2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した8回目の「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

グレートジンバブエ

長女と長男、遺跡を背に

ハラレに来る前は、折角ジンバブエまで来たのだから、有名なヴィクトリアの滝と石造りの遺跡くらいは観に行こうという気持ちが少しはありましたが、いざ住み始めてみると、わざわざ無理をしてまで観光にでかけるのが億劫になってしまい、親の方は遠出は止めようと言い出しました。しかし、子供たちの好奇心を押しとどめる術もなく、結局子供たちに押し切られ、どちらか一方という妥協案を出して、重い心を引きずりながら、一人で街中の旅行会社に出かけました。

遺跡グレートジンバブエもヴィクトリアの滝もハラレからは相当な距離があります。遺跡は南に300キロほど、滝は西に900キロ近くも離れています。今は乾期ですから、遺跡の方は大丈夫のようですが、滝の方はザンベジ川の流れる湿地帯にありますので、マラリアの危険がないわけではありません。入院する事態を想像すると、ますます億劫になります。結局、今回は遺跡に関心の高い長男の意見を優先して、グレートジンバブエ行き日帰り旅行に落ち着きました。

飛行機と車の料金に昼食付き税金込みで、3733ドル、1人約933ドル、23000円あまりです。高いと思うのは、ハラレに少し馴染んできたせいでしょうか。しかし、1000ドル近いお金を出して、日帰り旅行に出かけるアフリカ人がそういるとは思えません。

ジンバブエの地図

9月からは子供たちの学校も始まりますので、8月の半ばの土曜日に行くことにしました。予約を済ませて料金は払ったものの、いざ行くとなると空港までの行き帰りも大変です。家から空港まで20キロはあります。初めてでもありますので、8時過ぎの便に乗るには、6時くらいには家を出た方がよさそうです。タクシーの予約もしなければいけませんが、アフリカ時間が気にかかります。電話には慣れてきてはいましたが、飛行機に乗り遅れるとあとの手続きも面倒ですので、今回は念には念をいれて、ゲイリーに予約を頼むとしましょう。電話でゲイリーがどんな言い回しをするかにも興味があります。今後の参考にさせてもらおうと思います。

出発の朝です。アフリカ時間の心配は杞憂に終わりました。予定の6時きっかりにタクシーが来て、滑り出しは順調です。土曜日でもあり朝が早いこともあって、タクシーは市街地を快調に飛ばして、半時間後には空港に着きました。ただ、タクシーの窓ガラスが割れており、隙間から冷たい風が入ってくるとは、予想もしていませんでした。隙間といってもこぶし大はあります。石でも当たったのでしょうか。ぎざぎざの穴を中心に、後部の窓ガラス全体にひびが入っています。今にも砕け落ちるのではないかと気が気ではないのですが、運転手の方は別に気にしている様子もありません。穴の前に座った妻は風に弱いので、中央に身を寄せウィンドブレイカーの衿を立てて震えています。

この車に限らず、タクシーは全般に、料金が安い代わりに辛うじて運転出来ればいいという状態の車が多く、ドアの把手が取れていたくらいで驚いていてはいけません。その場合は運転手が気を遣って、開けるのにコツがあってねと言いながら開けてくれます。タイプは違いますが、一応は運転手による自動開閉式です。

国際空港もぱっとしませんでしたが、国内線の方は、更にぱっとせず、行けるのかなあと不安になるほどでした。しばらくすると、小さな黒板に出発便の掲示が出て、無事チェックインを済ませました。

空港内で、日本からと思われる団体客を見かけました。ヴィクトリアの滝へ行くようです。ズック靴に、リュックを背負い、首からカメラを下げて、右手に風呂敷包みを持ったおばあさんがいました。添乗員と思われる若い女の人に大きな声で、何か日本語でしゃべりかけています。4人は思わず顔を見合わせて、ヴィクトリアの滝へ行かなくてよかったとしみじみ思いながら、同時に深い溜め息をつきました。

さあ、いよいよ出発です。飛行機は12人乗りの小型のプロペラ機で、機体にはユナイテッドエアと書いてあります。パイロットもアメリカ人のようで、乗客は12人、すべて外国人で、私たち以外は白人です。飛行機に弱い長男は前の席を希望しましたが、座席は向こうが決めるらしく、真ん中の席でした。すでに、長男は酔わないかと身構えています。

