英語 Ra1(2)

<連絡事項>

課題図書やプリント、本の注文などはメールでも気軽に。家も近いし、資料も添えていつでも渡せると思うよ。課題提出の締め切りは先とは言え、すぐに時間も過ぎるしねえ。

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3回目の授業でした。

<今回>は

「遠い夜明け」をみてもらったあとテキストの発表を決めました。本文に目を通しておくとわかりやすいと思います。今回の発表は課題の一つ「英語で発表」に代えてもらっていいです。

テキストの内容が理解出来たら、それをわかりやすく要約して、少し自分でも調べて画像や地図などをはったファイルを作って発表するといいやろな。自分でパソコンを持って来てやるか、参考ファイルに作ったファイルをアップロードして授業前にダウンロード、それを僕のパソコンを使って、かどっちかで。USBは、非常勤で行ってた公立大と、看護学科でウィルスをばらまいたことがあったんでそれ以来使わないようにしてるんで。自分のパソコンか僕のパソコンで頼みます。

テキストのThe struggle for Africaの

THE CONFLICT BETWEEN THE BRITISH AND THE BOERSとThe UNION OF SOUTH AFRICA ANS RESERVESを河野舞香さん。

THE APARTHEID REGIMEとTHE POLICIES OF APARTHEIDを荒田芽依さん。

Mass MOBILIZATION AND OPPRESSIONとTHE ARMED STRUGGLEを河野多恵さん。

二人の河野さん、荒田さん、よろしくね。半分をトーイックに使うので全部やれないかも知れないけど、準備はしといてや。

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「遠い夜明け」(Cry Freedom)はどうやった?解説しときます。感想文は次回出してや。

「遠い夜明け」に関して配ってるプリントは「遠い夜明け」の1988年の新聞広告(表裏)と、主演のデンデル・ワシントンと原作者のドナルド・ウッズと、「ネルソン・マンデラ」を歌ったユッスー・ンドゥール(表)と試写会の割引券。主演のデンデル・ワシントン↓

この映画を作ったのは監督のリチャード・アッテンボロー。「ガンジー」や「コーラスライン」で超有名な監督です。冒頭に典型的な場面を持って来るのが好きなようで「ガンジー」では暗殺の場面、今回の場合は、スラムの強制立ち退きの話を南アフリカの典型的な場面として衝撃的に持って来ていました。すごかったやろ。英文テキストの中にも以下の文を紹介しています。日本語訳も貼っておきます。

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The bantustan policy meant that Africans were to be prevented from living permanently in the white areas. Ruthless, forced evictions took place to force ‘surplus labour’ to move from the towns to the bantustans. Crossroads outside Cape Town is only one example of this policy.

バンツースタン政策は、アフリカ人を白人地区で永住させないという意味のものでした。冷酷で、強制的な立ち退きが、「余剰労働力」を町からバンツースタンに強制的に移動させるために強行されました。ケープタウン郊外のクロスローヅはこの政策の一例です。

REFERENCE 3 参照3

We can hear the news of Radio South Africa about the 1978 Crossroads eviction in the following scene of Cry Freedom.
Newscaster: “This is the English language service of Radio South Africa. Here is the news read by Magness Rendle. Police raided Crossroads, an illegal township near Cape Town early this morning after warning this quarter to evacuate this area in the interests of public health. A number of people were found without work permits and many are being sent back to their respective homelands. There was no resistance to the raid and many of the illegals voluntarily presented themselves to the police. The Springbok ended . . .”

