2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した16回目の「ジンバブエ滞在⑯ 75の出会い」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

75セントの出会い

ジンバブエ大学のツォゾォさんを訪ねた最初の日、部屋では5人の学生が授業を受けていましたが、その中にアレックスがいました。

ムチャデイ・アレックス・ニョタ。ムチャデイ・ニョタがショナの名前で、ミドルネームのアレックスが英語の名前です。どう呼んだらいいですかと尋ねましたら、アレックスがいいですねと言います。最近、親は好んで子供に英語の名前を付ける傾向があります、流行ですよとアレックスが呟きました。そう言えば、ゲイリーの子供たちは3人とも英語の名前です。

アレックスと仲よしになったのは、偶然です。

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教育棟前でアレックスと

アレックスが受けていたツォゾォさんの授業は、映画や映像に関する特殊講義でした。アメリカで学んだ映画学、映像学を、ここ数年来ツォゾォさんが英文科の学部生を対象に講じていたのです。ツォゾォさんは、演劇や映画に大いに関心があるらしく、著書の半数は戯曲です。大学では演劇の講義も行なっていますし、学生や市民を対象に演劇の指導をしたり、毎日放映されているテレビのショナ語によるドラマ番組の企画も担当していると言うことでした。

「売春を仕事にしている人たちを取材して、エイズのビデオ映画も作ったよ、ヨシ。大変だったけど、実際映画に作ってみると、何とも深刻な問題だとしみじみと考えさせられたね。」とも言っていました。

何回か授業も見せてもらいましたが、その時は、ビデオ機器の説明と、実際の使い方が主体でした。英語科が購入していたのは日立製のカラーテレビと、オートフォーカスのナショナル製のビデオカメラでしたが、テレビの映像があまり鮮明ではありませんでしたし、ビデオカメラも大型でしたので、どちらもかなり旧式に違いないと思いました。

ビデオテープでも鍵を掛けて机にしまいこむのですから、ビデオカメラ自体が相当な貴重品です。英文科の学生でなかったら、ビデオカメラを使って撮影する機会など、そう簡単にはないでしょう。

ビデオカメラの使い方を解説するツォゾォさん

2回目の授業の時だったと思います。ツォゾォさんがビデオカメラの簡単な説明をしたあと、学生たちはカメラを抱え、好きな映像を撮るためにキャンパスに出て行きました。学生は1時間ほどして戻って来ましたが、初めての経験なので誰もが興奮気味です。処女作の出来栄えが気になるようで、来週の授業まで待てないので、出来るだけ早く観る機会を設けてほしいと言い出しました。

「来週まで待てないほど観たいのか?」とツォゾォさんが尋ねています。「ウィアダイイングツーシー(死ぬほど観たい)"We’re dying to see."」と学生が口々に答えました。「ウェル、ウィルユーダイオンフライデイ?(じゃあ、金曜日に死ぬのはどうか?)"Well, well, you’re dying on Friday?"」とツォゾォさんが提案しました。英語で言葉遊びをしています。ツォゾォさんも学生もすべてショナ人ですが、授業中にショナ語は一言も聞かれませんでした。すべて英語です。何だか不思議な気もしましたが、日本で英語科の学生が英語を使う日本人教師の授業を受けていると思えばいいのかと考えました。学内ではショナ人同士の会話もほとんどが英語だったように思います。

授業でのアレックス

「ヨシも金曜日に観に来ませんか?」と学生の1人が言っています。仲間に入れてもらっていたのかと私は嬉しくなり、「では、金曜日に。」と承諾の返事をしました。

金曜日は2時にという約束でしたので、早めに出かけて、ツォゾォさんの部屋の前で待っていました。半時間ほど経っても、誰も来ません。ツォゾォさんの部屋も閉まったままです。これがアフリカ時間なんだろうなと諦めかけていたとき、アレックスがムタンデという学生と一緒に姿を現わしました。

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教育棟前でムタンデと

階段の踊り場で、話をしながら3人でしばらく待ってみましたが、結局ツォゾォさんも残りの学生も姿を見せませんでした。仕方なく解散しかけた時に、アレックスが折角ですからキャンパスでも案内しましょうかと言ってくれました。

ここが図書館で、ここが管理棟ですよと言いながら、アレックスは学生会館に案内してくれました。ゲーム機が置いてあったり、小さな売店があったりで、学生の憩いの場となっているようです。会館の入り口で、アイスクリームマンからアイスキャンディを買い、3人は並んで歩きながら食べました。自転車の荷台のアイスボックスは冷蔵する力が弱いせいでしょうか、アイスキャンディは少々柔らか目でしたが。3本で、3ドルほどだったように思います。

アイスクリームマン(小島けい画)

それから、アレックスが住んでいる寮に案内してくれました。最上級の3年生用のニューホールと呼ばれている寮で、12月の初めには、この寮を出て就職先が決まるまで、一時田舎の自宅に帰るようです。机とベッドが備え付けられた狭い部屋ですが、日当たりもよく清潔な感じです。3食付きで、共同のシャワーがあるそうです。

部屋には、本棚にラ・グーマの本や英語の辞書などが少々並べられてあり、ダブルカセット付きのラジオカセットが置いてあります。ゲイリーの生活水準なら到底考えられない光景です。

