2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の20回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

 第20章 40年間の投獄

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第20章 40年間の投獄

アイリーンが母親との問題を私に一気にしゃべったあと、本人の気持ちを鎮めるために連れて行った居酒屋の「犬の溜まり場」でウェケサが私とアイリーンを見つけました。金曜日の午後にキタレに住む旧友ジョン・キマルがアイリーンを病院に訪ねて来ました。二人はギクユカントリークラブというディスコに行くことにしました。店で踊り、焼いた山羊肉を食べ、タスカーエキスポートとアイリーンの好きなピルスナーを飲んではしゃぎました。ジョン・キマルは非常に気前がよく(アイリーンがそう思ったのですが)、ナイロビからギクユまでタクシーで行き、自分が支払いました。

ケニア地図(キタレ、ナイロビの北西)

1時をまわった頃に、2人は部屋を取り、カントリークラブで一晩を過ごしました。そのクラブの受付で、二人は母親と出くわしました。母親との密会中に父親が尻を刺したあの時の男と母親はいっしょでした。母親が娘を安っぽいと責めたので、娘も母親に無節操でふしだらだとやり返して口論になりました。ナオミは娘に父親に似て頭が鈍くて心が狭いと罵りました。もしやれるなら、あなたがあの人(父親)に電話をして妻(母親)が男と楽しくやっていると言いなさいとアイリーンに言いました。告げ口すれば、母親が傷つくより父親がもっと苦しむと分かってきていましたので、アイリーンはどうすれば良いか混乱するばかりでした。

「君のお父さんは愛人がいるの?」
「いえ、いないわ!」と、アイリーンは叫び気味に言いました。
「お父さんには愛人が要ると思うよ。」と、結婚生活の不誠実を解決するには、罪作りでも同じように愛人を複数こしらえるしかないと簡単に信じて、私は言いました。
「ドクタームングチ。捜しましたよ。」
「警部、私がまた問題ですか?」と、自分の仕事が大好きで、恨みを持たずに仕事をこなす誠実な男として好きになり始めていたポール・ウェケサに尋ねました。

「機材についての何をですか?」
「機材のありかを突き止めたいんですがね。」
「診療所内にありますよ。」
「いえ、ないんですよ。」
「では、ワウェル・ギチンガ医師に聞いて下さい。でも、どうして機材が必要なんですか?」
「製造番号を確認したいのと、購入方法について2、3尋ねたいことがありましてね。」
「そうですか。」

私は嫌な予感がしました。どうして機器が密かに保管されているのかとずっと疑問に思っていて、人に見せるためにと手術のためにとで、イーストレイ地区で新たに開業する診療所に機器を移すつもりだと、私の雇い主のギチンガが言っていたのを思い出しました。

今回はウェケサの方が一枚上手でした。証拠となる「KCH. GK」のラベルのついた数本の薬の壜や医療器具や装置といっしょに、ギチンガの母親の農地のバナナ園に埋められていたレントゲン機器を、警察は何とか突き止めました。「公務員による横領」の10の訴因をギチンガ医師がすべて認めたために、裁判はすぐに終わりました。訴因のそれぞれに四年の刑が課されために、計40年間の実刑でした!

ギチンガ医師の友人で敵でもある私たちは、ギチンガ医師がどうやって40年も刑務所で生き永らえるのだろうかと気の毒に思いました。しかしウェサカは、10の罪状の判決は同時に進行するために4年間だけ刑務所にいることになるでしょうと説明してくれました。

ケニア地図

12月に、ギチンガ医師からカミティ刑務所で点検済みの手紙を受けとりました手紙にはリバーロードを私個人の診療所として経営してもらえないかと書いてありました。ギチンガ医師は金は要らないが、自分がいない間も診療所を引き続きやって欲しいと言っていました。同僚の殆んどが町で、キバルアと呼ばれる非常勤として個人で開業医をやっていることは既に知っていましたが、ケニア中央病院内の病棟で医療相談をやっているいいかげんな医者もいました。患者が医療スタッフになにがしかを払わなければ、薬剤や検査室の化学薬品が足りなくなるという話は私の耳にも入っていました。時には患者のベッドの配置にも賄賂が要求されるというのは公然の秘密でした。

イバダンでは、これは何も特別なことではありませんでした。しかしケニアでは、病院当局はすばやくそのような不正の存在を否定しました。しかし、経済学者が主張していたように、商品やサービスの値段は不足によって操作されるというのが、限られた資源の範囲内で発展している経済の現実でした。KCHの医薬品も処方箋も医療相談も、昔からあるこの経済の法則からは逃れられませんでした。

イバダン市街

私は試験が済み次第、なるべく早くギチンガ医師の診療所を再開すると約束しました。私はアイリーンも手伝ってくれるように誘いました。(給料付きで)

「悪魔から引き継いでいるみたいですね。」と、アイリーンは冗談まじりに言いました。
「その人が君に残してくれるなら、君だって引き継ぐだろう?」
「悪魔は嫌ですよ。」

 

ナイロビ市街

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執筆年

  2010年8月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No.25

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(20)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の19回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

第19章 花婿の値段

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第19章 花婿の値段

ユーニスがタラのホテルに是非泊まりたいと言ってきました。私は2度と乗り合いバスではタラに帰らないと心に誓っていました。しかし、医師村の宿舎の前に停めてある私の車はポンコツのフォードエスコートKML721です。そこで、ユーニスのBMW320を私が運転して行くのであれば、乗り合いバスに乗って里帰りはしないという私の誓いも破られることは無いだろうと考えました。

私たちは金曜日の夕方に出発し、7時頃にタラに入りました。町に近づくにつれて、金持ちの中年女と一緒にいる自分を誰かに見られたらどうしようと恐くなってきました。自分の年齢に近い女性が私といるのを目撃したら、母親は何と思うでしょう?ユーニスは母親より10歳ほどは若いのですが、私よりは11歳も上なので、私には母親のように見えてしまいました。ユーニスは優しい女性で、私に充分尽くしてくれますが、その理由は本人が一番自覚していたと思います。しかし私は、ユーニスが頻繁に訪ねて来るようになると、だんだんと疎ましさを感じるようになりました。以前は逢引の時間は金曜日の夕方から10時までで、3時間をベッドで過ごすことにしていました。そのうち、金曜日の晩に泊まるようになりました。数週間後には、金曜日と土曜日も泊まるようになりました。それからある日、ユーニスはその週の逢引きを水曜日に始めました。私がユーニスにうんざりしていると思い始めたのはその時でした。医師用宿舎B10にユーニスの姿が見える度に、私は内心縮みあがり
「ああ、もういいかげんにしてくれ……」と、声にならない嘆きを漏らしました。