米国映画「遠い夜明け」の以下の場面で、1978年のクロスローヅの立ち退きについての南アフリカのラジオニュースが出てきます。
ニュースキャスター:「こちらは南アフリカラジオの英語放送です。
マグネス・レンドルがニュースをお伝えします。公衆衛生の見地から、その地域を空け渡すように勧告を出したあと、今朝早く警察は、ケープタウン郊外の不法居住地区クロスローヅの手入れを敢行しました。多くの人が労働許可証を持たず、それぞれのリザーブに送り返されています。手入れに対して全く抵抗の気配もなく、不法滞在者は自発的に警察署に出頭していました。放送を終わります・・・。」

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人種隔離政策の下で情報操作を強いられている白人にはそういうニュースしか流れないわけです。小さい頃から白人社会で育ったら、それが当たり前、というわけです。

ウッズとビコの出会いのシーンは、いつも美しいなあと思います。あの通りはハラレに行った時に、たぶん近くを通ったような気がします。transcribeしたのを貼っておきます。

Cry Freedom_The first meeting

Woods: Steve Biko? Are you Steve Biko?
Biko: l am. l would have met you in the church, but, as you know, l can only be with one person at a time. lf a (third) person comes into the room, even to bring coffee, that (breaks) the (ban)… And the (system) – the police – are just across the road. But, of course, you would (approve) of my (banning).
Woods: No. l think your (ideas) are (dangerous), but, no, l don’t (approve) of (banning).
Biko: A true (liberal).
Woods: lt’s not a title l’m (ashamed) of, though l know you (regard) it with some (contempt).
Biko: l just think that a white (liberal) who (clings) to all the (advantages) of his white world – jobs, housing, education, (Mercedes) – is perhaps not the person best (qualified) to tell blacks how they should (react) to (apartheid).
Woods: l wonder what sort of (liberal) you would make, Mr. Biko, if you were the one who had the job, the house, and the (Mercedes), and the whites lived in (townships).
Biko: lt’s a (charming) idea. lt was good of you to come, Mr. Woods. l wanted to meet you for a long time.

Mercedesはマーサディーズと発音、意味はメルセデス・ベンツ。ドイツ車で金持ちのシンボル。医者ややくざがよう乗ってる車で、医学科の駐車場ではよう見かけるねえ。

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ビコの言ってた自己意識の話も補足しときます。

今日も映画を観たあと話をしたように、ビコは合法的に殺されましたが、それだけ体制に脅威だったということでしょう。
裁判の中でビコがEven in this environment we must find a way to develop hope for themselves, to develop for this countryと言ってたけど、ほんとすごいよね。前の方Even in this environment we must find a way to develop hope for themselvesは僕でも言えるので、ま、授業でずっと言い続けて来たつもりやけど、あとの方to develop for this countryは、言えないもんね。この国のやってきたことを考えると、恥ずかしすぎて、国に希望を紡ごうと言う気にならんもんなあ。今日も何度も言ったけど、こう言わないといけないのは悔しいね。
自己意識については、ビコとマルコム・リトルに焦点を当てて書いたことがあります。ビコを引用して書いた部分です。

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白人優位・黒人蔑視

奴隷貿易に始まる西洋諸国の侵略によって、支配する側とされる側の経済的な不均衡が生じましたが、同時に、白人優位・黒人蔑視という副産物が生まれました。支配する側が自らの侵略を正当化するために、懸命の努力をしたからです。支配力が強化され、その格差が大きくなるにつれて、白人優位・黒人蔑視の風潮は強まっていきました。したがって黒人社会は、支配権を白人から奪い返す闘いだけでなく、黒人自身の心の中に巣食った白人優位の考え方を払しょくするという二重の闘いを強いられました。アメリカ映画「遠い夜明け」で広く知られるようになったスティーヴ・ビコは、ある裁判で黒人意識運動の概念について質問されたとき、その「二重の闘い」に言い及んで、次のように述べています。

基本的に「黒人意識」が言っているのは黒人とその社会についてであり、黒人が国内で二つの力に屈していると、私は考えています。まず何よりも黒人は、制度化された政治機構や、何かをしようとすることを制限する様々な法律や、苛酷な労働条件、安い賃金、非常に厳しい生活条件、貧しい教育などの外的な世界に苦しめられています。すべて、黒人には外因的なものです。二番目に、これが最も重要であると考えますが、黒人は心のなかに、自分自身である状態の疎外感を抱いてしまって、自らを否定しています。明らかに、ホワイトという意味をすべて善と結びつける、言い換えれば、黒人は善をホワイトと関連させ、善をホワイトと同一視するからです。すべて生活から生まれたもので、子供の頃から育ったものです。[I Write What I Like (New York: Harper & Row, 1986), p. 100.神野明他訳の日本語訳『俺は書きたいことを書く』(現代企画室、 一九八八年)が出ています]