学生寮「ニューホール」

しばらく喋ったあと、何か飲み物でも買って来ませんかと私が気をきかせたら、それじゃ売店までみんなでコーラを飲みに行きましょうとアレックスが言いました。中身より瓶の方が高いので、その場で飲む人が多いです。冷蔵庫が貴重品なので、清涼飲料水を冷やしておくのもなかなか大変です。私は普段コーラは飲みませんが、郷に入れば郷に従えです。一緒にコーラを飲みました。
もちろん誘った私が払うつもりでしたが、支払う段になって、アレックスがどうしても自分が払うと言い出しました。折角の好意なので、ここはアレックスの顔を立てることにしました。帰りには、アレックスが近道を行きましょうと学校の外れまで送ってくれました。学費を払うだけでも大変でしょう、無理しなくてもよかったのにと言いましたら、アイスキャンディのお礼ですよ、おごってもらったら、お返しをするのがショナのやり方ですという返事が返って来ました。精一杯背伸びをしている態度が私には気持ちよく思えました。

コーラの値段を聞きましたら、中身は1本75セント(20円足らず)ですからと教えてくれました。僅かな額でしたが、アレックスの気持ちが嬉しく感じられました。

8月19日のことです。ジンバブエに来て、ほぼ1ヵ月が過ぎていました。これが予想もしなかった75セントの出会いとなりました。(宮崎大学医学部教員)

ショナ語をアレックスから

執筆年

2012年10月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在⑯75セントの出会い」(No.50)

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「ジンバブエ滞在記⑯75セントの出会い」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した15回目の「ジンバブエ滞在⑮ ゲイリーの家」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ゲイリーの家

作りかけの教室の足しにでも使って下さいと校長に寸志を手渡して、ルカリロ小学校を後にし、私たちは再びゲイリーの家に戻りました。

ゲイリーの家でも、大歓迎を受けました。両親や兄弟やその家族を紹介してもらいましたが、少々人が多過ぎて、両親以外は誰が誰だかわかりませんでした。

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ゲイリーの家族・親族

最初に案内された小屋風の建物は、みんなが集まって寛ぐ場所のようですから、さしづめ居間に相当するインバでしょう。円形の室内は、外から見る以上に天井が高くて広い感じです。周りの壁の一部には、座るのにちょうどいい高さに、ベンチとでも言うべき腰掛け台が設けられ、真ん中に掘られた囲炉裏には、火が入っています。ここで食事をしたり、団欒の時を過ごすのでしょう。採光や換気が充分でないと感じるのは、今の私が都会の生活に慣れてしまっているせいでしょうか。

ゲイリー夫妻のインバにも連れていってもらいました。セメントと土を混ぜて塗ったと思われる床はぴかぴかに光り、隅々にまで手入れが行き届いています。室内には清潔感が漂っていました。フローレンスがどうぞと、さっと床にザンビアを広げてくれました。ルカリロ小学校で録音したテープを聞こうということになって、テープレコーダーを回し始めましたら、だんだんと人の数が増えてきました。

妻は、ゲイリーのインバをスケッチしたいと外に出ました。たちまちの人だかりです。ゲイリーは、向こうにいる女性陣が歌って踊りたいと言っているので、録音しませんかと言っています。何らかの形で歓迎の意を伝えようとして下さっているのでしょう。

ゲイリーとフローレンスの寝室の前で

最後に、ゲイリーは家の墓に案内してくれました。家のすぐ傍の樹の下に、何個か大きな石が置いてあって、石には「……モヨ」という先祖の名前が刻まれています。前の日に用意しておいた36枚撮りのフィルムもあと僅かとなっていましたが、ゲイリーのたっての希望により、墓の写真を何枚かフィルムに収めました。

墓石の前に立ち、向こうに見える小高い山を見つめながら、あの山の麓までがモヨ家の土地なんですよと何気なくゲイリーが言いました。

何も遮るものがない向こうの山の麓まで、2、3キロはあるでしょうか。いや、もっとあるかも知れません。何ということでしょう。こんなに広い土地がありながら、家族と一緒にここで暮らせないなんて。

渇いた大地の中にゲイリーと並んで立ち、激しく吹きつける風を我が身に受けながら、これがアフリカの現実だとしみじみ思いました。おそらく、目の前の墓に眠っているゲイリーのひいおじいさんの世代までは、豊かな家畜の群れを持ち、日の出とともに起き、陽が沈む頃に休むという自給自足の生活を享受していたはずです。

対象が大きすぎて、当事者のゲイリーには把握する術もなく、あまりにも厳しい現実に、考える余裕すら持てないのが本当の所だと思いますが、「先進国」がアフリカ人の安価な労働力を食い物にしている搾取の縮図が、まさに目の前に広がっていました。

この国に本格的に西洋人が侵入して来たのは、19世紀の終わりで、わずか100年前のことです。金を掘り当てるのが目的でした。

最初に南アフリカにやって来たのは、オランダ系の入植者アフリカーナーですが、イギリス人はそのアフリカーナーを内陸部に追い遣って、次第に南アフリカの主導権を握るようになっていました。

