2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した8回目の「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記 ④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国

ジンバブエ大学

次は大学です。日本経由の手紙を、吉國さんの奥さんが届けて下さったのは、4日目の朝でした。

「前略
1992年1月27日付けの貴殿の手紙が今日私の机に届きましたので、あなたがジンバブエに来られるための手配をする時間が十分にないように思われます。どの国の場合もそうですが、外国人が入国する際には、手続きに時間がかかります。
従いまして、貴殿の計画を新しく練りなおして下さるようお手紙を差し上げている次第です。敬具
7月7日 英語科科長代行トンプソン・ツォゾォ」

既に受け取っていた「貴殿の当大学での在外研究を歓迎いたします。」という英語科からの手紙を信じて日本でも手続きを済ませてやってきたわけです。

無事に税関を通り抜け、既に家を借りて生活も始めています。まさかそんな手紙が日本に送られ、その手紙が転送されていようとは夢にも思いませんでした。「予期せぬ事態」も次々と起こるし、小学校、教育省、移民局、市役所や銀行にも足を運ばねばならず、大学に出かけたのは二週目の半ばを過ぎてからで、直接、T・K・TSODZOと書かれた部屋の戸を叩きました。授業中なのか、部屋の中に数人の学生の姿が見えます。人懐っこいアフリカ人の顔が現われました。この人がツォゾォさんに違いない。私の名前を告げると、一瞬困惑の表情が浮かぶ。きっと、7月7日に書いた手紙を思い出したのでしょう。

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ジンバブエ大学キャンパス
ツォゾォさんは学生に何やら指示を与えてから部屋を出て、ついて来て下さいと言う。廊下を少し歩いて行くと、そこは英語科の部屋でした。事務員の若い3人のアフリカ人女性に紹介を済ませたあと、ツォゾォさんは、さあどうぞと別室に私を招じ入れてくれました。狭い部屋です。ドアには科長室と書かれていました。
教育省や移民局などで鍛えられて、少しは英語に慣れてきていたせいか、ツォゾォさんの陽気な冗舌に誘われてでしょうか、私の方も言葉が滑らかに出てきました。二時間ほど話をしましたが、例の手紙を意に介している様子はありませんでしたし、手紙の遅れを詫びる言葉もありませんでした。
「来れば誰でも大歓迎ですよ。」
辛うじて、大学の方も一段落したようです。
ツォゾォさん
白人街アレクサンドラパークは白人街で、アメリカ映画「遠い夜明け」の世界です。幅の広い道路に大きな街路樹、プールやテニスコート付きの広い家……借りた家にはプールやテニスコートはありませんでしたが、両隣にはプールが、南側の家には、夜間照明つきのテニスコートがありました。泥棒にも3分の理と言いますが、白人街に住むアフリカ人が仮に盗みを働いたとしても、アフリカ人に5分の理があると感じました。ある場合には、9分の理すらあると思えるほど、持てる白人と持たざるアフリカ人との格差が大きく見えました。基本的に、車中心の街で車に乗るのは白人、歩くのはアフリカ人です。1980年の独立以降、白人街の家一軒分にも相当するベンツを乗り回すアフリカ人もいます。しかし、それは体制側にいる一握りの「白人化」したアフリカ人で、大半のアフリカ人には車は無論のこと、自転車を持つ余裕もありません。
白人街住宅地
「ここは車(金持ち)が歩行者(貧乏人)をけ散らして走るのが普通ですから……。」という吉國さんの手紙の内容は、まさにその通りでした。うっかり歩行者優先などと思っていると、大変な目に遭ってしまいます。車が最優先なのです。歩行者用の青信号の短かいこと、青になったとたんにもう点滅が始まっていると思えるほどでした。老人や身体の不自由な人は、到底信号は渡れません。乗用車に限らず、車は猛スピードを上げて走ります。広い道路を渡るのも命懸けだと最初は思いましたが、慣れるとそれほどの緊張感を持たずに道路を渡れるようになります。歩く方も、知恵を絞ります。