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プロペラ機の前で

飛行機は飛び立ちました。小さいので音が大きく、会話も難しい状態です。目的地は南へ300キロのマシィンゴ空港です。

厳しい太陽が照りつける大地はからからに渇いていました。ハラレの市街地を出ると、時折り集落が目に入って来ますが、湖や川などは一切見当りません。空港に着くまでの一時間ほど、同じ赤茶けた大地が続いていました。今世紀最大の旱魃といわれる光景が眼下に広がっている、そんな感じでした。一体、この渇ききった中で、人々はどうやって暮らしていけるのだろうか。窓越しの大地を見ながら、そんな疑問が頭を離れませんでした。

1時間でマシィンゴ空港に着きました。出迎えの車が2台待っていましたが、自家用車です。小型バスの都合がつかなかったから、自家用車3台で運ぶ、追って1台来るので待って欲しいと言われました。

小さな空港です。時間もあるし、記念に写真でも取ろうかとカメラを出したら、空港の建物は撮影禁止になっていると注意されました。飛行機ならいいですよというので、飛行機と一緒に子供をフィルムに収めました。よく事情はわかりませんが、今、軍隊のある社会主義の国にいるのだ、そんな思いがかすかに頭をかすめました。

10分ほどして、白人のおばあさんが迎えに来ました。渇いた大地の中の舗装した道路を、猛スピードをあげて車は進みます。道路脇両側の舗装されていない細い道をアフリカ人が歩いています。大抵は、大きな荷物を頭に乗せて歩いていました。グレートジンバブエまで28キロと案内書には書いてありましたが、あっという間に、遺跡近くのホテルに着きました。

外国人向けのホテルは、小綺麗に整備されていて、さっそく、給仕のアフリカ人が飲み物の用意をしてくれました。子猿がいる!と子供たちがカメラを出しました。

一息ついたあと、グレートジンバブエに出発しました。運転手が若い女性に変わっています。名前をターニャと言い、休暇を利用して南アフリカから手伝いに来ており、ここから車で3時間ほどの所に住んでいるとのことでした。南アフリカは地続きだから、車で行ける、それにしても3時間とはえらい近いなあ、そんな思いが頭をかすめました。ここでは外国から来ても、必ずしも「海外から」とは言えないわけです。

遺跡

しばらくして、遺跡に着きました。小高い丘に、石造りの建造物があります。想像していたほどの威圧感は感じませんでした。アフリカ人男性のガイドが英語で説明してくれましたが、説明を聞いてもあまりわからない3人は、ガイドから付かず離れずの別行動です。

ガイドの男性

建物は、大きさは煉瓦の数倍、厚さは半分くらいの石を積み重ねて作られています。この辺りには、このような遺跡が150ほどもあり、ここが最大級のものだそうで、日本でも時たま特集番組で報じられたりしています。最初、ヨーロッパ人移住者がここに来た時には、その威容に圧倒されたそうです。その人たちが金銀財宝を我先に持ち帰ったので、遺跡の研究は最初から、足をすくわれてしまったと言われます。それでも、遺跡の中で発見された陶磁器から、ヨーロッパ人が入植する以前から、遠くインドや中国との国交があったと推測されています。イスラム商人が仲買人だったようで、その交易網は、カイロを軸に、駱駝を巧みに操るトワレグ人によって西アフリカとも繋がり、西アフリカと南アフリカで取れる質のよい金を交換貨幣に、黄金の交易網がはりめぐらされていたとも言われます。

はっきりとは断定出来ませんが、13世紀から15世紀あたりに作られたのではないかとガイドの人が説明しています。当時、外敵から身を守る必要性も内戦の脅威もなかったので、おそらく国王の威信を高めるために、石が高く積み上げられたのだろうと言われています。

画像

長女、遺跡を背に

ひと通り見学し終わり、ホテルに帰って昼食を終えたあと、近くにあるカイル湖に案内されました。普段なら水量豊かだという湖が、干上がって底を見せています。大きなダムの近くに辛うじて水が溜まっているばかりです。山羊だ!と長男が大声をあげました。しかしよく見てみますと牛です。この旱魃で、痩せ衰えているのです。新聞で同じような写真を見てはいましたが、山羊と間違えるとは思いませんでした。予想以上です。

