2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の11回目で、エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議です。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議

 2000年7月、南アフリカのダーバンで国際エイズ会議が開かれました。開発途上国では初めての会議でもあり、世界中の人々が注目しました。国連合同エイズ計画のピーター・ピオット事務局長は「それまで国際エイズ会議が発展途上国で開かれたこととはありませんでした。私たちは是非ともアフリカで開催したいと思っていました。難しい問題が山積みでしたが、歴史の残る会議となりました。」と振り返っています。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

ピーター・ピオット

前回の「『ナイスピープル』理解10: エイズ治療薬と南アフリカ2」「モンド通信 No. 18」、2010年1月10日)でも書きましたが、南アフリカ政府と米国政府や欧米の製薬会社との<コンパルソリーライセンス法>をめぐる論争は南アフリカのエイズの実態が「国家的な危機や特に緊急な場合」にあたるかどうかが争点でしたから、ダーバンでの会議は欧米の医者や科学者には、南アフリカのエイズの実態を自分の目で確かめる絶好の機会でもありました。

会議に参加したマーティン・マコーウィッツ医師(米国アーロン・ダイヤモンド・エイズ研究所)は「2000年のダーバン会議は私の人生を大きく変えました。私だけでなく、多くの参加者にとってそうだったと思います。初めてアフリカへ行き、現地の様子をこの目で確認しました。実に悲惨な状況でした。それまでも報告書を読んだり、話を聞いたりはしていましたが、実際目にすると背筋が寒くなりました。」と語り、アンソニー・S・ファウチ博士(米国立衛生研究所)は「ベッドからベッドへと見て回りました。でも私たちが患者にしてやれることは何もありませんでした。こんなことをいつまでも続けていてはいけないと強く思いました。人間としてこんな酷い現実から目を背けることは出来ません。」と感想を述べたあと「自分は何をすべきなのだろうと深く考えました。そして、南アフリカの活動家の力強さを見て私は心を決めました。どんなやり方でもいいから、発展途上国の最前線に薬や治療を届ける、それこそが自分のすべきことだと確信しました。」と締めくくっています。(「エイズの時代(3)」)

ムベキや南アフリカ政府のエイズ対策に失望していた国内の医療従事者や活動家には、会議は事態を打開してくれる一縷の望みで、世界が注目すればムベキも別の反応を示すだろうと考えていました。医者は母子感染を防ぐためのAZTも承認されず、カクテル療法も公的機関では禁止されて、毎日無力感を味わいながら診療に当たっていましたから。

抗HIV製剤

マンデラの後を継いだのは長年副大統領を務めたタボ・ムベキで、エイズへの理解と支援の象徴レッド・リボンをつけて現われました。クワズール・ナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「ムベキはやるべき仕事は必ず実行するという公約を掲げて大統領に就任しました。私はその言葉に大いに期待しました。」と当時を振り返っています。

AZTは大統領に就任する半年前に、毒性が強いからと公的機関では既に禁止されていました。AZTで母子感染を防ぐことを発見したグレンダ・グレイ医師(ソウェトのパラグワナス病院)は「政府の役人は大統領の言うことを何でも忠実に守る取り巻きのような人ばかりでした。異論を唱えるような人はいません。だから赤ちゃんを救うために妊婦に予防接種を施すことも認めませんでした。」と語っています。(「エイズの時代(3)」)

カクテル療法も公的機関では禁止されました。活動家は政府のエイズ対策に抗議して大規模なデモを行ないました。ザッキー・アハマド氏は「政府が治療費を負担するよう私たちは要求しました。それは私たちにとって死活問題なのです。すべてのエイズ患者にとって生きるか死ぬかの問題でした。」と政府を批判しました。(「エイズの時代(3)」)

エイズ問題を含めアフリカの問題はアフリカで解決するというのがムベキの考え方でした。2000年当初にはエイズ問題に相当関心を深め、エイズの原因が単にウィルスだけではないと感じ始め、貧困などの様々な要素の方がもっと重要であると信じるようになっていました。そして、国の内外から専門家を招待して、アフリカにおけるエイズの流行についての議論を要請しました。ダーバン会議の一週間前の第二回会議で「HIVだけがエイズを引き起こす原因ではない」という宣言が発表されましたが、欧米のメディアの反応は極めて批判的で、ムベキは厳しい批判を浴びました。