南アフリカを本当の意味で変革していくためには、先ず何よりも黒人ひとりひとりが、厳しい現状に諦観を抱くことなく、自らの挫折感とたたかい、自分自身の人間性を取り戻すべきだと、ビコは説きました。自己を同定するために自分たちの歴史や文化に誇りを持ち、次の世代に語り伝えようと呼びかけました。そして、経済的な自立のための計画を立てて、実行に移しました。

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ブログに載せています→「自己意識と侵略の歴史」

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課題図書でも紹介している『まして束ねし縄なれば』を書いたラ・グーマはケープのカラード(200万人)の指導者でもありました。

1992年にジンバブエに行く前に、亡命中だったララ・グーマの奥さんブランシさんの家に家族4人でお邪魔した時にもらった写真で、ソ連で撮った写真だと説明して下さいました。長男のユージーンさんと。

1987年にラ・グーマについてサンフランシスコの会議で発表することになった時、ラ・グーマのことを知りたいと思いました。日本では断片的な情報しかなく、ラ・グーマが生きていれば会いにも行けたんやけど(ラ・グーマは亡命先のハバナで心臓発作のために85年に急死してました)
・・・そうこうしている時にミシシッピの本屋の人からセスゥルのAlex La Gumaという本が届いて。読んでみると一番信憑性がある気がして、早速手紙で会いに行ってもいいですかと書くと北アメリカに来たら電話して下さいと返事があったね。1987年の夏のことです。当時大学を探そうと高校をやめて無職やった身には千ドル(多分当時十数万円)は大きかったけど、ANC(当時は非合法とされたアフリカ民族会議、今は与党)への寄付にと渡したお金は、見も知らぬ「敵国」にっぽんからやって来た胡散臭い日本人を丸々三日間泊めて下さった南アフリカの友人への僕の気持ち、やったんかな。

出来たら、その話も出来るとええね。



ラ・グーマのことも、南アフリカの歴史についてもそう知らないで、英語もまだ充分に話せる状態でもなかったのに、一杯マイクロカセットテープを持って行って録音し、帰って来てから、非常勤で知り合ったイギリス人のジョンにお金を出して正確な聞き取りをやってもらって、原稿を作ったんですが、今から思うと、よくもまあ、と思います。いつも言うように、若さは馬鹿さの象徴みたいなもので、よくやるよなあというところです。ただ、今日もそんなことを言ったと思うけど、もう一度同じ局面があったら、やっぱり同じことをするような気がするけどね。知的な好奇心と言えるほどのものでもないけど、外国に行くのが億劫な今に比べると、行くと考えるだけでもしんどいのに、とため息が出るねえ。
『まして束ねし縄なれば』(And A Threefold Cord)は、顔の見えぬ相手に、それでもアパルトヘイトのことを知ってもらいたいと、或いは後の世の若い人たちーアパルトヘイトが廃止されればアパルトヘイトがあったことも知らない人たちが生まれるだろうからーその人たちのためにとラ・グーマが命をかけて書き残した作品。その思いを受けとるためには、意外と難しい、どっちかというとイギリス英語を読む力も要るし、歴史を見渡す目と本質を理解する洞察力も要るもんねえ。

