つれづれに

つれづれに:山頭火の世界②ー山頭火の生涯①

今回は山頭火の生涯をおおまかに。山口県の大地主の子供に生まれたが、家庭環境には恵まれず、父親と財産を潰して妻子と熊本に逃亡。熊本で自殺を図るも死に切れず、友人に連れて行かれた報恩寺で得度。一時観音堂で暮らすも、結局行乞(ぎょうこつ)の旅に。旅に疲れて故郷に近い其中庵に定住後、死に場所を求めて四国に渡り、松山で死去、享年59歳。酒を飲み、数多くの俳句を残す。

報恩寺:「俳人種田山頭火の世界」を受講してくれた工学部の姫野くんが地元で撮影

山頭火が書き残した日記などを編集して後世に伝えたのは、大山澄太。最初に読んだ「山頭火の本」もその人の編集である。その人の伝記を繰り返し読んだとき、山頭火の生涯を知るには、①生まれ育った山口、②逃げた先の熊本、③行乞旅をした各地、④其中庵、⑤松山の五つの時期でわけて、「行乞記」や「其中日記」などに残された句といっしょに辿るのがいいような気がした。もとより全部を詳しく辿る力量はないが、それぞれの時期に詠んだ句を軸に、山頭火の生涯を追ってみたい。

大山澄太

宮崎に越して来た日に出版社の社長さんから分厚い手紙が届いた。山頭火を考える時、いつもその手紙の一説を思い出す。「・・・闇は光です この眼に見えるものはことごとく まぼろしに 過ぎません・・・私たちの行動のほとんどすべては 意識下の原言語できまるのであって 意識にのぼる言葉など アホかと思われるほど 些末なことです・・・」

親といっしょに家の財産を食い潰して夜逃げ、逃げた先では妻子を置いて自殺未遂、挙句は得度して行乞の旅に。仕事もせずに飲んだくれていた山頭火が、子として夫として父親として一人の人間としてどうだったのかは評価の仕様もないが、残された句には何か心に響くものがある気もする。芸術作品は自己充足的なもので、この眼に見えるものはことごとくまぼろしに過ぎないのなら、眼に見えるものから読み取るしかない。自分の中に無限に広がる無意識の世界、意識下の現言語でしか感知できないのかも知れない。そんなことをよく考える。山頭火を授業で取り上げたりしたのは、生き方を知り、句を詠んで、自分の意識下に広がる世界を自覚するためだったかも知れない。僕の意識下に山頭火に反応する何かがなければ山頭火もただ通り過ぎただけかも知れないのだから。

山口県現防府市の生家跡地

うまれた家はあとかたもないほうたる

次回は生まれた家跡を訪ねて詠んだその句も含めて、山頭火の生まれ育った山口の話になりそうである。

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つれづれに: 歩くコース1の⑧・・・

歩くコース1の⑦の続き。

突き当りに見えるのがサンマリーン球場

前回紹介した物産店の続き。買い物に寄るようになってから、ご夫妻といろいろ話をした。奥さんの方が店にいる時間が長く、店主は大抵は昼からの店番だった。同年代の地元の人で、ある日「この前頼まれて、鹿や猪を撃ってきました。尾鈴など北の方の山では鹿や猪が増え続けていますので、定期的に仲間と撃ちに行くんです」と言いながら、何かをさばいていた。「持って帰ります?」と聞かれたものの、生憎、肉類も海産物も苦手なので、厚意に応えられなくて済まない気持ちになった。どうやら、ずっと県の林業関係の仕事をしているようで、自分で撃ったものか仲間から回してもらったものか、いつも大きな冷凍庫には「鹿肉、猪肉あります」と貼り紙がしてあった。店はサンマリーン球場に行く人も見込んで、県道から球場までの間に拵(こしら)えたようだった。観光を見込んで春季キャンプ誘致用に駅から球場までの道路の予算を組んだものの、立ち退き問題で最後までもつれて、まっすぐな道にはならなかったようだ。「最後の一軒の真横までは何とか舗装が出来たが・・・」、そんな状態が長いこと続いていた。