湖からホテルに戻って一休みしている間に、巨大な車を見かけました。ダンプカーよりもはるかに大きく、荷台で上半身裸の白人が大声で何やらしゃべっています。梯子がついて高い柵のようなものが荷台を囲っているところをみると、多分サファリ用の車で、野性動物を追いかけながら、サファリパークの中をこの巨大な車で走り回るのでしょう。その並はずれた大きさに、好奇心の強さと飽くなき欲望の激しさを見たような気がしました。

夕方、暗くなる頃にハラレ空港に戻りましたが、帰りの足がありません。この時間帯には利用客がないからでしょう、タクシーが見当りません。うろうろしていたら、シェラトンの赤い制服を着たアフリカ人が、どうしましたかと声をかけてくれました。事情を話すと、タクシーは多分見つからないでしょうからホテルの車にどうぞと言ってくれましたので、有り難く便乗させてもらいました。その人が専用バスを運転して、宿泊客をホテルまで送り届けるらしく、大助かりです。しかし愛想のよかったその人が、別のホテルの泊まり客である若い白人の女性には割りと冷たい態度で接していました。降りる時に料金を聞くと要らないですよと言われましたが、運転手の気遣いが嬉しくて、料金に相当するだけのお金をそっと渡してバスを降りました。ホテルでタクシーに乗り換えた時は、辺りはもう真っ暗でした。(宮崎大学医学部教員)

遺跡

執筆年

  2012年2月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」(No.42  2012年2月10日)

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  「ジンバブエ滞在記⑧ グレートジンバブエ」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した7回目の「ジンバブエ滞在記 ⑦ホテル」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

7月の終わりに、家族でホリデイインに行きました。
画像

ハラレの街

ハラレに来てから11日目、一応何とか落ち着いたところで、そろそろ味の新天地を開拓しようというわけです。アメリカには何度か行ってホリデイインにも泊まっていましたので、あの「ホリデイイン」ならジンバブエ風の味よりは馴染めるだろう、そんな思いがあったと思います。妻も子供たちも何年か前に、ハワイやサンフランシスコで食べた料理に自分の思いを重ねているようでした。4人がそれぞれ抱いていた味への幻想は、最初のポタージュスープで見事に打ち砕かれてしまいました。スープに限らず、オムレツもカレーもハンバーグもパイもコーヒーも、しっかりとジンバブエ風味でした。4人が取り合って食べたのは、じゃが芋の丸焼きだけです。4人で114ドル、1人7000円余り、ゲイリーの給料の額を聞いていただけに、何だか済まないような気がしました。外は真っ暗です。
白人街住宅地
暗くなってからの帰宅は初めてでしたが、ホテルの前のタクシーが4人を家まで無事に送り届けてくれました。いつもなら消えている筈のゲイリーの部屋の電気が、その日はまだ灯っていました。4日後、今度はシェラトンに挑戦しました。ホリデイインは4つ星ですが、シェラトンは、ミークルズ、モノマタパと並んでハラレでは最高級の5つ星のホテルです。

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ミークルズホテルを背に

玄関で、鮮やかな赤の制服を着たアフリカ人の案内係が、にこにこしながらコンニチワとたどたどしい日本語で挨拶をして来ました。日本人の出入りが多いのでしょう。内部はなかなか豪華です。これなら、マンハッタンのシェラトンと較べても見劣りはしません。1階奥のレストランから中庭のプールで泳いでいる泊まり客が見えます。冬とはいっても日差しが強く、昼間の温度が20数度にもなるのでいつでも泳げるのです。1品の料理メニューもありますが、目で見ながら選べるバイキング形式の料理も並んでいます。これなら好きなものを選べそうです。お米に芯が残ってはいますが、料理はまずまずです。パンの味も悪くありませんし、デザートのプリンやババロアやケーキなども豪華です。子供たちはオレンジジュース、大人の方はグラスワインとビールを取って、4人ともお腹一杯になるまで詰め込みました。久しぶりの満足感です。従業員はアフリカ人ですが、客は外国人が大半です。日本人と思しき商社員が白人と食事をしています。味も、外国人向けというところでしょうか。それもそのはずです。
4人で189ドル20セント、一回の昼食代がゲイリーの月給の額を超えてしまっています。ゲイリー、ごめんなさい。宿泊料金の方も一流です。一泊がアメリカドルで150ドル前後、約750ジンバブエドルにもなります。食事もするとなれば、1000ドルでは済まないでしょう。