「エイズの時代(3)」の中でも、米保健福祉省長官(1993~2001)のドナ・シャレーラ氏の「ムベキはエイズを否定すると言うよりむしろこれを陰謀と捉えていたと思います。アフリカ人特有の考え方ですね。当時ゴア副大統領といっしょにエイズ問題に取り組むように説得しましたが、形式的な返事が返って来ただけでした。こちらの話に礼儀正しく耳を傾けてからこう言ったんです。『やるべきことは分かっています。どうもありがとう。』」という否定的な見解が紹介されています。(ただ、コンパルソリーライセンス法をめぐるムベキとゴアの経緯を書いたばかりですので、圧力をかけた当事者と「いっしょにエイズ問題に取り組むように説得しました」と言われても、傲慢さしか伝わっては来ませんが。)

ムベキが内外の厳しい批判を受けながら、ダーバン会議が開かれたわけです。ムベキはそれまでの主張を次のように繰り返しました。

私たちの国について色々語られる話を聞いていますと、すべてを一つのウィルスのせいには出来ないように私には思えるのです。健康でも健康を害していても、すべての生きているアフリカ人が、人の体内で色んなふうに互いに作用し合って健康を害するたくさんの敵の餌食になっているようにも私には思えてならないのです。このように考えて、私はありとあらゆる局面で必死に、懸命に戦って、すべての人が健康を維持出来るように人権を守ったり保障したりする必要があるという結論に達したのです。従って、私は充分に医学的な教育も受けてもいませんので、この問題に答えを出せる準備が整ってはいませんが、特にHIVとAIDSについて他の人からも協力を仰ぎながら出さないといけない一つの答えがみつかるように、その問題に答えを出す作業を開始しました。私がずっと考えて来た疑問の一つは、安全なセックスとコンドームと抗HIV製剤だけで、私たちが今直面している健康危機に充分に対応出来るのでしょうかということです。

タボ・ムベキ

次回は、ムベキとムベキが伝えようとした真意について書きたいと思います。

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com/0000274176/index.html

執筆年

  2010年2月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 19

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  →『ナイスピープル』を理解するために―(11)エイズと南アフリカ―2000年のダーバン会議

2010年~の執筆物

概要

エイズ患者が出始めた頃のケニアの小説『ナイスピープル』の日本語訳(南部みゆきさんと日本語訳をつけました。)を横浜門土社のメールマガジン「モンド通信(MonMonde)」に連載したとき、並行して、小説の背景や翻訳のこぼれ話などを同時に連載しました。その連載の10回目で、エイズ治療薬と南アフリカ(2)南アフリカ政府とゴアです。アフリカの小説やアフリカの事情についての理解が深まる手がかりになれば嬉しい限りです。連載は、No. 9(2009年4月10日)からNo. 47(2012年7月10日)までです。(途中何回か、書けない月もありました。)

『ナイスピープル』(Nice People

本文

エイズ治療薬と南アフリカ(2)南アフリカ政府とゴア

前回の「『ナイスピープル』理解9:エイズ治療薬と南アフリカ1」「モンド通信 No. 17」、2009年12月10日)紹介した南アフリカ政府と米国副大統領ゴアとのエイズ治療薬をめぐる論争は、「先進国」と製薬会社との関係を鮮明にあぶり出しました。手の届かない抗HIV製剤を何とか安価に手に入れたいと願う南アフリカと、エイズをも利潤の対象にして稼ごうとする「先進国」の製薬会社。それはまさに、第二次世界大戦後に巧妙に「先進国」が再構築した多国籍企業による搾取構造そのものでした。

製薬会社(「エイズの時代」)

エイズ治療元年と言われる1996年以降、エイズは不治の病ではなくなりましたが、カクテル療法に使われる抗HIV製剤は高すぎて、南アフリカの大半の人の手には届きません。欧米諸国や日本が搾取体制を維持するために設立した世界貿易機関が貿易関連知的財産権協定で、開発者の利益を守るために特許権を設定しているからです。南アフリカ政府は薬を安く手に入れるために、1997年、協定が「国家的な危機や特に緊急な場合」に認めているコンパルソリー・ライセンスを使えるようにするための法律を国会に提案してその法律を成立させました。そこにゴアが介入したのです。1999年、当時のエイズの状況が「国家的な危機や特に緊急な場合」には当たらず、コンパルソリー・ライセンス法は特許権を侵害すると主張しました。そんなゴアを英国の科学誌「ネイチャー」(1999年7月1日)は次のように鋭く批判しました。