男性優位の社会では自分より私方が運転するのが自然だと認めて自分のBMWを私に運転させてくれたユーニスを残して、私は車を降りました。ユーニスには後部の座席に座って欲しかったのですが、私が車の持ち主に見えるよりも運転手に見えた方がいいと譲りませんでした。

「部屋はありますか?」と、私はフロントで尋ねました。
「はい、ダブルの部屋ならございますが。」
「いくらですか?」
「60シリングになります。」

ユーニスが車の中にいて、これで更に自分を裏切ることになると分かっていながら、ためらうことなく私は金を支払いました。それから、私はホワイトキャップを3本とローストチキンとユーニスが飲むタワーズワインを1本注文しました。鍵と飲み物を受け取り、ウェイターに相手を見るといけないので、部屋には来ないようにと念を押しました。ユーニスは素敵な女性でした。しかしながら、ふっくらしたと体つきと年齢から、母親が私に結婚して欲しいと思う可愛いカンバ娘というよりは、ユーニスが母親のように見えてしまいました。私たちはタラいましたから、母の一生の願いと正反対のことをしていると町中の噂にしてしまうわけにはいきませんでした。

ホワイトキャップ

私たちはバーにもレストランにも顔を出さず、タラのホテルの21号室に籠もったままでした。デュレクス社製のコンドームを着けるのを反対されるかと思いましたが、ユーニスが器用な手つきで手伝ってくれるのには驚きました。ナイロビでは、ユーニスが大富豪の奥様だと気付く人から身を隠す必要がありましたから、金持ち層が利用する恋の巣窟や郊外の宿屋に隠れるしかありませんでした。自分の町にいるのに逃亡者のような気分になるのがいつも苦痛で、ナイロビで社交的になるのは特に嫌でした。しかしタラでは、状況がまるで違いました。ユーニスはいつもぴりぴりして腹を立てていました。タラの宿の部屋に籠もってただ何となく2人でチキンを食べていた時にそれがわかりました。今回ユーニスには、人に見られることがどれほど「危険である」かがわかっていませんでした。人に見られでもすれば、母親の死期を早めるでしょうし、私はそんな責任を負う人間にはなりたくありませんでした。

キスムとナクルとキタレで過ごした時間が一番充実していました。これまで不思議に思っていましたが、こういう町では、金持ちの中年男と若い娘、中年女性と若い男が一緒にいるのは珍しくない光景でした。

ナクル地図

朝になって、マインバ夫人の言葉に私は動揺しました。

「あなたのお母様にお目にかかろうかしら?」
「何だって?」
「せっかくタラに来たのに、会わずには帰れないでしょ?」

ユーニスとの関係が知られてしまわないかと心配でしたが、私はどうしても自分の生まれた土地に行きたいという衝動にも駆られました。
「ほんとにそうだね。会わずには帰れないよ。と、私はユーニスの意見に賛成しました。

私の家は、タラの街からカングンドに向ってわずか2キロほど行ったところにありました。標準的な4エーカーの小作農地で、子供の頃から家族の生活の糧を得て来た所です。敷地内には四つの小屋がありました。母親用(台所)と姉妹用と兄弟用と、草葺きで丸みを帯びた形の三つの小屋とは違って、トタン屋根でより大きな四角い父親用の小屋でした。土曜日はタラの市の日で、母親がムソコイを売りに行く準備をしていました。ムソコイは皮を取って摺りこぎで叩いて潰したとうもろこしのカンバ語の名前です。私たちにはとても馴染みのある食べ物です。のどかな暮らしの中に豪華なBMW320で突然乗り込んで来た訪問客を見るために、家族みんなが家から飛び出して来ました。

「ジョゼフだわ!」と、妹のベティが叫び声をあげました。
「車を買ったんだ!」と、弟のムテティが大声で叫びました。
「あんたが都会に飲み込まれてしまって、もうタラには戻って来ないとみんなは思ってたよ。」と、母親は私とユーニスと握手をし、横目で見ながら文句を言いました。
「この人は寮母さんだよ。瓜や豆やムソコイを買いに来たんだよ。」と、私はカンバ娘ではなく、中年の女性を連れてきたことで母親を面喰らわせないように説明しました。
「それはどうもありがとう。こんなむさ苦しい家にようこそ。あんたが丁度いい時に来て嬉しいよ。父さんがあまり気分がよくないんだけど、ちょっと休んでから会えると思うとよ。」と、私たちを台所に案内しながら母親は言い、三方を石で囲った煤けた竈の横にある低い椅子に座らせてくれました。ユーニスはさすがでした。私の家族に完前に溶け込み、母親がムソコイの料理を作るのを手伝ったり、絶えず火に薪をくべ、勢いが弱くなる度に上手に吹いて火をおこしていました。あとはみんなに任せて、もうあまり長くないと聞いていた祖父に、私は会いに行きました。祖父は、今はベッドから出られない状態で、固い木のベッドの上に寝ていました。母は、食事(今は流動食だけ)や洗濯に必要なものを全部と清めの水も部屋から運び出していました。

「ムングチ、お前なのかい?」と、か細い声が返って来たので、私は「そうだよ」と答えました。
「わしが死ぬ前に会いに来てくれたんだね。」と、祖父は続けて言いました。
「おじいちゃん、死んだりしないよ。」
「いや、じきに死ぬんだよ。さあ、挨拶にこっちにおいで)。」

死んだりはしないよと言いたかったのですが、私は祖父の言うとおりにしました。祖父は私の顔に唾を吹きかけ、それから自分の胸にも唾を吹きかけ、そのあと、誠実で正直な生き方をするように私に言ってから神に祈りをささげました。私たちがナイロビに戻ったその週の土曜日の夕方に祖父が死んだと、後で私は聞きました。

父親の小屋で昼食が出されました。初めてユーニスに会ったとき、父親も横目でユーニスを見ていて、私は瓜や豆やムソコイについての同じ説明を繰り返しました。家族が完全にはその説明を信じていないのは私にも分かっていました。しかし、ムソコイを全部買い上げて両親それぞれに300シリングを渡して、ユーニスは事態を更に悪くしてしまいました。両親は金持ちの女性から金を受け取りました。はっきりした理由も無く600シリングを気前よく払う女性と私が交際しているという二人の秘密を漏らしてしまう行動をユーニスが取ったことに私は腹が立ちました。花婿の値段のように金が支払われたので、ナイロビに戻る道で、2人は支払った金のことで口論になりました。ユーニスは私の両親に気前よくしても絶対に何も悪くないと反論しました。ユーニスは自分の両親にも同じ事をし、育ったバナナヒルでは、他の人の家には手ぶらでは行かないと言いました。二人が言い争うのは滅多にありませんでしたが、喧嘩になるといつも、ユーニスは、ムサイガ川とマサレ谷のスラムを見下ろせるパンガニの金持ちのナイスピープルランデヴーに車で私を連れて行きました。

