つれづれに

つれづれに:武力闘争

 1960年にアフリカ民族会議(ANC)がそれまでの非暴力を捨て、武力闘争部門民族の槍(ウムコントシズウェ、旗↑)を創設して武力闘争を始めた。最初は人は狙わずに、送電線や建物を標的にする破壊活動を都市部を中心に全国規模で展開した。あちこちで爆発が起こるので、政府は恐怖に感じて、警察や軍隊を総動員して警戒を強めた。すでにANCとパンアフリカニスト会議(PAC)は非合法化されていたので、すべて地下活動だった。ANCは本部を隣国のザンビアの首都ルサカに移し、共産圏のソ連とキューバの支援を受けて、国外から武力闘争の指揮を執った。

PACの創始者ソブクエ(小島けい挿画)

入植者が侵略を始めた時と比べて、武器の需要は桁違いに拡大し、各国は軍備のために多額の予算を使うようになっていた。その間、絶えず戦争を引き起こして、その度に軍備の規模が拡大し、精度も上がっている。

南アフリカでは、1879年ズールー人が→「イギリス人」と戦ったイサンドルワナの戦いでは槍と銃で戦っている。今では考えられないが、戦いの前にお互いに歌ってエールの交換をしている。→「セシル・ローズ」が友人に任せたマタベレ戦争(↓)では機関銃と大砲を使ってマタベレ人を屈服させ、戦いのあと広大な土地と莫大な数の牛を略奪した。

 アメリカは1890年代にフィリピンをスペインの手から主導権を奪ったあと、オキナワ、ソウル、ハノイ、モガジシオを次々と攻め、その後もアフガニスタン、イラン、イラクとペンタゴン(↓)の環太平洋構想を継続している。どこかで戦争をずっとやってきたわけだ。それだけ武器を作り続けたので、軍需産業は国家予算の何割かを占めるようになっている。重工業で家族を養っている人の数は、その分だけ膨大である。

ペンタゴン(アメリカ国防総省)

 無理矢理開国されて、欧米諸国を追いかけた日本は、元々最大の武器保有国であった技術を持っていたので、産業化は加速して、大国の中国と1890年代の日清戦争で、1900年代にソ連と日露戦争で、1940年代にはアメリカと第2次大戦で衝突している。無条件降伏に従って名目上は軍隊を持たないが、自衛隊の軍備は世界で8番目だと言われている。それだけ、国の繁栄が重工業に支えられているということだろう。

1960年にアパルトヘイト政権と長期の通商条約を結んで、南アフリカの人には日本は最大の裏切り国だと思われているが、条約を結んで八幡製鉄(↓)は莫大な利益をあげ、その従業員も給料を得て生活をしていたわけだ。私たちの日常と無縁というわけにはいかない。医学科にいる時はよく学生や教職員と昼を食べに出かけていた。何人かの再入学してきた既卒組と食事に行ったとき、たまたま就職活動の話が出て、東大と九大を出た医学生が新日鉄の話をしていた。二人は方向転換して、医学科に入学してきた。

「あそこは1次を通った人は昼食に呼ばれ、2次に残った人は夕食に招待されるようですね。僕は夕食にはよばれませんでしたけど‥‥」(九大卒)

「僕は夕食に呼ばれたね」(東大卒)

私は受験勉強が出来なかったし、生きても30くらいまでやろと思っていたし、就職活動を考えたこともなかったので、二人の話はもの珍しかった。

 1950年に発足した八幡製鐵株式會社(八幡製鐵所)、富士製鐵株式會社(室蘭、釜石、広畑の各製鉄所と川崎製鋼所)が1970年に合併して新日本製鐵株式會社になり、2001年にその新日本製鉄と住友金属が統合して新日鉄住金なった、と会社のホームページにあった。今は2019年4月に商号を変更した日本製鉄となっているようである。何気ない医学生との話のなかで、かつて南アフリカが一番窮地にあったときに通商条約を結んだ八幡製鉄に関係する話を聞けるとは思わなかった。1988年に、亡命中に亡くなった作家の記念大会に行って発表の前に日本の南アフリカ事情について話をしたことがあるが、大半が北アメリカに亡命中の参加者たちの視線は極めて厳しかった。エコノミック・アニマルと呼ばれている日本からやって来ましたと自嘲気味に話を始めた。初めての経験だった。マンデラが釈放される2年前のことである。通商条約1960と記念大会1988を思う時の胸中は、やや複雑である。