抗HIV製剤

熱き民主党の大統領候補者オル・ゴアは、エイズ問題に関してそれなりの信念を持ってやってきていましたが、ある緊急のエイズ問題で、製薬会社の言いなりの冷たいおべっか使いという汚名を着せられて、自らを弁護する窮地に立たされています。

この春に行なわれた出産前の臨床調査では、性的に活発な年齢層の22%がHIVに感染しており、2010年までにエイズによって平均寿命が40歳を下回ると予想されています。発症と死の時期を遅らせることが可能になったカクテル療法はごく少数の恵まれた人以外、南アフリカでは誰の手にも届きません。

この事態に直面して、1997年、政府はある法律を通しました。同法の下では、権利の保有者にある一定の特許料を払うだけで国内の製薬会社が特許料を全額は支払わずともより安価な製剤を製造することが出来るという権利、いわゆるコンパルソリー・ライセンスを厚生大臣が保証出来るというものでした。・・・

欧米の製薬会社はそれを違反だとして同法の施行を延期させるように南アフリカを提訴し、ゴアと通商代表部は・・・その法律を改正するか破棄するように求めました。

公平に見て、アメリカの取り組みを記述するその強引な文言は、数々の巨大製薬会社の本拠地であるニュージャージー州から選出された共和党議員の圧力に屈して国務省がでっち上げたものです。・・・

しかしながら、動機がどうであれ、最近のゴアの記録は事実として残ります。南アフリカ大統領タボ・ムベキとともに、米国―南アフリカ2国間委員会の共同議長としての役割を利用して、副大統領は、悲惨な疫病に直面して絶望的な状況にある国民に薬を手に入れると誓って約束した一つの統治国家に対して無理強いを繰り返したのです。これまで「良心の価値」を唱え続けて来た人の口から出た言葉であるだけに、その発言は、少し喉元にひっかかりを感じます。

タボ・ムベキ

大統領選挙で、ゴアはブッシュに僅差で敗れました。石油業界や兵器産業界が地盤のブッシュは父親がした湾岸戦争にならって、武器の在庫を一掃するかのようにイラク戦争を強行しました。エイズは、そういった意味でも世界を左右する大きな問題でもあります。

<コンパルソリーライセンス法>を成立させた背景

「『ナイスピープル』理解8:南アフリカとエイズ」「モンド通信 No. 16」、2009年11月10日)で紹介しましたが、HIVは売春婦や鉱山労働者を介して急激に広がっていきました。ジョハネスバーグ近くの最大のスラムソウェトのような密集したアフリカ人居住地区では特に感染者の数は多く、出産や授乳で乳児にも感染しました。医師や看護師は、目の前で爆発的に流行していくのをただ見守るしかありませんでした。ソウェトのバラグワナス病院のグレンダ・グレイ医師が当時の様子を次のように語っています。

子供のエイズ患者が増え集中治療室が一杯になりました。やがて子供の患者は集中治療室には入れないという決定が下されました。その子供たちは末期患者だからです。もっと助かる見込みのある子供のためにベッドを空けておく必要がありました。エイズが新たな人種隔離政策を生んだかのようでした。エイズの病状による差別が始まったのです。医師も看護師も無気力でした。何もしない政府への怒りもありました。(2006年NHKBSドキュメンタリー「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)

1990年2月に釈放されたネルソン・マンデラは1994年5月に大統領に就任しました。エイズ予防に奔走した人たちはマンデラに期待しましたが、エイズには何も触れずに、すべてを副大統領のタボ・ムベキに一任しました。大統領だった5年間、マンデラはエイズ問題にほとんど関心を示しませんでした。政権委譲に伴なう問題が山積みで、エイズ問題までは手が回らなかったというのが実情でしょう。1964年のリボニアの裁判でどうして武力闘争を始めたのかを説明するのにアフリカ人の強いられた惨めな毎日の生活状況をとうとうと述べ、その後27年間も獄中にいた人が、アフリカ人の窮状を知らないわけがありません。しかし、南アフリカのHIV感染者は毎年2倍のペースで増え続けて行きました。

