2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の16回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(16)第16章 豚野郎フィル

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
 (ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

(16)第16章 豚野郎フィル

フィル・オグンヤはカベテ大学を卒業した獣医で、今は地方管轄の獣医係官でした。リバーロード診療所までドクターGGの苦情を言いに来た朝に、私はその人に一度会ったことがありました。ンデルで1年前に治療を受けてあなたのことを知っていますと言うことでしたが、私の方は髭を生やしたその人の顔をまったく覚えていませんでした。ドクターGGは、獣医用の大きな注射針を使っていたにも関わらず、治療の効果は出ていませんでした。大きな注射針で15ccのペニシリンを筋肉内に注射したために、危うくフィルを死なせてしまうところでした。老医師の注射のせいで腫れ上がったフィルの臀部を調べて、大きな陰茎に梅毒性の初期の潰瘍があると診断し、ちょうど市場に出たばかりの新薬を試せば治るのではないかと勧めて、3日置きに通院するように言いました。4日後、フィルはみすぼらしい身なりの女性と一緒に現われ、私に妻だと紹介し、妻には病名を言わないで治療してくれませんかと言いました。

フィル夫人は夫が出て行くと嫌だと言い出しました。二人とも病気だから病院に行こうとしか夫は言わなかったので、どこが悪いのかを教えてもらわなければ困りますと訴えました。どうするのがいいのか迷いましたが、取り敢えず血液と尿の検査をして、2日後にもう一度来るよう伝えました。合計すると200シリングにもなる診察費と治療費を翌日診療所に持って来る約束をしていたのですが、結局フィルは来ませんでした。妻の検査結果が木曜に出ましたが、血液検査からはトレポネーマの兆候は見られませんでした。性器を調べたり大陰唇の生体検査をしても私には何の利益にもなりませんでしたが、フィルが妻に病気をうつした可能性は調べられたかもしれません。診療所のお金を使わなければ、夫人に高価な薬を提供するのは無理でした。そのために私は非常に厄介な立場に立たされました。私は夫人に、あなたにはどこも悪いところはないと思いますが、出来るだけ早く主人に会って話しをしたい、と正直に言いました。フィルが現われたのは1週間後でした。私は治療費は受け取りましたが、夫人の治療の手付金は受け取りませんでした。

「奥さんの同意がなければ治療が出来ません。奥さんの状態がどの程度なのか、深刻なのか深刻でないのかを判断するためには、性器を調べる必要があります。」と、私は言いました。

「だめです、妻には知らせないで下さい。」
「では、奥さんには、潰瘍の検査だと伝えましょう。」
「だめです。それは出来ません。」
「あなたには、事態がどの程度深刻なのかをお分かりでないようですね。梅毒を治療しなければ、奥さんを死なせるだけではなく、あなた自身にも再感染するんですよ!」と、私は警告しました。

獣医とは言え大学まで出た人間が、病気の診断や治療のことになると、どうしてこうも世間知らずになれるのかが私には分かりませんでした。しかし、何とかうまくこの問題を処理しなくてはなりませんでした。考えるまでもなく患者を治療しなければならないという職業上の縛りもありましたし、患者の秘密も守った上で、雇い主の利益も確保する必要がありましたから。私は金と医療倫理の板挟みで、身動きが取れませんでした。

「わかりました、奥さんの治療に200シリング払って下さい。何とか様子を見てみましょう。」と私が言うと、金が要ると言うが妻は病気ではないと言ったじゃないか、とフィルは激しく言い張りました。

オグンヤ夫婦を何日か治療したあと、二人の体内から梅毒トレポネーマがすっかり消えているのを確認しました。2週間後に、今度はマインバ夫人と同じ年格好の女性と一緒にフィルが再び診療所にやって来ました。

「ナオミと言います。妻にしたように治療してやって下さい。」
そう言って、フィルは出て行きました。

ナオミは5人の子供の母親で、一人はケニア中央病院の看護師をしており、フィルは夫の友人とのことでした。性器のまわりの苦痛が激しく、夫が病気を知れば鞭で打たれそうなので、友人に相談するしかなかったようです。大方、私とマインバ夫人の関係と似たようなものだろうと思ったので、フィルとどんな関係にあるのかを敢えて聞き出そうとは思いませんでした。ナオミはフィルと違って淋病で、診療所に3回来ただけで、簡単に治りました。

フィルとはその後も会い続けて、二人の間に親しい気持ちが生まれたと思います。人間の医者が犬の医者と一緒に飲まないかとフィルがよく電話をかけて来て、私も喜んで付き合いました。フィルは愉快な話をする愉快な人物でした。一風変わった逸話の持ち主で、愛らしい女性や花や合成物や服に、きらきらするものがすべて苦手でした。