1854年ころまでには、豊かで肥沃な海岸部のケープとナタールの2州をイギリス人が占有し、内陸部のオレンシ自由州とトランスヴァール州をアフリカーナーの自治領としてイギリス人が認める形で覇権が確立されていました。他のヨーロッパ列強の進出を阻むために南アフリカを押さえておく必要性がありましたが、イギリスにとって南アフリカ自体はまだそれほど重要性を持つ国ではありませんでした。

南アフリカの地図

しかし、1886年に、現在の南アフリカ最大の都市ジョハネスバーグがあるヴィットヴァータースラント(ラント)地方に金が出てから、状況が一変します。ジンバブエへのイギリス人の侵略は、このラントでの金の発見と密接に関係しています。

金が出たラントは、イギリス人がアフリカーナーに自治領として認めたトランスヴァール州内にありました。のちに金の採掘権をめぐって、2国間で壮絶な第2次アングロボーア戦争(1899年~1902年)が繰り広げられますが、豊かな金を産出するラントの出現は、それまでアフリカ南部の覇権を誇っていたイギリスにとっての脅威となりました。

ジンバブエへの進出を積極的に推し進めたのは、すでにケープ植民地で権力を手にしていたセシル・ローズやその取り巻きです。ローズは、1868年にオレンジ自由州キンバリー付近でダイヤモンドが発見されてから南アフリカに渡って来た入植者の一人です。17歳の若さながら、次々と採掘権を奪いながら、次第に財力をつけ、やがて90年にローズはケープ植民地の首相になりました。

ダイヤモンドの採掘(「アフリカシリーズ」)

ラントの出現により優位を脅かされると懸念したイギリス政府はローズらを後押して89年にイギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立させ、第2のラントを求めて、本格的に北部への進出を開始しました。翌年の6月には、武装したBSACの私設軍500人と入植者200人が、ローズの庇護をもくろむ350人のグワト人を従えて、北部のベチュアナランド(現在のボツワナ)からマショナランド(現在のジンバブエの北部)に侵入し、9月には現在のハラレに、入植者がイギリスの国旗を翻しました。

入植者は、その地をソールズベリと名付けました。のちに国はローズにちなんで、ローデシアと呼ばれるようになります。ケープタウンとエジプトのカイロを結ぶ一大帝国を築く野望を持っていたローズにとって、この北部進出は一つの足掛かりでもありました。

相当の土地と金の採掘権とを約束されていた入植者は直ちに金探しに没頭しましたが、期待したほどの成果は得られませんでした。その土地が第2のラントにはならなかったわけです。

予め専門家に金鉱脈の調査を依頼していたローズは、94年に調査結果の報告を受け、南部のマタベレランドに少しは金が出るものの、ラントほど豊かな鉱脈をどこにも期待出来ないことを知りました。そして、ローズとBSACは、金の採掘に代わる手段として、その地に住むアフリカ人から富を奪う道を模索し始めます。北部のマショナランドと南部のマタベレランドを合わせて南ローデシアと呼び、ローズやBSACに守られた入植者は、そこに住むンデベレ人とショナ人から家畜と土地を奪います。その後、強制労働や税金を強要して貨幣経済に巻き込み、アフリカ人を安価な労働力として最大限に利用出来る搾取構造を、系統的に打ちたてていくのです。

セシル・ローズ(「アフリカシリーズ」)

税金をかけられて払えない村人には、働ける者が現金収入を求めて都会に出ていくしか術はありません。都会では、家族を養えるだけの賃金も得られずに重労働を強いられ、劣悪な環境の中での惨めな生活を余儀なくされました。搾取構造がしっかりしている限り、白人側には絶えずアフリカ人の安価な労働力が確保されています。アフリカ人が貧しくなればなるほど、搾取する側はますます豊かになって行く仕組みです。

ゲイリーのお爺さんも、お父さんも、そんなイギリス人による侵略の波をもろに受け、歴史の巨大な流れの中で苦しんで来た筈です。そしてゲイリーも今、こんなに広大な土地を田舎に持ちながら、1年の大半を家族と一緒に過ごすことも出来ず、僅か170ドルで24時間拘束されて、いいように扱き使われています。

渇いたゲイリーの土地を遠くに眺めながら、残酷な歴史と厳しい現実に押しつぶされてしまいそうな気持ちになりました。

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子供たち、ゲーリーたちの土地を背に

1980年の独立を機に、ローデシアはジンバブエに、ソールズベリはハラレに、入植地を記念して名付けられたセシルスクウェアはアフリカンユニティスクウェアにそれぞれ改名されました。アフリカンユニテスクウェアは、ミークルズホテルや国会議事堂や英国国教会に囲まれた街の中心地にあり、今は市民の憩いの場として親しまれています。学生のアレックスが記念撮影の名所ですよと教えてくれました。公園の真ん中にある噴水の前で、私たちも何度かシャッターを切りました。

アフリカンユニティスクウェアで

大変な1日でしたが、暗くならないうちにゲイリーの家をあとにしました。別れ際に、車の陰で、2番目のメリティが泣きたい気持ちを必死に堪えようとしているのが目に入って来ました。別れが妙に切なく思えました。(宮崎大学医学部教員)

メリティと長女

執筆年

  2012年9月10日

収録・公開

  →「ジンバブエ滞在⑮ゲイリーの家」(No.49  2012年9月10日)

ダウンロード・閲覧(作業中)

