概要
エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の15回目で、エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後、です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)
本文
エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後
前回は「アパルトヘイト政権との戦い」を書きましたが、今回は「アパルトヘイト政権の崩壊とその後」について書きたいと思います。
1990年2月11日、マンデラが釈放され、4年後に大統領になりました。去年大学生になった人たちの多くが生まれた年にマンデラが牢獄から出たわけです。作家のアレックス・ラ・グーマ(1925―85)は、アパルトヘイトを知らない人たちの時代が来たときのために物語を書いて南アフリカの歴史を記録するのだと常々言っていたそうですが(→「アレックス・ラ・グーマの伝記家セスゥル・エイブラハムズ」「ゴンドワナ」10号10-23頁、1987年)、今は「アパルトヘイトを知らない人たちの時代」です。ラ・グーマの生きた時代から月日が経ちました。
アレックス・ラ・グーマ(小島けい画)
アパルトヘイトがなくなってやっと自由になった(Free at last)、これで差別がなくなる、という人もいますが、本当のところはどうでしょうか。あれほど長く続いたアパルトヘイト体制がどうして崩壊したのでしょうか。
南アフリカだけに限ったことではなく日本のアジアの侵略についてもそうですが、考えれば無茶な話です。南アフリカの場合、ある日突然、今のケープタウン辺りにオランダから人が来て、そこに住んでいる人たちから武力で土地を奪い、その人たちを奴隷にして働かせました。そのうち英国人がやって来て、今度はフランスに取られないようにと大量の軍隊を送り、オランダ人を蹴散らして植民地をつくりました。オランダ人の富裕層は内陸部に逃げ、今度はそこの住む人たちから武力で土地を奪いその人たちを安価な労働力として扱き使いました。やがてオランダ人が制圧した土地に金とダイヤモンドが出て南アフリカは軍事戦略上の重要な土地になります。豊かな鉱物資源を巡って殺し合いをした末、アフリカ人を搾取するという一致点を見出して南アフリカ連邦を作ります。互いに銃を持っているわけですから、決着をつけるためには片方を殲滅させるしかありません。入植者はわずかに13パーセント程度、アフリカ人に取り囲まれていましたから戦争を続ければ共倒れで、自分たちの利益を優先したわけです。
キンバリーでのダイヤモンドの採掘(NHK「アフリカシリーズ」1983年)
前回書いたように、その後、多数派のアフリカ人の強力な抵抗に遭いますが、豊かな鉱物資源や大地の恵みと無尽蔵の安価な労働力を諦めませんでした。その富を、英国、ドイツ、フランス、戦後は米国に日本までを加えた国で今も貪り続け続けています。「白人」でない日本人は、「名誉白人」の扱いを受けて、「仲間」に入れてもらったわけです。
数百年も自分の利益のためなら何でもやって来た人たちが、アフリカ人のために譲る、そんなことはあり得ません。利益を守るために、形を変えただけです。その絡繰りを理解するためには、周りの状況や時代の流れや世界の全体像を見渡してみる必要があります。
入植者が利益を守るために一番必要だったものは何か。それは戦争の回避でした。もしその戦争が1980年代、1990年代に起きていたらどうなっていたか。オランダ人と英国人がかつて殺し合った戦争とは規模が違います。ミサイルや、場合によっては核を使う可能性もなかったわけではありません。米国や英国、ドイツ、フランス、日本と手を携えた総人口の15%足らずの入植者と、ソ連やキューバ、中国から武器を供与される多数派のアフリカ人が全面衝突、そうなれば南アフリカは、第二次世界大戦でパリやロンドンや東京がそうであったように、廃墟になっていたでしょう。そうなれば、アパルトヘイト政権だけではなく、そこに群がって暴利を貪っている米国、日本、英国、フランス、ドイツも痛手を受けたでしょう。何としても全面戦争は避けなければならない、それがアパルトヘイト政権と西側諸国と日本にとっての命題でした。あとは、手続きの問題です。
当時の英国の首相サッチャーと米国の大統領ブッシュの間で、このままでは危ないわ、アフリカ人に政権をやらせて何とか戦争を回避しないと元も子もなくなるわよ、マンデラでも釈放して大統領にするしかないわね、仕方ない、釈放するか、そんな会話が交わされ、マンデラが釈放されてアフリカ人政権が誕生しました。