「光るものが必ずしも金とは限らないよ。このきれいな金を見ろよ。汚い金と同じくらい邪悪なものだよ。女も簡単に買えるんだからな。」
と、フィルは時折私を諭すように言いました。ある意味では、フィルは変わり者で、二流なものが大好きでした。シャツの襟もよれよれでないと気が済みませんでした。コートは清潔でしたが、いつも色の褪せたものでした。正当な理由のある金以外は信じませんでしたし、必要か正当なものでなければ最小限の努力しかしませんでした。

「例えば、ナオミだよ。俺みたいに結婚してるだろ。旦那は俺みたいにあいつを満足させてやれないんだ。これが俺の女房の話なら、大変だな。フィル夫人よりナオミが好きだったらどうしていけないんだ?」

それからフィルは、2人の女の秘密を打ち明けました。特に大きなフィルの体は、性癖が底なしであることを秘密にしていたナオミに気に入られました。フィルの結婚した妻は、最初から夫のセックスの仕方に馴染めず、最近では夫を拒むようになっていました。

「カベテ大学じゃ、女の子らがよく俺の噂をしてたって想像が出来るかい?例えば、アメリカ人の彼女がいたんだが、よく教室から引っ張り出されたよ。女房は俺が近づくのも嫌がるけどね。」と、フィルは自慢そうに言いました。

「最近、奥さんとセックスしようとしたことはあるのかい?」

私は尋ねました。

「ああ、そしたら、俺のアソコが入り込む隙もなかったよ。」
「ナオミとはどうなんだよ?」
「順調だよ。」

刺し傷による大量出血の患者の処置を手伝って欲しいとギチンガからケニア中央病院の第20病棟にかかって来た1本の電話で、フィルとナオミの関係は劇的な展開を迎えました。アイリーンは狂ったように叫び声を上げ、ギチンガ医師はアイリーンに縫合糸をしっかりと持っておけとすごい剣幕で言いました。それは今まで見てきた中でも一番不思議な運命のいたずらでした。臀部に深い傷を負った男は私の友人のフィル・オグンヤ、つまりアイリーンの母親のナオミの愛人で、傷はサウスBの自宅のベッドで二人を目撃したアイリーンの父親カマンジャに負わされたものでした。

「母親がここに来て、自分のせいでフィルが血を流していて、決して側を離れないわと私に大声で叫ぶなんて想像できます?このことは警察には言わないでほしいです。」と、アイリーンはすすり泣きながら言いました。

「巡回中の警官ではないんだよ。たとえ相手が悪事を働いていても、私たちの仕事は病人を助けることだよ。」と、ギチンガは何度も強調してきた事実を言いました。

私が後に「豚野郎」と呼ぶようになるフィルは、すっかり回復するのに1ヶ月もかかりました。フィルを刺したことで父親が母親から殴られたと聞いた時は、フィルの昼食に一服盛りたい気分になったとアイリーンは私に漏らしましたが、フィルの看護はしっかりとやっていました。

「まずは、ギルバートの装置にシアンを入れなければ。」と、いつか誰かがやってくれないだろうかと半ば期待しながら、私は嘲るように言いました。

ナイロビ市街

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執筆年

2010年4月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 21

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(16)第16章 豚野郎フィル

2010年~の執筆物

 2005年にEMPを初めてから毎年報告記を作りました。タイのプリンス・オブ・ソンクラ大学とカリフォルニア大学アーバイン校の留学期や、提携校や近隣の大学も誘って行なったシンポジウムの報告書も作りました。英文も何冊かあります。PDFにしてダウンロード出来るようにしてあります。

EMP報告書 001

留学記 001

EMP報告書、留学記・報告記、シンポジウム一覧です。

<EMP報告書>

20112年度以降は作業中です。

2011年度

「2011年度後期EMP報告書」(2012年3月29日、全62ペイジ)
「2011年度前期EMP報告書」(2011年12月15日、全85ペイジ)

2010年度

「2010年度後期EMP報告書」(2011年3月15日、全63ペイジ)
「2010年度前期EMP報告書」(2010年12月15日、全67ペイジ)

2009年度

「2009年度後期EMP報告書」(2010年3月29日、全92ペイジ)
「2009年度前期EMP報告書」(2009年12月15日、全67ペイジ)

2008年度

「2008年度後期EMP報告書」(2009年3月末、全108ペイジ)
「The 2009 (February) EMP Report」(2009年3月29日、全71ペイジ、英文)
「2008年度前期EMP報告書」(2008年10月15日、全56ペイジ)