少し広い空き地には、蜘蛛の巣のように小道が出来ています。長い距離を少しでも縮めるためです。ほとんどの白人は、家の中に入るまで車を降りようとはしません。門の前まで来ると、クラクションを鳴らします。その音ですぐに「庭師」か「メイド」が走り出てきて、門の鍵を開けるのです。車を車庫に入れている間に「庭師」か「メイド」が鍵を閉めて、車庫に急ぎます。荷物があれば「庭師」か「メイド」が家の中に運びこみます。スーパーでも、買物の重い荷物を運ぶのは店員のアフリカ人で、白人は当然のように表情も変えず、わずかなチップを渡すだけです。

玄関正面には警備会社の掲示(実際は契約していなかったよう)

鍵の国

入居の日に、吉國さんの奥さんから、鍵の束といっしょに陶器の食器から銀のスプーンに至るまでの調度品の明細が書かれている用紙の分厚い束を渡されました。家主にしてみれば、独立以来風向きも変わって住みづらくなってきた今、家を貸して大金も欲しい、かといって我が家の宝ものを盗まれるのもかなわない、そんな心の葛藤に苦しんだ末に、この明細書を書いたのでしょう。家にある品物はどれも古くて趣味の悪いものばかりです。保証金2000ドルを取っていても、おばあさんの目には、日本はよほど未開で、野蛮な国と映っているようです。

500坪の借家

鍵の束は、重いものでした。普段出入りする門、玄関、居間、台所の鍵の他にも何本かの鍵がついていて、そのひとつひとつが大きいのです。鍵を使って、まず玄関に入ります。ドアにはチェーンロックと鍵穴の上下に2つ止め金がついている四重式です。
2畳ほどの空間に、電話台が置いてあり、左は寝室と風呂、トイレ、正面は食堂、右手は居間に通じていますが、それぞれの戸に鍵穴があるのです。どのドアも、内と外の両側から鍵がかけられるようになっていました。机にはどの抽出にも鍵がかかっています。台所では、冷蔵庫にまで鍵がついていました。

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白人地区アレクサンドラパークで借りた一軒家の門

家の中だけではありません。街のいたるところ、鍵、鍵、鍵です。レストランのトイレではトイレットペーパーにまで鍵がかかっていました。兼好法師ではありませんが、この鍵なからましかば、と溜息が出てきました。

大学では、ツォゾォさんも大きな鍵の束を持っていました。机の鍵を開けて、抽出の中からビデオテープを取り出した時には、ビデオテープが貴重品であるのを肌で感じました。窓の鉄格子と鍵を束ねる大きな金の輪には、最後まで馴染めませんでした。ある日、台所の戸棚を開けて、またびっくりです。透明のナイロン袋に入った20個から30個はあると思われる鍵の山が見つかったのです。台所の違う箇所にも、居間の机の引き戸の中にも、同じような鍵が入っていました。使いふるしなのか、予備の鍵なのかは分かりませんでしたが、一度にそんなにたくさんの鍵を見た経験がなかったので、何か見てはならない暗部を覗き見る思いでした。

鍵だけではありません。
一番大きな寝室の厚板ガラスの1枚を除いて、すべての窓に鉄製の格子が取り付けられていたのです。監獄のようなものでなく、花柄の模様が多かったのですが、確かに格子です。外からの侵入者を防げるかも知れませんが、中からも出られません。警察とは別に、その地区全体で私設のガードマンも雇っているようですし、玄関には「24時間警備会社と契約中」の掲示もあります。

部屋にはすべて格子戸

敷地内には見張り役の「庭師」や「番犬」もいますし、大きな塀もあります。生き垣の下には金網も張ってありますし、あちらにもこちらにも鍵がかけられています。それでも窓には格子です。私には白い花柄の鉄格子が、穏やかな言葉を操りながら、残虐な侵略行為を朝飯前にやってのけた英国人入植者の分身に思えてなりませんでした。

デインと

1日24時間扱き使われて「130ドル」では、車を盗もうと思っても不思議ではありません。うまく捌ければ、何年分ものお金にもなります。自転車なら更に盗み易く、鍵など掛かっていても、担いでいけばいいのです。自転車を停めて、ちょっとよそ見をして振り向くと、自転車がなくなっていた、といっても冗談ではないほどの状況でした。大学でも状況は同じで、廊下や部屋の中まで自転車を持ち込む光景を何度も見かけました。私も買物に行ったときは、標識の鉄柱か店の横の鉄柵か金網に、大学では階段の鉄の手摺りか鉄の支柱にチェーンロックをかけましたが、わびしい思いが先に立ちました。

