続モンド通信・モンド通信

1「レオンくんと古城」(小島けい)
2「アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界」(玉田吉行)

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1 私の絵画館:「レオンくんと古城」(小島けい)

最近私の携帯には、毎晩いえ時には日に何度も決まった相手から電話がかかります。その相手とは、猫の“のらちゃん”です。

名前の通り元のら猫のその子は、4年前の5月頃突然娘のところにやってきました。そして家の外からどのように察知するのか、行く部屋行く場所の一番近い窓から、大きな声で必死になき続けました。しかもそのなき声は、今まで聞いたことのないような低くて太いダミ声でした。

東京で猫は飼えないから、と聞こえないフリ?をし続けていた娘でしたが。このままでは隣り近所から通報され殺されてしまうにちがいないと心配になり、目立たないところにエサを置くことにしました。“

すると少しずつですがなく回数が減り、いつのまにか玄関のドアの前で寝ているようになりました。ひどい雨の日、ずぶ濡れになっているのを見かねて箱を置くと、その中にもぐり込み安心して眠りました。

ある時試しにドアを開けてみると、最初は恐る恐る少しずつ入ってきましたが、そのうち家にあがりこみ長い時間くつろぐようになりました。

そうして<完全家猫>の座を獲得し“のらちゃん”となりました。

不思議なことに、あれほど低くて太い大きなダミ声だったのが、大切に可愛がられているうちに、ふと気付けば少し高めのかわいいか細いなき声にかわっていました。

保護された時が推定1歳でしたので、これまでの<のら生活>ではいろいろ大変なことも多かったと思うのですが、今やおしゃべり大好きな猫となり、<電話かけて!>とせがむようになりました。その電話を受けて私が話しかけると、じっと聞いていてそれなりにいろいろ返事をしてくれます。

今でも時折、自分で携帯にタッチして一人でニュースを聞いていたり。のぞき込んでタッチして自撮りの写真をとったりするそうですので、そのうち電話も一人でかけたい時にかけてくるようになるのではないか?!と、ひそかにその日がくるのを待っているこの頃です。

モデルは、チャイニーズ・クレステッドのレオンくんです。とても珍しい犬種だそうで、私自身も実際にはまだ会ったことがありません。

長い毛のもち主ですので、カットのしかたでずいぶん印象もちがってくるようです。いずれにしても<高貴な雰囲気>は動かしがたく、気品ある美しさには、やはりドイツの古いお城があうのではないか。そんなふうに思い、小さく描き入れてみました。

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2 アングロ・サクソン侵略の系譜6:リチャード・ライトの世界

「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)を修士論文の軸にしようと考えたのは、もちろんファーブル(Michel Fabre)さんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright)を読んで行間から感じられる人柄に感動したからでもありますが、ファーブルさんが書いておられた「地下に潜む男」辺りから、普遍的なテーマへの広がりを見せ始めたというのが手がかりになりました。大学では英語はやりませんでしたが、少なくとも購読の時間のテキストだったのも一つのきっかけになったかも知れません。

修士課程一年目の1981年にニューヨークの本屋で、まさか「地下に潜む男」が収められている雑誌「クロスセクション」(Cross-Section, 1944)を見つけるとは思ってもませんでしたが、その雑誌で方向性を確認したような気持ちになり、ライトは人種主義に対する抗議から脱皮して、より普遍的なテーマへの広がりを見せた、という仮説で行こう、とはっきりと気持ちが定まりました。

「クロスセクション」

『リチャード・ライトの未完の探求』

「ジム・クロウ体制を生きるための倫理」(“The Ethics of Living Jim Crow,” 1938?), 『アメリカの飢え』(American Hunger, 1938?),『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945), 「ビガーは如何にして生まれたか?」(“How Bigger Was Born?,” 1938?), 「私は共産主義者になろうとした」(“I Tried to Be a Communist,” 1938?)などの自伝的なスケッチも入れたいと思いましたが、小説に限定して、「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)を軸に、抗議のテーマでは『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1940)、『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963年死後出版)、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)を、普遍的なテーマとしては『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)、『残酷な休日』(Savage Holiday, 1954)、及び『長い夢』(The Long Dream, 1958)を選び、表題を“Richard Wright and his World”(「リチャード・ライトの世界」)に決めました。