記念大会のゲストの作家夫人

つれづれに

つれづれに:アフリカ人女性

小島けい画(油絵)

 イスラム圏の女性も大変だが、アフリカの女性(↑)もなかなか大変である。男と女しかいないのに、どうしてあほな男が威張り続けているのか?1980年代の後半に医大(↓)に来た時、女子学生の数は少なかった。1割に満たない時もあった。次第に数が増えて、たしか一度だけ半分以上になったという記憶がある。大学には旧来のどろどろの人事で採用されたこともあって、入ってすぐに今のシステムが続く限り教授になることは先ずないという構造的な仕組みに気がついた。万年講師やなと思ったが、僕には好都合だった。小説を書く空間を求めて大学を探したから、この上ない環境だった。教授会や各種委員会などの大学の仕事はすべて教授がやっていたから、助教授以下は授業と研究だけをやっていればよかった。30を過ぎてから修士に行き、非常勤の期間も長かったから、研究室があるだけで充分だった。おまけに研究費もあるし、推薦してくれた理系の人に薦められて科研費の書類を出したら、次の年に100万円が来た。1年目から学生もたくさん来てくれた。しばらくいると、やっぱりあほな男中心の組織だとわかってきた。まさかの教授になって出た教授会は三十数人、男ばかりだった。その後も、やっと一人女性が会議に来たが、公募でない付属のセンターの教授で、投票権はなかった。オブザーバーとして参加、ということらしかった。英語ではobserver、発言権や議決権を持たずに会議に参加する人で、傍聴人・立会人とも呼ばれているようである。

3年目に学力から小論文と面接という入試に変わったとき、小論文作成に関する会議に出た。教授が主で、助教授や講師はオブザーバーとして参加してもらいます、と言われた。かちんと来て、オブザーバーてなんなんですか?と食ってかかった。医学部では助教授や講師は教授に食ってかかることはないようで、面喰らったような顔をしていた。同じように問題を作成し、採点をするのにオブザーバーて何なんやねん?という気持ちで黙っていられなかっただけである。大体、一般教育に所属する教授の投票権を減らすために英語は教授のポストに講師を採っておいて、入試では作業はしてもらわないと困るのでオブザーバーで参加させる、その流れが見え見えだったから、体が反発したのである。どろどろの旧態然の人事が行われていただけのことはある。いつも言い返されることがないからか、受けに回ると弱いらしい。それ以降、会議でオブザーバーと言う言葉は聞かなかった。途中からは、なるはずのない私が教授になったので、体制自体が変わっていったということもある。しかし、教授会の女性については、流れは基本的に変わっていない。

 そんな人たちが中心なら、女性医師は産休や育休で実質的にあてにならないし、と考えて当たり前なんだろう。どうして、男半分女半分、女性しか子供を産めないという当たり前のことを前提に考えないんだろう?産休や育休で人が足りないなら、何人か増員すればいい。予算が厳しいというが、それは、社会そのものが、男半分女半分、女性しか子供を産めないという当たり前のことを前提にしていないからだ。

 もちろん、比較すれば昔より、女性の進学率も増えたし、医学科に入る人も増えている。しかし、前提が変わっていないし、組織を動かす側があまり変わっていないので、問題は山積したままである。しかし、どろどろの旧来の人事が崩れて、公募で公平な教授選が実施されるようになって、実際に私も誰にも頭を下げないで教授になった。外部からはだめでも、中の者の意識が変われば、内側から組織は変わるかも知れない。