門には電灯もブザーもありません。必要性がないからです。危険なので夜間外出は差し控えますし、仮に出掛けても客が来ても、門の前でクラクションを鳴らせば、誰かが呼べるのです。車の中にいる限りは「安全」なのですから。

門の前で、アフリカ人が口笛を吹く光景をよく見かけました。ブザーがないから、広い敷地内の片隅にいる「庭師」や家の中「メイド」を呼び出していたのです。垣根越しの会話もよく見かけました。縁者でも恋人でも、中に入れてはもらえないようでした。
口笛で合図を送って呼び出せても、門をはさんでの会話が許されるだけとは切ない限りです。

そんな中で生活していると、生い茂る街路樹や聳える大木は、初期の入植者たちが、理不尽な侵略で荒んだ心とアフリカ人への恐怖心を和らげるために植え付けたのではないかと思えてなりませんでした。(宮崎大学医学部教員)

ジャカランダの咲く街中

執筆年

2011年10月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」(No.38)

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「ジンバブエ滞在記④ ジンバブエ大学・白人街・鍵の国」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した3回目の「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車 」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車

突然の訪問者

暮らし始めると、予期せぬ事態が起きるものです。

借家の門

第2日目、「玄関に誰か来てるよ。」という長男の声に起こされました。8時過ぎです。朝早くから誰だろう、そう考えながら玄関を開けてみると、すらっとしたショナ人らしき女の人が立っていました。突然のことで事態がよく飲みこめませんでしたが、育ち盛りの男の子が3人いるんです、今度来る人に雇ってもらえるから今日来るようにとここのおばあさんから言われました、と言っているようでした。取り敢えず10ドル(当時は1ジンバブエドルが25円程度でした。)を手渡して、引き取ってもらいましたが、また吉國さんに相談するしかなさそうです。

翌3日目の朝、昨日よりも早い時間です。

「玄関で何か言ってるよ。」という長男の声で戸を開けると、今度は中年の品の悪そうな白人女性です。車を置いてもらおうと中に入れたらエンストしてしまった、夫に連絡を取りたいから、電話を貸してほしいという事情のようでした。うまく夫に連絡がつきましたと言い、車に乗り込んでそそくさと帰って行きました。さては、おばあさんの偵察隊?

次は8日目、7月28日のことです。

10時過ぎにYAMAHAのバイクに乗ったおじさんが突然やって来ました。電気代を払わないと明日から薪の生活になるぞ、明日からでも電気を切るぞと脅しているようです。市役所か郵便局で、明日までに200ドルを払え、24時間は待ってやる、そうでないと、薪の生活だとにやにや笑っています。翌日、無事払い込んで郵便局で言われたように、市役所に電話をして、支払いを済ませた旨を告げると、その領収書を持って明日来るようにとの返事、何のために行くのかと尋ねたら、来られるでしょうの一言で電話は切れてしまいました。

借家

翌朝、市役所に係の人を尋ねて受け取りを見せたら、「いいですよ」の一言、何がいいものか。こっちは電話をかけるのも大変なのに……大体、支所の係の者が電話を1本入れれば済むことじゃないか。あとから吉國さんに確かめたところによると、ジンバブエでは電気を引く際には保障金(ディポジット)が必要で、電気を切った時には、払い込んだお金は戻ってくるとのことでした。おばあさんは電気を引く際に、保障金を払わなかったようです。支払いなどに関するデータは、すべてコンピューターに入力されるとのことでしたが、入力するコンピューター自体の性能がよくないので、半年後とか、1年後に突然こういった事態が起こり得るのだそうです。ともかく、電気を切られる事態だけは免れたようでした。

街中

今度は、生活にも慣れ始めた8月15日です。

朝早く、突然大きなトラックが進入してきました。
作業服を着た2人の青年が、ゲイリーと何やらショナ語で大声の会話を交わしています。ゲイリーの説明によると、家具のレンタル会社が、契約が切れたので、食堂のダイニングセットを引き取りに来たようです。しかし、突然椅子と食卓を持って帰ると言われても……。何回かのやり取りの末、何とか私たちがこの家を離れる次の日に、改めて引き取りに来てもらうことに落ち着きました。「独り暮らしだから、普段あそこは使ってなかったんでしょう。家を人に貸すことになって、ダイニングセットくらいは入れておかないとでも思ったんでしょうね。古き良き植民地時代にいい目をしたローデシアばあさんの一種の見栄ですな。」と吉國さんが説明して下さいましたが、何とも中途半端な契約をしたものです。