吉國さんの話では、工場や店で働く人で300ドル、タクシーの運転手で600から700ドル、高級取りの部類に入る白人秘書で2000ドルほどの月給だそうですから、大多数のアフリカ人が1ヵ月働いても手に入らない金額を、このホテルでは一晩で使ってしまうわけです。外国人の観光客は、外貨獲得の為の国の貴重な収入源です。その収入源を確保するためには、国も最優先して設備を整えます。ですからその一区画だけは、言わば外国の延長といってもいいでしょう。旱魃とも無縁です。ホテルのロビーにいますと、水不足や食料不足などの連日の新聞報道が嘘のように思えて来ます。

ハラレの街

国としては、旱魃に対する国外からの援助も期待したいですし、かといって過剰な報道によって観光客を失なうのも困ります。8月10日の「ヘラルド」紙の「観光客を不安にさせてはならない」という見出しの社説は、そんな苦しい胸の内を明かしています。英国の旅行ジャーナリストは自らジンバブエに来て、大旱魃にもかかわらず、我が国の観光産業が如何に「正常である」かを自分の目で確かめるべきである。そうすれば、ヴィクトリアの滝が、現に音を立てて水飛沫をあげているのがわかるはずである。ライオンだって、一部の地域では多少痩せ気味ではあるが、それでもなお、他の動物を威圧しながら、悠然と歩いている……
欧州や米国やアジアでは、人々は我が国に対して全く違ったイメージを描いている。それらの地域では、食料不足や水不足、或いは電力不足によって頻繁に起こる停電のために、休業に追いやられるホテルが続出していると報じられている……
人や動物が多数死につつあるとも報じられている。アフリカ南部でも、エチオピアやスーダンに似た状況が迫りつつあるとも言われている。だから、ジンバブエに旅行するのは狂気の沙汰だというのである。この国に来れば、旱魃があるのは現実だが、以前と同じように観光地が充分に憩いの場を提供しているのが観光客にはわかるはずである……
同様に、国が非常に困難な状況にありながら、国民に対して必要最低限の食べ物を供給する最善の努力をしていることにも気づくに違いない……

高い利益をあげるジンバブエの観光産業が、このまま知恵を絞ることなくだめになってしまえば、食料を供給しようとしている政府の懸命の努力も水の泡になってしまう。我が国には食料も要るし、観光客も必要である。両者のバランスを如何にうまく保っていくかが、この困難な時局にこの国には要求されているのである。

この国の直面する窮状をよそに、4人はお腹を一杯にして帰ってきましたが、借家が見つからずにホテル住まいをしていたら、ハラレもアフリカもきっと違った風に映っていたでしょう。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2012年1月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」(No.41)

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「ジンバブエ滞在記⑦ ホテル」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した6回目の「ジンバブエ滞在記⑥ 買物」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

1日目は、吉國さんの奥さんが買って下さった食べ物で大助かりでしたが、2日目からは自分たちで食料の買い出しに出かけました。辺りの見物も兼ねて、4人は地図をたよりに、セカンドストリートショッピングセンターに向けて出発しました。地図で見ると1キロほどですから、歩いて20分ほどの距離ですが、乾燥して道が埃っぽいうえ、車はスピードを出しますし、道路を渡るのも命懸けに思えましたから、かなり遠くまで来たような気分でした。

画像

自転車で買い物に

おまけにたくさん買い込みましたので荷物が重く、帰りは余計に遠く感じられました。野菜に果物、牛乳に卵やジュースのほか、当座の日用品や文具からパンやドーナツまで買ってしまい、運ぶのが大変でした。人数は四4人いても、平等とは限りません。人は生まれながらにして平等などというのは真っ赤な嘘で、「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ(種田山頭火)」です。

量や形が違いますので、単純に日本と比較は出来ませんが、野菜や果物、肉や卵やパンなどの必需品は大体半分から3分の1程度の値段です。例えば、この日買った英国風のパンは、日本のトースト用のパン2斤くらいの大きさですが、3ドルで80円足らずでした。選べば1ドルから2ドルくらいのもありました。ビールは小瓶よりやや小さ目ですが、2ドル足らずです。それも半分は瓶代ですから、1本が30円ほどです。日本より大きめの瓶に入ったコーラ類も1ドル以下で、ビールよりも安い値段でした。その時は気づきませんでしたが、空港で飲んだ飲み物の領収書を見ると、スプライト類2本で1ドル90セント、紅茶2杯3ドル20セント計5ドル10セント、合わせて130円ほどです。空港での割高を差し引いても、かなりの安さでした。