  「ジンバブエ滞在記⑮ゲイリーの家」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した14回目の「ジンバブエ滞在⑭ ルカリロ小学校」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

ルカリロ小学校

お別れ会では甥の友達に車を頼もうという話になっていましたが、ゲイリーは信用していなかったようで、新聞広告に出ているレンタカー会社に直接電話をして、予め1人で手続きに行く日を決めていました。私たちを連れて子供たちに会いに行きたいという思いが、それだけ強かったのでしょう。

出発日の3日前に、タクシーを呼んでゲーリーと2人でレンタカー会社に出かけました。VISAカードを保証金代わりに使って、手続きは簡単に済みました。車を返す時に、ガソリン代や超過料金も含めて精算するそうです。運転手つき10人乗りのミニバスだそうで、契約書では、運転手に35ドル支払うようになっています。全体で1000ドル程です。ゲイリーには大変な額ですが、運転手付きで終日契約ですから、約2万5000円は高くはないと思いました。

9月17日木曜日、予定より40分ほど遅れて車が到着しました。白の新しいワンピースを着たフローレンスは身も心も軽そうで、ゲイリーもネクタイを締めていつになくきめています。2人は明らかに小学校を訪れる保護者の装いです。メイビィも新品のワンピースを身につけ、赤い靴を履いてすましています。

私たちの方は、ウォルターとメリティに会い、うまく行けば2人のクラスに顔でも出せればという軽い気持でしたので、普段着のままでした。

運転手はケニーという青年でした。車はISUZUの10人乗りのワゴン車で、タクシーとは違って新しく、エアコンやカーステレオまでついています。

記念撮影のあと、車は快調に走り出しました。一番奥に陣取ったゲイリーとフローレンスの顔からは笑みがこぼれています。街中を抜けて、渇いた大地が続きます。所々に、土か煉瓦造りの壁に草葺き屋根の小屋が見えます。さっそくカメラを構えました。そばではゲイリーがにやにやと笑っています。

ショナ語では小屋風の建物はインバ(IMBA)と呼ばれています。日本や西洋で言う一軒の家(HOUSE)ではなく、両親の寝室用のインバ、居間用のインバ、子供用のインバなどのような、それぞれの独立した建物を指すようです。ジンバブエの名前は、非常に大きなと言う意味のジ(ZI)とこのインバと石を意味するブエ(BE)が集まったもので、大きな石の建物という意味だそうです。

インバ(小島けい画)

南アフリカでは都市部のアフリカ人居住地区をタウンシップ、田舎の居住地区をロケイションと呼んでいるようですが、この国では、都市部のアフリカ人居住地区がロケイションと呼ばれ、タウンシップは田舎地方で商店が集まった1区画を指すようです。

途中で1度、そのタウンシップに立ち寄って、みんなの飲み物を買いました。ゲイリーは家に持って帰る食料や飲み物などを買いこんでいたようです。

出発後1時間半ほどして、ゲイリーの家に着きました。ウォルターとメリティをハラレまで迎えにきたゲイリーのお母さんをはじめ、10数人の縁者と思しき人たちが出迎えて下さいました。よく見ますと、ゲイリーの家も小屋風の建物(インバ)でした。
道理で写真を撮っている時に、ゲイリーがにやにやしていたはずです。こういうことなら、走る車の中から何もわざわざ写真など撮らなかったのに、ゲイリーも人が悪い。

予定より遅れ気味ですからとゲイリーに急かされて、みんなを乗せたワゴン車は、急いでルカリロ小学校に向かいました。

そんな筈ではなかったのに……。車のドアを開けたら、人だらけでした。外に出ると小学生のかわいい黒い手が次々と差し出されています。握手攻めです。横を見ますと、妻も子供たちも初めての経験に戸惑いながら、まんざらでもなさそうな顔つきで握手の求めに応じています。1日皇室を引き受けたら、こんな感じでしょうか。

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ルカリロ小学校の子供たち

教師と思われる人が現われて、子供たちを蹴散らしています。そんなに乱暴に扱わなくてもいいものをと眺めていましたら、校長らしい人物が登場して、丁寧な歓迎の挨拶を受けました。見れば、全校生徒のお出迎えです。300人以上はいるでしょうか。

初めに校長室に案内されました。床土がむき出しの狭い部屋で、ムガベ大統領の写真が掲げられています。例によって、先ずは記念撮影です。

校長室に案内されて

そのあと、校舎の中を回りました。建てかけの煉瓦造りの建物があります。資金不足でこれ以上は作業が進まないのだそうです。一通り、教室などを見て回りました。もちろん教室にも電気はありませんし、地面の床はでこぼこで、全体にみすぼらしい感じです。白人地区の小学校に比べれば、すべての施設がはるかに見劣りします。政府の予算が都市部の開発に集中して、農村部にあまり回らないのは、ジンバブエでも他のアフリカ諸国と同じ状況のようです。

そのあと案内された所は、運動場に設けられた来賓席でした。授業をやめて、私たちを迎えて全校あげての大歓迎会を計画したというわけです。

私たちがこの村ムレワにとっての初めての外国人訪問客だったのは光栄の至りですが、木陰には両親や村の人たちまで、たくさんの人たちが集まっています。まるで村のお祭りです。もう一度、こんな筈ではなかったのだがと思ってはみましたが、今となっては後の祭りです。今更、来賓席から逃げ出すわけにも行きません。観念して来賓席に座りました。校長から短かい挨拶があったあと、さっそく歓迎会が始りました。