小学校

4日目、アレクサンドラパーク小学校に行きました。
中学2年生の長女と小学校4年生の長男を受け入れてもらうためです。9月から始まる3学期の最初の1ヵ月しか学校には通えませんし、英語もわかりませんが、2人には又とはない貴重な機会を最大限に生かして欲しいと考えていました。校長は、私たちより少し若そうなショナ人で、黙って事情を聞いたあと、本当に2人分のお金をお支払いになりますかと何回も念を押します。

アレクサンドラパーク小学校で

3学期分に1人当たり、授業料など約500ドルが必要だそうで、12500円ほどです。貴重な経験が出来ると思えば、高くはありません。「何とか空きがありますから、お姉さんは7年生に、弟さんの方は3年生に入ってもらいましょう、この手紙を持って教育省に行き、許可証を貰ってからもう一度学校に来て下さい。」と言う校長から手紙をもらいましたが、
「あそこの小学校の教員で七、八百から1000ドル、校長でも1500ドルの月給はもらってないでしょう。」という吉國さんの話を聞いた時、校長が念を押した理由に気づきました。実際に学校に通うためには、授業料などの他に経費も必要で、わずか1ヵ月のために大金を払ってまで子供を学校に通わせる理由が、校長には見当がつかなかったのでしょう。吉國さんの話によれば、1980年の独立以来、無償だった小学校が、2年前から有償になっているようでした。白人地区に住むアフリカ人の子供を同じ学校に通わせたくないための措置だそうで、植民地時代の良き思い出を捨てきれない反動勢力の巻き返しといったところでしょうか。制服が買えないで学校に行けないアフリカ人も多いと聞くのに、1学期に500ドルも一体誰が払えるというのでしょうか。そういった事情があるにしろ、校長も好意的な感じでしたし、まだ決まったわけではありませんが、先ずは一安心、週明けに教育省に行けば手続きも、予想していたよりは簡単に済みそうでした。しかし、実際にはそううまくは行きませんでした。

校長と

月曜日の朝、教育省に行きました。建物に入ると、長い人の列、入場者は手荷物検査を受けていて、なかなか順番がまわって来ません。小学校の入学の許可証をもらうだけなのに手荷物まで検査されるとは。受け付けで指示された部屋に行き、一から事情を説明すると、分かったから次の人のところへ行けということです。
今度は女性で、また、一から説明です。少し時間はかかりましたが、やはり分かりましたと言い、教育省の便箋にタイプを打って書類を作ってくれました。正式な許可証のようです。これを持って移民局に行って下さいと言います。書類を見ると、移民局長から出されている貴殿の在外研究員許可証に従って、小学校への入学許可を認めると書いてありました。

担任と

さて、次は移民局です。何人もの人に場所を尋ねて、移民局に辿り着くと、また長蛇の列で、一時間以上待たされました。やっと順番が来て、また一からの説明です。

「以下のものを揃えて来て下さい。
 それぞれの子供に対する校長からの推薦状2通、
 子供のレントゲン撮影の公立病院での証明書2通、
 親の承諾書1通、
 保証人の推薦状1通、
 外国通貨で経費を支払える証明書1通、
 登録費1人151ドル2名分302ドル。
よろしいですか。はい、次の方。」

それで終わりでした。
病院を探し出し、子供たちを連れてレントゲンンの撮影に行かなければならないと思うだけで気が滅入ってきます。

街中

その夜はただ疲れ果てて、何もせずに寝てしまいました。
その後2日間は学校に出向く気が起こりませんでしたが、3日後に意を決して妻と2人で、再び校長を訪ねました。今までの経緯を説明し、移民局からたくさんの提出物を求められましたが、来たばかりの私たちには子供を病院に連れて行くのも大変です、校長の裁量で何とかなりませんか、わずか一ヵ月のことでもありますし、お金はきちんとお支払いしますからと目を見据えながら訴えました。これから先の手続きの煩わしさを考えたら、もし効き目があるものなら少々の寄付金を出してもいいとさえ思ったほどです。その思いが通じたのか、しばらく考えたあと、校長は「分かりました、移民局は無視しましょう。学校から手紙を出しますから、その手紙が着いたら、郵便局で経費を支払い、領収書を持って学校へ来て下さい。そのからもう一度、学校から手紙を出します。そのあとは、PTA会費を払ったらそれで完了です。それでどうですか。」と言います。それなら、最初からそのように取りはからってくれればよかったのに……。