3学期制の夏休みに入る前辺りから本格的に書き始めましたが、仕上げるのに2年次の一月末日の提出期限ぎりぎりまでかかってしまいました。電動タイプが出始めたころで、毎日電動タイプの前で原稿を書きました。ちょうど二人目の長男が生まれた頃で、長男には電動タイプの音が子守り歌代わりの一つだったかも知れません。産休明けに職場復帰した母親に代わって、僕が母親の役目を果たしました。タイプを打ちながら、2時間おきにミルクをやったのを覚えています。時間をかけたにもかかわらず、最後の日は徹夜になって、大学まで二時間ほどタクシーに乗って行きました。まさに期限ぎりぎりの提出劇でした。

博士課程に行く必要がありそうと思い、京都大学、大阪市立大学、神戸大学と通える範囲の大学を受験しましたが、受け入れ先は見つかりませんでした。それぞれの大学で様式は違うものの論文の概要を求められました。今はとても書けないだろうなと思える内容です。肩に力が入っていたのでしょう。京都大学に出した400字詰め原稿用紙10枚の概要です。

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リチャード・ライトの世界(RICHARD WRIGHT AND HIS WORLD)

文学研究科英文学専攻望              玉田吉行

リチャード・ライトは一般に、アメリカ白人の人種主義に対する抗議作家としてのレッテルが貼られているが、「地下に潜む男」("The Man Who Lived Underground," 1944)以降の作品には、単に抗議作家としての評価に甘んじることなく、むしろ人種主義に対する抗議を越えようとするライトの様々な試みが窺える。本論文では主要な小説の主人公の跡を辿ることにより、単に抗議小説家としての評価だけでは正当に評価し切れないライトの世界を探って行く。ここで取り扱う主人公は、『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1940)のビッグ・ボーイ(Big Boy)とその他の主人公達、『ひでえ日だ』(Lawd Today, 1963年死後出版)のジェイク・ジャクソン(Jake Jackson、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)のビガー・トーマス(Bigger Thomas)、「地下に潜む男」のフレッド・ダニエルズ(Fred Daniels)、『アウトサイダー』(The Outsider, 1953)のクロス・デイモン(Cross Damon)、『残酷な休日』(Savage Holiday, 1954)のアーススキン・ファウラー(Erskine Fowler)、及び『長い夢』(The Long Dream, 1958)のレックス・タッカー(Rex Tucker)である。尚、前3作については第2章に於いて人種主義抗議(Racial Protests)と題して、更に、後の4作については第3章に於いて、人種主義抗議を超えて(Beyond Racial Protests) と題して、それぞれ取り扱うものである。

『アンクル・トムの子供たち』では、ライトは、田園のアメリカ南部に於ける白人の抑圧の恐怖が、黒人にとって如何に大きなものであるかを強調しながら、もはや「アンクル・トム」の如く白人に忍従するばかりではない世代のビッグ・ボーイ達を描くことを通じて、特に白人に向けての強い抗議を表明している。同時に、その作品では、虐げられた黒人の解放への願いを込めて、白人の暴挙の真只中でさえ執拗に自分達の人間性にしがみつこうとする新しい世代の黒人群像を描き出すことによって、ライトは虐げられた同胞黒人に対する深い哀れみを示している。

『ひでえ日だ』では、北部の大都市シカゴに於ける黒人の生活の悲惨な実態に主として目を向けながら、目には見えないが、しかし巧妙な人種隔離(racial segregation)によって挫かれた、又、過度の物質文明によって阻まれたジェイクを描くことにより、主人公をその情況に追い遣った白人への抗議を示唆している。その作品では、同時に「一般大衆をして自らの窮状に気付かせる為の政治教育の必要性」を暗に示しながら、教養がなく、偏見に満ち、アメリカ物質主義(American materialism)に犯された極く平凡な労働者層を描くことによって、自分達の窮状の実態に気づき得ない同胞黒人へ厳しい警告を与えている。