ネルソン・マンデラ
もちろん、元々アパルトヘイト体制は経営者側から見れば、そう効率のいい制度でもありません。少数派の無能な白人にも高い給料を払わなければいけないし、有能なアフリカ人がいても法的には雇えない上、白人用とアフリカ人用に施設を二つも作る必要があったのですから。実際、1980年代になると英国系の経済人は国外のANC(アフリカ民族会議、現在の与党)の幹部と、アパルトヘイト後について話し合いを始めていたと言われます。
核開発に必要なウランの大部分がソ連と南アフリカ、ナミビアに埋蔵されているというのも大きな要素だったと思います。もし戦争が起きれば、アンゴラやモザンビークのように、共産国の支援の元にアフリカ人の社会主義政権が誕生して、東西のバランスが崩れていた可能性もあります。
考えれば、自分たちが作った法律で勝手にマンデラに終身刑を言い渡しておきながら、同じ法律で、無条件で釈放したわけですから、道義も何もありません。マンデラは、白人にもアフリカ人にもいい顔を見せて、アフリカ人初代の大統領になりました。厳しい見方をすれば、富の再配分の最後の機会が、アフリカ人政権の誕生で失なわれてしまったと言えるでしょう。仮に多少の富の再配分はあっても、わがもの顔にのし歩く侵略者たちを追い払うことは出来きませんでした。
南アフリカに生まれ、アパルトヘイト体制と闘うことを強いられたムベキにはその侵略者の悪意が骨身に染みており、2000年のダーバンの会議で、西洋の批判を承知の上で、「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」というその主張を繰り返しました。(「『ナイスピープル』理解11:エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議」(「モンド通信 No. 19」、2010年2月10日)でも述べましたし、「タボ・ムベキの伝えたもの:エイズ問題の包括的な捉え方」(「ESPの研究と実践」第9号30-39ペイジ)でもまとめています。)
ムベキの発言は二つの意味で歴史的にも非常に大きな意味を持っていたと思います。一つは、病気の原因であるウィルスに抗HIV製剤で対抗するという先進国で主流の生物医学的なアプローチだけによるのではなく、病気を包括的に捉える公衆衛生的なアプローチによってアフリカのエイズ問題を捉えない限り本当の意味での解決策はありえないというもっと広い観点からエイズを考える機会を提供したことです。莫大な利益を独占する欧米の製薬会社への抵抗の意味合いも含まれていたと思います。
タボ・ムベキ
もう一つは、1505年のキルワの虐殺以来、奴隷貿易、植民地支配、新植民地支配と形を変えながらアフリカを食いものにしてきた先進国の歴史を踏まえたうえで、南アフリカでは鉱山労働者やスラムを介して現実にエイズが広がり続けているのだから、その現状を生み出している経済的な基本構造を変えない限り根本的なエイズ問題の解決策はないと、改めて認識させたことです。
私はアフリカ系アメリカ人の文学がきっかけで、たまたまアフリカの歴史を追うようになったのですが、その結論から言えば、アフリカとアフリカのエイズ問題に根本的な改善策があるとは到底思えません。根本的な改善策には、英国人歴史家バズゥル・デヴィドスンが指摘するように、大幅な先進国の譲歩が必要ですが、残念ながら、現実には譲歩のかけらも見えないからです。「国家的な危機や特に緊急な場合」でさえ、米国は製薬会社の利益を最優先させて、一国の元首に「合法的に」譲歩を迫ったのが現実なのですから。
「『ナイスピープル』理解7:アフリカのエイズ問題を捉えるには」(「モンド通信 No. 15」、2009年10月10日)でも書きましたが、その意味でも、アフリカ人の声を聞くのは大事だと思います。
ラ・グーマについては「小島けい絵のブログ:Forget Me Not」中の「まして束ねし縄なれば」(門土社、1992年、1600円)に、翻訳本の表紙絵やラ・グーマに関する記事の紹介をしています。ご覧下さい。
「まして束ねし縄なれば」
次回は、アフリカ人の声を聞くために、雑誌「ニュー・アフリカン」を取り上げたいと思います。
執筆年
2011年4月10日
収録・公開
ダウンロード・閲覧
→『ナイスピープル』を理解するために―(15)エイズと南アフリカ─ムベキの育った時代(4) アパルトヘイト政権の崩壊とその後