クワズールナタール大学のサリーム・アブドゥール・カリム氏は「流行を食い止めようといくら努力しても希望の光はまったく見えて来ませんでした。手強い相手と戦うにはすぐれた武器が必要です。でも私たちには、流行を止める有効な手段が何もありませんでした。」(「エイズの時代(3)カクテル療法の登場」)と述べています。

グレイ医師は政府の無策について「アパルトヘイト政府は、エイズに何の手も打ちませんでした。黒人の病気だからと切り捨てたからです。新しい黒人政府も、対策を講じない点では同罪です。感染の拡大は止まりません。これはもう、大量虐殺です。(「アフリカ21世紀 隔離された人々 引き裂かれた大地 ~南ア・ジンバブエ」)と批判しています。

2000年のダーバン会議は、次回です。

●メールマガジンへ戻る: http://archive.mag2.com/0000274176/index.html

執筆年

  2010年1月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 18

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  →『ナイスピープル』を理解するために―エイズ治療薬と南アフリカ(1)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の30回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(30)

  最終章 

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

    (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

最終章

私がエイズ検査を受けるつもりだと言うと、アイリーンは私が一度も検査を受けたことがないのを知って驚きました。私が感染する理由がないと言うと、自分は敢えて治そうとはしない医者ですね、とアイリーンは笑って言いました。ナイロビ病院では医者は検査が必要だそうですよとも言いました。最初は簡単な血液検査をするだけと言われて、後でイライザ法の検査結果を知らされるのだそうです。アイリーンのは陰性でした。

エドワード・キマニ医師が私の左腕から血液を200ミリリットル採りましたが、結果は私以外には言わない神に誓って約束してくれるようにとエドワード・キマニ医師に頼みました。この呪わしいウィルスに苦しむ患者を何人も見て来た後では、検査結果はどうでもいいとその時は思っていました。しかし、実際に結果の知らせが電話で来たとき、私は興奮のあまり飛び上がってしまいました。

「ムングチ先生、大丈夫でしたよ。」と、キマニ医師が言いました。
「今のところ大丈夫という意味ですか?」
「そうですよ。」
「コンドームを発明した人に感謝です。」

HIV検査イライザ法器具

ナイロビ研究所のマックスウェル・ハングという人が署名した通知書を渡されるまで、私は信じられませんでした。新しい人生を与えられたようで、ただ一人の人とこの気分を分かち合いたいという気分でした。

私は車でムンビの葬式に行きました。すっかり葬式が終わった後、崩れ落ちそうになる私を暖かい手が支えてくれているのに私は気付きました。泣く人たちの姿でそれまで見えなかったのですが、背の高いその人の姿が見えました。

「アイリーン、ジュネーブで仕事をしないかと誘われていてね。」
「まあ!それは良かったですね。」
「でも、引き受けないつもりだけど。」と、私は付け加えました。
「どうして?ほんとに頑固な人ですね。」
「君のそばを離れたくないんだよ。」
「離れる必要はありませんよ。」
「君もジュネーブに来てくれるの?」
「ご一緒しますよ。」と、アイリーンは短かく言いました。ケニア中央病院とリバーロード診療所、そしてカナーンホスピスとタラでアイリーンと共に過ごした時間は、すべてアイリーンに繋がっていたのだと思いました。1987年の4月22日に、私たちはジュネーヴに出発しました。
私がエイズ検査を受けるつもりだと言うと、アイリーンは私が1度も検査を受けたことがないのを知って驚きました。私が感染する理由がないと言うと、
「自分自身は敢えて治そうとはしない医者ですね」とアイリーンは笑って言いました。ナイロビでは、医者には検査が必要だそうですよ、とも言いました。最初は簡単な血液検査をするだけと言われて、後でイライザ法の検査結果を知らされるのだそうです。アイリーンは陰性でした。
エドワード・キマニ医師が私の左腕から血液を200ミリリットル採りましたが、結果は私以外には言わないと神に誓って約束してくれるようにと頼みました。この呪わしいウィルスに苦しむ患者を何人も見て来た後では、検査結果はどうでもいいとその時は思っていました。しかし、実際に検査の結果を電話で知ったとき、私は興奮のあまり飛び上がってしまいました。

