つれづれに

つれづれに:エイズ関連(2024年8月31日~)

2024年9月

10:→「つれづれに:多剤療法」(2024年9月15日)

9:→「つれづれに:医師の苦悩」(2024年9月13日)

8:→「つれづれに:国際エイズ会議」(2024年9月12日)

7:→「つれづれに:CDC」(2024年9月11日)

6:→「つれづれに:エイズ発見の歴史」(2024年9月5日)

5:→「つれづれに:HIV増幅のメカニズム」(2024年9月4日)

4:→「つれづれに:免疫の仕組み」(2024年9月3日)

3:→「つれづれに:血液」(2024年9月2日)

2024年8月

2:→「つれづれに:ウィルス」(2024年8月31日)

1:→「つれづれに:エイズ」(2024年8月30日)

つれづれに

つれづれに:医師の苦悩

 今回はエイズ=死であった頃の医師の苦悩である。

1981年にアメリカで初めてエイズ患者が出たあと、各地からの相次ぐ報告を受けて、CDC(疾病対策予防センター、Centers for Disease Control and Prevention、↑)は特別チームを組んで疫学的研究を開始した。感染は世界的にも広がりを見せていたので、同時に各国に呼び掛けて4年後には→「国際エイズ会議」を始めた。会議は西側諸国の世界各地で、1994年までは毎年、それ以降は隔年で開催されている。今年が25回目だった。

開催された会議の流れの中での最大の話題は、1996年の多剤療法だろう。それまではエイズ=死だったのが、HIVを持ったまま生き永らえることが可能になったからだ。それまでエイズ治療に当たる医師には、唯一あった逆転写酵素阻害剤(RTI, Reverse Transcriptase Inhibitor)が患者に合わなければ、苦しんでも投薬を続けるか、苦しまずに余生を家で過ごす緩和ケアを勧めるかの選択しかなかった。今回はその話である。

多剤療法の症例報告をしたチームの一人デビッド・ホー

 その時代を体験した医師たちには、多剤療法は画期的だった。抗HIV製剤でエイズの発症を遅らせることが可能になって、HIVを抱えたまま生きられる希望が見え出したのだから。医学科で海外での臨床実習に向けて医療に特化した英語を担当している時に、材料として「ER緊急救命室」(原題:ER)(↓)を使っていたが、その中にまさにその場面があった。

 「ER緊急救命室」は、アメリカNBCのテレビドラマシリーズで、1994年9月から2009年4月にかけて15シーズン331話が放送されている。今回の場面は、2シリーズの中にあり、放送されたのは1995年である。多剤療法が可能になる前の年で、舞台はシカゴの郡(カウンティ)総合病院の救急救命室(Emergency Room:ER)である。

救急室の出入り口近くで喧嘩別れするロス医師とグリーン医師

 ある日、幼児が入院して来る。中国系の母親からHIVを母子感染されていた。小児科医ダグラス・ロス(Douglas Ross)が担当し、逆転写酵素阻害剤による治療を始めるが、効果が出なかった。薬剤を腰椎穿刺(ようついせんし、Lumber Puncture)で脊髄に注射するので、痛みは半端ではない。

 ロス医師が幼児の血液サンプルを顕微鏡で覗(のぞ)くと、髄膜脳炎のクリプトコッカス菌が確認された。クリプトコッカス症は第3フェイズ、エイズ末期(full-blown AIDS)に見られる日和見(ひよりみ)感染症の1つである。血液1000ミリグラム中に外敵とたたかう抗体を作る司令塔であるCD4陽性T細胞の数が200個を切って、免疫機構が機能しなくなり、幼児はすでに自力ではたたかえなくなっしまっていたのである。

 母親は幼児が激痛に耐える姿をじっと見つめるしかなかった。母親にすべてを告知していないのを知ったスタッフドクターマーク・グリーン (Mark Greene)は、薬の効果も出ないし、痛みも激しいので、エイズ末期であることを考えると家に帰って残りの時間を家族で大切にする選択肢もあると助言する。母親は、息子を家に連れて帰ることを決断して、ロス医師に告げる。