アフリカ人が常時携帯を義務付けられたパス

 アフリカの社会も昔から男中心の社会だった。1989年に宮崎に招待して大学で講演をしてくれた南アフリカの女性作家が、家や電話の契約も女性では出来ない実情を嘆いていた。人種差別に加えて、女性差別でも被害を受ける毎日なのである。1940年代にあほな年寄りに痺(しび)れを切らして実力行使に出て、白人政府とアフリカ人の抵抗勢力の間の緊張の度合いは増していった。ストライキに参加する労働者の大半は男性だから男性中心の闘いだったが、勢いに乗って女性も闘いに加わった。

デモ行進する女性たち

 闘いの標的にしたのは日頃の生活で最も悩まされているパス法である。アパルトヘイト政権はアフリカ人に個人情報を満載した顔写真入りのパスポートのようなものを持たせて厳しく管理した。アフリカ人にすれば、入植して来たオランダ人とイギリス人に土地を奪われ、自分たちの国でパスポートまで持たされたわけである。政府には安価な労働者の把握や管理に都合がよかったからだが、厳しい制限が課せられるアフリカ人はたまったものではない。日頃からパスの発行などで、いつも長い列に並んで待たされる役所に女性がいっせいに押しかけた。

 農村では女性たちのデモが始まった。しかし何の回答も得られなかったので、女性たちは周りの砂糖黍(きび)畑に火を放った(↓)。警官も出動して、大騒ぎになった。日頃の鬱憤(うっぷん)が一気に噴き出したというところだろう。1950年代の半ばのことである。

 女性の指導者の一人エリザベス・マテ・キング(↓)は不合理な法律に反発して、パスを持つこと拒否し、パス反対運動を組織する指導者となった。マテ・キングは言う。

「夜遅く、1時か2時頃に、連れ合いと一緒にベッドに寝ているとするね。そこへ警官が身分証のパスを見せろとドアをノックするの。そして親子を別室へ連れて行くのさ。ね。そこで何が起こると思う?親子ともどもレイプされるのよ。そんなことが赦される?これが私にはとても我慢出来なかったことなのよ‥‥」

マテ・キングは裁判を受けることもなく、砂漠への追放とな決まった。だが、彼女は家族とともに国外に脱出した。

「もしちゃんとした法律さえあれば、私だって逃げはしないわよ。自分の生まれた国だもの。ちゃんと裁判を受けて、判決に従ったわ。でも、私にはそのチャンスも与えられなかったのよ」

 50年代のこうした闘いの記録映像をみると、今にもアパルトヘイト政権が崩壊してもおかしくない勢いがある。しかし、白人政権は堅固だった。第2次大戦後15~20年経って欧州諸国や日本が復興を終えた頃には、しっかりと白人政権の貿易の良きパートナーとなって、白人政権を支えていたからである。大戦で中断されていた日本と西ドイツの長期通商条約が復活したのは、シャープヴィル虐殺(↓)で国際的な非難を受け、国連が経済制裁を開始した1960年である。当時の八幡製鉄所(↓)が締結主である。

南アフリカの貿易では、財界と白人政権の仲を自民党が取り持った。一時その担当だった石原慎太郎はなぜか都知事を長いこと続けていたが、反アパルトヘイトの市民の間では、傲慢な白人と同列扱いだった。アフリカーナーとイギリス人が南アフリカ連邦を創ったように、今度はアパルトヘイト政権と欧米諸国・日本が、アフリカ人から搾り取る一点に合意点を見つけて貿易関係を密にしたのである。世の中いつも、持てるもの(the haves)の好き放題である。