「ムングチ先生、大丈夫でしたよ。」と、キマニ医師が言いました。
「今のところ大丈夫という意味ですか?」
「そうですよ。」
「コンドームを発明した人に感謝です。」

ナイロビ研究所のマックスウェル・ハングという人が署名した通知書を渡されるまで、私には信じられませんでしたが、新しい人生を与えられたようで、ただ1人の人とこの気持ちを分かち合いたいという気分でした。

私は車でムンビの葬式に行きました。すっかり葬式が終わった後、崩れ落ちそうになる私を温かい手が支えてくれているのに気が付きました。泣く人たちの姿でそれまで見えなかったのですが、背の高いその人の姿が見えました。

「アイリーン、ジュネーブで仕事をしないかと誘われていてね。」
「まあ!それは良かったですね。」
「でも、引き受けないつもりだけど。」と、私は付け加えました。
「どうして?ほんとに頑固な人ですね。」
「君のそばを離れたくないんだよ。」
「離れる必要はありませんよ。」
「君もジュネーブに来てくれるの?」
「ご一緒しますよ。」と、アイリーンは短かく言いました。ケニア中央病院とリバーロード診療所、そしてカナーンホスピスとタラでアイリーンと共に過ごした時間は、すべてアイリーンに繋がっていたのだと思いました。1987年の4月22日に、私たちはジュネーブに向けて出発しました。

ナイロビ市街地

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「『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―」の連載はこれで終わりです。
次回からは、1992年に家族で行ったアフリカ南部ジンバブエの首都ハラレで暮らした時の「ジンバブエ滞在記」を連載(→「ジンバブエ滞在記一覧」(「モンド通信」No. 35、2011年7月10日~No. 59、 2013年7月10日)する予定です。
作品の解説(玉田吉行)(「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)→)と翻訳こぼれ話(南部みゆき)は、もう少し続けます。

ジンバブエの首都ハラレで暮らした白人街の500坪の借家

執筆年

2011年6月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No.35

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(30)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の29回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(29)

   第30章 タラで過ごした1週間

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳

    (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第30章 タラで過ごした1週間

金曜日の夕方6時に車でタラに着き、私はまっすぐに家に向かいました。ちょうど農場から戻ってきた母親は、マツダ625に乗った私を見てとても喜びましたが、父親の調子が悪くタラ総合病院に入院していると言いました。病院とはまだ関わりたくなかったので、その晩父親に会いに行くのはやめました。しかし、私が帰って来たときに焼いて食べようと父親が育てていた山羊を絞めると言って弟が譲りませんでした。家族が皮を剥ぐのをながめながら、放蕩息子が父親に大事に育てられた子山羊を締めてもらっているような気分でした。今でも3人の弟は家の敷地内に住み、4人の妹は家に関わりがあり、2人はまだ母親と暮らし、あとの2人も結婚して家から1キロも離れていない所に住んでいました。家族も一緒に来て山羊を食べるようにと誰かが電話をしてくれたのでしょう、9時に食事を始め、夜中過ぎまで食べていました。昔ながらの習慣で、先ずは肝と腸から食べ始め、そのあと前脚を食べました。肝と腸は家族全員に行き渡るようにしないといけませんでした。その後、肋のおいしい肉と後ろ脚、最後は4つの胃袋で終わりでした。

後ろ脚の1本は後でスープになる頭と蹄といっしょに母親に渡されました。1時頃に1人、2人と帰り始め、最後には私1人になって、あとは何年も使っていないベッドで寝るだけでした。

ぐっすりと寝て次の日の土曜日に目が覚めたとき、太陽が昇っていて、いつも通りに農場での畑仕事に出かけて誰もいませんでした。台所に行くと、母親が洗面用に湯を温めていてくれ、火には、紅茶の入った薬罐がかけてありました。顔を洗い、紅茶を飲んでから、新聞を買って地元の噂話を聞こうと車でタラの街に行きました。タラでは原則として新聞が午前中に届きませんから、正午まで1時間もありました。歩いて市場に行って、食料の供給が不足するこの時期にどんなものを売っているかを確めることにしました。大抵の店には、高値で売られる少量の粉を計るカップが置いてありました。タラでは、市場の値段は変わっていないようでした。11月と12月が食べものの値段が高い時期だと子供ながらに知りましたが、何も変わっていないようでした。玉蜀黍の粉が2キログラムで10シリング、もろこし粉が15シリング、稗の粉が20シリングだと言われました。何キロも離れたカカメガから来たものか、タラ辺りの農家から来たものでした。