デビッド・カンボは若い頃、最初はバスの車掌として、それから運転手として、後にOYCというバス会社の調査員として、国じゅうを動き回りました。OYCはナイロビの人たちがOnyango twende choo(オンヤンゴは私たちをトイレに行かせてくれる)という意味のスワヒリ語のあだ名の3つの頭文字を取って作った名前で、現在では幅広く国内中で事業を展開していました。回った先でカンボは、旅行する人がトイレやベッドのシーツ、客室や食堂や酒場でも、大前提として強く清潔さを求めていることを肌で感じました。カンボは異常なほど潔癖さにこだわり、このナイスピープルランデヴーを建てた時も、客室の清潔さに特に力を入れました。その清潔さが受けてカンボの宿が有名になりましたが、それは宿泊客なら宿が提供する清潔さをなかなか忘れられないからでした。客と部屋を利用するために電話をしてくる安っぽい服を着たマサレやマジェンゴの女性には部屋が一杯ですと言って差別し、低所得の層を締め出すためにカンボは宿泊料金を上げました。その後、カンボはバーを完全に閉めました。

1978年までに、ランデヴーは昼間用と一晩用と週末のハネムーン用の高級宿になっていました。

1978年、カンボは自分の宮殿を眺めました。治安判事、事務次官、銀行員、主婦、個人秘書、登録看護師、学校の校長、パイロット、警察官、弁護士、国会議員など、宿を利用してくれる人たちを思い出しましたその人たちはみな、愛人といっしょに朝と昼の時間を過ごすためにやって来ました。泊まる人たちは大抵、パトロンが夜明け前には自宅の配偶者の元に帰れるように、午前の2時か3時に事を終えていました。カンボは宿に「ナイスピープルランデヴー」と名前を付けました。

私たちはナイスピープルランデヴーの11号室でじっくりと話し合いました。ユーニスは、自分も夫も裕福な生まれではないと説明しました。ユーニスの生まれたバナナヒルは、大抵の人は1エーカー足らずの土地しか持たず、タラよりも貧しい所でした。人々は薪の代わりに、とうもろこしの穂の軸や茎を使いましました。家族を養うために、父親はナイロビで朝から晩までムココ・テニと呼ばれる手押し車を引かざるを得ませんでしたし、母親はバナナヒルの周りのヨーロッパ人の農園で珈琲や紅茶の収穫をせざるを得ませんでした。ユーニスはカベテでケニアアフリカ中等教育の卒業証書を取得し、南アフリカユニオン銀行で床磨きやオフィスのトイレ掃除やアジア人やヨーロッパ人の上司にお茶を出すという大変な下積み経験をしたあと、タイピストとしての訓練を受けて最後は秘書になりました。当時銀行員だったコッドフリィ・マインバと出会ったのはその職場で、二人は互いに惹かれあっていると思いました。(ユーニスの言葉)

「そろそろ帰らなきゃ。」と、ユーニスは言ってベッドを抜け出して、そのままいつものようにシャワーを浴び、白粉をはたいて化粧を済ませました。私はむしろ自分の宿舎でシャワーを浴びたかったので、タオルで汗をぬぐうだけにして、服を着て靴を履き、これで何日間かはユーニス・マインバの束縛からは逃れられる階段を下りていきました。二人が鍵を受付に返したちょうどその時、国内には数台しかない型の黒のベンツ280から知った顔の人物が降りてくるのが目に入りました。車のドアを男が開けると、ドクターGGの娘ムンビとそれほど年齢の違わないほっそりした若い娘が出てきました。ユーニス・マインバはその男性を見て、罵りの声を上げました。

「そう、あの人もこの宿を知ってるのね。しかも、メイドの他にも女がいたなんて!」と、夫を見ながらユーニスは言いました。しかし私の方は、男性がユーニスの夫、ゴッドフリィ・マインバだと知って気を失なうところでした。ユーニスは私の腕を掴み私といっしょに歩いて行きました。ユーニスの夫も、間違いなく娘と同じ年齢の女の子の手を取って、私たちとは反対側の受付の方向に引っ張って行きました。マインバ氏が私たちに気付いたかどうかは確信がありませんでしたし、気にもしませんでした。むしろ、結婚した関係にある男女はみな、「そして2人は一体となり、誰も2人を離れ離れにはしないでしょう」という聖書の言葉を厳しく守って生きていると信じている人たちが可哀想に見えただけでした。

ナイロビ市街

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執筆年

  2010年7月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 24

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(19)

2010年~の執筆物

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横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の18回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(18)第18章 ナイセリア菌

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第18章 ナイセリア菌

私は朝の生理的要求を満たすためにしゅっとズボンのチャックを開けました。最初はその感触に何となくはっきりとは確信が持てませんでしたが、すぐに間違いないと思いました。症状として間違いなく現われるひりひりとした特有な痛みが襲って来ました。イバダンで学生だった五年ほど前に、淋病にかかったことがありました。当時は、尿道に割礼を施されるまでは一人前の男ではないと自慢までしたものです。しかしながら、売春婦と遊びまわらず、素敵な女の子とデートをするだけの素敵な男なので、私は性感染症に感染するわけがないと信じるようになっていたので、今回の発病は訳が違いました。

ナイジェリアのイバダン市街

私が医者にかかる場合は、医療義務として治療のためにセックスをしている相手を連れて来ることが求められました。今の病気にはンデュクかムンビのどちらかが関わっていました。さらに悪いことには、もし二人のうちのどちらかが病気でなかったとしても、私が病気の仲介役をしたわけですから、二人ともおそらく既に感染しているでしょう。ムンビがモンバサに戻る前に、私は動かなければなりませんでした。

私はかなりのスピードを出してフォードエスコートKML721を走らせ、30分でンデルに着きました。顔を見れば昨日の晩もたくさん飲んだのだと分かりましたが、珍しくドクターGGは素面でした。

「やあ、ドクタームングチ。近頃ンデルはお忘れかな?」
「いいえ、ドクターGG。決してそんなことないですよ。」
「さあ、入りたまえ。嬉しい来客だな。おめでとう、今じゃ登録医師で、運伝までしてるとムンビが言ってたな。」
「そうなんです、ドクター。」私は娘の名前を聞いて、汗が噴き出て来ました。ムンビが父親とどれほどおおっぴらに私について話すかはわかりませんが、私とムンビには既に隠しごとができていました。」
「大丈夫かね?『床屋は自分の後ろ髪は切れない』というギクユの古い諺があるだろう?」と、その老人は、熱があるのではないかと私の額に手を当てながら聞いてきました。