2007年度

「2007年度後期EMP報告書」(2008年3月29日、全35ペイジ)
「The 2008(February) EMP Report」(2008年3月15日、全38ペイジ)
「2007年度前期EMP報告書」(2007年10月15日、全50ペイジ)

2006年度

「2006年度後期EMP報告書」(2010年3月15日、全63ペイジ)
「The 2007(February) EMP Report」(2008年3月15日、全26ペイジ)
「2006年度前期EMP報告書」(2006年10月15日、全10ペイジ)

2005年度

「2005年度EMP報告書」(2006年3月29日、全34ペイジ)
「The 2005 EMP Report」(2006年3月29日、全33ペイジ、英文)
「2005年度EMP報告書・ソンクラ報告記」(2006年3月29日、全4ペイジ)

<留学記・報告記>

「留学記・報告記(5)-PSU・UCI」(2013年3月15日、全95ペイジ)
「留学記・報告記(4)-PSU・UCI」(2012年3月15日、全62ペイジ)
「留学記・報告記(3)-PSU・UCI」(2011年3月15日、全80ペイジ)
「留学記・報告記(2)-PSU・UCI」(2010年3月15日、全85ペイジ)

「ソンクラ大学留学記・報告記(1)2005年度~2008年度」(2009年3月29日、全102ペイジ)
「2008年度ソンクラ留学記」(2009年3月29日、全24ペイジ)

<シンポジウム>

「International Collaboration and University Education―Thai – Japan Joint Symposium―」(2009年2月22日、全43ペイジ、英文)
「海外提携校を活用した専門家育成のための大学教育―タイ日合同シンポジウム―」(2009年2月22日、全44ペイジ)

2010年~の執筆物

概要

横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の15回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo. 35(2011/6/10)までの30回の連載です。

日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)

解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)

本文

『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―

(15)第15章 ユーニス

ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)

(15)第15章 ユーニス

ある月曜の午後に初めて、医療倫理の問題に突き当たりました。リバー・ロードでの生活に満足していましたし、バークレイズ銀行の口座には既に6000シリングの貯金がありました。車の前金も簡単に払い、残りは上級公務員に許されている政府のローンを組みました。患者は私の診察に満足していて、次々と診療所にやってきました。待合室に男女の患者が20人も座っている時もあり、それぞれが私の診察を受けに来ていました。私自身もすっかりお決まりの問診が板についているようになっていました。

「おしっこをする時、痛いんです。」と、男が言いました。
「なるほど」と、私はあまり恥ずかしそうにも見えない患者に私は聞きました。
「最後にセックスをしたのは?」
「3日前です。」
「わかりました。では診療台にのぼってズボンを脱いでください。」

患者が女性の場合、問診のやり方は少し違いました。

「先生、背中が痛むんですが。」
「おりものは?」
「ありません。」
「普段見ないものが、下着に付いてましたか?」
「ええ。」
「おしっこをする時、痛みはありますか?」
「はい。」
「検査のために、おしっこを採ってもいいですか?」

性感染(病)症にかかっているとはっきりわかっていても、頑固な患者には、検査結果の出た翌日に診療所に来るように言いました。

この特別な月曜日に、私はゆったりとした気分で性感染症専門家のキャンベラの医師の記事を読んでいました。なぜ性科学が現代医学で一定の地位を占めているかについて、メアリ・スチュアート医師がタイム誌のインタビューを受けていました。

スチュアート医師はオーストラリアの男性は極めて差別主義的だと主張していました。「囚人として知らない土地に移住し無理矢理その土地に住むアボリジニ女性を娶りながら生き延びるしかなかった開拓史が差別の原点に違いない。今日、女性は強引な異性との出会いではなく愛情を求めているので、どの家庭でも問題を抱えている。では、オーストラリアの男性はどうするのか?オーストラリアの男性は結婚相手を求めてタイに行く。女性の方は、自分が女性であることを実感させてくれるジンバブエや南アフリカ、イタリアやギリシャや他の少数派の男性を結婚の相手に選ぶ。その理由により、オーストラリアは深刻な社会問題を抱えており、その問題を正せるのは男女の問題でロミオとジュリエットの悲劇にみられる恋愛感情がわかる性科学者だけで、もしその問題が解決されなければ、女性は抑圧されたままである。」以上ががメアリ・スチュアートの主張でした。