「キロンゾの子供、医者のジョゼフを覚えてる?」と、1人の女性が言いました。
「覚えてるよ、タラ高校に行った人でしょ?」と、別の女性が言いました。
「今、街にいるよ、大きな車でね。」
「まあ、まだ結婚してないわよ。」
「そう、奥さんはまだもらってないわ。」
「あの子、どうしたのかしらね。」
「あんたの娘をやって探ってみたら?」
「娘だって?私、あの子とだいたい同じ年よ。」
「きっと主婦には手を出さないわね。」

主婦には手を出さないと言うのを聞いて、私は笑いそうになりましたが、もうそれ以上は聞いていられませんでした。ばつの悪い思いをするか、結婚しないでいる理由を2人にあれこれ言われる前に逃げ帰りました。その日の日刊紙ヤードスティックとシティタイムズとシチズンのすべてを買って車で家に戻ると、母親が昼食にムソコイを作っていました。カナーンのニュースがトップ記事で、ジョン・キマルが私についての好意的な記事を書いて、カナーンでの残酷な行為に私が関わっていなかったと弁護してくれていました。ジョン・キマルが記事の中で書いていましたが、「カナーンの背後に潜む悪魔ディンシン医師」は、すでに国外に逃亡していました。しかし、今回の事件では予想外の出来事もありました。恐らく、近くの国に逃げようとしていたときに、ブシアの近くで乗っていたフォルクスワーゲンが正面衝突をして、ギチンガ医師が死んでいました。

みんなでお昼に、昨晩絞めた山羊の後の太股と頭と4本の脚を食べました。スープもついていて、弟2人はとても美味しそうに食べていました。食べ終わったあと、私は母と弟2人と1番下の妹を車に乗せて病院の父親の所に見舞いに行きました。父親は相当に弱っているようでしたが、診断ではマラリアの発病で、治療の効果は出ているとのことでした。タラで受けられる最高の治療を受けているのが分かっていましたから、同じ医者として、その人たちがやっていることに敢えて口を挟みませんでした。今の私には後ろ盾となる病院もありませんし、もっといい治療法を申し出る訳にもいきませんでした。カナーンは肥りすぎて崩れ落ちていましたから。

人生で最高の1週間でした。母親が子供の時のように細々と気を遣ってくれ、弟や妹たちが交代でいっしょに親戚の家に行って慰めてくれて、カナーンでずっと感じていた不安な気持ちがすっかり和らぎました。その時私は、医者をやるのは心も体もすり減るものだとつくづく思いました。タラに帰って来た日、手も足も首も背中もずきずきしていましたから。1日に20キロ歩く日もありましたが、痛みは和らいでいました。

どうしてみんなが平和で治安の心配もない田舎を離れて、騒音、忙しさ、小競り合い、犯罪、孤独、無関心、詐欺、物価高、喫煙、治安の悪さ、全般的な秩序の乱れなどで混乱を極めるナイロビに出かけてゆくのだろうと私は疑問に思い始めました。取り上げたくて仕方がないのに、明らかに誰もが話すのを嫌がっていた話題が死の病でした。しっかりとキャンペーンが行なわれていたようでしたが、私の家族や親戚は、自分たちには影響はないと考えているようでした。

「それはナイロビやモンバサやキスムでの話で、タラじゃ関係ないよ。」と、弟が激しい口調で言いました。

私は敢えて弟に反対はしませんでしたが、弟はカナーンでの仕事の新聞記事を読んでいたようでした。
「ところで、兄さんはその人たちと働いていたと聞いたけど。」と、弟は言いました。
「そうだよ。その人たちが入院している病院にいたね。」
「どうだった?」と、弟が尋ねました。
「そうだな、治療法がないと考えてすごく落ち込む人がいる以外は他の患者と同じだよ。」と、私は出来るだけ丁寧に答えました。そのあと、私たちが見た自殺についての話はしましたが、ディンシン医師が高い治療費を取って病院が患者から搾り取っていた話題は避けました。しかし、弟はそのことについてもすでに聞いていたようでした。