来賓席で

太鼓を抱えた5人の女の子がさっと前に出て、棒切れを使って太鼓を鳴らし始めました。くり抜いた大きな木に、獣の皮を張りつけた手製の太鼓で、皮は牛か山羊でしょうか。ひょうたんで作った打楽器オーショを手に持っている生徒もいます。軽快なリズムと巧みな手さばきが独特です。太鼓を合図に、体育の教師に先導された体操服の生徒が弾むように入場して来ました。4年生か5年生あたりでしょうか、全員裸足です。女の子による太鼓と教師の笛に合わせて、体操演技が繰り広げられました。リズム感があって、腰の切れがなかなかです。小さい頃から、踊る機会も多いのでしょう。広大なサバンナによく似合っています。

手製の太鼓で

今度は、きれいな音楽の教師に先導された6年生がしとやかに入って来ました。ウォルターが神妙な顔をしています。来賓席には、日本の友だちと両親、それに自分の両親と妹が座っていますので、やや緊張気味です。澄んだコーラスを聞かせてくれました。さすがに上級生です。

音楽の教師に先導されて

各学年の出し物が続きます。歌や踊りの他に、英語の詩の暗唱というのもありました。1人ずつ交替で前に進み出て、マザーイズクッキング……アイアムルッキングなどとやるのですが、小さな頃から英語をたたき込まれているようです。声が小さな生徒は、校長から「もう一度」の声がかかります。見るからに人の良さそうな校長も、この時ばかりは怖そうです。中には生れつき声の小さな人だっているはずなのに、どうして無理やり大声を出させるのだろう、見ていて、気の毒になってきました。

乾燥しきった大地に、烈しい風が吹いています。木陰に座っていますと、寒いほどです。強い風にあおられた砂埃のせいで、喉がいがいがします。生徒は地べたに座って演技に見入っています。近づいて写真を撮るときに気づいたのですが、鼻をぐすぐすさせたり、空咳をしている生徒が予想外に多く、洟を垂らしている生徒もいます。暖かいのにと以外な感じもしましたが、貧しい暮らしの中では、充分な衛生状態を維持するのも難しいのでしょう。

演技は2時間ほど続きました。来年1年生になるプリスクールの生徒まで登場して歌を歌ってくれました。終わり頃に、来賓と職員だけに貴重品のファンタやコーラが配られました。全校生徒の目が一斉に飲み物の瓶に集中します。たくさんの大きな目に下から見つめられて飲むのも勇気が要るものです。妻も子供たちも、申し訳程度に口をつけています。全く口をつけないのも失礼だし、かと言って全部飲むのも気がひけるし、となかなか難しい状況でした。

何を思い着いたのか、校長は体育の教師を呼び付けて、もう一度体操演技をやれと言い出しました。歓迎の意を更に表してというつもりなのでしょうが、最初の場面からの再現です。

体操演技

体操演技の途中で、感極まったのでしょか、木の下の保護者席から聖歌隊用の赤い服をきたおばさんが飛び出してきました。踊りながら、若い体育の教師に10ドル紙幣をプレゼントしようとしています。観衆からは、やんやの喝采です。体育の教師は照れながらその10ドルを受け取りました。後で聞いたところでは、その青年は教育実習生で、間もなく大学に戻るということでした。

すべての演技が終わりました。

歓迎会の終わりは、生徒、職員、保護者、村の人など、参加者全員による大合唱でした。音楽の教師の指揮でイシェコンボレリアフリカの大合唱が始まりました。映画の中の集会の場面でコシシケレリアフリカの大合唱を聴いたことはありますが、目の前でその同じ曲が聴けるとは夢にも思っていませんでした。400人の大合唱はさすがに迫力があります。ゆったりとしたメロディーが、広々とした大地に木霊しました。

保護者、村の人など

それから校長が壷を抱えて立ち上がりました。私たちへの贈り物です。中には、木の実で作ったネックレスが入っています。相当に大きな壷です。壷の首の部分に、鮮やかな色の模様が描かれています。

こんな予定ではなかったのですが、手持ちのボールペンや鉛筆などの文房具とキャンディをお返しに手渡しました。17人いると聞いていた教員とウォルターとメリティのクラスの人たちにと用意してきた贈り物です。もう少し余計に用意しておけばよかったと思いましたが、今更どう仕様もありません。

そのあと400人の視線が一斉に私に向けられました。

マシィカティと私は大声を張り上げました。「こんにちは」と言うショナ語です。残念ながら、その後をショナ語では続けられません。こんなことなら、ショナ語を教えてもらっている学生のアレックスに頼んで準備しておくんだったなあ、折角の機会だったのに。

何をしゃべったのか正確には覚えていませんが、歓迎へのお礼や、子供たちがウォルターとメリティの大の仲良しだということや、教師に苛められて長女が学校を辞めた経緯や、道で会った心優しいショナの人たちなどの話をしたあと、白人に侵略され、負の遺産を背負わされた現状は厳しいでしょうが、優れた歴史や民族性に誇りを持って下さい、と締めくくったような気がします。最後のあたりはもう、日本国を代表しての演説です。少々お世辞も混じっていた感じもしますが、あんなにたくさんの目が一心に注がれる中で、しかも母国語では話せなかったのですから、あれが精一杯だったような思もします。