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長男とクラスメイト、アレクサンドラパーク小学校にて

自転車

小学校の次は、足の確保です。

教育省に出かけた日に、電話で申しこんで初めてタクシーに乗りました。「公共運輸施設はほぼ無いとお考えください。タクシーは当てにならないし……。」と聞いていましたが、充分に利用出来そうです。窓ガラスの一部が壊れていたり、ドアの把手がないこともありますが、ショナ人の運転手も人が良さそうですし、料金も格段に安いようです。車中心の白人街には、小売店はなく、広い市街地にショッピングセンターが点在しているだけです。買物にも大学にも、自転車は必要なようです。

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敷地内で中古自転車に乗る長女

4日目、街まで自転車を買いに行きました。
マニカサイクルという店のフロアには、玩具や遊具と一緒に自転車が並べられており、1台1500ドル前後の値札がついていました。事情を説明すると、それなら中古車がいいでしょう、帰る時には引き取りますよと店主が薦めてくれます。結局、中古自転車を2台買うことにしました。1台2万円足らず、性能はあまりよくなさそうでしたが、2ヵ月半、何とか持ちこたえてくれますようにと祈るしかありませんでした。(宮崎大学医学部教員)

街中で

執筆年

2011年9月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記 ③突然の訪問者・小学校・自転車」(モンド通信No. 37)

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「ジンバブエ滞在記③ 突然の訪問者・小学校・自転車」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した2回目の「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目 」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo.62(2013/7/10)までです。

本文

ハラレの空はからりと晴れていました。

ロンドン→ハラレ地図

ロンドンのヒースロー空港を真夜中に出た英国航空機は、およそ10時間後、ジンバブエの首都ハラレに着きました。1992年7月21日のことです。日本では猛暑の季節ですが、南半球では真冬でした。海抜1500メートルの高原地帯にあり、雨期と乾期のあるサバンナ気候で、1年中過ごし易いところです。すんなり税関を通過し、待合室で借家を探して下さった吉國さんの奥さんの出迎えを受けました。2日前に車の盗難に遭ったという奥さんの話を聞きながら、私たちを乗せた車は独立記念のアーチをくぐり、ハラレの中心街を抜けて、これからの2ヵ月半を暮らす、アレクサンドラパーク地区フリートウッドロード22番地に到着しました。

フリートウッドロード22番地

ロンドンに一週間滞在して、一人で亡命中のブランシさんに家族で会いに行きました。1985年にキューバでご主人を亡くして以来の亡命生活は大変だったと思いますが、温かく迎えて下さり、アレックス・ラ・グーマや2人の子供さんの写真を見せて下さいました。優しいお人柄に触れて、とても豊かな気持ちになりました。

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ブランシと、ロンドンの自宅で

吉國さんからは「ここには一握りの金持ちと大多数の貧乏人しかしませんので、恐ろしく不動産事情が悪く、最悪の場合はホテル住まいになるかも知れません。」という手紙をもらっていましたが、ある日、家が見つかりましたので、という国際電話がありました。82歳の1人暮らしの老婆がスイスに出かける間、家具付き1ヵ月約10万円の家賃で貸して下さるそうで、宮崎を離れる10日ほど前のことでした。

「海外研修記「『アフリカは遠かった』」(宮崎医科大学「学園だより」第号10-11頁、1993年。)と「海外滞在日誌『ジンバブエの旅』」(宮崎医科大学「学報」第50号18-19頁、1993年。)を書きました。

500坪近くもある広い所で、オランダ風の建物がたっていました。南西の隅に車庫と「庭師」用の小さな建物があり、その建物の北側には菜園がありました。庭には、パパイヤとマンゴウがたくさんの実をつけ、ジャカランダの大木が2本あり、北側にはハイビスカスの生垣がありました。