県道から木花駅前のロータリーへの道

「一度近くの畑を見に来て下さい」と言われてお邪魔した。丁寧にいろんな野菜を作っていた。友人の牛舎からでる牛糞を軽トラックで常時運んでもらうようで、「いつでも持って行って下さい」と言われた。しばらく田んぼ脇に腰を降ろして話をしていたら、顔見知りと思われる人が並んで座り、「田んぼやりませんか?田んぼもトラクターも貸しますよ。今は機械がすべてやってくれますから、トラクターに乗っておくだけで誰でも出来ますよ」と話しかけてきた。宮崎に来たての三十代の頃なら、やっていたかも知れない。畑は県道沿いの加江田の山が見える場所にあり、「小さい頃は授業で加江田川で泳いでいました、楽しかったですねえ」と店主が言っていた。

梅の季節が過ぎた頃に店に行くと、摘んできた梅の実の作業をしていて、「持って帰りますか?」と言われた。1升とか2升とかではなくて、集荷用の結構大きなプラスチックのかごごとだった。西米良大根をもらった公園の近くの人からも、「梅持って帰りますか?」と言われた(→「 歩くコース1の②・・・」、2021年7月7日)が、やっぱりかごごとだった。梅干しも梅酒も造っていた時期なら、「喜んで」と言えただろう。

県道の交差点を折り返してしばらく歩くと木花駅に着く。次回はその続き、やっと歩くコース①が終わりそうである。

木花駅舎

駅北側から見たロータリー

つれづれに

つれづれに:なんで山頭火?

前々回のつれづれ(2021年7月20日)で、山頭火については項を改めてと書いた通り、今回は山頭火について。ただし、話が長くなりそうなので、連載の形で他のつれづれの合間に挟んでいこうと思っている。1回目はなんで山頭火?、です。

種田山頭火

4年前の後期の学士力発展科目で「俳人種田山頭火の世界」を担当したが、授業が不消化気味で終わったことと、まとめてみたい気持ちもあって、連載してみるか、となったようである。

妻の本棚のなかにあった春陽堂の「山頭火の本」(14冊、別巻2冊)を見て読み始めたのが山頭火との始まりである。浪人を一年したものの理解して覚える作業に向いてなかったのか、折り合いをつけて家から通える夜間課程に行くことにした。その前に、写真などはすべて焼いたので、結婚をした時に家から持って出たのは、立原正秋の本と当座の衣類だけだった。

教員をしていた高校で記念誌用の原稿を頼まれて書いたもの(→「生きゆけるかしら」)を見ると、よう生きながらえてきたもんやなあという感じがするが、結婚した当初もかなり引きずったままだった。子供が出来て世界が一変した。夜中でも泣き止まない赤ん坊に理屈が通るわけがない。二人とも働いていたから、毎日毎日がいっぱいいっぱいだった。高校は楽しかったが、小説を書きたいという気持ちは強く、書くための空間が要ると感じた。元々貧乏だったので、作家になるまでの貧苦は大丈夫だと思ったが、妻や子供に同じことを強いるのは気が引けた。それで経済的に何とかやれて同時に空間を確保してくれそうな大学を探そうという気持ちになった。

妻は詩人で、詩的な感覚は伝わって来る。僕も一時句が詠めたと感じる時期もあったが、最近はまったく句がでなくなっている。

山頭火を読んだのは、大学の非常勤で大阪に通っていたときの電車の中が多かった。門前払いを食らって博士課程にも入れないし、空間を確保してくれる大学も決まらないし、非常勤のコマも週に16コマと多いし。そんな状況で心身ともにくたくたになっていたのに、なぜか山頭火の本が手放せなかった。その頃は、大学用の業績のために一番英文書を読んだ時期でもある。