やっと終わったと思いましたが、それからがまた大変でした。ゲイリーが得意げに請け負ったのでしょう。各クラスの記念写真をと、それぞれのクラスが準備を始めています。全校生の19クラスに父兄、プリスクールの3クラス、職員、学校の教会の聖歌隊と続きます。あまり経験がなさそうなので無理もありませんが、たいていのクラスが太陽を背に勢揃いです。

クラス集合写真

逆光の説明も英語ではなかなか骨が折れます。暗い室内で並んでいるクラスもあります。電池の残りがあとわずかでしたので、大部分のクラスは外に並んでもらいました。前の日に街で電池を買ってはいましたが、すぐに使えなくなってしまうのです。もっと大量に買いこんでおけばよかったのですが、買う時にはまさか写真屋さんになるとは思ってもいませんでしたから。

後で焼き増しをして判ったのですが、暗い室内で撮ったのが1番映りがいいのです。黒い肌の人を撮るには、外の光では強すぎたようで、現像された写真を見ますと、光が反射し過ぎるか色が濃すぎるかで、顔がわかりにくい場合が多いのです。日本人と同じように考えていつものように何気なく写真を撮ったのですが、写真の光で肌の色の違いを改めて知ったのは新発見でした。

最後に、みんなで1枚撮ってくれと言います。みんなで1枚と気軽に言われても、300人もの人を一体どうやって1枚の写真に収めるというのでしょう。辺りを見回しました。あそこしかないでしょう。造りかけの教室の煉瓦の壁の上です。登ってみれば、1枚に収められるかも知れません。ちょうど足場も組まれたままです。ここまできたら、登るしかないでしょう。二階の高さほどの煉瓦の上に立って全校生を眺めおろしながらカメラを構える姿は、どこから見てもプロのカメラマンでした。(宮崎大学医学部教員)

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ルカリロ小学校の約300人の人たち

執筆年

2012年8月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在⑭ルカリロ小学校」(No.48)

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「ジンバブエ滞在記⑭ルカリロ小学校」

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通(MonMonde)」に『ジンバブエ滞在記』を25回連載した13回目の「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」です。

1992年の11月に日本に帰ってから半年ほどは何も書けませんでしたが、この時期にしか書けないでしょうから是非本にまとめて下さいと出版社の方が薦めて下さって、絞り出しました。出版は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、出版は出来ずじまい。翻訳三冊、本一冊。でも、7冊も出してもらいました。ようそれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。連載はNo. 35(2011/7/10)からNo. 62(2013/7/10)までです。

本文

制服の好きな国

ジンバブエは制服の大好きな国です。いまだに学生服やセイラー服を脱げないでいる日本も相当なものですが、それでもジンバブエには勝てません。制服が買えないために学校に行けないアフリカ人も相当いるようです。

長男、クラスのみんなと

街角や白人街を歩いていますと、至る所で迷彩色の軍服や、職工や「庭師」などが着せられている青色のつなぎの服が目に飛び込んで来ます。制服は、アフリカ人=安い労働力という社会の一面を象徴する代名詞でもあります。

小学校の大変な交渉も終わり、あとはPTAの会費を払って制服や必要最低限の持ち物を買えば、子供たちも9月からやっと学校に通える、そう考えていました。しかしジンバンブエの現実は、またもやそう甘くはありませんでした。新学期が始まる前の週の月曜日に、学校までPTA会費を払いに行き、売店に立ち寄りました。売店とは言っても、再利用出来る品物を小さな部屋に並べているだけのものです。係のPTA会員が不用になった制服などを洗い直したり、繕ったりして必要な人に安く提供する便宜をはかっているようです。サイズが合えば安上がりですが、品数が非常に少なく、長男のネクタイが手に入っただけでした。アヴォンデイルショッピングセンターのスーパーにも制服類が置いてあると言われて、後日行ってみましたが見当らず、結局、街のバーバーズという高級デパートまで出かけなければなりませんでした。

バーバーズの前で

靴、ハイソックス、帽子、毛糸のセーターが男女共通で、そのほかに、男子はカーキ色のシャツと半ズボン、女子は水色のワンピースを着用しなければなりません。しめて470ドルです。これなら、法律では許されていても、白人地域に住んでいる「庭師」や「メイド」は、自分たちの子弟を学校に通わせようがありません。白人側の締め出し作戦は、大成功というわけです。

年令より1年歳下の7年生にいれてもらった長女は、1番大きなサイズでも肩幅が窮屈だと言います。新学期の前日だったので、無理を言って寸法直しをしてもらったものの、サイズが合わないとは思ってもいませんでした。

1番大きなサイズを目一杯広げてもらっても、やはり肩幅がきつそうです。明日はもう新学期が始まりますから、1日目は肩の縫い目をはずしてでも我慢するしかないでしょう。ただし、肩がぱかっと開いていますので、日中どんなに暑くても毛のセーターを脱ぐわけにはいきません。明日の朝、校長に事情を話してみれば、なんとかなるかも知れません。わずかですが、ブラウスにプリーツスカートの生徒もいたようですし、あの制服が認められるのなら、サイズの融通もきくでしょう。