街中で

吉國さんが手紙の中で「衣類から靴まで大体のものはそろいます。物価は国産のものなら日本の半分くらい、輸入『贅沢』品なら日本の2倍ぐらいでしょうか。為替レートの関係で、ジンバブエの人は物価高騰に苦しんでいますが、外人(外貨所持者)は安い、安いと左うちわの生活です。」と教えて下さった通りでした。ただ、パンなどの必需品が僅か2ヵ月半の間に目に見えて値上がりし、こんなに物価が高騰して、ハラレの人は一体これからどうやって暮らしていくんだろうと不安になりました。ゲイリーも、先月と同じ値段では買えないとしきりに嘆いていました。タオルや文房具類は、日本と同じか高めでした。質の方はかなり落ちます。特に、紙の質はひどいもので、厚手の紙に包んで出した小包は、日本の税関で再包装され、透明のナイロンに包まれて届けられていました。再包装されていない場合でも、破れて中身の見えていないものはなかったように思います。紙が長い旅に耐えられなかったわけです。

後日、家の中で履くスリッパを2足買って来ましたが、底が質の悪いゴムと木で出来たスリッパは、3日もしないうちにひび割れてしまい、使いものになりませんでした。それでも1足53ドル1300円ほどの値段でした。

5日目に、近くの国立植物園まで4人でスケッチに出かけました。広い敷地です。小学校と違ってフェンスはなく、入り口に次のような掲示がありました。
「当公園は、日の出から日没後半時間まで開園しています」

長女、植物園の前で

殺伐とした都会の生活の中で忘れかけている何かが残っているようで、何だか嬉しくなりました。花は期待していなかったのですが、所々に鮮やかな熱帯系の大きな花が咲いていました。

4日目に自転車が来て、行動範囲が広がりました。植物園に出かけたあと、2台の自転車にそれぞれ2人乗りして、4キロほど離れたアヴォンデイルショッピングセンターに買い出しに行きました。

植物園の前で

吉國さんに教えてもらった持ち帰りの中華料理を買うのも目的のひとつでした。中国人が経営している店らしく、ジンバブエでは持ち帰りを英国風にテイクアウェイと言いますが、その店はテイクアウェイ専門でした。年配の中国人らしい人がレジに座り、中の調理場のショナ人に横柄な口をきいています。注文した料理が出来上がるまで、色々と話しかけてきました。どこから来たか、何をしているかなどです。そのあと、アメリカドルを持っていないか、持っていたら替えてくれないかと聞いて来ました。ないわけではありませんでしたが、今回はやめておこうと思いました。

「中華料理といっても、あのじいさん、中国を離れてから何十年にもなりますから、味もジンバブエ化してますな。」という吉國さんの解説通り、味の方は油や塩加減がジンバブエ風(?)にも思えましたが、2つずつ買った焼き飯に焼きそばはなんとかいけそうでした。

4人は家まで待てずに、ショッピングセンター横の空き地で、食べ物を広げて食べ始めました。白人もアフリカ人も、道端に食べ物を広げて食べたりはしないようなので、自転車を空き地にとめて、日本人4人がテイクアウェイの中華料理を囲んでいる図は、
道往くアフリカ人の目にはさぞかし珍妙な光景と映ったに違いありません。

ハラレでは出前もなく持ち帰りも少ないので、この中華料理屋さんには、このあとも何度か世話になりました。レジの中国人のじいさんは、行く度にアメリカドルはないかと聞いて来ました。あまりしつこいので、にやっと笑って「いつも同じ質問ですね。」
と言ったら、それ以降2度とアメリカドルの話はしなくなりました。しかし、隅におけないじいさんで、平気な顔でレジを打ち間違え、余分にふっかけて来ました。何度も同じ説明をしたら、やっと向こうが折れて引き下がりましたが、危うく騙されるところでした。しかし、自分の計算間違いなど、どこ吹く風です。お蔭で数字の訓練をみっちりさせてもらいましたが、お金の計算を英語で説明するのもなかなか骨が折れます。

自転車の性能がすこぶる悪く、漕いでも漕いでも、ペダルを踏む分の七割か八割ほどしか進まないような気がしました。サドルはやたらに高いし、帰り道は登り坂、後ろに子供、前に荷物、これ以上の条件はありません。