前2作で示された抗議と警告の度合いは、『アメリカの息子』で、更に強まりを見せる。人種隔離の現状の中で、白人少女と黒人少女殺害という犯罪へ駆り立てられて行くビガーの物語を通じて、ライトは長年の暗黙の人種隔離政策によって抑圧し続ける白人に対する烈しい抗議を提示するとともに、その惨状にあまりにも黙従し続けた、又、現在も尚、従順に惨状を受け容れ続ける黒人に対して、その現状が如何に耐え難いものであろうとも、断じて目をそらすことなく、自らの本当の姿を正しく認識する必要があるという厳然たる警告を発している。その抗議と警告から、読者はビガーがアメリカの生み出した所産であるばかりか、大多数の人間が、日常の惰性に埋没する中で如何に自分たちの本当の姿に気づき得ない存在になってしまっているかを思い知らされる。白人側も、黒人側も、ライトによって描き出された現状を渋々でも認めざるを得ない程、その物語の抗議としての、又、警告としての力は圧倒的なのだが、それにもかかわらず、何か大切なものが欠けている感を抱かせる。それは、隔離によってもたらされた窮状の原因と結果をライトは見事に描き出して見せはしたが、現状を描くことにあまりにも重点を置き過ぎた為に、現状への解決策を見い出そうとする点にまで、目が行き届かなかったことに起因する。前3作では、黒人世界と白人世界の接触する所、つまり黒人と白人との間の裂け目に飛び散る火花にばかり心惹かれて、黒人たること自体への問いかけが案外なおざりにされてきた。換言すれば、ライトは人種主義によってもたらされたもの、つまり黒人の現状を見事に描き出すことには成功したが、黒人であることが意味するもの、即ち如何に黒人が、この矛盾した世の中で生きてゆくべきかという問題にまでは注意を払えなかったということである。それだけ人種主義によってもたらされたものが想像を絶するものであったとも言えようが、重点が、黒人たること自体への問いかけに置かれていたというより、むしろ黒人の実態を暴くことに置かれていたという実情は否定し難い。

『黒人の息子』(非凡閣、1940年)

それに反して、「地下にひそむ男」では、官憲に無実の罪を押し着せられた末の逃亡中、隠れ込んだ地下世界に於いて、自らの本当の姿に目覚め、今まで気付き得なかった新しい視点を獲得するに至るフレッドを描くことを通して、人種主義によってアメリカの一部でありながらそこから除外されているが故に「黒人は誰よりも早く世の中の矛盾に気付き得るのである」という利点を暗示することに努めている。ライトはこの作品に於いて、人種主義の生み出したものから、世の中で黒人であることに意味するものへ、言い換えれば、過去によってもたらされた現在から、未来を生み出すべき現在へとその目を転じることによって、単なる人種主義に対する抗議を一歩踏み越えようとしている。その見方は、この小説の初稿脱稿の後直ちに送ったとされる友人レノルヅ宛ての書簡中の「自分がまともに人種問題を踏み越えようとしたのはこれが初めてである・・・・・」というライト自身の言葉によっても窺い知ることが出来る。

青山書店大学用教科書

フレッドが獲得した<地下>の視点は『アウトサイダー』に於いて、更に広がりと深まりを見せる。不具故に、逆に他の人間よりもよく世の中の不条理に気づくという局外者(outsider)の視点に立ち得た州検事ハウストン(Houston)の言葉を借りて、実は人種隔離によって虐げられた黒人こそがアメリカ文化の内側と外側の両側に立ち得る二重の視点(a double vision)を賦与されるべき有利な地点に居るということを明示している。そして、主人公クロスを通じて人種主義によって、もはや世の中の価値や意義を見い出せなくなった矛盾した世の中で如何に生きて行くかを描こうとしている。結局は、局外者としての自らの方に従って殺人という行為を繰り返す主人公しか描けなかったところから判断して、必ずしも解決への道を示したとは言い難いが、アメリカの一部でありながらそこから排除されることにより、何世紀にも渡って虐げられ続けてきたアメリカ黒人の窮状を、むしろアメリカ文化の内・外両側に立ち得る有利な地点として捉えようとした姿勢は、ライトの黒人たること自体へのひたむきな問いかけの広がりの、或いは深まりの表われに他ならない。その意味では『アウトサイダー』は「自らの体験を取り扱うという特殊なものに焦点を当てることによって普遍性を達成」しようとしたライトの新たな一つの試みであったと言える。

橋本福夫訳(新潮社、1972年)