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およそ500坪の借家

道を隔ててアレクサンドラパーク小学校があり、ジンバブエ大学の建物も見えます。「この家の持ち主のおばあさんが雇っておられるゲイリーです。給料はおばあさんからもらうそうです。普段のゲイリーの仕事は、庭の手入れと、犬の世話かな。おばあさんがいる時は、買物や銀行にも行かされているようね。少しくらいなら手伝ってくれるでしょう。何かあったら、頼んでみて下さい。」と奥さんから紹介されたのが、ガリカーイ・モヨさんで、190センチ近くはある、すらりとしたショナ人でした。体長が1メートル50センチほどの犬もいました。前脚が悪そうでしたが、デインと呼ばれる番犬のようです。ゲイリーがいたからでしょう、初めての私たちにも吠えませんでした。南の棟には、寝室が3つと風呂と台所、西側の棟には食堂と居間がありました。居間は20畳ほどで、応接セットに机とテレビが置いてあります。スイッチを入れたらぶんという音がして、映像が出て来るまでに少し時間がかかりました。

ゲイリーとデイン

ダブルベッドのある12畳ほどの東の部屋を長男と私が、真ん中の6畳くらいの部屋を長女が、西側の7畳ほどを妻が使うことにしました。見かけとは違って、全体に陽当たりも風通しも良くないようでした。長女の入った部屋は犬が使っていたようで、臭いもひどく、ぎしぎしと大きな音をたて、寝心地が悪そうでした。どの部屋も照明器具がお粗末で、全体に暗い感じです。
三方が広い窓の12畳くらいの台所には、冷蔵庫と4つ続きの電熱器があり、湯も出るようでした。故障したトースターと芝刈り機に似た掃除機もあります。掃除機の電源を入れて試してみましたが、1円玉も吸いこまず役に立ちそうにありません。願ってもない邸宅を世話してもらっておきながら、文句ばかり、我ながら浅ましく思いました。便利で快適な日本の生活に慣れきってしまっているようです。

借家の室内

夕方、吉國さんが食事に招待して下さいました。お宅は、同じ地区内の2キロほど北東にあり、手入れの行き届いた庭のある閑静なお住まいでした。久しぶりの家庭料理を味わいながら、子供たちはゲームを楽しみ、私たちは吉國さん夫妻のお話をうかがいました。

ハラレでは、1年を通じて北東から南西の方角に概ね風が吹くようで、白人入植者は東側に水源地を確保したあと、南西の方角にアフリカ人の居住区(ロケイション)を造ったそうです。工業地帯をその間に置いて、緩衝地帯にしたと言います。なるほど、アフリカ人は風上には置かないということか。待てよ、どこかで似たような話を聞いたことがあるぞ。ジョハネスバーグ近郊のアフリカ人居住区ソウェトだ。SOUTH WEST TOWNSHIPのそれぞれの頭2文字を取った地名です。ジョハネスバーグの南西にあり、1955年のソフィアタウン強制撤去の後に自然発生的に生まれたといわれる地域です。金鉱のボタ山が、緩衝地帯になっています。そう遠くないハラレが、ソウェトのモデルだったのか。

ジョハネスバーグ金鉱山(「ディンバザ」より)

遠く離れたアフリカの歴史などは、ややもすれば歴史の方から人の生活を捉えがちですが、実態は、いいものを食べたい、いい家に住みたいというようなごく一般的な欲望が、結果的に歴史を作ったのではないか。吉國さんと話している時、ふとそんな思いに捕らわれました。

こうして、ハラレの第1日目が終わりました。(宮崎大学医学部教員)

借家前の道路

執筆年

2011年8月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目」(モンド通信No. 36)

ダウンロード・閲覧

「ジンバブエ滞在記② ハラレ第1日目」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した初回分の「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988 」です。1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo.62(2013/7/10)までです。

本文

ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988

アフリカについて考えるようになったのは偶々です。考えている間に、無意識に一度はアフリカに行ってみないとなあと思うようになっていました。80年代の初め辺りからアフロ・アメリカの延長線上にある問題としてアフリカについても書くようになっていましたが、書く限りは、出来れば家族とある一定の期間はアフリカに行って住んでみないと気が引けるなあ、と考えるようになっていました。

宮崎医科大学から在外研究に行ける可能性が高かった1990年に文部省に申請書類を出す前は、アレックス・ラ・グーマ(1925-85)の生まれ育った南アフリカのケープタウンに行ってみたいと考えていました。

アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)