案の定、自転車は故障しました。この日、いざ出発と心高らかに家を出たとたんに、長女が自転車の荷台から転げ落ちました。大事に至らなくてよかったのですが、突然でしたのでびっくりしてしまいました。サドルの下を見ると、荷台を留めておく止め金が2本とも外れています。初めから止め金がついていないとは思いもしませんでした。長女が落ちたのは大きい自転車からですが、その自転車、ある日突然道の真ん中でペダルが空回りしてしまいました。調べてみると、右のペダルの根元の止め金が取れています。家までまだ3キロほど残っていましたので、左側片方のペダルだけで帰るはめになりました。坂道制覇を挑んでみましたが、片足では登り切れませんでした。帰ってゲイリーに話すと、その部品なら近くに売っていますよと言って、買って来てくれました。さっそくペダルと車軸とを貫く小さな穴にその止め金をハンマーで打ち込みましたが、大き目だったようで半分程しか入りませんでした。しかしながら、こんな部品が走っている間に取れたりするものなのでしょうか。それでも何とか走るようになりました。日本に帰ってからその部分を調べてみたら、止め金が中心に向かって車軸の方向に埋め込まれているようでした。これなら外れる心配も要りません。

街中で

子供用の自転車も、ある日ショッピングセンターから少し離れた所で、ぶしゅっと音を立てて空気が抜けてしまいました。パンクといっても、タイヤが裂けてしまっています。また3キロの道が待っていました。今回は、押して帰るしか術がありませんでした。幸い前輪だったので取り外し、タクシーを呼んで、買ったマニカサイクルまで持って行きました。領収書を見せて事情を説明したら、新しいのと取り替えてくれました。それなら、初めから新しいのを着けてくれれば良かったものを。

自転車での買物は、あの地域ではやはり場違いだったようです。すれ違うアフリカ人とは、ゲイリーに教えてもらったショナ語の挨拶を交わしましたが、大抵は温かい笑顔が返ってきました。時々、ショナ語で会話を続けられて、喋られずに謝る場面もありましたが、冷やかさを感じたことはありません。ただ、自転車の前篭の荷物を指差して、その食べ物を分けてくれませんかとか、バス代をくれませんかと、よくねだられました。しかし執拗さはなく、断ると何もなかったように去って行きました。

自転車の篭に乗せて中身が見える形で、買物した品物を大量に運ぶ状況を普段見かけることはありません。スーパーで買物が出来る白人や、ひと握りの金持ちのアフリカ人は、車のトランクに乗せて荷物を運ぶからです。大半のアフリカ人は、時には玉蜀黍の大きな袋を担いだりもしますが、パンとかマーガリンとか砂糖とかの単品をいれた小さな袋を持っているだけです。そう言えば、グレースが生ごみを入れてあるナイロン袋からわざわざごみを出し、洗って持って帰っていたのを思い出します。たくさん買わない限りもらえないのですから、ナイロン袋も粗末には出来ないわけです。

前と後ろに買物した荷物を乗せて自転車を走らせるのも、そのうち心苦しく思えてきましたが、毎回タクシーを呼ぶわけにもいきませんでした。

スーパーでも、アフリカ人の店員が荷物を当然のように運ぼうとするので、断るのが大変でした。断るのにチップを払う場面がよくありましたが、息苦しい思いが先に立ちました。

セカンドストリートのスーパーでは、こちらが断っているのに、松葉杖の老人が私たちの自転車の所まで買物のカートを押していこうとするので、結局、なにがしかのチップを出すはめになりました。こちらが悪いわけではないのでしょうが、それ以降はその老人に見つからないようにと気を遣うことになりました。出来るだけ遠くに自転車を置くのですが、それでも目敏く見つけて近づいて来るのには閉口しました。足も悪いのだし、毎回運んでもらってチップを出せばよかったのでしょうが、猜疑心に満ちた卑屈な目を見たくないという思いが先に立ちました。

街中で

ただでさえ気を遣いますので、食欲も衰えがちになります。体力が落ちると病気にやられる心配もあり、いかに食欲を維持するかは、大きな問題でした。

「アフリカに来るとなればいろいろ身構えて、食器や電化製品、日本の装飾品、食品、日用品などありとあらゆる品をそろえてやって来る人が普通ですが、その人たちはここに来てなお、日本の生活をしたい人達です。身ひとつでこちらに来られる方は、まずは、自分の身を保証するものからご準備なさればよいかと思います……日本食品も、これが切れると苦しいといったものをどうぞ、みそ、しょうゆなどは必需品です。」という吉國さんの奥さんの助言に従って、荷物を減らして来ましたが、味噌や醤油や茶などは何よりの貴重品でした。トランクが1つ増えて奥さんを困惑させてしまいましたが、無理をして大きな荷物を持ってきた甲斐があったと思いました。