表紙絵の元の絵です。

この本の前に 『夜の彷徨』A Walk in the Night (横浜:門土社、1988年4月12日)を出してもらいました。宮崎医科大学に来てすぐに出したようで(随分と前で日時の後先の感覚があやふややねえ)、当時の1・2年生に使ったと思います。(非常勤として行ってた旧宮崎大学でも使ったかも知れません。)アフリカ系アメリカ人の歴史や文学作品を主に取り上げていましたから、本格的にアフリカことを取り上げるようになった最初のテキストです。南アフリカ第二の都市ケープタウンを舞台にした作品で、オランダ系と英国系の入植者に侵略され、厳しい状況の中で生きることを強いられている「カラー」ド社会の一面が生き生きと描かれています。
「カラード」(Coloured)は、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人の混血の人たちで、人種によって賃金格差がつけられたアパルトヘイト体制の下では「カラード」と分類され、人口の10%ほどを占めていました。ケープタウンに多く、その人たちは特に「ケープカラード」と呼ばれていました。
ラ・グーマはアパルトヘイト体制と闘った解放闘争の指導的な役割を果たしていましたが、同時に、大半が安価な労働者としてこき使われ、惨めなスラムに住んでいる南アフリカの現状を世界に知らせようと物語も書きました。きれいな海岸や豪華なゴルフ場のイメージで宣伝活動をして観光客を誘致し、貿易を推進して外貨獲得を目論む政府にはラ・グーマは脅威でした。他の指導者と同じように何度も逮捕拘禁され、1966年に英国亡命の道を選びます。その後、キューバに外交官として受け入れられますが、1985年に解放を見ることなく還らぬ人となりました。

A Walk in the Nightの表紙は当時上映されていた反アパルトヘイトのために闘った白人ジャーナリストルス・ファースト親娘を描いた映画「ワールド・アパート」の映画評「『ワールド・アパート』 愛しきひとへ」(「ゴンドワナ」 18号 7-12ペイジ、1991年)を掲載しています。) の一場面をモデルに奥さんに水彩で描いてもらいました。

「遠い夜明け」、全部を見たい人はコピーしてますので、いつでもどうぞ。

南アフリカの歴史背景についてまとめときます。仮説を立てたり、課題図書を探すのに参考になれば嬉しいです。

今日も話したと思うけど、大きな山は3つ、

①ヨーロッパ移住者がアフリカ人から土地を奪って課税して安価なアフリカ人労働者の一大搾取機構を打ち立てた

②アパルトヘイト政権とアフリカ人の抵抗運動

③白人政権と日本の関係

です。

次回読むのは①と②で、①の部分を年代順に箇条書きにしてまとめておきます。すでに配ってあるChronology of South Africaを参考に。

*1652年にオランダ人が到来
*1795年にイギリス人がケープを占領
*1806年にイギリス人が植民地政府を樹立
*1833年にイギリス人がケープで奴隷を解放
*1835年にボーア人が内陸部に大移動を開始(グレート・トレック)
*1854年頃には海岸線のケープ州とナタール州をイギリス人、内陸部のオレンジ自由州とトランスバール州をオランダ人、で棲み分ける
*南アフリカは戦略上そう重要ではなかった
*金とダイヤモンドの発見で状況が一変、一躍重要に
*1867年キンバリーでダイアモンドを発見
*1886年1ヴィトヴァータースランド(現在のヨハネスブルグ近郊)で金を発見
*1899年金とダイヤモンドの採掘権をめぐって第二次アングロ=ボーア戦争(~1902)
*イギリスの勝利。
*1910年南アフリカ連邦成立(イギリス人統一党とアフリカーナー国民党の連合政権、統一党が与党、国民党が野党)

配ったプリントは:サンプル問題Part 1とその解説、それと「遠い夜明け」の感想文の用紙です。次回提出してや。

<次回は>

The Struggle for Africaの3人の発表、コシシケレリアフリカなどの歌の紹介と、映像を交えながら南アフリカ史のまとめ。そこまで時間取れるかな。たぶん時間切れになりそう。

トーイックに関してはサンプル問題Part 1と「金のフレーズ⑤」と過去問Part 1の10問。(たぶん全部はする時間はないので残ればその次に)

<今後>

南アフリカについては、次回大まかな歴史背景をみたあと、もう一本映画「アフリカの蹄」(エセイの例で紹介している映像です)の編集した映像を見てもらおうと思っています。