『残酷な休日』では、自らの心の中からぬぐい去りことの出来ない母親像に、ある夫人のイメージを重ねることで現実の殺人という犯罪を引き起こすに至る白人アースキンを描くことにより、罪と罰の問題を扱っている。その作品で、ライトは初めて登場人物の総てを白人にするという新しい設定の中で人種問題という枠を超えようと努めている。特に、日常の惰性の中に埋没しているが故に気づかない不安や焦燥の問題、それはおそらくパリ亡命中のライトの体験する西洋文明を含む現代文明が個人に生み出す得体の知れぬ不安や焦燥の問題でもあるのだが、その問題にライトは焦点を当てようとしている。退職によってそれまでの拘束から解き放たれて、一見自由になったと思えた時、突然得体の知れぬ不安に襲われるという主人公を通して、一体、個人にとって本当の自由とは何か、或いは、本当の意味での個人の解放とは一体何かという問いをライトは投げかけようとしている。それは、人種問題を離れて、現代文明の抱えた問題に正面から取り組もうとしたライトの新しい試みの一つであったと言える。

『長い夢』では、人種主義に支配されないパリに於ける主人公アレックスの亡命生活を描くことを目論んだ3部作の第1作として、故郷アメリカ南部を離れてパリに亡命するに至る主人公の過程に焦点が合わされている。ライトの突然の死により、3部作の完成はみなかったが、この作品が人種主義のない情況の中での主人公の生活を描く中で、黒人であることの意味を問いかけようとするライトの新たな試みの第1の布石であったことは、死後出版された第2部の一部分からも知ることができる。

木内徹さん寄贈の訳『長い夢』(水声社、2017年)

以上の考察から、リチャード・ライトは単に人種主義に対する抗議小説家ではなく、むしろ人種主義によってもたらされたものから、黒人であること自体への問いかけをなすことにより、換言すれば、過去によってもたらされた現在から、未来を生み出すべき現在に目を転じることによって、人種主義に対する抗議をという枠を越えようとした作家であったと考えるのである。

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大学を探すために最低限必要だった修士号は何とか手に入ったものの、博士課程はどこも門前払い、途方に暮れるという言葉が一番相応しい状況を生み出すことになりました。

高校の教員の五年間は、教科に、ホームルームに、クラブ活動にと、楽しかったものの時間に追われる日々、久しぶりに開いた『ブラック・パワー』(Black Power, 1953)の活字が踊って見えました。その割には、三学期制の一学期は、ゼミで渋々イギリスの詩人キーツの詩を読んだり、必修の教養科目や英語評価論などの出来れば避けたい科目と落とさない程度につき合う羽目にはなったものの、夏休みにアメリカで資料を集め、帰ってからは修士論文にかかりっきりになれました。

普遍的なテーマへの移行を論証するにはテーマ自体も大きすぎましたし、二年足らずの期間は短すぎたとは思いますが、何とか仕上がったのは、若さゆえの賜物だったのでしょう。書く空間を確保するための第一歩を辛うじて踏み出せた、と思いました。(宮崎大学教員)

元は→“Richard Wright and His World” (兵庫教育大学第245号、兵庫教育大学図書館)

修士論文扉

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の8回目で、前回の書いた「地下に潜む男」が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)を手に入れた経緯、に引き続いて、作品の中の擬声語表現を取り上げるようになった経緯について書いています。

『リチャード・ライトの未完の探求』

本文

ほんやく雑記の8回目です。

今回は先ず、なぜ擬声語表現なのか、です。(写真:ミシシッピの会議でのファーブルさん)ライトの伝記『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright, 1973)を読んだときに、本を読みながら感じた思いと、自分のレベルも知りたくてファーブルさんに手紙を書きましたが、そのときに日本語訳して手紙に入れました。

僕はずっと書こうと思って生きて来た人間ですから、文学の研究そのものも作品論や作家論にも極めて懐疑的です。人の好みや受け取り方も人それぞれですし、そもそも字や語に対する感覚などは努力して何とかなるものでもありません。努力は誰でもやりますが、絵が描ける、ダンスが踊れるなどと同じで、語感や文章に対する感性などは努力でなんとかなるものでもありません。