次回は、山頭火の生涯①について書こうと思う。

つれづれに

つれづれに: 歩くコース1の⑦・・・

歩くコース1の⑥の続きである。前回、最後に折り返し地点の写真を載せた。今回はその写真から。

突き当りに見えるのがサンマリーン球場

中央に見えている大きな道路は、南北に海岸線と並行に走る県道である。渋滞が出来るほどたくさんの車が通るわけではないが、春先の野球やサッカーのキャンプ時にだけ、かなりの車が通る。なんでやねんと思うくらいで、道路を渡れない時もある。特に土日は混む。その時期、市内のホテルは報道関係者でほぼ満杯らしく、たまたまイチローが宮崎観光ホテルに泊まった年は、難儀した。医学生用の海外での臨床実習のための集中講座でタイやアメリカから医師を招待したとき、普段滞在してもらう観光ホテルが取れなかったからである。半年以上前に招待客に連絡をつけて、例年通りホテルを予約をしようとしたが取れなかった。コロナ騒動が続いているので、今は昔の感がある。

大淀川河畔の宮崎観光ホテル(ホームページから)

道路の突き当りに見えている建物が主に巨人のキャンプ用に造られたサンマリーン球場である。高校野球でも使うことがあり、木崎浜に行くときに大きな声援が聞こえてくることがある。キャンプ時には、その時だけの出店(でみせ)を出す人もいる。

球場に行く道路の右手に焼肉屋の看板が見えるが、すぐ隣に地元の野菜などを売る物産店があった。木崎浜に行く途中で見つけて、それから行くようになった。その店の商売気のない気さくなご夫婦と親しくなった。品数は多くなかったが、あれば新鮮で安かった。娘さん夫妻が作る苺は飛び切りうまかった。マンゴー用の肥料を使っていますということだった。何年か入試の時期に、夜遅くに事務室の入試係に届けたことがあるが大好評だった。ある日、麹を見つけた。値段を見て驚いた。310円だった。三十数年前に明石にいた頃に買っていた麹は900円だった。清武の味噌屋さんが造っているらしく、一枚の板に延ばされてひと固まりになっていた明石の麹とは違って、一粒一粒が離れて作られていて、初めて見る造り方だった。今は440円に値上げされているが、それでも都会に比べれば考えられない値段である。甘酒をつくって飲んでますよ、と話をしたら、作り方を教えて下さいと言われた。麹を買いに来る人から何度も作り方を聞かれたそうである。なぜかすぐには対応できなくて申し訳なかったが、一年ほど経ってからワードで写真いりの<甘酒の作り方>↓を作って持って行った。

甘酒の作り方

<作る時に用意するもの>

▲ 麹(こうじ)3合と餅米(もちごめ)3合と陶器の瓶(かめ)

<予め準備すること>

▲ 麹をほぐす(かちかちになったものがあるときは取り除く)

▲ 瓶を温めてから、熱湯で消毒する(雑菌が多いと腐る時があります)

<作り方>

▲ ほぐした麹、炊いた餅米、ほぐした麹、炊いた餅米、ほぐした麹を重ねる。

▲ 毛布、布団などにくるんで、発酵を待つ。

▲ 夏場は1~2日目に丁寧にかき混ぜる、以降も毎日丁寧にかき混ぜる。

▲ 温度の高い時期は数日で、冬場でも5~6日で出来上がり。夏場以外は外に置いて自然発酵にまかせると味が馴染みます。夏場はある時期以降は冷蔵庫で保管するのがいいでしょう。

<飲むとき>

▲ 適宜水を加えて加熱、お玉の底で米粒を丁寧に潰すと味わいが出ます。

明石にいるときにしばらく甘酒を造っていたが、50代半ばで体調を崩して食べるものも基本的に考え直した時に、発酵食品の一つとして甘酒造りを復活させた。それからは食事の度に飲むようにしている。店主の病気で店がなくなってからは、清武町役場の隣の物産展で麹を調達するようになった。

次回からは歩くコースと併行して、「項を改めて」と書いた山頭火について少しずつ書いて挟んでいこうと思っている。