1960年のシャープヴィルの虐殺、武力闘争開始の起点になった

つれづれに

つれづれに:若い力

 第2次大戦でヨーロッパを舞台に殺し合いをしたために、戦後世界の構図が大きく変わっていった。アフリカやアジアについて言えば、それまで武力によって植民地支配を受け続けていたが、宗主国の総体的な力の低下で、それまでもの言わなかった人たちが声を出し始めたのである。宗主国側は全体を相手にするよりは、アフリカ人の支配者層を抱き込める方が植民地経営の上では都合がいいので、南アフリカの場合も、金持ち層の子弟は優遇して、イギリス式の高等教育機関フォートヘア大学を設置してそこに通わせたり、欧米に留学させたりしていた。声をあげたのはその子弟や取り巻きの若者たちだった。欧米の大学で学びながら、自分たちの置かれて来た位置を確かめる機会を与えられていたわけである。

ライトがパリにいる時に書いたバンドン会議報告記

 戦争後10年目にアジア・アフリカ諸国がインドネシアのバンドンに集まって会議を開いた。この頃から変革の嵐(The Wind of Change)が世界に吹き始めた。1957年にはゴールドコーストが独立した。イギリスの模範的な植民地だった。アメリカから逃げるようにパリに移り住んでいた作家リチャード・ライトはいち早く独立の胎動を嗅ぎつけてゴールドコーストを訪れ訪問記『ブラック・パワー』(1954)を書いた。そのあと、バンドン会議の報告記『カラー・カーテン』(1956)を出した。

ガーナの初代首相クワメ・エンクルマ(小島けい挿画)

 1960年には多くのアフリカ諸国が独立した。戦争後15年が経っていた。第2次大戦で一人勝ちしたアメリカでは、1954年に実質的な奴隷解放宣言とも言える公立学校での人種隔離は違憲という最高裁の判決が出た。その後、アーカンソー州のセントラル高校(↓)では州が最高裁の判決に抵抗して、最後は大統領命令まで出して事態の収拾に乗り出した。大学が黒人学生を受け入れるのに最後まで抵抗したのはミシシッピ大学、アラバマ大学だった。アラバマ州のフォーバス知事は最後まで抵抗して反動の象徴として悪名を轟(とどろ)かした。

映画化された「アーカンソー物語」

 南アフリカでは、アパルトヘイト政権への抵抗運動が激化して、1955年には4人種による国民会議が開かれた。1960年には抗議する市民に白人警官が無差別に発砲をして、世界中に大きな衝撃を与えた。国連は非難決議を出して経済制裁を始めた。抵抗組織を非合法化して弾圧を強める白人政府に、アフリカ人側は武力闘争を開始して、情勢は緊迫の度を増した。

シャープヴィルの虐殺

 1950~60年代は国内外で大きく動いた時期だったが、時代を突き動かしたのは若い力である。南アフリカでも、具体的な行動に出たのは40年代の初め頃である。1910年に南アフリカ連邦が出来るのを察知したアフリカ人側は、抵抗運動の準備を始め、2年後にアフリカ民族会議(Afircan National Congress)を設立している。今の与党である。しかし、ANCがやったことと言えば、壇上から大衆に反対の演説をし、ロンドンに陳情の代表団を派遣しただけだった。非暴力の闘いは聞こえはいいが、わざわざロンドンに陳情に行く神経がわからん、陳情を聞き入れるくらいなら最初から国など創らんやろ、といいたくなる。傍目でもそう思うんだから、ANCの若ものたちが年寄りの戯言(ざれごと)にしびれを切らしたのも頷(うなづ)ける。1943年にANC内に青年同盟(Youth League、↓)を創って、旧態然とした年寄り連中を、お前らどいとけやと蹴散らして、積極行動に出た。

青年同盟のメンバー(『抵抗の世代』から)

 アメリカが第2次大戦で一人勝ちしたのは、アメリカ本土が戦場にはならずヨーロッパに軍需物資や生活必需品を送っていたからである。戦争景気にわいて、産業は大きく伸びた。もちろん武器を製造する重工業は飛躍的な伸びを示し、規模も格段に飛躍した。南アフリカの白人政権もいい思いをしている。ヨーロッパに物資を送ったので、国内産業は伸び続け、アフリカ人労働者の需要も高まった。青年同盟が積極行動に出られたのも、アフリカ人労働者の需要が高いという状況を把握していたからである。壇上から演説するのではなく、労働者を結束して職場を放棄してゼネラルストライキ(↓)を打った。それだけ勢いがあったということだろう。

