日本語しか話せません。これから遊ぶのはいいとして、どんな言葉を使って遊ぶのでしょうか。

フローレンス

歓迎の意味も込めて、一緒に写真を撮ろうと子供たちが言い出しました。早速カメラの用意です。ゲイリーたちはと見ますと、部屋に帰りかけています。どうするの?と聞きましたら、写真を取るんですから一帳羅に着替えて来ますという返事がかえって来ました。

ゲイリーたち

庭で二家族の写真を撮りました。お決まりのチーズなどと言ってはみましたが、顔はどことなく硬張ったままです。撮り終わったよと言ってからカメラを動かさずによそ見をしながら連続でシャッターを切ってみましたが、それでも笑顔はあまり見られませんでした。初めてですから、仕方がないのかも知れません。

しかし、日本から持ってきたフィルムが足りなくなってカメラ屋に行き、24枚撮りのフィルム1本が38ドルで、その焼増し料金が100ドル近くもすると知ったとき、気軽に笑えなかったはずだと思わずにはいられませんでした。写真を撮るのは、一大事なのです。今のこの国の状況では、自分でフィルムを買ってカメラを自由に使える人はそう多くはないでしょう。

子供たちが一緒に遊べるボールを探しに行きました。大学のコートで使う予定のバスケットボールはすでに持っていましたので、新たにバレーボールを買ってきました。ゲイリーには何となく気がひけて言えませんでしたが、バレーボールは169ドル99セント、ゲイリーの給料とほぼ同額です。ゴムのバスケットボールの方は189ドル99セントで優にゲイリーの月給を超えていました。

総じて、生活必需品でない品物は値段が高く、何日かのちにスーパーで質の悪いサッカーボールを買いましたが、それでも50ドルもしました。硬式用のテニスボールを1個下さいと言って、店員の白人青年ににゃっと笑われてしまいましたが、1個35ドルでした。それでも、どのボールも充分に元が取れるほど子供たちには役に立っていたと思います。なかでもサッカーボールは、ウォルターと長男をむきにさせてしまうだけの魔力を秘めていたようです。ボールをはさんだとき、子供たちに言葉は要らないようで、大人の心配をよそに、連日楽しそうにボールを追いかけていました。

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いっしょにボールを蹴る子供たち

子供たちにとって、広い庭先をかけ回る毎日は本当に楽しかったようです。日本からの2人にとっては最高の夏休み、ジンバブエのウォルター、メリティ、メイビィにとっては忘れられない冬休みとなりました。日曜日以外は英語やアート教室がありましたので、午前中こそ遊べませんでしたが、午後からは庭に出て5人入り乱れて遊んでいました。投げたり、蹴ったりのボール遊びが多かったようですが、鬼ごっこや木登りなどもやっていました。
相撲好きの長男は、日本の国技のアフリカでの伝授に成功したようで、長男とメリティが取り組み合っている横で、末っ子のメイビィが大きな声でノコッタ、ノコッタと囃子たてていました。

ウォルターはゲイリーに似て穏やかな性格で、笑顔の素敵な少年です。精悍な体つきで身のこなしが素早く、サッカーボールを追いかける姿が堂に入っていました。

メリティは、はにかみ屋さんです。表面に感情を表わしませんが感受性が強く、いつも人の陰にそっとかくれているような少女でした。お互いに感ずるところがあったのでしょうか、長女と一番近かったように思います。

メリティと長女長女

メイビィは茶目っ気たっぷりです。陽気でいつも周りを明るい気持ちにさせてくれました。愛敬もたっぷりで「メイービィッ」という掛け声とともに始まるオリジナルの踊りは、腰が入った本格派です。みんなが手拍子を取ると、歌いながら得意そうに何度もその踊りを披露してくれました。写真を撮るときは、必ずカメラを意識してポーズを取ります。いくらみんなが笑わせようとしても、最後までそのポーズを崩さず、表情はいつも真剣そのものでした。

メイビィ

ゲイリーもそうでしたが、初めから家族も控えめでした。その態度は最後まで渝りませんでした。何かをせがまれた記憶はありません。ゲイリーの子供たちの方も、自分たちの方から言い出せない場合が多く、いつも2人が庭に出てくるのを心待ちにしているようでした。