 ロス医師はグリーン医師(↓)に、自分の子供でもその選択をするのかと激しく責め立てる。もう1年あとなら、多剤療法で延命措置を出来た可能性はある。切ない話である。

ERは海外での臨床実習に行く学生にはうってつけの素材である。英語も早いし、医学用語も満載だから。医学用語は1年生から本格的に授業でも提供していたし、映像ファイルを使えば、気持ちさえあれば、繰り返して慣れる。学生交換も最初はタイ南部の大学との間で始まったが、そのう医学部執行部や卒業生で教授になった人たちがカリフォルニア大学アーバイン校(UCI, University of California, Irvine)とも交渉して、小児科と救急で受け入れてもらえるようになった。アメリカの学生といっしょに実習を受けるわけである。UCIはアメリカ内でも優秀な大学だと聞く。学生を派遣していた時期に、筑波大学の医師と吉祥寺で話をしたことがある。同じ部署に学生交換制度でタイに行った女医の同僚がいて、彼女、優秀で英語も出来ますと言っていた。その大学もかつてUCIと学生交換をしていた時期があったらしく、制度を復活させるために、是非話を聞きたいということだった。レベルもそう高くない地方の医学科がよくUCIと学生交換出来ましたね、ということだったのだろう。学生は、しかし、実際にアメリカの学生といっしょに実習をこなして、高揚したまま戻って来ていた。センター試験でほぼ満点で入って来る学生も、実際には英語が使えない人が多かった。特に、間違いを気にしてしゃべるのに慣れていなかったが、目標を持った人たちは5年間で、アメリカでの実習をさらりとやってのけていた。感動的だった。実習を終えて帰ってきた6年生は必ず部屋に顔を出してくれた。普段はそんな素振りも見せない学生が、大学のアリクイのマスコット人形を持って来て、是非1年生の授業で医学用語のテストをしてやって下さいと言っていた。大学のマグカップを持って来てくれた学生もいた。マスコット人形は退職時にプロジェクトを続ける同僚にプレゼントしたが、マグカップは家に持ち帰ってきている。毎日、自分で拵(こしら)えた甘酒を入れてレンジで沸かし、木製の椀で飲んでいる。

次回は多剤療法である。

つれづれに

つれづれに:CDC

 今回は国際エイズ会議である。

1981年にアメリカで初めてエイズ患者が出てから4年後の1985年に第1回国際エイズ会議がCDC(疾病対策予防センター、Centers for Disease Control and Prevention、↑)のあるアトランタで開かれた。それから今年2024年までに25回の国際エイズ会議が開催されている。会議に沿って、エイズ問題の大きな流れを辿(たど)って行こうと思う。

1994年までは毎年、それ以降は隔年開催である。25回のうちアメリカとカナダで各4回、ヨーロッパで10回、アジアとアフリカで各2回、中南米(厳密には北米?)とオセアニアで各1回である。アジアは日本(1994)とタイ(2004)、アフリカは南アフリカで2回(2000/2016)となっている。同じ都市で2回開催されたのはアムステルダム(1992/2018)とダーバン(2000/2016)だけである。2020年第23回はCovid19の影響でオンラインでの開催だった。開催された年と開催地一覧である。

1985年第1回アトランタ/1986年第2回パリ/1987年第3回ワシントン/1988年第4回ストックホルム/1989年第5回モントリオール/1990年第6回サンフランシスコ(↓)/1991年第7回フィレンツェ/1992年第8回アムステルダム/1993年第9回ベルリン/1994年第10回横浜/1996年第11回バンクーバー/1998年第12回ジュネーブ/2000年第13回ダーバン/2002年第14回バルセロナ/2004年第15回バンコック/2006年第16回トロント/2008年第17回メキシコシティー/2010年第18回ウィーン/2012年第19回ワシントン D.C./2014年第20回メルボルン/2016年第21回ダーバン/2018年第22回アムステルダム/2020年第23回オンライン/2022年第24回モントリオール/2024年第25回ミュンヘン

 横浜でアジアで初めての国際エイズ会議があったのは1994年で、医学生の英語の授業で医学的な問題を取り上げようと思案していた時期である。次の年にコンゴで2回目のエボラ出血熱騒動があって、並行して準備を進めた。会議については、タイやインドなどで感染が拡大していたので、アジアでの開催が必要だったのかも知れない。ただ、エイズ自体についての目新しい動きはなかったように思う。英字新聞にあれこれ関連記事が出たのは有難かった。