必要性もあって、好きだった人に聞いたリストを元にアメリカの小説を読み始めました。最初に読んだのはセオドア・ドライサー(Theodore Herman Albert Dreiser)の『アメリカの悲劇』(An American Tragedy, 1925)、タイトルだけ聞いて図書館から借りてきたハードカバーはなんと1026ページもの大作で、辞書を引きながら読むのに2か月ほどかかりました。(このとき、辞書などひいとったら本なんか読まれへんと身に染みました。)それから、ナサニエル・ホーソン(Nathaniel Hawthorne)の『緋文字』(The Scarlet Letter, 1850)、ウィリアム・フォークナー(William Cuthbert Faulkner)の『八月の光』(Light in August, 1932)を読みました。どれもアメリカ文学では有名で、フォークナーなどは1949年度にノーベル文学賞を受賞しています。1985年にライトの死後25周年を記念して国際会議がミシシッピ州のオクスフォードにあるミシシッピ州立大学でありましたが、集まったのは1500人ほど、前年にあったフォークナーの会議に集まったのが一万人だったそうですから、オクスフォードで過ごしたフォークナーは、アメリカ人好みの作家なのでしょう。

読まなくては、という思いで読んだせいもあったかも知れませんが、どの本もまったくおもしろくありませんでした。その反動もあったのでしょうか。『アンクル・トムの子供たち』(Uncle Tom’s Children, 1938)、『アメリカの息子』(Native Son, 1940)、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)など、ライトの本は鮮烈でした。ことに『アメリカの息子』はからだがばりばりでいうことをきかなかったのに、興奮して震えながら二日ほどで一気に読んだ記憶が鮮明に残っています。

『アメリカの息子』

僕の好きなファーブルさん(ライトの伝記『リチャード・ライトの未完の探求』の著者で、本を読んで感激し、自分の書いたものを英訳して送った翌年にミシシッピの会議でお会いし、7年後にジンバブエの帰りに家族といっしょにパリの自宅にお邪魔しました。ソルボンヌ大学や街並みを案内して下さり、訪ねて来られた同僚の世界的に有名な経済学者といっしょに子供たちとトランプをして下さいました。)が「地下に潜む男」を高く評価しておられた影響もありますが、「地下に潜む男」もなかなかの作品でした。(ハックスリー、トルストイ、モーパッサン、サロヤンの小説と並んでQuintet-5 of the World’s Greatest Short Novelsの中に取りあげられています。)

もちろん、ファーブルさんがおっしゃったように、この中編小説が従来の人種問題を中心にしたテーマを一歩踏み越えようとしている作品として、或いはエリスン(Ralph Ellison, 1914-)を筆頭にする後続の作家に少なからず影響を及ぼした作品として評価されるようになったのは確かですし、そういった評価が、作品の中に示された人種問題の枠を越えたより深いテーマの重みや、差別される黒人こそが日常性の中で見失いがちな物事の本質にいち早く気付き得る有利な地点に立っているというライトの視点の鋭さに負うところが大きいのですが、それらがライトの紬ぎ出した言葉による表現によって裏打ちされていることも忘れてはいけないと思います。作品をぞくぞくしながら読んだのは、その時は意識してなかったと思いますが、言葉や表現にも魅せられていたのでしょう。

次回はそういった表現の中でも、作品の中の主要な場面で使われた擬声語表現について書きたいと思います。

日本語訳→“Some Onomatopoeic Expressions in ‘The Man Who Lived Underground’ by Richard Wright”

次回は「ほんやく雑記(9)イリノイ州シカゴ4」です。(宮崎大学教員)

「モンド通信」は途切れましたが、「続モンド通信」に連載を再開するつもりです。

「『続モンド通信』について」(2018年12月29日)

執筆年

2016年

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2017年5月用ほんやく雑記8(pdf 343KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の7回目で、前回の「地下に潜む男」を読むようになった経緯、に引き続き、「地下に潜む男」が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)について、今回は特に手に入れた経緯について書いています。

  大学のテキスト(青山書店)

本文

ほんやく雑記の7回目です。

前回はイリノイ州シカゴが舞台の「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)を修士論文で取り上げるようになった経緯について書きましたが、今回はその作品が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)について書きたいと思います。(写真1:CROSS SECTIONの表紙)

「クロスセクション」誌

いま目の前に雑誌「クロスセクション」(CROSS SECTION)があります。1981年にニューヨークの古本屋で手に入れたものです。裏表紙をめくると流れるような筆記体でOut of Print #3.50 The Harwoods Oct. 1994と記されています。