私たちがいなくても、好きなように庭の広い所で遊んで下さいとゲイリーには言ってありましたが、3人は部屋の中に居るか、部屋のすぐ前の小さな空き地で遊ぶか、南西に広がっている数メートルのマルベリーの木に腰を掛けているかでした。

最初は気づきませんでしたが、部屋の近くを離れない大きな原因はデインだったようです。子供たちを見ると、いつも大きな声で吠えるからです。陽気なメイビィも、自分よりもはるかに大きな犬に吠えられて青ざめていました。ウォルターなどは、脱兎の如く部屋に逃げ込んでいました。

よく観察していますと、デインは白人には吠えないで、アフリカ人を見ると吠えるのです。滞在した期間中に、ゲイリーの親戚や知人などたくさんのアフリカ人が家に来ましたが、慣れているゲイリーとグレイス以外は、誰に対しても必ず吠えていました。ですから、ゲイリーか私たちが出ていかない限り、恐がって門から入って来る人はいませんでした。訪ねて来てくれた学生の一人は、追いかけられて気の毒なくらいでした。

偵察(?)にきた中年女性やおばあさんを訪ねてきた男性や、家主の妹さんやそのお孫さんらしき人は吠えられませんでした。最初から吠えられなかった私たちはデインの目の中では白人に分類されているのかも知れないとふと考えました。

南アフリカには、英語と並ぶ公用語アフリカーンス語を話すアフリカーナーと呼ばれるオランダ系の人たちが圧倒的に多い地域があります。アパルトヘイト政権を支えるその人たちのアフリカ人に対する態度は非常に強硬で高圧的、その地域では飼い犬もアフリカーンス語で吠えるとさえ言われるほどです。犬を借りてその偏狭性を表現したものでしょう。

デインを見ていると、そんな南アフリカの話を連想します。仔犬の時から、アフリカ人を見たら吠えるように訓練されてきたのではないかとさえ思えてきます。子供たちが5人で遊んでいる時でも、時折り急に吠え始めたりする場合があって、その都度みんなで叱りつけました。そのせいでしょうか、休みが終わるころには、5人が遊んでいても顔を前脚に乗せて、うっとおしそうに目を閉じて昼寝を続けるようになりました。

ゲイリーとデイン

トランプなどのゲームや絵を描いたりして、室内で遊ぶ日もありました。日本から持っていった色鉛筆や画用紙を使って、お互いの似顔絵や自分たちの学校の絵を一心に描いていました。色鉛筆や画用紙を買う経済的な余裕などはゲイリーにはないでしょうから、街で買ってウオルターたちにプレゼントしましたら、自分たちの部屋でも絵を描く時間が増えたようです。描いた絵をよく見せに来てくれるようになりました。

長女は日本で使っている中学2年生用の英語の教科書を持ってきて、6年生のウォルターと一緒に声を出して読んでいました。長男はメリティとメイビィにショナ語を教えてもらっています。象の絵を描いてンゾウと言えば、象のショナ語が相手に分かる訳です。長男は教えてもらったショナ語を忘れないように、よくメモをとっていました。言いたいことが相手に通じないもどかしさを感じたときには、大人が通訳として引っ張り出されることもありましたが、大体はお互いの気持ちが通じ合っているようでした。

ジンバブエでもサッカーが盛んです。ウォルターのボールの蹴り方を見ても、そのサッカー熱が伝わって来ます。人々の関心も想像以上に高く、大多数の人たちが食べるだけで精一杯の毎日ですから、せめて観て楽しもうと思うのも無理はないと思いました。
サッカーのナショナルチームに託す人々の思いも強く、観て楽しめるプロスポーツがそうあるわけではないようですので、外国との対抗試合はさながら国民のお祭りです。

ウォルター

8月16日の日曜日、国立競技場で南アフリカとの対抗試合が行なわれました。マンデラの釈放以来、南アフリカは徐々に国際社会にも復帰出来るようになって、今回のサッカーチームも、22年振りに国際試合への参加が叶い、アフリカカップのEグループの予選に飛行機で乗りこんできたというわけです。

