『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語(19)
概要
横浜の門土社の「メールマガジン モンド通信(MonMonde)」に『ナイスピープル―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―』の日本語訳を連載した分の19回目です。日本語訳をしましたが、翻訳は難しいので先ずはメールマガジンに分けて連載してはと薦められて載せることにしました。アフリカに関心の薄い日本では元々アフリカのものは売れないので、経済的に大変で翻訳を薦められて二年ほどかかって仕上げたものの出版は出来ずじまい。他にも翻訳二冊、本一冊。でも、ようこれだけたくさんの本や記事を出して下さったと感謝しています。No. 5(2008/12/10)からNo.35(2011/6/10)までの30回の連載です。
日本語訳30回→「日本語訳『ナイスピープル』一覧」(「モンド通信」No. 5、2008年12月10日~No. 30、 2011年6月10日)
解説27回→「『ナイスピープル』を理解するために」一覧」(「モンド通信」No. 9、2009年4月10日~No. 47、 2012年7月10日)
本文
『ナイスピープル』―エイズ患者が出始めた頃のケニアの物語―
第19章 花婿の値段
ワムグンダ・ゲテリア著、玉田吉行・南部みゆき訳
(ナイロビ、アフリカン・アーティファクト社、1992年)
第19章 花婿の値段
ユーニスがタラのホテルに是非泊まりたいと言ってきました。私は2度と乗り合いバスではタラに帰らないと心に誓っていました。しかし、医師村の宿舎の前に停めてある私の車はポンコツのフォードエスコートKML721です。そこで、ユーニスのBMW320を私が運転して行くのであれば、乗り合いバスに乗って里帰りはしないという私の誓いも破られることは無いだろうと考えました。
私たちは金曜日の夕方に出発し、7時頃にタラに入りました。町に近づくにつれて、金持ちの中年女と一緒にいる自分を誰かに見られたらどうしようと恐くなってきました。自分の年齢に近い女性が私といるのを目撃したら、母親は何と思うでしょう?ユーニスは母親より10歳ほどは若いのですが、私よりは11歳も上なので、私には母親のように見えてしまいました。ユーニスは優しい女性で、私に充分尽くしてくれますが、その理由は本人が一番自覚していたと思います。しかし私は、ユーニスが頻繁に訪ねて来るようになると、だんだんと疎ましさを感じるようになりました。以前は逢引の時間は金曜日の夕方から10時までで、3時間をベッドで過ごすことにしていました。そのうち、金曜日の晩に泊まるようになりました。数週間後には、金曜日と土曜日も泊まるようになりました。それからある日、ユーニスはその週の逢引きを水曜日に始めました。私がユーニスにうんざりしていると思い始めたのはその時でした。医師用宿舎B10にユーニスの姿が見える度に、私は内心縮みあがり
「ああ、もういいかげんにしてくれ……」と、声にならない嘆きを漏らしました。
男性優位の社会では自分より私方が運転するのが自然だと認めて自分のBMWを私に運転させてくれたユーニスを残して、私は車を降りました。ユーニスには後部の座席に座って欲しかったのですが、私が車の持ち主に見えるよりも運転手に見えた方がいいと譲りませんでした。
「部屋はありますか?」と、私はフロントで尋ねました。
「はい、ダブルの部屋ならございますが。」
「いくらですか?」
「60シリングになります。」
ユーニスが車の中にいて、これで更に自分を裏切ることになると分かっていながら、ためらうことなく私は金を支払いました。それから、私はホワイトキャップを3本とローストチキンとユーニスが飲むタワーズワインを1本注文しました。鍵と飲み物を受け取り、ウェイターに相手を見るといけないので、部屋には来ないようにと念を押しました。ユーニスは素敵な女性でした。しかしながら、ふっくらしたと体つきと年齢から、母親が私に結婚して欲しいと思う可愛いカンバ娘というよりは、ユーニスが母親のように見えてしまいました。私たちはタラいましたから、母の一生の願いと正反対のことをしていると町中の噂にしてしまうわけにはいきませんでした。
ホワイトキャップ