1981年に初めてアメリカに行きました。前回、入学した年の学生運動の話を書きましたが、第二次大戦の直後に生まれた世代は否応なしにそれぞれのアメリカ化を経験していると思います。小学校の頃にテレビが普及し始め、ハリウッド映画からエンパイアステートビルディングやナイアガラの滝、ゴールデンゲイトブリッジなどの映像が流れてどっと「アメリカ」が生活に入り込む一方、洗濯機や炊飯器、掃除機などの電化製品でどんどん生活が「便利に」なって行きました。その頃自覚していたとは思えませんが、便利さや快適さから来るアメリカへの憧れと、敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発が妙に入り混じっていたように思えます。

高校から派遣された形で行った大学院の最初の夏に、修士論文の軸となる作品のコピーを手に入れるためにアメリカに行くことにしました。ニューヨーク公立図書館ハーレム分館に「クロスセクション」(Cross-Section)のフォトコピーがあるとわかったからです。ずっと1ドル360円で、外国語大学でもあったせいか留学に気持ちが傾いた時期もありますが、学費も生活費も自前の状況下では経済的に実際は無理だったと思います。休学してスウェーデンに遊学したクラスメイトもいましたから、それほど行きたい気持ちが強くなかったということでしょう。(そのクラスメイトはお金やパスポートなど一切合切盗られて2年も余計にスウェーデンにいることになった、と帰ってから言っていました。)

ライトの生きたコース(ミシシッピ州に生まれ→シカゴに→ニューヨークにて→パリに亡命)のうち、今回はシカゴ→ニューヨーク→(セントルイス経由で)ミシシッピ州ナチェツ(生まれた所)、まで辿ってみようと計画を立て、ファーブルさんの『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright, 1973)の巻末の参考文献目録をコピーして出かけました。東海岸までは遠いので、サンフランシスコに何泊かして。1ドル280円台だったと記憶しています。

『リチャード・ライトの未完の探求』

高校の英語の教員を5年していましたが、「敗戦後にアメリカ流を無理やり押しつけられたという反発」もあって、英語は聞かない、しゃべらない、と決めていましたので、英語はまったく聞き取れませんでした。(日本ではなぜか、英語がしゃべれなくても英語の教員は「勤まり」ます。)

目的は文献探しでしたが、結局はニューヨークの古本や巡りになってしまいました。今から考えるとおかしな話ですが、ライトの『アメリカの息子』(Native Son, 1940)の初版本はありませんかと出版元まで訪ねて行ったのです。もちろんあるはずもありませんが、行ってみるもんですね。大量の本を古本屋に流していますので、タイムズスクエアーのこの古本屋に行くとひょっとしたら、と言われました。1985年のI Love New Yorkキャンペーンでその辺り一帯がきれいにされる前でしたから、古本屋やポルノショップなどが溢れていました。

教えてもらった古本屋に『アメリカの息子』(写真2)の初版本はさすがにありませんでしたが、『ブラック・ボーイ』(Black Boy, 1945)、『ブラック・パワー』(Black Power, 1954)など主立った本はもちろんのこと、スタインペッグの『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath, 1939)やハーパー・リーの『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird, 1960)なども難なく見つかりました。そして何より、「地下に潜む男」の掲載された「クロスセクション」(CROSS SECION)の現物が手に入ったのです。雑誌と言っても559ページもあるハードカバーの立派な本でした。見開きにはCROSS-SECTION A NEW Collection of New American Writingとあります。

日本でも神戸や大阪の古本屋には何度もでかけていましたが、ニューヨークで古本屋巡りをするとは思ってもみませんでした。本をぎっしり詰めた旅行バックが肩に食い込んだ重さの記憶が残っています。今ならVISAカードで簡単に処理したんでしょうが、何箱か船便で送ったら持って行っていたお金がほぼなくなってしまって、経由地のセントルイスまでは辿り着いたものの、そこから予定を変更して戻って来るはめになりました。

初めてのアメリカ行きでもあったので、サンフランシスコではゴールデンゲイトブリッジに行き、シカゴではミシガン通りでパレードを眺め、ニューヨーク州ではナイアガラの滝を見て、エンパイアステートビルディングにも昇りました。元々人が多いのは苦手でエンパイアステートビルディングも列が出来てなかったら昇ってなかったと思いますが、入り口には人がまばらで。しかし、途中で乗り換えがあって、そこでは人が溢れかえっていて何か騙された気分になりました。