「諺は知っています。だからこうして診てもらいに来たんですよ。どうも淋病みたいで。」
「おやおや、ドクタームングチ。淋病でこんなに大量の汗をかくんかね?戦時中の朝鮮やビルマ、ソマリアでも、セックスしたらすぐに感染したそうだ。ズボンを下ろしたまえ。」

両方の尻に相当痛い注射をし、これで何日かすれば元のしゃんとした体に戻ると保証し、容器半分ほどのアンピシリンを出してくれた年老いた医者の言葉に私は従いました。

ムンビが私と一緒にいたことをドクターGGるのが心配でしたが、私はムンビについては尋ねませんでした。自分の娘が私に性病を感染させたと知ったら、父親のドクターGGはどう思うのだろうか思いました。

「娘を治療した後だから、残ったのはこれだけだったんだよ。」

私はひどく腹を立てるところでした。と言うことは、この老人は私が治療に来た病気に自分の最愛の娘ムンビが関係していることを知っていたわけです。以降、二人はこの問題について二度と口にしませんでした。

運転して家に帰りながら、今回起こったことにとても恥ずかしい思いを感じていました。自分の性器が以前はなんとも無かったことを考えると、ナイセリア菌はムンビから来たものに違いありません。一番最近の女性との出逢いの場面がより鮮明に思い出されました。ムンビだけでなく、あの場にはンデュクもいたのです!

「ああ、なんてことだよ。医学研究生の偽善者ドクター・ムングチ、お前は一体何をやってるんだ?」と、私は声に出して罵りました。つい先日、性感染症の脅威という闘いに勝つために、マジェンゴの公衆トイレにコンドームの販売機を設置するという主張を強く支持したところです。

「ドクタージョゼフ・ムングチ、お前は自分の体のことを考えなかっただけでなく、鼠かハマダラカか他の危険な媒介動物のように二人の女性の病気の仲介役になってしまったのだ!」
私は独りで叫び声を上げ、こんなことは二度と起きないようにと願いました。これからはコンドームの使い方をきっちりと説明して使うように奨めたいと思います。

*****************************************

ンデュクはがかんかんに怒りながら私の宿舎に入って来ました。あの二人プレーをしてから10日後、私がGGの診察を受けてから一週間後のことでした。ンデュクは文字には出来ない卑猥な言葉で私を罵りながら300シリングの請求書を私に投げつけました。

「ジョゼフ、あんた汚いわね?」
「何、どうして?」
「よくも性病をうつしてくれたわね。」
「ンデュク、聞いてほしいんだ……。」
「先ず300シリングの返金をしてもらいたいわ。」
「何のだい?」
「わかるでしょ、医者が淋病の原因はあんただと言ってるわ。」
「どうして僕が原因だと判断するのさ?」
「ジョゼフ、私はあんたを訴えるわ。」

訴えると脅されても、300ドルを返せと言われても私は)心配しませんでした。特に腹立たしいのはンデュクが向けた非難の矛先でした。

「しかし、君は肌の白い愛人と遊び回ってるよね?」と、私はンデュクがひどく嫌う話題を持ち出しました。
「白人には性感染はないわ。」
「何を言ってるんだよ?」
「ブラウンさんは素敵で、売春婦は買わないわ。」
「性感染症が白か黒かをどうやって知るんだい?」

二人は終わりのない遣り取りを始めました。私はお互いに矛先を向け合うことが二人に取ってどれほど無意味なものかを証明しようとしました。性病を私にうつしたのは君だと思ったが、もしそうでないとすれば残るのは一人だよ、と私はンデュクに説いて聞かせました。

「そう、あのモンバサの売春婦だったの?」と、ンデュクは叫んで、座ったり起き上がったりする度にいつもぎいぎいと音を立てるソファから立ち上がり、そのまま寝室に行きました。「性病がうつった人の服をここに置いとかないでよ!」と、ンデュクが言いました。あっという間に、ムンビのショーツとブラジャーとユーニスが置いて行ったワンピースを選び取って、ンデュクは暖炉の火の中に投げ込みました。

「だめだ、ンデュク、やめてくれ。」と、私はンデュクに頼みましたが、間に合いませんでした。絹の布地は既に縮み始め、私が暖炉から取り出した時には、ユーニスのワンピースには三つほどもう繕えないほどの穴が開き、ムンビの下着も半ば焼けてしまっていました。

*****************************************

ある日、私はンデュクとムンビの比較をし始めました。恐ろしいことに、秘書のンデュクよりも売春婦のムンビの方に魅力を感じていました。ンデュクはわがままで、自己中心的で、口喧しい女でした。自分の世界だけが大切でした。それに引き換え、ムンビは素直で、愛らしく、聡明なうえに決して私をなじったりしませんでした。独特の言い方で、私を好きだと言ってくれました。ンデュクは私を大切には思っていませんでした。ンデュクにはイアン・ブラウンとその金が大事だったと思います!ムンビはひどく魅力的で、ベッドの中でも外でも一緒にいて心が安らぎました。反対に、ンデュクは場所によっては苦痛を感じました。うわべは堂々と服を着こなし香水の芳香を漂わせていましたが、ンデュクは下品で虚栄心に満ちていました。物質的にも精神的にも、過剰なほど私に期待を寄せ、私が期待に添えたことは一度もありませんでした。不思議なもので、ンデュクの愚痴や口喧しさが私にある効果をもたらしました。ンデュクに釣り合うように、更に高価な服を着るようになり、家具も年代ものを買うようになっていました。いつもブラウンの金のことを考え、金持ちへの憧れがじわじわと心の中に入り込んできていました。

ある日、そんな事に深く思いを巡らせている時に、ユーニスがドアを叩きました。会員になっているナイロビ・クラブに車を置き、そこから2, 300メートル南にある医師用宿舎まで、ユーニスは歩いてきました。
私はワンピースが燃えてしまった経緯を説明しました。ユーニスは落ち着いて事実を受け止めてくれましたが、原因も考えず服のような無生物に怒りをぶつける単純な女とは付き合わないほうがいいと、私に警告しました。ユーニスは本当に物分りの良い人でした。私を大切に思っていると言い、いつかそのことに気が付いて欲しいとも言いましたが、私は返事をしませんでした。

私の愛情はどこか他にあるはずでしたが、どこにあるかは分かりませんでした。ムンビといっしょでも、ンデュクといっしょでも、マインバの妻といっしょでもありませんでした。アイリーンは妹のような存在で、悩みを打ち明けられる唯一の人間でしたから、アイリーンといっしょでもありませんでした。かわいそうに、アイリーンは仕事にすべてを捧げ、心が寛く、人生に満足していましたし、父親の愛情と私との友情に幸せを感じていましたが、それでも、何が原因だか本人にも分からない満たされない性欲に苦しんでいました。信じられません。