1996年のバンクーバーでの会議では、すでにアメリカのエイズ会議で多剤療法の症例報告があったので、エイズ=死ではなくなったエイズ治療元年にふさわしく明るい話題が多かったようである。

1981年に最初のエイズ患者を診察した医師の一人デビッド・ホー

 当時の同僚の外国人教師が夏にバンクーバーに一時帰国した時期と会議とが重なっていて、土産(みやげ)に雑誌を何冊かくれた。もちろん、エイズ会議の特集記事もあった。国立大でまだ外国人教師を採用していた頃のことである。キャリアの割りには破格の待遇という印象が強かった。4人と同僚になったが、英会話の授業だけで公務もほとんどなく、2年毎に配偶者もいっしょに帰国する手当までついていた。何か鎖国明けの外国人招聘みたいやな、長いこと続きすぎやろと思った記憶がある。待遇の割りには、そのカナダ人以外は何らかの形で学生と揉(も)め事を起こしてこちらに飛び火していたから、余計にそう感じたのかも知れない。21世紀に入って、ようやくその外国人教師のポジションはなくなったが‥‥、鎖国明け対策がやっと終わったか、そんな感じだった。

医大の講義棟(英会話の授業は4階の機材のないLL教室であった)

 エイズ治療元年の会議の反動か、1996年のジュネーブの会議は終始重苦しい雰囲気が漂っていたと言う。一つは、多剤療法の副作用の症例報告が多かったからと、次回開催の南アフリカダーバンの医師が「多剤療法にわいてますが、私の勤めている国立の病院で抗HIV製剤を見たことはありません」と発言したかららしい。

そして迎えた2000年のダーバンの会議では、アパルトヘイト後の処理に追われる大統領のマンデラからエイズに関してはすべてをされて来たタボ・ムベキ(↓)が散々非科学的だと欧米のメディアに叩(たた)かれていたにも関わらず「エイズはウィルスだけが原因ではありません」と、従来の発言を繰り返した。それで、更に一層製薬会社がスポンサーの西洋のメディアはまたムベキに矛先を向けて叩き続けた。

 この時期、3年間と4年間の科学研究費をもらってエイズとアフリカ、医学と文学を交えながらあれこれたくさん書いたので、アフリカとエイズに関しては3つ目の山☆社会問題としてアフリカ:(欧米・日本の偏見、ケニアの小説、南アフリカ)で詳しく書きたい。

次回は医師の苦悩である。

つれづれに

つれづれに:CDC

 バイオセーフティ指針(Biosafety Level、BSL)の基準で言えば、HIVはレベル3で、エボラウィルス(↓)はレベル4である。(→「音声『アウトブレイク』」でコンゴでのエボラ出血熱騒動の時に話題になったアメリカ映画の紹介もしながら解説している)どちらの場合も、患者の発生の報せを聞いて、疾病対策予防センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC、↑)は必要性ありと判断して、早期に対策を講じたわけである。

 ジョージア州アトランタにあるCDCは、保健社会福祉省(Department of Health and Human Services: DHHS、↓))の下部機関で、国内外の人々の健康と安全の保護を主導する立場にある連邦機関である。CDCにはいくつかの主要組織があり、それらの組織はそれぞれの専門分野で独立して活動する一方、それぞれの持つ資源と専門知識を組み合わせて分野横断的な課題と特定の健康への脅威に対処している。

 エボラやエイズなどの感染症は、命を奪い、地域資源の負担を増すだけでなく、多くの国にとって脅威となる可能性もある。今日のグローバルな環境では、新しい疾病(しっぺい)は数日、場合によっては僅(わず)か数時間で全世界に広がる恐れもあり、早期発見と早期対処の重要性は高まっている。エイズ患者の報告を受けて、特別調査チームを置いたのもその流れの中にある。

役割が大きいだけに、影響力も大きい。予測の判断を間違う場合もある。エイズの場合も、いくつか方向性を誤った可能性がある。誰しも方向を見誤ることはある。大きな組織になれば、尚更である。問題は、その過ちを修正するために何をしたか、問題解決に向けてどう手を打ったかである。