翌朝、さっそく出かけて校長に事情を説明しましたが、プリーツスカートは選ばれた級長しか着られないから、今のままで我慢するか、特別に注文するかしかありませんな、とそっけない返事です。

長男と校長

後で知ったのですが、独立した今でも、校長にだけは生徒を殴る権利が法律で「保障」されているそうです。ひと目で教師に分かるように級長には他の生徒と違う制服を着せているのですと言う校長の態度が、いやに横柄に思えました。

またバーバーズ行きです。特別注文は普通なら1ヵ月はかかりますと言われましたが、縫製係の女性に直接会って事情を説明しましたら、何とか3日後には仕上げてあげましょうと約束してくれました。学校が終わるのを待って、その日のうちに長女を採寸に連れていきました。

しかし、苦労の末にやっと出来上がってきた新しい制服も、哀れ1日の命でした。教師の態度のあまりのひどさに、私たちが長女の学校行きをとめたからです。

担任の教師は神経質そうな中年の白人女性でした。子供と一緒に教室まで行ったとき、私たちは挨拶をするつもりでしたが、その人は親には目もくれずに長女だけを連れて中に入ってしまいました。1時間ほど部屋の外で待っていましたが、遂に姿を見せませんでしたので、互いに言葉も交わせませんでした。

その女性はアフリカ人が大嫌いで、その上、白人以外はすべてアフリカ人に属すると考えていたようです。従って、長女への風当たりもきつかったわけです。

ほとんど英語がわからない相手に自分の意志が伝わらず、自分の思い通りに行動しない生徒が気に入らなかったようです。英語も分からないくせに、難しいはずの算数を自分が教えているやり方とは違う暗算でやってしまう相手が、忌ま忌ましく思えたのか。
あるいは、自分の世界とは別のところで天真爛漫に漫画などの落書きに耽っている生徒が許せなかったのか。第2週目に、その人の堪忍袋の緒が切れてしまいました。自分の机に座って、大声で喚き散らす。机に近寄っては罵声を浴びせ、ノートを投げつける。英語の分からない人間に罵声を正確に理解する術もありませんが、それでも状況の判断は出来ます。小さい頃から外ではほとんど涙を見せたことのない長女が、我慢しきれずに泣き出してしまったと言います。

言葉の障壁があったにしろ、長くてもせいぜい1ヵ月の間です。

外国からの言わば客人を、もう少し大きな目で見てやれなかったものか。長女の方は「日本から来ました……。」で始まる自己紹介の英文をあれこれ考えて胸弾ませていたのです。自己紹介の機会すら与えられずじまい、最初からそんな雰囲気ではなかったそうです。

その国の事情もあるのでしょうが、7時45分から10時25分までが最初の区切り、20分のランチタイムのあと、10時45分から12時40分までが後半の区切りという授業時間の長さを含め、生徒への配慮不足を強く感じました。学校全体に潤いが少ないように思えたというのが小学校に対する正直な感想です。長女が学校に行かなくなった日から、ショナ人の友だちが学校の帰りに入れ替わり立ちかわり寄ってくれるようになりました。家が学校のすぐ近くにあって寄りやすかったせいもあるでしょうが、担任のひどさを知っているショナ人のクラスメイトが同情を示してくれたようです。あの人はアフリカ人が嫌いだから気にしないでねと慰めてくれたそうです。一度帰宅してから、わざわざ出直して来てくれる場合もありました。

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長女、訪ねてくれたクラスメイトといっしょに

クラスメイトの1人ヘザーは、両親に事情を話したそうで、気の毒に思った両親が長女を自宅に招いて下さいました。私たちの方も、家の方にどうですかと誘われました。残念ながら時間の余裕がなくてその機会を逸してしまいましたが、結果的には、ジンバブエに滞在している間にその国の人から誘われた唯一の招待でした。

フローレンスのモデルぶりが板についてきました。プロの雰囲気さえ漂っています。ある日、フローレンスのザンビアが新しくなっていました。相変わらず、ゲイリーは破れたシャツを着ていましたが、少し余裕が出てきたところでフローレンスに新しいザンビアをプレゼントしたのでしょう。

フローレンス(小島けい画)

図柄と色の鮮やかさに惹かれ、ある日、ゲイリーに店屋のある場所を聞き、妻と二人でザンビアを買いに行きました。教えてもらった店が見つからなくて、どんどん歩いていくうちに、大量のザンビアを売っている別の店を見つけました。縦1メートル15センチ、横2メートル前後の布切れです。鳥や花の模様にアフリカ特有の雰囲気が漂っています。色の違う何種類かの図柄を探して買い求めました。粋なスカーフやテーブル敷きに変わりそうです。

ザンビアの上に置いた壺(小島けい画)

がらんとした倉庫のような建物のなかに、衣類や食器などの品物が大量に並べられているスーパーのような店でした。衣類は粗雑で、食器は壊れない金属性のものが多く、周りを見渡すとアフリカ人ばかり、向い側の遠距離バスの発着所には、人が溢れています。街の中心からだいぶ南に来たからでしょう。道路を越して工業地帯を過ぎれば、アフリカ人居住地区のロケイションです。後で、ゲイリーに教えてもらった店にも辿り着き、新たに違う種類のザンビアを手に入れました。中心街に近いせいか、こちらは店もさっぱりとした感じでした。店を教えてくれたゲイリーへのプレゼントに、クリーム色の半袖シャツをあわせて買い求めました。