ケニア周辺地図

*****************************************

登録医師としてケニア中央病院に入った半年後に、ギルバートが死にました。希望もなく治療をして苦しんできた看護師や医師の間では、密かに祝杯が挙げられました。その時第20病棟で担当に当たっていたのはギチンガ医師で、四年半もの長い間ギルバートが懸命に病気と闘ってきたせいでしょうか、結果的にはとうとうギチンガ医師が手を出してしまったようです。安楽死や中絶とピポクラテスの誓いに関するギチンガの異論を理由に、病院の中央委員会はギチンガが不正行為をはたらいたのではないかという嫌疑を掛けました。ギチンガ医師は謹慎させられましたが、その後、調査で嫌疑を立証出来なかったために復職を許可されました。ギチンガ医師は、リバーロード診療所を担当しながら医療の日々をまた送ることが出来たので、謹慎中はこれまでに無く充実した時間だったよ、と私に言いました。KCHの登録医師として働いていたので、約束していたのに、ギチンガ医師のために働くことが出来ていませんでした。

アイリーンは、ギルバートが死んだ日に病棟を出たとき、ギルバートは非常に陽気で元気だったので、ギチンガ医師がギルバートを毒殺したと確信していました。アイリーンが訴えると、ギチンガ医師は目を丸くしてから、アイリーンに微笑みかけました。アイリーンの好きな、特別な温もりと感謝の気持ちが伝わって来る微笑みでした。ギルバートがランガタ墓地に埋葬されたあと、アイリーンは何日か泣きました。

ナイロビ市街

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執筆年

  2010年6月10日

収録・公開

  →モンド通信(MomMonde) No. 23

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  →『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(18)第18章 ナイセリア菌

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の17回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(17)第17章 医師用宿舎B10

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

第17章 医師用宿舎B10

 私は性感染症の専門医になろうと決めていました。リバーロード診療所ではすでにあまりにもたくさんの事が起きていたので、私はもっと多くの知識を得たいと思い始めていました。政府は公立病院で働く医師に個人の診療所を経営するのを止める命令を出しました。ギチンガ医師から私に政府の職を辞める依頼がありましたが、私は断りました。ギチンガ医師自身、政府の職も辞めないし、診療所を二つも持っていました。ギチンガが犠牲にしたかったのは自分の雇ったムングチ医師でした。

私は性感染症に関する本を読み漁りました。どの本も性感染症の原因が道徳にあると考える傾向にあり、その話題については、すべての著者が病気の蔓延の主な原因は性の乱れと道徳の欠如であると書いていました。予防策として一夫一婦制の安定した関係が健全だと推奨され、売春は声高に非難されていました。この問題をじっくり考えれば考えるほど、性感染症対策がうまくいかないのは、道徳のせいにする姿勢と、治療とは切り離せない費用の問題が原因であると確信するようになりました。私たちが性に関する問題をもっと公にし、例えば淋病を普通の風邪のようなごくありふれた病気と見なすようになれば、感染した人もためらわずに医療の助けを求めるでしょう。公立の保健所や病院がもっと速く薬が手に入るようにすれば、両機関が治療の妨げになることもなくなるでしょう。性感染症の患者は差別され、軽蔑され、恥ずかしい思いを強いられて、結果的に、意識をしてもしなくても、感染したまま病気を広げてしまっている、と私は感じていました。

性感染症への社会的な偏見と戦うために建てられたので取り組み姿勢も違うだろうと期待して、クロスロード沿いの特別治療診療所を訪ねましたが、事態が更に悪くなっているのがわかっただけでした。患者は、セックスの相手を一緒に連れて来るように言われていました。私が診療所の経営をするなら、誓って、患者に相方を連れて来るように言ったりはしないでしょう。むしろ私なら、性感染症は医師が患者に相談を受けるごく普通の病気であることを明らかに出来るように努力するでしょう。道徳的な束縛から如何に性を解き放すかが、今後の私の最大の課題になりそうです。人間は男も女も、牛や犬や鶏や山羊のように、どうしてみんなの前でセックスをしないのだろうかという別の考えが、ふと頭を横切りました。

ケニアでは、人前で愛撫やキスをすれば人は眉をひそめていましたし、ミニスカートも一時は流行りましたが、すぐに廃れました。今では、女性の脚を見せるスリット入りのスカートに人気が集中し、セックスと道徳に関しては、ケニアも間違いなく世間は開放の方向へ向かって進んでいました。

人間の脳は極めて強力な器官で、男女が性の問題で公然と張り合うようにしてしまう働きがあると書いたデズモンド・モリスの著書『裸の猿』を読んだことがありました。これが、結果的には一夫一婦制の関係や、セックスの相手を選ぶ際の年齢の範疇化に結びつくものの実態です。母親と息子、父親と娘、兄弟姉妹間のセックスに対する反対意見も書かれていました。しかし、誰もがやっていて、一日おきにでも誰かとしたいと思うセックスの謎めいた秘密については説明がありませんでした。

私は医師用宿舎の一階にあるB10号室に引っ越しました。駐車場、台所、トイレ、風呂、暖炉つきの広々とした居間と、ゆったりした寝室付きの部屋でした。ここでこれからの二年間を過ごすことになりました。以前のウッドリィキベラやイーストレイの住まいはこことはまったく違っていました。ウッドリィキベラのワンルームは、キッチンと風呂と居間と寝室だけでした。インド式の共用トイレだけが部屋の外にありました。イーストレイの部屋には、台所兼居間と寝室が一間ずつと、臭いが鼻につくいつも汚れたトイレがありました。メアリ・ンデュクはその場所を豚小屋に譬えていましたから、医師用の宿舎を訪ねて来た時に宿舎を大いに気に入ったのも不思議ではありませんでした。

「私の家には暖炉は無いわ。ここなら火を熾せるのね。」と、ンデュクがソファの上に脚を投げ出し、背筋を伸ばしながら大きな声で言い、古いソファがぎぃーぎぃーと大きな音をたてました。

「ソファを壊してしまうよ。」と、私は注意をしました。
「新しいのを買えばいいでしょ。」と、ンデュクはさらに大きなぎぃーぎぃーという音をたてながら文句を言いました。
「きっとブラウンさんは、豪華な暖炉を持ってるんだろ。」と、私は嘲けるように言い、ンデュクと距離を置きたい時にいつも使う話題を持ち出しました。その日は一日中、かなりきついテーマである神経梅毒にかかりきりでした。そんな時にンデュクが訪ねて来て、口喧しくあれこれ言って私をうんざりさせました。それにその時、医師用宿舎に引っ越しをしたと言った時に、宿舎を見ることに大いに興味を示したドクターGGの娘ムンビが来るのを、私は待っていました。