オーストラリア地図

実際にアメリカでは、性の問題を抱える男女が通院して性行動の教育を受けられるように、特別な病院を建てた、という記事をイバダンにいた最初の頃に読んだことがあります。この種の病院は殆んどが悪用され、偽装した売春宿になってしまったのは残念なことです。しかし、性の問題を扱う病院が、性を売る店になるのが間違っているとは私には思えません。性を買うことと、セックスセラピーにお金を払うことに、どんな違いがあるんでしょうか?見覚えのある高価な服装をした女性がドアを開けたのは、そんなことを考えている最中でした。

「わたしの名前はユーニスです。」と完璧な英語でその女性は言い、
「あなたに助けてもらえればいいんだけど。」と付け加えました。

「私に出来ることは何でもしますよ。」と、私は高価な服装をした40くらいの女性に少し気後れしながら答えました。裕福な暮らしを思わせる甘い香りと高価な香水、きれいにマニキュアをした爪、しっかりと目打ちされた靴からも、リバー・ロード診療所に来るタイプの女性でないのは明らかでした。

「とても疲れやすくて、体全体が張った感じがするの。いつもの婦人科の医者は何も見つけられなかったわね。」
「特に痛む箇所はありますか?」
「ええ、背中と両足と、それに首も、ね。」
「いつの頃からですか?」
「今年に入ってずっとね。でも病気じゃないと思っていたの。」
「どの先生に診てもらってましたか?」
「私はずっとジンマーマン先生にかかって来たわね。」

ロベリ・ジンマーマンはナイロビの医学界ではトップクラスです。高級なブルース・ハウスの6階に診療所を持つ高給取りの婦人科の開業専門医でした。それなのにそのユーニスが1年目の医師ジョセフ・ムングチに助けを求めています。私の「タイタニック号」が間違いなく姿を現わしました。電話が鳴ったのは、そんなことを考えている最中でした。

「ワウェル・ギチンガだ。ドクター・ムングチか?」
「はい、私です。」と、私は答えました。
「マインバ夫人が君に診てもらいに来てるかね?」
「え?どなたですか?」と私が答えて患者の方を見ると、そうだと頷いていました。
「ええ、来られてますよ。」と、私は答えました。
「しっかりとみてやってくれよ。」と言うと、ギチンガは突然電話を切ってしまいました。

その女性の不思議な病気の原因を突き止めるために、出来る限りしっかりと患者を診察しました。45歳の女性としては心拍数も血圧も正常でした。熱もなく、中年女性を侵す婦人病の兆候もありませんでした。
「マインバさん、最後の生理はいつでしたか?」
「1年前ね。」
「便の具合はどうですか?」
「もう何年も下痢はしてないわ。」
「おしっこはどうですか?」
「きれいね。」
「何かスポーツはされてますか?」
「最近、ヒルトン・ヘルス・クラブでトレーニングとサウナを始めたわね。」
「どのくらい前ですか?」
「1週間ぐらい前かしら。」

これ以上問診をしても効果がなさそうでしたので、何種類かの臨床検査をしようと決めました。検査用に尿と便と血液を採るように夫人に頼んだあと、検査結果が手に入る3日後にもう一度診療所に来てくれるようにと言いました。

「きっと何の問題もないわよ。」と、夫人はそう言うと媚びた目つきで、何か深刻な問題があれば見つけてごらんなさいよ、とでも言いたげにくすっと笑いました。

「では、3日後にお会いしましょう、マインバさん。」と、私は早く夫人が出て行ってくれれば次の患者の診察を続けられるのにと思いながら言いました。その男性患者は、梅毒の症状である潰瘍(硬性下疳)が気になるようでした。しかし、夫人は帰りませんでした。ドアをノックして私の承諾も得ないで部屋に入って来ると、便と尿を入れた容器をテーブルの上に置きました。

「私の婦人科医もこれは調べたわ。私のお腹じゃなくて、この辺りに目を向けてほしいわね、若先生。」と、夫人は手で胸元を触りながら言いました。

私の対応が適切ではなかったと遠回しに言われて少し怒りっぽくなっていたのは確かですが、マインバ夫人については婦人病のことは考えていませんでした。リバー・ロード診療所に来る私の患者はこれまでの所、非常に簡単な病気か、カンジダ症、トリコモナス症、梅毒、マラリアなどでした。高所得者層の健康そうな主婦が、実際に病気で苦しんでいるとは思えないような様子で私の診療所を訪ねてくることなどまずありませんでした。私は梅毒の患者に服を着て、受付で待つように頼みました。

「マインバさん、どうして私の処置が正しくないとお考えなんですか?」
「ワウェルが、あなたが検査もきっちりとやるし、ケニア中央病院の医者よりはるかに私の症状に興味を持つはずだっておっしゃったからよ。」
「ワウェル?」
「ギチンガのことよ。」