ミシガンストリートで2時間ほどパレードを眺めていたと書きましたが、その時に、アメリカにもアメリカのよさがある、と何となく感じました。ニューヨークのラ・ガーディア空港では日本語が通じずにカウンターでついに大きな声を出してしまいましたが、ちょっとお待ち下さい、言葉のわかる者を連れて来ますので、と言われて待っていたら、人が現われて、ゆっくり英語をしゃべってくれました。

通じないもどかしさを何度も味わいましたが、それでも帰って来て、英語をしゃべりたいとは思いませんでした。

その時行けなかったので、1985年にミシシッピに行き、ゲストスピーカーだった念願のファーブルさんにもお会いしました。戻ってからファーブルさんと話をしたいと、英語をしゃべる準備を始めました。1992年にジンバブエの首都ハラレで家族で暮らした帰りにパリに寄り、ファーブルさんとお会いした時(写真3)には、英語に不自由は感じませんでした。

「地下に潜む男」の擬声語については、次回からです。

次回は「ほんやく雑記(8)イリノイ州シカゴ3」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記(7)イリノイ州シカゴ2」(「モンド通信」No. 97、2016年9月11日)

ダウンロード

2016年9月用ほんやく雑記7(pdf 343KB)

2010年~の執筆物

概要

ほんやく雑記の6回目で、リチャード・ライトの「地下に潜む男」の擬声語表現について書きたいと思います。(6)で「地下に潜む男」を読むようになった経緯、(7)で「地下に潜む男」が掲載された雑誌「クロスセクション」(CROSS SECION)、(8)で作品の中の擬声語表現に取り上げるようになった経緯、(9)で作品の中の擬声語表現、について書いています。今回は「地下に潜む男」を読むようになった経緯、です。

本文

ほんやく雑記の6回目です。

前回は詩人ポール・ダンバーの詩「愛しいわが子よ」の表現の仕方と、時代背景の理解の大切さについて書きましたが、今回はイリノイ州シカゴが舞台の「地下に潜む男」の擬声語表現について書きたいと思います。(写真1:リチャード・ライト)

「地下に潜む男」(“The Man Who Lived Underground”)はアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライト(Richard Wright、1908-1960) が書いた中編小説で、1944年に「クロスセクション誌(Cross-Section)に収載されています。死後出版された『八人の男』(Eight Men, 1966; 晶文社、1969年)にも再録されていますが、1956年には既に、ハックスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894-1963)、トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy, 1828-1910)、モーパッサン(Henri René Albert Guy de Maupassant, 1850-1893)、サロヤン(William Saroyan, 1908-198)の小説と並んで Quintet – 5 of the World’s Greatest Short Novelsの中に取りあげられる程の評価を得ています。

1973年に ミッシェル・ファーブル氏(Michel Fabre)の伝記『リチャード・ライトの未完の探求』(The Unfinished Quest of Richard Wright、写真2)が出版されてからは、この小説が従来の人種問題から脱皮しようとした試みとして注目され、後続のアフリカ系アメリカ人作家ラルフ・エリスン (Ralph Ellison, 1914-1994) などにも少なからず影響を及ぼした作品として再評価されました。

物語は、無実の罪を押し着せられた主人公が偶然に逃げ込んだ下水溝での様々な体験を経て警察に自首した時には既に真犯人は捕えられており、逆に警官に気狂い扱いされた挙旬、最後は元の下水溝に葬り去られてしまうという割り切れないものですが、作品が評価されたのは、主人公の<地下生活>を通して人種によって差別されたアフリカ系アメリカ人こそが日常性の中で見失いがちな物事の本質に気付き得る有利な立場にいるという点を描き出そうとした視点や、主人公が相手に気づかれない有利な立場から垣間見る様々の「現実の裏面」のスリリングな展開や、音や色に関する鮮やかな表現に負うところが大きいと思います。今回は中でも音に関する擬声語表現をほんやくと絡めて書こうと思います。