ゼネストを起こした鉱山(『抵抗の世代』から)

 闘争でストライキなどの積極行動を率いたのはネルソン・マンデラやオリバー・タンボやゴバン・ムベキ(↓)などのフォートヘア組である。白人側が優秀なアフリカ人を味方につけるべくフォートヘアに入れて教育して来たアフリカ人たちである。オリバー・タンボは非合法化されてルサカに本部を置かざるを得なかったANCの議長を長年担った人である。1987年に日本にも来ている。ゴバン・ムベキはリボニアの裁判でマンデラとともに被告席に立った人で、理路整然とした答弁に一介の農民がどうしてと話題になった。一介の農民は欧米によくある偏見で、超大物で、超優秀なインテリだったのである。のちの大統領、ゴバン・ムベキの父親である。

 そういった大物が先導して、大多数のアフリカ人労働者をまとめて闘ったが、アメリカ、イギリス、日本などの同盟国にまもられた白人政権の砦は頑健だった。抵抗組織は非合法化され、指導者は殺されるか、投獄されるか、亡命を余儀なくされた。非暴力を捨てて、武力闘争を開始したが、マンデラ(↓)などは白人政府の法律で合法的に終身刑を言い渡されて、ロベン島に送られた。1964年のことである。1990年2月11日に、同じ法律で無条件で釈放されるまで、アパルトヘイト政権はマンデラを獄中に閉じ込めた。時代が少しずれていたら、事態も変わっていたかも知れない。1955年には第2次大戦から10年が経過し、64年には20年近くが経とうとしていた。大戦で疲弊したヨーロッパや日本が復興を果たし、巻き返しを始めていたのである。南アフリカは指導者を失い暗黒時代に、日本はオリンピックも誘致し、新幹線も走り、高度経済成長の時代に入って行く。

つれづれに

つれづれに:セシル・ローズ

 セシル・ローズである。目先が効いて、入植者として成り上がったから、実業家としては成功した人なのかも知れないが、アフリカ人にとっては悪魔のような人である。

デヴィッドスンは「アフリカシリーズ」の中で、セシル・ローズが描いた夢と足跡(そくせき)を、舞台となったマショナランドとマタベレランドの地を歩きながら、詳しく紹介している。映像が助けになって、非常にわかり易く、説得力がある。かなり長くなるが、今回はきちんと聞き取って、紹介してみたい。

 1870年頃のことです。南アフリカのキンバリーでダイヤモンドの大鉱脈(↓)が発見されました。一攫(いっかく)千金を夢見るヨーロッパ人が、たちまちこの地方に押し寄せます。その中に、後にケープ植民地の首相となる17歳のイギリス人青年がいました。セシル・ローズ(↑)です。10代の若さでローズは富が権力に繋(つな)がることを知っていました。彼はダイヤモンド産業の独占に乗り出し、見事やってのけます。秘訣は駆け引きがうまかったこと、資金不足の相手からどんどん採掘権を買い取ったこと、そして情け容赦(ようしゃ)がなかったことです。ダイヤモンド王となったローズには大きな野心がありました。イギリスの旗の下に彼の王国を築くことです。彼はこう書いています。「現在ここに住むのは最も卑しむべき人間の見本だ。彼らをアングロ・サクソンの影響下に置けば、ここはどんなに変わるだろう‥‥」