しかし、今では嘘のような話ですが、在外研究を申請した時点では、日本政府は南アフリカとの文化・教育の交流の禁止措置を取っていましたので、国家公務員の南アフリカ行きは認められませんでした。結局は、国内が独立に向けての混乱期でもあるので今回は遠慮して、しかし、折角の機会でもあるので、せめてアメリカ映画「遠い夜明け」のロケ地となった南アフリカとは地続きの隣国ジンバブエの赤茶けた大地を見に行こう、と自分に言い聞かせました。

ケープタウン(南アフリカ観光局パンフレットより)

1992年の7月から2ヶ月半の間、首都のハラレの白人居住地区にあるジンバブエ大学に行って、家族といっしょに暮らして来ました。その時の話です。

スイス人のおばあさんから借りた家

アフリカ系アメリカ人の作家リチャード・ライト(1908~1960)の『ブラックパワー』(1954年)がアフリカについて考える直接のきっかけだったと思います。
パリに住んでいたライトが、アフリカ独立の動きをいち早く察知して、当時英国の植民地だったゴールドコーストに行き、後に首相となるクワメ・エンクルマ(1909~72)に会って書いた旅行書です。その時も無意識にライトの生まれたミシシッピに一度は行かないとなあと考えていました。
『ブラックパワー』については1985年に「リチャード・ライトと『ブラック・パワー』」(「黒人研究」第55号26-32頁)、英訳“Richard Wright and Black PowerMemoirs of the Osaka Institute of Technology, Series B, Vol. 31, No. 1: 37-48, 1986.)を書きました。

リチャード・ライト(小島けい画)

初めてアメリカに行ったのは1981年の夏です。団塊の世代ですので、アメリカには憧れと反発が両方あるようで、高校の英語の教員をしていましたが、英語は話さないと決めていました。たぶん、アメリカかぶれした風潮に少しは抵抗したかったのでしょう。日本の学校では、英語がしゃべれなくても英語の教師は務まります。「ライトはミシシッピに生まれて、メンフィス、シカゴ、ニューヨーク、パリと移り住んだそうだから、取り敢えず、今回はパリを除いて反対にずっーと辿ってやろう」、と思って出かけたのですが、シカゴと二ユーヨークで本を買いすぎて、セント・ルイスあたりで資金が尽きてしまい、南部へは辿り着けずじまいでした。英語には、当然のことながら不自由をしましたが、それでも英語をしゃべりたいとは思いませんでした。その後、高校を辞めて大学を探し始めましたが、なかなか見つかりませんでした。
ライトに関する本は大体読みましたが、ミシェル・ファーブルさんの伝記が一番でした。自分の書いたもののレベルが知りたくて英語に翻訳してファーブルさんにも送りました。返事はもらえませんでしたが、1985年にライトの死後25周年を記念する国際シンポジウムで直接お会いすることが出来ました。夜、寮の一室でファーブルさんとお話する機会があったのですが、英語をしゃべらないと決めていたせいで、自分の思いを伝えられませんでした。外国語が出来なくて悔しい思いをしたのはその時が初めてです。帰国してから英語で自分の思いが伝える準備を始めました。2回目のアメリカ行きでした。(ジンバブエの帰りにパリのファーブルさんをお訪ねした時、英語には困りませんでした。)
ライト死後25周年記念国際シンポジウム

「リチャード・ライト国際シンポジウムから帰って(ミシシッピ州立大、11/21-23)」(「黒人研究の会会報」第22号4頁。)、“I Like Michel ”などを書きました。

シンポジウムはミシシッピ州立大学であったのですが、その時の発表者の一人、ケント州立大学で英語科の教授をしておられた伯谷嘉信さんから87年の会議で発表しませんかとの誘いを受けました。伯谷さんが司会をするイギリス文学、アメリカ文学以外の英語による文学の部会でラ・グーマについて発表することになり、その時から南アフリカの歴史についても考えるようになりました。日本語でお誘いを受けたものの実際には英語を話す人たちの前で発表するし、この前は南部を回れなかったこともあって、翌年の86年の夏に、再び南部に行きました。今回は一人でライトの生まれ育ったナチェズ、ジャックソン、グリーンウッド、メンフィスなどを歩きました。ミシシッピ州オクスフォードの本屋にも再度立ち寄り、店主のリチャーズさんにアフリカに関する資料は日本では手に入れ難いので、いいのが見つかったら送って下さいと頼んで来ました。3回目のアメリカ行きでした。「ミシシッピ、ナチェズから」(「英米文学手帖」24号72-73頁、1986年。)、「なぜ英語が出来なかったか」(すずかけ祭第20回宮崎医科大学パンフレット、1996年)などを書きました。