ある日、門の方からフローレンスの鼻歌が聞こえてきた。ケイコ、ケイコと言いながら台所のガラス窓をとんとんと叩いています。何事が起きたのでしょうか。聞いてみますと、3人で街に行き、買物のあとで食事をしてきたのだそうです。よほど嬉しかったのでしょう。こんなに上機嫌のフローレンスを見たのは初めてでした。

フローレンス(小島けい画)

フローレンスを見ていると、女の人の毎日の仕事はきついだろうなと思います。今の日本のように、炊飯器や洗濯機や掃除機があるわけではりません。それどころか、電気も使えません。街に住んでいる人でも、経済的な理由で実質的に電気を使えない人が多いと聞います。

食事どきになると、いつも同じ匂いがして来ますので、ある日の夕方、部屋を覗いて食事作りを見せてもらいました。南アフリカやケニアなどの小説には主食の玉蜀黍の料理がよく出てきますので、1度は見てみたいと以前から思っていたからです。ケニアのムアンギさんから、日本ではとうもろこし粥と翻訳されている場合が多いけど、とうもろこし団子が1番近いね、と聞いたことがあります。

ゲイリーの部屋

ミリミールと呼ばれる白い玉蜀黍の粉を水にといて火にかけるだけなのですが、出来上がるまでかき混ぜ続ける作業は、米を炊くよりもはるかに重労働です。例の小さな携帯用のコンロですから火力も知れています。1つのコンロでおかずも作らなければなりません。

小1時間かき混ぜて出来上がったものは、ショナ語でサヅァと言われています。見せてもらった日に、フローレンスからおすそ分けをもらってみんなで食べてみましたが、さっぱりしていて食べやすいものでした。ご飯やパンのように、甘くないから常食になり得るのでしょう。ツォゾォさんの秘書のお弁当を見せてもらったことがありますが、サヅァをご飯に替えれば、日本のお弁当とまるで一緒だと思いました。

手伝ってもらうようになってから、洗濯は2家族分を風呂場の浴槽でお湯を使ってしてもらいましたが、その時、普段はフローレンスが湯や洗剤もままならず、時には水さえも不自由しながら洗濯しなければならない状況の中で生活しているのだと改めて思わざるを得ませんでした。

おそらく、フローレンスにとって、その日の外出は煩わしい家事から解放された初めてのひとときだったに違いありません。いつにないフローレンスの上機嫌の背後には、毎日の生活の大変さが潜んでいたのです。

ある朝、洗濯に来てくれたフローレンスが手首に緑の小さな布を巻いています。躓いて転んだ際に怪我をしたと言います。転んだ所に大きな石があって、打ち所が悪かったようです。傷を見せてもらいましたが、3センチほどの傷口がぱっくりと口を開け、中の肉が見えています。薬もつけています。さっそく手持ちの薬をつけて、包帯を巻きました。

化膿止めの薬の余分がなく薬屋に行って新しい薬を買ってもらいましたが、レシートを見ると、薬が11ドル、包帯が4ドルでした。食べるものもままならない生活では、怪我をしてもつける薬さえも思うように買えないのです。2、3日続けてその薬を塗ってみましたが、症状がよくならず、結局日本から持って行った手持ちの薬を使わなければなりませんでした。

ゲイリーの部屋のすぐ横にあるマルベリーの木は、たくさんの濃い赤紫色の実をつけています。木苺のように小さな種が口の中に残らないし、甘酸っぱくてなかなか食べやすい。家でも毎年、梅や苺などでジャムを作りますので、マルベリーをジャムにしてみようという話になりました。

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マルベリーの木に登って

摘んだマルベリーをきれいに洗って芯を取り、レモンと砂糖を加えて火にかけます。あとは、灰汁を取りながら、焦げつかないように混ぜるだけです。時間はかかりましたが、なかなかの出来栄えです。さっそく、ゲイリーたちの所へ持って行きました。マルベリーがジャムになったのを見るのは初めてのようです。携帯用コンロで長時間煮詰めるのは大変です。普段は、砂糖も大量に使えないでしょう。大きな瓶に入ったジャム2本が、2日でなくなりました。パンなどの必需品に比べて、ジャム類は贅沢品で値段もはずみます。苺ジャムを買いましたら、29ドル98セントの値札がついていました。国産品ならもっと安いはずですが、国産の苺ジャムはないようで、ラベルには南アフリカ産と印されてありました。

マルベリー(小島けい画)

フローレンスにはマルベリージャムが珍しかったのか、田舎のウォルターとメリティへのお土産に、持って帰ってやりたいと言い出しました。さっそくみんなで大きな鍋一杯にマルベリーを摘み、私たちは再びジャム作りの職人となりました。次の日、新しく出来上がったマルベリージャムを持って、みんなはウォルターとメリティの通うルカリロ小学校に向けて出発しました。(宮崎大学医学部教員)

フローレンス(小島けい画)

執筆年

2012年7月10日

収録・公開

「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」(No.47  2012年7月10日)

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「ジンバブエ滞在記⑬制服の好きな国」