 この頃には億万長者になっていたセシル・ローズはいよいよカイロからケープタウンまでをイギリスの支配下に置こうと企てます。彼が先ず目をつけたのがリンポポ川の北の広大な高原です。そこは気候がよく、牧畜に適した土地がいくらでもあったうえ、地下には鉱物資源、特に金が眠っていました。ただ一つ大きな障害がありました。ズールー人から分かれたマタベレ人が北に移り、この辺りに軍事王国を築いていたのです。マタベレ人は先住民のショナ人からここを奪いました。今は寂(さび)れたこの場所は100年前にはマタベレ王国の心臓部でした。ここに王が住んでいたのです。ロベングラ王はマタベレ王国の二代目の王でした。そして、最後の王でした。

 最初に入って来た白人は宣教師でした。ロベングラ王は宣教師に伝道所を建てることを許します。都と川を隔てたこの建物は英国国教会の伝道所(↓)でした。宣教師たちはすぐに避けることの出来ないジレンマに陥りました。自分たちを受け入れてくれたアフリカ人と自分の同胞、そのどちらに忠誠を尽くすべきかと。この伝道所のチャールズ・ヘルム宣教師もその辛い選択を迫られました。彼はロベングラ王の信頼を得ながら、その裏で密かにローズのため働き始めます。そうなんです。宣教師たちの記録にも残っていますが、彼らはこんな風に考えていたんです。マタベレ人をキリスト教徒に改宗させるには、国王の力を奪い、マタベレ文化と独立の基盤を崩すしかない。これが出来るのはローズだと言うわけです。

ローズは着実にロベングラ王の力を切り崩して行きました。ヴィクトリア女王に抗議した王は、協定を結ぶよう勧められます。宣教師の仲立ちでいくつも協定が結ばれましたが、それがまた曲者でした。ヘルム宣教師はここに埋葬されています。墓には同僚の宣教師たちによりマタベレ人の友と刻まれました。

 1890年、ローズはいよいよ実力行使に出ます。金の採掘を口実に、軍隊さながらの遠征隊を編成し、北のマショナランドに向かったのです。ロベングラ王の兵は16,000、敗北を恐れ、はやる兵を抑えて攻撃を加えませんでした。遠征隊はマタベレ人との衝突を避け、もっとおとなしいショナ人の土地を通って進みました。隊員にはそれぞれ目的地に着いた暁には1,000ヘクタールを超える土地と15の金鉱採掘権を与えることが約束されていました。当時の人がこう書いています。「こんな集団は見たことがない。貴族から宿無しまであらゆる類の人間のごった煮だ」隊員の中にはケープ植民地の有力者の子弟もいました。もし途中で戦闘となり敗れたら、家族がイギリス政府に圧力をかけ援軍を寄越すに違いない、そういうローズの配慮からです。

 6ケ月後、フォート・ソールズベリにユニオン・ジャックが翻(ひるが)える瞬間です。アフリカをイギリスのものにというローズの夢が実現に近づいた瞬間、ローズ神話のクライマックスです。

 ここに街を開いたのは地理的にどうこうという理由はありません。ここは後のローデシアの首都ソールズベリーとなり、今はジンバブエのハラレ(↓)と名を変えています。アフリカの都市はどこでもアフリカらしい趣や生活が多少とも見られるものですが、ここは例外です。60年ほどの間に、ここは完璧な白人の街になってしまったんです。あそこに記念碑が建ってますが、実はあそこからこの街が始まりました。

 これがまだあるなんて驚きです。こう書いてあります。マショナランド最初の市民遠征隊員に捧げる。しかし、どうなんでしょう?彼らが来るずっと前からマショナランドに住んでいたショナ人と、あとから来て土地を取り上げた白人、どっちがここの市民と言えたか?こんなきついことは今だから言えるのかも知れません。それでもやはりこれは野蛮な行為でした。ショナ人はここで何世紀も前から、牛を飼い、畑を作っていた。それがすべてを奪われ、追い立てられてしまったのです。遠征隊の中にはローズの親友で、腹心でもあった、後のケープ植民地の首相ジェームソン博士(↓)がいました。ローズは彼に新しい領土の支配を任せます。