私たちはバーにもレストランにも顔を出さず、タラのホテルの21号室に籠もったままでした。デュレクス社製のコンドームを着けるのを反対されるかと思いましたが、ユーニスが器用な手つきで手伝ってくれるのには驚きました。ナイロビでは、ユーニスが大富豪の奥様だと気付く人から身を隠す必要がありましたから、金持ち層が利用する恋の巣窟や郊外の宿屋に隠れるしかありませんでした。自分の町にいるのに逃亡者のような気分になるのがいつも苦痛で、ナイロビで社交的になるのは特に嫌でした。しかしタラでは、状況がまるで違いました。ユーニスはいつもぴりぴりして腹を立てていました。タラの宿の部屋に籠もってただ何となく2人でチキンを食べていた時にそれがわかりました。今回ユーニスには、人に見られることがどれほど「危険である」かがわかっていませんでした。人に見られでもすれば、母親の死期を早めるでしょうし、私はそんな責任を負う人間にはなりたくありませんでした。
キスムとナクルとキタレで過ごした時間が一番充実していました。これまで不思議に思っていましたが、こういう町では、金持ちの中年男と若い娘、中年女性と若い男が一緒にいるのは珍しくない光景でした。
ナクル地図
朝になって、マインバ夫人の言葉に私は動揺しました。
「あなたのお母様にお目にかかろうかしら?」
「何だって?」
「せっかくタラに来たのに、会わずには帰れないでしょ?」
ユーニスとの関係が知られてしまわないかと心配でしたが、私はどうしても自分の生まれた土地に行きたいという衝動にも駆られました。
「ほんとにそうだね。会わずには帰れないよ。と、私はユーニスの意見に賛成しました。
私の家は、タラの街からカングンドに向ってわずか2キロほど行ったところにありました。標準的な4エーカーの小作農地で、子供の頃から家族の生活の糧を得て来た所です。敷地内には四つの小屋がありました。母親用(台所)と姉妹用と兄弟用と、草葺きで丸みを帯びた形の三つの小屋とは違って、トタン屋根でより大きな四角い父親用の小屋でした。土曜日はタラの市の日で、母親がムソコイを売りに行く準備をしていました。ムソコイは皮を取って摺りこぎで叩いて潰したとうもろこしのカンバ語の名前です。私たちにはとても馴染みのある食べ物です。のどかな暮らしの中に豪華なBMW320で突然乗り込んで来た訪問客を見るために、家族みんなが家から飛び出して来ました。
「ジョゼフだわ!」と、妹のベティが叫び声をあげました。
「車を買ったんだ!」と、弟のムテティが大声で叫びました。
「あんたが都会に飲み込まれてしまって、もうタラには戻って来ないとみんなは思ってたよ。」と、母親は私とユーニスと握手をし、横目で見ながら文句を言いました。
「この人は寮母さんだよ。瓜や豆やムソコイを買いに来たんだよ。」と、私はカンバ娘ではなく、中年の女性を連れてきたことで母親を面喰らわせないように説明しました。
「それはどうもありがとう。こんなむさ苦しい家にようこそ。あんたが丁度いい時に来て嬉しいよ。父さんがあまり気分がよくないんだけど、ちょっと休んでから会えると思うとよ。」と、私たちを台所に案内しながら母親は言い、三方を石で囲った煤けた竈の横にある低い椅子に座らせてくれました。ユーニスはさすがでした。私の家族に完前に溶け込み、母親がムソコイの料理を作るのを手伝ったり、絶えず火に薪をくべ、勢いが弱くなる度に上手に吹いて火をおこしていました。あとはみんなに任せて、もうあまり長くないと聞いていた祖父に、私は会いに行きました。祖父は、今はベッドから出られない状態で、固い木のベッドの上に寝ていました。母は、食事(今は流動食だけ)や洗濯に必要なものを全部と清めの水も部屋から運び出していました。
「ムングチ、お前なのかい?」と、か細い声が返って来たので、私は「そうだよ」と答えました。
「わしが死ぬ前に会いに来てくれたんだね。」と、祖父は続けて言いました。
「おじいちゃん、死んだりしないよ。」
「いや、じきに死ぬんだよ。さあ、挨拶にこっちにおいで)。」
死んだりはしないよと言いたかったのですが、私は祖父の言うとおりにしました。祖父は私の顔に唾を吹きかけ、それから自分の胸にも唾を吹きかけ、そのあと、誠実で正直な生き方をするように私に言ってから神に祈りをささげました。私たちがナイロビに戻ったその週の土曜日の夕方に祖父が死んだと、後で私は聞きました。
父親の小屋で昼食が出されました。初めてユーニスに会ったとき、父親も横目でユーニスを見ていて、私は瓜や豆やムソコイについての同じ説明を繰り返しました。家族が完全にはその説明を信じていないのは私にも分かっていました。しかし、ムソコイを全部買い上げて両親それぞれに300シリングを渡して、ユーニスは事態を更に悪くしてしまいました。両親は金持ちの女性から金を受け取りました。はっきりした理由も無く600シリングを気前よく払う女性と私が交際しているという二人の秘密を漏らしてしまう行動をユーニスが取ったことに私は腹が立ちました。花婿の値段のように金が支払われたので、ナイロビに戻る道で、2人は支払った金のことで口論になりました。ユーニスは私の両親に気前よくしても絶対に何も悪くないと反論しました。ユーニスは自分の両親にも同じ事をし、育ったバナナヒルでは、他の人の家には手ぶらでは行かないと言いました。二人が言い争うのは滅多にありませんでしたが、喧嘩になるといつも、ユーニスは、ムサイガ川とマサレ谷のスラムを見下ろせるパンガニの金持ちのナイスピープルランデヴーに車で私を連れて行きました。