私は目眩を覚えました。自分の雇い主から紹介された患者が、私を未熟だと現に考えていると思うと心が乱れました。しかし、医学の専門的な知識もない口うるさい女性に負けるわけにはいきませんでした。

「便と尿と血液の検査が終わってから、木曜日に検査をするつもりだったんですが、今日がいいということでしたら、ベッドに上がって服を脱いで下さい。」と夫人に言ってから、私は手袋を着け、検査用の手鏡を手に取りました。そしてイバダン大学の医学部以来何年も使っていなかった道具で検査を始めました。

私は夫人の体を隅々まで検査しました。夫人は私に言われたように服を全部脱ぎ、金の指輪と耳と鼻のピアスだけの姿になりました。首と脚に着けていた装飾品もみな純金でした。私は宝石商ではありませんが、50000シリングは下らないほどの金やダイヤモンドを身につけているのだろうと思いました。歯、鼻、口、両目、腋、恥骨、両手両脚、すべて完璧な状態でした。陰部には、傷もいぼも発疹もなく、体のどこにも吹き出物ひとつありませんでした。実際、男性でも女性でも、今までこれほどの健康体を私は見たことがありませんでした。

「そうですね、これだけは言えますよ、今まで私が診察してきた中であなたは一番完璧な生き物です。」と言って私は手袋を外しながら夫人に服を着るように言い、検査結果が出るまで時間をくれるように頼みました。

「私、本当に大丈夫なの、先生?」
「診断結果異常なしの証明書が出せますよ。」
夫人は服を身につけながら、もう一度悩ましげな笑顔を私に見せ、化粧を直して唇を真っ赤に塗り終えると意気揚々と部屋を出て行きました。

ナイロビ市街

*****************************

ユーニス・マインバは、木曜日の夕方5時ちょうどにやって来ました。普段は診療所を閉める時間ですが、どうやら終わる時間に合わせて来たようです。他の患者はすべて帰っていましたので、私には好都合でした。艶めかしい女性が私に偉そうに言ったり、ここの規則を無視して好き勝手に振る舞うのを他の患者には見られたくなかったからです。夫人は私にバラの花を持って来て、「奥さんに毎日机の上に飾ってもらうといいわね。」と言いました。

「妻を持つという光栄にまま浴していません。」と、自分で自分の首を絞めているという自覚もほとんどないまま、私はそう言いました。
「まあ!こんなハンサムな男性が、まだ結婚なさってないの?」と、夫人は目を大きく見開いて不思議そうに言いました。
「マインバさん。検査結果が出ています。病気を起こす可能性は全くありません。帰ってもらっていいですよ。リラックスして、健康な毎日を楽しんで下さい。」
「リラックスするのを助けて下さる?」
「あなたのなさる何を助けるんですか?」と、私は聞きました。
「リラックスして、健康な毎日を楽しむんでしょ?」
「自分が楽しむのに人の助けなど要りませんよ。」と私は言いました。実際にその通りだと思います。
「じゃあ、ジョセフ・ムングチ先生、あなたは私が「両性具有」だとでもおっしゃるの?」夫人は私の好きな専門的な領域に入り込んできましたが、決してこの夫人にやられたままになっているつもりはありませんでした。
「いいえ、マインバさん。私は「無性症」ではありませんが、自分が楽しむのに他人の手助けは要らないと言っているんです。」
「そうなの?じゃ、マスターベーションはやるの?」
「やりません。」
「それじゃ、自分が楽しむのに他人の手助けは要らないって、あなた、どうやって言えるのかしら?」
私は今まで如何に世間を知らずに生きて来たんだろうと思い始めていました。結婚すれば性生活でも必要なだけの満足感を得られるもので、健康そのもののユーニス・マインバも、生活に必要なすべてを備えた満ち足りた母親だと信じていました。

すべてはこうして始まりました。マインバ夫人と私はその後一年間関係を持ち、二人は破滅寸前まで行きました。週末には国内じゅうのあちらこちらに出かけ、仕事が休みの時には、パンガニにある金持ち層ナイスピープルの恋の巣窟で何時間もいっしょに過ごしました。ユーニスは気前のいい女性でした。私の少ない給料を当てにするメアリ・ンデュクとは違って、高いホテルでは、ほとんどユーニスが支払いました。スーツまで新調してくれました!ある晩、ユーニスは私の嫌いな縞模様のスーツを着るように言いました。すでに私は金持ち夫人に仕える若い燕になっていました。

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執筆年

2010年3月10日

収録・公開

モンド通信(MomMonde) No. 19

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『ナイスピープル』─エイズ患者が出始めた頃のケニア物語(15)第15章 ユーニス