つれづれに:懇親会(2022年5月19日)
懇親会
移転先の新校舎
間借りの木造校舎からコンクリートの新校舎に移転して、新学期が始まった。前回の写真(↓)は新任研修を終わって初めて「出勤」した日に、職員全体で取ったものである。面倒臭いので、新任研修の続きでスーツを着て行ったが、写真を撮るとは思わなかった。大勢の人たちである。一番前に並んでいるのが年寄り組で、新設の場合、呼ばれたか、便乗して転勤して来たかのどちらかだった。呼ばれたのは、前回書いた教務の人と、生徒指導の人くらいなものである。校長と教頭とその二人が中心になって、最低限のメンバーを連れて来たという感じだった。私は校長が連れて来た一人、新任研修にいっしょに行った人は教頭が連れて来た一人というわけか。他は便乗組で、質(たち)が悪い。可能なら関わりたくない人たちだった。なるべく近くに来て欲しくなかった。英語科の人は、中堅の二人以外は便乗組で、この人、授業大丈夫なんやろかと心配になる人もいた。
たぶんその週に、さっそく懇親会があった。元々酒を無理強いされるのも嫌だったし、有象無象の人たちに色々聞かれるのも鬱陶しかった。校長室で髭の話をしたとき、懇親会についても話が出ていた。
「懇親会、鬱陶しいですね。人が集まるのがどうも苦手で」
「そうか。あれは仕事やないから、嫌やったら出んでええで」
「そうですよねえ」
だから、もちろん懇親会には行かなかった。関わりたくないと思える人が多そうだったし、懇親する必要性が感じられなかったからである、というより、なんで好き好んでいっしょに酒を飲んで話せなあかんねん、と思っただけである。
懇親会の次の日、同じ列の一番南側に構えている教頭が「玉田クン、玉田くん、ちょっと」と大声を出して、手招きして呼んだ。私から話すことはないので行きたくなかったが、仕方なく席まで行った。
「玉田クン、懇親会、どうしてたん?」
「懇親会、行きませんけど」
会話はそれだけだった。たぶん、懇親会になぜ来なかったのかを確かめて、次からは来るように促すのが自分の役目だと信じて疑わなかったんだろう。そんな態度が見え見えだった。次の言葉を言われていたら「あれは仕事やないから、嫌やったら出んでええで」て言われてますけど、と言うつもりだったが、その時は言わずに済んだ。これで収まるわけがない。尾を引きそうな悪い予感がした。一度爆発してもろに感情をぶつけられ、職員室の端から端までにじり寄られながら怒鳴られ続けたことがある。ほとんどの教員が自分の席に座っていた。→「ロシア語」(4月5日)の授業の時と同じで、相手が怒鳴って来た時にぷいと黒板の方を見つめたからである。意思表示のつもりだったが、日頃溜まっていたものが一気に噴き出したんだろう。溜めるのは体によくはない。そんなこともあったが、全般には、校長と教務の人に守られていたお陰で、髭を剃れとも言われず、懇親会も強要されずに済んだ。
教務の人は校長が直々に連れて来ただけのことはある、数学科は実力のある中堅どころを集めていた。全員が同窓生で、広島大の卒業生で作る「尚志会」の会員が大半だった。本人は、後に教頭試験を受けに行ったあと「ワシ、辞めるで。あんなんやっとれるか」と言って、早々に管理職のコースから降りてしまったが、他の「尚志会」の人たちは堪(こら)えてその後無事管理職になったようである。
英語科は便乗組が多くて大いに問題ありだったが、こちらに火の粉が飛んで来ないかぎり、自分のことさえやっていれば気にならなかった。ただ、同窓の意識を持ち出し先輩風を吹かせる年寄りが、ときたま出しゃばって踏み込んで来るので、鬱陶しかった。出来るだけ避(よ)ける努力はしたが、一度だけ、みんなのいる職員室で怒鳴り返したことがある。言うことを聞かない「後輩」が癇にさわったに違いない。
「お前、後輩のくせに生意気な」
「あんた、先輩言うんやったら、ずるせんとちゃんとやらんかい」
播州弁は果てしなく口穢い言葉である。出来れば使いたく、ない。
新校舎の完成した年に出された「校舎竣工記念誌」(↑)で、全員書くよう教員にも原稿依頼があり、「生きゆけるかしら」を書いて出した。ホームページとブログに載せてある一番目の「(印刷物として)書いたもの」(→「書いたもの一覧」)である。
次は、会議、か。