デビッド・カンボは若い頃、最初はバスの車掌として、それから運転手として、後にOYCというバス会社の調査員として、国じゅうを動き回りました。OYCはナイロビの人たちがOnyango twende choo(オンヤンゴは私たちをトイレに行かせてくれる)という意味のスワヒリ語のあだ名の3つの頭文字を取って作った名前で、現在では幅広く国内中で事業を展開していました。回った先でカンボは、旅行する人がトイレやベッドのシーツ、客室や食堂や酒場でも、大前提として強く清潔さを求めていることを肌で感じました。カンボは異常なほど潔癖さにこだわり、このナイスピープルランデヴーを建てた時も、客室の清潔さに特に力を入れました。その清潔さが受けてカンボの宿が有名になりましたが、それは宿泊客なら宿が提供する清潔さをなかなか忘れられないからでした。客と部屋を利用するために電話をしてくる安っぽい服を着たマサレやマジェンゴの女性には部屋が一杯ですと言って差別し、低所得の層を締め出すためにカンボは宿泊料金を上げました。その後、カンボはバーを完全に閉めました。
1978年までに、ランデヴーは昼間用と一晩用と週末のハネムーン用の高級宿になっていました。
1978年、カンボは自分の宮殿を眺めました。治安判事、事務次官、銀行員、主婦、個人秘書、登録看護師、学校の校長、パイロット、警察官、弁護士、国会議員など、宿を利用してくれる人たちを思い出しましたその人たちはみな、愛人といっしょに朝と昼の時間を過ごすためにやって来ました。泊まる人たちは大抵、パトロンが夜明け前には自宅の配偶者の元に帰れるように、午前の2時か3時に事を終えていました。カンボは宿に「ナイスピープルランデヴー」と名前を付けました。
私たちはナイスピープルランデヴーの11号室でじっくりと話し合いました。ユーニスは、自分も夫も裕福な生まれではないと説明しました。ユーニスの生まれたバナナヒルは、大抵の人は1エーカー足らずの土地しか持たず、タラよりも貧しい所でした。人々は薪の代わりに、とうもろこしの穂の軸や茎を使いましました。家族を養うために、父親はナイロビで朝から晩までムココ・テニと呼ばれる手押し車を引かざるを得ませんでしたし、母親はバナナヒルの周りのヨーロッパ人の農園で珈琲や紅茶の収穫をせざるを得ませんでした。ユーニスはカベテでケニアアフリカ中等教育の卒業証書を取得し、南アフリカユニオン銀行で床磨きやオフィスのトイレ掃除やアジア人やヨーロッパ人の上司にお茶を出すという大変な下積み経験をしたあと、タイピストとしての訓練を受けて最後は秘書になりました。当時銀行員だったコッドフリィ・マインバと出会ったのはその職場で、二人は互いに惹かれあっていると思いました。(ユーニスの言葉)
「そろそろ帰らなきゃ。」と、ユーニスは言ってベッドを抜け出して、そのままいつものようにシャワーを浴び、白粉をはたいて化粧を済ませました。私はむしろ自分の宿舎でシャワーを浴びたかったので、タオルで汗をぬぐうだけにして、服を着て靴を履き、これで何日間かはユーニス・マインバの束縛からは逃れられる階段を下りていきました。二人が鍵を受付に返したちょうどその時、国内には数台しかない型の黒のベンツ280から知った顔の人物が降りてくるのが目に入りました。車のドアを男が開けると、ドクターGGの娘ムンビとそれほど年齢の違わないほっそりした若い娘が出てきました。ユーニス・マインバはその男性を見て、罵りの声を上げました。
「そう、あの人もこの宿を知ってるのね。しかも、メイドの他にも女がいたなんて!」と、夫を見ながらユーニスは言いました。しかし私の方は、男性がユーニスの夫、ゴッドフリィ・マインバだと知って気を失なうところでした。ユーニスは私の腕を掴み私といっしょに歩いて行きました。ユーニスの夫も、間違いなく娘と同じ年齢の女の子の手を取って、私たちとは反対側の受付の方向に引っ張って行きました。マインバ氏が私たちに気付いたかどうかは確信がありませんでしたし、気にもしませんでした。むしろ、結婚した関係にある男女はみな、「そして2人は一体となり、誰も2人を離れ離れにはしないでしょう」という聖書の言葉を厳しく守って生きていると信じている人たちが可哀想に見えただけでした。
ナイロビ市街