その朝、ゲイリーとフローレンスが仲良く手をつないで台所の入り口に現われました。今日は南アフリカとのサッカーの試合があるので、テレビを見せてもらえないかと言っています。お安い御用で、さっそく二人を居間に案内し、どうぞと言って私は部屋を後にしました。

最初、ゲイリーは居間に入るとき、靴を脱ごうとしました。そんな必要はないよと言いましたら、にっこり笑ってそのまま上がってきました。今まで家に入る時は必ず靴を脱ぐように言われていたのでしょう。

ある日、テレビがあるのにどうして見ないのかとゲイリーから聞かれました。映りが悪いせいもありましたが、2局しかない国営放送は放映時間も短かく、内容が硬くてあまりおもしろくなかったからです。黒人霊歌やジャズに馴れている耳には、テレビから流れてくる音楽がどれも同じような曲に聞こえたせいもあります。それにテレビを見ている時間的な余裕もありませんでしたし。しかし、テレビがありながら見ようとはしない状況が、テレビやラジオなどの楽しみさえかなわないゲイリーには、納得出来ないようでした。

2時間ほどしてから部屋を覗いてみると、2人は黙って音の出ないテレビをじっと見つめていました。どうしたのと聞くと、色々やってみましたが音が出ないんですと言います。ずっと音なしで見ていたのと尋ねると、こっくりとうなずきました。そろそろ終わりも近いようで、ジンバブエが南アフリカを4対1で下したようです。ゲイリーもフローレンスも高揚しています。私は手を差し出して、ゲイリーとがっちりと握手しました。何もジンバブエが南アフリカに勝ったからといって、私までが喜ぶ理由は何も見当りませんが、ことの成り行きです。

この勝利によって、ザンビアなど他のチームとの得失点差次第で、94年にチュニジアで開催されるアフリカカップに代表として出場出来る可能性が大きくなったと、翌日の新聞で大々的に報じられていました。

フローレンスはスカートの上から、鮮やかな色の布を巻いています。洗って少し色が落ちているようですが、色といい鳥の図柄といい、なかなかアフリカ的な感じがします。それは何ですかと聞きましたら、手を拭いたり、座る時に広げて下に敷いたりする綿の布ですよとゲイリーが教えてくれました。エプロンや割烹着などの類です。赤ん坊を背中にくくり着けるのに使う時もあるようで、フローレンスがはずして見せてくれました。もともと北隣のザンビアやマラウィで使われていたらしく、ザンビアとかマラウィとか呼ばれているそうです。

ある日、妻がザンビアを着たフローレンスに絵のモデルになってもらえないかなと言い出しました。短期間の滞在でもありますし、子供と一緒なので何かと大変でしょうから、花のスケッチでも出来れば大満足と当初は考えていたようですが、フローレンスを見て、描いてみたいという気持ちが湧いてきた感じでした。スケッチした絵は毎日のようにゲイリーたちに見せに行っていましたので、フローレンスの方も絵には関心があったらしく、モデルになってくれませんかという依頼にまんざらでもなさそうな様子でした。

フローレンス(小島けい画)

体調が整わなかったりもして、フローレンスのスケッチを始めたのは、8月の終わりに近い頃でした。1週間のちには新学期が始まりますので、子供たちを田舎に連れて帰らなければいけませんとフローレンスは言います。お礼に10ドルを渡しました。日本ではとてもそんな値段でモデルさんには来てもらえませんが、この国では1日「メイド」をして働いてももらえない額なので、それで許してもらいました。時間給10ドルのモデルフローレンスの誕生です。

初めての経験ですので、フローレンスは相当緊張していましたが、慣れてくるに従って硬さも取れていきました。時折り通りすがりに私にからかわれてポーズを崩し、スケッチが中断される時もありましたが、二人とも真剣な様子でした。1日に1時間前後しか時間は取れませんでしたが、それでも予期せぬ幸運で有り難いことでした。

画像

フローレンス(小島けい画)

8月の最終土曜日に、お別れ会を計画しました。9月から学校が始まるとはいえ、子供たちにとっても遊び友達がいなくなるのは何よりもさびしいことです。お客様好きの子供たちが招待状を作り、前の日の夕方に4人でゲイリーの部屋まで届けに行きました。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

  2012年3月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」(No.43 )

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  「ジンバブエ滞在記⑨ ゲイリーの家族」