そのあとは、アメリカのテレビドラマERの医師がコンゴにボランティアに行く物語をみてもらったあと、エボラ出血熱とコンゴをめぐっての話、独立時とコンゴ危機→コンゴ自由国の植民地時代→植民地争奪戦・植民地分割と歴史を遡ろうと思っています。印刷の準備中です。

アフリカ系アメリカの歴史については、後期にと思っています。そこでも映画を一本みてもらうつもりです。

来週、また。

たま

 

つれづれに

10連休も終わり、明日からまた授業再開です。

人混みが苦手やし、人と同じ流れに乗れないままなので、連休になるといつもと違う流れを感じます。
連休の間に2回木崎から青島を通って白浜に体の手入れをしてもらいに行ったですが、普段は人もいない店が満員、普段人のいない海岸にも人がたくさん、木崎浜ではたぶん大会など以外では一番の人出、品川、那須、千葉、相模など関東から、大阪、神戸など関西から、名古屋、豊橋など愛知圏から、福岡、熊本、大分などの九州内からのナンバープレートをつけた車がぎっしり並んでいました。
学生にも二人会いましたが、普通は顔を合わさないのになあと思いました。

春は草花の勢いが凄く、3月の半ばころからいろいろ、3週間前ほどは山藤が盛り、牛が時々草を食んでるのでたぶん畜産草地学科の演習場だと思われるところで写真を撮りました。このブログ用に新たに買ったカメラで折角撮りましたので、3枚ほど。

最新のカメラは軽いうえ、撮った画像を接続コードを使ってすぐにパソコンに取り込めます。それにブログにしてもらってから画像の取り込みが簡単になってほんとありがたいです。

奥さんが藤で絵を描きたいというので山藤を取ってきたんですが、取って来て初めて、すぐにぽろぽろ散ってしまうのを思い知りました。キャンパスの藤棚の藤を少々もらって、絵が出来ました。↓

私の絵画館5→「藤とココちゃん」(No. 21:2010年5月)

そのあと、もう一枚藤を使った絵を描いています。

私の絵画館62→「ケーシーとムギ・コトと山藤」(No. 79:2015年5月1日)

2010年5月の日付けなので、もう十年目になるんやなあと思います。

去年の3月の終わりに突然急な事態が起きて、2週間ほどかかりっきりでした。体力的によう持ったなあと思いますが、考えてみたら今年で70、いろんなところにがたがきて、大変です。

普段やとゆっくり授業の準備をする期間でしたが、ほんとばたばた始まりました。大きなクラスにも600人と200人余り来て。初めて人数制限をさせてもらって200人、200人で始めました。今年から持たないと決めて実行中ですが、時間に余裕が出来たようです。

そのどさくさに科研費が交付されるという知らせが。横山さんが、しかも文学で、と大きな声で感心してました。退職者の再任用の制度を作ったこともそうですが、退職者に科研費も、へえーそうなんやと感心しました。「今年で70才ですか。科研費も凄いですね。JSPSの専門研究員としても(現在2年目で、あと1年の任期)、良いことだと思います。」と林さんに言われると、ひょっとしたら凄いかも、と思ったり。

「文学と医学の狭間に見えるアングロ・サクソン侵略の系譜―アフロアメリカとアフリカ」が題で、この500年くらいアングロ・サクソン系のイギリスやアメリカを中心に西洋の人、ほんま無茶苦茶して来たやん、という話で、去年の11月にシンポジウムをして、経緯も書きました。

「アングロ・サクソン侵略の系譜1:概要」(2018年12月29日)

「アングロ・サクソン侵略の系譜2:着想と展開」(2019年1月20日)

退職すときに、もうすることもないかもなと、本を人にもらってもらったりしたけど、また要るようになるみたいです。とくにライトのNative Son、グギさんのWriters in Politics、ナタラジャンの『広島からバンドンへ』はもう一度手に入れなくちゃ、と思っています。Native Son、Writers in Politicsは改訂版が出てるみたいで、それだけ歳月が過ぎ去ったということなんやろなと納得するしかないようです。