ソースも醤油風のソイソースも、ケチャップもマヨネーズも、カレー粉までも味が違います。同じ味は塩くらいでした。空気も予想以上に乾燥していますし、9月には小学校も始まりますし、醤油がなかったら食欲が落ちなかったかどうか。味噌は1ヵ月ほどで切れてしまいましたが、何とか最後まで持ちこたえた醤油の方は、ロンドンで買い込んだ分も含めて大いに役に立ちました。

日本や中国のような大根などはありませんが、材料なら大概揃いました。2週間目くらいに、餃子を作って食べました。カナダの小さな町で作ったときは、葱とミンチ肉が手に入りませんでしたが、今回は他に、キャベツ、大蒜、生姜、胡椒、塩、ラードに至るまで、材料はみんな揃いました。餃子皮は望むべくもないので、小麦粉で一から作ることにしました。

餃子作りも大変
何とかそれらしきものが出来上がりました。無事に食べられたのは醤油のお蔭です。ゲイリーに試食してもらいましたら、神妙な顔つきで食べていました。
5日目には米を見つけて、早速翌日から食べ始めました。中国からの輸入米らしく、その日見つけたのは1キロ約5ドル120円あまりの米でした。品数は少なく、売場に米が見当らない時もありました。米粒がかなり砕けていて、たくさんの石が混じっています。その日から、炊く前に石の選り分けをするという仕事がまた一つ増えました。予想以上に時間がかかります。ここでは、毎日ご飯を食べるのも大仕事です。九月に入って、街の大きな店の片隅で、2キロ入りくらいで35ドル900円ほどの米の袋を見つけました。パンなどに較べると高級品です。今まで見つけた中では一番質のよさそうな米でした。お蔭で、石取り作業の負担が軽くなりました。(宮崎大学医学部教員)
植物園前で

執筆年

2011年12月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑥買物」(No.40 2011年12月10日)

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「ジンバブエ滞在記⑥買物」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した5回目の「ジンバブエ滞在記 ⑤バケツ一杯の湯」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯

ゲイリーの一日の仕事は、デインの世話から始まります。陽が昇る少し前に起きて、玄関のデインの寝床の古びた毛布と、ドッグフードの入った容器を車庫の横に片づけます。庭の手入れは、先ず門の外の枯葉の掃き掃除から始めます。7時過ぎには、牛乳配達の人が牛乳を満載したカートを押してやって来ます。ゲイリーとは顔馴染みのようで、重そうなカートを毎回門の中に預かっています。配達している間に、ごっそりと盗まれてしまう危険性が高いからでしょう。配達される瓶牛乳も懐かしく思えて、日曜日を除く毎朝、ゲイリーに買ってもらうことにしました。1本30円ほどでした。牧畜の盛んな国だけあって、味もなかなかのものでした。

ゲイリー(小島けい画)

それから、玄関先の植木や草花に水をやります。ホースの届かないところは如露を使います。新聞では今世紀最大の旱魃と報じられていましたが、この辺りは水不足には縁がないようで、ゲイリーもたっぷりと水を撒き、隣の家先の芝生では、散水器がくるりくるりと回り続けていました。

10時くらいに、食事の支度に取りかかります。朝と昼を兼ねた食事のようで、食事が済むと、自分の部屋と野菜園の間に鉄製の庭椅子を置いて、本や新聞を見ながらのんびりと休みます。そのうち、顔に新聞を乗せて昼寝を始めます。

目が覚めたら、またのんびりと水撒きにかかります。東寄りの芝生に散水器をかけておいて、垣根には別なホースで、花には如露で水をやり、菜園にはホースで朝と夕方に水をかけます。菜園にはレタスや青野菜と玉葱などが植えられていました。