「兄さんが患者を殺していたってみんなが言っているよ。」と、弟はずばっと聞いてきました。
「それはない、誰も殺してはいないよ。ただ、手の施しようがない患者がいて、医者がその苦しみを終わらせた場合が何回かはあったけど。」安楽死の概念は説明するには難し過ぎて、私は話を切り出せませんでした。
「あの女の人たちについてはどうなの?各紙が大々的に報じて、記事でも書いていた『最後の一口』を求めるおかしな年寄り用に金で連れて来られた売春婦についてだよ。」と、弟が続けました。責任逃れをしていると思われないで、どうすればこの問題をうまく説明出来るのか、私には確信が持てませんでした。

「そうだな、売春婦は、値段が合えば色んな相手に自分の体を売って来ているね。ディンシン医師はそこに目をつけて売春婦を釣る餌に使ったんだと思う。自分が死にかけていて、奥さんや恋人や売春婦とも交わりを禁じられているのを自覚しているから、患者の中には、セックスにいくらでも金を払う人もいたんだな。」
売春とは縁がなく、セックスに金を払う必要のないタラで育った弟がこの話を理解するのは難しいだろうと思いました。しかし弟は、田舎には合わない大都会に特有な経済の秩序があると納得したようでした。

ポール・ウェケサは水曜日の午後に私を訪ねてきました。地元の警察で私の居場所を確めてきたに違いありません。いつも夕方の五時半になったら急いで出かけるタラの居酒屋で飲んでいるところに警部が顔を出したからです。正直で親しみやすい人柄のせいだけでなく、カナーンの最新情報を知っているのが分かっていましたから、警部を見て私は嬉しく思いました。私が警部の好きなタスカーエキスポートを注文すると、警部は渋い表情を見せました。それで警部がまだ仕事中だとわかりました。タラはナイロビとは違うので、町から離れて酒を飲みながら話をしましょうと誘いました。ビールを飲みローストビーフを食べながら、ほぼ一週間前に中央警察署で別れてから互いの身辺に起こったことを報告し合いました。私はナイロビにはしばらくは戻らないと警部に伝えました。私は特に何もしないで、母親の料理を食べて満足していました。唯一の心配は使用人で、私がたらふく食べているあいだ、その使用人が飢えていたかも知れなということでした。

ウェケサ警部はナイロビに戻ったらすぐに使用人の様子を見て来ると約束してくれました。カナーンの捜査は完全に終わり、ヒュー・マクドナルド医師は釈放されました。カナーン事件の本当の容疑者はディンシン医師とギチンガ医師でした。カナーンで働いていた看護師11名を取り調べて、ウェケサ警部が立証しました。政府はディンシン医師が逃亡したと言われている英国での捜索の継続を検討していました。私については、ケニア中央病院に戻って欲しいと言う要望が出ていると警部は言いました。現在ケニア中央病院では、すべての医者に、たとえ非常勤でも、医療活動を行なうように求めていました。

「政府のために僕を探しに来たということですか?」と、私は尋ねました。
「いや、そうじゃないですよ。私はナイロビで起こっていることを知らせているだけです。あなたが逮捕を望むなら、地方の警察が逮捕しますよ。」と、ウェケサが言いました。

エイズがもたらした脅威のために、国立病院で医療従事者が不足していましたが、エイズ患者を治療しても危なくはないと政府が認めたので、政府は医者に仕事に戻るように求めていると聞きました。今は1ヶ月の休暇をもらっていますが、休暇が終わったらすぐに戻って国のために働くつもりですと、ウェケサに説明しました。使用人に会って私の無事を知らせると約束して、夜十時ごろに警部はタラを後にしました。