ある日、リチャーズさんから『アレックス・ラ・グーマ』という新刊書が届きました。読んでみると本格的な学術書でした。セスゥル・エイブラハムズという著者名しかわかりませんでしたが、ラ・グーマに関してはこの人に聞くのが一番だと思いました(ラ・グーマは既に亡くなっていました。)住所を調べて「行ってもいいですか?」と手紙を書いたら、「北アメリカに来たらお電話下さい。」と返事がありました。エイブラハムズさんは伯谷さんが住んでおられたオハイオ州に近いカナダのセイント・キャサリンズという町に住んでいました。19歳の時に亡命して、当時はブロック大学という大きな大学の人間学部の学部長をされていました。日本はアパルトヘイト体制の白人政府のパートナーで、南アフリカの人たちにとってはいわば敵国でしたが、温かく迎えて丸3日間も泊めて下さって、ラ・グーマについて色々と教えてくれました。4回目の渡米です。「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」(「ゴンドワナ」10号10-23頁、1987年。)、「あぢさい、かげに浜木綿咲いた」「英米文学手帖」24号123-124頁、1987年。)、“Africa and I”(1995年)などを書きました。)

セスゥル・エイブラハムズさん、娘さんと

その年の暮れにサンフランシスコで行われた会議で無事ラ・グーマについて発表しましたが、その夜、エイブラハムズさんは奥さんを連れて、家族で泊まっていたホテルの部屋まで会いに来てくれました。5度目のアメリカ行きでした。「アレックス・ラ・グーマ/ベシィ・ヘッド記念大会に参加して」(「黒人研究」58号36頁、1988年。)、「セスゥル・エイブラハムズ氏への手紙」(「ゴンドワナ」11号22-28頁、1988年。)などを書きました。)

翌年には、主に北米に住む亡命中の南アフリカの人たちが集まったラ・グーマの記念大会で「ヨシ、ラ・グーマの奥さんのブランシも来られるので、発表してみないか。」と誘われて、ラ・グーマについて発表して来ました。初めてブランシさんにお会いして、すてきな人だなあと思いました。発表については、「視線がきついなあ」と感じました。白人政府と結託して自分たちを苦しめている国から来た発表者に対して、無理もなかったと思います。6度目の渡米で、それ以降何度か行く機会もありましたが、それ以来アメリカには行っていません。

ブランシさん

私は1949年(昭和24年)に兵庫県の小さな町に生まれました。4、5歳くらいからの記憶がぽつりぽつりと残っていますが、まだ戦争の影響が色濃く残っていたように思います。
東京オリンピックが1964年に開催されたために中学3年次の東京への修学旅行が2年次に変更になったり、1970年の学生運動で同じ歳の東大生全員が留年したり、今から思えば、時代の波をまともに受けていたようです。スラムのようなところで育ち、地域や学校にも馴染めず、いつも疎外感ばかり感じていました。ラ・グーマのように、貧しくても両親に大切に育てられていたら世の中を憾むこともなかったかも知れません。ミシシッピにアフリカ系アメリカ人として生まれ、屈辱と疎外感に塗れて育ったライトの作品に惹かれたのも、自分の心にいつもあった疎外感のためかも知れません。

受験勉強が出来なくて、一浪までしていますが、結局家から通える神戸市外国語大学の夜間課程に行きました。世の中に背を向け、渋々行った大学で、何も期待していないうえ、授業にも出ない出来の悪い学生でしたが、結局は英語の授業で使われたライトの教科書や、留年して取った高校の教員免許状があとで関係するとは思ってもいませんでした。偶々アパルトヘイトが廃止される直前の歴史的な空間に巡り合わせたわけですが、その後も南アフリカには行けずじまいでいます。

神戸市外国語大学(ホームページより)

ハラレから戻って半年後に、今しか書けないと思って絞り出すようにして書いた本を元に、赤茶けた大地を思い出しながら、書いてみたいと思います。(宮崎大学医学部教員)

執筆年

2011年7月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988」(「モンド通信」No.35)

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「ジンバブエ滞在記① アメリカ1981~1988」