 →「エイズ発見の歴史」の概要で、1981年にCDCがカラン(↓)を指名して発足させた「特別調査チームは、その症状が病原体の侵入から人の体を守る細胞免疫において重要な役割を演じるTリンパ球(↑)の減少によって引き起こされたことを発見し、最終的に、この疾患が血液あるいは精液によって感染するという結論を下した」と書いた。その過程でチームは早くから、疫学的研究の焦点を男性の同性愛者に絞った。ゲイの病気だと決めつけたわけである。この絞り込みは早計で、明らかに方向性の誤りだった。すぐに幼児や男性エイズ患者の配偶者や、静脈注射による麻薬常用者から患者が出たからである。その時点で、男性同性愛者やハイチの人たちに対する偏見はすでに広まってしまっていた。CDCが疫学的研究の焦点を男性同性愛者に絞ったから偏見が生み出されたのは明らかだったのだから、CDCは早期に無理をしてでも偏見を和らげるための何らかの強力な方策を採り、それに見合うだけの予算を当然つけるべきだった。エイズ患者は病気だけでも大変なのに、偏見とまで闘わなければならなかったのだから。

 この偏見は個人の生活には予想以上に厄介で、仕事を解雇されたり、人間関係が壊されたりする。社会的に抹殺される場合が多い。1996年に多剤療法でエイズ=死でなくなるまでは、殊に厳しかった。エイズと男性同性愛にまつわる偏見を法廷で覆(くつがえ)してゆく物語「フィラデルフィア」(Philadelphia、↓)は、1993年のアメリカ映画である。主人公はエイズを理由に解雇されて法廷で闘った。治療法がないので、長くても10年の残り時間を覚悟したうえで闘っていたわけである。韓国ドラマ「ありがとうございます」(2007年、고맙습니다)は恋人の医療ミスでHIVに感染してしまった少女に謝罪するためにある島に渡る外科医の話である。エイズ=死でなくなってから10年ほどが経った頃の設定だが、島の人たちの偏見は凄まじかった。鹿児島大院生の情報漏れの話も、偏見によって普通の生活が実際に出来なくなるからこそ大きな問題になったのである。

 輸血用の血液製剤でも方向を誤った。貧困層の麻薬常用者から献血される血液のHIVを完全には除去できないまま、汚染された血液製剤を使用された血友病患者などがHIVに感染してしまったのである。10ドル目当ての貧困層の献血者の中に、麻薬常用者(↓)も含まれていた。CDCが登用したロバート・ギャロが責任者だったが、日本の厚生省もギャロを信奉する安部英を登用して血液製剤によるHIV感染の犠牲者を多数出してしまった。危険性を指摘されても、しばらく継続したので犠牲者が増えた。犠牲者は大規模な訴訟を起こして国と闘った。犠牲者の一人は被害者の会の代表として国会議員に選ばれ、活動を続けた。CDCも厚生省も、危険性を指摘される前に対処すべきだった。素早く対処出来ていれば、少なくとも犠牲者の数をそう増やさずに済んだはずである。

 1992年のエイズ国際会議と同時に開催された医師による内部告発に国もCDCもマスコミも耳を傾けるべきだった。いくら利益を生む抗HIV製剤(↓)で潤う製薬会社が主なスポンサーだとしても、CDCやマスコミは、異端派として黙殺し続けたが、方向性を誤ったと思う。

マスコミはギャロやその取り巻きが言い出したエイズのアフリカ起源説を盛んに取り上げた。アメリカのHIV人工説の非難の矛先をかわすためには好都合だったのだろう。エイズがアフリカで爆発的に感染を始めたときに、欧米人はエイズはアフリカの病気だと騒ぎ立てた。奴隷貿易や植民地支配を正当化するために白人優位・黒人蔑視を浸透させた手法を、またエイズでも使ったというわけである。アフリカで永年医療活動を続けたアメリカ人医師レイノルズ氏は、アフリカのエイズのことはアフリカ人に聞くべきだと提言した。耳を傾けてみると、普段いかにマスコミに支配されて偏見に満ち溢れているかがわかる。教えられることが多かった。アフリカを巡っては、☆社会問題としてアメリカのエイズ事情について書いたあとに、詳しく書いてゆきたい。

次回は、世界エイズ会議についてである。