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タラに来てから1週間後の金曜日に、ドクターGGとアイリーンが訪ねて来てくれました。ドクターGGは前に会った時よりも老けたようで、皺も増え、弱々しく見えました。アイリーンはクリーム色のワンピースに青のスカーフと、スカーフにぴったりの踵の低い青い靴を身につけてきれいに見えました。私は母親に長年一緒に働いて来た人だとドクターGGを紹介し、リバーロード診療所とケニア中央病院、最近ではカナーンでも一緒に働いた非常に特別な友人だとアイリーンを紹介しました。母親は2人と握手をしました。母親がアイリーンと握手したとき、目が特別に輝いているのが分かりましたが、それは母親が賛成するか、認めるかした人や出来事やニュースにだけ見せる目の輝きでした。

「こんなきれいな娘さんをどうして今までタラに連れて来なかったんだい?」と、母親は言いました。
「最後までこの娘をとっておいたんだよ。」と、私は冗談を言い、以前ユーニス・マインバを家に連れて来た時、二人はうまくやっているように見えても、母親は決して認めていなかったのを思い出しました。

「タラの血が流れているんだね、きっと。」と、母親が続けました。私に結婚して欲しいと望むタラの娘として、母親がアイリーンを認めていると私にはわかっていました。その話題はそこで打ち切って、ドクターGGを私の小屋に連れて行きました。何か言いたいこと、それも私にだけ聞いてもらいたいことがあると私は感じていました。

長年様々な知らせを聞いて来ましたが、ドクターGGが持って来た知らせはどの知らせよりもこたえました。私の小屋の茅葺きの屋根を見上げ、涙が零れ落ちないように下を向きませんでした。ムンビは兄の1人に手紙を書いて、フィンランドでの事情を説明し、戻りたいと言って来ていました。家族はムンビから、私に伝えて欲しいと頼まれていたようですが、カナーンの危機が山場をむかえていましたので、重荷に思わないようにと私には連絡しないと決めたそうです。しかし、カナーンが壊された日に、ムンビの夫ブラックマン船長から、ムンビが謎の病で死んだので父親が望むなら、親族2人が遺体を引き取りにヘルシンキまで来てもらってもいいという電報が届きました。飛行機の切符を同封し、すべての費用は船長の家族が出すと書いてありました。ドクターGGは途方に暮れましたが、臨床検査の標本を届けたナイロビ病院でアイリーンと出会い、私が休暇を取ってタラに帰ったと聞きました。アイリーンがナイロビ病院のエイズ患者から逃れたいと言ったので、ドクターGGはシゴナ診療所にアイリーンを誘いましが、その前に2人には私を探し出す必要がありました。

私は友人といっしょにナイロビに戻らないといけなくなったと母親に伝えました。近いうちに私がまたアイリーンを連れて来るという約束で、母親は行くのを認めてくれました。昼食のあとタラを発って、車で1週間留守にしたアパートに戻りました。ソファの上でムヤが昼寝をしていましたが、ムヤを起こし、ンデル行きの暖かい格好に着替える間、紅茶を用意してくれるように頼みました。ムヤは外国の切手の貼られた航空便を差し出しました。ジュネーブに知り合いは居ませんでしたが、切手にジュネーブの名前が見えました。しかし、ムンビが書いたかも知れないと思って、手紙を開けました。ムンビからではありませんでした。差出人は、ジュネーブの世界保健機構本部となっていました。

親愛なるムングチ先生

世界保健機構は、貴国であなたが性感染症の分野でやって来られた仕事を興味深く拝見してきました。WHOはエイズの脅威と国際的に戦っていますが、あなたに興味を持っていただきたく、ジュネーブの本部にお招きしてお話をお伺いしたいと思います。

今や世界で15万人近くになると推定されるエイズ患者は、富裕層は殆んど危険性がないという既に広がっている危険な思い込みの影響もあって、今年は二倍に増えるでしょう。往き帰りのすべての費用はWHOでお支払いします。ご承諾のご返事を頂けましたら、早速航空券をお送り致します。   敬具

医師 ジョナサン・マン
世界保健機構 事務局長

ジョナサン・マン

私はアイリーンをアパートで降ろした後、ドクターGGをンデルの自宅に送り届けました。ムンビが死んだという知らせは私にはあまりにも重く、その夜、WHOの申し出を素直には喜べませんでした。しかし、リバーロード診療所で患者を診て来た私の仕事がやっと認められようとしているのは嬉しい限りでした。

執筆年

  2011年5月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 34

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(29)