ゲイリーの菜園

あとは、まだ明るいうちに夕食を済ませ、日が暮れるころにデインの毛布とえさを用意して、ゲイリーの一日の仕事は終わります。

自分の買物がある時や、何か街に用事のある時以外、ゲイリーは敷地内のどこかに居ます。敷地内にいて家の番をするのが一番の仕事のようでした。
「得体の知れぬ日本人をそれとなく見張って、定期的にスイスまで報告の手紙を書くように、何かあれば妹に連絡するように。」、おそらくそんな風に言われていた見張り役のゲイリーと私たちがすっかり仲良しになってしまったので、おばあさんの筋書きどおりには事は運ばなかったようです。おばあさんの妹さんは、そのあと間もなくして姿を現わしました。その後も一週間おきに顔を出し、門の所でゲイリーに何かを手渡していました。

実は毎週、給料とデインのえさ代を持って来ているんです、とゲイリーが教えてくれました。ゲイリーの給料は月に170ドル約4200円、月末に支払われ、これでも今のハラレでは、仕事があるだけ、住む部屋があるだけましなんですとゲイリーは言います。

デイン

私たちが払った航空運賃は1人52万円、ゲイリーの給料の約10年分です。これでは自分の国が住み難いからと言っても、外国に逃れる術はありません。ラ・グーマなど、亡命を果たせた人たちは、極く少数の選ばれた人たちだったわけです。

それではデインのえさ代は?と聞くと、1日に5ドル、週単位に持って来るそうでした。「偵察」もあるし、えさ代を全額渡せば持ち逃げされないとも限らない、か。週に35ドル、30日だと150ドルになります。一人の大人が24時間拘束されている月額とほぼ同じです。

「リディキュラス!」とゲイリーが呟いていました。車のクラクションが鳴れば飛んで行きますし、銀行へ行けと言われれば黙って出かけもしますが、いつも心の中で「リディキュラス!(嘲笑ってしまうほど)馬鹿げている!」とゲイリーは呟いていたのでしょう。

デインと

ゲイリーは、大体いつも同じ身なりでした。服は所々破れ、靴は履き古されていました。洗濯のために他の服を着ている時もありましたが、やはり同じような質の服でした。それでもゲイリーの方から、何かを求めてきたりはせず、その姿勢は終始変わりませんでした。私たちがゲイリーの「雇い主」ではなかったから当たり前なのかもしれませんが、想像に難くないゲイリーの経済状況を考え、気苦労の絶えないグレイスとの関係と比較すれば、その生き方は尚更希有なものに思えました。ただ一度だけ、台所にバケツを持って現われて、お湯を一杯もらえませんかと言ったことがあります。後にも先にもゲイリーから頼まれたのはそれだけです。一番寒い、明け方は数度しかなかった気温の低い日だったと思います。

ゲイリー、自転車で

ゲイリーの寝泊りしている部屋を見せてもらいました。コンクリートの狭い二つの部屋は陽当たりの悪い南西の方角にあり、寒々としていました。ベッドもなく、奥の部屋でコンクリートの床の上に直かに質の悪そうな毛布を敷いて寝るようでした。それぞれの部屋に裸電球が天井からぶら下がっていましたが、コンセントはありませんでした。電気を「無駄には」使わせないという方針なのでしょう。従って、電熱器などの電気製品はありません。小型のコンロが一台置いてあるだけでした。燃料は灯油で、自前なのだそうです。ラ・グーマの小説に出てくるプライマス・ストーヴと同じタイプの暖房用兼炊事用の携帯用コンロです。

画像

集めたマルベリーと携帯用コンロ

入り口の所に、水道栓がひとつあります。その蛇口を使って、畑の水撒きや炊事や洗濯をしますが、排水の設備はありません。いつも汚水がたまったままでした。ゲイリーは毎日、お風呂代わりに水で体を洗っているようでしが、水の冷たさに耐えかねて、その日、台所にバケツを持って現われたというわけです。

ゲイリーは、それでも卑屈な態度は見せませんでした。私自身も卑屈になるのは嫌なので、ゲイリーの態度は好ましく思えました。親子の巡り合わせも偶然に過ぎません。家族や友人同士でも、それぞれ好みも資質も違うのだし、やれる方がやればいい、
お金もある方が出せばいい、今までそんな風に暮らして来ましたから、ゲイリーに媚びる態度がない限り、出来る範囲で付き合いをしていこうと考えました。

その日の夕方から、誰かがゲイリーの部屋にバケツ一杯のお湯を届けるのが家族の日課になりました。(宮崎大学医学部教員)

ゲイリーと

執筆年

2011年11月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯」(No.39)

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「ジンバブエ滞在記⑤ バケツ一杯の湯」