 マショナランド(↓)の南西マタベレランドにはまだマタベレ王国が健在でした。1892年、ジェームソンは決着を着ける時が来たと判断します。「何があろうと恐るるに足らず、こちらは機関銃がついている」当時、イギリスの反帝国主義の詩人は、こう風刺している。

 マタベレの老人(↓)「ヨーロッパ人は機関銃と大砲を持っていた。マタベレも銃を持っていたが、本の少しだ。ヨーロッパ人の銃の前で何ができる?マタベレの連中は槍(やり)しかなかったんだ」

 勝ち戦(いくさ)のあとは略奪(↓)です。農地と25万頭の家畜がほとんどすべてローズのイギリス・南アフリカ会社や白人入植者に没収されました。1893年、マタベレ王国は一時的に壊滅しました。ロンドン伝道協会はローズに祝辞を送りました。「我々は宣教としてマタベレ王国に同情は寄せられません。またその滅亡を憐れむことも出来ません」

 白人に触れられるくらいなら、広大な草原の中に埋もれた一本の針のように消えてなくなった方がいい、ロベングラ王はその言葉の通りに北方に向かって脱出し、やがて病死したと言います。こうしてリンポポ川とザンベジ川にはさまれた土地マショナランドとマタベレランドは併合され、ローズの帝国ローデシアとなります。

 リビングストンがザンベジ川流域を彷徨(さまよ)い歩いてから僅(わず)か20年ほど後のことでした。3年後、マタベレ人14,000人が凄(すさま)まじい反乱(↓)を起こしました。重い税と強制労働に腹を立てたショナ人もこれに加わりました。ネハンダとカグリという司祭に導かれたこの抵抗運動は何ヶ月にも渡ってゲリラ戦を繰り広げます。鎮圧されたのは1897年になってからです。この地方の初期民族運動の歴史に残る大反乱でした。

「白人は何もかも奪った。牛までだ。お前たちは降伏したのだ。税をおさめろと。子どもの数しか牛を飼わせなかった」

ローズの軍隊も戦いでかなりの被害を受けました。入植者も100人以上虐殺され、制裁は厳しいものとなります。反逆者狩りが行われ、捕まった者は極悪人として扱われました。鎖でひと繋ぎにされて、簡易裁判所に引き出され、大勢がそのまま、手近の樹に吊(つ)るされました。ネハンダとカグリも最後には捕らえられ、絞首刑(↓)となりました。

 ローズは1902年、ケープタウンで世を去りました。遺体はローデシアに運ばれ、別荘のあったマポト・ヒルズに埋葬されました。夏の夕暮れ、ローズがよく岩によく腰を掛け、彼の帝国に沈む夕日を眺めた(↓)と言う場所です。死後、ローズに対する評価は二つに分かれました。富める世界では同胞を愛する英雄です。しかし、貧しい世界では今も略奪者、泥棒男爵と見ています。ローズと彼に続く人々はアフリカに物質的進歩を持ち込みました。確かに19世紀のアフリカにはそれは必要なものだったかも知れません。しかし、その恩恵はアフリカ人の上を素通りして行ったのです。結局、聖書と銃の伝導はアフリカ人を救うどころか、まったく逆の結果、つまりアフリカをヨーロッパ列強の奴隷としました。リビングストンのような人々が描いたような夢は無に帰し、アフリカは植民地支配の舞台となったのです。

 「アフリカシリーズ」は1983年にNHKで放送されたデヴィドスンの労作だが、1992年にジンバブエで暮らしたとき、この歴史映像の延長上で生きる人たちとしばらくでも過ごして、何とも言えない気持ちになった。戻ってから半年ほどは、誰にも会いたくない、何も書きたくないという気持ちが強かった。「今しか書けませんから」と出版社の人に薦められて一年ほどでその時の滞在記をまとめたが、結局は本にはならなかった。いずれ出版するとして、先ずメールマガジンに連載しませんかと言われて、2年ほどかけて連載を続けた。

ハラレの白人街