大抵の大学院生(医師)が住んでいたために、そこに住んでいる人たちは「登録医師用」と呼ばれ、先輩の医師、外科医や内科医、その他の分野の医師の監督の下で、ケニア中央病院を運営していました。臨床検査や医療相談、比較的簡単な手術、産科や整形外科や小児科が出す殆んどの処方箋は登録医師の責任でした。年輩の医師は私たちを管理、監督しながら、町のあちこちでたくさんの診療所を運営していました。難しい手術や込み入った問題が発生すると、ギチンガのような医師に相談しました。これは実に効果的で、私たちには何の不満もありませんでしたが、そのような診療所の存在は、時として政府の反感を買いました。診療所があるために、政府は殆んどの専門家を奪われたうえ、診療所があるために生じる薬局や医薬品の不足を解消するために混ぜものの入った薬が出回る機会を提供していました。

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 「引越しのお祝いをしましょうよ。最新の設備がすべて整っている宿舎よ。二人でセレナに行きましょう。」と、ンデュクは私がそれとなく白人の愛人について触れたことを無視して叫びました。
「今は祝杯をあげる気分じゃないよ。」と、私は不機嫌そうに言いました。ンデュクと一緒に居たくありませんでしたし、セレナに行く気分にもなれませんでした。ンデュク一人だけで私の一週間分の酒代くらいの酒を飲みますから、セレナにンデュクを連れて行くには財布の中身が少なすぎました。
「じゃ、マサンデュクニにしましょうよ。」
マサンデュクニは、その手の酒場の椅子としてよく使われたビール瓶の木箱から名前が付けられた無認可の安酒場でした。
「今日は一日ほんとに大変だったんだよ。」
「ジョゼフ、一体どうしたのよ?」
「どうもしないさ、ただ疲れてるんだ。」
「そう!私に疲れたってことなのね?」
「いや、何もかもに疲れたんだよ。」
話し合ってもどうにもならず、私はだんだんと苛々し始めました。時刻はもう6時で、道を間違えてなければムンビがいつ来てもおかしくない時間になっていました。
「なあンデュク、どうだろう、お祝いはまた別の日にしよう。そう、明日はどうかな、その気になるかもしれないし。今は、金持ちの色男にセレナに連れて行ってもらっても気にしないよ、俺は。」
イアン・ブラウンの金回りの良さに触れると、ンデュクはいつも怒り出しました。
「嫌よ、今夜はあの人にヒルトンに連れてってもらうわ。今すぐここから電話させてもらうわよ。」と、ンデュクは恨めしそうに言い、急いで電話口に行って電話を取り上げました。
「それは内線電話だ。病院の外には通じないよ。」もし外部に電話をしたければ、病院の交換手を使えばいいので、半分は嘘の話でした。

お金のために愛人を大事にしているのが今では私には分かっていましたが、イアン・ブラウンのことを私に言われて、ンデュクは傷つきました。その男がどれほど素敵で、私がブラウンのようにメアリに洋服を買う余裕がないので、ある意味では如何に私がブラウンに援助されているかをンデュクはまくし立てました。パリ製の香水、マニキュア、マスカラ、口紅、ブラウンがロンドンから買ってきた下着や衣類はすべて、ンデュクにとっては、私がその銀行屋に感謝すべきものでした。ンデュクの考え方は私には受け入れられませんでしたが、メアリはしつこく、私のような医者には上品に服を着こなす女性が必要だと言い張りました。それは本当かも知れませんが、この特別な金曜日には、ドクターGGの娘のようなもっと普通の人間がそばに必要でした。私はンデュクにさようならを言い、どさっとベッドに腰を下ろして、ムンビと過ごす今夜のことをあれこれと考えました。

戸を叩く大きな音で目が覚めました。ムンビがとうとう医師用宿舎のB10号室までやって来たのは、7時を少し回った頃だったと思います。すらりとしたきれいな体の線を際立たせる青いデニムのジーンズをはき、米国の映画女優のように見える黄色のブラウスと赤いバンダナを身につけていました。踵の尖った靴は黒い色で、ンデュクなら自慢しそうな見るからに高価な輸入品でした。
「そうね、これでパパが言ってたスーパードクターが作られるのね。」と、ムンビは叫ぶと、古いソファに腰掛け、蹴って靴を脱ぎ捨てました。
「そうだよ、ここが登録医師たちの村だよ。」
「ここに一年住むのね。」
「いや、2年だよ。」
「じゃ、1980年までは結婚しないということね。」
「そうじゃないよ。結婚はいつでも出来るさ。明日でも、1980年でも、1990年でも、 2000年でも、ね。」
「私はここでは結婚しないわ。」
まだ誰とも結婚する気はないとムンビに言おうとした時、なぜか「言わないほうがいい」と誰かに警告されたような気がしました。私はムンビに見るように写真のアルバムを渡し、冷蔵庫にピルスナーがあるから自由に飲むように言いました。私はシャワーを浴びてジーンズに着替え、古いケニア警察犬養成所の向かいにあるマサンデュクニにムンビを連れて行きました。その店はケニア中央病院から歩いていける距離にあり、近いだけではなく、ビールも非常に安いので仲間の間ではかなり人気がありました。国内では極めて値段の高いワインやリキュールやウィスキーなどは出ないので、実際、財布の中身に容赦のないンデュクのようなタイプの女性から男を救ってくれました。

ピルスナー

店は混雑していて、病院の職員や看護師や臨床系の助手たちが、タスカーやピルスナーやホワイトキャップなどのビールで喉の渇きを癒しているのが見えました。店内のあちこちから賑やかな話し声が聞こえ、店の色んな所で客がグループを作っていました。私たちはジュークボックスの隣の空いたベンチ椅子に腰を下ろして、私はそれで足りるといいのにと思いながら、ホワイトキャップとピルスナーを4本ずつ注文しました。二人は飲み始めましたが、今回はムンビがかなり飲めるようでした。