「地下に潜む男」を読んだのは大学の英語の時間で、たぶん青山書店から出たテキスト(写真3)で、だったと思います。大学に入ったのは学生運動が国家権力にぺちゃんこにされた翌年の1971年で、浪人しても受験の準備が出来ないまま結局はうやむやに心の折り合いをつけて、家から通える神戸市外国語大学のえせ夜間学生になりました。

えせは、神戸市役所や検察庁などの仕事を終えてから授業に出る前向きな「同級生」に比べて、という意味です。検察庁の「同級生」は「神戸の経済を二度失敗した」末に入学したそうですが、「ワシ、今日はやばいねん、昨日取り調べたやーさんに狙われるかも知れへんから」と帰り道に言っていました。高校も定時制(4年間)だった「同級生」は住友金属で働く好青年で、何百万か貯めて着実に生活している風に見えました。若くに人生を諦めてしまって大学の空間を余生としか考えていない身には、ずいぶんと希望に満ちた大人に見えました。もちろん、僕と同じようなえせ夜間学生で、定職は持たず、昼間の運動部に混ざって活動しているものもいましたが。

学費は年間12000円(昼間は18000円)、月に1000円、定期代も国鉄(現在のJR)と阪急(電鉄)を合わせても1500円ほど、朝早くに1時間ほど配っていた牛乳配達が月に5000円ほど、学費はそれで充分にまかなえていたように思います。もっとも自分から進んでやった牛乳配達ではなく、母親がやっていたのを見兼ねてやるようになっただけでしたが。

入学した年、中央以外では学生運動の残り火が燻っていたようで、神戸大でも神戸外大でもヘルメットを被った学生が拡声器を持って「われわれは・・・・」と、がなり立てていました。僕には入学式も無意味なので通常なら出ることはないのですが、一浪したあとよほど気持ちが縮こまっていたようで、つい入学式に出てしまいました。奇妙な入学式で、図書館の階段教室で始まって学長という人が挨拶を始めたとたん、合唱部とおぼしき人たちが初めて聞く校歌らしき歌を歌い始め、違うサイドでは拡声器を持った学生が「われわれは・・・・」とまくし立て始めていました。座っている学生は僕のようにへえーと感心しているものもいれば、四方に野次を飛ばしているものもいました。

その後、授業はなく毎日のようにクラス討議なるものが強要され、ある日学生がバリケードをして学舎を封鎖しました。しばらくして機動隊が突入して「正常化」されたようでした。70年安保の学生運動では国家体制の再構築というような理想論が取りざたされたようですが、覚えている限り、マイクから聞こえて来て耳に残っているのは、たしか、学生食堂のメシが不味いから大学当局と交渉して勝利を勝ちとろう、そんな内容だったと思います。中央では負けたので、地方では部分闘争をということだったんでしょうか。

昼間のバスケット部といっしょに練習をしていましたが、運動部はバリケードが張られているときも、中に入れて練習もやっていました。マネージャーの女子学生も、ヘルメットを被って封鎖に参加している学生の一人で、後に退学したようなことを聞きました。

学生側についた七人の教員は、最後まで学生側についていたようです。後にゼミの担当者になった教授もその中の一人です。十年ほどかかって仕上げた翻訳原稿を投げ入れられた火炎瓶で焼かれたそうですが、また同じ年月をかけて翻訳出版したという話も聞きました。その担当者の追悼文が僕の記事の第一号です。→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました-貫名美隆先生を悼んで-」(「ゴンドワナ」3号8-9ペイジ)→「がまぐちの貯金が二円くらいになりました」

第二次大戦前の神戸外事専門学校が戦後の制度改革で神戸市外国語大学になったそうで、教員の中には今までやらなかった分野を専門にする人たちもいたようです。小西友七という人の黒人英語などもそんな分野の一つで、他にも西洋のバイアスがかかっていないアフリカ系アメリカやアフリカの名前を学内ではよく見かけたように思います。

おそらくそんな流れの中で、英語の時間にアフリカ系アメリカ人作家リチャード・ライトの「地下に潜む男」の教科書を読むことになったのだと思います。

続きは、次回に。

次回は「ほんやく雑記(7)イリノイ州シカゴ2」です。(宮崎大学教員)

執筆年

2016年

収録・公開

「ほんやく雑記⑥『 イリノイ州シカゴ 』」(「モンド通信」No. 96、2016年8月3日)

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2016年8月用ほんやく雑記6(pdf 469KB)