ホワイトキャップ

「お酒は一週間振りね。ずっと下痢してたのよ。」と、ムンビが言いました。
「モンバサはどうだい?」
「そうね、相変わらずね。アメリカの水兵さんたち、もう帰っちゃったわ。」
「どういう意味だい?」
「アメリカ海兵の季節のこと、聞いたことないの?」
「いや、聞いたことないよ。」
「みんなって言ったでしょ。男だっているわ。」と、ムンビは素っ気なく言いましたが、私は無理にその話を続けたくありませんでした。ムンビが1957年に生まれて、4段階のC評価というあまりよくない成績で高校を卒業したこと以外にはあまり多くを知らないのに気が付きました。ムンビはすべり込んだ秘書コースの学校に通うためにモンバサに行っていました。
「タイプライター、いまだに恐ろしい機械ね。見ると毎回、嫌な気分になるわ。」と、ムンビが言いました。
「これからどんな仕事をしようと思ってるの?」と、私はムンビが現在何をやっているのかという話題を避けながら聞きました。
「そうね、結婚して子供を10人つくることかしら。」
「そんなにたくさん?」
「お医者様の給料とただの治療代、私が欲しいのはそれだけね。」
「なるほど、ね。」

ムンビはどんな運命が待ちうけているかについては疑いを持たず、たとえ男が浮気をするものだと分かっていても、父親よりも金持ちの医者と結婚をして十人の子供を設け、父親に対しても誠実に生きようと考えていました。当面は、モンバサで出来ることをやって暮らしていました。
「あと2年ってことでしょ?」と、ムンビは私が恐れていた話題をまた持ち出しました。
「そうだね。」と、私は自分の寿命を縮めているとは知らずに素っ気なく言いました。

私たちはしばらく飲み続け、10時になろうとしかけた頃に、洩れ聞こえて来た会話の内容を聞いて私は身震いしました。
「トムの殺人以来、あの人が一度もキスムに来ていないなんて想像出来ますか?」と、背の高いルオ人の助手が言いました。
「ギクユ人に支配権があったとは言え、やはり、あの人は優れた指導者だったよ。」と、医師が付け足して言いましたので、私はますます聞き耳を立てました。
「あの人たちは一体何を話しているんだよ?」と、私はムンビに聞きました。
「ケニヤッタが死んだ話よ。」
「ケニヤッタがどうしたって?」
私はいきなり拳で殴られたようでした。
「一体、あなた一日中どこにいたの?昼の一時から、ずっとニュースでやってるわ。」

15年ほどケニアを支配してきた老人が死んでいたとは知りませんでした。ムンビの話では、ケニヤッタが数日前に、モンバサの家族全員と海外の外交団全員に電話をかけ、その週の出来事で自分が死ぬことがはっきりするだろうと言ったそうです。
「老衰で死ぬたくさんの人が自分の死期がわかるんだよ。」と、私はムンビに言いました。「犬の溜まり場」と呼ばれている店の中では、何組かの客のグループが1978年8月20日の話題で遠慮なく言い合っていました。
「コイナンジェとギチュルが後を継がなくてよかったね。二人とも危険だからな。」と、カンバ訛りの言葉を話す細身の男が言いました。
「モイが政府内の民族間バランスをうまく取って、景気も良くしてくれるといいんだけどな。」
「二人がモイにやらせると思うか?」
「もちろんさ。二人が誰を出馬させることが出来ると思う?ギチュルはコイナンジェを、コイナンジェはギチュルを出馬させたりはしないからな。」

ダニエル・アラップ・モイ

いつもなら、「犬の溜まり場」は最後の客が帰る朝の4時か5時まで開いているのですが、今夜は11時に店が閉まりました。外部から人が病院に入りこまないように建ててある二つの門を通って、私とムンビはすっかり酔いながら自宅に向かって歩きました。警備員が居眠りをしているのが見えたので、ムンビは起こして中に入れてもらえるように、赤い靴で警備員の詰め所を何度も蹴らざるを得ませんでした。
「何号室ですか?」と、厚手の黒いレインコートを着た年配の警備員が聞きました。
「B10ですよ。引っ越してきたばかりです。」と、私が言うと、欠伸をしながら、当然寝る時間だから寝る必要があるんだと強調しました。中に入れてもらい、何も口にしないで、二人はそのままベッドに直行しました。

ムンビを怒らせるようなセックスをしてしまったに違いありません。後になって気が付きましたが、私の体をぐいっと押しやって、ムンビが寝ぼけた酔っ払いと私のことを呼んだのを思い出しましたから。目を覚ましたとき、私はまだ夢を見ているようでした。玄関の戸の前で、ものすごく大きなどすんという音がしました。
「ジョゼフ、ジョゼフ、ムングチ先生、起きなさいよ。」というンデュクの神経質な声がしました。鍵穴から覗くと、ピンクのプジョーが止まっているのが見えました。
「ちょっと待っててくれ。」と、私は叫び、そのあとタオルを掴み取って腰に巻くと、ムンビが起きないよう祈りながら戸を開けました。
「何か用かい?」と、私はンデュクに聞きました。こんな遅い時間にンデュクを中に入れたくありませんでした。
「凍えてしまうわ。」と、ンデュクは文句を言うと、私を戸口の方に押しやりました。寝室の方に歩いて行きそうだったので、思わずンデュクの左手を掴んで自分の方に引っ張りました。
「だめだよ。入らないでくれ。」と、私は何故ンデュクが寝室に入れないかを隠し通せたらと祈りながら頼みました。しかし、思ってもみないような速さと力で私から手を引き離し、ンデュクは悪態をつきながら寝室に歩いて入りました。

グループセックスのことは聞いたことがありましたし、学生時代に一度、ルームメイトとイバダンの売春婦二人と寝たこともありましたが、医師用宿舎B10にいる女友だち二人を相手にすることになるとは思ってもみませんでした。
「あら、ここには誰がいるの?だから私を中に入れないようにしたわけ?」
と、ンデュクは嘲笑い、ムンビの顔にかかった毛布を剥ぎ取りました。ムンビは目を醒まして明かりに両目をしばたかせながら、ようやく目を開けました。
「ムングチ先生、これは一体なんなの?」と、ムンビは叫びながら、毛布を引っ張りあげて尖った乳首を隠しました。

二人の女の違いに気が付いたのはこの瞬間でした。ムンビは締まってすらりとした乳房で、お腹も平らでしたが、メアリはとても大きな乳房で、お腹も太めで少し突き出ていました。混乱しながらも、一つ屋根の下で同時に二人の女と向き合う、そういったことでも起きなければ、医学部で読んだ本の内容がすべて、実際の役に立つことなど無いだろうなと考えていました。
「ンデュク、二人はすごく眠いんだよ。」と言って、私はベッドに飛びこみました。ベッドはンデュクに邪魔をされたと言わんばかりに、きーっと大きな音を立てて軋みました。
「私だって眠いわよ。」とンデュクは毛布を引っ張って、服も脱がずにベッドに潜り込んできました。ベッドは大人三人の重みで一層大きくぎーっと軋みました。メアリのベルトが私の背中を突付くので、寝たければベルトを取ってくれよ、と私は文句を言いました。メアリは服を脱ぎ、気が付くと私は、体の隅々まで知っている二人の女に挟まれていました。

半時間ほど経った頃、ムンビは私がそわそわしているのに気づきました。
「その女を相手にしたら?私はもう済んだから。モンバサでは、二人を相手にするのをツーサムって言うのよ。」と、ムンビは不機嫌そうに言うと私に背を向けました。ツーサムも悪くないなと思い始めながら、私は寝た振りをして両方の二の腕をしっかりと押さえていました。私は眠れず、メアリが私の体を触り始めたとき、肉体の本能に屈してしまいました。ムンビもメアリも私に気に入られようとし、私も競争相手としてその夜が始まった二人を相手にしようという気持ちになってきました。

ンデュクは新しい女とうまくやるように私に言うと、翌朝かなり早い時間に出て行きました。今のところ私は誰のものでもなかったので、罪の意識は感じませんでした。メアリ・ンデュクにはイアン・ブラウンがいて、ムンビにはたくさん話を聞かされるモンバサの男たちがいました。しかし、モンバサでのツーサムという言葉がムンビの口から出たとき、私は動揺し、ムンビはモンバサで生きるために何をしているのかを知りたくなりました。なるべく早いうちにその話題を持ち出そうと心に誓いました。

モンバサ

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 ベッドの隣の本棚の上に置いてある時計を見ると、7時半でした。ムンビはかすかに鼾を立ててすやすやと眠っていて、私は起こしたい気持ちになりました。昨夜のビールと寝不足で頭が痛み、こんな状態で授業に出ても何かに集中出来るのだろうかと思いました。

ベッドから飛び起き、シャワー室までよろよろと歩き、水に打たれれば素面に戻って目も覚めないだろうかと思いながら、蛇口を一杯に回しました。思い出したのは、水に背中を打たれた瞬間でした。今日は午後まで授業はありませんでした。しかし、自分の部屋で待機しておく必要はありました。私はシャワーを止め、背中にかかった水を拭い去ってベッドに戻りました。
「夕べは素晴らしかったわ。」
ムンビが目を覚ましました。
「何だって?」
「素晴らしかった、って言ったのよ。」
「よく分からないね。」
「夕べは、あなたすごく良かったってことよ。」
「僕が?」
「そう、ツーサムは誰にでも動物的本能を呼び覚ますのね。だから、普通よりずっといいわけよ。」
「どうして分かるんだよ?」
「モンバサで私が何をしてると思ってるの?水兵は特に好きなのよね。」
私は体に稲妻が走ったような衝撃を感じました。
「じゃ、君はアメリカの水兵を相手にしてるの?」と、私は聞かなくてもいい質問をしてしまいました。
「そうよ。アメリカ人に、韓国人、パキスタン人、日本人、シンガポールの水兵だってね。みんな田舎ものよりはるかに気前がいいわ。」と、ムンビはきっぱりと率直に答えました。
「生活のために何をしてるんだい?」
耐え難くても、ありのままを知る必要がありました。
「特に何も。日中は着飾って、水兵が町にいて暮らしている間、相手をするわ。」
「売春婦みたいに自分の体を売っているのかい?」
「女はみんな体を売ってるんじゃないかしら?」
「みんなじゃないさ。」
「ほんと?」
「本当だよ。」
「夕べはあなた、私を買ったじゃないの。」
「買ってないよ。」
「ンデルでいっしょだった日は?」
「買ってないよ。」
「見えてないようね。私はンデルであなたのお金でピルスナーを10本飲んだのよ。夕べは7本くらいね。おまけにあなたのベッドで寝て、お茶を飲んであなたの食べものを食べて……。」
「それは『買った』とは言わないよ。」
「あなたを共有したあの女性はどうなの?プジョー304に乗って、ロンドン製の服と靴を身につけて、ケニア王妃のような化粧をしていたあの女性は誰なの?」
「秘書をしている。」
「自分の体を売らない女がいるかしら?」
「僕には分からないよ。」
「体を売るのと、ただで与えるのと一体どこが違うの?」
「少し眠りたい。」
私はムンビと遣り合うのを諦めました。ムンビもそうでした。私は、どんな風に言われても充分に自分を正当化出来そうな機転のきく気性を認めるしかありませんでした。売春についてのムンビの話の中には明らかに正しいこともあると認めざるを得ませんでした。

目が覚めた時は太陽の光がふんだんに差し込み、時計が11時を指していましたから、私はいつの間にか寝てしまっていたのでしょう。ショーツとブラジャーを浴室のタオル掛けにぶら下げたまま、ムンビはずっと前に帰ったようです。混乱したまま思いはぐるぐると頭の中を回っていましたが、意識はだんだんとはっきりして来ていました。シャワーを浴び、カーキ色の事務服の上に、赤文字でムングチ医師と書かれた名札のついた白衣を羽織り、聴診器をぶら下げて第20病棟に向かいました。第20病棟はもう私の担当病棟ではありませんでしたが、頭が混乱するといつも私はアイリーンを訪ねて行きました。アイリーンは思い遣りがありましたから、私の周りで起きる様々な出来事についてかなりよく知るようになっていました。
「シスター・アイリーン、調子はどう?」
私とアイリーンは病院では兄妹のように親しくなっていて、私は血縁関係に近い感じでアイリーンのことを見ていました。
「大丈夫ですよ。ムングチ先生は?」
「売春婦と寝て来たよ。」
「まあ!それで、調子が悪いんですね。」
「いや、そうではないけど。」
「昔レオナルドが私にしたように、その売春婦が先生に危害を加えたりしなければ、何も問題などないわ。」
ほぼ4年も前に起こった出来事を思い出したので、私は驚きました。
「いや、問題なのは、その娘が売春婦だってことに僕が気付いてなかったことだよ。」
私は、少しだけ知っているドクターGGの娘のこととその娘を私が如何に素敵な娘だと見なしていたかを話し続けました。ムンビが売春婦と分かった今となっては、ムンビの世界にいる米国や韓国やシンガポールの水兵とは、とても付き合えそうにありません。
「かわいそうに、ムングチ先生。でも、先生はとっても素敵な人よ。」
こういう反応は、アイリーンと私の間に育まれてきたある種の喜びの表現でした。明らかにお互いが癒され、慰められるような効果があるように思えました。そういう言葉が交わされる度ごとに、苦しみが体からすべて滲み出て行くような感じがしました。私がアイリーンから聞きたかったのはまさにこういう言葉で、アイリーンの言葉を聞いて、私は日常に戻って行けると信じるようになっていました。私はアイリーンに礼を言って、食堂に向かいました。

ナイロビ市街

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執筆年

2010年5月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 22

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